「成田空港問題の年表」の版間の差分
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* [[11月21日]]:'''第1回[[成田空港問題円卓会議|成田空港問題シンポジウム]]開催'''(以後15回に亘り成田国際文化会館と芝山文化センターで交互に開催)。国と反対派が公式の場で本格的に対話するのは闘争史上初。行政側からは奥田運輸相・沼田千葉県知事・長谷川成田市長・松井空港公団総裁らが出席。旧熱田派の石毛事務局長が「徳政をもって一新を発せ」と題する意見発表を行い、奥田運輸相が過去の不手際を謝罪したうえで二期工事の必要性を訴える<ref name=":47" /><ref name=":139" />。 |
* [[11月21日]]:'''第1回[[成田空港問題円卓会議|成田空港問題シンポジウム]]開催'''(以後15回に亘り成田国際文化会館と芝山文化センターで交互に開催)。国と反対派が公式の場で本格的に対話するのは闘争史上初。行政側からは奥田運輸相・沼田千葉県知事・長谷川成田市長・松井空港公団総裁らが出席。旧熱田派の石毛事務局長が「徳政をもって一新を発せ」と題する意見発表を行い、奥田運輸相が過去の不手際を謝罪したうえで二期工事の必要性を訴える<ref name=":47" /><ref name=":139" />。 |
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* [[11月29日]]:第6次空港整備5ヵ年計画が閣議決定される。計画では[[中部国際空港]]とともに首都圏第3空港についての総合調査着手が盛り込まれる<ref name=":138" />。 |
* [[11月29日]]:第6次空港整備5ヵ年計画が閣議決定される。計画では[[中部国際空港]]とともに首都圏第3空港についての総合調査着手が盛り込まれる<ref name=":138" />。 |
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* [[12月25日]]:[[ソ連崩壊]]。 |
* [[12月25日]]:[[ソビエト連邦の崩壊]]。 |
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2020年12月26日 (土) 01:01時点における版
成田空港問題の年表(なりたくうこうもんだいのねんぴょう)は、三里塚闘争をはじめとする、成田国際空港(旧・新東京国際空港)に係る諸問題に関連する出来事を時系列順に述べるものである。
なお、年表中の役職はいずれも当時のものである。
年表
1930年代まで
1871年
1875年
1923年
1931年
1938年
1939年
1940年代
1941年
1944年
- 国際民間航空条約(シカゴ条約)が採択される。
1945年
- 第二次世界大戦終結(日本の降伏)。GHQが羽田空港建設計画を出したことにより、東京市飛行場計画は廃止[6]。東京飛行場を接収した米軍は直ちに拡張に着手し、周辺住民3000人が強制立ち退きの憂き目に遭う。
- 沖縄出身者らが宮内庁に御料牧場の払い下げを要求[7]。
- 東峰地区で開拓が始まる[7]。
- 11月:GHQから航空禁止令が出される[8]。
- 11月9日:「s:緊急開拓事業実施要領」が閣議決定される(戦後開拓)[9][10]。
1946年
- 天浪・木の根・古込・桜台(東三里塚)の各地区で開拓が始まる[7]。
- 1月:食料増産を目的とした政府の緊急開拓計画等の施策により、下総御料牧場内883町歩が帝室林野局に移管される[11]。
- 1月4日:GHQが、ポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として、「好ましくない人物の公職よりの除去覚書」を発する(公職追放)[12]。
- 3月5日:ウィンストン・チャーチルが鉄のカーテン演説。
- 3月6日:入植を希望するも進展がないことに業を煮やした沖縄県出身者らが三里塚での開拓をはじめる。同月16 日に天浪地区での入植許可が下り、沖縄出身者らは土地争いなどを経ながらこの地に定着していく[10][13][14]。
- 5月19日:飯米獲得人民大会(プラカード事件)。
- 7月27日:帝室林野庁から千葉県知事に対して「御料地内可耕地使用承認の件」が通知される[15]。
- 11月22日:農地調整法改正法施行[16]。
- 12月29日:自作農創設特別措置法施行[16]。
1947年
- 御料牧場の第2時払い下げにより、天浪・木の根地区などの山林や原野が配分される[7]。
- 大旱魃により陸稲が全滅し、開拓者が大きな打撃を受ける[7]。
- 開拓者への資金貸出が始まる[7]。
- 1月31日:GHQの指示により、全官公庁共同闘争委員会議長の伊井弥四郎が二・一ゼネスト中止を発表(逆コース)。
- 10月24日:「開拓事業実施要領 」が閣議決定され、開拓の目的が「引揚者の雇用確保・帰農促進」から「土地の農業上の利用の増進と人口収容力増大」に移行[10]。
1948年
- 開拓農協の設立ラッシュ(宮下・古込・三里塚第一・天浪第一・下総・木の根第一・恵美)[7]。
- 御料牧場第3次払い下げ[7]。
- 御料牧場のうち131ヘクタールが農林省の管轄となる[7]。
- 6月:ベルリン封鎖。
- 6月1日:古込開拓農協設立[13]。
- 7月16日:三里塚第一開拓農協設立[13]。
- 8月11日:天浪第一開拓農協設立[13]。
- 9月9日:朝鮮民主主義人民共和国建国。
- 11月27日:木の根第一開拓農協設立[13]。
- 12月3日:伊藤音次郎ほか伊藤飛行機の元社員らが、恵美開拓農協を設立[13]。
1949年
- 開拓農協の設立が続く(駒の頭・檜山・天浪第三・朝日台・松翁)[7]。
- 1月23日:第24回衆議院議員総選挙で日本共産党が躍進。吉田茂首相(日本自由党)が、公職追放を受けた党人に代わり各省庁から引き抜いた官僚を擁立し、吉田学校(官僚派)を形成。池田勇人(元・大蔵次官)・佐藤栄作(元・運輸次官)が初当選。
- 3月25日:駒の頭開拓農協設立[13]。
- 4月4日:団体等規正令発令。
- 6月30日:平事件。
- 夏:国鉄三大ミステリー事件が発生。
- 7月:世界初のジェット旅客機デ・ハビランド DH.106 コメットが初飛行。コメットは1950年代前半に連続墜落事故を起こして多数の犠牲者を出すこととなるが、この事故調査で得られた知見が以降に開発されるジェット旅客機の安全性向上に寄与する。
- 7月4日:マッカーサーが日本共産党非合法化法案の検討を示唆[17]。
- 7月9日:桜台開拓農協設立[13]。
- 8月22日:天浪第三開拓農協設立[13]。
- 8月29日:ソビエト連邦が核実験に成功(RDS-1)。
- 9月1日:朝日台開拓農協設立[13]。
- 10月1日:毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言。
- 12月9日:松翁開拓農協設立[13]。
1950年代
1950年
- 御料牧場第4次払い下げ(採草地の配分)[7]。
- 1月6日[18]:コミンフォルムが日本共産党の平和革命戦術を批判[19]。
- 2月:アメリカ合衆国上院のジョセフ・マッカーシー議員が、国務省内の共産主義者のリストの存在を主張(マッカーシズム)。
- 5月3日:マッカーサーが日本共産党が法の保護に値するか疑問であるとの声明を出す[17]。
- 6月6日:GHQが、日本共産党幹部の公職追放を指令(レッドパージ)[17][20]。
- 6月25日:朝鮮戦争勃発。
- 9月30日:トルーマン米大統領がNSC-68に署名。アメリカの対ソ連包括的封じ込め戦略が決定づけられる。
- 10月:日本共産党の指導者、徳田球一が中華人民共和国に亡命し、北京機関に合流。
1951年
- 木の根地区に電灯が導入され、天浪と本三里塚の間に通学道路が設けられる[7]。
- 4月:マッカーサー更迭。
- 6月:新土地収用法制定。
- 9月8日:日本国との平和条約(サンフランシスコ条約、ソ連は調印拒否)・日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)調印。
- 10月:日本共産党が「51年綱領」を採択。各地で共産党分子が蜂起。
- 10月10日:木の根第四開拓農協設立[7][13]。
- 10月25日:日本航空株式会社(特殊会社の前身)が国内民間航空定期便の運航を開始。
1952年
- 2月28日:日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(日米行政協定)締結[21]。
- 4月9日:航空禁止令が解除。朝鮮戦争で消耗した米軍機の修理を日本国内で行うことを期待しての措置と言われる[22]。
- 4月28日:サンフランシスコ条約が発効。公職追放令廃止。
- 5月1日:血のメーデー事件。
- 6月:日米合同委員会で、航空交通管制について日本が自主的に実施可能となるまでの一時的な措置として、米軍が軍の施設で行う管制業務を利用して民間航空の安全を確保することについて合意[23][24][25]。
- 7月:航空法・航空機製造事業法制定。日米合同委員会で、日米行政協定に基づき横田飛行場を含む施設区域を米軍に提供することについて合意[23][24][25]。
- 7月1日:羽田空港が返還され、「東京国際空港」と改称。
- 7月21日:破壊活動防止法施行。
- 10月1日:第25回衆議院議員総選挙。鳩山一郎・三木武吉ら追放解除された戦前派党人らが政界に復帰。吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、自由党内での官僚派と戦前・党人派を中心とした対立が深刻化する。
1953年
1954年
- 下総御料牧場解放促進同盟が、さらなる御料牧場の払い下げを要求[7]。
- 2月2日:日本航空が戦後の本邦社として初めての国際定期航空便を開設(ダグラス DC-6による、東京-ウェーク島(テクニカルランディング)-ホノルル-サンフランシスコ間の運航)[26]。
- 3月31日:成田町・公津村・中郷村・久住村・豊住村・遠山村の1町6村が合併し、成田市が誕生。
- 5月7日:ディエンビエンフーの戦いでフランス連合軍が敗北。
- 5月8日:昭和天皇・皇后が下総御料牧場を視察。この際、元宮内庁職員らの戦後開拓地を訪問[11][13]。
- 7月21日:ジュネーヴ協定締結(第一次インドシナ戦争におけるフランスの事実上の敗北。ベトナムは17度線で分断され、アメリカが介入を継続)。
- 11月24日:鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結党。
- 12月7日:第5次吉田内閣が総辞職。
- 12月10日:鳩山一郎内閣が発足。
1955年
- 7月1日:武射郡二川村と同千代田村が合併し、芝山町が発足[7]。
- 7月:第6回全国協議会で日本共産党が極左軍事冒険主義を転換[27]。山村工作隊等に参加し武装闘争を行っていた学生らは梯子を外された格好となり[28]、後に共産党指導部に不満を持つ者たちによる新左翼党派結成につながってゆく[29]。
- 10月13日:社会党再統一。
- 11月15日:保守合同により、自由民主党(自民党)が発足(55年体制)。保守政党はほぼ一本化されたものの、旧自由党系議員と旧日本民主党系議員は中選挙区内で保守票を奪い合うこととなり、対立は継続した。
- 11月22日:ソ連が水爆実験に成功(RDS-37)。
1956年
1957年
- 1月:日本トロッキスト聯盟が結成(同年、革命的共産主義者同盟に改称)。
- 2月25日:岸内閣が発足。
- 10月:スプートニク・ショック。米ソの軍事的パワーバランスが逆転したものと目され、翌月の毛沢東による「東風が西風を圧した」との宣言やソ連の対日工作も相まって、党内左派に押された日本社会党は反米路線を鮮明にしていく[30]。
1958年
- 10月:本格的な民間ジェット時代の嚆矢となる、ボーイング707が初就航。
- 10月16日:日本社会党や日本労働組合総評議会などが警職法改悪反対国民会議を結成[31]。
- 12月:共産主義者同盟(第一次ブント)結成。
1959年
1960年代
1960年
- 1月19日:「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新日米安保条約)調印。同日、日米行政協定を継承し、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」(日米地位協定)調印[32]。
- 5月19日-20日:妨害活動を行う野党議員らを清瀬一郎衆議院議長が警官隊を使って排除。自民党単独で会期延長可決のうえ、衆議院で新日米安保条約を承認。安保闘争が活発化する[33]。参議院での審議は行われず、衆議院の優越により6月19日に自然承認となる[34]。
- 6月10日:ハガチー事件。
- 6月15日:安保条約反対のデモ隊が国会議事堂への突入を図り、全日本学生自治会総連合(全学連)の樺美智子が死亡[33]。
- 6月23日:新日米安保条約発効。岸首相が辞意表明[34]。
- 7月19日:池田勇人内閣が発足。
- 7月22日:日本航空初のジェット旅客機(ダグラス DC-8-32)が羽田空港に降り立つ[35]。
- 12月27日:国民所得倍増計画が閣議決定される[36]。
1961年
- 宮台(東三里塚)地区にゴルフ場(三里塚カントリークラブ)が建設される[7]。
- 6月:公共用地の取得に関する特別措置法制定。
- 7月15日:後に「成田空港の生みの親」と呼ばれることとなる丸居幹一が、航空局技術部飛行場課長に就任[37]。
- 9月頃:大蔵省が「飛行場整備は段々カネが要るだろうから、初めて長期計画を作ったらどうか」と運輸省に指示。検証の結果、1971年4月には羽田空港の処理能力の限界である年間発着回数17万5000回に到達することが判明し、衝撃を受けた丸居飛行場課長らは新空港の検討を開始[37][38][39][40]。
- 9月25日:日本航空が、国内線初のジェット旅客機(コンベア880)を就航[41]。
1962年
- 3月31日:昭和37年度予算に新空港調査費118万円が計上される[39][40](名目は「空港長期整備計画調査費」[42])。運輸省は、この予算を使って海外調査を実施[43]。
- 8月30日:戦後初の国産旅客機YS-11が初飛行。
- 10月-11月:キューバ危機。
- 11月16日:羽田空港の行き詰まり打開策として、池田内閣が第2国際空港建設方針を閣議決定(池田勇人首相は外遊中のため、川島正次郎が臨時首相代理を務める)[39][40][43]。
- 11月29日:イギリス・フランス両政府が超音速輸送機(SST)の共同開発協定を締結(コンコルド計画)[44][45]。
1963年
- 1月-3月:具体的な候補地(浦安・印旛沼・九十九里・霞ヶ浦・谷田部・白井)の調査がヘリコプターなどを使って始まる[39][40][46]。
- 3月:自民党政務調査会交通部会が航空局幹部を呼んで新空港問題のレクチャーを受け、新空港対策小委員会の設置方針を認める。この会議で初めて霞ヶ浦埋め立て案が出される[46]。
- 3月30日:昭和38年度予算に新空港調査費1000万円が計上される[40]。
- 4月17日:友納武人が千葉県知事に就任。
- 5月1日:丸居飛行場課長が独断で「東京第2国際空港計画室」を設置。既成事実を作ることを目的としており、飛行場課員のほか、日本空港ビルデングから2人、日本航空から1人、航空局内他課からの応援を受けて、12~13人で発足[37][40]。
- 6月:池田首相が河野一郎建設相に「新空港建設早期着工」を指示[47]。
- 6月1日:「東京第2国際空港計画室」が「新東京国際空港計画室」に改称[40]。
- 6月10日:運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず[38]。
- 6月15日:ケネディ米大統領が、SST開発計画推進を発表[40]。
- 6月中旬:綾部健太郎運輸相が「浦安沖案」、河野建設相が「木更津沖案」を発表[40]。
- 7月3日:友納千葉県知事が、副知事・全部長・審議室主幹を集め、空港問題について初庁議を開く[48]。
- 7月4日:綾部運輸相、河野建設相、川島正次郎自民党副総裁、友納千葉県知事が初の四者会談。浚渫業を営む小川栄一がイギリスの港湾埋立業者に設計させた青写真を示して木更津案を推す河野に対し、綾部が運輸省の浦安案を主張。河野は「綾部君、君は事務当局がいないと何もできないのか[注 1]」となじり、険悪な雰囲気となる[46][50]。結局、具体的な建設地について一致することはなかったが、
- の3点が川島のとりなしによって一旦合意に至る。友納知事は帰庁後に「新東京国際空港対策協議会」を立ち上げ、運輸省・建設省との話し合いの進展に応じられる体制作りに取り組む[48][51]。一方、1962年の第二国際空港建設方針閣議決定前から「富里空港」について千葉県庁で突っ込んだ話し合いを重ねていた[52] 丸居飛行場課長をはじめ、運輸官僚はこの決定に反発し、栃内一彦航空局長が綾部運輸相に再考を求め、候補地の再検討の了承を得る[49]。同日、池田首相と佐藤栄作が、新産業都市や第二国際空港建設問題について話し合い[53]。
- 7月18日-7月24日:運輸省が霞ケ浦周辺・白井・富里地区を調査[40]。
- 7月29日:綾部運輸相が霞ケ浦周辺・富里地区を新空港候補地とすることを了承[40]。
- 7月30日:運輸省内で新空港関係各省の実務者での打合せ(連絡会議)が行なわれる。運輸省から栃内一彦航空局長、建設省から町田充計画局長、農林水産省からは関係課長ら十数人が出席、千葉県側からも渡辺一太郎副知事と高橋良平審議室主幹が出席する。航空管制上の問題から浦安沖を推す運輸省と埋立工事を考慮して木更津を適地とする建設省が対立する。この中で内陸部を含めて検討を行うこととなり、千葉県富里村と茨城県江戸崎町が候補に挙げられる[40][48]。
- 8月2日:運輸省が千葉県に浦安・木更津領候補地に管制上難点がある旨説明[40]。
- 8月8日:運輸省に航空局長及び港湾局関係者、建設省・農林省関係者、岩上二郎茨城県知事、千葉県の高橋主幹らが集まり、運輸省側から「建設・運輸両相の了承を得たので千葉、茨城両県の内陸部について調査をしたい」と切り出される。岩上知事は「この問題で千葉県と争う気持ちは全くない。茨城県側に決まれば協力は惜しまない」と応じる。一方、高橋主幹は千葉県の立場として「大臣発言で千葉県内ではいろいろの騒ぎや波紋が生じた。しかし、これ以上騒ぎを大きくするのは本意ではない。四者会談を尊重したいので、第2回四者会談を開き、その方針が決定するまでは内陸案に応じられない」と発言[48]。
- 8月12日:友納千葉県知事が、県議会全員協議会で「運輸省は北総台地を候補地として検討したい意向である」と報告。高橋主幹も石井美雄富里村長・山本昇八街町長に同様の連絡[48]。
- 8月20日:綾部運輸相が「新東京国際空港の候補地及びその規模」について航空審議会(会長:平山孝)に諮問[40][48][54]。富里案が公式に登場する。航空審議会では、パイロット・管制技術者・土木技術者等各分野の専門家からなる小委員会を設け、各候補地について、空域・航空管制・気象条件・地形・施工条件・都心とのアクセス手段など多岐の観点から比較検討した[39]。
- 8月27日:第2回四者会談(綾部運輸相、河野建設相、川島自民党副総裁、友納千葉県知事)が行われる。冒頭で綾部運輸相が「前回は候補地を東京湾上に捜すということで合意したが、その後検討の結果、千葉県の北総台地と霞ヶ浦を候補地に加えたい」と発言し、会談はいきなり荒れ模様となる。別室に控えている岡本悟運輸事務次官や航空局長を呼んでから説明しようとした綾部に対し河野が「綾部君、君は吏僚がいなければ議論ができないのか、突然北総台地等を持ち出したのは吏僚にいわれたからか、君はそれでも大臣か」と怒鳴り、綾部も「埋め立て屋のいう通りにいかないよ」と河野の背後にいる浚渫業者の存在をあてつけて言い返す。川島のとりなしにより事務次官と航空局長により「羽田は拡張に限界がある」「浦安沖は地盤が悪く、後背地が密集市街地であり空域が羽田と競合するうえ、漁民からの強い反対がある」「木更津は羽田に近いので空港の機能が落ちて問題にならない」と説明が行われる。これに対し木更津案を譲らない河野建設相は「羽田など廃港にしてしまえばいい」と激高し、川島も「1500戸の農家をどうやって移転させるのだ。羽田と管制塔を一緒にして浦安沖に作ったほうが有利だ」と主張。事務次官と航空局長は「国内線の需要が激増しているので、便利な羽田を廃港はできない」と譲らず、空港建設の主体となる空港公団を発足させるための45億円予算について運輸省が大蔵省と折衝中である旨も明かされる。次回までに池田首相の判断を仰ぐことになり散会したが、四者会談がその後開かれることはなかった[48][55][51][56]。
- 9月12日:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告[48]。
- 9月18日:この日から富里村・八街町の推進派と反対派の双方が陳情を開始[38][48]。以降、12月にかけて市川市・八街町・富里村・山武町の反対派らによる陳情が激化[40]。
- 10月1日:羽田空港での深夜・早朝のジェット機発着禁止[40]。
- 10月7日:富里村空港反対部落連合会(代表:久保忠三)が約500人で反対陳情を行う[48]。
- 10月8日:富里村空港反対部落連合会が県庁デモを行う。同日、浦安町議会が臨時議会で飛行場建設絶対反対の意見書を採択、山崎清太郎議長名で県知事・運輸相宛に提出[48]。
- 秋:富里・八街空港反対同盟が結成される[57]。
- 10月10日:友納千葉県知事が、「早くもない、遅くもない時期に候補地を決定したい」と説明会で述べる[58]。
- 10月15日:富里村新空港問題調査特別委員会に対し、千葉県総合企画室の高橋主幹や航空局飛行場課の丸居幹一課長・林課長補佐が候補地選定の経過について説明。この中で、高橋主幹が「県は最後まで富里案に反対であったが、8月13日に運輸省から再び候補地の対象にしてもらいたいとの要請があった」旨を伝える[58]。
- 11月15日:富里の反対派農民らが富里から千葉県庁までの往復60キロメートルを耕運機でデモを行い、沿道の住民や県民にアピール。デモにあたっては日本社会党の小川国彦県議らが「200台もの耕運機にノロノロと国道を走られたら、交通の大渋滞を来す。とても許可はできない」と難色を示す成田警察署長と折衝を行い、83台によるデモの許可を取り付けていた[57]。
- 12月11日:航空審議会が新東京国際空港の候補地について、第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。規模は滑走路が5本(4000メートル×2本、他3本)、面積約2300ヘクタールとされた[40]。これに対し河野が不賛成を表明するなど自民党実力者の支持を得られず、池田勇人首相も「答申の東京周辺にこだわらず調査するよう」指示するなど、閣内で見解が分かれる[48][56]。
- 12月19日:友納千葉県知事が綾部運輸相と栃内航空局長を訪ね、「答申まで出た今、それを否定する意見や再調査しなおすという発言は、閣内不統一のそしりを受けよう。それでは地元も困る」と詰問。綾部は答申を尊重するとしつつも「広い視野で候補地を探す立場も守る」等とあいまいな態度に終始する[48]。
1964年
- 2月11日:羽田空港C滑走路供用開始[40]。
- 3月4日:松永安左エ門の私設シンクタンクである産業計画会議が、新空港の建設整備と運営には民間方式を組み入れることや、羽田空港との管制問題など既存施設にとらわれることなく東京湾内中北部海域(千葉県木更津・幕張沖等)・首都圏東部(八街・富里地区)・首都圏西南部(厚木・相模原地区)等なるべく数多くの候補地について技術的調査と経済的な検討を行うことを勧告[59][60]。
- 3月7日:富里村関係者らが友納千葉県知事を訪問。友納知事は「県の態度としては、新国際空港は積極的な誘致はしない。どうしても千葉県につくってほしいというなら海のほうがよい。また、どうしても富里にしてくれというなら、県自身として政府の誠意(「補償」・「換地」・「騒音対策」・「周辺の都市計画」の4点)を打診する」「県自身として、検討して現在成案をつくりつつある」と述べる。また、県の公式見解として、厚木・相模原の在日米軍施設を返還してもらい、羽田空港をそこに移転させて木更津に新空港を建設するか羽田を残して厚木・相模原に新空港を建設する案があることや、航空局が富里地区を益々最適地として強めつつあり、4月下旬か5月上旬に再び話が出てくるであろうことが伝えられる[58]。
- 3月22日:日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議[38]。
- 3月24日:参議院予算委員会で、社会党議員の加瀬完の質疑に対し、綾部運輸相が「私どもといたしましては、航空審議会の意見に従いましてその検討を進めておるのが現状でございます」、河野建設相が「私は、これほどの大きな事業を決定することでございますから、運輸省で一存でおきめになることは困る」「あまり遠方におつくりいただきましても、そこまで道路の計画がございません。道路五ヵ年計画は一応つくっておりますが、その計画に全然入っていないところにむやみときめられても、私自身困ります」とそれぞれ異なる答弁を行う[61]。
- 3月31日:昭和39年度予算に新空港調査費1億円が計上される[40]。
- 4月1日:海外渡航自由化[40]。
- 5月12日:衆議院建設委員会で、河野建設相が、空港の問題については池田首相の命により建設大臣が推進することになっているとしたうえで「東京湾の中にどこか適当な、埋め立て可能であって、地盤のいいところはないかという意味で、いまの海底の調査をいたしておるわけであります。」と答弁[48][62]。
- 5月19日:参議院内閣委員会で、綾部運輸相が「東京湾の内部は地質が非常にヘドロと申しますか、軟弱でございまして、何百万坪を埋め立てましても、地盤が陥没したり、いろいろな事故が起こりましてむずかしい」との運輸省見解を述べる[63]。
- 5月25日:友納千葉県知事が、「住民の意思を無視してまで空港が建設されるものではない。県は主管の運輸省なり池田総理といった正規の窓口を通じ、県民感情を背景に話し合いを進める」と、政府内の空港建設を巡る動きについて記者会見でコメント[48]。
- 5月26日:閣議で河野建設相と綾部運輸相が激しく言い争う。池田首相は「所管は運輸省だが、この問題は東京湾全体を含めて調査してみよう」と結論を下さず[48][64][65]。佐藤栄作日記:「空港問題で綾部、河野の論戦在り。けだし出すぎた河野発言にたまりかねた綾部君の発言で、一寸すごいものがあった。池田首相の態度にも解せぬ物がある。航空審議会をふるに利用すべきではないか[66]」
- 5月27日:衆議院建設委員会で河野建設相が前年12月の航空審議会の答申について意見を述べるつもりがないとしつつ、答申の内容とかかわりなく東京湾中で基礎調査を行っており、河野個人は特に浦安沖を適地として考えている旨を答弁[67]。
- 5月28日:佐藤栄作日記:「鈴木貞一君八時前から来宅。次期政権は占領政治から完全に脱却する事を説く。例の東京湾埋立の案をきく。けだし過日の河野くんの発言があったので、これを確かめた。それによれば、別に木更津が狙いで、その為にも、もます戦術らしい[66]」
- 6月:丸居飛行場課長が航空局から異動[68]。
- 6月1日:航空局に新東京国際空港担当参事官・新東京国際空港計画課・新東京国際空港調査課が設置される[40]。担当参事官に手塚良成が就任[69]。
- 6月23日:日本最大級のダム反対運動(蜂の巣城紛争)が展開されていた下筌ダム建設で第一次代執行が行われる[40]。
- 7月18日:内閣改造により、松浦周太郎が運輸大臣就任。
- 8月:トンキン湾事件が発生し、以降アメリカ合衆国のベトナム戦争介入が本格化する。
- 8月13日:友納千葉県知事が松浦運輸相を訪ね、「政府の不統一見解は地元に深刻な動揺を与えているので、一刻も早く候補地を決定するよう」と異例の申し入れを行い、松浦運輸相は「富里は現在も第一候補である。とくに霞ヶ浦へ移そうとしているものではない」と言明[56][65]。
- 8月17日:友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。
- 9月9日:池田首相が国立がんセンターに入院。池田は7月の自由民主党総裁選挙の前後から喉の痛みを訴えており、本人には伏せられていたが既に喉頭癌が進行していた[70]。
- 9月15日:新空港建設について、大蔵大臣・農林大臣・運輸大臣・建設大臣・自治大臣、防衛庁長官・内閣官房長官からなる「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足[39]。
- 10月1日:東海道新幹線開業。
- 10月10日-10月24日:1964年東京オリンピック。
- 10月15日:与党幹部も参加する新国際空港問題懇談会の初会合を政府が開くが、田中角栄大蔵相・赤城宗徳農林相・河野国務相「富里に空港を作るとして、千五百戸の農家をどこにどう立ち退かせるのか」と反発し、紛糾[48][65]。
- 10月19日:第1回関係省庁次官会議が開かれ、運輸省から栃内航空局長・手塚参事官が出席。政治家や他象徴が用地の問題を重視する中、手塚参事官は手製の資料で空域の重要性を説く[69]。
- 10月25日:池田首相が退陣を表明(池田は翌年8月13日に死去)[70]。
- 11月10日:佐藤内閣が発足。
- 11月11日:佐藤栄作首相が松浦運輸相に候補地決定を急ぐよう指示[48]。
- 11月13日:佐藤首相から新国際空港問題懇談会座長に任じられた河野国務相が、「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。500戸以上の移転は不可能」と発言、地元を当惑させる。これに対し友納千葉県知事が「河野大臣が内陸部不適当ということ自体は納得できる。だが政府の意見のとりまとめ方に地元の迷惑を考慮しない点があり残念だ」と地元不在で迷走する政府に苦言を呈し、県内の反対派・誘致派の活動が活発化する[48]。
- 12月4日:佐藤栄作日記:「閣議。発言して、予算編成に際しては圧力団体を利用したり又はこれに利用される事なくして、党独自の主張で編成に協力されたしと発言する。ラッシュに時差通勤を支持し、後河野君と第二空港、沼田ダム等につき打合せする[71]」
- 12月18日:閣議で「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」「候補地についてはさらに検討」など[54]。
- 12月23日:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤首相に提出する[38]。
- 12月24日:伊能繁次郎・水田三喜男らの県選出の自民党議員が、友納千葉県知事も交えて緊急会議を開く。新空港を県内に受け入れることでは一致したものの、建設地については意思を統一できず[48]。
- 12月28日:昭和40年度予算の大臣折衝で、新東京国際空港公団の設立と政府出資を5億円とすることが合意される[40]。長岡實主計官の計らいがあったという[72]。
1965年
- 「シルクコンビナート構想」により、遠山(旧・遠山村)地区で養蚕組合が設立される[7]。
- 1月20日:手塚参事官が岩上茨城県知事を訪ね、霞ヶ浦埋め立てを打診。岩上知事は「千葉でもっと探すべきだ。茨城に話を持ってくることは迷惑」という反応[69]。
- 1月27日:手塚参事官が友納千葉県知事に富里案を打診[69]。
- 2月3日:友納千葉県知事が川島副総裁や伊能繁次郎とともに佐藤首相と会談し、新空港建設にあたり地元の意向を無視しないよう要請。佐藤首相から「政府としては、新空港の設置に結論を出す段階に来ていない。設置決定の際は地元知事の意見を十分尊重し、事前に相談する」との言質を得る[48][73]。同日、栃内航空局長・手塚参事官が自民党政務調査会交通部会に新東京国際空港公団法案要綱を説明[69]。佐藤栄作日記:「友納知事、川島君、伊能君等と『富里』飛行場問題を打合せする[74]」
- 2月11日:佐藤栄作日記:「空港問題懇談会に顔を出し、午前中院内にたむろする[75]」
- 2月:松浦運輸相が、記者会見で「新空港は地元の知事や県議会が反対するところには造らない。用地買収金額は知事にも、ある程度責任を負わせるつもり」と発言[48]。
- 2月15日:佐藤栄作日記:「金丸冨夫、田辺国男、細田吉蔵等空港問題で、又鹿内信隆君は沖縄問題で連絡に来る。これは一寸大事な問題のようだ[76]」
- 2月16日:松浦運輸相の記者会見発言に対し、友納知事が「空港の問題に関する閣僚発言はいったいだれが政府を代表しているのか、さっぱりわからない。首相の発言以外は問題にしない」とコメント[48][65]。佐藤栄作日記:「江戸君を官邸に迎へる。富里空港に反対[76]」
- 2月27日:新東京国際空港公団法案が国会に提出される[40]。
- 3月29日[40]:関係閣僚懇が候補地について、(1)富里のほか、(2)埋立ての検討も必要な東京湾や霞ヶ浦などについても関係事務次官会議で検討し、早急に調査を実施する、(3)米軍使用の飛行場について外交ルートで打診する、の3点を決定[39][40]。
- 4月1日:関係各省事務次官会議で、空域[注 2]・渉外[注 3]・土木技術[注 4]の3小委員会が設置される[40]。
- 4月5日:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催[38]。
- 4月16日:富里村総合開発懇談会が開催される[58]。
- 4月20日:富里村総合開発懇談会が、16日の協議に基づき、「村は意見書や請願書によって地元の苦哀を訴え、早期結論に達するよう要望してきたが、足掛け3年の歳月を空費しており、民心が極度に同様悪化し、村行政もその運営に大いなる支障をきたしている」「当局はいたずらに結論を遷延することなく、民心の安定と行政正常化のために格段の配慮を求める」とする要望書を、松浦運輸大臣・友納千葉県知事・栃内航空局長宛に提出[58]。
- 4月30日:衆議院運輸委員会が、新東京国際空港公団法案に「将来に亘る航空輸送需要の急激な増加と航空機の急速な進歩の趨勢とにかんがみ、新国際空港の建設は必須かつ緊急の問題である。政府においては、このような事態に対処するため、航空審議会の答申に基づき速やかに候補地の決定を行なうとともに、建設及び管理に当る公団の設立を促進するよう万全の措置を講ずベきである」とする附帯決議を付して原案通り可決[77]、引き続き本会議でも可決[40]。
- 6月1日:参議院運輸委員会が、新東京国際空港公団法案に「政府は新東京国際空港の建設に当っては、いやしくも当該地域住民の生活権をそこなうことのないよう万遺憾なきを期するとともに、当該地域における農業の振興ならびに産業経済の伸展を阻害しないよう配慮すべきである」とする附帯決議を付して原案通り可決[78]、引き続き本会議でも可決。法案が成立する[40][79]。
- 6月2日:新東京国際空港公団法が公布される(昭和40年法律第115号[40]、施行は1966年7月7日)。
- 6月3日:中村寅太が運輸相就任。
- 6月12日:秩父宮妃・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王が成田市の養蚕団地(シルクコンビナート)を訪問、記念の桑苗を植える。関係者が将来の姿を説明すると「しっかりやって下さい」と気さくに声をかける[80]。
- 6月16日:中村運輸相が空から視察を行い「候補地は富里、霞ヶ浦のいずれかにする」「霞ヶ浦調査期間を早める」と言明[48][73]。
- 6月22日:日韓基本条約が調印され、北朝鮮との距離が近かった社会党を中心に反対運動が展開される。
- 6月23日:下筌ダム建設にかかる第二次代執行が実施される[40]。
- 7月:運輸省が霞ヶ浦でのボーリング調査を開始[40]。
- 7月8日:埋め立て方式の推進者であった河野一郎が急死する[48]。中核派・社学同・解放派の3派が都学連を結成[81]。
- 8月25日:富里村新空港問題調査特別委員会の委員長・副委員長が深草克巳運輸省大臣官房・佐藤光夫航空局長を訪問[58]。
- 8月30日:反戦青年委員会が結成される[81]。
- 9月11日:霞ヶ浦沿岸の漁民1,000人が漁船300隻で湖上反対デモを行う[40]。
- 9月24日:富里村新空港問題調査特別委員会の委員らが手塚良成参事官と会談。手塚参事官は候補地が富里と霞ヶ浦の2箇所であることを認め、霞ヶ浦のボーリング調査を行い富里と比較検討を行っていることや(関東ロームに覆われた洪積台地にある富里は、大規模な地質調査を必要としないとされた)、これ以上の羽田の増設は制限表面により東京湾内の船舶航行に支障をきたすことなどを説明。霞ヶ浦側からも、船大工の組合から位置決定がされないため舟の建造修理が受注できないことや、水産加工業者が設備投資の判断ができないなどの陳情があることが明かされる[58]。
- 9月28日:富里村新空港問題調査特別委員会中間報告。「空港位置の最終決定は閣議によって行なわれる」「目下調査が完了していないのでいずれが有力ともいえない」「富里は候補地から除かれたわけではない」[58]。
- 10月5日:運輸省が中村運輸相に霞ヶ浦を不適当とするボーリング調査結果を報告[40]。
- 10月18日:友納千葉県知事が胃潰瘍治療のため入院[48]。
- 11月15日:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる[54]。
- 11月18日:関係閣僚懇が富里を新空港建設地に突如内定、翌日に閣議決定することを橋本登美三郎官房長官が記者会見で発表。療養中の友納千葉県知事に代わって職務を行っていた川上副知事の問い合わせに、川島副総裁は閣僚懇が勝手に決めたことで自分は関与していないと回答。千葉県側は中村運輸相からの呼び出しに応じず、「農地の収用は最小限に、騒音対策は万全に。敷地決定は、保証金など具体的条件をつめてから」という公約を掲げて再選していた友納知事は、過去の佐藤首相や歴代運輸相と交わした内陸に空港建設地を決めるときは十分地元に相談するとの約束を盾に県独自の判断で対処することを表明。川上副知事は地元町村長・社会党議員・反対同盟幹部・記者クラブと順次会見を行って友納の意向に沿って決意表明するとともに、至急電報で閣議決定延期を政府側に要請。田中角栄幹事長も「政府は、私や赤城政調会長も参加させないで、内定してしまったな。霞ヶ浦だと、利根川上空を飛べば、市街地に対する防音対策上もいいと思ったのに……」と不満を表明[48][82][83]。
- 11月19日:「富里案内定」の政府発表に対し、千葉県側が「事前連絡不充分」と不満を表明[40][54]。空港建設反対派が千葉県庁に陳情[65]。
- 11月21日:富里村国際空港設置反対同盟が、「これまで何度も関係省庁等に候補地から外してほしいと陳情し、決定の際は必ず住民の納得を得ると度々言明されていた」「霞ヶ浦設置と見せかけ突如として県や町村に何ら通告なく内定を発表し直ちに決定に持ち込まんとする国策に名を借り我々の生存権を無視し農民を見くびった処置である」「今や富里村は危急存亡の岐路にあって、緊急事態に直面しているので、この際村民一致団結絶対反対し断固阻止すべし」とする旨の声明文[58]。
- 11月22日:富里村長が有線放送で「村民は軽率な行動を慎むよう」声明を発表[65]。
- 11月23日:富里村反対派が、村民の三分の二に相当する空港反対署名を集める[65]。
- 11月24日:伊丹空港での深夜・早朝のジェット機発着禁止[40]。
- 11月25日:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置反対」を決議[48][54][82]。友納千葉県知事が、「空港は地元の大多数が反対ならば、建設は不可能」としながらも「誠意があれば検討」とする[84]。
- 11月26日:川上千葉県副知事が「内定の理由と、空港の位置を明らかにした上、代替地、騒音地域とその対策等をはっきりさせない限り協力できない」と県議会で答弁[84]。
- 11月27日:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情[40]。同日、社会党系の「反対県民会議」が発足[48]。
- 11月29日:佐藤栄作日記:「運輸大臣は日米航空(交渉)も順調な経過を辿る由報告在り。尚『富里』第二空港は地元の反対あるもまとまる方向と報告をうける[85]」
- 11月30日:反対派農民1500人が県庁へ抗議[48]。
- 12月1日:友納千葉県知事が職務復帰し、「国が誠意ある対策を示さなければ、地元側に立ち、場合によっては富里新空港を拒否する」と述べる[48][65]。
- 12月3日:若狭得治運輸事務次官・佐藤光夫航空局長・手塚参事官が友納千葉県知事に富里内定を正式に連絡し、協力を要請[40][72]。運輸大臣による説明会実施(7・8日開催)が決められ、友納千葉県知事名義で周知される[84]。
- 12月6日:中村運輸相が友納千葉県知事を訪ね、協力を要請[72]。
- 12月7日:県庁で中村運輸相・佐藤航空局長・手塚参事官による「富里空港」の説明会が行われる。冒頭の友納千葉県知事の挨拶の途中に関係町村の町村長や反対同盟員は中村大臣に反対決議書を渡し、説明を受ける前に怒号を浴びせながら退出。説明会は県庁職員らへのレクチャーの体となる。加瀬完らが説明会不参加を呼びかけており、友納知事を激怒させる[48][84]。
- 12月11日:富里・八街住民が、自動車130台を連ねて県と県議会に抗議[48]。
- 12月12日:定例県議会で友納千葉県知事が「地元民の説得は至難の状況下にある。運輸省は富里が唯一の候補地かどうか再検討してほしい。また、富里地区の住民対策を早急に示し、最低3か月の検討期間をおき、国と協力し住民説得の見通しをつけたい」と発言。浜田幸一県会議員の質問に答える形で「県が地元を説得できると判断される補償、代替地、騒音、転職の4つの原則」(4原則)[注 5]について明らかにする[48]。
- 12月13日:千葉県が運輸省に「土地補償等」「代替地」「騒音対策」「職業転換対策」の4原則を提示[40]。友納千葉県知事は記者会見で「このままなら県は空港建設を断るつもり」と発言。このとき県庁は「内定を白紙に戻せ」「知事やめろ」等のシュプレヒコールをあげる反対派農民ら千数百人に取り囲まれていた。同日、八街町議会が絶対反対決議[48]。午後1時から県庁ホールで友納知事と反対同盟の会見が行われる。議論は平行線をたどり激高し「知事を帰すな」と叫ぶ反対派住民らに友納知事が取り囲まれるが、「知事は病人だ」という行動隊長のとりなしにより解放される[84]。
- 12月16日:佐藤栄作日記:「友納千葉県知事、空港問題でやって来た。仲々反対論が強い様なので、ゼスチュアもあり閣議決定を本年中はしない事とする[87]」
- 12月17日:佐藤首相と友納千葉県知事が会談。友納知事が「できれば富里以外にしてほしい」と述べたのに対し、佐藤首相は「ずいぶん探したが、富里以外にはない」と回答[65][82]。
- 12月18日:日韓基本条約批准書交換(日韓国交正常化)。「朝鮮において韓国が唯一の合法的な政府」と確認[88]。
- 12月20日:富里村の反対血判請願書(741世帯、2500人)が佐藤首相らに送付される[84]。
- 12月21日:酒々井町議会が「空港建設反対」を決議[48][82]。
- 12月24日:芝山町議会が「空港建設反対」を決議[48][82]。
1966年
- 1月9日:富里で反対総決起大会に3000人が集結[48]。
- 1月22日:社会党大会で空港設置反対決議[82]、同日成東町議会が反対決議[48]。
- 1月28日:佐藤栄作日記:「党との連絡会議で川島君と富里問題を相談し、大体の見通しはいゝ。然し尚、紆余曲折はある事と思ふ[89]」
- 2月4日:全日空羽田沖墜落事故。当時としては世界最悪の単独機事故であり、更に翌月にカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故が立て続けに起こったことから、貧弱な羽田の着陸援助能力が問題視され、空港問題について世論が沸騰する[90][91]。佐藤栄作日記:「十一時すぎまで全然様子つかめず気をもむ。乗客一二六、乗員七、計一三三、絶望と見ゆ。極力捜査した結果、零時すぎ遭難機の破片見つかり遺体亦収容。全員遭難死と思れる[92]」
- 2月5日:空港整備5箇年計画が閣議了解される。5年間の空港施設等の投資規模は、新国際空港が2850億円、一般空港1850億円、航空路施設250億円、地方単独事業等150億円、予備費500億円の計5600億円とされ、財源として利用者負担の強化を図りながら、強力に推進するものとされる[93]。衆議院予算委員会で前日の全日空事故への質問が相次ぎ、中村運輸相が「羽田の飛行場が狭いために事故が起こるというようなことが心配せられるのではないかという御配慮でございますが、現時点に立ちましては、事故につながるほど羽田が狭いということではございませんが、近い将来にはやはり羽田の飛行場が狭隘に過ぎて、やがて事故等にもつながるおそれなしといたしませんので、新しい空港をすみやかに設置して、その危険をなくするという方向で進めておる次第でございます」と答弁[94]。
- 2月6日:佐藤栄作日記:「快晴なるも全日空事故の遺体、思ふ様にはあがらない。捜索に困難を来して居る様子。このことや明日の質問に備へて在宅勉強[94]」
- 2月7日:「富里空港設置反対抗議県民大集会」を千葉公園で開催。集会後に空港反対派1,500人のデモ隊が千葉県庁に集結し、普段であれば「空港反対」であるところ「友納やめろ」とシュプレヒコールをあげ、一部がプラカードや旗竿で玄関のガラスを破るなどして乱入。反対同盟代表との面会を求める小川国彦県議とデモ隊の退去を求める川上副知事とが押し問答をしたのち、代表20人が川上副知事に決議文を読み上げる。農民3人が逮捕される。うち1人は誤認逮捕[48][91][95]。同日、社会党の吉田忠三郎が衆議院本会議で4日の全日空機事故に触れ、羽田空港は「予算不足のために、窮屈な、無理な空港になっている」「継ぎはぎ式に拡張したため、スポットと整備施設の地域が滑走路で分断をされている」などと日本の空港の脆弱性を訴える。これに対し佐藤首相は「時代の要請にこたえるような空港でなければならない」と答弁[96]。
- 2月8日:社会党の井岡大治が衆議院本会議で4日の全日空機事故に触れ、東京上空の航空管制が非常に困難になっているとしたうえで「東京周辺に第二空港を設けるべきでない」と訴え、更に遠隔地での空港建設を主張。これに対し佐藤首相は「すでに狭隘を感じております羽田のかわりに、東京の近くに第二空港を設置することは、ただいまの事情から申しまして、最も必要な緊急を要する事柄だと思います。さような意味におきまして、まだ閣議決定はいたしておりませんけれども、第二空港を東京の近くに設置する、かような方針で進んでおります」と答弁[97]。佐藤栄作日記:「三時十分から衆議院本会議で、全日空の事故の緊急質問。本会議を終り、松尾日航社長から事情聴取。やはり小生の予想通り、専門家は操縦あやまりと云ふ[92]」
- 2月11日:社会党が佐藤首相に対し東京第二国際空港建設候補地として富里案撤回に関する申入れ[98]。
- 2月26日:自民党千葉県選出国会議員団と県議団が友納千葉県知事と協議、友納知事は「事態の推移を慎重に静観、注視する」と表明[82]。
- 2月28日:県議会開会冒頭、友納千葉県知事が地元無視の政府の態度に不満を示した上で、「こんご政府に対しても条件を提示を求めず。地元住民に対しても説得の態度をとらず。事態の推移を慎重に静観注視することにした」と態度表明[40][51][65][91]。
- 3月:自民党政務調査会交通部会(田邊圀男・長谷川峻・関谷勝利・江藤智・中馬辰猪)が秘密会談を行い、三里塚での空港建設の検討を始める[64]。
- 3月3日:閣議で、関係閣僚懇を「臨時新東京国際空港閣僚協議会」(関係閣僚協)に改組して体制を強化することを決定。関係閣僚協は大蔵・農林・運輸・労働・建設・自治の各大臣、総理府総務長官、官房長官で構成される。また、総務副長官・官房副長官・各事務次官からなる幹事会も設置される[39][40][90][99](s:臨時新東京国際空港閣僚協議会について)。
- 3月4日:カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故。佐藤栄作日記:「カナダ航空のDC8、香港からの帰途着陸前事故発生。羽田空港西端で炎上。乗客七十一、乗員七。大半六十は即死。生存者数名あるも、果して加療はきくか危ぶまれる。大変な濃霧で一旦引きかへす積りになったが、やゝ霧がうすれたので着陸し様〔ママ〕として防波堤に激突炎上したもの。全日空の事故に引つゞき一月後にこの事故。いずれも無理がたゝった模様で、民間航空としては念には念を入れる事が大事だ。全日空といゝ今度といゝ、一寸した無理が大事故を引き起こした原因だ[100]」
- 3月5日:社会党の野原覺が衆議院予算委員会で前日の事故に触れて「私どもの考えでは、どうしても東京の第二空港を急いでつくらなければならない、こう思うのであります。そこで、この第二空港をつくるに当たっては、与党も野党も党利党略を離れて、そして国民の各層、各界の学識者の見識に尋ねて、私どもは急いで、絶対に事故のない、構造の上からも欠点のない、立地条件からいっても問題のない、あるいは設備の点においても完成されたほんとうに飛行場としてはすばらしいものをつくらなければならぬ、これは急いでつくらなければならぬ」と述べたのに対し、佐藤首相が「第二空港設置の要、これはまことに緊切なものがございます」「第二空港、このことは日本の国家的な事業だ、かように考えておりますし、一佐藤内閣の問題ではない、国の基本的な国策として破り上げるべき問題」「これは超党派、各党の協力を得て、そしてぜひとも万全の空港を設立するように、さらに最善の努力を払っていくつもり」と応える[101]。同日、英国海外航空機空中分解事故が発生。佐藤栄作日記:「午前十時から予算委員会の総括しめくくり質問に入る。野原覚君が大変かげんをしながら質問を終わる[100]」
- 3月6日:事態の打開を図るため、友納千葉県知事と若狭運輸事務次官が水面下での交渉を開始[48][54][91]。佐藤栄作日記:「朝刊は一斉にBOACの事故を報ずる。今年に入って飛行機事故頻り。去年は国内炭鉱事故に手を焼いたが、今年は航空か。殊に昨日の事故は高空での分解事故で、衝突や接触もないのにこの惨事、誠にいたましい。航空事業は当分赤信号か。富里空港の装備〔ママ〕を急ぐ。又国際空港といはれる伊丹も不十分、整備を急ぐ[100]」
- 3月7日:佐藤栄作日記:「参院の予算委員会。第一陣は社会党佐多忠隆君。冒頭に関連質問でBOACの事故から富里空港へと発展。本質問はわずか二分なのに一時間余を費やす[100]」
- 3月9日:自民党内に「新空港建設推進本部」が設置され、初代本部会長に就任した綾部健太郎元運輸相が「空港問題がこのようにこじれた最大原因は政府方針が決まらなかった―ということにつきる。いまや、まちまちの意見を吐いているときではない。あいつぐ事故からも、新空港は急務である」と会見で力説[90]。第1回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設促進に関する件と羽田・伊丹の整備強化について話し合われる[102]。
- 3月10日:第1回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港の建設促進に関する件と羽田・伊丹の整備強化について話し合われる[102]。
- 3月11日:橋本官房長官が閣議で、富里新空港建設促進(関係閣僚協による補償策の早期決定、運輸省への推進本部設置による推進体制の整備)について発言し、承認を受ける[103]。自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。富里以外の候補地も検討する」と表明。
- 3月13日:八街緒民議会が結成され、1000人が反対を決議。同日、富里をはじめとする5町村長会議が「白紙返上」声明[48]。
- 3月13日:佐々木更三社会党委員長が友納千葉県知事と会談し、「内陸反対」の党所信を表明[48]。
- 3月14日:佐藤栄作日記:「石坂、植村両氏は航空事業再編につき意見を求められる。よって中村運輸相を次官と共に招いて速進方ハッパをかける。綾部健太郎は富里問題、赤沢正道は人事局問題、木村武雄、三池信、塚原俊郎挨拶に[104]」
- 3月15日:富里・八街・山武・芝山・酒々井の5町村長会議が、空港の白紙返上声明書提出を決定[82]。
- 3月16日:第2回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる[102]。
- 3月22日:第3回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる[102]。
- 3月25日:佐藤栄作日記:「富里問題で副総才〔ママ〕と話合ふ[105]」
- 4月6日:社会党が東京第二国際空港の富里地区建設に関する申入れ。現地は不測の事態の発生が予想されるほど険悪な空気に包まれており、現地調査や参考人の意見聴取により事態の解決に当たるべきとした[106]。
- 4月7日:川島副総裁が河野密社会党副委員長と伊藤卯四郎民社党副委員長と面会し、「富里は空港には最適地ではある。しかし、空港問題は超党派で解決しなければならない。社会、民社の意見を尊重する。木更津、霞ヶ浦を再調査させよう」と約束。一方中村運輸相が福田赳夫大蔵相と富里空港の用地買収価格について談義[65]。
- 4月8日:日本共産党が佐藤首相に抗議文を提出し、富里新国際空港建設撤回を申し入れ。「(新空港建設は)アメリカ帝国主義と独占資本のための『国策』であって、けっして日本人民のための『国策』ではない」とした[107]。
- 4月14日:佐藤首相が木更津案の調査検討を了承[65]。
- 5月4日:富里・八街等の反対派婦人代表93人が友納千葉県知事に農地死守を宣言[48]。
- 5月13日:川島副総裁が「運輸省のやり方では新空港はつくれない。中村(運輸相)君は政治を知らない」として、木更津沖埋め立て案を提唱[64]。
- 5月14日:川島副総裁が橋本官房長官に「富里案の推進を中止し、木更津案を再調査」することを申し入れ[82]。
- 5月16日:中華人民共和国で「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)が伝達される。(文化大革命開始)
- 5月18日:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する[38][40][54]。
- 5月29日:富里中学校体育館で新国際空港即時撤回総決起大会[58]。
- 6月1日:友納千葉県知事が川島副総裁と会談し、「富里には反対者が多く、規模を半分に縮小しても土地買収に五年はかかる」と申し入れる[65]。
- 6月2日:川島副総裁が自民党政調会交通部会で木更津沖案推進を強調。若狭運輸事務次官は「木更津に空港を作るなら、新空港がもう一つ必要である」と主張[65]。同日、空港公団総裁に内定していた運輸相経験者である、宮沢胤勇が急死[108]。
- 6月3日:三木武夫通産相が「木更津沖に建設するのはムリだ。富里の地元民を説得するのは不可能ではない」と述べる[65]。
- 6月7日:中村運輸相が「新空港問題は大詰めの段階を迎えたが、富里地区に建設されると思う」と発言[65]。
- 6月8日:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討[91]。
- 6月17日:自民党政調会交通部会が三里塚案を提示[81]。中村運輸相が川島副総裁と会見、木更津案は航空管制上の難点と都心から遠距離であるため不適と報告[48]。夕刻、川島副総裁が友納千葉県知事に経過説明[40][48]。友納知事が藤倉武男成田市長に三里塚案を自民党交通部会の決定として電話で伝える[108]。藤倉市長が同日夜に成田警察署長にこのことを伝える[109]。
- 6月18日:友納千葉県知事が藤倉成田市長及び小川重雄成田市議会議長と知事公舎で会談。2月26日に"政府に対しては条件を提示せず、地元住民に対しては説得の態度をとらず、事態の推移を慎重に静観する"と所信表明しあくまで"静観"の態度で公には中立的立場をとってきた友納知事は、「千葉県の将来を考えるとこの三里塚案に協力せざるを得ないのでどうか地元の市長さんとしても是非ご協力を願いたい」と、藤倉市長に対し協力を強く要請[108][109]。
- 6月21日:中村運輸相が記者会見で「新空港は富里・八街しかない」と発言[38][65]。自民党交通部会の田辺・長谷川両議員が佐藤首相に三里塚暫定案を進言し、「これいじょうのびれば佐藤内閣の威信にかかわる」と決断を求める[64]。川島副総裁が中村運輸相と協議し、「友納千葉県知事は地元の反対が強いので、反対派を納得させる努力をしてほしいとの意見である」と伝える[110]。
- 6月22日:午前、友納千葉県知事が知事公舎で川上副知事・高橋主幹らと県の態度を協議し、「三里塚御料牧場に暫定空港をつくることであれば、県として検討の余地がある」と首相に進言することを決める。富里・八街・菅野空港反対同盟の代表7人が友納知事・菅野儀作自民党県連幹事長と面会し、絶対反対を申し入れる[111]。午後3時、佐藤首相と友納知事が会見(橋本官房長官・川島副総裁も同席)。三里塚案が初めて公にされる。佐藤首相が面積を原案の2分の1に圧縮した宮内庁下総御料牧場等の国有地がある三里塚での空港建設案を提示[注 6]。佐藤首相は友納知事に「新空港は、三里塚の御料牧場と周辺の県有地を中心に、極力、民有地に係る面積を圧縮して建設したい」と協力要請し、これに対し再度十分な補償と対策を求める友納知事へ「純民間空港を作るというのは開闢以来の偉業であって、成田はすべての公共工事の前例としないで、政府の威信をかけ行う」と明言。会談後に開かれた会見で、友納知事は「富里の反対運動は、農地を取られたくない、住まいをよそに移したくない、というもので、これ以上はっきりしたものはない。だからこそ、これまでの運輸省の態度を責めたい」と述べる[48][90]。成田市新空港対策特別委員会が緊急開催され、伊能繁次郎議員から「(この案が自民党政調会交通部会で)突然出たことは遺憾だ」としながらも「最後にはつくらなければならないので反対しないでくれ」という要請があったことが報告され、対策委員会の立ち位置(県との中間に立ち有利な条件を引き出すか、或いは反対の立場を貫くか)等今後の方策が話し合われる[58]。佐藤栄作日記:「中村運輸相は富里空港の打合せに友納知事がくるので、その前に打合せに。友納知事と川島、橋本等と三里塚を中心にしての空港建設を相談する。今度は知事も腰をあげるか[113]」
- 6月23日:三里塚案が大々的に報道され、三里塚・芝山の地元住民の多くが三里塚案を初めて知る。同日、友納千葉県知事が自民党県連七役会に前日の総理要請について説明・相談、七役会は已むを得ないではないかと了承。若狭運輸事務次官が千葉県を訪ね、関係閣僚協幹事会のメンバーに副知事を加えることや県の要望を早急にまとめることを要請[48][58][109]。宇佐美毅宮内庁長官が「三里塚空港案についてはなんの連絡もなく、フに落ちない」と述べる[65]。佐藤栄作日記:「中村運輸相をよんで三里塚案の内容整備をはかる[114]」
- 6月24日:午前、友納千葉県知事が県選出国会議員団(水田三喜男・臼井荘一・小沢久太郎は欠席)・若狭事務次官と3時間会談。「この線で諒承すべきである」と結論。午後、成田市新空港対策特別委員会委員らが友納千葉県知事・高橋主幹に事情聴取。友納知事から、22日の佐藤首相との対談で「内陸に大規模の空港計画は不可能であり、民有農地を極力避け、最低の面積にとどむべきである」「空港建設は国が主体となり、県は協力斡旋し、国、県の意志統一がなければならない」「羽田空港も不足の自体を避けるため、新空港と並行して拡張を実施してほしい」「国の段階で各政党間の意志統一をすべきである」旨を要請し、同意を得られた旨を明かされる。友納知事は、「成田市の意向は十分に聴く」「県議会の以降を聴く」としたうえで、空港建設については、住民の生活に心配のない態度ができてから国の要請に応える旨を述べる[58][65]。
- 6月25日:友納千葉県知事が成田市役所を訪問し、藤倉成田市長に新空港建設の協力を要請。同日、藤倉市長による住民向け説明会が三里塚小学校で開かれたが、市長は理解と協力を求めるのみで、住民からの質問に応えることが出来ず、説明会は大荒れとなる[108]。吊し上げを食らった市役所関係者らが警察の警護を受けて脱出すると、会場に残った三里塚住民らが今後について話し合い、富里住民らの指導を受けて反対同盟結成を決める[109]。佐藤首相が参議院本会議で成田空港案を発表[65][115]。佐藤栄作日記:「参本 に出席。柳岡君から第二空港選定の経過につき緊急質問あり。丁度いい機会と思ふので、三里塚中心に空港を造るとPRする[116]」
- 6月27日:成田市役所で地元説明会が行われる[108]。三里塚空港反対青年同盟の約30人が成田市役所・農協を訪れ、空港反対を陳情[117]。第4回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる[102]。
- 6月28日:三里塚住民らが遠山中学校の旧学習院初等科正堂で「新国際空港反対総決起集会」[118] を開催し、三里塚新国際空港反対同盟が3千人の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャンの戸村一作を代表、木の根の小川明治と天神峰の石橋政次を副委員長とする[91][108][119]。
- 6月28日:認証官となった官房長官の認証式の為に参内した佐藤首相が下総御料牧場の栃木移転を昭和天皇に内奏[48]。同日、川上紀一千葉県副知事と若狭運輸事務次官が新空港設置計画前の最終会談を行い、伝統ある古村の取香・駒井野及び戸数が多い三里塚市街地が建設地から外される[108]。佐藤栄作日記:「三時から橋本君の認証式。内奏は単簡だが三里塚空港、国会(臨時国会)、台風等、御下問も多いので約一時間[120]」
- 6月29日:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。千葉県との調整の結果として、空港建設予定地からは古村が外され、開拓村ばかりが対象となる。千葉県議会において、友納知事が政府が補償対策に誠意を尽くすことを条件に「三里塚案」の受け入れを表明。友納知事に対し、三里塚空港反対同盟80人が空港絶対反対の抗議文を手渡す。友納千葉県知事が定例県会議で「私は国家的要請とはいえ愛着の深い土地の提供を求められる地元住民の方々の団長の悲しみを思うとき、情において忍び難いものがあるが、国の最高責任者である総理が最終決断を下したものであり、政府が住民の補償対象に誠意をかたむけて万全を期するならば、この成田空港案は了承せざるをえないものと考える」と述べる[54][91][108][117][121]。
- 6月30日:芝山町農協主催で反対集会「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」[118] が開かれ、芝山町空港反対同盟が結成される。シベリア抑留経験者で社会党との係わりが深く、森林組合の理事や農協役員を歴任している用地内農家[122] の瀬利誠を委員長、内田寛一を副委員長とする[91][108]。
- 6月30日:千葉県庁内の県民ホールで運輸省による公式の新空港説明会が開催される。運輸省からは若狭事務次官・手塚参事官ら、県側から友納知事・川上副知事、県会議員ら、地元市町からは成田市の藤倉市長・小関貢新空港特別委員長、芝山町の寺内元助芝山町長、この他に市議・町議、農協代表、関係区長ら100人が出席。若狭事務次官は質疑の中で三里塚空港について「首相が裁決を下し、各省庁もすでに建設に向かっているので、三里塚の変更は全くあり得ない」と回答。同日、三里塚空港反対同盟が藤倉市長に空港反対での善処を申し入れ。芝山町農協主催の「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」が開催され、大会後に50人の抗議団が川上副知事に抗議[108][117]。
- 7月1日:芝山町議会議長が友納千葉県知事に絶対反対の陳情書を提出[117]。同日、成田市農協が「成田市農協空港反対期成同盟」を結成[123]。佐藤栄作日記:「成田努君をよんで空港公団を引きうけて貰ふ[124]」
- 7月2日:政府と千葉県が補償対策について合意し友納千葉県知事が正式に三里塚案を了承[54]。芝山町反対期成同盟90人と成田市農協組合員180人が川上副知事に対し反対陳情[117]。藤倉成田市長・新空港対策特別委員会委員らが地元住民ら約150人と話し合い。藤倉市長は「閣議決定しても地元が賛成しなければ賛成しない」と述べる[58]。
- 7月4日:佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定。この日の閣議では、(1)新東京国際空港の位置を定める政令(2)新東京国際空港公団法の施行期日を定める政令(3)s:新東京国際空港の位置及び規模について(4)s:新東京国際空港の位置決定に伴う施策について が決定される[125]。開港目標は1971年4月とされ、「新東京国際空港の位置決定に伴う施策」では地元住民対策、道路・鉄道の整備計画などの政府の方針が打ち出される。地元住民対策を県の要望によって細かく閣議決定するのは極めて異例[39][54][79]。佐藤栄作日記:「鎌倉から一時間で帰京し、閣議に出席。日米経済会議の為、繰上げ閣議。これと云ふ問題はないが、過日第二空港の目はなもついて来たので、閣議決定と本格的に最終決定。然し米価は仲々難航。もちろん午前中ではきまらぬ。漸く三役一任をとりつけたが党との調整はあまり楽ではない様だ[126]」
- 7月4日:戸別訪問を行って市議らに反対決議案への署名を迫った住民ら1000人以上が庁舎を取り囲む中、成田市議会が「三里塚空港建設反対決議」を可決。これに反発した自民党県議らが与野党協議で議会最終日に提出することになっていた「三里塚空港建設促進決議」を千葉県議会で採決を強行して同日夜に可決させる。市議会内部でも「反対派の圧力に屈した決議はおかしい」との声が上がる[79][91][108][109][127]。第2回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港について話し合われる[102]。
- 7月5日:「新東京国際空港の位置を定める政令」公布(政令第240号)[39][40][128]。
- 7月6日:千葉県が企画部企画課空港係と国際空港調査室を設け、佐倉市の印旛支庁内に「国際空港相談所」を設置(13日に成田市の県農業改良普及事務所に移転して業務開始)[40][109][129]。成田土地改良事務所が増築され、「航空局成田分室」が設置される[109]。同日、「新東京国際空港公団法の施行期日を定める政令」(政令第243号)公布[39][40]。民主社会党が三里塚新空港建設反対に関する申し入れ[130]。
- 7月7日:新東京国際空港公団法施行[39]。現地説明会開始のため、第一陣となる運輸省の係官7人(黒澤明の映画になぞらえ、「七人の侍」と呼ばれる)が成田に到着する。中央官庁による地元説明は日本初[108]。
- 7月9日:運輸省による初の住民向け説明会が大栄中学校の講堂で行われる。500人が集まり、運輸省の係官が空港の必要性・規模・買収方法・騒音・代替地・離職者対策等の説明を行うが、説明後に前列に陣取った反対派農民らに「やろう、ぶっ殺せ」等とやじと罵声を浴びる。対象区域への説明会は年内いっぱい続けられたが、農協を中心として町ぐるみで反対運動を行う芝山町では実施できなかった[108]。
- 7月10日:三里塚公園で三里塚空港反対同盟及び芝山町空港反対同盟が主催する「新空港閣議決定粉砕総決起大会」が行われ、4000人(又は3000人[117])が集結する。三里塚地区と芝山町の反対派農民・住民が連合し、三里塚芝山連合空港反対同盟を事実上結成。三里塚の戸村一作が代表に就任。芝山反対同盟で委員長だった瀬利誠は副委員長に就任、副委員長であった内田寛一は軍隊での経験を買われて行動隊長に就任。事務局長に北原鉱治が充てられる。集会には「絶対反対」の鉢巻きを巻いた寺内芝山町長も参加し、参加者らから盛んな拍手を浴びる。用地内の民家325戸が加入(成田:298戸、芝山:27戸)。空港予定地周辺でデモが行われる[40][79][91][118][131]。
- 7月14日:佐藤栄作日記:「川島君やって来る。成田空港につき理事に一人町長を推薦。どんなものか[132]」
- 7月20日:芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決[40][79][91][108][133][134]。
- 7月21日:三里塚空港反対同盟青年行動隊・芝山町空港反対同盟青年部員・戸村反対同盟代表が、態度表明を保留する藤倉成田市長に抗議[117]。
- 7月22日:友納千葉県知事・菅野儀作幹事長・藤倉市長以下成田市議らが知事公舎に集まり、自民党県連が会談。冒頭に菅野幹事長が「打ちとけてゆっくり話しあいたい。理想的な空港をつくり上げるのに自民党は責任がある」と挨拶し、成田市議らが地元の情勢や要望を伝える。これに対し友納知事は「空港敷地については市街地への影響を考え、周辺部落(三里塚・取香・駒井野・大清水・東三里塚等)をなんとかはずすように、今後も相当顧慮する」「(現状日本国内において)軍用基地以外は考慮されていない騒音対策についても考え、駒井野の前面にはターミナルを置くように配慮した」「三里塚部落を早く放棄する必要はなく、横風要滑走路ができてからでもよい」「移転者の代替地、代替地提供者へも格別の配慮を行う」としたうえで、「当事者に相談しないで決定したことは不満だと思う」「シルクコンビナートは知事が責任をもって処理する」など反対決議を出した成田市の立場に理解を示し、「市が仲立になって県・国と交渉して貰いたい」「思い切った決断をしていただきたい」と申し入れ[58]。
- 7月27日:県との間で折衝が続けていた地元要望を呑む意向を友納千葉県知事が示したこと等から、成田市空港対策委員会で自民党市議団が反対決議の撤回を強行採決[108]。
- 7月28日:千葉県農業開発公社が富里村の空港賛成地主と第一回の買収交渉を行う。友納千葉県知事が県議会で空港建設への積極的協力を表明[81]。佐藤栄作日記:「尚、中村運輸相から、空港公団の人事の相談をうける[135]」
- 7月29日:佐藤栄作日記:「閣議。空港公団の政令制定。然し人事は未決定。川島推薦の理事候補を了承せず未定明日へ持ち越す[135]」「夜、私宅に成田努、又引続き中村運輸相来り、空港公団人事を小生に訴へる。明日、川島と話合ふ事とする[135]」
- 7月30日:新東京国際空港公団 (NAA) 設立。初代総裁に元愛知用水公団総裁の成田努が就任[注 7]。副総裁は元海上保安庁長官の今井栄文[40][54][79][91][108]。佐藤栄作日記:「九時すぎ、川島君に電話して空港公団人事を決定し、登記をすます。即ち問題の理事一人を空席としてその他を決定。その旨成田総才、中村運輸相に連絡する[135]」
- 8月2日:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。旧遠山地区選出議員6人は欠席。この際、藤倉成田市長は「市民の皆様方の立場を考えて将来不幸のないよう努力することこそが私に与えられた任務であります。いわば私の立場は市民の皆様方と国や県の間に立ってパイプ役を務めるのがただ今の私の立場であります」と表明。鎌などを持った反対同盟員約40人が議場への進入を図り、ヘルメットを装着した機動隊が出動して排除。成田警察署長に対し千葉県警本部長から「機動隊にヘルメットをかぶせての市役所内への出動は相手を刺激するのでケシカラン」との苦情の電話が入る[38][91][108][109][127]。
- 8月5日:そごうの9階で開かれた説明会で、空港公団が70万円から110万円の間で道路からの位置に応じて買取価格を決める「路線方式」を打ち出す。富里では自民党の山村新治郎らが「反当り一律100万円」と住民を説得していたといい、それを知る三里塚・芝山の住民からは賛同を得られず[136]。
- 8月15日:移転補償金の預金勧誘に来た銀行員らが木の根地区でつるし上げられる。警察は強要罪容疑で2人を検挙[123]。
- 8月17日:現地視察に訪れた自民党県連空港対策委員会の井上裕・浜田幸一ら一行が、古込地区で反対同盟約150人に阻まれる。成田警察署の警告により進路が開けられ、一行は予定を一部変更して帰る[123]。
- 8月18日:空港公団が下総御料牧場の調査を開始[40]。
- 8月24日:条件賛成派(条件が折り合えば移転を了承する地権者)が北部林業事務所で会合を開いたところ、反対同盟員約300人が押し掛け、条件賛成派を引きずり出してつるし上げる。さらに駆け付けた空港相談所長のワイシャツを破き、報道関係者の車両のタイヤの空気を抜くなどする。当初警察は集団による暴力事件として断固検挙の方向で動いていたが、農民の心情を考慮し、戸村代表への厳重警告にとどめる。敷地内の一部住民に対し、空港相談所長が1町歩につき1町5反を補償するなどと語る[38][91][108][123][127]。
- 8月25日:前日の騒動で後戻りができなくなった条件賛成派が初めての条件賛成派組織である「成田空港対策部落協議会」(部落協)を結成、戦後開拓の兼業農家など131人が参加。代替地の配分権を有する千葉県はこれを歓迎し、部落協に希望する代替地を優先配分する。部落協の会長には成田市議の岩沢正春が就く[40][91][127][134]。
- 8月26日:第3回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港について話し合われる。幹事会に用地価格の基準について早急に検討するよう指示[102][137]。日本航空羽田空港墜落事故。混雑の合間を縫って訓練飛行が行なわれる羽田空港の実態が明らかとなる。佐藤栄作日記:「荒船運輸相に空港の事で各省連絡会議開催の要ある事を注意し、閣議後関係閣僚集る事とする[138]」
- 8月27日:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始[40]。
- 8月29日:反対同盟が天神峰の2ヶ所を共有登記する[108]。第5回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる[102]。
- 8月31日:三里塚空港反対同盟・芝山空港反対同盟800人が、閣議決定の撤回を求めて社会党の小川国彦県議・実川清之衆院議員並びに運輸省及び宮内庁に抗議・陳情行動を行う。成田警察署では事前に宮内庁訪問の情報を把握しておらず、宮内庁は予期せぬ陳情に動揺[117][123][139]。
- 9月2日:反対同盟が天神峰の一坪共有地に共有者の名前が書かれたクイを打ち込む。共有者には小川国彦・上野建一県議ら社会党議員も含まれる[140]。
- 9月3日:三里塚・芝山・大栄・多古の青年ら23人が友納千葉県知事への面会を求めるが叶わずに退去命令を出され、抗議文を読み上げて退去[117]。
- 9月12日:第6回関係閣僚協幹事会で新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われ、幹事会が報告した補償価格の目途を了承(畑10反当り:60万円から110万円)。関連公共事業の地元負担・税金軽減措置について引き続き幹事会で検討することを決定[102][134][137]。8月の部落協結成に対しては反対同盟員らは「見たこともない大金の札束を想像して脱落したのだ」と嘲笑っていたが、相場の4倍にもなる具体的な価格が出されたことにより反対同盟に深刻な分裂が生じ、この後新たな条件賛成派組織が各地で次々と誕生する[108]。一方、7月閣議決定の際には佐藤首相が友納千葉県知事に100万円を確約したとされ、部落協は更なる上積みを求めて交渉を継続する[140]。
- 9月10日:条件賛成派51人によって「成田市十余三地区騒音対策協議会」が発足[141]。
- 9月12日:第4回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる[102]。
- 9月17日:古込部落が総会を開き、今後条件闘争に切り替えることを決定[58]。
- 9月19日:条件賛成派24人によって「古込地区条件闘争連盟」が発足[123][134][141]。
- 9月28日:反対同盟が10月2日の総決起大会への参加を呼び掛けるビラを配布。ビラには「もし、この空港設置を許せば 周辺市町村は、騒音になやまされ、新しい道路や鉄道計画のため土地をとり上げられ、町並みも変わってしまい、資本のある大商人だけが進出し、二分に一機の割合でとび立つ大型ジェット機のため、横田や伊丹と同じように、夜もオチゝねていることもできず、子供の進学や乳児の発育にも影響の出るような町と化すでありましょう。そして現在の羽田のように、ベトナムの兵員輸送や軍需物資の輸送にも使われ「平和都市宣言」までした成田は、「基地の町」と変るでしょう。」との主張が掲載される[142]。
- 9月30日:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催[123]。土地買収価格が提示される(反当り:畑100万円、田110万円、山林原野85万円、宅地150万円)。しかし、同時に進められていた成田市街地付近での国道51号線拡幅工事での買収価格に比べて低いことから、条件賛成派組織との価格交渉が難航する[133]。
- 10月:社学同・社青同解放派・マル学同中核派が、全学連再建準備回結成大会を開催[81]。
- 10月2日[143]:三里塚・芝山の農民を中心とした4000人が、雨の中、成田市営グラウンドで「三里塚新国際空港撤回・公団撃退総決起大会」を開く[117][118]。社会党の代議士(淡谷悠蔵・加瀬完・小川国彦)や共産党幹部の袴田里見が出席[123][139]。
- 10月14日[144]:条件賛成派20人によって「成田国際空港桜台対策協議会」が発足。
- 10月18日:第7回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる[102]。
- 10月19日:空港相談所が住民調査票を配布。反対派幹部がこれを集めて焼却[123]。
- 10月27日:古込・天浪・木の根の3地区が成田市条件闘争連盟を発足[58]。
- 11月2日:成田市新空港対策特別委員会が条件賛成派の地元住民らと話し合いが非公式に行なわれ、代替地の早期買収・代替地の価格の提示・牧場用地120ヘクタールの確保で一致[58]。
- 11月4日:用地内農家への預金勧誘に来た銀行員への暴行のかどで、反対同盟員2人が逮捕される[81][145]。
- 11月5日[146]:「古込地区条件闘争連盟」に天浪・木の根地区の住民が合流した[141] 条件賛成派72人によって、「成田国際空港条件闘争連盟」が発足。同日、駒井野部落総会が「空港絶対反対決議の白紙還元」を決議。反対派が押し掛けて条件賛成派の1人を暴行し、2人(1人とも[145])が検挙される[81][123]。
- 11月7日:宮内庁が新御料牧場候補地に栃木県高根沢地区を要望[40]。
- 11月12日:共産主義労働者党結成[81]。
- 11月18日:藤倉市長以下、成田市の議員らが佐藤首相と会見し、地元要望を伝える。佐藤首相は「要望は最大限受け入れる。空港は佐藤がつくる」と勢威を示すが、空対委副委員長の小川源之助が進言した空港担当大臣をつくる案を一笑に付す[108]。
- 11月19日:佐藤栄作日記:「官邸で成田市長、富里、八街町長等と会って国策への協力を頼む[147]」
- 11月27日:江口榛一宅で戸村反対同盟代表と友納千葉県知事が会談[51][133]。
- 11月29日:社会党の佐々木委員長が現地入りし、反対同盟員らに対し「共有地運動を徹底的に進め、絶対に空港建設を阻止しよう」と佐藤政権への批判と絡めて激励。黒い霧事件で自民党との対決姿勢を強める社会党が、地元議員だけでなく党を挙げて反対運動を展開する姿勢を明確にする[83][91]。
- 12月1日:条件賛成派によって「駒井野空港対策協議会」が発足[141]。
- 12月3日:大橋武夫運輸相が就任。
- 12月5日:部落協に「成田国際空港桜台対策協議会」が合流[141]。
- 12月12日:大橋運輸相が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を空港公団に指示。開港目標を1971年春として、1970年度末までの工事完了、1973年度末までの完全空港化を定めた[148]。滑走路の位置が示されたことで、反対同盟がその予定地への団結小屋を作りに乗り出す。
- 12月13日:空港公団が、工事実施計画の認可を申請[123]。
- 12月16日:反対同盟が、天神峰にある石橋政次副委員長の所有地に最初の団結小屋を建設(天神峰現地闘争本部)[149]。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。
- 12月17日:三派全学連再建大会[81]。
- 12月19日:空港公団の用地部と建設事務所が新庁舎での業務を開始。「七人の侍」は空港公団の重要ポストに就く[109]。三里塚住民総会が「三里塚住民の総べてがブルドーザの下敷に成ろうとも反対の決意を固めた事を今一度宣言する」とする声明文[58]。
- 12月27日:芝山町議会が、「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。反対同盟員約500人(300人とも)が傍聴し異議申し立てをしたが、機動隊が排除[133][148]。
1967年
- 1月3日:反対同盟(芝山町丸朝園芸組合)が、800人の同盟員と280台の自動車を動員して「成田空港反対自動車パレード」を1市3町で実施[123][150]。
- 1月4日:反対同盟が天神峰現地闘争本部で戦術協議、京成成田駅前で成田山新勝寺への初詣客らに一坪共有地運動への共有と資金カンパを呼びかけ[150]。
- 1月10日:航空法に基づき新空港工事実施認可の公聴会が千葉県庁で開かれる。会場は警察や職員らによる物々しい警備が行われ、傍聴券は先着順で150枚しか用意されておらず、反対同盟員360人[117] には配られず。反対同盟員らは場外のスピーカーから傍聴を行う。事前に口述書を提出した者の中から運輸省が選んだ36人による口述が行われ、芝山の農民が「血のにじむ思いで開拓してきた北総台地に代わる土地はない」と涙ながらに述べ、戸村代表が「農民から土地を奪うのは神を冒涜するものだ」と訴える。公述人の約半数は条件賛成派であり、「誠意がなければ土地を絶対に売らない」等との声も聞かれる。伍堂輝雄日本航空副社長が「新空港を造らないと日本は世界の田舎となる」と主張し、無条件賛成の立場を示す。空港建設で公聴会が行われるのは、伊丹空港拡張時に次いで戦後2例目[108]。
- 1月19日:反対同盟が天神峰団結小屋等を共有登記[81]。
- 1月20日:空港公団と条件賛成派(部落協)の懇談会が初めて開かれ、補償の条件等についての意見交換を行う[40][123]。
- 1月21日:反対同盟が、前年12月27日の反対決議撤回に賛成した芝山町議員16人に対するリコール署名簿を提出。全有権者(約5800人)の3分の1を上回る3000余の署名が集められ、リコール成立が確実視されたが、引き伸ばし工作により町議員の任期切れまで出直し選挙が行われなかった[81][151]。
- 1月23日:大橋運輸相が「新東京国際空港工事実施計画の認可申請」に対し認可[125][134]。遠山中学校で第31回衆議院議員総選挙の立会演説会が開かれ、空港反対派のヤジなどにより混乱する[123]。
- 1月29日:第31回衆議院議員総選挙で自民党が安定多数を維持し、佐藤政権が黒い霧解散を乗り切る。
- 2月:千葉県第2次総合5か年計画。新国際空港の建設と北総開発が計画に盛り込まれる[152]。
- 2月3日:施設配置のマスタープラン策定のため、有識者による空港公団総裁の諮問機関「空港計画委員会」が設立される[39]。
- 2月8日:芝山町で「リコール署名撤回」を呼びかけていた自民党県連の宣伝カーが一時反対同盟約100人に取り囲まれる[123]。
- 2月15日:反対同盟が御料牧場での測量を阻止、根木名地区代替地においても戸村反対同盟代表ら100人が県農業開発公社による測量を阻止[117]。
- 2月19日:安保破棄実行委員会が、富里の闘争小屋を移築し、4000メートル滑走路予定地北端に駒井野団結小屋を建設[123]。
- 2月24日:今井空港公団副総裁が「公団は今年中に13%の用地買収をしたい」と語り、反対派を刺激する[123]。反対同盟約800人が、千葉県の畑地灌漑試験場調査団を吊るし上げる[81]。
- 3月1日:4000メートル滑走路予定地中心に天浪団結小屋(共産党議員岩間正男名義)が建てられる[108][123]。
- 3月6日:条件交渉で先行する部落協に対抗するため、成田農協の呼びかけにより、古村を中心にした条件賛成派(成田空港条件闘争連盟・駒井野空港対策協議会・十余三地区騒音対策協議会・個人)ら120人が「成田空港対策地権者会」(地権者会、会長は農協組合長の神崎武夫)に組織を一本化し、「会員の生活再建方策及び相互に納得できる補償基準を確立」することを目指す[58][91][123][127][134][141]。100人以上が参加する地権者会の用地内所有面積は部落協のそれを上回るだけでなく、用地外に農地を所有する農民が多いことから、余裕をもって交渉ができる強力な組織となることを期待された。同日、成田市新空港対策特別委員が川上千葉県副知事と面接。川上副知事は「率直にいつて国は楽観視している。吾々はいましめている」「国にあたつても、地元住民から突上げられる」「(空港公団は)やることをやらないで測量のことばかり考えている」と状況を述べる。その他、小川国彦県議ら社会党に軟化の兆しがあることや、地権者協議会が反対団体に転じることを防ぐべく川島自民党副総裁に頼んで運輸相を動かして条件提示をさせることなどが話し合われる[58]。
- 3月7日:宮内庁が御料牧場の移転先を栃木県塩谷郡高根沢町に決定[40][123]。
- 3月13日:友納千葉県知事、大橋武夫運輸相に地元対策への協力要請。騒音対策など9項目を申し入れ[73]。
- 3月18日:富里村議会が、66年11月25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる[40]。
- 3月19日:東関東自動車道建設のための測量をしていたアジア航空測量の測量員が無断立入であるとして反対派に一時連行される。同社課長が謝罪し、警察の注意を受ける[123]。
- 3月22日:ゴルフ場で補償調査をしていた空港公団職員らが反対派に包囲される。脱出を図った公団職員が運転する自動車に接触した反対同盟員が打撲などのけが。警察は一般の交通事故として扱う[123]。
- 3月27日:第8回関係閣僚協幹事会が開催される。空港問題の現況・騒音対策・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方と地元負担の措置・代替地についての税理上の問題等が検討される[153]。
- 3月29日:反対同盟約1000人が空港周辺道路起点測量会社の職員を同盟本部に連行[81]。
- 4月:産学共同の民間研究団体である航空政策研究会が、空港計画について、(1)敷地が狭く、特に、今後飛躍的に発展するであろう貨物をさばく能力がないこと(2)滑走路が三本しかないこと(3)東京-空港間の適切なアクセスがないこと 等を理由に、「このままでは新空港完成数年で、東京第三空港が必要となろう」と指摘[154]。
- 4月14日:空港公団が新御料牧場用地買収価格について栃木県等と打ち合わせ開始[40]。
- 4月15日:1967年東京都知事選挙で美濃部亮吉が当選し、東京都が革新自治体となる[155][156]。都知事に就任した美濃部は東京都におけるインフラ事業を次々と凍結し、羽田空港の拡張や成田新幹線の敷設にも影響を及ぼすこととなる[157]。
- 4月22日:反対同盟が、新東京国際空港工事実施計画認可処分取消請求の訴訟を提起[81][118]。
- 4月26日:空港公団が、千葉県知事に「事業準備のための立ち入り」を通知[81]。
- 4月27日:第9回関係閣僚協幹事会が開催される。空港問題の現況・騒音対策・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方と地元負担の措置・代替地についての税理上の問題等が検討される[153]。
- 4月28日:戸村代表が成田市会議員選挙に出馬し、4位当選[123]。第5回関係閣僚協が開催される。現地情勢と事業進捗状況・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方が検討される[153]。
- 5月4日:空港公団が友納千葉県知事に5月20日からの立入測量の実施を通告[108]。
- 5月5日:地権者会に空港公団が代替地について回答。配分された土地が部落協のものより条件が悪いため、地権者会は部落協への配分を白紙に戻したうえでの再配分を主張。
- 5月10日:友納千葉県知事が佐藤首相に地元対策への協力要請[73]。
- 5月11日:友納千葉県知事が、現地測量のための立ち入りに関する空港公団と条件賛成派団体の話し合いをあっせん[123]。
- 5月14日:成田空港公団総裁・今井副総裁が藤倉成田市長を表敬訪問し、立入測量への協力を要請[123]。
- 5月29日:自民党航空対策特別委員会(委員長、有田喜一)が、新東京国際空港建設促進のために内閣に推進本部を設けるべきとの意見をまとめ、佐藤首相へ申し入れる。内容としては、①内閣に推進本部を起き、関係各省に指示を行う②本部長には首相またはこれに代る国務大臣をあてる③同本部には各省から要員を派遣し、事務機構を整備する の3点で、同時に主管の運輸省には空港建設のための臨時機構を設置すべきとした[158]。
- 5月30日:芝山町選挙管理委員長及び委員3人が辞任、リコール審査が頓挫[117]。
- 6月2日:今井空港公団副総裁が成田市議会議員27人と会談し、空港建設についての協力を要請[123]。
- 6月19日:条件賛成派との懸案事項解消のため、川上千葉県副知事らがこの日から成田土地改良事務所(旧航空局成田分室)に滞在。この間に大清水の牧場が用地の提供を申し出たことにより地権者会の移転先の一部が確保されたことから、代替地配分の交渉がまとまる[108][123]。
- 6月21日:戸村反対同盟委員長ら約20人が、県成田土地改良事務所に常駐して地元折衝を行っている川上副知事に帰庁するよう抗議[117][123]。
- 6月26日:条件賛成派2団体との会談のために大橋運輸相が成田訪問[134]。成田空港問題が発生して以降初の政府関係者の現地入りであり、京成成田駅では入場券の販売を停止するなどの対策がとられたが、反対同盟や応援労働組合員らが宗吾参道駅から電車で京成成田駅ホームに進入してピケを張り、駅前でも社会党議員らがアジ演説をするなどして約800人による抗議行動が展開される。大橋運輸相の一行は駅に到着するなりデモ隊に取り囲まれたが、デモ隊に顔を知られていなかったために機動隊とデモ隊のもみ合いから抜け出すことができた。大橋運輸相は出迎えた友納千葉県知事らとともに駅長室に一時缶詰め状態となる。機動隊が駅前のデモ隊を排除している隙に大橋運輸相と友納知事は正面玄関のピケをかわして裏口から成田市役所に入り、部落協と地権者会のそれぞれと移転条件や立入測量の実施などについて会談する。席上、大橋運輸相が騒音区域内農地を空港敷地内同一条件で買収することを明らかにする[108][119][123][134]。
- 7月1日:高根沢町・芳賀町の代替御料牧場用地の買収交渉が解決[125]。
- 7月2日:朝日新聞の工作により、友納千葉県知事が戸村代表と会談。両者の対談は県民には驚きをもって受け止められるが、話し合い自体は物別れに終わる。
- 7月10日:多古町一鍬田新東京空港対策委員会が発足[40]。
- 7月21日:閣議決定により、関係閣僚協の構成員に厚生大臣・通産大臣・国家公安委員会委員長・首都圏整備委員会委員長・経済企画庁長官・新東京国際空港建設担当大臣が加えられ、関係閣僚協幹事会の構成員に警察庁長官・首都圏整備委員会事務局長・経済企画事務次官・厚生事務次官・通産事務次官が加えられ、東京国際空港建設担当大臣(実際には運輸大臣)を本部長とする「新東京国際空港建設実施本部」が設置される[38][99][125][153][159][160][161]。
- 7月25日:「新東京国際空港建設実施本部小委員会」が設置される[99]。
- 8月1日:公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律(騒防法)が公布される。空港公団が宮内庁と新御料牧場建設について覚書を締結[40]。
- 8月5日:反対派農家の子どもたち40人[139] による「少年行動隊」が結成される[81][108]。
- 8月7日:社会党県本部上役会が空港反対運動について協議し、現地闘争本部に県議らを常駐させることを決定[162]。
- 8月8日:米軍燃料輸送列車事故が発生。後に動労千葉が暫定輸送阻止闘争を行う際の根拠となる[163]。
- 8月11日:友納千葉県知事が「条件賛成派から立入測量の承諾を得た」と発表[164]。
- 8月12日:社会党が「空港反対現地闘争本部」を設置[164]、更に空港反対現地闘争委員長の設置を決定[162]。
- 8月14日:条件賛成派が外郭測量に同意[108][119]。
- 8月15日:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党・共産党らの革新政党の共闘組織、県共闘)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止8.15平和集会」を千葉市内で共催し、約1000人が参加。反対派農民ら約300人が千葉県庁に座りこみ、少年行動隊隊長である北原鉱治の四男が知事あての抗議文を副知事らに読み上げる。初めての少年行動隊による反対運動参加であり、思考力に乏しい子供たちを反対運動に巻き込むことへの問題視等から県教育委員会が市町の教育委員会を通じて反対同盟に少年行動隊解散を要請したが、拒否される。この集会には労働組合や社共の国会議員ら1000人が集まり、参加者らは機動隊の排除を受けながらも座り込みを継続[108][127][134][139]。
- 8月15日:砂川町基地拡張反対同盟の宮岡政雄の紹介により、戸村代表と三派全学連の秋山勝行代表との会談が行われる。
- 8月16日:反対同盟が「あらゆる民主勢力との共闘」を確認(三派全学連の支援受け入れ)[38][139]。新左翼諸党派の支援が開始される。
- 8月19日:戸村反対同盟代表ら20人が小川国彦県議・木原実衆院議員の案内で運輸省を訪問。これに対し大橋運輸相は反対派が実力阻止を図るならこれを排除するより方法がないと回答し、物別れに終わる[117]。
- 8月21日:友納千葉県知事が土地収用法に基づく空港公団の事業準備のための土地立入測量通知を公告[38]。反対同盟は緊急役員会を開き測量阻止の方法について協議[139]。同日、婦人行動隊が結成される[81]。
- 8月23日:三派全学連が戸村代表に「できるだけ援助する」と連絡。3人の学生が連絡員として地元に泊まり込む。友納千葉県知事の私邸前で県共闘会議の代表ら60人が抗議行動[139]。
- 8月24日:社会党本部が「政府と空港反対派との話し合い」を提唱し[81]、社共両党の主導権争いが表面化[162]。一方、社会党県連は強硬姿勢を崩さず、県・公団が社会党に公団総裁との会談を申し入れたが、共闘会議が「社会党の姿勢に疑念を持たせかねない」としてこれを拒否[162]。同日、旅客ターミナルビル予定地に木の根団結小屋が立てられる[123]。
- 8月25日:共産党が古込地区の党員宅敷地に空港反対現地闘争本部を設置[118][123]。
- 8月27日:十余三地区で、「三里塚空港建設阻止大集会」が開かれ、日本労働組合総評議会・千葉県労働組合連合会など60団体600人が参加。反対同盟は外角測量に備え、内田寛一を長とする反対同盟連合行動隊を編成[108][123][139]。
- 8月30日:空港公団が三里塚地区の航空写真測量を開始[40]。
- 8月31日:反対同盟約300人が、運輸省・宮内省に集団陳情[81]。
- 9月1日:反対派の抗議行動等により、大橋運輸相が8月中に実施予定だった測量の延期を発表[108]。同日、三派全学連の秋山勝行委員長(中核派)が反対同盟の金曜集会で「ここに来るのが非常に遅かったと思っています。三里塚の闘う人々の決意を聞き、事態の緊迫を知って、全学連も全力で戦わなければならないと決意しています」と挨拶し反対同盟との共闘を約束(三派全学連の支援申し入れ)[81][133][140][165]。
- 9月:台風が接近し反対同盟の警戒が手薄になった隙をついて、空港公団が「基準杭」設置のための「基本杭」を打ち込み、外郭測量が開始される[166]。
- 9月11日:木の根地区(小川反対同盟副委員長宅)で婦人行動隊と忍草母の会が交流(三里塚空港粉砕・強制測量阻止9・11婦人のつどい[81])[167]。
- 9月15日:県共闘会議が「三里塚新空港粉砕、強制測量阻止九・一五総決起集会」を開催。敬老の日と合わせて60歳以上の反対同盟員男女からなる「老人行動隊」が結成され、菅沢一利隊長が「空港建設阻止は子孫のための義務。余生のすべてを反対運動にささげたい」と述べる。メンバーには皇室を啓愛する者が多く、「老い先短いのだから、ブルトーザーの下敷きになっても構わない」と機動隊などに対しても戦闘的であった。集会には三派全学連の学生ら35人も参加し、これに反対する共産党が「全学連の参加を認めるな」「学生帰れ」などとするアジビラを撒き、全学連受け入れを会議で決定した反対同盟幹部の反発を買う[108][123][139][140]。
- 9月18日:反対派が「実戦」を想定し、部隊配置や検問などの訓練を実施[108][123]。
- 9月25日:老人行動隊が芝山町で総決起集会を開催。
- 10月:空港公団が前年9月30日に提示した条件から宅地以外の買取価格を5万円ずつ値上げして再提示するが、条件賛成派との価格交渉が決裂。その後、千葉県から優遇を受けていた部落協は友納千葉県知事と交渉し、逆に千葉県から冷遇されていた地権者会は当月就任した今井空港公団総裁と直接交渉を開始する[133]。
- 10月1日:安保破棄実行委員会が東峰団結小屋を建設[81][123]。空港公団総裁の成田努が、辞表提出。成田は身内の経営する不動産会社への融資を空港公団債の引受幹事銀行である日本長期信用銀行に申し込んだことが公私混同として取り上げられており、佐藤首相は「而して懸案が一つ解決」と綴る[168]。
- 10月2日:成田空港公団総裁が辞職。空港公団にとって重要な時期での交代であり、事実上の更迭。辞表では「空港建設が進まないため」としていたが、実際には上述のスキャンダルが理由といわれる[108][169]。
- 10月3日:副総裁であった今井栄文が総裁に昇格する。副総裁の後任には翌月4日に小見川町長から空港公団理事に就任していた山本力蔵が昇格する[40][108][169]。
- 10月4日:社会党・共産党の支援を受け、約800人がたいまつ行進。共産党の林百郎中央委員が「共産党は最後まで闘う」と挨拶[123]。
- 10月5日:未明から、反対同盟・オルグら1500人が天神峰・大清水で測量阻止の合同演習を実施[139][170]。午前7時過ぎから反対派約200人が空港公団成田分室に押しかけて座り込み。一部が宿直員の静止を振り切って乱入し、室内の什器・図面等を破壊[40][170]。岩山地区で反対派が町道に有刺鉄線などの障害物を設置(警察の警告により撤去)[123]。空港計画委員会が中間報告として「新東京国際空港計画基本方針」を空港公団総裁に答申。計画目標として、最終的には年間国際旅客1600万人、荷物120万トンを目標とするが、第一期公示では昭和51年度の予測を旅客540万人、荷物40万トンと見込み建設を行う、とする[39][171]。
- 10月6日:社会党の小川三男・淡谷悠蔵に率いられた老人行動隊・婦人行動隊の50人が貸し切りバスで上京。運輸省に押しかけて大橋運輸相との面会を求め団扇太鼓を鳴らすなどして抗議し、会議を抜け出して顔を見せた大橋大臣に対し、「政府は金で反対の地元市議会を買収した。なぜ成田を空港建設地に選んだか」と詰め寄る。大橋大臣は「地元議会を買収した事実はない」と答えるが、「バカヤロウ」「大臣やめろ」などと罵声を浴びせられる[139][172]。
- 10月8日:第一次羽田事件が発生し、新左翼党派による実力闘争が本格化する。事件には青年行動隊数人が参加しており、学生による実力闘争の様子が反対同盟に伝えられる[165]。
- 10月9日:南米の革命家チェ・ゲバラがボリビアで射殺される。
- 10月10日:空港公団が天神峰・十余三・駒井野の3か所で外郭測量のための基準杭の設置を早朝から開始。機動隊が現地投入される。約2000人の機動隊に反対同盟農民ら約1200人が座り込みなどで対抗し、三里塚現地で最初の実力闘争となる[123][169]。逮捕者2人(清宮亮芝山町議・実川義明社会党の千葉市議[173])、負傷者数十人、重傷1人。日本共産党の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に実力行使の中止を求める。これに対し農民は反発し、反対同盟農民が共産党と訣別するとともに反代々木系学生と提携して反対運動が過激化する直接の原因となる。機動隊の実力行使により農民らは排除され、1時間程度で空港公団が予定していた3本の杭が打たれる(測量クイ打ち阻止闘争)[108][174]。杭の警備にあたっていたガードマンが反対派に取り囲まれて暴行を受け、制服を破かれたうえにトランシーバーを奪われる。芝山町の反対派が抗議集会に向かう途中でクイを抜こうとして、コンクリートの一片が破壊される。その夜、反対同盟の一行が成田警察署に押し寄せて逮捕者の釈放や謝罪を求め抗議[123][175]。当日未明に記者会見で「外角測量は空港建設の第一歩としてどうしても必要なものだ。これでいよいよ建設に着手することになったが、これによって流血の惨事が起こらないよう願っている」と述べた友納千葉県知事は[176]、後日、小川国彦県議に「私が西郷隆盛、あなたが勝海舟になって、(江戸開城のように)この闘争を平和裏におさめることはできませんかね」と呼びかけるが、小川は「大変難しいですね」とだけ答え、物別れに終わる[164]。佐藤栄作日記:「出発の際の羽田事件は各紙筆を揃えて学生の行きすぎを非難し、社会党の声明もこの学生を応援しただけに、これ亦大変マイナス。今の処幸運にめぐまれたかたち。三里塚空港の実測も、羽田事件が我が方有利に働き、第一次を無事に終了[177]」
- 10月12日:白昼、小型トラック十数台に分乗した反対同盟員約80人が10日に空港公団が打った測量杭のうち2本をハンマーで破壊して持ち去る。その際に警備員や空港公団用地課長らが暴行されたうえ、警備員は芋袋に入れられて芝山千代田農協まで拉致されたうえ「公団の仕事はやめるから命だけは助けてください」と命乞いを強いられる。現場を通りかかりカメラで撮影した一般女性らがフィルムを取り上げられる。杭への襲撃は深夜に行われると警戒していた空港公団と警備当局は裏をかかれた格好。県警本部長は「チャチなクイを打つのに大部隊を動員したのではない」と激昂し、14日に芝山町青年行動隊員2人が逮捕される[108][123][145][178][179]。残りの杭1本は駆けつけた機動隊によって守られた[178]。
- 10月16日:空港公団が再び杭打ちを行い、杭は1トンのセメントで固められる[123]。
- 10月17日:千葉中央署に小川三男・柳岡秋夫ら社共の国会議員・県会議員らを筆頭に戸村代表以下反対同盟が押しかけ、12日の暴力行為等で逮捕された2人の逮捕について抗議。警察隊員と揉み合いになり代表者10人と署長らが面会するが、物別れに終わる[123]。
- 10月19日:反対同盟員ら約400人による抗議が行われ、成田警察署の巡査と接触した反対同盟の女性が痛みを訴えて成田赤十字病院に入院。女性は特別公務員暴行陵虐罪で同巡査を千葉地方検察庁に告訴するが、診察では女性の持病によるものとされ、翌年不起訴処分となる。成田警察署長は逆に誣告罪での女性の告訴を主張するが、実施されず[123][173]。
- 10月21日:芝山町の条件賛成派7団体が「芝山町空港対策連絡会議地権者会」を結成[40]。
- 10月23日:空港公団が条件賛成派団体の成田空港部落対策協議会(部落協)・成田空港対策地権者会(地権者会)に条件提示(10アール当り:宅地150万円、田120万円、畑110万円、山林原野90万円)[40][173]。
- 10月27日:勝間田清一社会党委員長らが現地視察[173]。
- 11月3日:三派全学連の150人が初めて現地入りして三里塚第2公園[118] で開かれた県反戦青年委員会などが主催する集会に参加した後、空港予定地までデモ行進を行う。これをもって新左翼の介入が始まる。これに対して共産党が「トロツキストを入れるな」等とビラを撒くとともに新左翼との共闘を始めた反対同盟への批判を始める[133][173]。
- 11月10日:三里塚空港反対青年同盟が、新左翼との共闘を妨害する共産党県委員会に対する抗議声明[180]。
- 11月13日:外郭測量完了(基準杭16本)[173]。
- 11月14日:朝日新聞の仲介による座談会が開かれ、反対同盟の戸村委員長、瀬利・石橋両副委員長が大橋運輸相に抗議[58]。
- 11月15日:空港公団が計16本のくい打ちを行い、外郭測量の完了を発表[11]。
- 11月16日:早朝、大橋運輸相が現地視察[108]。戸村委員長らと会見し、協力を要請。
- 11月24日:反対同盟・青年同盟が、国鉄動力車労働組合千葉青年部・三派全学連の代表らとともに確認した基本的原則と闘争の姿勢について声明。支援団体と確認したのは、(1)労働者・学生が強い共闘の決意を持つ (2)ベトナム戦争と対峙するベトナム人民・アメリカ人民と連帯して闘争を展開する (3)如何なる行動においても現地反対同盟の同意のもとに共闘体制を整えることを約束する の3点[181]。
- 11月25日:中曽根康弘が運輸相就任。
- 11月29日:空港公団が地権者10人と初の用地買収契約を10月23日に提示した条件で締結(11月17日発表)。反対同盟からの突き上げ等を防ぐため、氏名は伏せられるが、中には反対同盟員や条件賛成派も含まれており、反対同盟はもとより個別交渉を禁じていた条件賛成派からも遺憾の声が聞かれた[40][83][133]。(→伊藤音次郎)
- 12月1日:新東京国際空港債権令[173]。
- 12月8日:駒井野地区で反対同盟が空港公団職員を暴行[81]。
- 12月10日:共産党現地闘争本部が反対同盟幹部を中傷[81][173]。県共闘会議主催の空港反対集会で戸村代表が共産党との共闘を断る旨を挨拶[162]。同日、社会党が大清水団結小屋を建設[123]。
- 12月15日:二十数回の役員会を経て[118]、反対同盟が日本共産党による支援と介入の排除を総会で決定、「今後共産党がこの様な態度を改めない限り、支援並に一切の介入は断固として排除するものである[58]」とする声明書を出す。10月10日のクイ打ち阻止闘争以降、共産党は戸村ら反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒き反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、反対同盟との決定的な決裂に至る。北原鉱治によれば、共産党オルグがゲバ棒で武装した150人の民青とともに三派全学連との共闘反対を訴えたが、血気にはやる反対同盟が鍬や鎌で叩きのめしたとしている[133][148][182]。
- 12月18日:朝、条件賛成派宅で補償について話し合いをしていた空港公団職員が反対派約200人に包囲され、両者の間で押し問答となる。解散を呼びかける警察に対して三里塚闘争で初めてとなる投石が行われ、取り残された公団職員と警察官1人が負傷[58][123]。
- 12月21日:第6回関係閣僚協が開催され、空港関連公共事業大綱『新東京国際空港関連事業計画について』(必要に応じ早期に実施・事業費に関する各省庁の結論を急ぐ・関連地方公共団体の実情を勘案し、所要の措置を講ずる)が定められる[81][133][137][153]。反対同盟が公団職員を暴行[81]。
- 12月25日:新御料牧場建設計画発表[40]。空港公団資本金5億円増資(30億円となる)[173]。
- 12月26日:反対同盟が、日本基督教団東京山手教会の牧師(日本宗教者平和会議理事)を招き、「闘う農民のクリスマス」集会を開催[58]。
- 12月27日:空港公団が下総御料牧場の代替地となる高根沢町で新牧場の建設を始める[134]。
1968年
- 1月:佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
- 1月29日:東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入(東大紛争)。
- 1月末:テト攻勢。軍事的には北ベトナムの敗北であったが、米大使館占拠や南ベトナムによるベトコン処刑などの事態に世界が衝撃を受ける。
- 2月1日:空港公団分室に「生活設計相談所」が開設される[47][183]。
- 2月14日:芝山町議会選挙が行われ、反対同盟員の立候補者全員が当選するものの、かろうじて賛成派が過半数を維持。寺内町長は賛成派と反対派の板挟みとなる[133][183]。
- 2月26日:第1次成田デモ事件[81]。反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟が、成田市役所下にある成田市営グランド(現・栗山近隣公園)で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地2.26総決起集会」[184] を共催。約1,000人が参加した全学連は市役所に併設されている空港公団分室への突入を図り、プラカードの板を外したゲバ棒や工事用の石を武器に、千葉県警機動隊と衝突。学生ら24人が凶器準備集合や公務執行妨害で逮捕されたほか[145]、戸村代表をはじめ155人の負傷者を出す。一方、警察では中核派の機関紙「前進」などから集会が暴徒化する兆候をつかんでいたものの、1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で「過剰警備」を批判され、反対派側もこれを利用して「機動隊がくるからあのような騒動になったのだ」と喧伝したことから穏便な警備方針を打ち出さざるをえず、また動員された機動隊約3000人も主に普段交番勤務をしている警察官の寄せ集めであったため前日に急遽支給された大盾の取り扱いにも不慣れであった。学生らの攻勢は熾烈を極め、一時は学生らにとりつかれた指揮車にいた連隊指揮官の成田警察署長が指揮棒で応戦。警備側は716人が重軽傷を負う。うち学生にクロルピクリンを顔に投げつけられた警官1人が一時危篤となり、喉の切開手術を施され一命をとりとめる(その後この警官は職務復帰を果たすが、喉には手術痕が残る)。この混乱に乗じて反対派農民が空港公団分室に侵入して盗み出した空港の設計図面は、後の成田空港管制塔占拠事件での作戦立案に用いられる[133][185][186][187][188][189]。佐藤栄作日記:「昨日の成田空港での三派学生のデモは、警官の辛棒で、けが人は警官側で、逮捕者も十数名で一寸期待はづれ[190]」
- 2月27日:前日の集会後に反対同盟農家に宿泊した学生らが芝山農協前道路で無届の集会を開き、デモ行進。警察官らの多くが前日の事件で激昂していたため、再び衝突した場合には死傷者が出ることが懸念されていたが、学生らは成田市街地に突入することなくバス18台に分乗して帰京。同日、私服警官1人が反対派に一時拘束される[189]。佐藤栄作日記:「昨日の成田空港デモは、学生に対する批判の声多い。然し朝日(新聞)は相不変学生より。何としても朝日征伐にかからねばなるまい[190]」
- 3月3日:友納千葉県知事が成田赤十字病院に入院中の戸村代表を見舞う[133]。
- 3月5日:佐藤栄作日記:「(首相の指示を仰ぎに)蔵相と運輸、自治相の三人。成田空港の始末で金の問題[191]」
- 3月7日:成田市・市議会・市教育委員会など10団体が、反対同盟・全学連・反戦青年委員会に対し暴力行為の取りやめを要望[11]。
- 3月9日:翌日の反対派集会に参加予定の三派全学連による闘争に備え、警察は有刺鉄線などで市役所と空港公団分室を要塞化するとともに、「市民対策班」を設けて集会会場や市役所周辺に近づかないよう呼びかけ。成田市民らも住居等にデモ隊が侵入しないよう自衛のバリケードを構築。バス会社では、2月26日のデモで車両に被害が出たことや前日に発生した王子野戦病院反対デモが過激化したことを受けて、学生の成田への輸送をキャンセルする動きが広がる(運行を拒否するよう求めた警察からの要請に対し、東京陸運局は各社の自主判断に任せる方針をとっていた)。これまでの闘争で散々運賃を学生らに踏み倒されてきた国鉄は乗車券購入を呼びかけ[192]。バラストを投石に用いられることを防ぐため、京成線軌道には金網が張られる[193]。
- 3月10日:第2次成田デモ事件[81]。空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を再び成田市営グランドで開催、総勢4500人が集結する。警察側では2月26日の集会で大きな被害を出したことから「違反行為者は断固として検挙する」と方針が出され、歴戦の警視庁機動隊を含む4700人の大警備陣が動員される。社会党は集会を指示して淡谷悠蔵・伊藤茂ら国会議員を含む「不当弾圧監視団」を、自民党は相川勝六を団長とする「治安監視議員団」をそれぞれ派遣[193]。集会後、機動隊と墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊が大規模衝突を起こす。機動隊はガス弾でもデモ隊を止められなかったが、3台の放水車から催涙剤入りの水を一斉に放出することで漸く沈静化させる。衝突後に反対派が解散集会を開いていたところ、機動隊5000人が違法集会として規制を開始。機動隊は反対派に対しガス弾を撃ち込んだうえで突入(規制開始までに学生や野次馬らに対し、拡声器による警告が複数回行われた)。ガス弾は野次馬(弁当や酒を持ち込んで見物に来ていたものが大勢いた)がいる場所にまで多数飛んで来るほど撃ち込まれ、風が止んで催涙ガスが滞留した会場は大混乱となる。徹底した規制により空港反対派は150人以上の逮捕者と1000人以上の負傷者を出す。機動隊の負傷者は453人[133]。また、この集会に附随してTBS成田事件が発生し、過激派に手を貸した形となったTBSが激しく糾弾される[185][194]。沈静化後に成田警察署長が機動隊一個大隊を引き連れて市街を行進し、鎮圧をアピール[189]。市役所庁舎の窓ガラスが破損したほか[145]、学生や野次馬によって店や住居を荒らされた周辺住民らからは怒りの声が上がる[195][196] 一方、旧成田町地区の区長らは「公団を他の適当な場所へ移転されたい」との要望書を出す[197]。また、交通に混乱を来したこの日の警察の厳重な検問に対して批判の声が上がったほか、社会党の木原実らは「警察側の実力行使は完全に警察権行使の行き過ぎ」などとして千葉県警警備本部長の免職要求を出す意向を示す。今井空港公団総裁は「反対派農民とも会って説得したい」「新空港をベトナムと結び付ける全学連の論法は根拠がなく成田市民に迷惑をかけているのは残念」とコメント[198]。佐藤栄作日記:「成田空港は統一(反対派と三派学生)デモ。警官隊もこれに備へ、昨日の王子病院反対デモに続いで〔ママ〕の多数の逮捕者を見る。学生のこの暴挙はなんとしてもおさめなくてはならない。逮捕で対抗する以外に手はない[199]」
- 3月12日:佐藤栄作日記:「九時から閣議。成田空港事件で活潑な意見がのべられ、破防法適用の方向で十四日の会合が期待される。十一時半から中共帰りの古井、田川の両君と川崎君の三名と会見。六者会談では福田、橋本の両君がおくれて加はり、成田事件に破防法適用の役員決議をした由。よって政府もその方向とする」「衆本を終へて、中曽根君と成田事件後の今日買収をすゝめる事。そのとおりとするとの事。後、相川勝六君と大坪保雄君の両名が破防法適用について強意見をのべる。適当にきゝおく[199]」
- 3月14日:佐藤栄作日記:「一寸ひまなので先づ中曽根君を呼んで破防法適用の話をすると、彼氏慎重論。尚、地下鉄問題を話しする。次に三木君を招致して成田事件、ドル防衛問題(以下略)[200]」
- 3月16日:藤倉成田市長が暴力行為の排除を求める声明を発表[11]。
- 3月20日:三里塚新国際空港設置反対中央共闘会議・県民共闘会議・反対同盟の共同で「三・二〇 三里塚空港粉砕成田集会」が開催される(成田市は市営グランド使用の申請を拒否[183])。中核派学生ら約80人が、交通事故の対処にあたろうとしていたパトカーと遭遇し、角材で襲撃。その様子を収録したフィルムを渡すことを拒んだフジテレビ報道部員が学生らに暴行される(被害届は無し)[145][189]。
- 3月26日:藤倉成田市長の働きかけにより、成田市民協議会が結成。「地元の反対同盟に対しては、暴徒全学連との提携を断つことを要請し、全学連に対しては、成田市民の祈願をもって三度目の暴挙を思いとどまるよう反省を促す」との趣意書が出され、30日までに5600人分の署名を集める[197]。
- 3月28日:3・28王子野戦病院闘争。
- 3月31日:第3次成田デモ事件[81]。反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドの使用が禁止され、三里塚第2公園で開催。戸村代表が「私は皆さんに血を流すことをすすめようとは思わないが、ここまできてしまった以上、血を流さなければ空港建設は阻止できない」と演説。集会後、公団分室に向けてデモ行進。途中、警察官待機宿舎が襲撃され、中核派の旗が立てられる。デモコースから逸脱した学生集団は機動隊と衝突し放水を受けながらも警備用バリケードにとりつくが、長距離の移動で疲弊しており、待機していた警察部隊によって規制される。逮捕者235人、空港反対派に300人以上の負傷者を出す[189]。
- 春:今井空港公団総裁と直接価格交渉をしていた地権者会が要求を認めさせる。部落協と交渉していた友納千葉県知事が出し抜かれた格好[133]。
- 4月1日:代替地の農地造成工事着工[40]。佐藤栄作日記:「中曽根君は今朝の日向灘地震及成田空港買収の様子を報告に来る。前者は大地震の割に津波も大した事なく、陸上の被害も亦僅少。成田空港は坪最高百四〇万で条件は説得[201]」
- 4月6日:中曽根運輸・友納千葉県知事相立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体(成田空港対策部落協議会・成田空港対策地権者会・多古町一鍬田新東京国際空港対策委員会・芝山町空港対策連絡会議地権者会)との間で「用地売り渡しに関する覚書」(反当たりの価格は、畑:140万円、田:153万円、宅地200万円、山林原野115万円。)が取り交わされる[40][134]。これにより空港用地民有地の89%(597ヘクタール)が確保される。
- 4月9日:売却交渉のため空港敷地内に立ち入った日拓建設の職員2人が反対派に暴行される[145]。2・3月から発行されていた現地闘争本部機関紙『闘う駒井野』を改題し、『日刊三里塚』第一号が発行される[58]。
- 4月11日:3月10日のTBS成田事件での批判を受け、TBSが特番「成田二十四時」の放送を中止したことについて、反対同盟が抗議声明[202]。第7回関係閣僚協が開催される。用地買収経過・関連事業の進捗状況について報告がなされ、条件賛成派4団体の覚書について了承される[137][203]。
- 4月17日:空港敷地内の県有林の調査から戻る県職員3人が反対派に暴行される。1人逮捕[145]。
- 4月18日:老人行動隊118人が、御料牧場存続・空港公団への譲渡拒絶を宮内庁に請願[38][117]。同日、農協職員2人が空港敷地内で反対派に暴行される。1人逮捕[145]。
- 4月19日:機動隊150人が「交通整理」の名目で7月18日まで現地立ち入り。反対同盟パトロール隊が抗議[58][183]。
- 4月20日:空港公団による、土地売渡同意書提出者約300世帯の家屋立入り調査が開始される(通称「百日調査」)[40]。空港公団が延べ1619人を動員して行った58回に及ぶ[204] 調査は7月19日まで継続し、反対派は汚物を投げるなどして抵抗[185]。その間に農民ら6人が逮捕され、機動隊16人が負傷[133]。
- 4月21日:2月14日の公団職員への暴行の件で、警察が岩山地区の農民ら4人を逮捕。反対同盟員数十人が千葉県警に抗議。同日、反対同盟が一坪共有化運動の登記を完了[38][183]。
- 4月29日:共産党の斡旋を受けて進められていた日本山妙法寺大僧伽による三里塚平和塔の起工式が、東三里塚(当初は駒井野団結小屋の近くを建設地にする予定であったが、地権者の反対同盟員が難色を示し、共産党系農民の土地に変更された)で行われる[133][204]。
- 5月:フランス五月危機。
- 5月4日:木の根地区で反対同盟と機動隊・空港公団が衝突[183]。
- 5月5日:木の根地区で機動隊から分断された空港公団職員が反対同盟200人に引きずり出されて講義を受け、測量中止[183][205]。
- 5月6日:警官に守られながら、空港公団職員が木の根地区での測量を実施[205]。
- 5月7日:「五・七、三里塚闘争集会」が開催され、大清水地区の三叉路に社学同開放派が作った検問所を通りがかった自衛隊車両が襲撃される。警察は検問所で違法行為を続ける学生らの包囲・一斉検挙を図るが、手違いにより到着が遅れた部隊が出たため取り逃がしてしまう[81][206]。
- 5月12日:ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕される(反対同盟は暴行のうえ手錠をかけられたと主張[58])。反対同盟や三多摩反戦青委・日中が成田警察署に大挙して押しかけ抗議活動を行う。警察側の主張によれば、天浪地先で覆面パトカーが学生らに角棒などで襲撃され、付近を捜索したところ、職務質問に黙秘を続ける学生風の不審者がいたので警察署に連行したものであったが、現場に居合わせた警官らの面通しでも確証が得られなかったため、島は即日釈放される。以後、警察のパトロールでは犯人特定用の着色液が携帯されるようになる[81][145][183][206]。
- 5月14日:4000メートル滑走路最南端の桜台入った空港公団に対し、反対同盟が動員をかけ、公団職員らは撤収[183]。
- 5月15日:反対派住民と学生350人が、天神峰地区で条件賛成派宅の立ち入り測量を実施していた公団職員や警備の機動隊に対しに投石、糞尿をかけるなど測量を妨害[81][183][205][206]。
- 5月27日:天神峰本部と駒井野への立ち入り測量に機動隊300人と私服刑事50人が動員され、抗議した反対派と衝突。逮捕者2人。負傷者2人(反対同盟員と学生)[183]。
- 5月29日:空港予定地周辺5市町村により、成田空港関連事業推進協議会が発足[11]。
- 6月:丸居幹一が航空局飛行場部長に就任[68][207]。
- 6月5日:木の根部落で、反対派農民300人が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊150人との衝突で反対派2人が重傷を負う。駒井野団結小屋前で無届集会が行われ、警察部隊への投石が行われる[183][206]。
- 6月14日:空港公団職員が全員ヘルメットを着用して立ち入り測量に臨む[183]。
- 6月15日:再び、木の根部落への立ち入り測量で衝突。空港公団職員に対する投石や丸太での殴打などがあり、婦人行動隊員1人が逮捕される。反対派に8人の負傷者[145][183][206]。
- 6月19日:東峰地区での立ち入り調査に対し、反対同盟300人が投石などで妨害。機動隊300人が警棒で対抗[183]。
- 6月21日:神田カルチェ・ラタン闘争。
- 6月22日:空港公団が東峰地区で立ち入り調査を実施、公団職員や警察部隊に対して投石が行われる。反対同盟員にクロルピクリンの瓶を投げつけられた警察官1人が負傷。反対派農民1人が逮捕される[145][183][206]。
- 6月27日:東峰地区の麦畑で乱闘。反対派1人が逮捕され、反対同盟が千葉県警に抗議[183]。
- 6月30日:三里塚第二公園で「ボーリング・水準測量阻止」をスローガンに掲げる「三里塚空港粉砕全国総決起集会」が開催され、反対同盟・全学連・反戦青年委員会・労組など約2900人が参加。警察部隊との衝突は回避[11][58][183]。
- 7月2日:豪雨をついて空港公団が十余三地区での立ち入り測量を実施、機動隊500人と反対同盟500人が衝突[183]。
- 7月9日:佐藤栄作日記:「十時から経済月例報告。成田空港関係の実施案を督励する[208]」
- 7月11日:芝山町(4000メートル滑走路南端の桜台[183])で初めての公団立ち入り調査が行われ、反対同盟300人と衝突。投石により下請け労働者や警察官など4人が負傷[205]。空港公団職員への丸太などを使った暴行のかどで、反対同盟員2人と小川プロダクションのカメラマン2人が現行犯逮捕される[145][206]。
- 7月12日:芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が初めて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊長が逮捕される[183][209]。
- 7月13日:横堀地区で反対同盟250人が空港公団職員ら44人を取り囲み、これを排除しようした警官に対して投石を行う[183][205]。
- 7月15日:横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する[183][209]。
- 7月17日:反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1人。巧妙に仕掛けられた有刺鉄線に引っかかる警察部隊員が続出したうえ、学生を追う機動隊が畑のスイカを割ったとし抗議を受ける[145][183][206][209]。
- 7月18日:空港公団が土地売渡同意書提出者家屋への立ち入り測量の終了を宣言(「百日調査」終了)[125][209]。空港公団が20億円の増資を受け、50億円の資本金となる[183]。
- 8月7日:空港計画委員会が、新東京国際空港の計画(第一期工事)について最終報告(予定より4ヶ月遅れ)。
- 8月9日:戸村反対同盟代表ら10人が中曽根運輸相に空港反対を申し入れるとともに現地視察を要求。中曽根運輸相は「適当な時期に現地に行きたい」と回答[117][185]。
- 8月20日:チェコスロバキア社会主義共和国の民主化運動「プラハの春」に対し、ワルシャワ条約機構軍が軍事介入。
- 9月:社会党の第31回全国大会が開かれ、過激派の暴力闘争に対する世論の非難を受け、以後いかなる闘争においても過激派とは共闘しない方針を表明。三里塚闘争に対しては一坪共有地の名義提供などに留め距離を置き始める[210]。
- 9月4日:日大紛争で警察官が殉職。以降警察は新左翼学生に対して断固とした処置をとるようになる。
- 10月11日:第8回関係閣僚協が開催され、空港建設の状況・地元負担問題について検討。関連事業の地元負担軽減のため財政援助措置を内容とする特別立法(成田財特法)を国会に提出することや、騒音区域内の土地を敷地内と同一価格で買収することを決定[137][203]。佐藤栄作日記:「成田空港整備の為、特例法を設ける事とした。水田蔵相には反対だった様だが、国家的事業なので関係自治体を補助するのは当然か[211]」
- 10月21日:新宿騒乱。
- 10月31日:公団職員3人が反対同盟員らにこん棒などで暴行される[145]。
- 11月18日:2月から3月にかけて行われた成田市内での機動隊との衝突で逮捕された支援学生ら33人の初公判が千葉地裁で開かれるが、ヘルメットを被った学生らが裁判所職員を振り切って法廷に突入し、ヘルメットを着用したままの傍聴や入り口でもみ合った職員からの謝罪を求めるなどして妨害。その後も妨害が続き、1977年7月29日に千葉地裁が判決を出すまでに9年を費やす[133]。
- 11月24日:反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千人が結集[209]。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。
- 11月30日:原田憲が運輸大臣就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を原田に担当させることも決定[212]。
- 12月2日:空港公団が反対派に文書で用地買収協力を要請。以降、空港公団が直接接触困難な者に対して随時実施される[40]。
- 12月12日:京成電鉄が新空港線の認可を申請[83]。
- 12月19日:青年同盟員2人が立ち入り調査に来ていた公団職員を暴行。2人は同日夜に逮捕される[145][209]。
- 12月26日:空港計画委員会の最終報告を受け、空港公団は運輸省に対し新空港の工事実施計画変更の許可申請(1969年1月25日許可)[40]。
- 12月29日:反対同盟の300人が成田警察署に連日抗議行動を続け、19日逮捕の2人が釈放される[209]。
1969年
- 1月19日:東大安田講堂事件が終結。
- 2月5日:条件賛成派が警備会社及びショッピング・センターを設立。
- 2月9日:超大型旅客機「ボーイング747」(ジャンボジェット)の1号機が初飛行[213]。
- 2月28日:衆議院運輸委員会で、原田憲運輸相が社会党の小川三男議員からアメリカの軍用関係のチャーター機の使用について問われ、新空港であっても断ることはできないと答弁。その後で手塚良成航空局長が地位協定第五条第一項で米軍のこれらの飛行機の出入について断わることはできない建前になっているが、外交ルートでの申し入れは可能と答弁[214]。
- 3月2日:超音速旅客機「コンコルド」が初飛行[215]。
- 3月11日:反対同盟の要請を受けて空港問題の経過報告会(町議会が行った羽田・伊丹・福岡等空港の騒音視察の報告)が芝山町議会で開かれる。寺内芝山町長が400人の反対派に取り囲まれて罵詈雑言を浴びせられ、空港反対確認書に署名を強いられる。内容は、(1)町民の意思を尊重し、土地収用手続きである「町長告示」は行わない (2)(2月28日の)国会での大臣発言が事実なら空港建設に反対 (3)空港建設に伴う地元負担には耐えられないから反対 の3点。寺内町長は署名後に行方をくらます[133][216][217]。
- 3月14日:空港公団が土屋土地開発協議会と空港建設資材輸送専用線建設事業について合意(4月1日に用地賃貸借に係る協定を締結)[40]。
- 3月30日:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千人の結集。
- 3月31日:議会での混乱が続く中、寺内芝山町長の辞表が受理され、辞職が成立する[133][217]。宮内庁・関東財務局・空港公団が、下総御料牧場の一部と新設牧場の交換契約を締結[81]。
- 4月:千葉県警の人事再編があり、警察署長や機動隊隊長等の要職に機動隊経験者や実力者が据えられる[218]。
- 4月1日:航空局の新東京国際空港建設推進企画室が廃止され、「新東京国際空港課」が置かれる[40][125]。同日から15日まで成田市が「三里塚最後の花見まつり」を開催。市から完成図の描かれたパンフレットが配布され、京成電鉄の駅のホームに空港促進を訴えるポスターが掲載される。反対派は宣伝車でアジを行いビラを配るなどして対抗[219]。
- 4月21日:国鉄成田駅から土屋地先に至る約2.9キロメートルの資材輸送の専用鉄道工事が着工する[40]。
- 4月26日:寺内前町長の辞職に伴う芝山町長選挙が行われ、自民党芝山支部長で空港推進派の寺島孝一が反対同盟推薦の戸井正雄候補を273票差で破り、当選[133][217]。
- 7月2日:千葉県警本部に「空港対策委員会」、警務部警務課に「空港問題対策室」が発足[218]。
- 7月7日:三里塚平和塔が完成[133]。
- 7月16日:御料牧場の栃木県への移転が始まる[220]。
- 7月21日:アポロ11号が月面着陸。
- 8月3日:大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)が成立。実際の適用はなかったものの、施行後に紛争校の数は全国で激減。
- 8月8日:反対同盟が木の根団結小屋から共産党を追放[81]。
- 8月18日:御料牧場閉場式に反対同盟200人が抗議行動。「有終の美を飾らせてほしい」との牧場側の懇願を振り切って青年行動隊が乱入し、会場を破壊(総駿会館乱入事件[81])[127][133][220]。翌9月8日に青行隊8人が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は全国指名手配となる。翌19日から新御料牧場への移転が開始される。同日、羽田空港での小型機の離着陸が禁止される[221]。
- 9月13日:今井空港公団総裁が、「残余の土地についても今後全力をあげて円満に取得するよう努める所存であるが、万一協議が不調となった場合は、本事業の遂行に重大な支障となる」として、土地収用法に基づく新東京国際空港建設事業の事業認定を建設大臣に申請[39][133][222][223]。
- 9月19日:空港公団がA滑走路と並行する工事用道路の入札を行い、鹿島建設と熊谷組が共同落札。一期工事の開始日とされる[40][140]。
- 9月20日:A滑走路工事が着工(完成は1973年4月30日)[40]。
- 9月28日:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千人が結集。閉場式乱入で指名手配中となっている萩原進も姿を現すが、混乱を恐れた県警は逮捕を見合わせる[169]。
- 10月5日:反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11月12日まで展開する。
- 10月14日:成田警察署員が、閉場式乱入で指名手配中であった萩原進の宅にいた青行隊員・柳川秀夫を萩原と誤認して逮捕する。反対同盟100人が成田警察署で抗議行動を展開し穏便な対応を求めた小川国彦県議がつるし上げを食らう。成田署は、県警本部と協議のうえで、柳川を即日釈放とする[224]。なお警察は、柳川が本人確認に応じないなど故意に間違えられるように振舞っていたとして「反対同盟の罠にはまった」とコメントしている[169]。
- 10月21日:10.21国際反戦デー闘争。
- 10月24日:空港建設工事に初めてブルドーザーが投入される(工事用道路のための整地作業)[133]。
- 11月5日:大菩薩峠事件。
- 11月6日:萩原進が、自宅で農作業中に逮捕される[169]。
- 11月7日:運輸審議会が京成電鉄の空港線を承認、免許が交付される[83]。
- 11月12日:反対同盟が佐藤首相訪米阻止闘争に呼応して4000メートル滑走路工事用道路の建設現場で座り込み、ブルドーザーを阻止する。着工後初めての本格的妨害活動であり、反対同盟戸村代表ら13人が威力業務妨害で現行犯逮捕される。戸村、初の逮捕[133][140][222]。
- 11月14日:空港建設工事用のブルードーザー1台が時限式発火装置で放火され、他の2台もタンクから燃料を抜かれたり異物を混入される被害。三里塚闘争で初めての放火ゲリラ[83]。
- 11月17日:取香・駒井野地区の元地権者らが成田空港美整社を設立[225]。
- 11月21日:佐藤首相・ニクソン米大統領が沖縄返還の共同声明[221]。
- 12月1日:特定飛行場周辺の指定区域及び除外区域に関する告示[125]。
- 12月16日:坪川信三建設大臣が9月13日に空港公団が申請した土地収用法に基づく「事業認定」を承認し、告示される。なおこのとき、空港公団の申請ミスで滑走路両端のアプローチエリアが事業認定に含まれていなかった[148]。
- 12月20日:新御料牧場が完成[127]。
- 12月23日:空港公団が反対同盟の各農民に対し、「土地収用法に基づく事業認定が十二月十六日付で告示されましたが、この機会にぜひとも私共の気持ちをお汲み取り頂きまして、話し合いの機会をつくり貴重な土地をお譲りいただきたくお願い申し上げます」との手紙を送る。以降翌年1月14日までに計5回手紙が出される。農民からの回答・同意は無し[226]。
- 12月27日:沖縄返還などを追い風に第32回衆議院議員総選挙で自民党が大勝。
1970年代
1970年
- 1月2日:反対同盟が天浪地区にバリケードを構築[118][226]。
- 1月13日:反対同盟が木の根・駒井野両団結小屋にバリケードを構築[226]。
- 1月14日:橋本登美三郎が運輸相に就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を橋本に担当させることも決定[227]。
- 1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が三里塚第2公園[118] で開催され、7000人が集結する。以降、全学連は現地行動隊を組織して常駐するようになる。全国全共闘が「共闘集会」開催を打診するが、反対同盟は回答を保留[228]。
- 1月23日:代替御料牧場の宮内庁引き渡しが完了[125][222]。
- 2月18日:B滑走路予定地で石橋副委員長が母屋新築の上棟式を行う[118]。
- 2月19日:この日開始された土地収用法に基づく反対派農地への立入調査(「第一次立入調査」[125])に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)[222]。「少年行動隊」に属する生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し(16日に反対同盟が決議[81])、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。県教育委員会が反対同盟に自粛を呼びかけるが、子供らは団結小屋に立てこもり気勢を上げる[133][229]。
- 2月22日:反対派が空港敷地内のボーリング作業場に侵入し、機械に放火[145]。
- 3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決(土地収用法に基づく権利取得裁決申請及び明渡裁決の申立て)を申請[125]。
- 3月13日:反対同盟が事業認定取消請求訴訟を千葉地裁に提起[81]。
- 3月15日:第1旅客ターミナルビル建設工事が着工する。同日、日本万国博覧会が始まる。
- 3月17日:新御料牧場の開場式[127]。
- 3月28日:新東京国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)と施行令が公布される[125][217]。
- 3月30日:政府が千葉県提出の空港周辺地域整備計画を決定[125]。
- 3月31日-4月5日:よど号ハイジャック事件。
- 4月10日:天浪地区に公団新事務所が開設される[125][222]。
- 4月23日:旅客ターミナルビル建設工事が着工[38]。
- 4月28日:資材輸送専用鉄道が部分開通[40]。
- 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」(第二次立ち入り調査実施)[133][222]。
- 5月18日:全国新幹線鉄道整備法公布。
- 5月26日:空港建設促進の宣伝活動を行っていた山口組系右翼団体「防共挺身隊」が、現地に乗り付けたマイクロバスが反対派に空気銃で撃たれたとして、社会党系の団結小屋「三里塚空港反対中央共闘会議現地闘争本部」に殴り込む[230]。
- 5月27日:前日の右翼による襲撃について、現場に署員がいたにもかかわらず現行犯逮捕が行われなかったことや検問にもかかわらず右翼が角材を持ち込めたことなどから、反対同盟と社会党が成田警察署に抗議[231]。
- 6月12日:千葉県収用委員会が、千葉県総合運動場体育館で第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を反対同盟の1千人が傍聴、反対同盟顧問弁護士の葉山岳夫が審理そのものが違法だとして異議を唱えたところ発言を禁じられ、空港公団の課長が事業内容の説明を始めると怒った農民がマイクを引き倒すなど会場は混乱し、1時間で閉会[119]。少年行動隊も「同盟休校」参加しており、県教育長が「市町村教育委員会を通じて同盟休校させないように説得していたのに残念だ。子供を闘争の手段として使うことは絶対に許せない」と厳しく批判[133]。
- 6月18日:千葉県収用委員の飯田朝教授が再任辞退を表明、「収用委員をやっているというだけで、全国から手紙や電報が舞い込み、電話が夜中にかかってくる。まるで土地を奪う悪代官のような扱いだ」「これ以上、委員をつとめるのは苦しい」と述べる[232]。
- 6月23日:新日米安保条約第10条に定められた有効期間(10年)が経過。以降も条約は破棄されずに継続。
- 7月8日:エプロン工事が着工する[40]。
- 8月4日:誘導路建設工事が着工する[40]。
- 8月5日:用地交渉中の公団職員3人が暴行され、1人が重傷、車両大破[40][233]。
- 8月12日:羽田空港の発着回数が処理能力を超え、運輸省が(1)発着回数は1日460回を限度とする、(2)国内定期便を1日12便ないし14便ほど減便する、(3)厚木飛行場を許容される限り使用する、(4)臨時便及びチャーター便を制限する、(5)大阪、札幌、福岡発東京行き定期便についてフローコントロールを行う、(6)羽田空港が混雑しているときは名古屋空港に一時着陸して地上待機する、とした緊急指示を行う[39][40]。
- 8月16日:反対同盟が岩山小学校で集会を開き、(1)A滑走路南側アプローチエリアに位置し、事業認定から外れた岩山地区を闘争の最大拠点とする(2)収用委員会の公開審理を引き伸ばす(3)民家で唯一強制収用の対象となっている大木(小泉)よね宅に団結小屋を設ける ことを決め、徹底抗戦の闘争方針を打ち出す[127]。
- 8月17日:米軍との交渉の結果、全日本空輸の一部路線が、万博の影響もあって完全パンク状態となった羽田空港から厚木飛行場に移管される[234]。
- 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をかけられたまま逃走する。
- 8月31日:資材輸送専用鉄道が全線開通[40]。
- 9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理。審理の進め方の折衝が5時間にも長引く。漸く入場した農民らが椅子をもって壇上に詰めよろうするのを見た委員らが別室で協議するために退席。委員らが逃げると思った学生や青年行動隊らが取り囲んで殴る蹴るの暴行を加え、委員1人が肋骨を折る怪我[119]。結局、開会も宣言できずに終わる[133]。
- 9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる[133]。
- 9月11日:空港公団委託の業者2人が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。
- 9月16日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が瀬利反対同盟副委員長宅を家宅捜査。
- 9月17日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1人を誤認逮捕。
- 9月30日:この日から10月2日まで実施された第三次立入り調査に対抗し、「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)が実施される。立入り調査の対象は125か所・78ヘクタールと大規模なもので[222]、反対同盟は、落とし穴・「白兵戦(竹槍等)」・「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して総動員で抵抗する。3日間の攻防で59人が逮捕される。反対派の抵抗で空港公団は312ヵ所の調査対象のうち4割弱しか実測ができず、残りは航空測量で済ませられた[133][140]。
- 10月7日:空港公団が用地取得に公共用地の取得に関する特別措置法を適用すると発表。
- 10月8日:空港管理ビル建設工事が着工する[40]。
- 10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席[133]。
- 10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる[133]。
- 11月4日:空港公団が公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を根本龍太郎建設大臣に申請[83]。
- 11月25日:三島事件。
- 12月6日:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。
- 12月19日:千葉港頭給油施設工事着工[40][47]。
- 12月25日:空港内給油施設工事着工[40]。
- 12月26日:千葉県収用委員会が「現地調査、審理等に見られた土地所有者および関係者の行動は、採決の遅延のみを図ることを目的とし、正常な意見を述べる意思を持たないものと認めるに至った」として審理を打ち切り、第一次収用裁決申請分(一坪共有地6か所・約1500平方メートル)に対し、翌年1月31日までに空港公団に明け渡すよう収用裁決(権利取得の時期及び明渡しの期限1971年1月31日)[148][222][235]。
- 12月28日:11月4日に出された空港公団の申請を受け、新空港の特定公共事業認定が告示される[83][125]。
1971年
- 1月6日:代執行に備え、反対同盟が強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める[38][81][236]。
- 1月13日:反対同盟の小川明治副委員長が心筋梗塞で死去。15日に同盟葬が行われる。小川の遺言により、空港予定地内(天浪共同墓地)のコンクリートでできた幅約5メートル・高さ2.5メートル、厚さ約50センチメートルの墓に埋葬される[237]。
- 1月18日:昭和46年告示第17号により建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画が公示され、東北新幹線・上越新幹線とともに成田新幹線の基本計画が決定(東京~成田65km)[238]。
- 1月22日:翌日の友納千葉県知事との会談に応じるか否かで反対同盟の実行役員会が紛糾する。敷地内開拓農家が「知事に開拓の辛い思いを知って欲しい」と主張し、採決により会談の実施が僅差で決まる[239]。同日、佐藤首相が施政方針演説で「新幹線鉄道につきましては、山陽新幹線が四十七年春には岡山まで開通し、五十年には福岡まで全通いたします。東北、上越、成田の三線については四十六年度に着工いたします」「建設中の新東京国際空港は、(昭和)四十六年度中に供用を開始するとともに、関西新国際空港についても、すみやかに着工するよう目下調査を進めております」と述べる[240]。
- 1月23日:御料牧場事務所で友納千葉県知事と戸村反対同盟委員長が代執行問題について会談するが、論議が平行線のまま終わる。友納知事が代執行の実施の有無について明言しなかったため、友納知事からの再度の会談申し入れに対し、反対同盟は「空港建設を前提にしている以上、会談に応じる考えはない」として拒絶[151]。
- 1月29日:深夜・早朝の発着制限の地元要望を受けて、橋本運輸相がカーフュー(緊急時を除く午後11時から午前6時にかけての発着禁止)実施を友納千葉県知事に回答[241]。
- 1月31日:千葉市内で、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に集会(三里塚空区空港建設反対、土地収用強制執行阻止、執行吏友納糾弾集会[81])が開かれ、知事公舎にデモ。ジグザグデモが行われ、警察官への体当たりや旗竿での暴行などで5人が逮捕される。負傷者多数。同日をもって、収用地が明け渡し期限を迎える[11][39][145]。
- 2月1日:空港公団が友納千葉県知事に対し行政代執行を要請[148][235]。
- 2月3日:空港公団が一期地区内用地について緊急採決を千葉県収用委員会に申請[125][242]。
- 2月11日:少年行動隊が、150人で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊との衝突になり、少行隊員1人負傷。
- 2月14日:全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、「強制代執行反対」を掲げて、再び知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2千5百人が結集し、28人が逮捕。デモ隊20人余が負傷。
- 2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。
- 2月15日:少年行動隊に所属する生徒85人がヘルメット姿で授業中の芝山中学校に押しかけてジグザグデモを行い校長室・放送室を占拠。他の生徒に呼びかけて校内集会を開くとともに、空港問題に対する態度を明確にしない教師陣に対し詰め寄る[133][243]。
- 2月18日:少年行動隊と教師陣が話し合いを行う[133]。
- 2月22日:6件6筆の建設予定地に対して第一次代執行が開始される。反対同盟と支援者3千人と機動隊が衝突。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。
- 2月24日:少年行動隊80人が公団職員らと衝突。少年行動隊3人が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加えたほか、多数の負傷者が出る。公団分室のガードマンらが、空港公団への面会に遅参した社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員を背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために反対派と誤認して排除、両議員は顔などを負傷する[244]。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行う[133]。
- 2月24日:航空灯火工事が着工する[40]。
- 2月25日:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49人が逮捕。その際に「地下壕」が落盤。農民1人が重傷を負う。この日の逮捕者141人。反対派の負傷者253人。5人が成田日赤病院に緊急搬送される。
- 2月26日:友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。校長らは県と県警に生徒の安全確保を申し入れる[133]。
- 2月27日:代執行が一時中止される。空港公団が、騒防法に基づく学校等の騒音防止工事の助成を開始[40]。
- 3月1日:千葉県本会議で、小川国彦県議の質問に対し友納知事が「代執行につきましては明日から着手する方針でおります」と答弁。小川県議は「死人が出たら死刑執行人として責任をしょえばいいんだ」と発言し、登院停止2日間の処分を受ける[245]。
- 3月2日:代執行再開。機動隊が2千3百人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて集まった「野次馬」約3千人[注 8]が、中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けつつ、投石を行ったり阻止線を作るなどして終始反対同盟側を支援。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者13人。反対派の負傷者20人。成田日赤病院への緊急搬送3人。
- 3月2日:過激派集団の実力闘争による反対運動に反対する住民らが「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」を結成[247]。同団体は共産党系の団体とされる[248]。
- 3月3日:機動隊が3000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対派の負傷者213人。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。
- 3月4日:参議院予算委員会の質疑で自民党の八田一朗が今井空港公団総裁に一坪共有地に名義貸しをしている議員らの名前を読み上げさせる[249]。佐藤栄作日記:「(八田の持ち時間は)僅かに丗分だが成田空港問題で一坪地主の社会党の所有者の名前をよみ上げさせる。(八田は)一寸溜飲をさげた様子。然し社会党の諸君は不満として理事会にもち込む[250]」
- 3月5日:機動隊がさらに3千5百人に増強され、引き続き現場周辺の道路で「野次馬」対策の検問が実施される。この日から翌日にかけて、「野次馬」から隔離された現地で空港公団・機動隊側による強硬措置が行われるようになる。佐藤栄作日記:「(参議院予算委員会 で)十時から松本賢一君の昨日の残り十三分。然し社会党は昨日の八田君の質問で成田空港の一坪運動に干係する当議員並に前議員の名前を明にした事につき党内で議論あり、そうかといって八田君にも今井公団総裁にもかみつけず欠席。然しこの方も新聞の批判が怖く、遂に出席して今井総裁と質疑を重ね、段々と深みに落ち込み気の毒な状態。(中略)杉原一雄君。五〇分の内約丗分を残し加瀬完君に移り成功。空港問題、結局まづい質問で時間[250]」
- 3月6日:機動隊は高圧放水などで、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1171人が負傷し、反対派の逮捕者は468人にのぼる[133]。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化。佐藤栄作日記:「(参議院予算委員会 の)質疑も成田空港の兼でやゝあれ気味だったがこれで終了。尚成田空港は二時すぎ代執行として予定された部分を完了。然し尚収用に応ぜぬ部分もあるので、この際積極的に交渉を話し合いで進める要がある。運輸大臣に命ずる[250]」
- 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を1千5百人で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井榮文空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。
- 3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」埋め立てを実施。一部が撤去され、8人を逮捕。
- 3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた山本力蔵空港公団副総裁・小川国彦県議[245] と反対同盟の間で交渉が持たれ、作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。山本副総裁の「20分ほど農民を説得し、排除作業による危険の大きさを現場で確かめた。事務的な考え方だけでは通らない」との談話が新聞に掲載される[245]。
- 3月15日:芝山中で卒業式が開かれ校長が式辞で少年行動隊の生徒らに向け「三年間、空港問題で悩みが多かったろう」と語る。少年行動隊の生徒らは国歌斉唱や卒業証書授与での返事を拒絶し、無言で学び舎を去る[133]。
- 3月17日:千葉県収用委員会が緊急裁決対象地の現地調査を行う(三里塚平和塔・駒井野団結小屋・天浪団結小屋等)[38]。糞尿散布や投石など反対派による妨害が行われる[145]
- 3月18日:エプロン舗装工事着工[125]。
- 3月21日:反対同盟が「いかなる斡旋案も拒否する」と発表。
- 3月23日-24日:千葉県収用委員会の公開審理が行われる。学生らが会場に乱入してデモ行進を行い、反対同盟員らが事業説明をしている空港公団からマイクを取り上げるなどしたため、警察が複数回出動する。傍聴席から飛び降りて会場への侵入を図る学生を押しとどめる警備員について、社会党千葉市議会議員の市川福平が「(警察)署長……ガードマンの暴行を止めさせなさい」と繰り返し叫ぶ[251]。
- 3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反し「地下壕」の強化を行い、かつ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知[133]。
- 3月25日:空港公団は機動隊4千人を動員し、ブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。代執行同様に警察が検問を実施したことに加えて、代執行での"敗北"が世間に印象づけられたことにより、反対同盟は代執行時のようなマスコミや「野次馬」の支援を得られず。反対派19人逮捕[252]。
- 3月28日:革マル派が、機動隊との攻防で負傷した者の救護に当たっていた「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2人を負傷させる。
- 4月11日:1971年東京都知事選挙で「ストップ・ザ・サトウ」を掲げる美濃部が再選。
- 4月22日:成田空港問題の心労により倒れた藤倉成田市長が辞意表明[253]。
- 5月:航空局内に「東京国際空港拡張計画作成委員会」が設置され、羽田空港沖合展開(沖展)の調査が始まる[254]。
- 5月2日:駒井野団結小屋近くでパトロール中の警備員の車両を学生らが停止させ、更にその窓ガラスを割ったことを切っ掛けに、約200人の大乱闘が起きる。反対派に48人の負傷者を出し、うち17人が重傷を負う。止めに入った反対派農民1人が逮捕される。警備側の被害としては、警備員29人・機動隊員2人が負傷したほか、警備員の車両5台が破壊される。第一次代執行後は機動隊が現地に常駐しておらず、空港公団が配置した警備員が変わってパトロール等を実施していた[133][230]。
- 5月6日:空港公団が、「農民放送塔」(反対同盟が建てた高さ24メートルの櫓で、監視・連絡機能を有するだけでなく大音量のスピーカーで連日アジテーションを行い、空港建設作業を妨害していた)と反対派が掘り進めていた「地下壕」の撤去を求める仮処分を千葉地裁に申請[79][133]。
- 5月9日:未明、空港公団が買い取っていたゴルフ場のクラブハウスが火炎瓶襲撃で全焼。「農民の生活と権利を守る五・九三里塚大集会」が三里塚平和塔の前で開かれ、全国から96団体2500人が参加[133]。
- 5月12日:空港公団のミスでアプローチエリア(航空保安施設用地)が事業認定申請に含まれていないことに目を付けた反対同盟が、A滑走路南端から約1キロ離れた芝山町岩山地区に高さ30.74メートル(30.82メートルとも[38])の第一鉄塔を構築。航空機発着の障害物となる[133][230]。
- 5月20日:ボーイング2707の計画が中止される。
- 5月25日:千葉県警が反対派農民の大木よね宅を家宅捜索。
- 5月28日:藤倉市長の辞任に伴う成田市長選挙に出馬した長谷川録太郎の応援の為に成田を訪れていた、橋本登美三郎運輸相のもとへ反対派が押し掛け、戸村反対同盟委員長らが直談判を行ったが、会談は平行線のまま20分で終了。この中で橋本運輸相は戸村委員長に対し「空港用地内に土地を持っていない人とは話し合わない」と述べた[230]。
- 5月30日:成田市長選挙が行われ、保守系の長谷川録太郎が当選[253]。
- 5月31日:空港公団が日本道路公団と「東関東自動車道に係わるパイプラインの敷設及び管理に関する協定」を締結。
- 6月6日:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。
- 6月12日:千葉県収用委員会が、15件・3.21ヘクタールに対して期限を9月にした第二次収用の緊急裁決を下す[222]。三里塚平和塔は宗教施設として対象から外れる[133]。
- 6月17日:沖縄返還協定調印[81]。
- 7月5日:丹羽喬四郎が運輸大臣就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を丹羽に担当させることも決定[255]。
- 7月10日:元地権者らが設立した成田空港警備会社が時限爆弾による攻撃を受け、近隣の民家も巻き添えを食う。けが人はなかったものの、三里塚闘争での初めての爆弾ゲリラであり、関係者の殺傷を目論む悪質なゲリラとして報じられる[79]。空港建設工事の飯場も放火される[145]。
- 7月15日:千葉地裁が空港公団による「妨害物(農民放送塔・地下壕)排除」の仮処分申請を認め、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する[79][133]。
- 7月16日:ニクソン米大統領が中国訪問を予告。
- 7月26日:15日の千葉地裁認可に基づき、駒井野第16地点に建つ農民放送塔と地下壕への仮処分(敷地は買収済み[222])が開始される。青年行動隊と支援学生合同でのゲリラ活動が活発に行われ、午前3時には機動隊の車列を先導していたパトカーに農薬を転用した強力な爆弾や火炎瓶が投げつけられ、8時前に木の根地区でロードローラーが火炎瓶によって炎上させられ運転手が負傷、8時過ぎに労務者宿舎3棟が放火で全焼する[133]。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら執行通告し、撤去が開始される。なおこの時、「もっと近くで話せ」と反対派にヤジられた執行官が近寄ったところ、反対派が「黄金爆弾」を投げつけ、屎尿が直撃する。反対派はゲリラ戦法を用いるようになり、午後2時には県道の切通しで千葉県警機動隊の1個大隊が頭上から火炎瓶を集中的に浴び、即座に応援が向かって事なきを得たものの、警察は多数の負傷者を出したうえ犯行集団を1人も検挙できず[256]。立てこもる反対派が火炎瓶や石を投げるなど、30日までの5日間にわたる激しい衝突となる。逮捕者は北原事務局長を含む179人、反対派の負傷者が221人となる。農民放送塔は午後3時前にクレーンによって倒されて後に撤去されるが[79]、この日は地下壕に手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」が宣言される[133]。
- 7月27日:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」の撤去に着手。攻防で反対同盟の瀬利副委員長ら106人が逮捕、反対派の負傷者158人。
- 7月28日:炎天下で完全武装で警備する機動隊の中には熱射病で倒れる者も出始め、「地下壕」を一部残したまま作業が打ち切られる[133]。今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語る。この日の反対派の負傷者36人。
- 7月29日:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。
- 7月30日:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5人逮捕、400人が負傷。5日間の逮捕者は291人、警官の負傷者413人。地下壕の撤去が再開され、最後まで立て籠もっていた支援学生ら5人が突撃して機動隊に逮捕される[79]。反対同盟が半年の間人力で掘り進めた横穴は全長100メートルほどもあった[133]。
- 8月3日:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。
- 8月7日:成田警察署長官舎入口で黒色火薬を用いた手製の時限爆弾が爆発し、警視総監公舎玄関にも爆弾が仕掛けられているのが見つかる[79][133]。同日、7月30日の全日空機雫石衝突事故を受けて、中央交通安全対策会議が「航空安全緊急対策要綱」を決定。民間航路と自衛隊訓練空域の完全分離や民間機優先の方針が打ち出される[257][258]。
- 8月8日:千葉地裁のトイレでインク瓶に偽装し金属ナトリウムが詰められた爆弾が爆発する[79][133]。
- 8月14日-8月16日:天神峰にて屋外コンサート「日本幻野祭」が開催され、1000人以上が参加。主催は青年行動隊。出演は高柳昌行ニューディレクション・フォー・ジ・アーツ、落合俊トリオ、高木元輝トリオ、DEW、ブルース・クリエイション、阿部薫、頭脳警察、ロスト・アラーフ(灰野敬二)他。加藤登紀子が歌う武田節に合わせた婦人行動隊による踊りの披露、ゼロ次元によるパフォーマンスなど[127]。
- 8月16日:ニクソン・ショック。
- 8月18日:丹羽運輸相が反対同盟に会談を申し入れ。反対同盟は24日に拒否を表明[40][81]。
- 8月19日:空港公団が千葉港から空港までの航空燃料パイプライン輸送ルート(「水道道路ルート」)を公表[81]。本来パイプラインをその地下に埋めるはずの東関東自動車道が完成していないため、このルートでは市街地付近を経由する。これに対しルート沿いの千葉市内の団地住民らが強く反対し、建設工事が難航することとなる[127][259]。同日、山本公団副総裁が荒木和成千葉市長を訪問し、公式に協力要請[260]。空港公団は関係市町村・議会・住民にパイプライン敷設に係る説明会を実施し、協力要請を継続[54]。荒木の前任の宮内三朗とは、パイプライン建設について予め同意が得られていた[136]。
- 8月26日:国鉄湖北駅付近の無人踏切に消火器に偽装した爆弾が仕掛けられ、無差別テロの兆しが現れる[133]。
- 9月10日:千葉県警が駒井野団結小屋を家宅捜索するも、地下壕入り口がふさがれており全容をつかめず。鉄製櫓、セメント・鉄骨等の資材が押収される[133]。
- 9月11日:千葉県警が天浪団結小屋、芝山町内の支援学生拠点3ヵ所を捜索。作業所の裏山からTNTと書かれたポリ容器が発見される[133]。
- 9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される[261]。
- 9月15日:白昼の茨城大学付近で、翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。9月23日、活動家が私服刑事を告訴・告発[209]。
- 9月16日:5件6筆の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される。数百人の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊が潰走し、逃げ遅れた小隊長を含む隊員3人が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職したほか、80人以上の隊員が重軽傷を負う(東峰十字路事件)。この日の逮捕者375人[140]。佐藤栄作日記:「後藤田国警本部長官は成田でおきた学生の警官殺害事件につき詳細報告。仝時に対策。困った連中。今の処殺害された者三名、重傷者数名あり。取締方法に付き研究を要する[262]」
- 9月16日:中村寅太国家公安委員長が東峰十字路事件について記者会見し、「過激派集団の行動は警察活動に対する公然たる挑戦であり、断固とした態度で対処する」と述べる[263]。
- 9月17日:千葉県警が、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点並びに都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、凶器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。
- 9月19日:友納千葉県知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表。これを受け支援学生の主力部隊約3000人が帰京[133][264]。
- 9月20日:前日の友納千葉県知事の発表に反して、執行班が1000人の機動隊と伴に大木(小泉)よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げた所を急襲された形となり、よねは住居を撤去されたうえ、前歯を折る怪我。成田空港問題における個人住宅への強制代執行実施は、これが最初で最後となる。抗議した支援者ら90人が逮捕され、負傷者27人。形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割が闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては逆に火に油を注ぐことになった[133][140][265][266]。佐藤栄作日記:「今日で成田空港建設の代執行は終了したが、両陛下の御渡欧も近付いてきたので、暴力学生に対して圧力を加へると共に、国民の協力を積極的に求める要あり[267]」
- 9月20日:青年行動隊が主導し、学生集団が大木よね宅への「騙し討ち」への報復として同日夜から翌日にかけて工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回る[140]。
- 9月20日:第二次行政代執行が終了。代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が焼かれ、工事作業員650人が焼け出される。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両等が焼き討ちされるなどして被害総額は3億円を超える。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ2万2000人、反対派は1万2945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)[133]。
- 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3人が機動隊によって排除され、うち農民1人が逮捕される。機動隊3千人が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100人が突入。深夜、機動隊約500人が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が、無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。
- 9月27日:反対同盟が、友納千葉県知事・川上副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地方検察庁に告発する。
- 9月28日:県空港騒音対策室が民家防音現地説明会を開催[260]。
- 秋:パイプライン建設について、荒木千葉市長が山本公団副総裁に「すでに今年の一月から市民の反対運動が起きて、コースの公開、安全の確認を求めてきている。それに対応するために、専門家による安全性調査委員会を作って検討させること。地元への利益還元ということで、消防署、公民館などを作る11億円の環境整備をくれないか。その金をぜひ(昭和)47年度予算に組み込みたい。さもないと、千葉市内11キロを公示する市道占有許可は出しづらい」と述べる[136]。
- 10月1日:青年行動隊員の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺[169][268]。
- 10月2日:戸村反対同盟代表らが友納千葉県知事・川上千葉県副知事を訪ね、「自殺者が出たのは代執行を強行した知事の責任だ」と抗議[169]。
- 10月14日:長谷川成田市長が、成田空港に米軍関係施設は一切設置しないよう丹羽運輸相に要望[11]。
- 10月18日:日石本館地下の郵便局で今井空港公団総裁宛の小包が爆発し、郵便局員1人が重傷を負う(土田・日石・ピース缶爆弾事件)[169]。
- 10月19日:三里塚小学校で初の防音校舎が完成する。
- 11月14日:渋谷暴動事件。
- 11月15日:千葉市の特別委員会についてパイプライン建設についての結論を出そうとするも、学生20人がなだれ込み流会となる。学生は警察によって排除される[260]。
- 11月17日:建設中の東関道(富里-成田区間)で、橋脚にプロパンガスボンベを用いた爆弾が仕掛けられているのが見つかる。爆発は未然に防がれたものの、爆弾は橋脚を吹き飛ばすほどの威力を持っていた[169]。
- 12月1日:「新東京国際空港騒音対策委員会」が設置される[47][81][125]。
- 12月4日:パイプライン本格工事着工[81]。
- 12月8日:東峰十字路事件に関して、千葉県警の三警官殺害事件特別捜査本部が青年行動隊員ら11人を別件逮捕。以後、翌年9月まで青年行動隊員・三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ-三高協)・支援者らの連行が相次ぎ、延べ121人が逮捕される[148][260][269]。
1972年
- 1月8日:天浪共同墓地の移転契約が締結される[270]。
- 1月12日:A滑走路南側のローカライザー局舎が時限装置付き消火器爆弾で爆破される。空港の施設が爆破されたのは初めて。飛行検査妨害を目的としたゲリラであったが、影響は限定的で、飛行検査は予定通り行われる[237][260]。
- 1月13日:小川明治の遺体の改葬が行われる。天浪地区から遺体が移された後、予め遺族らと墓移転の契約書を結んでいた空港公団が、小川が納められていたコンクリートをバリケード・団結小屋ごと撤去[270]。空港公団は正規の補償額を上回る裏金を遺族らに渡していたという[269]。
- 1月14日:機動隊が守る千葉市議会特別委員会で、航空燃料輸送パイプライン埋設賛成が強行採決される。機動隊の導入は市議会始まって以来[136][259][260][271]。
- 1月15日:13日の撤去に協力した婦人行動隊副隊長であった女性を、反対同盟が糾弾[118]。
- 1月26日:午前0時、空港公団職員3人が天浪共同墓地に残された小川家の墓から遺体を掘り起こして移送。作業に当たった1人が精神に支障をきたし、後に自殺する。同日、今井空港公団総裁が「6月中の開港の見通しがついた」と発表[81][270]。
- 2月3日-2月13日:1972年札幌オリンピック。
- 2月8日:日本鉄道建設公団が、成田新幹線のルートを公表。「千葉ニュータウン駅」ができる印西町を除く沿線自治体住民らが反対運動を展開する[259][260][272]。
- 2月11日:成田新幹線の工事計画が認可を受ける[260]。
- 2月19日-2月28日:あさま山荘事件。さらにその後山岳ベース事件が知られることとなり、世間は新左翼過激派の実態に衝撃を受ける。
- 2月21日:ニクソン大統領の中国訪問。
- 2月24日:美濃部東京都知事が成田新幹線と羽田沖拡張案に反対表明[221]。
- 2月28日:反対同盟が、A滑走路南端にある芝山町岩山の畑に航空妨害を目的にした第二鉄塔(いわゆる「岩山大鉄塔」)の工事を始める[260]。
- 3月6日:飛行検査が始まり、航空局の飛行検査用航空機「ちよだ号」が空港上空300メートルを飛行通過する。その後も飛行検査が続けられたものの、反対派が設置した岩山大鉄塔などの障害物によって、ILS着陸ができなくなるなどの一部支障をきたした[194][260]。
- 3月9日:空港公団と荒木千葉市長が協定書と覚書を締結し、空港公団による11億円(昭和47年度に6億2500万円、昭和48年度に4億8720万円)の支払いが約される[136][259][260]。
- 3月12日:反対同盟の「岩山大鉄塔」が完成する。高さは62.26メートルに及び、航空機の進入表面を38.97メートルも上回っていた。
- 3月15日:荒木和成千葉市長が空港公団に市道占有許可を与え、パイプライン工事が開始される[136][259][260]。同日、山陽新幹線が開業。
- 3月17日:第2次空港整備5ヵ年計画が閣議決定され、「国際線は成田、国内線は羽田」の棲み分け原則がオーソライズされる[273]。
- 3月25日:千葉県による民家防音工事が始まる[47]。
- 3月27日:「岩山鉄塔」建設を受け、この日から予定されていた飛行検査が中止を余儀なくされる[118]。
- 3月28日:千葉県議会が夜間飛行禁止(午後10時から翌朝7時)の意見書を議決[38]。
- 3月29日[259]:戸村代表ら一行が国交樹立前の中華人民共和国に渡航[118]。各地で熱烈な歓迎を受け、周恩来首相とも面会する[259][274]。
- 3月31日:空港管理ビルが完成[38]。同日、船橋市に成田新幹線反対の住民組織ができる[260]。
- 4月4日:パイプライン工事に反対する市民7人が千葉市役所に押し掛け、高校生2人がハンガー・ストライキを行うが、警察官に排除される[260]。
- 4月10日:三里塚訪中団が帰国。「田や畑に雑草がない」「中国は道義的には世界一」と団員らは中華人民共和国をべた褒めで、人民公社の民兵を引き合いに自分の地所を自分で守る決意を述べる[274]。なお、この時の中国は文化大革命が実施されている最中である。
- 4月14日:菱田地区の山林で鉄パイプ爆弾が発見される[145]。
- 4月17日:第1回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[260]。空港建設の閣議決定では住民代表を含めて委員会を設置することとされており、運輸省・空港公団・千葉県の他、反対同盟から瀬利誠副委員長(参加資格としては芝山町森林組合役員)が出席[259][275]。
- 4月18日:空港公団が「開港延期のため1日に2100万円もの金利が流れる」とコメント[118]。
- 5月8日:空港公団がパイプライン建設実施本部を設置。「全ルートを四ヶ月で完成させる」とした[260]。
- 5月11日:友納千葉県知事が都営地下鉄と千葉県営鉄道を空港アクセスに用いることを提案[260]。(→京成成田空港線)
- 5月14日:火炎びんの使用等の処罰に関する法律施行[81]。
- 6月1日:パイプライン設置に反対する千葉市民ら2万5690人の署名で埋設許可取消しの直接請求が千葉市選挙管理委員会に提出される[260]。
- 6月12日:コンコルドがデモフライトで羽田空港に飛来[221]。
- 6月21日:千葉市民、埋設工事禁止の仮処分を申請(7月31日に却下される)[81][260]。
- 6月26日:航空燃料パイプラインの敷設工事が着工する[260]。
- 6月29日:空港公団が政府の反対により千葉市に約束した11億円が払えなくなり、進退窮まっていた大塚空港公団総裁が丸居飛行場部長に理事を派遣し、大蔵省との折衝を依頼。翌日、丸居部長が船員局長に異動となり、調整は進展せず[68]。直後に「日本列島改造論」を掲げる田中角栄が総理大臣になると、高騰する成田空港での建設費が他の地域で行われるパイプライン建設の基準になることを懸念した大蔵省・運輸省が横やりを入れ、千葉市に約束の11億円が支払われない状態が続く[259][276]。
- 7月1日:運輸相通達により、本邦社の定期航空運送事業について国際線を1社、国内線を2社に割り当てるとする45/47体制が確立。
- 7月5日:東峰十字路事件に関して、青年行動隊員12人が傷害致死罪で逮捕され、2人が手配される[118]。以降、同罪状での逮捕が続く。1972年自由民主党総裁選挙で田中角栄が勝利。
- 7月7日:田中内閣が発足。
- 7月13日:パイプライン工事の市道占用許可が期限切れとなる[260]。
- 7月28日:自民党交通部会新空港建設小委員会に出席した今井空港公団総裁が、関係者への相談が一切行われていないまま「茨城県鹿島から成田線経由で、千葉からは総武線経由で、ジェット燃料を暫定的に輸送して、(昭和)四十七年度内開港に間に合わせたい」と述べる。一部の新聞で翌日報道され、空港公団に抗議が殺到[136]。
- 7月31日:千葉地裁がパイプライン(水道道路ルート)沿線住民らの工事中止仮処分申請を却下。その際、「なぜ、このルートを選んだのか理解に苦しむ。市、(空港)公団とも住民感情への配慮が欠けている。住民と十分協議せよ」と勧告[260]。
- 8月2日:成田市に空港対策連絡会ができる[11]。
- 8月3日:今井空港公団総裁が、佐々木秀世運輸相に「パイプラインの工事の遅れで年内開港は困難」としたうえで、千葉及び鹿島から成田市土屋までの鉄道による航空燃料輸送(暫定輸送)を検討する旨を報告。代執行のために犠牲者を出した警察や緊急採決をした収用委員会の不興を買う[81][259][260]。
- 8月10日:荒木千葉市長が空港公団にパイプライン埋設工事の中止を要請[38]。
- 8月14日:今井空港公団総裁が佐々木運輸相に「関係方面の協力が得られれば、六か月間ですべての懸案を解決できる見通しなので、四十八年三月に開港すべく総力を挙げる」と報告、佐々木運輸相は「暫定措置の採用もやむをえない。明年三月開港をめどに、全力を傾注するよう」指示[136][259][260]。同日、今井空港公団総裁が鹿島港からの暫定輸送の実施を荒木和成千葉市長に説明。空港公団と密約をかわしていた消防署や公民館等の環境整備費約11億円の支払いを当てにして(空港公団の支払いが行われないまま埋設工事が進められていた)、これまで住民説得に奔走し議会に機動隊を入れてまで協力していた荒木市長は、約束を反故にされたことに激怒、佐々木運輸相に工事中止を申し入れ[259][276][277]。
- 8月15日:今井空港公団総裁に「(暫定輸送について)事前になんの協議もなく、鹿島港の利用を決め、公表したことは、遺憾であり、厳重に抗議する」との岩上茨城県知事からの至急電報が届く[136][277]。
- 8月19日:東関東自動車道の千葉-成田間が全通する。ただし、空港内の道路は強制収用の対象から漏れていた第一期工区内の大木よねの畑によって寸断されていた[118]。
- 8月24日:荒木千葉市長が佐々木運輸相に航空燃料パイプライン埋設工事計画を「水道道路ルート」から変更するよう要請。更に翌年8月には原状回復命令まで求めたため、空港公団は国会で「6000万円で埋めて5900万円で掘り返した」と追及されることとなる[260][276]。
- 8月25日:佐々木運輸相が友納千葉県知事と岩上茨城県知事に航空燃料暫定輸送措置について協力要請[81][125]。
- 8月30日:三菱重工爆破事件。
- 8月31日:千葉県警が第二次代執行での「駒井野鉄塔」撤去に関連して公団職員ら6人を書類送検。反対同盟は「殺人未遂での告訴を無視している」と反発。
- 8月末:千葉市がパイプライン建設に関して空港公団とかわした密約を暴露し、「以後、公団は相手にせず」との声明を発表[136]。
- 9月1日:成田市に空港対策室が新設される[11]。
- 9月2日:動労千葉地本青年部が、航空燃料輸送阻止を表明(6日に同地本も同様の表明)[81]。
- 9月8日:「ジェット燃料陸送に反対する成田市民の会」が結成され、タンクローリー輸送への反対活動を行う[11][81]。
- 9月16日:「第二次代執行阻止闘争一周年・青行隊奪還人民大集会」を開催。6千人の結集。騒音対策協議会(空港周辺住民が組織)がタンクローリー輸送反対を決定[11]。
- 9月17日:千葉市内で激しい反対運動が起きたことや市からの要請により、航空燃料パイプライン敷設工事が中止される。更に千葉市が市道占有許可の更新を行わず工区の原状回復を求めたことや、石油パイプライン事業法が公布され「技術基準細目」への対応を求められたことから、開港までのパイプライン完全供用の望みが潰える[277]。
- 9月20日:成田市が航空燃料のタンクローリー輸送に反対決議[11][81]。空港公団が燃料のタンクローリー輸送区間を暫定パイプラインに計画ルート変更[81]。友納千葉県知事の斡旋による2回の交渉と十数回の事務レベルの接渉を経て、空港公団が「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」と空港を軍事利用をしないことや百里基地の空域縮小等を約した『航空公害に関する交渉覚書』を締結。
- 9月22日:三里塚平和塔の遷座式[125]。東三里塚の旧三里塚ゴルフ場に移転[11]。
- 9月27日:空港公団が航空燃料輸送方針として、土屋に設けられる石油基地から空港までの輸送は暫定パイプラインを用いるが、その供用開始まではタンクローリーを用いることを決定。
- 9月28日:日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印(日中国交正常化)。
- 秋:数名の反対同盟農民が空港予定地内で有機農法を始める[38]。
- 10月2日:三里塚平和塔撤去作業を開始。撤去は11月17日に完了[38]。
- 10月3日:友納千葉県知事が県議会で暫定輸送に反対する地元の考えを支持[260]。同日、青年行動隊20人が保釈。
- 10月5日:原案の暫定輸送では市内にタンクローリーが走ることとなるため、長谷川成田市長が佐々木空港公団総裁に暫定輸送反対を申し入れ。佐々木総裁はタンクローリー区間をパイプラインに計画変更することを表明[260]。
- 10月9日:友納知事が特別立法等の騒音対策を田中首相に陳情。
- 11月14日:運輸省が翌年1月からの羽田空港乗り入れ便数凍結を発表[40]。
- 11月19日:成田市土屋開発協議会が、地元や沿線住民に迷惑をかけないことを条件に、暫定パイプライン用の貯蔵タンクと燃料積み出し施設の建設に同意し、契約が締結される。一方、沿線の山之作地区の住民らが「事前にルート住民への説明会を開く」としていた空港公団が個別訪問を行ったことなどから計画に反発[260]。
- 11月12日:東峰十字路事件第1回公判。この間、反対同盟からの逮捕者のべ139人、保釈金1350万円[209]。
- 11月25日:京成電鉄の京成成田駅-成田空港駅(現・東成田駅)区間が完成する[40]。
- 12月1日:空港公団が土屋地域開発協議会と専用線用地を燃料輸送用に併用することについて協定を締結[40]。
- 12月12日:住民らの強い要望を受け、要望第2回新東京国際空港騒音対策委員会が開催されるが、新委員18人の紹介のみで終わる[260]。
- 12月14日:A滑走路北側の航空保安施設に対する飛行検査が開始される[125]。
- 12月21日:今井総裁、年度内開港の断念を発表。
- 12月28日:第2次田中角栄内閣で佐藤文生が運輸政務次官に就任[278]。
1973年
- 1月:田中首相が佐藤運輸政務次官の報告を受け、自ら本格パイプラインの敷設計画図に線を引く。その際、田中首相は「成田は失敗だった」「この二倍ぐらいのものを作っとかなきゃダメだった」と述べたという[279]。
- 1月6日:成田用水土地改良区の設立が認可される[11]。
- 1月9日:新東京国際空港騒音対策委員会の成田地区委員が成田部会を結成[11]。
- 1月12日:空港公団が、山之作住民に対する暫定パイプライン建設の説得仲介を長谷川成田市長に依頼[11]。
- 1月20日:青年行動隊が『執念城』を発行[118]。
- 1月24日:空港公団が暫定パイプラインの埋設許可を成田市に申請するが、「工事方法・期間・住民対策などの説明がなく住民の誤解を招く」として拒否される[81]。
- 1月29日:ニクソン米大統領が米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言。
- 2月1日:第10回関係閣僚協幹事会が開催され、早期開港へのめどをつけるための関係省庁の協力と航空燃料暫定輸送体制の確立(鹿島ルートの早期整備・暫定パイプラインの即時着工)を確認。本格パイプラインの整備については、運輸省・空港公団が中心となって、関係各省及び地元地方公共団体との間で協議を進め、早急に方針の確立を図るとする[260][280]。
- 2月8日:移転農家らが成田空港転業対策協議会を結成[11]。
- 2月14日:第3回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 3月7日:暫定パイプラインについて、空港公団による安全性の保証・地区への水道敷設及び消火栓設置・ルートの一部変更が約されたことにより、山之作地区住民らが成田市の斡旋を受諾[11][260]。
- 3月12日:空港公団・成田市・山之作地区が暫定パイプラインの覚書を締結。上水道や消防設備の設置などが謳われる[282]。同日佐藤文生運輸政務次官が岩上茨城県知事を訪ね、「山之作との合意により暫定パイプラインについては着工の見通しがついたので、鹿島港使用について協力を得たい」と申し入れ。岩上知事は4条件(茨城四条件、後述)をあげて「これが解決するなら、国家的事業でもあるので協力する」と回答[277]。
- 3月23日:午前3時頃、京成成田空港線の跨線橋に仕掛けられた消火器を改造した爆弾が爆発し、橋げたに直径1メートルの穴が開くとともに付近の民家も被害を受ける。試運転の妨害を目的としたものと考えられる[145]。
- 3月28日:空港公団が成田市にパイプラインの申請を再提出し、受理される。同日、2月23日に起きた踏切事故を契機に佐原市議会が暫定輸送反対を決議[81][260]。
- 3月31日:一期地区内の施設が概ね完成する[125]。
- 4月7日:成田市議会が社会党が提案した「空港パイプラインのための市道占有許可反対」を不裁決。機動隊が導入され、審議妨害を図った学生らのうち警察官を暴行したかどで1人が逮捕される[145][209]。
- 4月14日:寺台地区の区長が、佐藤文生運輸政務次官に暫定パイプライン向け入れにあたっての要望を申し入れ[282]。
- 4月16日:佐藤文生運輸政務次官が秘密裏に研究していた本格パイプラインの新ルート(千葉港-海浜埋立地の先端-花見川河口-川底-東関東自動車道)を荒木千葉市長に提案[136]。
- 4月30日:A滑走路が完成[40][81]。
- 5月2日:運輸省・空港公団・寺台地区が暫定パイプラインの協定書を締結。国道51号の4車線化及び国道295号との立体交差化の早期実現などが謳われる[282]。
- 5月10日:空港公団が二期工事区域内の手つかずであった民家・立木・団結小屋など地上物件を対象に、土地収用法に基づく強制立ち入り調査を開始。機動隊約1000人が支援。反対派がスクラムを組むなどして対抗したため、途中で航空測量に切り替えられ、調査は2日間で終了。地上物件の収用採決申請の期限(事業認定から4年以内)が、12月15日に迫っていた[230][260][283]。同日、長谷川成田市長及び成田市議15人が、田中首相に航空機騒音対策や道路整備など空港関連事業の実施を陳情[284]。
- 5月14日:誘導路が完成[40][81]。
- 5月22日-23日:社会党県議小川国彦らを請求代表者とする「成田市航空燃料輸送の安全確保に関する条例案」について、成田市臨時市議会で徹夜の審議が行われる。傍聴席からのヤジや揚げ足取りで議事が妨害され、動員された警察官110人により傍聴人100人が排除される。野党議員6人が審議拒否し、不採択となる[260][284][285]。
- 5月25日:暫定パイプライン敷設に関する協定を成田市と空港公団が締結[47][285]。
- 5月26日:成田市が暫定パイプライン敷設工事のための市道占有許可を出す[284][285]。
- 5月30日:空港公団が成田市に「市道整備費」1億100万円を支払う[284]。
- 6月:河川法を理由に本格パイプラインの新ルートに建設省河川局が難色を示したのに対し、佐藤運輸政務次官の相談を受けた田中首相が建設省に協力を指示[136]。
- 6月4日:学生ら約40人が、空港公団が申請した農地転用を許可した芝山町農業委員会の委員長宅に押し掛け、脅迫・暴行をする。2人が逮捕[145]。
- 6月16日:鹿島・神栖・潮来の3町の10住民団体が「ジェット燃料輸送反対連絡会議」を結成[81][260]。
- 6月18日:銚子市議会で、嶋田隆市長が成田空港発着航空機の銚子上空飛行反対を表明。1970年3月のVORTAC設置時に銚子上空は飛行させないと約束した運輸省が、飛行コースに係る報道や市の問い合わせにもあいまいな態度をとり続けたことから[81][230][260][283]。
- 6月23日:暫定パイプライン敷設に関し、千葉県と空港公団が協定締結[47][125][260]。
- 6月24日:前職の寺島孝一死去に伴う芝山町長選挙が行われ、反対同盟の内田寛一行動隊長が出馬するが、空港推進派の真行寺一朗に敗れる[286]。
- 6月24日:空港反対派の小原子団結小屋で盗聴器が発見される。そのコードは条件賛成派の家に繋がっていた[209]。反対同盟は千葉県警に抗議[118]。
- 6月25日:鹿島町議会が暫定輸送反対を決議[81][125][140][260]。
- 6月27日:神栖町が暫定輸送反対を決議[81][125][140][260]。
- 7月19日:千葉市稲毛区の団地集会所で本格パイプライン敷設についての座談会が開かれ、佐藤運輸政務次官・社会党の木原実衆院議員・空港公団・パイプライン沿線住民ら100人が参加。インテリの多い住民との意見交換は専門的な質問が相次いで深夜まで及び、互いの主張は平行線をたどるが、座談会終了後に住民らに紳士的に送り出された佐藤は手ごたえを感じる[136][287]。
- 7月20日:ドバイ日航機ハイジャック事件が発生。人質解放解放までの間、佐藤運輸政務次官は現地での事件対応を余儀なくされる[287]。
- 8月1日:空港公団が成田市に騒音相談室を設置[47][125]。
- 8月10日:物件調書を作成した空港公団が地権者・関係者らに電報で通知し、調書への署名・押印を求める。北原反対同盟事務局長らが副本を持ち帰ることを要求し拒否した空港公団と小競り合いとなり機動隊100人により反対派が排除される。反対同盟の署名拒否により、成田市・千葉県(住民との摩擦を恐れる芝山町が代行を拒んだため)が代行署名。空港公団の通知により土地の存在を知り遺産を受け取れることを期待して現地まで訪れた地権者の遺族が、故人が一坪地主であったこと判明して肩を落として帰る一幕もあった[123][260]。同日、潮来町議会が暫定輸送反対を否決[81]。
- 9月1日:丸居幹一が空港公団理事に就任[288]。
- 9月17日:岩上二郎茨城県知事が田中首相を訪ね、暫定輸送問題について、(1)暫定輸送は3年間に限る(2)安全対策・住民対策の確立(3)飛行コースは鹿島工業地帯上空を避け、騒音対策を実施(4)首都圏整備法の順守 の4条件(茨城四条件)を提示[136][260][277][283]。
- 10月1日:暫定パイプライン工事の測量・ボーリング調査が始まる。その後、農地法上必要な農地転用許可申請をしていないことが発覚し、10月26日に作業が中断する[73][259][260][283]。
- 10月5日:反対同盟主催の「三里塚大政治集会」を日比谷公会堂で開催。「岩山鉄塔十万人共有化運動」が提起される[38]。
- 10月6日:第四次中東戦争勃発(第1次オイルショック)。
- 10月29日:「岩山鉄塔」付近の農道で、鉄塔防衛隊員の山口義人が機動隊員らに暴行を受けて一時重体に陥る。山口は、のちに千葉県警に対して国賠訴訟を起こし、東京高裁で1978年11月24日に勝訴[209]。
- 11月25日:内閣改造により佐藤文生が運輸政務次官の職から離れるが、成田空港問題への佐藤の働きを評価する水田三喜男政調会長の計らいで自民党内に設けられた「臨時成田空港建設促進特別委員長」のポストを宛てがわれる[136]。
- 11月6日:反対同盟代表である戸村一作が、翌年の参議院議員選挙全国区への立候補を表明[79]。
- 11月25日:徳永正利が運輸大臣に就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を徳永に担当させることも決定[291]。
- 11月30日:空港公団が県収用委員会に二期地区の収用裁決を申請。しかし、開港もままならない中、委員会は審理手続きに入らなかった[140][283]。
- 12月4日:自民党が臨時成田空港建設促進特別委員会を設置[47][125]。
- 12月17日:1971年の第二次行政代執行で自宅を強制収用された大木(小泉)よねが死去。享年66。
- 12月22日[260]:石油パイプライン事業法に基づく建設省認可を受け、成田市土屋から空港までの暫定パイプラインの埋設工事が始まる(実際の工事は翌年1月19日)。その後も立坑からの湧水や近隣民家での井戸枯れなどのトラブルが起き、その都度工事が中断する[230][260][283]。
- 12月27日:航空機騒音に係る環境基準が告示される[47][125]。
- 12月28日:空港関連業者が開港促進を運輸省に陳情。[81]
- 12月30日:「スカイライナー」用車両の京成AE形電車が、上野から成田までの暫定運転を開始[148]。
1974年
- 1月17日:今井空港公団総裁が岩上茨城県知事に暫定輸送計画の早期実現について協力要請[81]。
- 1月19日:暫定パイプライン工事が再開[73]。
- 2月13日:瀬利反対同盟副委員長が火事で自宅・作業小屋等を失う。負傷者はいなかったものの、これがきっかけで瀬利の闘志が失われたとされる[122][292]。
- 2月16日:暫定パイプライン工事の根木名川横断工区で湧水現象があり、工事中断[11]。
- 3月13日:衆議院運輸委員会で、寺井久美航空局長が社会党の金瀬俊雄議員の質問に対し、成田開港には基本的に県知事の了解が必要であると答弁[293]。
- 3月23日:徳永運輸相が、日本航空・全日空・東亜国内航空の3社に対して伊丹空港便の減便を指示[221]。
- 3月27日:騒防法が改正され、一般民家の防音工事に対する助成や空港周辺の緑地帯の整備などが盛り込まれる。同法に基づき、空港公団が住宅の騒音防止工事の助成を開始する[217]。
- 3月28日:第4回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 3月30日:名古屋新幹線訴訟。
- 4月2日:暫定パイプライン工事が再開される[11]。
- 4月20日:1972年9月の国交樹立を経て日中航空協定が結ばれ、中国民航の成田乗り入れが決まる。2年前の訪中で反対運動への中国共産党の支持を得たと理解していた反対同盟では失望が広がる[259]。
- 4月26日:暫定パイプライン工事の影響で井戸枯れや水質汚濁が発生し、使用した土壌凝固剤の安全性が確認されるまでの工事の中止を成田市が命じる(翌日から中断[11])[283][285]。
- 5月7日:千葉県土木部が暫定パイプラインの根木名川横断工事中止を命じる(翌日から中止[11])[285]。
- 5月14日:暫定パイプライン工事による被害を受けて、空港公団が成田市水道局とともに山之作地区及び寺台地区の35世帯に飲み水の給水を開始[230]。
- 5月15日:三里塚区及び三里塚商友会が、空港建設にかかわる生活環境の改善に関して市に要望書を提出[11]。
- 5月20日:銚子市議会が「銚子上空飛行コース反対、銚子ボルタック撤去」を全会一致で決議[230][283]。更に後に、革新系無所属の中里栄一市議が田中首相に直訴状を渡そうとしたり「ボルタック爆破」を唱えるなど騒動となる[260]。
- 5月23日:パイプライン工事沿線住民が「凝固剤を含んだ土の撤去と薬液注入工法の禁止」を求める仮処分申請を千葉地裁に提出[11]。
- 5月30日:芝山町農業委員会が航空保安施設建設道路用地の農地転用許可[81]。
- 7月7日:第10回参議院議員通常選挙。「世直し一揆」を掲げて全国区に立候補した戸村一作は23万票を獲得したが落選。この「選挙闘争」で、戸村陣営の運動員のべ11人が逮捕される。自民党は巨額の資金を使った選挙戦を展開したが「金権選挙」の批判を受けて苦戦し、伯仲国会となる[79]。
- 7月29日-8月9日:空港周辺地区住民健診が行われる[11]。
- 7月30日:大塚茂空港公団総裁が就任。「開港はナムサン(1976年3月)」と述べる[47][73][125][260][288]。
- 10月1日:航空局に新東京国際空港開港推進本部が設置される[47][125]。
- 10月9日:田中金脈問題を文藝春秋が報じる。
- 10月10日:反対同盟主催で「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催。5千人が結集。第四インター系の「共青同(準)武装行動隊」がデモの途中で第5ゲートから空港に突入を図り、国道296号線にバリケードを構築して機動隊と衝突。一部が丸太でゲートの扉をつくなどして空港に侵入し、警察車両1台が損傷する。警察官への体当たりや旗竿による暴行などのかどで、全体のデモと合わせて9人の逮捕者[145][253]。
- 10月25日:安全確認の末、成田市が暫定パイプライン工事再開を許可[81][260][285]。
- 10月19日:第5回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 11月1日:暫定パイプライン工事が再開[81][230][260][283]。
- 12月9日:三木内閣が発足。
- 12月18日:午前1時過ぎに朝日新聞本社に「午前2時に成田空港を爆破する」との予告電話があり空港内を捜索したところ、警備員が機内食工場裏で時限爆弾を発見。爆弾は起爆装置が二重化されているなど精巧なものであった。上赤塚交番襲撃事件で活動家が射殺された1970年以降、12月18日には連続で爆弾事件が発生しており、前年には警察幹部宅が、前々年には交番がそれぞれ狙われている[148][253][292]。
1975年
- 2月28日・4月28日:間組爆破事件。
- 3月20日:空港用地提供者らが成田空港周辺対策協議会(200人)を結成[11]。
- 3月27日:石橋反対同盟副委員長ら農民42人が、土地収用妥当性についての建設大臣宛「公開質問書」を提出[294]。
- 4月7日:暫定パイプラインが空港内給油施設と接続[81]。
- 4月9日:成田空港周辺対策協議会が早期開港を要望[11]。
- 4月27日:戸村代表の後任として成田市議会選挙に出馬した北原事務局長が当選。同日行われた成田市長選挙で長谷川録太郎が再選[11]。
- 4月13日:川上紀一が千葉県知事選挙に当選(4月17日就任)[73]。
- 4月15日:1975年東京都知事選挙で美濃部が石原慎太郎を降し3選。
- 4月30日:サイゴン陥落(ベトナム戦争集結)。
- 5月8日:日米合同委員会で「航空交通管制に関する合意」が締結され、地位協定に基づきその使用を認められている飛行場及びその周辺において引き続き米国政府による管制業務の実施が認められる[23][24][295][296]。
- 5月16日:大塚空港公団総裁が航空燃料暫定輸送についての協力を竹内藤男茨城県知事や神栖町と鹿島町の町長・議長に要請[125][260][277]。
- 5月24日:定期大会を開催した成田市職員組合が空港建設反対を掲げる成田地区労に背き、市の財政悪化を理由に「空港早期開港促進」を大会スローガンに採択[81][169][260][297]。
- 5月27日:木村睦男運輸相が航空燃料暫定輸送についての協力を竹内茨城県知事や神栖町と鹿島町の町長・議長に要請[125]。
- 6月4日:前年2月に開港促進に方針転換した成田市職員組合の委員長がサンケイ新聞オピニオン欄で「(空港関連事業への支出がかさんだ結果)職員の生活向上が望めないので組合としては開港促進を打ち出さざるを得なかった」と述べる[119]。
- 6月9日:第11回関係閣僚協幹事会が開催され、空港建設の現況と問題点(燃料輸送・妨害鉄塔・アクセス問題、騒音対策等)について話し合われる[137]。
- 6月13日:暫定輸送沿線(鹿島・神栖・潮来)住民らの連絡協議会が木村運輸相を訪問し、燃料基地建設撤回の申し入れ[260]。
- 6月30日:土屋から空港までの暫定パイプライン(約3km)が完成[119]。
- 7月12日:千葉県議会が開港促進決議[125]。
- 7月14日:木村運輸相が川上千葉県知事に、「茨城県側が暫定輸送を3年間に限定と希望しているので、千葉港-成田空港の本格パイプラインに協力してほしい」と依頼[260]。
- 7月15日:木村運輸相が竹内茨城県知事を訪ね、「茨城県が要望している四条件は、政府が責任をもって解決に当たるので、暫定輸送実現に協力してほしい」と要請。これに対し竹内知事は正式文書での回答を求める[260][277]。
- 7月20日:千葉市民が1万人余による本格パイプライン工事差止めを求めるマンモス訴訟を千葉地裁に提起[125]。
- 7月23日:長谷川成田市長ら地元代表が三木武夫首相・木村運輸相・大塚空港公団総裁に騒音対策費への国の援助と開港促進を要望。三木首相は「明るい見通しがある」と答える[125][297][298]。成田空港転業対策協議会が国や県などに対し早期開港及び救済融資を要望[11]。
- 8月18日:木村運輸相が荒木千葉市長を訪ね、本格パイプラインを巡る不手際を謝罪したうえで協力を要請。荒木千葉市長は「茨城県からの、(暫定輸送の)通過各市町村の了承取り付け作業の進捗は、どうですか?」と矛先を転じ、具体的な進展はなかった[125][260][299]。水道道路ルートのパイプライン撤去が約束され、空港公団が翌年1月16日から着手[297]。
- 8月27日:荒木千葉市長が木村運輸相に「本格パイプラインの千葉市内新ルートを政府が提案すれば検討する」と回答[277]。
- 8月28日:第12回関係閣僚協幹事会が開催され、暫定輸送について話し合われる[137]。
- 8月29日:第9回関係閣僚協が開催され、1973年9月17日に茨城県が提示した暫定輸送に係る4条件の受け入れを了承。木村運輸相からの回答書を得た竹内茨城県知事が神栖・鹿島両町長を招き、国家プロジェクトへの協力を要請。同日、「新東京国際空港への航空燃料の暫定輸送」が閣議決定。鹿島港経由の輸送期間は開始後3年以内とされる[125][137][140][260][277]。同日、社会党・動労等が「千葉ジェット燃料輸送反対連絡会議」を結成[81]。
- 9月5日:空港関係労組10組合(13300人)が、「成田空港対策労働組合連絡会」を結成し、運輸省・空港公団に早期開港を陳情[260]。
- 9月13日:成田青年会議所が空港問題に関する声明。早期開港と暫定輸送に反対[300]。
- 10月3日:鹿島町議会が暫定輸送について条件付き賛成に転換[81]。
- 10月9日:「北総農民天誅組」と書かれたビラを持つ男が成田市役所に押し入り、市職員組合委員長に2リットルの屎尿入りビニール袋を投げつける[169][297]。
- 10月11日:神栖町議会が暫定輸送反対決議を撤回して「ジェット燃料輸送条件付賛成」を決議[81][125]、他の自治体もこれに続く[260]。
- 10月12日:反対同盟が「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催し、4500人が集う(関西新空港反対同盟・茨城県鹿島町公害対策協議会、横浜新貨物線反対同盟、茨城県高浜干拓反対同盟等も参加)[260]。デモで逮捕者5人、反対派に数十人の負傷者。
- 10月17日:9日の屎尿投げつけに関し、岩山地区の農学連団結小屋に常駐していた活動家が公務執行妨害容疑で逮捕される。活動家は完全黙秘を貫き、11月1日に処分保留のまま釈放される[169][297]。
- 11月27日:大阪空港訴訟で、大阪高裁が伊丹空港の夜間利用差し止め等を認める判決[301]。
- 12月:瀬利反対同盟副委員長が、団結小屋や公民館に提供している箇所を除き、土地をすべて空港公団に売却[122]。
- 12月10日:会計検査院が昭和50年度決算検査報告書の中で、「特に掲記を要すると認めた事項」として新東京国際空港の開港の遅れなどについて指摘[302][303]。
- 12月12日:10月の屎尿投げつけでの学生逮捕に抗議する街宣車が職質を掛けようとしたパトカーに接触し、運転していた学生が逮捕される[145]。
1976年
- 1月8日:運輸省が新東京国際空港4000メートル滑走路についての騒音区域の指定を告示[47]。同日、岩波鉄塔撤去の工事が近いと考える反対同盟が岩波鉄塔で新年会を開き、結束を誓う[304]。
- 2月4日:アメリカ上院議会の公聴会でロッキード事件が発覚。
- 2月6日:第6回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[40]。
- 2月10日:機動隊員の宿舎建設着工。
- 2月15日:芝山町議会選挙が行われ、瀬利反対同盟副委員長が3選[304]。
- 2月18日:岩波鉄塔撤去の動きを察知した反対同盟が鉄塔前の産土参道にバリケードを築く[188]。また、反対同盟はこの他に第2鉄塔に空中団結小屋を設置するなどして鉄塔撤去への対抗策を講じる[304]。
- 2月22日:廃校となった岩山小学校跡に3500人が集まり、「鉄塔撤去道路建設阻止緊急現地総決起集会」が開かれる[304]。
- 2月25日:空港公団が岩波鉄塔撤去のための道路建設工事(名称は「航空保安施設建設用道路」、通称C工区)を再開。バリケードを撤去しようとする機動隊と防衛する反対派が衝突し、機動隊14人と学生ら39人が負傷。48人が逮捕される[188][304]。
- 3月:空港公団が、小泉(大木)よねが耕作していた農地を登記上の土地所有者から買収[148]。
- 4月5日:四五天安門事件。
- 4月20日:読売新聞が瀬利反対同盟副委員長の土地売却を報道[122]。
- 4月27日:香山新田地区に残る唯一の農家でもある瀬利副委員長が空港公団に土地を売却していたことが判明し、反対同盟幹部会は瀬利を除名。瀬利は反対同盟の決定に従い、芝山町議員も辞職[204]。「なぜ事前に事前に相談してくれなかったのか」との戸村代表の問いに瀬利は「相談しても聞いてもらえたでしょうか」と答えるのみだった[304]。八街町へ移転した瀬利が闘争用に残した土地は、熱田一に移転登記される[204]。副委員長脱落の事態を受けた反対同盟は、空港公団との個別交渉の禁止や用地内外の住民の交流を深めることに加えて、新たに団結小屋3戸を作ることを決定[304]。
- 5月25日:大塚空港公団総裁が「日仏空港シンポジウム」の席上で、暫定輸送・鉄塔の問題から1976年度内の開港が事実上困難になったと言明[304]。
- 6月:「三里塚微生物農法の会」が発足し、有機農法に対する取り組みが反対同盟内に広まる[38]。
- 7月20日:空港公団が鹿島石油と暫定輸送に係る協定を締結[40]。
- 7月21日:関係閣僚協幹事が航空燃料暫定輸送(鹿島ルート)に係る協定について了承(情報漏えい防止のため、幹事会は省略)[305]。
- 7月22日:航空燃料暫定輸送(鹿島ルート)について、茨城県と地元3町(鹿島町・神栖町・潮来町)が運輸省の協定書に調印。調印書には東関道鹿島線の早期開通や国鉄鹿島線を水戸まで延伸などの地元要望も含まれていた。地元要望の58項目をほぼ丸呑みした形[40][79][292][304]。
- 9月1日:成田青年会議所が、成田市民の過半数が現状での開港に反対とするアンケート調査結果を発表[140][304]。
- 9月3日:航空燃料輸送に関して茨城県側が獲得した見返り対策に比べて成田市への対策が不十分なことに不満を持った自民党の大竹清県議が、騒音対策などが解決されない限り開港を認めないとするチラシを配布。成田空港転業対策協議会などが、早期開港を望んでいるにも関わらず勝手に名前を使われたとして抗議[140]。
- 9月6日:ベレンコ中尉亡命事件。
- 9月9日:毛沢東死去。
- 9月25日:三里塚微生物農法の会・ワンパックグループが、有機栽培による野菜の産地直送を始める[38]。
- 10月1日:政府が第3次空港整備5ヵ年計画(昭和51-55年度)を決定[47][125]。
- 10月3日:エプロンが完成。同日、「十月集会」が三里塚で開かれ、デモ隊と機動隊が衝突。水俣病患者協議会副会長の川本輝夫を含む62人が逮捕される[145][304]。
- 10月6日:中華人民共和国での文化大革命が正式に終了(四人組失脚)。
- 10月10日:航空灯火が完成。
- 10月12日:空港内の給油施設が完成。
- 10月21日:暫定輸送用鹿島基地施設工事着工[47][125]。
- 10月25日:暫定輸送(鹿島ルート)の千葉県側沿線自治体(佐原・成田・神崎・下総)が、共通の受け入れ条件11項目(化学消防車配備・踏切整備・東関道延伸・水郷大橋4車線化 等)を運輸省・空港公団に提出。更に佐原市が国鉄駅舎・駅前広場の整備、下総町が騒音区域の拡大、神崎町が踏切拡幅等を求める。成田市の要望は項目が多いため翌年持越し[169][292]。
- 11月8日:川上千葉県知事が、石田博英運輸相と会い、(1)東京湾岸道路の整備(2)国鉄成田駅と国道51号を結ぶ連絡道路完成(3)成田市内の国道51号4車線化(成田拡幅)(4)国鉄成田線、佐倉-成田間の複線化(5)国鉄成田駅の橋上化 といった、28項目の要望書を提出[83][292][304]。
- 11月2日:英仏政府がコンコルドの製造中止を発表[221]。
- 11月25日:空港公団が騒音区域に係る住宅移転対策について基本方針決定[40]。
- 12月:国鉄動力車労働組合(動労)の中央委員会で、動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争を緊急動議、可決される[163]。
- 12月5日:第34回衆議院議員総選挙(ロッキード選挙)。自民党の公認候補当選者数が衆議院での過半数割れ(結党以来初)。この選挙結果を受け、三木首相は退陣を表明(三木おろし)。
- 12月20日:岩波鉄塔周辺に住む反対派農家12戸と鉄塔撤去を急ぐ空港公団とで秘密裏に進めていた移転交渉が妥結(25日調印)。"集団脱落"は代執行後初めて[40][148]。
- 12月22日:成田市議会が「成田市航空機公害防止条例」を可決。航空機公害に絞った条例は全国初。内容について千葉県が地方自治法違反の疑いを指摘したが、条例はそのまま翌年1月1日に施行[148][304]。
- 12月24日:福田赳夫内閣が発足。福田首相は「さあ、働こう内閣だ」と述べ、歴代内閣の懸案事項解決に意欲。
- 12月28日:福田首相が田村元運輸相に「君の仕事は成田だよ。来年の内政の目玉だからね。つぎの閣議で経過報告してくれよな」と伝える[306]。
1977年
- 1月8日:福田内閣への念押しとして、川上千葉県知事が田村運輸相に前年11月8日に提出した28項目の要望書(「新東京国際空港の開港にあたっての要望書」)を再提出[292][307]。
- 1月11日:田村運輸相が閣議で「順調にいけば、秋ごろには開港できる」と報告。福田首相が「建設開始から十余年がたつのに、工事が進まないのは困る。関係省庁が協力し、地元ともよく相談して、早急に開港させてほしい」を指示[286][306][308]。この席上で前運輸相の石田博英労働相が、「大蔵省が(空港公団が荒木千葉市長に約束した)11億円の対策費を渋ったため、今では400億円でも解決できなくなった」と発言し、元大蔵事務次官の鳩山威一郎外務相が「みなさん私の方ばかりジロジロみないで」という[309][310]。反対派は緊張を高め、鉄塔問題・暫定輸送問題・飛行検査・完熟飛行・ノータム(航空情報)発出・燃料備蓄等の課題が山積する関係官庁や空港公団は解決に躍起になる[304]。
- 1月14日:川上千葉県知事が県選出自民党議員らとともに福田首相に28項目の要望書を重ねて提出。空港対策の観点からも交通問題を万博並みの突貫方式で解決することを訴える川上知事に対し、福田首相は「地元の意向はよくわかった」と答えた後、同席する田村運輸相に「千葉県だけにまかせず、国が責任をもってやれ」と発破をかける[292]。この際、道正邦彦官房副長官に「これが全部満たされなくては開港に同意できない、ということでしたら、総理に合わせるわけにはいかない」と釘を刺された川上知事は、国が本気で開港を目指していることを悟る[286]。
- 1月15日:過激派が真行寺芝山町長宅を襲撃、発煙筒を投げ込んだうえ、鉄パイプ等で自動車や玄関を損壊。これを受けて自宅前に臨時派出所が設置される[145][304]。
- 1月17日:1年8か月ぶりに関係閣僚協が開催され(決裁上の名称は単に「会合」[307])空港問題について協議。出席した福田首相が「東京オリンピックのときのように、一致協力して、年内には一番機を飛ばせてほしい」と意欲を示し、長谷川四郎建設相は「懸案の東京湾岸道路は、突貫工事を指示、五十二年度末の目標を繰り上げ完成させる」、小川平二自治相は「地元対策には万全を期す」、坊秀男大蔵相も「予算的措置には責任を持つ。今の東京湾岸道路の追加支出については引き受けた」と積極的な発言が相次ぐ。最後に、出席した福田首相が「有言実行を唱える福田内閣がこう言った以上は実現しなければならない」と檄を飛ばす。これまでに閣僚協に首相が出席した事例は少なく、成田開港に対する福田の決意の現れであった[286][304][306][308]。
- 1月19日:「岩山鉄塔」の西側まで撤去用道路(D工区)を伸ばす工事が着工する。工事を防衛する機動隊3500人と投石を行う支援学生ら1000人が対峙し、2人が逮捕。以降も機動隊の警護と反対派との衝突が続き、工事が終わるまでに機動隊は延べ約5万人が出動し、逮捕者は11人に上る[292][304]。
- 2月4日:パトロールをしていた青年行動隊2人が「道交法違反」で逮捕される。
- 2月6日:「鉄塔防衛全国総決起集会」開催[304]。
- 2月10日:成田市が開港を認める条件として45項目もの要望を運輸省と空港公団に提出。前年11月8日に川上千葉県知事が運輸省に出した28項目と重複するものも多かったが、「納得できない回答ならこれまでの開港に協力した態度を改める」と強気の姿勢[292][311]。
- 2月20日:千葉市内での三里塚集会でデモの際3人逮捕。
- 2月21日:「岩山鉄塔」の周囲を公団が鉄条網で封鎖する工事を開始。抗議した1人が逮捕。
- 2月24日:共同通信会館の空港公団本社トイレ内で警備員が不審な段ボールを調べたところ、突然火を噴きだす。すぐに消し止められけが人はなかったが、空港公団本社を狙うテロは初。27日に三里塚で開催された反対派集会で革労協が犯行を認める[188]。
- 2月27日:空港公団副総裁宅で時限式発火装置が作動。中核派が犯行声明[145]。
- 3月8日:「岩山鉄塔」防衛隊員1人が逮捕。
- 3月9日:芝山町が開港の条件として(1)夜間早朝の飛行禁止(2)京成電鉄空港線の芝山延伸(3)平行・横風滑走路の騒音対策実施等 11項目を運輸省・空港公団に提出[194][304]。
- 3月11日:大栄町で機動隊に擬装した革労協がD工区の工事現場に向かっていたダンプカーを停止させて放火。運転手は無事だったが車は全焼[194][304]。
- 3月15日:第1旅客ターミナルビルが完成。
- 3月29日:芝山町の朝倉地区で捜査中の私服警官が過激派に暴行される[145]。
- 4月8日:東峰十字路事件で指名手配となり5年間逃避行を続けていた容疑者が、千葉市内で記者会見を開いて「権力側がいつまでも逮捕しに来ない。一度つかまってから反対闘争に再登場する」と語り、再び姿を消す[312]。
- 4月9日:前日に記者会見を開いた容疑者が東峰地区の仲間宅を訪ねたところを逮捕される[312]。
- 4月13日:成田市内の暫定パイプラインの制御監視塔が火炎瓶で襲われる[145][304]。
- 4月17日:「鉄塔防衛全国総決起集会」に闘争史上最大の2万3千人(警察発表では1万1750人[275])が結集。「三里塚で内乱を起こす。それは暴動だ」と挨拶した戸村反対同盟代表は「異議なし」の大歓声に包まれる[304]。代表デモで逮捕者7人。反対派の負傷者100人以上。革マル派は水本事件とも関連付けて京葉道路に重油を撒くなどの集会への妨害活動や批判を行い、革労協が集会中に浦和車両放火内ゲバ殺人事件の犯行を認めるビラを配布[275]。機動隊5000人が動員され警戒に当たる[275]。
- 4月18日:17日のデモの件で団結小屋4ヶ所に家宅捜索。これに対し、反対同盟は21日に告訴を発表。
- 4月25日:運輸省・千葉県・千葉県側自治体(佐原市・成田市・下総町・神崎町)が、暫定輸送(鹿島ルート)に関連する協定書に調印。国は十分な安全対策に加えて道路整備促進(東関道鹿島線・国道51号線・国道356号線バイパス)や成田線の利便性向上に努めることを約し、自治体の首長らは必要な用地取得等について住民の協力が得られるよう努めるとされる[125][169][304][307]。
- 4月26日:岩山鉄塔を補強・要塞化する工事が始まる[304]。
- 5月1日:D工区工事が終わり、岩波鉄塔撤去までの作業道路が完成[148]。
- 5月2日:空港公団が岩波鉄塔を航空法違反建造物として撤去仮処分の申請を千葉地裁に行う[148]。
- 5月4日:千葉地裁が岩山鉄塔撤去仮処分を決定。
- 5月6日:午前3時に機動隊が「岩山鉄塔」を急襲して宿泊していた支援学生ら7人を排除し、航空法違反物件の現場検証を行う。午前5時頃に支援学生ら120人が規制線の突破を試みるが、機動隊は約20発の催涙ガス弾や放水を用いて寄せ付けず。午前8時38分に仮執行が出されて撤去作業が開始され、2基ともに撤去される。マスコミの監視が減るゴールデンウイークの日並びや新聞休刊日も考慮して綿密な作戦が立てられ、田村運輸相にも当日実施が伝えられるほど徹底した秘密保持の下で、2500人の機動隊や格納庫に隠匿していたクレーン車5台が動員されて行われた撤去であった。16人が逮捕。反対派の負傷者33人。町田直空港公団副総裁は記者会見で「一人のケガ人も出ない方法としては、こういうやり方が一番よかった。批判は覚悟しているが、国民も納得してくれると思う」と語る。反対同盟は、「仮処分」に対する「異議申し立て」を提出する。報復として、共同通信会館の空港公団総裁室に鉄パイプで武装した中核派3人が乱入して逮捕される事件が同日発生した他、空港周辺では8日まで火炎瓶を用いた放火ゲリラが相次ぐ[230][286][304][313]。革マル派は「権力とのなれ合い」と反対同盟を批判[149]。
- 5月6日:北原反対同盟事務局長が鉄塔抜き打ち撤去抗議集会の8日実施を届け出、県警は県公安条例で定められた期限を満たしていないとして不許可[304]。
- 5月7日:「岩山鉄塔」撤去への"抗議行動"(投石、アウターマーカーや航空保安協会研修センターへの火炎瓶投擲、空港ゲート襲撃等[145])で、25人逮捕[314]。同日、飛行検査が開始され、運輸省のYS-11型検査機「千代田号」が初めて空港に降り立つ[230]。同日夕、無届の集会が空港ゲート近くの芝山千代田で開催されることを懸念した県警が方針転換し、戸村代表・北原事務局長の家に近い三里塚第2公園での開催であれば8日の集会を認めることとしたが、反対同盟に伝わらず[304]。
- 5月8日:芝山千代田で「岩山鉄塔」撤去抗議集会が開催された結果、機動隊との大規模衝突となる(いわゆる「5.8戦闘」)。反対同盟の「野戦病院」の前でスクラムを組んでいた支援者の東山薫が、機動隊員が水平撃ちしたガス弾を受け重傷、2日後に死亡(東山事件)。衝突で逮捕者33人のうち15人に殺人未遂罪。負傷者327人うち入院3人[230][304]。翌日にかけて千葉中央署の宮野木派出所・石神井署西大泉派出所・空港第8ゲート警備員詰所・芝山町長宅前臨時派出所が連続で襲撃される[145]。
- 5月9日:「東山君虐殺糾弾対運輸省行動」で1人が逮捕。同日、芝山町長宅警官詰め所を過激派集団が火炎瓶等で攻撃。重体となった警官1人が21日に死亡[230][304]。前日の報復と見られるが、犯行声明などはなく犯人未逮捕のまま時効が成立(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。
- 5月9日:田村元運輸相が荒木千葉市長と航空燃料輸送問題について会談[299]。
- 5月11日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋9ヶ所を家宅捜索。同日、千葉市内で反対派によるデモが行われ警官を旗竿で突くなどの小競り合いがあり、反帝学評系の女性活動家1人が捕まる[145]。交通安全対策特別委員会で共産党の山中郁子などの質問を受けた鉄道監督局長の住田正二が、成田へのアクセスの基本計画は依然成田新幹線である旨を答弁[315]。
- 5月13日:東山薫の両親が、浅沼清太郎警察庁長官ら5人を「殺人」などで千葉地方検察庁に告訴。ストッキングで覆面した男5人が、空港公団土屋資材置き場に火炎瓶3本を投げつけ、盗難車で逃走[286][304][316]。
- 5月14日:田村運輸相・荒木千葉市長・佐藤文生・航空局幹部が、航空燃料輸送問題について会談。千葉市側からの"見返り"として提示された、京葉線の輸送力増強・踏切立体化・千葉駅裏再開発・西千葉気動車区跡地の市への移管・モノレール計画等が話し合われる。田村運輸相はその場で建設省道路局長に電話し、京葉道路に併設される国道16号整備への補正予算捻出に同意を取り付ける。荒木市長はこの日行われた記者会見で、「人口過密地帯である千葉市内の貨車輸送は大きな危険を伴うだけに、他の市町と同じわけにはいかない。暫定輸送を認めてほしい、と公団が望む以上は、踏切の立体交差などあらゆる麺で十分な対策を盛り込んだ条件を示すべきだろう」としたうえで「その場合は交渉に応じないわけにはいくまい」と述べていた。同日、東山薫の反対同盟葬が行われ、約千三百人が参列。午後9時半頃、高速道路から警視庁第一機動隊の庭に火炎瓶3本が投げ込まれる。革労協が「大鉄塔抜き打ち撤去、東山君虐殺を強行した権力への反抗としてやった」と事実上の犯行声明[299][317][318]。
- 5月15日:沖縄県米軍基地内の「反戦地主」の土地が使用期限切れになるこの日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ5・15中央集会」が開催される。1万5千人の結集(警視庁調べでは5900人)。公務執行妨害などで逮捕者12人。戸村代表が「三里塚農民は十二年間、沖縄農民も古い歴史の中で闘ってきた。東山君は、権力の弾丸で殺された。しかし警察は卑怯にも、正当防衛だとして譲らない。武装でわが身を固め、世界革命に向かって進もう」とあいさつ[318]。
- 5月18日:ストッキングで覆面した戦旗派の活動家4人が成東署横芝幹部派出所に火炎瓶を投げ込み逃走するが、銚子署に緊急逮捕される[145][304]。
- 5月19日:佐倉市内のVORに火炎瓶が投げ込まれる[145]。
- 5月24日:パイプライン工事を差し止めていた荒木千葉市長が急死[299][304][319]。
- 5月25日:中核派が、ミドルマーカー前の警備員詰所に火炎瓶を投擲[145]。
- 5月28日:千葉県警が、6日から8日までの衝突の件で団結小屋18ヶ所を家宅捜索[304]。
- 5月29日:「東山君虐殺糾弾集会」に1万8千人(公安調査庁推計では約8300人)の結集。デモで一部過激派による火炎瓶投擲や投石が行われ、逮捕者71人。反対派の負傷者79人。反対同盟及び新左翼各党派が革マル派の永久追放を決議[145][149]。同日、中核派が東関道成田インター付近を走行中のパトカーに火炎瓶を投擲したほか、革労協が東関道を走行中の機動隊の車列に無人乗用車を突入させる[145]。遊説先での記者会見で成田開港のスケジュールを問われた福田首相が「成田空港の開港は、ひょっとすると年内から年度内にずれこむかもしれない」と発言。園田直官房長官は、「首相は、千葉市長の急死もあり、一つの安全弁として発言しただけで、年内開港の政府方針には少しも変わりはない」と釈明に追われる[320]。
- 6月3日:佐倉市・四日市町・酒々井町と空港公団が航空燃料暫定輸送について合意[47][125]。
- 6月15日:東山薫の両親が、千葉地裁に国や千葉県を相手取り損害賠償を求める民事訴訟を起こす[286][304]。
- 6月28日:運輸省・千葉県・市原市が暫定輸送に係る協定書を締結。十分な安全対策に加えて国道16号と国道297号の改良整備促進に努めることが約される[307]。
- 7月10日:芝山町内の航空保安協会研修センターが放火されたうえ、路上に釘がまかれる[145]。
- 7月12日:市原市と空港公団が航空燃料暫定輸送で合意[47][125]。
- 7月20日:暫定輸送用鹿島基地施設完成[47][125]。
- 7月24日:空港第5ゲートが襲撃され、火炎瓶50本が投げ込まれて警察車両1台が炎上したほか、ローカライザーや三井建設宿舎警備員詰所も襲撃を受ける[145][304]。ジャンボ飛行阻止闘争に10,950人の結集。デモで5人逮捕。
- 8月6日:銚子・守山のVORがそれぞれ時限式発火装置による襲撃を受け、黒ヘルメット姿の過激派がアウターマーカーを襲撃(未遂)[145]。
- 8月7日:日本航空のボーイング747を用いた第一次騒音テスト飛行実験が行われ、飛行コース下や周辺地区で空港公団や自治体による騒音測定が行われる。初の大型機による成田空港離着陸。この日から9日まで、反対同盟が三日連続でアドバルーンや風船を掲揚するなどの飛行阻止闘争を展開し、過激派によるアウターマーカー襲撃や警察部隊への火炎瓶投擲等が相次ぐ[127][145][304]。3日間で10人の逮捕者。
- 8月9日:田村運輸相と川上千葉県知事の1回目のトップ会談が行われる。川上知事は、前年11月8日に掲げた28項目の中でも(1)東京湾岸道路開通、(2)成田駅から国道51号までの取付道路建設、(3)国道51号の成田中心部4車線化、(4)空港周辺土地利用法(後の特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法)制定、の4点を開港の絶対条件とする[286]。
- 8月10日:中核派が、騒音テスト飛行を請け負っている日本航空常務の自宅を放火[145]。
- 8月22日:進入表面等の制限表面を逸脱する、岩山地区にある四所神社の御神木伐採が完了[321]。
- 8月23日:田村運輸相と川上千葉県知事の2回目のトップ会談が行われる。川上知事が開港の絶対条件の1つとした国道51号拡幅が間に合わないため、新勝寺の初詣客と空港利用者による市内での大渋滞発生を懸念した県側が応じず、年内開港断念が事実上決まる[127][286][304]。
- 8月29日:空港公団が、航空法第四十二条一項に基づく工事完成検査の申請(空公空計第一〇三号)[321]。
- 8月31日-9月3日:運輸省による完成検査[321]。
- 9月3日:田村運輸相と7月に千葉市長に就任した松井旭が、航空燃料輸送問題について会談[125][304]。
- 9月14日:見返り条件を運輸省が呑んだこと等から、沿線自治体の中で最後まで認めていなかった千葉市が運輸省・空港公団との協定書に調印し、千葉ルートでの暫定輸送が認められる。国は、総武本線と外房線の立体交差整備促進や総武本線の利便性向上に努めること、西千葉気動車区跡地の有効利用を国鉄に指導することを約す。約6年を要した暫定輸送計画をめぐる関係市町村との協議が終了する[47][125][140][299][307][322]。
- 9月16日:真行寺一朗芝山町長が田村運輸相と会談し、京成電鉄の芝山延伸を強く要望。田村運輸相から京成電鉄が難色を示していることから第3セクター方式が提案され、この他にも航空科学博物館建設と民家防音対策が約束される[194][323]。
- 9月28日-10月3日:ダッカ日航機ハイジャック事件。
- 10月1日:田村運輸相と川上千葉県知事のトップ会談が行われ一応の決着がつき、年度内開港の目途がつく[304]。
- 10月7日:革労協が空港第5ゲートに火炎トラックを突入させる。中核派が二期工事事務所を放火し、建設機械を破壊する[145]。
- 10月9日:反対同盟主催の「全国総決起集会」に2万2千人の結集。同日、警備員詰所や空港変電所が襲撃され、警察部隊に火炎瓶が投擲される[145]。
- 10月14日:田村運輸相・中村大造運輸事務次官・佐藤文生らが都内のホテルの一室で会合し、開港日を3月末の大安にすることとする[299]。
- 10月23日:大子町内のVORが放火される[145]。
- 11月11日:銚子市議会全員協議会が、(1)市街地上空飛行を原則的に避ける(2)国は航空機の飛行により電波障害が生じたときは誠意を持って対処する等の県の斡旋案の受け入れと上空飛行の了承を賛成多数で決定し、上空飛行反対決議が事実上失効[83][125][286]。
- 11月12日:川上千葉県知事が田村運輸相と面会し、千葉県としての年度内開港同意を表明[83][125][321]。
- 11月16日:田村運輸相が住民の反対で頓挫している成田新幹線計画の代替として、都営地下鉄(東京-押上)・京成電鉄(押上-高砂)・北総開発鉄道(高砂-小室)・公団鉄道・成田新幹線ルートを繋ぎ、40分で東京駅と新空港を接続する「成田高速鉄道構想」を発表(現在の京成成田空港線に相当)[83][324]。
- 11月18日:銚子上空飛行問題について、運輸省の覚書に川上千葉県知事と嶋田銚子市長が署名[299][304]。
- 11月25日:田村運輸相が開港日を翌1978年3月30日とする旨を閣議で報告し、了承を得る[125][299]。
- 11月26日:午前、自民党交通部会・空港建設促進特別委員会の合同部会に川上千葉県知事ほか関係者が出席し、田村運輸相の報告を受け、これを了承。午後、田村運輸相が空港・航空本無線施設・航空灯火の完成検査の合格通知を大塚空港公団総裁に手交し、大塚総裁は供用開始の期日(1978年3月30日)の届け出(空公計第一三六号)を田村運輸相に提出[321][325]。同日、空港公団が、手続きミスで強制収用されずに第一期工区内に残っていた大木(小泉)よねの農地(よねの死後、活動家の養子夫婦が相続)について、千葉地裁に明け渡しを求める仮処分申請[321]。空港管理ビル近くにあるこの農地は、空港内の新空港自動車道上り線を約40メートル遮断していた[148][321]。
- 11月28日:田村運輸相の署名により、運輸省が新東京国際空港の完工と1978年3月30日開港を告示。同日、内閣改造が行われ、福永健司が運輸大臣となる。なお、内閣改造に加えて臨時国会会期末にあたったため、関係閣僚協議会を経ずに決定[83][299][307][321]。
- 11月30日:山田町内のARSRが放火される[145]。
- 12月6日[38]:全国から集まった一億円のカンパで、航空妨害を目的とした「横堀要塞」の建設が開始される。
- 12月2日:国鉄がジェット燃料輸送計画と翌年3月1日からのダイヤ改正を発表[148]。
- 12月3日:動労千葉地本が暫定輸送に反発し、管内での3日間の順法闘争を開始。意図的な減速運転を行うなどして総武線などでダイヤが大幅に乱れる。動労千葉地本は百日間闘争と称してその後も妨害活動を継続[73][148][163]。
- 12月3日:ICAO(国際民間航空機関)及び関係50ヵ国に対し、新空港に関わるノータムが発出される[83][125][286][304][321]。
- 12月20日:成田空港での管制業務が始まる[73]。
- 12月21日:住民からの騒音テストやり直しの強い要望を受けて、DC-8とDC-10を用いた2回目の騒音テストが行われる[304]。反対派が気球浮揚・火炎瓶投擲等の騒音テスト飛行阻止闘争を展開。逮捕者6人[145]。
- 12月22日:日本航空が成田空港の慣熟飛行を開始(1972年2月22日まで約40回実施)[38]。反対派による火炎瓶投擲が相次ぎ、元地権者が経営するホテル(ホリデイ・イン成田)も標的となる[145]。
- 12月26日:千葉地裁が、大木(小泉)よねの養子が耕作している農地について、土地の所有権を取得していた空港公団が前月に行った申し立てを認め、仮処分が実施される。養子一家は藁小屋に立てこもるが、最終的に自主退去[148][321][326]。
1978年
- 1月1日:航空燃料輸送パイプラインの保安施設が襲撃され、警備員2人が暴行される[145]。
- 1月20日:運輸省と空港公団が本格パイプライン計画(花見川ルート)を提示し、千葉県・千葉市・成田市・富里村・酒々井町・佐倉市・四街道町に協力要請[81][125]。
- 1月22日:「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」が、現在の「成田空港から郷土とくらしを守る会」に名称変更する[327]。
- 2月1日:美濃部東京都知事が、羽田空港の滑走路を減らして沖合へ移転する案を提示し、羽田を引き続き国内線専用とするよう運輸省に要望[254][328]。
- 2月4日:反対同盟の「横堀要塞」が4階建てに増築され、航空法で定められた制限表面を超過する。翌日、空港公団が航空法違反の警告及び告発[38][241]。
- 2月6日:航空法49条違反の刑事案件として、機動隊が「横堀要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する(第一次「横堀要塞」事件)。機動隊の高圧放水やガス弾などで「要塞」に立て空港反対派の排除を試み、反対派は約560本の火炎瓶投擲や、スリングショットなどで対抗。機動隊は夜10時に篭城していた反対同盟農民6人を含む41人を逮捕。更に周辺での衝突で4人が逮捕される[241]。第2ゲートが襲撃され、警備車両1台が炎上した他、警官2人が重軽傷を負う[145]。
- 2月7日:「横堀要塞」に残っていた4人の支援者は零下7度の中で抵抗したが、夜10時に青年行動隊員による「勝利宣言」の呼びかけによって投降(立て籠もり犯の1人が衰弱しており、機動隊は全員投降しか受け入れないとしたため[329])、逮捕される。4人全員が手足に凍傷を負っていた。2日間の衝突で逮捕者49人[145]。反対派の負傷者10数人、警察官の負傷者23人。鉄塔は翌日撤去。
- 3月1日:「横堀要塞」前で「ジェット燃料輸送実力阻止現地総決起集会」が開催され、「無制限ゲリラ」による「3.26~4.2開港阻止決戦」の方針が打ち出され、反対同盟は「3月開港阻止決戦突入」を宣言。「横堀要塞」付近の検問で反対派2人が逮捕。当日は鹿島ルートでの暫定輸送が開始される予定であったが、反対同盟と連帯する動労千葉地本が半日ストを行い、翌日からの実施となる[330][331]。
- 3月2日:沿線を5000人の機動隊が警戒する中、鹿島ルートでの暫定輸送が開始される[241][330]。
- 3月11日:中核派が東関道に火炎トラックを突入させる[145]。
- 3月13日:成田線踏切で燃料輸送列車に火炎瓶トラックが突っ込む[73][145]。
- 3月17日:千葉ルートでの暫定輸送が開始される[330]。同日、成田線への倒木による妨害があり、貨物列車が運休する[145]。
- 3月20日:東山事件で死亡した東山薫の両親による刑事告訴が「死因はガス弾ではなく投石と認められる」として千葉地検により不起訴処分となる[286]。同日、燃料パイプライン保安施設が襲撃され、線路への鉄片放置による燃料輸送列車妨害が発生[145]。
- 3月23日:機動隊が、反対派の「開港阻止決戦」に備えて、1万4千人の配置をほぼ終える。反対派2人が検問で逮捕。
- 3月25日:反対同盟が再度「横堀要塞鉄塔」を構築、翌日の空港攻撃においてこれが機動隊への囮となる。空港公団が空港法違反で2度目の告発[38]。
- 3月26日:開港4日前の成田空港を新左翼党派ら約4千人が襲撃、更に排水溝に潜んでいた15人の行動隊が空港管理ビルに突入して管制塔を占拠し、通信機器を破壊(成田空港管制塔占拠事件)。逮捕者115人。騒乱の中で襲撃に参加していた活動家である新山幸男が、火炎瓶の引火に巻き込まれて火だるまとなり、全身火傷を負う。空港施設が破壊され開港延期を余儀なくされる事態となり、政府・関係者に大きな衝撃を与える[217][326]。この日の衝突の様子を撮影した三上貞幸が、翌年の世界報道写真大賞を受賞する[332]。
- 3月28日:閣議で3月30日開港延期が決定する[217]。福田首相は「世界に申し訳ないことになった」と語る。
- 3月28日:航空法違反として、「横堀要塞鉄塔」が撤去される(第二次「横堀要塞」事件)。要塞にたてこもる約100人が、火炎瓶や石などを投擲して前日から激しく抵抗。逮捕者51人。
- 3月29日:中核派がホテル日航成田を火炎瓶で襲撃[145]。
- 4月:桜田武日本経営者団体連盟会長・土光敏夫日本経済団体連合会会長・中山素平・秦野章らが「佐藤内閣が三里塚に空港を作るという判断をしたことは、戦後、最大の失策である」「日本の世の中があまりよくないということもよくわかっている。しかし、焼け野原のなかから何とかみんなが腹一杯食べて寝ることができるように仕上げてきたつもりだ。多少の矛盾は我慢してほしい」「そこで、二期工事を中止するように政府に働きかけるので、滑走路1本を認めてほしい。貨物空港ということで政府の顔を立ててもらえないだろうか。そのための条件として、闘いの休戦協定を結び、その間に話し合うということにならないだろうか」と申し入れ、財界人と戸村反対同盟代表の間で会談が行われる[333][334]。
- 4月:日中三里塚援農隊として現地入りしていた平野靖識[注 9]らが東峰地区の空港用地内でラッキョウ工場を操業する三里塚物産を設立[注 10]。保証人は東峰地区農家の市東東市[336][337][338]。
- 4月2日:川上千葉県知事が、反対同盟に対話を呼びかける[38]。
- 4月4日:空港公団が、新たな開港日を1978年5月20日とする旨を運輸大臣に届け出(7日告示)。同日、管制塔襲撃事件を受け、福田内閣が関係閣僚会議で(1)新たな開港日を5月20日とする(2)空港内外の安全対策を強化する(3)特別立法などで過激派対策を強化する(4)早期開港に向けて地元の支持と世論を喚起する とした『新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱[339]』を纏める[275]。自民党は成田空港問題に対する姿勢と対応策を決めるために国会内で両院議員総会を開き、青嵐会等のタカ派議員らからは過激派への破防法適用等の強硬論が相次ぐ。浅沼清太郎警察庁長官が記者会見で「極左暴力集団が殺傷力のある凶器で警官攻撃をしてくれば拳銃の使用も辞さない」と述べる[340]。
- 4月4日:管制塔占拠事件で破壊された電子機器類の復旧作業が九分通り終わり、報道陣に公開される。元地権者らが設立した成田空港警備会社の駐車場に発火装置が仕掛けられているのが発見される。郵政省が管制塔占拠事件に参加して逮捕された職員2人を国家公務員法違反で懲戒免職処分[341]。
- 4月6日:衆議院が『新東京国際空港問題に関する決議案』を全会一致で可決。「去る三月二十六日の成田新東京国際空港における過激派集団の空港諸施設に対する破壊行動は、明らかに法治国家への挑戦であり、平和と民主主義の名において許し得ざる暴挙である。よって、政府は毅然たる態度をもって事態の収拾に当たり、再びかかる不祥事をひき起こさざるよう暴力排除に断固たる処置をとるとともに、地元住民の理解と協力を得るよう一段の努力を傾注すべきである。なお、政府は、新空港の平穏と安全を確保し、我が国内外の信用回復のため万全の諸施策を強力に推進すべきである[342]」
- 4月10日:参議院が『新東京国際空港問題に関する決議案』(内容は衆議院のものと同一)を全党一致で可決[343][344]。
- 4月17日:反対同盟が、「逮捕者の全員釈放・開港延期と二期工事凍結・成田新法の撤廃と機動隊の撤退」を条件に、「話し合いを拒まない」と態度を決定[241]。
- 4月18日:千葉地検が、北原事務局長・秋葉哲救援対策部長・石井武実行委員を含む「横堀要塞鉄塔」撤去の際に逮捕された48人を起訴。管制塔襲撃事件を契機に反対同盟に対しても過激派と同様の厳罰主義をとることとした、検察の姿勢が示される。うち、機動隊に向けて洋弓やコンクリートブロックを放った過激派4人については、三里塚闘争史上初となる殺人未遂罪での起訴。起訴された反対同盟幹部には後に執行猶予付きの有罪判決が下される[275]。
- 4月20日:特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法(騒特法)が公布される[169]。
- 4月27日:新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)の法案が国会に提出される。
- 5月4日:出直し開港を前に、浅沼警察庁長官が開港後のゲリラ対策として(1)東関東自動車等の出入り口や京成電鉄の駅で相当長期に亘って検問をつづける(2)旅客以外の送迎車や見学者のターミナルビルへの出入りを原則1週間程度禁止する との警備方針を明かし、開港前後は連日1万人以上の警官を動員して厳重な警備態勢を敷くこととする。入場規制に対しては、見学者エリアに出店しているテナントからの苦情もあり、開港後に徐々に緩和されていく[230]。
- 5月5日:午前3時半頃、千葉県酒々井町の京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼(京成スカイライナー放火事件)[145][148]。
- 5月7日:空港関連会社従業員宅2件が放火される[145]。
- 5月6日:ブント系支援党派である松本礼二らの一派(「遠方から」)が水戸右翼らとともに協議を行い、三里塚闘争の対政府交渉への誘導を決定[333][345]。
- 5月9日:「遠方から」一派が、東大宇宙航空研究所の松岡秀雄(三里塚闘争の特別弁護人)に対政府交渉の仲介を依頼する[333][345]。成田新法の法案が衆議院で可決[346]。
- 5月10日:千葉日報主催の座談会で、戸村反対同盟代表と福永運輸相が会談[241]。戸村代表は4月17日に決定された反対同盟の条件が提示するが、福永運輸相は10日後に迫る開港予定日の再設定に応じず、物別れに終わる[230]。この会合により、「財界のみが戸村代表と会っている」という強みを失った桜田日経連会長ら財界陣営の停戦協定案は立ち消えとなる[333]。同日、反対同盟を支援する17党派が超党派の共闘組織として「三里塚闘争支援連絡会議」を結成し、共同戦闘宣言。同時に「三里塚闘争に敵対する革マル派を弾劾する」として、革マル派への敵対姿勢を鮮明にする[347]。
- 5月11日:松岡秀雄の斡旋で、石橋正次反対同盟副委員長が自宅を訪問した三塚博運輸政務次官と会見[241][333]。
- 5月12日:成田新法の法案が衆議院で可決[348]。
- 5月13日:新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)が公布、施行される。管制塔襲撃事件を受け、空港周辺の過激派封じ込めを図るもので、国会提出から16日間でのスピード成立[230]。同日、佐倉VORが襲撃され、アンテナ等設備が損傷したほか、警備員1人が負傷[145]。
- 5月15日:三塚運輸政務次官と島寛征反対同盟事務局次長が会見。直ちに新聞報道がなされ、秘密裏の交渉に反対同盟が不信を強める。同日、右翼活動家である四元義隆が「遠方から」一派に仲介を快諾[333]。
- 5月16日:木の根団結小屋(革労協)及び岩山団結小屋(共産同戦旗派)に対し、成田新法に基づく1年間の使用禁止(適用第一号)が通告されるが、過激派は無視して常駐を続ける。同日、反対同盟が芝山町の野戦病院で幹部会を開き、反対同盟が提示した条件(逮捕者全員の釈放・開港延期・成田新法撤回)が受け入れられていない中で戸村代表や石橋副委員長が政府側と接触したのは相手に利用されるだけだとの声が上がり、条件の受け入れ抜きにして話し合いに応じないとする方針が再確認される[230][241][241]。
- 5月17日:前日の成田新法適用に反対同盟が態度硬化、「一切の話し合い拒否」を表明する[333]。同日、起訴されていた北原事務局長らが保釈される[349]。
- 5月18日:反対同盟が「開港阻止五日間戦闘」を開始する[38]。
- 5月19日:中核派が千葉県八千代市の米本無線中継所をゲリラ活動によって破壊したが、翌日には復旧。
- 5月20日:午前0時をもって新東京国際空港開港(出直し開港)。午前10時30分から、旅客ターミナルビル北ウイング出発ロビーで56人が出席して開港式典が行われる。厳戒態勢の中であったため、空港ターミナルビルには関係者と報道陣以外の立ち入りが禁止される。1966年の閣議決定から12年近くが経過しており、完全空港の見通しもつかない状況であったが、式典に出席した福永運輸相は「昔から申します。難産の子は健やかに育つ[350]」と祝辞を述べる。続いて、南ウイングわきに設置された用地提供者の顕彰碑の除幕式が行われる[241][351]。空港の外では反対派と機動隊の衝突とゲリラ活動が続く中での開港であり、第4インター・共産同戦旗派及・プロ青同が旧第5ゲートに火炎車を突入させて火炎瓶投擲などする[352]。開港当時の乗り入れ航空会社は世界29カ国の34社。反対派が開いた集会には2万2千人が結集し、反対同盟は「百日戦闘宣言」を発する。第5ゲート前の反対派と機動隊の衝突で、48人が逮捕され、反対派の負傷者25人。
- 5月20日:早朝、運輸省東京航空交通管制部の専用地下ケーブルが埼玉県所沢・狭山両市内の計3箇所でほぼ同時に過激派によって切断され、航空管制業務が全国的に一時麻痺。御宿町のVORや山田町のASSRが襲撃され、空港内突入を図った第四インターがゲートを襲撃。開港時点での用地内農家は17戸[145][230][241][241][351]。
- 5月21日:未明に栄町の送電線が過激派によって切り倒される。空港への影響はなかったものの、約2万戸が停電[145]。
- 5月21日:航空機運航開始。8時3分に、一番機となるロサンゼルス発の貨物便日本航空1047便が、古タイヤを燃やすなどの反対派の妨害を受けつつも到着。12時3分に旅客便の一番機となるフランクフルト発の日航446便が到着。京成電鉄空港線(京成成田駅 - 成田空港駅〈現:東成田駅〉)が開業[83]。京成上野駅からの有料特急スカイライナーが運行開始。
- 5月22日:8時16分、出発便の一番機となる貨物便大韓航空の802便がソウル(金浦国際空港)に向けて離陸(出発旅客便の一番機は、グアム行き日本航空機[351])。
- 5月23日:午後11時までの門限(カーフュー)に間に合わなかった日本航空の貨物機2便が欠航となる。成田空港のカーフューを理由とした欠航は初。開港直後はカーフュー間際まで離着陸が相次ぐ綱渡り状態が連日続く[230]。同日、芝山町長宅が火炎瓶などで襲撃され、町長も軽傷を負う[145]。
- 5月24日:「遠方から」一派が、島寛征事務局次長・柳川秀夫に対政府交渉計画(運輸省・空港公団を交えず、秘密を徹底する)について説明[333][345]。
- 5月25日:国鉄による航空燃料暫定輸送が開始される。開港当初の輸送能力は、鹿島ルートは18両編成と13両編成が各2列車、14両編成が1列車の計5列車で3800kl、千葉ルートは12両編成が2列車の1200klで、合計1日あたり5000kl。ただし、修理等で年間30日程度は運休するため、実際の輸送能力は1日平均にすると約4500kl。
- 5月25日:開港前の騒音テスト飛行よりも実際の騒音がひどいとの苦情が相次ぎ、成田市と芝山町が独自の騒音測定を開始[230]。同日、革労協が大韓航空職員寮を襲撃[145]。
- 5月27日:中核派によって、国鉄成田線の佐原 - 大戸間にある列車集中制御装置の回線と鉄道専用電話回線が切断され、航空燃料の暫定輸送を行っていた貨物列車が立ち往生する[352]。同日、パンナム航空のホノルル行きが旅客便として初めてカーフューによる欠航となる。
- 6月1日:空港公団が民家防音工事の対象を全室とする方針を決定[38]。
- 6月5日:反対同盟が飛行阻止100日間闘争を宣言[38]。
- 6月6日:開港時、「成田は国際線、羽田は国内線」の棲み分けが決まっていたが、利用者の利便性や地元住民の要望を考慮した運輸省が日本航空からの国内線乗継便申請を認可[119]。
- 6月8日:国内線の運航が始まる[119]。
- 6月10日:新左翼の反対派支援者が、妨害用アドバルーン3個を打ち上げたため、約20分新東京国際空港が閉鎖される。同日未明、国鉄の佐倉-酒々井間で警戒に当たっていた警備員が貨物列車に撥ねられて死亡[119]。
- 6月13日:3月26日の成田空港管制塔占拠事件で全身火傷を負った、反対派支援の新山幸男が死亡[38][217]。
- 6月23日:革労協が筑波町の航空無線施設を襲撃し、警官1人が負傷[145]。
- 6月27日:北総浄水場の沈殿池に過激派が廃油120リットルと殺虫剤ダイアジノン、バイジット計12kgを投入[353]。同浄水場は周辺の一般家庭用水として利用されていることから、無関係な多数の市民の生命を危険に陥れた極めて悪質な「ゲリラ」事件として注目される[331]。
- 6月29日:佐倉市で暫定輸送を行う貨物列車への襲撃を警戒するヘリコプター(運航は日本農林ヘリコプター)が墜落し、搭乗していた鉄道公安職員2人・千葉県警の警官1人・日本農林ヘリコプター社員2人が殉職する[119][354]。
- 7月2日:反対同盟が、三里塚第一公園で、開港後初となる「飛行阻止現地大集会」を開催[355]。1万5千人の結集。第九ゲートから突入しようとした6人が逮捕され、デモ全体で44人の逮捕者。反対派の負傷者14人。
- 7月7日:福田首相が空港を視察[241]。
- 7月18日:千葉県警察新東京国際空港警備隊が発足。
- 7月20日:「遠方から」一派が、四元義隆・西本明高知空港公団理事と会談[345]。
- 7月29日:革労協が、暫定輸送「鹿島ルート」の起点である茨城県鹿島郡神栖町鹿島石油鹿島製油所の石油パイプラインに仕掛けた時限装置を発火させる[352]。
- 8月2日:革労協が東京シティエアターミナルに火炎車を突入させる[352]。
- 8月17日:「遠方から」一派が、合意書案を作成[345]。
- 8月21日:ストライキが終結したノースウエスト航空の1番機が飛来、29か国1地域34社の航空会社が勢ぞろいする。9月に入りノースウエストの運航が本格化すると、鉄道輸送に依存する航空燃料の需給がひっ迫するようになる[127][241]。
- 8月26日:花見川河川下を通るパイプライン新ルートの公表、漏洩検知などの安全強化策の提示を経て、空港公団が千葉市とパイプライン敷設の協定書・確認書を締結[39][241]。
- 8月31日:四元義隆が福田首相と面談し、福田首相は合意書案について同意。安倍晋太郎内閣官房長官に事務レベルでの折衝を指示[345]。
- 9月4日:革労協が成田市内の京成電鉄空港線ガード下でトラックを炎上させ、鉄道輸送を妨害[352]。
- 9月7日:中核派が千葉県八千代市など数か所で電話同軸ケーブルを切断し、茨城県北相馬郡守谷町(現・守谷市)守谷VOR/DME及び同県稲敷郡阿見町阿見VOR/DMEの機能が麻痺した[352]。
- 9月12日:革労協が暫定輸送に使われる鹿島臨海鉄道の線路上に生コンクリートを散布して列車の運行を妨害[352]。
- 9月14日:中核派が警察施設2か所に火炎車を突入させる[145]。
- 9月16日:反対派約800人が、「たいまつデモ」を行い、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。革労協が成田市荒海のアウターマーカーを火炎瓶などで襲撃し、活動家2人が逮捕される[145][352]。
- 10月16日:四元義隆の仲立により、「遠方から」一派・西村明ら立ち合いのもと、反対同盟幹部と道正邦彦官房副長官が秘密裏に会合。水面下での反対同盟と政府の会談が開始される[241][345]。
- 10月19日:騒特法が施行される[169]。
- 11月24日:反対同盟幹部と道正官房副長官らの2回目の会談がなされ、反対同盟側が二期工事の凍結・強制収用の放棄・対話集会の開催などが盛り込まれた「覚書(案)」を提示[38][241]。
- 11月26日:1978年自由民主党総裁選挙で福田首相が大平正芳に敗れる[356]。
- 12月:中華人民共和国で第11期3中全会が開かれ、鄧小平による改革開放路線が決定される。
- 12月1日:二期工事に向けて福永運輸相が報告した、(1)成田用水事業の受益対象区域拡大(追加地域の中には反対同盟の拠点である菱田地区も含まれる)(2)空港公団が騒音区域に所有する農地の地元農家貸付(3)騒防法の第二種騒音区域内農家の土地の時価での買取 を内容とする基本方針『s:新東京国際空港周辺地域における農業振興のための基本となる考え方について』を、閣議が了承[148][357]。
- 12月7日:大平内閣が発足。
- 12月18日:中核派が市川市にある東京エアカーゴシティターミナルの構内駐車場に駐車中のワゴン車を時限式発火装置で炎上させる。他にも警察施設5か所が放火される[145][352]。
1979年
- 1月10日:大阪行き日本航空153便の搭乗券発行数と乗客数が一致せず過激派の港内潜伏が疑われたため、運航が取りやめられたうえ機動隊400人が出動し約3時間捜索する騒ぎとなる。結局、料金を支払って座席を確保していた幼児が人数に加えられていなかったミスと判明[358]。
- 2月6日:横堀要塞に成田新法を適用[38]。同日、プロ青同が第5ゲートを襲撃[145]。
- 2月7日:プロ青同が、新空港第2ゲートに向け火炎車を突進させる[352]。
- 2月15日:第8回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 2月17日-3月16日:中越戦争。
- 2月21日:8機の運航でカーフューが破られ、成田市などが抗議[230]。
- 3月2日:中核派の放火により空港警備隊の輸送車が炎上[145]。
- 3月6日:森山欽司運輸相が「二期工事を年内に着工したい」と表明[359]。
- 3月14日:中核派が佐倉市臼井台と習志野市鷺沼台で、京成電鉄線路上に火炎車を突入させてスカイライナーをはじめとする列車の運行を妨害[352]。
- 3月18日:中核派がVOR等の電話ケーブル6か所を切断[145]。
- 3月26日:反対同盟員の小川源・小川嘉吉らが建設省を訪問し、社会党の秦豊議員立ち会いのもと、成田空港の公共性と収用の合法性・合憲性を問う公開質問状を渡海元三郎建設相宛に提出[360]。
- 3月30日:三里塚闘争支援を続けて中核派が浸透した結果、革マル派の動労執行部と確執を深めていた動労千葉地本が、国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)として独立[217]。
- 4月8日:1979年東京都知事選挙で自民党の推薦を受けた鈴木俊一が当選。
- 4月19日:道正邦彦から引継ぎを受けた加藤紘一官房副長官が、反対同盟幹部との秘密交渉に参加[359][361]。
- 4月22日:開港後初となった成田市議選挙で、北原事務局長が再選する一方、日本航空社員の小林攻(トップ当選)と空港公団職員の越川富治も当選[204]。
- 5月:反対同盟幹部と加藤官房副長官らの会談が3回もたれ、加藤副長官は交渉内容を政府内でも大平首相と田中六助官房長官にしか報告せず、徹底した秘密主義で進められる[119][359]。
- 5月15日:本格パイプライン工事が再開される。千葉市長としてパイプライン建設を差し止めていた荒木和成の急死後、新市長となった松井旭が空港公団の協力要請に応じていた[322]。
- 5月20日:反対派の妨害気球が警察ヘリに巻き付き、緊急着陸[145]。
- 5月29日:成田エアポートレストハウスについて、日本社会党の小川国彦議員が「本来の目的から外れてホテル経営を行っている。土地収用法の事業認定の趣旨からみてもおかしい」と衆議院運輸委員会で追及[230][362]。
- 6月1日:開港当初、警察庁の警備方針により港内の見学が禁止されていたが、見学者フロアに出店しているテナントや交通機関などの規制緩和要求を受けて、小中学生の見学が解禁される[127]。
- 6月6日:反対同盟幹部と政府の秘密交渉に地元選出議員で運輸政務次官の林大幹が同席、政府案が提示される[359]。
- 6月11日:反対同盟幹部と政府の秘密交渉に運輸官僚が加わり、大詰めを迎える[359]。
- 6月15日:加藤紘一官房副長官と島反対同盟事務局次長が、(1)政府は解決の努力が不十分だったことを認める(2)二期工事を凍結する(3)二期工事予定地では強制手段をとらないとする覚書を締結[119][359]。
- 6月17日:反対同盟が木の根地区で灌漑用風車建設を開始[38]。
- 6月21日:石橋反対同盟副委員長ら用地内農家の代表9人と空港公団会談が会談。空港公団は地区に土地を持つものとして扱われ、地区の共益費に充てられる区費の支払い等について成田空港問題に触れずに話し合われる[119]。
- 7月3日:航空燃料の逼迫を受け、運輸省が成田空港乗り入れ会社に給油量5%節減を要請。
- 7月5日:開港後、空港南側の民家で深夜早朝に障子が揺れたり人が圧迫感を受けるなどの低周波振動の問題があり、その原因が日本航空のエンジン試運転用の消音装置であることが突き止められる。空港公団が日本航空に改善を指示[79]。
- 7月10日:運輸省が、適用を緩和した第1種騒音区域を告示。同日、空港公団が千葉県に、騒特法に基づく航空機騒音対策基本方針の策定を要請。
- 7月16日:読売新聞朝刊一面に6月15日の覚書が一部を歪曲した形でリークされる。反対同盟内部でも全容を知る者は一部しかいなかったため組織は混乱に陥る。同日、森山運輸相が覚書に基づき「関係農民の皆さんに対しても、必ずしも十分な意思疎通が図られているとは言えない実情だ。農民の皆さんも胸襟を開いて話し合いに応じるよう切に要望する」との声明を出したが、リークに潰された形となる[79][119][359]。
- 7月20日:16日のリークによる混乱の収束を図った反対同盟が、政府との交渉の事実をも否定する声明を発表し「話し合いには応じられない」とする。水面下の対話は水泡に帰す[363]。島事務局次長が責任を取り辞表を提出するが、「交渉自体がなかった」とする反対同盟は不問に付す[359]。
- 7月24日:木の根地区で反対同盟の風車が完成。無断での事業認定区域内の工作物の形質変更は土地収用法違反であるが、「風車は農業以外に使用しない」「二期工事に支障が生じれば自主的に撤去する」との確約書が提出されたこともあり、千葉県が空港公団との協議の上で形質変更を認めた[79]。
- 8月1日:元運輸事務次官の中村大造が空港公団副総裁に就任[288]。
- 8月30日:千葉市高浜(現・美浜区高浜)にあるジェット燃料輸送パイプラインの工事現場を中核派が時限式発火装置で放火し、杭打機4台を全焼させる[145][352]。
- 9月7日:プロ青同の活動家4人が小型トラックでゲートを逆走して空港内に侵入し、警備員の制止を振り切って制限区域にまで入り込む。誘導路上でトラックを炎上させたうえ竹竿で誘導路灯火を破壊し、逮捕される。空港は約30分閉鎖され、3便に遅れ。開港後に過激派が港内に突入したのは初めて[140][352]。
- 9月14日:革労協が、茨城県鹿島郡鹿島町で暫定輸送が行われている鹿島臨海鉄道の北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅) - 南神栖駅間の線路上に土砂を満載したダンプカーを突入させ、列車の運行を妨害[352]。
- 9月16日:反対同盟が全国総決起集会で「飛行阻止連月連日闘争」を提案[38]。同日、芝山町内の山林から妨害気球7個が浮揚されるなどして、航空機の飛行コースが変更される[145]。
- 10月7日:第35回衆議院議員総選挙で自民党が過半数割れ。責任の所在をめぐり、党内で四十日抗争が勃発。
- 10月10日:革労協が、香取郡下総町の国鉄成田線清河駅 - 久住駅間において暫定輸送中の列車を発煙筒を用いて急停車させ、青ヘルメット姿の約30人が襲い掛かり、運転席の計器や窓ガラスを破壊[145][352][364]。
- 10月18日:中核派が、京成電鉄高砂検車区・京成上野駅・京成電鉄宗吾検車区で入庫中・停車中のスカイライナーに時限式発火装置を仕掛けて発火させ、スカイライナーの一部を焼く[352]。
- 10月21日:国際反戦デーに合わせた反対同盟の集会が開かれるが、森山運輸相の話し合い路線への対応その他運動方針を巡り反対同盟内に食い違いが生じて派閥が2分されており[169]、それぞれ別の場所で集会を行う。このとき病床にあった戸村代表は集会に出席することができずメッセージを送るのみに留まる。同日、プロ青同が成田市三里塚の新空港場周柵及び第3ゲート付近並びに同県山武郡芝山町のガードマン立哨ボックスに向けてそれぞれ多数の火炎瓶を投擲[352]。
- 11月2日:反対同盟代表・戸村一作が70歳で死去。11日に三里塚第一公園での追悼集会に3千人が参加[83]。戸村の死後、石橋副委員長が委員長職を固辞し委員長代行に就任したため、委員長ポストは空席となる[359]。
- 11月6日:内閣総理大臣指名選挙で自民党から大平正芳と福田赳夫の両名が擁立される前代未聞の事態となり、僅差で大平が決選投票を制す。
- 12月16日:赤ヘルメットの集団が、成田市内の国道51号で検問を行っていた交通機動隊を襲撃し、火炎瓶約30本を投げつける。パトカーと通りがかりの車両が全焼し、隊員2人が負傷。逮捕者3人[145]。
- 12月24日:ソ連がアフガニスタンに侵攻。
1980年代
1980年
- 2月:芝山町議選で、石毛博道ら反対同盟員3人が当選(無投票)[365]。
- 2月20日:芝山空港反対同盟の本部として使われていた山武農協千代田事業所の空港公団への売却が、山武農協総代会で決議される[366]。
- 2月17日:第9回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 2月28日:用地内農家が連名で『用地内の決意』という文章を出して成田用水事業の動きを牽制[366]。
- 3月13日:中核派が、千葉市浪花町の浪花橋パイプライン工事の地下水位観測所に時限式発火装置を仕掛けて発火させ、同観測所及びその内部に設置された観測機器に被害を与える[352]。
- 3月22日:航空局が、反対派の飛行妨害に備え「妨害気球回避ルート」新設を決定[81]。同日、黄ヘルを着用した15人が横芝アウターマーカーを襲撃し、警備員4人を縛り上げて無線室を放火[145]。
- 3月24日:中核派が千葉市にある新空港関連工事会社3社の作業員宿舎等に時限式発火装置を仕掛けて発火させ、同宿舎等を全焼させる[352]。
- 5月11日:石橋反対同盟委員長代行が、義理の親族となった空港公団職員に接触[367]。
- 5月16日:革労協が霞が関の第3中央合同庁舎脇に駐車したマイクロバスに自動火炎放射装置を仕掛け、同庁舎内の運輸省に向けて発射[145][352]。
- 5月18日:中核派が暫定輸送に用いる成田市土屋の燃料基地に向けて、私道に駐車した小型トラックから自動火炎放射装置を発射[352]。同日、石橋反対同盟委員長代行が中村空港公団副総裁と接触[367]。
- 5月18日-27日:大韓民国の光州市で民衆蜂起(光州事件)
- 5月19日:ハプニング解散。
- 5月24日:成田用水加圧機場・用水工事関連会社等が襲撃を受ける[145]。
- 6月12日:大平首相が急死。
- 6月22日:第36回衆議院議員総選挙・第12回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)。自民党が地滑り的勝利。
- 7月17日:鈴木善幸内閣が発足。
- 7月28日:大塚茂空港公団総裁が、塩川正十郎運輸相に本格パイプラインの完成が1983年末にまでずれ込む旨を報告し、辞表を提出[79][324]。同日、運輸省を訪れた川上千葉県知事に塩川運輸相が暫定輸送期間の延長について協力を要請するが、川上知事は強固な態度に出る[323][324]。
- 7月29日:大塚空港公団総裁が、沼田武千葉県副知事及び松井千葉市長を訪ね、本格パイプライン工事の遅延について説明するとともに陳謝。副知事・市長ともに不快感を表明[79]。同日、塩川運輸相が竹内茨城県知事を訪ね、暫定輸送期間の延長について協力を要請[324]。
- 8月4日:大塚空港公団総裁が辞任。翌日、中村大造副総裁が昇格[79][288][324]。
- 8月28日:塩川運輸相が千葉県庁に川上知事を訪ね、「ジェット燃料の貨車による輸送期間を延長してもらいたい」と申し入れ。塩川運輸相は成田高速鉄道の建設促進を約束[79][324][368]。
- 9月1日:中核派が、空港内の日本給油センター駐車場に駐車する車両3台に時限式発火装置を仕掛けて発火させる[352]。
- 9月15日:プロ青同が、新空港A滑走路南端から約1500メートル離れた岩山小学校跡地附近から進入表面を越える高さまで気球を浮揚させ、航空機の航行を妨害[352]。
- 10月12日:青年行動隊を中心とした反対同盟が、成田用水事業に対抗して、支援学生らの手を借りながら菱田地区湿田の自主基盤整備に着手。支援学生の労働力を用いて湿田の排水に成功するなど一定の成果を上げるものの、成田用水受け入れに傾いていた菱田地区等の農家を引き止めるには至らず[169][324]。
- 11月25日:暫定輸送に関係する十市町村会議が県知事室で開かれ、期間を1983年12月にまで延長することを了承。川上県知事が塩川運輸相に伝達。その際、県は開港時に地元自治体が出した計141項目の要望のうち未着手の10項目(平行・横風用滑走路の騒音対策、京葉線の旅客化・東京駅乗り入れ、航空科学博物館の建設など)の早期実現や成田高速鉄道の実現を要求していくこととした[83][324][368]。
- 12月1日:最後まで残っていた茨城県神栖町が、暫定輸送延長を了承[324]。
- この年の末までに、開港時点で17戸あった用地内農家のうち5戸が移転[324]。
1981年
- 1月2日:鈴木内閣が暫定輸送延長を閣議決定[324]。
- 1月11日:川上五千万円念書事件が新聞報道される[323]。
- 2月25日:印旛郡四街道町の国鉄総武本線長岡踏切付近の軌道上に金属板が置かれ、暫定輸送が妨害される[352]。
- 3月1日:ジェット燃料輸送延長阻止是国総決起集会[38]。
- 3月2日:動労千葉が暫定輸送延長に反発し、指名ストを実施[323]。
- 3月3日:運輸省が空港公団の芝山鉄道株式会社等への出資を許可[38]。
- 3月4日:指名ストを実施していた動労千葉の支援を目的として、反対同盟員や活動家ら120人が国鉄成田駅のホームに集結。鉄道の運行に支障をきたす恐れから機動隊が動員され、59人が不退去罪で逮捕される[194][323]。
- 3月8日:暫定輸送を妨害するため、千葉市若松町の国鉄総武本線都賀駅 - 四街道駅間の鎌池踏切付近及び印旛郡酒々井町の成田線佐倉駅から7.5キロメートル離れた殿部田踏切付近にある信号機ボックスが、時限式発火装置でそれぞれ焼かれる[352]。
- 3月10日:中核派が、千葉市畑町の新空港用航空燃料パイプライン工事第7立坑施設に向けて小型トラックに仕掛けた火炎放射装置を放射し、工事用機材を焼く[352]。
- 3月16日:暫定輸送中の貨物列車の運転手が線路で焚かれていた発煙筒を発見し急停車したところ、覆面の男数人による襲撃を受け、機関車2両と付近の草むらが放火される[323][352]。
- 4月5日:沼田武が千葉県知事に就任。
- 4月24日:反対同盟幹部が松井和治航空局長と会談、以降水面下の接触が続けられる。この席で、建設省の計画局総務課長が「(1969年の事業認定告示から)20年たっても収用できないなら、あとは任意買収に頼る以外にない」と発言し、後の事業認定失効論に利用される[369]。
- 5月1日:芝山鉄道株式会社が、空港公団・千葉県・芝山町・京成電鉄・日本航空などが出資する第三セクター方式で設立される[230][323]。
- 5月11日:早朝、北鹿島駅に「A1(燃料輸送列車)を止めなければ、あらゆる手段で阻止する」、千葉日報社に「鹿島線を爆破した」、とそれぞれ電話があり、茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)内で航空燃料の暫定輸送に使われている鹿島線の橋桁(第2宮中架道橋)が溶接機で切り取られているのが見つかる。この影響で鹿島線は丸1日不通となり、輸送列車5本を含む45本が運休[230][323][352]。
- 6月7日:この日投票が行われた芝山町長選挙で、反対同盟が擁立した石井新二が大方の予想を大きく上回る1,804票を獲得したが、現職の真行寺一朗に破れ、落選。
- 6月8日:中核派が新空港2期工事実力阻止を叫つつ東京郡千代田区霞が関の第3中央合同庁舎横路上に小型トラックで乗りつけ、車両に仕掛けられた火炎放射装置を同庁舎内の運輸省に向けて放射[352]。
- 6月10日:第10回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 7月31日:塩川運輸相と沼田千葉県知事が会談。沼田知事は2期工事への協力を約束するとともに、同時に県内自治体が要望した141項目のうち、未着手の10項目の実現と前年8月に塩川運輸相が約束した成田高速鉄道の早期建設を強く要望。塩川運輸相は「誠心誠意努力する」と応じる[79]。
- 8月17日:反対同盟の小川源を団長に石井武・秋葉哲・石井新二・熱田誠・加瀬勉と支援者15人が、反軍拡・反原発・反開発をテーマにした「ラルザック国際連帯討論集会」に参加するため、フランスのNATO軍事基地拡張反対闘争で名を馳せていたラルザック地方に向けて大阪国際空港から出発。同集会への参加は加瀬勉の仲介によるものであり、現地ではラルザック農民や西ドイツのフランクフルト空港拡張反対派住民、フランスのプロゴフ原発建設反対派住民、ポーランドの「連帯」、北アイルランドのIRAなどと交流し、講演や小川紳介監督の映画会などを開催して「三里塚闘争の国際的意義」を訴えた。滞在中にフランスで成田空港問題を取り扱った『鹿島パラダイス』が上映されていたことから、同作品をパリで鑑賞[127][323]。
- 8月25日:二期工事に配慮して、政府が進めていた第二次臨時行政調査会の答申に基づく行政改革の対象から成田財特法が除外される[127]。
- 8月31日:空港公団職員の自宅で、石橋委員長代行・内田行動隊長が西村明と顔合わせ[323]。同日、中核派が大阪市城東区の大阪府警関目別館に駐車中の大型警備車両を時限式発火装置で焼き、2期工事着工阻止の先制攻撃とする[352]。
- 9月2日:同年に空港公団が登記上の代表名義人であった瀬利元副委員長の相続人から取得した、横風用滑走路予定地の中央にある横堀墓地について、熱田一が「墓地は入会地」として提訴[140][370]。
- 10月5日:反対同盟が芝山町民向けに「芝山新聞」を発行[38]。
- 10月11日:新空港A滑走路南方から進入表面を越える高さまで気球を浮揚させ、航空機の航行を妨害[352]。
- 10月23日:加藤紘一衆院議員・松井和治航空局長・中村大造空港公団総裁らと反対同盟の石橋政次委員長代行・内田寛一行動隊長・小川源・石毛常吉・梅澤勘一らが秘密裏に会合(官並会議[371])。出席予定だった小川嘉吉・喜平兄弟が参加を当日拒否。会合参加者の情報が反対同盟内にリークされる[323][372][373]。
- 11月30日:光町議会が、二期工事早期着工を決議[374]。
- 12月:加藤紘一と島寛征事務局長次長が会談[375]。
1982年
- 1月10日:中核派が、用地売却交渉の嫌疑をかけられた内田寛一行動隊長の除名を要求。これに対し石橋政次委員長代行が「除名するだけの理由がない」「かえって組織を弱めることになる」と拒絶し、対立が表面化する。以降、中核派は2,30人の活動家を石橋代行宅周辺に配置して出入りの監視を行うとともに、石橋代行の除名を要求[373][375]。
- 1月22日:政府側と交渉を行っていたことを暴露され、中核派に嫌がらせを受けていた石橋政次委員長代行が、中核派最高幹部の北小路敏に自宅敷地の現地闘争本部撤去を突きつける。29日に朝日新聞が事態を報道し、混乱に拍車がかかる。この記事で「支援セクトは長年いっしょに闘った仲間だが、同盟内の問題にまで介入すべきではない。私に対し、日常生活まで監視するのは決して闘争強化につながらない。小屋の明け渡し要求は同盟の役員会でも伝えてあり、譲れない」との石橋代行のコメントが掲載される[372][373]。
- 1月末:緊急幹部会で北原事務局長が石橋政次委員長代行らと政府との「秘密会談」の「事実経過」を発表[375]。
- 2月6日:青年行動隊が「混乱を力に変え勝利をつかみ取るために」を発行[38]。
- 2月9日:石橋政次委員長代行及び内田寛一行動隊長が、反対同盟に自己批判書とともに辞表を提出。石橋に追従して、天神峰地区の農家も反対同盟を離脱した(石橋グループ)。石橋の辞任により、反対同盟結成時に就任した委員長と3副委員長すべてが空席となる。両名の処遇を巡り反対同盟は紛糾[149][272][372]。
- 3月:横堀墓地の入会権を主張する熱田一が墓地内に櫓を立てて所有権を主張[140]。
- 3月13日:中核派によって、国鉄総武本線・成田線・鹿島線などの信号・通信ケーブルが8地点12か所で切断される。また、国鉄西船橋変電所が時限式発火装置によって爆破され、航空燃料暫定輸送を行う貨物列車の運行停止を招く。国鉄では約300本が運休となり、通勤・通学客ら約28万人に影響が出たほか、振替乗客が殺到した京成電鉄ではダイヤが乱れたうえにけが人も出るなど、県内の列車運行に大きな乱れが生じた[352][376]。
- 3月16日:革労協が成田市土屋の暫定輸送の中継基地である土屋石油ターミナル脇の路上にワゴン車を乗りつけ、車両に仕掛けられた火炎放射装置を作動させる[352]。
- 3月20日:最高幹部が不在となった反対同盟が役員会を開き、委員長・副委員長を置かずに本部役員による合議制をとることを決定。二期地区内で居住または工作を行う農家等19人が新たに役員に就任し、役員総数が31人となる。形式上、反対同盟は集団指導体制に移行したが、実際には同盟結成以来の唯一の幹部である北原鉱治の発言力が強まる。内田寛一の後任として熱田一が副行動隊長に昇格。新東京国際空港公団理事との個人的付き合いを糾弾されたうえ、成田用水と反対運動の二者択一を迫られたことで石井英祐事務局長が辞表を提出しており、その辞表が受理されたことから、用水派は反対同盟での調停役を失う[149][217]。
- 3月28日:新空港反対集会に呼応して、芝山町岩山の成田土木工事事務所のブルドーザー2台と監督員詰め所がガソリンをかけて焼かれる[352]。
- 4月16日:78年3月26日の管制塔占拠事件実行犯の1人が投身自殺。保釈後、拘禁性精神病で入院していた[377]。
- 5月12日:第11回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 5月中旬:島寛征事務局長次長・加藤紘一衆院議員・池田行彦官房副長官・松本礼二の4人が会談[375]。
- 7月1日:革労協が、三里塚2期着工実力阻止・廃港決戦勝利を戦取するためのパルチザン戦ゲリラ戦の一環として、東京都中央区の中央署の親父橋派出所・墨田区の本所署大平4丁目派出所・北区の王子署馬坂派出所・新宿区の戸塚署戸塚町3丁目派出所・同区の新宿署中落合西派出所・足立区の西新井署小台派出所に、時限式発火装置を仕掛けて発火炎上させる[352]。
- 8月:第4インターでABCD問題が発生。第4インターは影響力を急速に失う。
- 9月6日:革マル派の機関紙『解放』が北原事務局長の警察との密会を暴露[140]。
- 9月10日:午前2時頃、京成成田空港線トンネル内で時限式発火装置付きのトロッコが炎上しているのが発見される。成田空港駅(現・東成田駅)まで突入させる計画だったと見られる。影響により9時頃まで運休[140][352]。
- 9月24日:革労協が、成田市三里塚の新東京国際空港公団工事局ビル前路上に停車した小型トラックから時限式火炎放射装置を放射。同日、青年行動隊が「たたかいの原点から百姓の団結を考える」を発表[38][352]。
- 10月11日:芝山町香山新田の新空港2期工事区域内の空港公団砕石貯留所に設置してある照明灯に時限式発火装置が仕掛けられる[352]。
- 10月31日:中国民航機とアエロフロート機が10月分の燃料割当量超過を理由に給油を拒否され、成田発の出発便が足止めを食う。燃料割当は暫定輸送の輸送能力や過激派ゲリラによる暫定輸送列車の運休、台風の影響などにより備蓄燃料がひっ迫していたことに伴う措置。中国は北京空港で日航機に給油をしない報復措置をとる[169][374]。同日、芝山町内の融和を目的として第1回目の芝山はにわ祭が開催。
- 11月1日:革マル派の機関紙『解放』が、島寛征事務局長次長による加藤紘一・池田行彦衆院議員との接触を暴露[83][149]。
- 11月4日:島寛征事務局長次長が辞表を提出。反対同盟は9日に辞表を受理[83][149]。
- 11月25日:千葉県が「航空機騒音対策基本方針」を公表。
- 11月27日:中曽根内閣が発足。
- 12月6日:成田市東町の成田空港警備保障株式会社の駐車車輛に時限式発火装置が仕掛けられる[352]。
- 12月7日:空港公団が石油パイプライン事業法に基づく空港燃料パイプライン保安規定の許可を取得[39]。
- 12月16日:青年行動隊等「一坪再共有化運動」推進派により、「三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会」が発足する。
- 12月28日:成田市堀之内の成田新幹線工事現場にある大成建設堀之内トンネル作業所の配電盤下に時限式発火装置が仕掛けられ発火炎上する[352]。
1983年
- 2月13日:反対同盟大地共有委員会が「共有運動趣意書」「共有運動の手引」等を配布[38]。
- 2月23日:運輸省が、東京都など関係機関との合意のうえで、「羽田空港沖合展開基本計画」を正式決定。新A3000メートル滑走路を1988年7月に供用開始(1期)、西側ターミナル施設を1990年7月に供用開始(2期)、新B2500メートル滑走路・新C3000メートル滑走路・東側ターミナル施設を1993年7月に供用開始(3期)が掲げられる[378]。
- 2月27日:反対同盟大地共有委員会が中核派を批判[379]。
- 2月28日:反対同盟の役員会で青年行動隊の石井新二らが進める一坪再共有化運動を巡り紛糾。「石井新二氏ら特定のグループが、反対同盟の土地をぬすみとって、自分たちの仲間の私利営利につかおうとしている」「反対同盟の土地を公団に売り渡すものに死を!」などと再共有化運動を行う農家に対する中傷的なビラや文書を濫発した中核派に、青年行動隊が抗議声明。横堀・中谷津・浅川・稲葉・飯櫃・坂志岡・千代田・中郷の各部落反対同盟も中核派に対する非難や部内立入禁止決議を行う[188][375][380]。
- 3月1日:空港周辺で航空機からの落下物による被害が相次ぐ中、被害への補償を行う航空会社に対する世界初の保険制度が発足し、成田へ乗り入れている航空会社が参加。これにより、落下物の航空会社が明確に特定できない場合あっても補償が円滑に行われるようになる[330]。
- 3月3日:「一坪再共有化運動」推進派が、芝山町千代田公民館で「幹部会」の名義で北原事務局長の「解任」を決議。
- 3月8日:反対同盟分裂(サンパチ分裂[381])。「一坪再共有化運動」の是非等をめぐり、用地内農民を中心とした「北原派」と騒音地域農民を中心とした「熱田派」が別々に会合を開き、天神峰現地闘争本部で役員会を開いた北原派は熱田隊長らを「除名」し、芝山町千代田公民館で総会を開いた熱田派が3日の解任決議を「承認」。「熱田派」は中核派と共闘関係を断つことを宣言し、現地支援連絡会議が支持を表明[374][379]。
- 3月27日:反対同盟両派が分裂して初の現地集会を開催。雨天の中、「熱田派」は主催者発表で3,750人(警察発表2,750人)、「北原派」は5,725人(警察発表2,530人)の結集。
- 5月28日:日本鉄道建設公団副総裁の秋富公正が空港公団総裁に就任。元総理府総務副長官の秋富は中曽根首相と近しい関係にあり、二期工事に向けた人事と目される[288][374]。
- 5月30日:成田青年会議所が二期工事早期着工を求める3万3千人分の署名を長谷川成田市長に提出し、成尾政美市議長にも請願書を提出[230][374]。
- 6月1日:北原派が二期工事を推進する成田青年会議所に公開質問状を送付[230]。
- 6月7日:四街道市のパイプライン関連工事の作業員宿舎を中核派が放火、労働者2人死亡、1人が重傷を負う(東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件)[119][374]。
- 6月10日:1981年の光町に続いて、成田市議会が空港二期工事の早期着工を決議。以降、同様の決議が相次ぎ、二期工事着工までに累計21市町村が同様の促進決議を行う(同年12月15日:神崎町、翌年3月13日:横芝町、3月15日:多古町、3月16日:印旛村・蓮沼村、3月17日:芝山町・富里村、3月19日:八日市場市、3月21日:佐倉市・松尾町、3月23日:大栄町・八街町、3月24日:印西町、4月5日:下総町、5月1日:栄町、6月12日:干潟町、6月22日:白井町、6月23日:酒々井町、翌々年6月25日:河内村)[119][217][328][374]。
- 6月14日:第12回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 6月18日:熱田派が、6月7日の放火テロを「労働者への虐殺糾弾」として非難する声明を発表する。
- 6月23日:二期工事推進のため市民の声を行政に反映する組織「成田空港対策協議会」が発足[230][374]。
- 6月29日:成田用水菱田工区の測量・杭打ちが始まり、北原派・熱田派共に阻止行動を展開する。反対同盟分裂時に用水派の多くは熱田派に付いていたが、熱田派は用水反対の立場を明確にしたことで用水派の離脱を招いた。
- 6月30日:成田市議会が国・空港公団に二期工事着工の意見書を提出[11]。
- 7月4日:旅客ターミナル内のコインロッカーに発火物が仕掛けられる。コインロッカーはその後警備上の理由で空港から撤去されるが、1998年12月に再設置される[79]。
- 7月5日:戦旗・共産同が、横須賀基地・横田基地・朝霞基地・キャンプ座間・相模補給廠・三里塚を火炎瓶で攻撃[382]。
- 7月13日:千葉県議会が二期工事促進決議[374]。
- 8月6日:暫定輸送の最終貨物列車が運行される[127][368]。
- 8月7日:熱田派がパイプライン供用阻止集会を開催[38]。
- 8月8日:全長47kmの航空燃料パイプライン(B系)が供用開始(航空燃料暫定輸送終了)。本格パイプライン事業が開始されたことにより、最大送油能力は暫定輸送の2倍となり、成田空港のアキレス腱ともいわれた燃料輸送問題が解消される[127][368][374]。
- 10月25日-12月15日:グレナダ侵攻。
- 11月21日:長谷川峻運輸相と沼田千葉県知事が会談。先に県が要望した141項目のうち未解決であった国鉄成田線の空港延伸などの早期実施が困難であることに沼田知事が理解を示し、二期工事の早期完成に合意、共同声明が出される[11][217][374]。
- 12月15日:神崎町議会が二期工事促進決議。
- 12月18日:第37回衆議院議員総選挙で、ロッキード事件での田中判決による審判を受けた自民党が単独過半数を割り込む。
1984年
- 1月9日:「一坪再共有化運動」をめぐる対立等から、中核派が東京都と大阪府の計3ヶ所で第四インターの活動家3人を襲撃し重傷を負わせる。翌日でも広島県などで中核派による襲撃が行われる[358][382]。中核派は7月にもメンバー宅を一斉3ヶ所襲撃、片足切断と頭蓋骨陥没を含む8人に重傷を負わせる。
- 1月26日:羽田空港の沖合移転工事開始[254][328]。
- 2月11日:反対同盟分裂後初で8年ぶりとなる芝山町議選が多なわれ、北原・熱田両派がそれぞれ候補者を立てて鍔迫り合いが繰り広げられる。北原派が擁立した鈴木幸司、熱田派が擁立した相川勝重・石毛博道が当選。1982年3月に反対同盟を辞した石井英佑も当選[311]。
- 3月1日:空港公団本社が中核派に襲撃される。隣接する首都高速道路に停められたトラックから火炎放射器による攻撃[313][328]。
- 3月17日:他の周辺市町村に続いて、芝山町議会が「二期工事早期着工要請決議」を賛成12、反対4の賛成多数可決。この日、北原・熱田両派の反対同盟員が議会の傍聴を求めて押しかけ、1時間半以上も押し問答となり、最終的に機動隊により排除される。約10人が議場内に乱入し、マイクのコードを引きちぎるなどする。逮捕者4人[217][311][328]。
- 4月1日:芝山町長が運輸大臣に空港の早期完成と周辺対策を要請[383]。
- 4月2日-7月14日:中越国境紛争。
- 4月4日:東山事件での最高裁付審判請求特別抗告が棄却される[38]。
- 4月26日:成田青年会議所等の団体で構成する「成田空港対策協議会」が、中曽根康弘首相や細田吉蔵運輸相、県選出国会議員、秋富空港公団総裁に、「成田空港の歓声は国際社会の一員としての我が国の責務。空港との共存共栄を望む主変の生活向上のためにも、懸案の諸問題を積極的に解決の上、即刻二期工事を着工してほしい」等とする要望書を提出[204][328]。
- 6月4日:航空燃料パイプライン(A系)が完成検査合格[39]。
- 6月6日:第13回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 6月23日:開港以来の国際旅客5千万人達成。
- 7月6日:成田空港の土地収用法に基づく事業認定及び公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業認定を巡り、反対同盟員が国を相手取り認定取り消しを求めていた請求を、東京地裁が棄却。判決の中で「三里塚地区を新空港用地の適地であるとした国の判断に誤りはない。(農家の)失われる利益よりも空港建設で実現される公共の利益のほうが優先する」との判断が示される。傍聴席の支援活動家らから抗議の声が挙げられる[79]。
- 7月19日:成田を離陸したノースウエスト航空8便からタイヤ片と脚室ドアが脱落し、このうちタイヤ片は芝山町にある寺の境内で遊んでいた子どもらの近くに落下。負傷者は出なかったものの、成田空港に関連する落下物事故の中でも最大級のものとなる[79]。
- 8月1日:前年に運用開始したB系に引き続き、航空燃料パイプラインA系が供用を開始。これにより成田空港への燃料輸送能力は1日あたり2万2000㎘、年間最大800万㎘に増強されることとなり、二期工事に向けた燃料供給体制が整う。他方、完成までに多くの問題を処理したた航空燃料パイプラインの総工費は、予想よりも大幅にふくらんで1千億円を超過[328][368]。
- 8月6日:空港公団幹部らの自宅3軒が時限式発火装置により放火される[145]。
- 8月28日:中核派が千葉県内の駐在所2軒を放火(うち1軒全焼)[145]。同日、運輸省が昭和60年予算の概算請求に二期工事のための整備費を計上。マスコミは「運輸省が成田空港の二期工事問題に決着を付けるため用地の確保ができている旅客ターミナル施設予定地からなし崩し的に工事を着工する方針」[383]。
- 9月9日:戦旗派が成田用水工事関連事業者の作業員宿泊所を放火(全焼)[145]。
- 9月13日:成田用水工事関連事業者2軒で放火未遂[145]。
- 9月15日:革労協解放派が成田用水加圧機場付近を放火[145]。
- 9月19日:中核派による自由民主党本部放火襲撃事件が発生[328]。
- 9月25日:成田用水菱田地区の工事が開始される。反対同盟の北原派・熱田派共に抗議行動を展開する。着工の前後に用水関連のテロが相次ぎ、29日までの間に両派併せて56人が逮捕される[140][328][382]。
- 10月1日:中核派が、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに無関係の近接した住宅2棟にも延焼[384]。(成田用水工事事業者連続放火事件)
- 10月17日:空港公団が、石橋政次ら二期地区内農家4戸などからなる並木町代替地管理組合と、成田市並木町の代替地を管理する委託契約を締結。長谷川成田市長による斡旋。移転自体を棚上げしつつも農家が土地を管理する形をとる[169]。
- 10月24日:中核派が、成田用水工事の下請業者(北川道路)のロードローラーを時限式発火装置で放火[145]。
- 11月1日:運輸省が成田空港への鉄道アクセスのルートとしてBルート(京成上野~京成高砂~北総線経由~印旛松虫付近~成田空港、64 km)を推進することを表明[238][324]。
- 11月13日:革労協が横穴を掘り進め、ガス溶断機で縦40センチメートル・横35センチメートルに亘って切断したうえ、地下約10メートルの航空燃料パイプラインの導管に電動ドリルで穴を開けて破損させる。送油停止を余儀なくされたほか、燃料120キロリットルが流出し、近隣の山林・水田・河川が汚染される[328][385]。空港公団が11ヵ所のオイルフェンスを設置をするなどして印旛沼への流入は免れたが、損傷を受けた系統の復旧には1か月を要す。汚染された山林や水田については、地主との話し合いの結果、空港公団によって土壌の一部が入れ替えられる[386]。
- 11月27日:中核派が、千葉市の沼田知事宅・成田市の水野清衆院議員事務所・松戸市の友納武人衆院議員(元知事)事務所・木更津市の浜田幸一衆院議員事務所の4カ所を時限式発火装置で攻撃[83][328]。
- 12月14日:芝山町長及び同町議会議長が、二期工事促進を国等へ要望[38]。
1985年
- 1月16日:中核派が、潮来町の成田用水工事関連会社(田崎建設)の重機等車両4台を放火[145]。
- 1月24日:二期地区農家の畑の表土を移転先に移送する作業(表土輸送)が開始される[145]。
- 1月26日-29日:北原・熱田両派が表土輸送への抗議集会・デモを連日繰り返す(この間、中核派3人・革労協解放派1人が逮捕される)[145]。
- 1月26日:元反対同盟委員長代行で空港公団と移転交渉を進めていた石橋政次の畑の表土輸送を請け負っていた業者が、反対派の襲撃を恐れて車体に記載された社名やナンバープレートを隠して運搬を行っていたところ、北原派がこれを成田警察署・千葉地検に告発。業者は警察の指導を受けてナンバー隠しを辞めることを余儀なくされる[387]。
- 2月5日:戦旗・共産同が、千葉県第2機動隊本部に駐車されていた大型輸送車を時限式発火装置で放火[145][382]。
- 2月20日:中核派が、成田代替地工事関連会社(若築建設・大成道路)の建物・車両を放火[145]。
- 2月15日:革労協解放派が、成田警察署十余三駐在所を時限式発火装置で放火[145]。
- 3月11日:ミハイル・ゴルバチョフがソ連最高指導者に就任。就任後、ゴルバチョフはソ連の政治経済の抜本的改革に着手し、ペレストロイカとグラスノスチを断行。
- 3月14日:革労協解放派が、成田用水工事関連会社(山崎運輸)の大型トレーラーを時限式発火装置で放火[145]。
- 3月21日:革労協解放派が、菱田地区内の成田用水配管にモルタルを流し込んで妨害[145]。
- 4月8日:戦旗・共産同が芝山町の竹林から火炎瓶6発を発射し、約150メートル離れた空港敷地内の空港公団工事局に着弾。飛び道具を用いたテロは東日本で初めてであり、これ以降空港を狙った火炎弾・金属弾事件が相次ぐようになる。また、一部で「ロケット弾」が使用されたと報じられたため、外国航空会社等で混乱が生じる[275][388]。
- 4月12日:中核派が成田・羽田両空港に金属弾を撃ち込む。成田では駒井野から発射された火薬入り弾頭付きの金属弾が滑走路を跨いで貨物ビルの傍まで達し、直撃を受けた乗用車が炎上。1キロを超える射程距離は警備当局に衝撃を与える。指名手配された中核派革命軍構成員が、1987年1月21日に逮捕されている[184][275][388]。
- 4月17日:成田用水反対を訴えるビラを配布していた中核派全学連菱田決戦行動隊が用水推進派の農民と押し問答になり、駆けつけた警察官が行動隊長を公務執行妨害で逮捕[145]。
- 4月25日:中核派が、元地権者のための代替地でトラックに時限式発火装置を仕掛けて炎上させたほか、畑に釘・塩・塩酸を撒いて土壌を破壊する[145]。
- 5月11日:革労協解放派が、芝山町内で成田用水の送水管をビニールやレンガなどで損壊させる[145]。
- 5月19日:日比谷公園野外音楽堂で東峰裁判救援コンサート開催[38]。
- 5月30日:革労協解放派が成田用水土地改良区事務所を放火[145]。
- 6月13日:中核派が空港工事関連会社(大林組・株木建設)の事務所・車両を時限式発火装置で放火[145]。
- 6月23日:成田空港手荷物爆発事件が発生。作業員6人が死傷し当初は空港反対派によるテロが疑われたものの、後に空港反対派とは無関係であり、インド航空182便爆破事件と関連していることが判明、成田空港が受けた初の国際テロとなる[388]。
- 7月2日:中核派が、成田用水工事関連会社(萩原土建)の事務所・車両を放火[145]。
- 7月8日:成田用水加圧機場の管理用詰所が放火される[145]。
- 7月20日:中核派が、空港公団の用地課長代理宅の倉庫兼車庫を時限式発火装置で放火。用地部長宅の車両にも時限式発火装置が仕掛けられていたが不作動[145]。
- 7月21日:北原派のデモから中核派約300人が逸脱し機動隊と衝突、放水車を占拠。機動隊は1977年の東山事件以来控えていたガス弾10数発を発射して応戦[145][389][390]。
- 7月25日:過激派によるゲリラやテロを恐れた業者の辞退が相次いだ結果、成田用水菱田工区の1986年度分工事の入札が1社も落札価格を示せないまま流会となる[79][388]。
- 7月29日:代替地内にある移転農家の倉庫が放火される。
- 7月31日:成田新高速鉄道促進期成同盟が沿線8市町村によって設立される[11]。
- 8月8日:第14回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 8月17日:成田用水工事の再入札で淺沼組が落札するが、中核派のテロ予告などを受けてその後辞退[79][388]。
- 8月26日:千葉県と空港公団が、空港建設・開港に伴う経済波及効果をまとめた経済影響調査(三菱総合研究所が実施)の結果を発表。それによると、1966年の空港建設決定以来、空港関連の投資総額は約1兆6千億円であり、その波及効果による付加価値額は公共分のみで約2兆1千億円。1市6町村の税収でも空港関係が四分の一を占めている。また空港完成の暁には関連産業の売り上げが1983年の2.4倍となると予測される[127]。
- 8月27日:二期地区内農家3戸(石橋政次・石毛常吉・岩沢茂)が空港公団と移転契約を締結、成田市並木町・酒々井町井篠に移転することとなる。残る石橋グループの1戸も移転に同意済み。これにより用地内農家は12戸から8戸に減少[127]。
- 8月28日:運輸相が第五次空港整備計画を策定し、二期工事の1990年度概成(8割完成)が目標として掲げられる[127]。
- 9月14日:熱田派の菅沢昌平事務局長が、三里塚現地集会の基調報告で「今までの政府の責任を明らかにさせ、闘争にかかわる裁判の諸問題、成田用水などの農業政策、空港予定地の改良問題等々について、政府と同等に対決しうる会談を設定するということは、あながち無駄ではない」と政府側との話し合いを提起[382]。
- 9月15日:日比谷公会堂で「東峰裁判完全勝利をめざす集い」開催[38]。同日、戦旗・共産同が前日の菅沢事務局長による基調報告への抗議声明[382]。
- 9月20日:A・B滑走路騒音区域に挟まれた地域の騒音対策(谷間対策)について空港公団・県・市町村の間で合意成立[11]。
- 9月21日:15日の抗議声明に怒った熱田派が、幹部会で戦旗・共産同との共闘関係を凍結[382]。
- 9月24日:革労協解放派が、時限式装置を使い成田空港に向けて金属弾を発射[145]。
- 9月28日:プロ青同が空港公団の工事局舎の門塀に火炎瓶を投擲[145]。
- 9月30日:中核派が成田市並木町の代替地にある詰所が鉄パイプや火炎瓶などで襲撃し、詰所・車両が全焼したほか、殴打されるなどした警備員2人が重軽傷を負う[127][145]。
- 10月20日:10.20成田現地闘争。千葉県成田市の三里塚交差点で反対同盟(北原派)支援グループと警視庁機動隊が1時間以上にわたり衝突、機動隊員59人が負傷。241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突となる。また同日、革労協系ゲリラが偽装消防車などで空港内に侵入し、施設の一部を破壊[169][388][391]。
- 10月22日:千葉地裁が、東山事件の国賠訴訟で原告側の訴えを退ける[392]。
- 11月1日:中核派が、時限式装置を使い成田空港に向けて金属弾を発射[145]。
- 11月20日:中核派が、時限式装置を使い空港警備隊隊舎に向けて金属弾を発射[145]
- 11月21日:千葉市、習志野市、君津市にそれぞれある国鉄幹部の3宅が同時放火される。
- 11月23日:成田用水工事を控える芝山町菱田地区で、革労協解放派が機動隊を襲撃(11.23機動隊襲撃事件)[145]。
- 11月25日:相次ぐ業者の事態により遅延していた成田用水菱田工区で、受注業者名を伏せて工事が始められる[79]。同日、熱田派支援の統一共産同活動家2人が重機に乗るなどして成田用水工事を妨害(現行犯逮捕)[145]。
- 11月27日:芝山町内で警備中の機動隊員に向けてトラックの荷台から火炎瓶が投げられる。[145]
- 11月29日:中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こし、新左翼過激派による最後の市街戦となる[388]。
- 12月19日:成田市が市都市公園条例を改正し、過激派の公園使用を規制。
- 12月23日:成田用水工事の請負会社である石井組の駐車場で2人の男がトラックの下に時限式発火装置を設置するのを張り込み中の捜査員が発見し、見張り役を含め3人を現行犯逮捕。同日、別の成田用水工事関連会社(安藤建設)倉庫が時限式発火装置で放火される。中核派が犯行声明[145][391]。
- 12月28日:戦旗・共産同が9月15日の抗議声明を撤回し、熱田派との共闘関係を回復[382]。
1986年
- 2月8日:中核派が、時限式発火装置を用いて鹿島建設の事務所等全国7箇所を放火(うち1件は未遂)[145]。
- 2月9日:革労協解放派が、西組建設の車両4台を時限式発火装置で放火[145]。
- 2月28日:革労協解放派が、成田ニュータウンセンター内駐車場で車両4台を時限式発火装置で放火[145]。
- 3月3日:前年4月の日米航空交渉合意に基づき、全日本空輸が成田ーグアム線に就航。45/47体制に基づく日本航空による国際旅客線独占体制から複数本邦社時代に突入する(ただし、前年5月8日に日本貨物航空が国際貨物線を就航させている)[393][394][395]。
- 3月8日:革労協解放派が西組社長宅を放火(西組社長宅放火事件)[145]。
- 3月12日:成田市は北原派による全国集会のための公園使用申請却下。10.20成田現地闘争で付近の住宅などに被害が出たことなどから、成田市は都市公園条例を改正して許可の要件に「周辺住民に迷惑を掛けない」などの項目を追加していた。以降も成田市が公園使用許可を出さないことから、北原派は集会を同盟員の畑で行うようになる[376][388]。
- 3月18日:中核派が、成田用水工事関連会社(安藤建設・原設備工業)の施設・車両を時限式発火装置で放火[145]。
- 3月28日:中核派が千葉県収用委員2人の自宅を放火、委員に対して辞任するよう恫喝する声明を出す[145][396][397]。
- 4月13日:空港周辺で花と緑に囲まれた社会づくりを推進する 花と緑の農芸財団 が発足(理事長長嶋茂雄、常務理事土井脩司)[275]。
- 4月15日:土地の持ち分の半分以上を取得し民法上の管理権を持つようになった空港公団が、二期用地内の一坪共有地を柵と有刺鉄線で囲い込む。松本操空港公団副総裁が「空港公団に民法上の管理権があり、持ち分のない活動家が侵入しないよう柵を設けた」と説明[275]。
- 4月20日:北原派の支援活動家が共有地内に入りバリケードを構築したが、空港公団職員や機動隊により撤去・排除される[275]。
- 4月26日:チェルノブイリ原子力発電所事故。ゴルバチョフがグラスノスチの徹底を指示。
- 5月15日:空港周辺6市町長が、二期工事促進とB・C滑走路の騒音対策徹底について国等へ陳情書を提出[38]。
- 6月2日:死んだふり解散。
- 6月12日:中核派が、印旛学園都市開発事業団工事現場の重機4台を時限式発火装置で放火[145]。
- 7月6日:第38回衆議院議員総選挙・第14回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)が行われ、自民党が圧勝[395]。
- 7月7日:秋富空港公団総裁が首相官邸を訪れ、中曽根首相に「成田はもう限界です。警備上の問題もあり、二期工事は手付かずの状態が続いているが、政局が安定した今こそ、二期を着工したい」と訴える。中曽根首相は一言、「やってください」と答える[395]。
- 7月10日:第15回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 7月11日:運輸政策審議会が空港アクセスの改善に資する路線として都心から成田空港に至る路線の設定を答申[238]。
- 7月17日:革労協解放派が、旧空港警備隊隊舎に向けて飛翔弾発射(7.17成田空港警備隊舎飛翔弾事件)[145]。
- 7月23日:戦旗共産同が、成田用水施設2箇所に時限式発火装置を仕掛ける(作動前の発見により、未遂)[145]。
- 7月29日:中核派が、移転農家(元反対同盟員)の自宅兼倉庫を放火[145]。
- 8月5日:7月30日に創立20周年を迎えた空港公団が記念式典を開催。完全空港化への途上にあることから、招待客は橋本龍太郎運輸相、航空局・空港内諸官庁・関連企業の代表者、空港公団OB代表など小規模に留められる[394]。
- 9月4日:未明、伊勢原市で建築中の運輸省航空局幹部職員の家屋が時限式発火装置により放火されて全焼、更に周辺家屋7戸が類焼により全半焼。なお、被害者の幹部職員は成田空港建設と無関係である。船橋市にある成田空港建設と無関係な別の航空局職員宅も放火され、車両1台が全焼。中核派が犯行声明[145][398]。
- 10月4日:警察官3人が殉職した東峰十字路事件の裁判で千葉地裁が判決を言い渡し、被告55人のうち52人に執行猶予付きの有罪判決、3人に無罪判決が下される。実刑判決を受けた被告はなく、異例の温情判決に熱田派などからは「勝訴も同然」との声が上がり、軟化の兆しが見られる[169][395]。
- 10月12日:中核派の盛岡アジトで圧力釜爆弾が押収される。警察によると、爆弾は発破式で極めて強力な殺傷能力を持っており、成田現地闘争に使用される恐れがあった[399]。
- 10月23日:共産同戦記派が警察施設2箇所を時限式発火装置で放火[145]。
- 10月29日:橋本運輸大臣が、参議院本会議における答弁で事実上の成田新幹線建設断念を表明[400]。
- 11月26日:空港公団が第二期工事に着工(反対派への刺激を避けるため、「平坦化工事」と呼称)。成田市取香の駐機場予定地で重機による整地作業が開始される[83][395]。
- 11月28日:第5次空港整備5ヵ年計画(1986~1990年度)が閣議決定される。同計画では成田空港の完全空港化・羽田の沖合展開・関西新空港の建設の3大プロジェクトの推進が最重要課題として掲げられる。成田空港については、できるだけ早期の本格工事に着工し、同計画期間中に空港施設を概成することが目標とされる[394][395]。同日、中核派が、二期工事設計会社(梓設計)幹部社員宅(2軒)・車両を時限式発火装置で放火[145]。
1987年
- 1月14日:革労協解放派が、成田用水工事を警備していた機動隊を襲撃(1.14機動隊襲撃事件)[145]。
- 3月6日:空港公団工事局に金属弾が発射される[184]。
- 3月14日:中核派が、空港工事関連企業の1都3県合計5箇所にも及ぶ施設に時限爆弾を仕掛け、ほぼ同時に爆破される[145][184]。
- 3月29日:用地内農家の小川嘉吉が全国集会で「闘争は農民が中心となって進めなければならない」と発言し、中核派に主導権を握られた北原派の現状を批判[401]。
- 4月1日:国鉄分割民営化に伴い、成田新幹線計画が正式に廃止される[388]。
- 4月4日:熱田派が横堀B滑走路延長上に16メートルの鉄塔を建設[38]。
- 4月15日:空港公団が二期工事の完成予想図を発表[11]。
- 4月17日:土地改良法に基づく成田用水事業の強制実施。対象地となった熱田派の土地に建てられた櫓から戦旗・共産同の活動家11人が抵抗して、機動隊に逮捕される。当該箇所は土地改良区の中で唯一反対派に両岸が押さえられており、対岸は北原派の農家が所有していた[382]。
- 4月26日:この日の成田市議選に4選を目指す北原事務局長が出馬するが、小川嘉吉ら用地内農家は支持せず。北原は当選[401]。
- 4月28日:中核派が、空港工事関連会社(千南商事)社長宅を時限式発火装置で放火[145]。
- 7月12日-13日:戦旗共産同が、13箇所(未遂含む)で空港工事関連業者車両等を連続放火[145]。
- 7月15日:二期工事の山砂搬入妨害を目的として、北原派が国道51号で牛歩デモを行い、4キロ以上の渋滞を発生させる。警察による取り締まりはなし[127]。
- 8月9日:北原派がトラクターや耕運機等30台の車両を使って国道や県道で牛歩デモを行い、最高1キロの交通渋滞を発生させる。支援活動家4人が道交法違反の現行犯で逮捕される[127]。
- 8月13日:反対同盟労農合宿所に向かっていた男性が誤って空港のゲートに辿り着き、警備員の通報で駆け付けた機動隊員らが手荒な職務質問を行う。居合わせた朝日新聞の記者が取材を試みるが連行され、その際に腕にけがを負う[127]。
- 8月27日:中核派が、皇居に向けて時限式装置から金属弾を発射[145]。
- 9月:鎌田慧・中山千夏・辻元清美らの呼びかけにより、「三里塚わくわくツアー」が開催され、家族連れや若者ら約100人が青年行動隊などと交流。以降、1990年までに計7回開催される[402]。運輸省が「海外旅行倍増計画(テンミリオン計画)」を策定[403]。
- 9月3日:北原派の役員会で小川嘉吉ら用地内農家が一坪共有地として提供した土地の返還を北原事務局長に申し入れるが拒否される[401]。
- 9月4日:「農民中心の闘い」(実際には中核派との決別)を主張する用地内農家4戸(小川嘉吉・小川喜平・加藤俊宣・島村良助)が、北原派から離脱。小川嘉吉を代表として新たに「小川派」が結成される。当時8戸あった用地内農家の半数を占めるだけでなく、それぞれが所有する面積も大きく、反対派農民の最大の派閥となる。一時革労協が連帯する動きを見せたが中核派に妨害されて実現せず、過激派から絶縁された用地内農家グループの誕生となったが、空港用地取得における膠着状態は継続[140][401]。
- 9月18日:度重なる集団武装闘争やテロ事件に疲弊した住民の間で極左暴力集団排除の気運が盛り上がり、町内に新左翼14セクトの団結小屋を21箇所も抱える芝山町議会は、北原派の鈴木幸司議員や熱田派の相川勝重議員らの反対もあったものの、「過激暴力集団は凶悪な犯罪者集団」「空港反対と称して幇助行為をしている者に対して強く反省を促し警告する」などとする極左暴力集団排除に関する決議を賛成多数で可決。反対同盟や支援活動家らが町役場に押し掛けるが吉岡誠議長の要請で出動した機動隊がこれを排除。大型の鉄製看板「過激暴力集団排除宣言の町」が町内8箇所に設置される[140][391][401]。
- 9月25日:熱田派が「二期を阻もう!今、三里塚と日本農業を考える」東京集会開催[38]。
- 10月11日:小川派が初の集会開催。北原派・中核派が激しく妨害し、機動隊の介入を経て1時間以上遅れてようやく集会を開始するが、30分程度で切り上げられる[401]。
- 10月13日:航空機からの落下物の7割が集中する横芝町・松尾町・蓮沼村が落下物被害の要素を加味して交付金を算定するよう求める要望書を空港公団に提出[169]。
- 10月17日:横浜ヨット小型旅客船爆破事件。
- 10月23日:第16回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 10月29日:戦旗共産同が、空港に飛翔弾を発射[145]。
- 11月5日:中核派が、空港公団工事局施設工事部長宅を時限式発火装置で放火[145][184]。
- 11月:熱田派が全国総決起集会を開催し、参加者が空港を取り囲むように手をつないで「人間の鎖」をつくる[402]。ゴルバチョフがロシア革命70周年記念式典でスターリン批判。
- 11月6日:竹下内閣が発足。石原慎太郎が運輸大臣就任。
- 11月16日:空港公団が木の根の買収済み用地の囲い込みを実施。革労協の団結小屋である木の根団結砦から投石による作業妨害。
- 11月24日:16日の投石による公務執行妨害容疑で、千葉県警が木の根団結砦への家宅捜査に着手。砦に立てこもった活動家(革労協だけでなく共産同戦旗派の活動家2人も含まれる[275])らが火炎瓶や投石による抵抗を行い、機動隊との3日間の攻防となる[83]。
- 11月27日:政府・空港公団が成田新法に基づき、木の根団結砦を撤去(木の根団結砦撤去事件)。成田新法による初めての撤去処分[83]。同日、革労協解放派が印西警察署折立駐在所を時限式発火装置で放火[145]。
1988年
- 1月18日:成田市三里塚の空き地に駐車中の普通貨物自動車に搭載された発射装置から、空港内に向けて爆発物5発が発射される。発射に使われたのは、長さ150センチメートルの発射筒5本を鉄製アングルで固定した時限式発射装置であり、爆発物は発射地点から約2,500メートル離れた空港施設内駐車場等に落下して爆発。空港運用時間帯の犯行であり、警察庁は「爆発物が航空機本体に当たりかねない危険なもの」としている[145][184][404]。
- 2月5日:芝山町の開港条件の1つであった航空博物館の起工式が行われる。1986年度開館予定であったが、テロへの警戒により着工が遅れていた[242]。
- 2月29日:西新宿で中核派が東京空港交通のリムジンバス5台を時限式発火装置を使って放火。中核派は翌日に出した犯行声明で「東京空港交通は成田と羽田の両空港のアクセスを支える主要な企業で、二期推進企業である」とした[145][184][188]。
- 3月13日:小川派の集会が開催予定であったが、北原派の圧力によって中止となり、以降小川派の集会が開催されることはなかった[401]。
- 3月17日:革労協(挟間派)が、千葉市内にある航空燃料輸送パイプラインの保安設備室を、消火器爆弾を用いて爆破(フェンスとトイレを損壊)。革労協は「日本革命史を画する歴史的爆破戦闘」と自画自賛[145][184][404]。
- 3月19日:開港以来の国際旅客1億人達成[217][405][406]。
- 3月29日:用地内農家などの移転先として空港公団が確保・造成していた3か所目となる代替地が成田市畑ケ田に完成[217]。
- 4月13日:戦旗共産同が、空港公団工事局に向けて金属弾が発射。屋上の給水塔が破損[145][184]。
- 4月14日:北原派を支援する中核派・革労協・共産同戦旗派が、成田闘争、反戦・反安保闘争、対革マル派戦などで「三派共闘」を結成したことを共同声明[184][275]。
- 4月25日:君津市内の駐車場で、中核派が全日警ワゴンを時限式発火装置で放火。隣の車両を巻き込んで炎上[145]。
- 5月3日:隅谷三喜男(東京大学名誉教授)を議長とする「二十一世紀経済基盤開発国民会議」が、成田・羽田に次ぐ首都圏第三空港の建設(候補地は船橋・木更津の沖)を提言[230]。
- 5月13日:衆議院決算委員会で、石原運輸相が「成田につながる新幹線の挫折はいろいろ理由がございますけれども、現実にああいう形でとんざしておるわけでありまして、また非常に国費をむだに費やしたという形になっております。これに対しては運輸省も非常に大きな責任を感じておりますが、しかしともかく今ありますあの路盤を含めてこれを何らかの形で積極的に活用しなければならないとも思っております。いずれにしろ、今成田は世界有数の非常にアクセスの劣悪な空港でありまして、世界に恥をさらしていると言っても過言ではない。利用される方々は非常に不便をかこっていらっしゃるわけでありまして、一刻も早くこの不便というものを解消する努力をしなければならないと痛感しております。そのためにその方策の一つとしても、現在あります、あの眠っております駅並びに土屋まで来ております路盤というものを何らかの形で活用できないかということを今検討しておりますし、これをできるだけ早く結論を得るように督励しております。」と発言[407]。
- 5月17日:革労協解放派が、野田市内の愛宕派出所を時限式火炎放射装置で放火。所員による初期消火により被害なし[145]。
- 5月22日:用地内だけでなく騒音地域の取り込みを図る北原派が、開港10周年に合わせて芝山町菱田で「芝山廃村化粉砕」をスローガンに集会を開催し、騒特法に反対する姿勢を明確に打ち出す[230]。
- 5月23日:この日の開港十周年記念祝賀会に招かれた石原運輸相が、成田について「日本の表玄関としてこのていたらくは情けなく、残念だ」と記者会見で語る[406]。
- 6月10日:石原運輸相が竹下登首相の承認を得て、成田空港の鉄道アクセスについてJR東日本及び京成電鉄が空港ターミナルまで乗り入れる暫定措置を発表[238][406]。
- 6月24日:石原運輸相が芝山鉄道に成田空港(現・東成田駅) - 整備場前(芝山千代田駅)の事業免許交付。更なる延伸を望む芝山町は不満を表明[119]。
- 6月28日:財団法人新東京国際空港振興協会(現・成田国際空港振興協会)が設立[281]。
- 7月1日:中核派が、空港関連工事会社の車両や事務所、常南交通のバスを関城町と成田市で時限式発火装置を使って放火[145]。
- 7月4日:戦旗荒派が、東京・千葉・茨城の3都県の空港建設工事の下請業者等8業者の車両31台を放火。警察はこの事件で同派活動家5人を検挙[145][184][404]。
- 7月6日:空港公団の申請を受けた千葉地裁が、東峰団結会館について現状変更禁止の仮処分を執行。団結小屋の要塞化を封じる[79]。
- 7月12日:中核派が仮処分の動きに先手を打ち、二期地区内の団結小屋「木の根育苗ハウス」で監視櫓の建設を始める[79]。
- 7月13日:千葉地裁が、木の根育苗ハウスについて現状変更禁止の仮処分を執行。
- 8月11日:中核派が、成田山本商会の車両4台を時限式発火装置で放火[145]。
- 8月28日:総理府が発表した世論調査で、成田空港問題について「あくまで話し合いを」とする回答が41.1%と最も多く、「拡張工事をするな」とする回答(5.0%)と合わせると強制収用に否定的な意見が半数近くを占める(「話し合いで駄目なら法的手段を」は20.8%、「話し合いは無理、早く法的手段を」は5.3%)[406]。
- 9月18日:菱田現地闘争デモで、機動隊のヘルメットを素手で殴った革労協解放派の1人が逮捕される[145]。
- 9月21日:千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰が、千葉市内の路上でフルフェイスのヘルメットを被った数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプやハンマーで殴られ、両足と左腕などを複雑骨折する重傷を負う(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。その後中核派が犯行声明を出すとともに、「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載し、組織的に脅迫じみた手紙や電話などを送り続けた[140][404][406]。
- 9月26日:革労協解放派が、船橋西警察署道野辺派出所を爆破。時差を設けたタイマーとからくり仕掛けとを用いた爆弾2個が用いられ、約30分の時差で爆発した。出入口外壁等が破損したうえ、現場に到着した警察官1人が負傷。付近の民家にも被害[145][184][404]。
- 9月29日:中核派が自由民主党本部放火襲撃事件の担当裁判官の宿舎に停められた車両を放火[184][404]。
- 10月7日:空港公団内に「用地交渉推進本部」が発足[38]。
- 10月17日:革労協解放派が、越谷市内の古小路運輸の車両を時限式発火装置で放火[145]。
- 10月24日:千葉県収用委員会会長襲撃事件を受けて、千葉県の収用委員会委員の全員が沼田千葉県知事に辞表を提出。沼田知事は翌月24日に辞表を受理[169][184][404][406]。以降、2004年の再建に至るまで千葉県収用委員会は完全な機能停止状態に陥る。
- 10月25日:沼田千葉県知事が石原運輸相と面会し、「成田空港は国のプロジェクトであり、(県による強制収用によらず特別立法を定めて)問題解決には国が総力を挙げて取り組むべき」と訴える[406]。
- 10月28日:JRと京成電鉄の旅客ターミナル乗り入れのための事業主体として、千葉県・JR東日本・京成電鉄が出資し成田空港高速鉄道株式会社が第3セクターとして設立される[169][406]。
- 11月3日:中核派が、大洋村の太陽運送の車両を時限式発火装置で放火[145]。
- 11月6日:熱田派が主催した11・6全国総決起集会で参加者が「人間の鎖」を作った際、2人が公務執行妨害で逮捕される[145]。
- 11月7日:千葉県収用委員会が機能停止という異常事態を受けて、沼田千葉県知事が「土地収用は国で対処してほしい」と表明[83]。
- 11月15日:千葉県連政調会長の戸辺敬が自民党本部で開かれた全国政調会長会議で、強制収用を国が対応できるよう特別立法措置を講じるよう要請。渡辺美智雄政調会長が「政府の責任において検討したい」と応じる[83]。
- 11月19日:熱田派の菅沢事務局長が、話し合いのための4項目を明記した申入書を秋富空港公団総裁に渡す。秋富総裁は反対派から条件提示を得られたことを評価したが、強制収用の放棄などの要求は受け入れられず、秋富の退任とともに立ち消えとなる[408]。
- 11月30日:第2旅客ターミナルビル着工。これまで反対派を刺激しないように控えられてきた起工式が行われる[406]。
- 12月1日:強制収用について、千葉県議会が国の特別立法措置を求める意見書を採択[83]。
- 12月15日:中核派が、船橋レミコンの車両を時限式発火装置で放火[145]。
- 12月18日:香山新田内の横堀十字路で、検問中の空港警備隊と小競り合いを起こした戦旗共産同の活動家16人が公務施行妨害で逮捕され、翌年1月10日に更に1人が逮捕[145]。
- 12月20日:第2旅客ターミナルビル着工を花道として秋富が退任したことに伴い、元運輸事務次官の松井和治副総裁が空港公団総裁に昇格[406]。
- 12月28日:横堀公民館で公務執行妨害事件[184]。
1989年
- 1月7日:昭和天皇崩御。新左翼セクトは「大喪の礼爆砕」を掲げ、反政府運動・ゲリラ闘争を実施[409]。
- 1月29日:中核派が、藤沢市内にある公共用地審議会(特定公共事業を認定する建設省の審議機関)の会長代理宅の物置を、時限式の圧力釜爆弾で爆破[145][406][410]。
- 2月6日:ポーランド人民共和国のワルシャワで、東欧革命の先駆となった円卓会議が開催される。
- 2月15日:ソ連軍がアフガニスタンから撤退。
- 2月21日:戦旗共産同が空港に向けて仕掛けた飛翔物発射装置が成田市内の林で見つかる[145][184]。
- 3月:戦旗荒派が「横堀団結の砦」をプレハブ2階建てから鉄筋4階建てに増築[127]。
- 3月7日:中核派が日本舗装の倉庫を時限式発火装置で放火[145]。
- 3月12日:中核派が丸和建材の車両を基に時限式発火装置で放火[145]。
- 3月26日:熱田派が告示からの20年経過を根拠に事業認定の失効を主張するパンフレット『時間のバクダン』を発行[38][369]。同日、北原派が主催する3・26全国総決起集会のデモ行進中に中核派の活動家ら7人が公務施行妨害で逮捕される[145]。
- 3月30日:中核派が、成田市排水路整備工事現場のダンプカーやショベルカーを時限式発火装置で放火[145]。
- 4月25日:20年が経過すれば事業認定自体が失効するとする事業認定失効論を主張する熱田派に対し、運輸省が土地収用法に事業認定の有効期限について明文規定がないことなどを理由に「空港建設の事業認定告示から20年経過しても収用採決は可能」と反論[204]。
- 5月19日:千葉地裁が空港公団の訴えを認め、空港公団が取得した土地・家屋で内縁の夫である革労協の活動家や子供とともに居住を続ける小川明治の次女に退去を命じる判決。次女は即座に控訴し、その後も居住を続けたが、1998年11月に空港公団の説得を受けて転出。ただし、建設工事に支障がないことなどから家屋の取り壊しは行われず、活動家による出入りはその後も継続[230]。
- 5月26日:第17回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される[281]。
- 5月31日:千葉県収用委員会の新委員任命阻止を訴える北原派支援の過激派が千葉県議会の本会議を傍聴しようとしたが、県議会は県警本部に要請して過激派排除の構えをとったうえ、県議会史上初めてとなる傍聴希望者の入場拒否に踏み切る。6月5日・6月8日も過激派活動家らが傍聴を試み入場を拒否されるが、結局新委員は任命されず[230][406]。
- 6月2日:千葉地裁が、空港二期工事のC滑走路建設予定地の内外に跨る一坪共有地(旧御料牧場の馬止め堤防跡地)について、50人いた一坪地主のうち43人分を取得した空港公団の訴えを認め、持ち分比率に応じて分割して二期地区に係る用地を空港公団の所有地とする判決を下す。更に当該用地上に熱田派が建設した小屋についても判決確定時の撤去を命じる。熱田派の熱田代表らは控訴し、最高裁まで争うが、1994年に空港公団勝訴の判決が確定[119]。
- 6月3日:宇野内閣が発足。
- 6月4日:六四天安門事件。
- 6月5日:中核派が、藤田陸運の車両を時限式発火装置で放火[145]。
- 6月11日:この日投票の芝山町長選挙に、熱田派の同盟員らが空港推進派の保守系議員らとともに「芝山町を考える会」を結成して相川勝重を擁立。熱田派は相川を役職から解任して選挙に関与しない立場をとり、陣営は空港問題を棚上げして選挙戦に臨む。相川は2350票を得たものの、2938票を得た真行寺一朗が5選を果たす。出馬表明の遅れにも関わらず選挙で善戦できたことは、熱田派が話し合い路線に転じる転機となる[38][119][369]。
- 6月11日:革労協元幹部内ゲバ殺人事件。
- 7月8日:成田新法の適用を免れるため「木の根ペンション」の名称で同盟員の石毛博道が改築していた、熱田派の団結小屋の落成式が行われる[273]。
- 7月20日:反対同盟熱田派が緊急総会を開き、6月の芝山町長選挙の動きについて熱田派を「話し合い路線へ転落」等と非難した最大の支援セクトである戦旗荒派に対し、共闘関係の断絶と現地からの退去を通告。1986年に結んだ「指示に従わないときは現地から出ていく」等とする確約書を根拠とした。戦旗荒派はその後「三里塚二期阻止・土地収用を許さない全国運動」を立ち上げ、熱田一や小川源ら熱田派内の徹底抗戦派(長老派)の支援を続ける[11][79][369]。
- 7月23日:第15回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗し、ねじれ国会となる。
- 7月24日:中核派が、千葉県収用委員会事務局職員の自宅を時限式発火装置で放火[145]。
- 8月1日:芝山町の要望により航空科学振興財団が建設していた航空科学博物館が開業[127]。
- 8月10日:海部内閣が発足。
- 8月23日:中核派が芝山町内のゴルフ場の事務所を時限式発火装置で放火[145]。
- 8月29日:支援セクトと農民の分断を図る運輸省が成田新法の積極的な適用に乗り出し、「横堀団結の砦」(戦旗荒派)に使用禁止命令を通告。熱田派から絶縁されていた戦旗荒派の活動家は抵抗することなく退去[127][369]。
- 9月8日:中核派が片岡組本社を時限式発火装置で放火[145]。
- 9月19日:「天神峰現地闘争本部」(北原派)・東峰団結会館(戦旗両川派)・「木の根育苗ハウス」(中核派)・「横堀団結小屋」(第四インター)・「三里塚闘争会館」(中核派)「大清水団結小屋」(革労協)・「横堀団結小屋」(プロ青同)の計9か所に一斉に成田新法に基づく使用禁止が通告される[149][369]。
- 10月16日:熱田派が運輸省に「今後も警察力を使って苦しめるのか」「20年前の事業認定は失効するのではないか」等とする公開質問状を提出。
- 10月21日-23日:共産同戦旗派が、千葉地裁の現状変更禁止仮処分を無視し、「東峰団結会館」の要塞化工事を実施[145]。
- 10月22日:反対同盟熱田派の三里塚闘争連帯労農合宿所で火災が発生。空港公団が跡地のうち取得済みの用地を確保すべく囲い込みを図るが、「火事場泥棒だ」と反発した熱田派はブルドーザーを持ち出して機動隊に抵抗、小屋を再建する。小川源が負傷。熱田派最後の実力闘争となる。熱田派を穏健派とみなすようになっていた空港公団は衝撃を受ける[369][411]。同日、北原派の集会にナイフを持ち込んだ男など2人を逮捕[145]。
- 10月30日:団結小屋4件に対する成田新法に基づく使用禁止処分の取り消しを求め、熱田派が提訴[370]。
- 11月9日:ベルリンの壁崩壊。
- 11月16日:中核派が千葉県議会事務局次長宅を時限式発火装置で放火。発火装置は逃げ口を塞ぐように玄関と勝手口に設置され、家人1人が2階から脱出した際に負傷。隣接する民家2軒にも延焼[145][409]。
- 11月30日:熱田派の公開質問状への回答書を郵送する形で、江藤隆美運輸相が運輸大臣として初めて過去の誤りを認める[83][369]。
- 12月:熱田派から追放された戦旗荒派が、報復として菅沢昌平事務局長が空港公団幹部や公安担当警察官などと接触していたことを機関誌で暴露[369][408]。
- 12月2日-3日:マルタ会談(冷戦終結)
- 12月4日:運輸省が櫓増設などの要塞化が進められていた「東峰団結会館」(戦旗両川派)に対し、封鎖処分を通告。活動家(中核派・革労協も共闘[275])らが火炎瓶などで激しく抵抗したため、除去処分に移行。機動隊との攻防を経て、活動家ら5人が6日に検挙される。鉄製の籠でやぐらを覆う「鳥かご作戦」が功を奏し、双方に負傷者は無し[148][184][369]。
- 12月7日:中核派が、千葉県新産業三角構想推進室幹部宅を時限式発火装置で放火[145][184]。
- 12月15日:11月30日の江藤運輸相の回答では事業認定失効論を否定されたため、熱田派が2回目の公開質問状を運輸相に送付[83][184]。同日、菅沢事務局長が辞任[369]。
- 12月16日 - 26日:ルーマニア革命。チャウシェスク大統領夫妻が公開処刑される。
- 12月17日:熱田派が、岩山地区の空港公団所有地に国との対話を進めていく拠点「椎の木むら」を野菜即売所の名目で開設[369]。
- 12月19日:(1)成田空港の1990年度概成に全力を挙げる(2)農家との話し合いを積極的に進める(3)過激派にはあらゆる法令を適用していくなどとする政府声明が閣議決定される[148][369]。
- 12月20日:千葉地裁が、横堀墓地の入会権を巡り空港公団と争っていた熱田一の請求を退ける[370]。
1990年代
1990年
- 1月7日:日本経済新聞が、冷戦終結により基地返還の可能性が出てきたとして、在日米軍の横田基地と厚木基地が首都圏第三空港の有力候補として浮上したと報じる[236]。
- 1月15日:前年11月16日の千葉県議会事務局次長宅放火容疑で、千葉県警が反対同盟北原派の天神峰現地闘争本部で家宅捜索。引き続き事業認定区域内の工作物の変更禁止を定めた土地収用法違反容疑での検証を翌日未明まで実施。その間反対派は闘争本部から締め出されたうえ、県警の検証終了直後には運輸省によって成田新法に基づく封鎖処分が下される[149][271][412]。
- 1月16日:中核派が、三井建設の事務所・宿舎・車両等を時限式発火装置で放火。同日、革労協狭間派が成田市内の路上でタイヤを炎上させる[145][184]。
- 1月17日-2月28日:湾岸戦争。
- 1月23日:中核派が、JR・京成の各線7箇所(中央本線・横浜線・横須賀線・根岸線・南武線・常磐線・京成本線)で車両を放火[145]。
- 1月30日:江藤隆美運輸相が前年12月15日に熱田派が送付した公開質問状への返書を持参して現地を訪れる。反対同盟熱田派農民と公開会談がもたれ、事業認定失効論や木の根地区での機動隊による過剰な検問の撤廃等について話し合われる。これ以降、熱田派では石井武代表補佐や石毛博道事務局員らのグループが対話路線を推進する。一方、話し合い路線に反発する熱田一代表や小川源代表補佐は会談を欠席[83][412][413]。
- 2月17日:中核派が、八王子警察署丹木駐在所を時限式発火装置で放火[145]。
- 2月19日:中核派が運輸省運輸政策局情報管理部長宅を放火。隣家にも延焼[145][184]。
- 2月21日:第39回衆議院議員総選挙で落選し退任が迫る江藤運輸相が、反対同盟小川派代表の小川嘉吉の自宅を訪問。江藤運輸相は玄関先で2時間にわたり小川を待ち続けたが応対されず、江藤運輸相は奥の部屋に向かって声掛けしたうえで名刺を置いて退出[188][412]。
- 2月23日:革労協解放派が、佐倉警察署志津派出所を時限式発火装置で放火[145]。
- 2月27日:未明、二期工事を請け負う清水建設の吉野照蔵社長宅が中核派に時限式発火装置によって放火される。放火は玄関と勝手口をふさぐように行われ、吉野社長は妻とともに就寝中であったが、火事に気付くのが早かったため辛くも逃れる。中核派の犯行声明では前年12月4日の東峰団結会館撤去に際して清水建設がクレーン車を貸し出したことが理由として挙げられる。成田空港問題に関連する大企業のトップを標的としたテロは初[145][188]。
- 3月14日:中核派が、日本航空事業連合会などが入居する東京都港区の雑居ビルを放火[145]。
- 3月19日-21日:運輸省・空港公団が成田新法に基づき、中核派の団結小屋である「木の根育苗ハウス」を撤去。立て籠もった活動家らが火炎瓶を投擲したり古タイヤを燃やすなどの抵抗を行い、8人が公務執行妨害等で逮捕される[145][412]。
- 3月22日:中核派が近藤秋男全日本空輸社長宅の車両と渡辺文夫日本航空会長宅を放火。近藤社長宅の隣家にも延焼[145][217]。
- 3月24日:キャセイパシフィック508便が突風を受けて着陸に失敗し、衝撃で燃料漏れを起こす。緊急脱出中に風で煽られたシートから落下するなどして65人の重軽傷者を出し、横風用滑走路の必要性がクローズアップされる[217][414]。
- 3月25日:横堀現地闘争本部前で開かれた集会で、熱田一が反対同盟熱田派の代表職辞任を報告(辞表は22日に受理)。石井武・小川源・笹川英佑・柳川秀夫が代表世話人となる。熱田の辞任理由は表向き「体力の衰えと家庭の事情」とされたが、実際には熱田派(以降、旧熱田派)の対話路線への反発であったとされる[217][412]。
- 4月12日:日本飛行機専務宅放火殺人事件。中核派の犯行[145][184][412]。
- 4月25日:中核派が、日本空港ビルデング常務宅を時限式発火装置で放火[145]。
- 4月27日:東武鉄道変電所を時限式発火装置で放火[145]。
- 5月2日:中核派が、成田市内の有料駐車場を放火。海外旅行者らの車両32台が全半焼[145][415]。
- 5月15日:反対同盟旧熱田派がパンフレット『20年が過ぎた成田事業認定-私たちは政府と公開論争を続けています』を発行。
- 7月19日:航空大学校校長宅放火未遂事件が発生。警察は中核派の犯行と断定[145][184]。
- 7月20日:空港公団管理道路で北原派の宣伝カーを運転していた共産同蜂起派の活動家が検問をしていた空港警備隊と小競り合いになり、逮捕される[145]。
- 8月11日:旧熱田派が香山新田地区で「原野祭」を開催[269]。
- 8月16日:革労協解放派が、佐原警察署伊能駐在所を時限式火炎放射装置で放火[145]。
- 8月20日:中核派が、美浜中学校に仕掛けた時限式発射装置で金属弾を葛南警察署に向けて射出[145]。
- 8月22日:早朝、南三里塚の千葉県道62号成田松尾線沿いにあった中核派の団結小屋「三里塚闘争会館」に対し、運輸省職員が成田新法に基づく封鎖を通告。立てこもった活動家4人が応じなかったため除去に切り替えられ、撤去作業が開始される。中核派の温存方針により活動家らは火炎瓶などを用いず、8時間で全員逮捕される。撤去作業は翌日に完了。11月の即位礼正殿の儀等を前にして中核派のゲリラが活発化していたことを受けたもので、用地外の団結小屋では初めての成田新法に基づく撤去処分[127][145][412]。
- 9月13日:「野戦病院」(中核派)・「菱田現地第一砦」(共産同戦旗派)に使用禁止命令が通告される[369]。
- 9月28日:開港以来の国際旅客1億5千万人達成。
- 10月15日:早朝、革労協の団結小屋である「大清水団結小屋」に対し、運輸省職員が成田新法に基づく除去処分を通告。活動家2人が立て籠もるが勢力温存の方針から抵抗は投石のみにとどまり、7時間後に機動隊員に逮捕される[145][169][412]。
- 10月18日:反対同盟旧熱田派の石井新二・村山元英千葉大学教授・真行寺一朗芝山町町長・伊橋昭治芝山町議・吉岡誠芝山町議らが発起人となり地域振興連絡協議会設立準備会が開催される(事務局は「椎の木むら」に設置)[83][412]。
- 10月20日:革労協解放派が、成田警察署八生駐在所を火炎瓶で放火。逃走に用いられた車両が時限式発火装置で燃やされる[145][184]。
- 10月26日:第18回新東京国際空港騒音対策委員会開催[281]。
- 11月1日:成田空港問題の話し合い解決と地域振興を目指す第三者機関「地域振興連絡協議会」(地連協)が発足し、設立総会が開かれる。反対同盟旧熱田派・千葉県・周辺市町などが参加。反対派が公式の話合いの場につくのは三里塚闘争史上初めて[412]。
- 11月6日:開港以来の発着回数が100万回達成[83]。
- 11月11日:警戒中の警備員に向かって、戦旗荒派の「横堀団結の砦」から火炎瓶が投げつけられる。翌日にも同様の犯行[83]。
- 11月12日:芝山町香山新田の草地から使用済みの金属弾発射装置が見つかり、建設中の第2旅客ターミナル付近から金属弾が発見される。当日は明仁天皇の即位の礼(即位礼正殿の儀)が行われ、多くの諸外国の要人が空港を利用していた。犯行声明はなかったものの、金属弾から戦旗荒派の犯行と断定される。空港以外でも各地でテロが相次ぐ[83]。
- 11月27日:同月の火炎瓶投擲を受け、政府・空港公団が成田新法に基づき、戦旗荒派の団結小屋である「横堀団結の砦」を撤去(~29日)。成田新法に基づく除去は6件目で、ゲリラ活動を展開する過激派の拠点はこれをもってすべて撤去される。その際、熱田一が耕作していた畑が空港公団と機動隊によって荒らされる[83][412][416]。
- 12月3日:中核派が運輸省電子航法研究所宅を時限式発火装置で放火。千葉県出納局長宅の放火も試みられるも、作動前に発見され、未遂に終わる[145][184]。
- 12月16日:村山教授・石井新二、運輸省の高橋朋敬新東京国際空港課長が、隅谷三喜男・高橋寿夫(日本空港ビルデング社長・元航空局長)・山本雄二郎(高千穂商科大学教授)を訪ね、学識経験者としての仲裁役を依頼、了承される[417]。
- 12月17日:地連協が国側・反対派双方の犠牲者を弔う初めての鎮魂祭を開催。二階俊博運輸政務次官・松井和治空港公団総裁・沼田千葉県知事ら約200人が参列。一方、反対同盟北原は反対集会を開催し、旧熱田派も「加害者と抵抗者の死を一緒にするのは不可能」との声明を発表[148][412]。
- 12月20日:東京高等裁判所は77年5月8日の衝突で死亡した東山薫の死因について、一審判決を破棄して機動隊によるガス弾の頭部直撃によるものと認定し、千葉県に3,940万円の賠償命令判決を下す[286]。千葉県は不服として27日に最高裁判所に上告。
- 12月29日:東山事件に対する県の上告を受けて、旧熱田派がシンポジウム不参加を表明[417]。
1991年
- 日米構造協議での公共事業拡大要求もあり、運輸省が「総滑走路延長指標」の目標達成のために大都市の空港の拡大よりも建設が容易な地方空港の建設を推進するようになる[418]。
- 1月18日:開港以来の航空貨物取扱量1千万トン達成。
- 2月1日:中核派が、反対派農家の農作物を取り扱う農産物直販事業所を名目として、栗源町(現・香取市)に「三芝物産北総センター」を開設。活動家が常駐し反対運動を支援する拠点となる。中核派は成田新法の適用により空港周辺の拠点を失っていた[412][419]。
- 2月4日:芝山町議会空港対策特別委員会で熱田派系「芝山町を考える会」所属の吉岡誠町議が、横風用滑走路の代わりに九十九里沖に滑走路を建設してそこから空港を高速鉄道などで結ぶ案を提唱[242]。
- 2月10日:大阪航空局福岡空港事務所長宅に仕掛けられた時限式発火装置が作動前に発見される[145]。
- 2月14日:地連協が「シンポジウム趣意書」を発表[417]。
- 2月23日:第1ターミナル付近の駐機場に金属弾が着弾する。千葉県警が付近を捜索したところ、空港西側(大清水地区)の林の中から発射筒3本が発見され、付近の畑からも別の金属弾が見つかる。着弾時間帯には日本エアシステム機がスポットインする予定であった。自衛隊幹部や在日米軍住宅を標的としたテロなどと合わせて中核派が翌日の集会で犯行声明[145][188]。同日、宇沢弘文(新潟大学教授)が木の根ペンションを訪問し、旧熱田派と会見。シンポジウムへの参加を決意[417]。
- 2月24日:千葉県知事代理が、石井新二の仲介で東山家を訪問[417]。
- 3月19日:成田線成田駅 - 成田空港駅、京成本線京成成田駅 - 成田空港駅が開業。JR・京成ともに空港ターミナル地下に乗り入れ[217][420]。
- 4月9日:地連協が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟三派に、公開シンポジウム参加を申し入れる。旧熱田派は5つの条件((1)二期工事の土地問題で強制的手段をとらないことを運輸省に確約させる(2)学識経験者もシンポジウムに参加する(3)協議会は反対同盟と運輸省が対等な立場であることを保証する(4)シンポジウムは相互意見発表と議論の場であると位置づける(5)適正な議論が行われない場合は旧熱田派は参加を拒否する権利を有する)付きで参加を提示[275]。翌日、北原派は「シンポに協力する脱落派を徹底糾弾する」と声明を発表。小川派は20日にシンポ不参加を声明。
- 4月20日:小川派がシンポジウム不参加を表明[417]。
- 5月:戦旗荒派が多古町に「赤池物流センター」を開設[412]。
- 5月7日:中核派が、時限式発火装置で空港工事関連2社の倉庫や車両等を放火[145]。
- 5月15日:シンポジウムに向けた学識者グループが発足。顔ぶれは相磯和嘉(千葉大学名誉教授)・隅谷三喜男・宇沢弘文・高橋寿夫・山本雄二郎・原田正純(熊本大学助教授)とされたが、高齢や多忙を理由に相磯と原田が辞退し、変わって河宮信郎(中京大学教授)が参加[230]。
- 5月19日:北原派が全国集会でシンポジウム粉砕を呼びかけ[417]。
- 5月28日:村岡兼造運輸相が、地連協に対して、二期工事の土地問題の解決にさいして、いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約[421]する旨を文書で回答[275]。
- 6月10日:中核派が自民党千葉県議員宅を時限式発火装置で放火。住宅を含む5棟や車両2台が全半焼。12日に「この戦闘は、運輸省、空港公団と共に成田二期工事を推進している千葉県庁と千葉県自民党に対する怒りの鉄槌であり、その新たな第一弾である。われわれは、協議会による『公開シンポジウム』の策動、ならびに二期工事の強行、収用委再任命と強制代執行の攻撃にたいして、いかなる手段に訴えても徹底的にたたかいぬいて絶対に粉砕する決意である」と犯行声明[145][422]。
- 6月15日:学識経験者らが自らを「隅谷調査団」と名乗り、シンポジウムの主催を地連協から調査団に移す旨を声明[417]。
- 6月17日:旧熱田派がシンポジウム参加を正式決定[275][420]。
- 6月25日:クロアチア共和国がユーゴスラビアからの分離と独立を宣言(ユーゴスラビア紛争)。
- 7月:石毛博道が旧熱田派事務局長に就任。
- 7月2日:地連協の村山会長が、シンポジウムの主催を隅谷調査団に依頼[230][417]。
- 7月13日:隅谷調査団が、シンポジウム運営委員を学識経験者・運輸相・反対同盟・自治体等に委嘱。運営委員会によるシンポジウム準備が進められる[417]。
- 7月23日:東峰の二期地区内に住む農家9戸(北原派:萩岡進、旧熱田派:石井武、小川派:島村昭治 等)が、当方で行われる二期工事を「軒先工事」として抗議する声明を成田市を通じて空港公団に提出。これを受け空港公団はシンポジウムが開催されることも勘案して工事を凍結[79]。
- 7月28日:中核派が千葉県空港対策課長宅に時限式発火装置を仕掛けるが、隣の空家宛の宅配物と思慮した同課長が装置を移動し、空家の玄関で炎上[145]。
- 8月1日:二期区域エプロン一部供用開始。
- 8月12日:熱田一の申し入れを受け、「旧熱田派」への名称変更が合意される[412][420]。
- 8月10日:二期用地内で、旧熱田派や地元住民らが結成した「都はるみ 星と大地にうたう会」が、『三里塚・都はるみ・星空コンサート』を開催(空港周辺市町後援、地連協協賛、空港公団も駐車場敷地等を提供)[127][420]。
- 8月19日:ソ連8月クーデター。
- 9月2日:中核派が東京都品川区上大崎にある運輸省の寮を放火。厨房や車両が炎上[145][184]。
- 9月4日:中核派が、陸上自衛隊朝霞駐屯地施設・堤功一外務省審議官実父宅とともに、空港建設に関わっていた梓設計常務宅と日揮社員寮を放火。このうち外務省審議官実父宅への放火では標的を誤ったうえに死者を出すが、中核派幹部の北小路敏は「家族にも半ば責任はある」と開き直る[145][184][423]。(外務省審議官実父宅放火殺人事件)
- 9月5日:千葉県企画部理事長兼シンポジウム運営委員宅を付近の小学校からゲリラのための下見をしていた中核派の非公然活動家を逮捕[145]。
- 10月13日:北原派が10・13現地闘争全国集会を開催し、「公開シンポジウム粉砕」を訴える。北原事務局長は「拡張工事を促進するためのでっち上げ」と批判。集会に参加しようとした共産同戦旗派の活動家1人が検問をしていた機動隊と小競り合いになり、公務執行妨害で現行犯逮捕[145][424]。
- 10月28日:中核派が空港公団施設工事部調査役宅を時限式発火装置で放火[145]。
- 11月:革労協狭間派が栗源町に「三里塚企画」を開設[412]。
- 11月5日:宮澤内閣が発足。運輸相に就任した奥田敬和が、拝命後の記者会見で「いつまでも待っているわけにはいかんでしょう」と強制収用の可能性を示唆[83][420]。同日、革労協解放派が、千葉県監察委員会事務局第二課長(元千葉県空港対策課主幹)宅を時限式発火装置で放火。自宅・車両・隣家が全焼[145]。
- 11月6日:未明の会見で、奥田運輸相が前日に続き「国民が納得するなら(強制収用を)決断する」と発言。旧熱田派は「発言を撤回しない限りシンポジウムに参加しない」と表明。13日に開催予定の成田空港問題シンポジウムの開催が延期される[420]。
- 11月13日:中核派が、東京空港交通の保養所及び日本空港ビルデングが以前保養所にしていた山荘を時限式発火装置で放火[145][425]。
- 11月15日:奥田大臣が、閣議で強制収用放棄の方針を報告し、了承を得る。同日、旧熱田派がシンポジウム参加を再表明[426]。
- 11月21日:第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回に亘り成田国際文化会館と芝山文化センターで交互に開催)。国と反対派が公式の場で本格的に対話するのは闘争史上初。行政側からは奥田運輸相・沼田千葉県知事・長谷川成田市長・松井空港公団総裁らが出席。旧熱田派の石毛事務局長が「徳政をもって一新を発せ」と題する意見発表を行い、奥田運輸相が過去の不手際を謝罪したうえで二期工事の必要性を訴える[83][420]。
- 11月29日:第6次空港整備5ヵ年計画が閣議決定される。計画では中部国際空港とともに首都圏第3空港についての総合調査着手が盛り込まれる[412]。
- 12月25日:ソビエト連邦の崩壊。
1992年
- 2月18日:中核派が、千葉県総務部長宅・元運輸省航空局長宅・千葉県農林部次長宅・千葉県商工労働部長宅・武南警察署神根駐在所・全日本空輸常務宅を、時限爆弾で爆破[145][184]。
- 3月14日:日本国政府専用機が整備を受けるために初めて成田空港に飛来、政府専用機飛来の情報は過激派に対する懸念から秘匿される。後に空港公団の広報誌で公にされると、中核派が「政府専用機が成田に常駐し、PKOの出撃拠点となる」と機関誌で主張するなどして、「成田軍事空港化」の攻撃材料とされる[376]。
- 4月27日:中核派が空港公団工務部次長宅を時限式発火装置で放火[145]。
- 5月13日:中核派が空港公団運用局幹部宅を時限式発火装置で放火[145][184]。
- 6月1日:空港公団工事局幹部宅に仕掛けられた時限式発火装置が作動前に発見される[145][184]。
- 6月2日:佐倉市内の団地造成地に仕掛けられた時限式発火装置が作動前に発見される[145]。
- 6月3日:熱田一とともに徹底抗戦を主張し、旧熱田派の世話人をしていた小川源が食道癌で死去[119]。
- 6月16日:中核派が空港公安事業本部幹部宅を時限式発火装置で放火。同時刻に空港工事請負業者の隣家が放火され全焼[145][184]。
- 6月29日:日本の伝統文化を紹介するテーマパークの建設を計画していた第3セクター「成田ジャパンビレッジ」がバブル崩壊のあおりを受け、株主総会で計画中止を正式決定[427]。
- 7月1日:成田新法事件で最高裁判所が成田新法を合憲とする判決を下す[241]。
- 8月1日:南側エプロン供用開始。
- 8月6日:空港公団が過去最高の黒字決算(225億円)を発表[127]。
- 8月25日:騒音地から移転した元熱田派の反対同盟員宅が時限式発火装置で放火される[145][184][428]。
- 9月28日:「シンポ粉砕」を主張する革労協が、前月の元反対同盟員宅への放火を批判した隅谷三喜男調査団団長の自宅に、公園に仕掛けた時限式発射装置で金属弾を発射[140][145][184][428]。
- 10月3日:中核派が日本航空研修センターを時限式発火装置で放火[145]。
- 10月26日:成田財特法の延長を国には働きかけることを目的として、千葉県が周辺地域の振興計画策定を進める成田空港周辺地域振興推進本部設置を発表[169]。
- 10月31日:北側エプロン供用開始。
- 11月11日:空港公団幹部・前田伸夫の自宅が、時限爆弾により爆破される。前田伸夫は過去に反対派の用地交渉に携わっており、爆風で倒れてきた家具に足を挟まれて骨折。飼い犬が爆破による傷がもとで死ぬ。中核派が犯行声明[145][184][429]。
- 12月3日:第2旅客ターミナルビル地下の「空港第2ビル駅」が供用開始[148][427]。
- 12月6日:第2旅客ターミナルビル供用開始。日本航空など国内4社及び外国28社が移転。老朽化した第1旅客ターミナルビルの改修のため、北ウイングの第1・第2サテライトが閉鎖される[148][427]。
- 12月10日:第2ターミナルの供用について反対同盟小川派が抗議声明。
- 12月14日:第2ターミナルの供用開始に伴う騒音や排ガスについて、東峰地区の反対農家など9戸が公開質問書を成田市を通じて空港公団に提出。空港公団は「できる限りの対策を講じたい」とする回答を東峰区の梅沢勘一区長に手渡し[148]。
- 12月17日:中核派が元千葉県収用委員宅を時限式発火装置で放火[145]。
1993年
- 1月4日:空港公団総裁が交代し、元海上保安庁長官の山本長副総裁が昇格。元総裁となった松井は「二期工事がここまで進んだことが成果とも言え、ここまでしか進まなかったことが心残りでもある」と翌日の記者会見で述べる[430]。
- 2月2日:第2旅客ターミナルビルに対応した新管制塔が供用開始。全高は87.3mで、当時の管制塔としては日本一の高さを誇った(2017年現在でも羽田空港の管制塔に次ぐ第2位の高さ)。1978年の占拠事件での舞台となった旧管制塔の管制室は空港公団に移管され、ランプコントロールの用に供される[427]。
- 2月5日:開港以来の国際旅客2億人達成。
- 2月14日:旧熱田派農家や支援者らが第2旅客ターミナルビル南側の駐機場エリアに残された「梅の木共有地」で梅見を行う。当初共有地は33人が所有していたが、空港公団が内32人分の権利を取得しており、残された33分の1の権利を熱田派の農家など8人で再分割したものである。梅の木は一度ほとんどが枯れており、空港公団が前年の春に20本を後で植え直していた[243][431]。
- 2月23日:中核派が、大塚茂元空港公団総裁の自宅駐車場に停められた乗用車を時限式発火装置で放火。車両のほか台所外壁が損傷[145][194]。
- 3月5日:中核派が、元運輸事務次官・空港公団副総裁でJR貨物会長の町田直の自宅を時限式発火装置で放火[194]。
- 5月17日:革労協が、佐原警察署に金属弾を撃ち込む[230]。
- 5月21日:隅谷調査団団長名で北原鉱治宛に「地域の理性あるコンセンサスをつくりあげる新しい場」への参加を求める書簡が出される。北原派は記者を集めてその目の前でこの書簡を焼き、シンポジウムへの批判を行う[432]。
- 5月24日:第15回成田空港問題シンポジウム開催(終了)。(1)空港建設予定地に対する収用裁決申請を取り下げる(2)B・C滑走路の建設計画を白紙撤回する(3)シンポジウムに続く新たな話し合いの場を設けて問題解決に向けて議論する の3点で合意[230][430]。
- 6月13日:真行寺一朗の後継を決める芝山町長選挙で、内田裕雄が相川勝重を破って当選[433]。
- 6月16日:シンポジウムでの合意事項を受けて、空港公団が収用裁決申請を取り下げ、事業認定が失効。「ゴネ得」防止のために事業認定時の価格を基準として物価スライドのみを認めている土地収用法の枠が外されたことにより、2期地区の用地買収価格は5倍にまで跳ね上がる[119][230][430]。
- 6月17日・20日:山本空港公団総裁が用地内農家8戸を含む地権者13戸を訪問し、収用裁決申請取り下げを報告[430]。
- 7月18日:第40回衆議院議員総選挙で新党が躍進[430]。
- 8月1日:中核派が武装闘争から大衆運動・組織建設に比重を移す方針を集会で打ち出す(八・一路線)[230]。
- 8月9日:細川内閣が発足し、自民党が下野(55年体制の崩壊)。
- 9月20日:第1回成田空港問題円卓会議開催(以後12回開催)。空港と地域との共生の在り方を中心に議論が進められる[140][430]。
- 10月20日:菱田地区の農家10戸が空港公団と移転補償契約を締結[406]。
- 11月24日:空港公団が二期工事を中断[230]。
- 12月23日:空港公団が、初の試みとして周辺住民を対象にクリスマス祭を開催。以降毎年恒例の行事となる[148][430]。
1994年
- 1月31日:子供たちに気軽に空港に見てもらうことを目的に、空港公団が地元の小中学生向けに「成田空港パスポート」を配布[413]。
- 3月7日:伊藤茂運輸相が「成田貨物空港化」等を提言する論文を東洋経済に掲載。翌日の会見で「論文は友人が執筆したもので、内容は十分に確認しなかった」と釈明、19日発売の同誌インタビューで「成田は国際空港として整備する」「地元や関係者に不信感を抱かせてしまい申し訳ない」と述べた[194][430]。
- 3月29日:この日開催された第6回成田空港問題円卓会議に、伊藤運輸相が東洋経済に掲載した論文について「ご迷惑をおかけし申し訳ない」とする釈明文を提出[194]。
- 4月7日:運輸省新東京空港事務所が航空機落下物現地対策委員会を開き、成田に乗り入れる航空会社51社に対して落下物の自発的報告を要請[275]。
- 4月28日:羽田内閣発足。
- 5月16日:早朝、空港公団事業本部管理部次長宅で時限式発火装置が見つかる。成田空港問題関連のテロ事件としては前年5月17日の佐原警察署への攻撃以来であり、千葉県で約1年に亘りテロが行われなかったのは開港以来初[230]。
- 6月23日:「国際エアカーゴ基地」を目指す新千歳空港で国内空港初となる24時間運用が開始される[414][434]。
- 6月27日:13年間の丁寧な取り組みを経て開港にこぎつけたミュンヘン空港の現地調査を行い成田空港問題解決の参考とすることを目的として、成田空港問題円卓会議に参加している運輸省・空港公団・旧熱田派・住民団体らによる「ミュンヘン新国際空港調査団」が、ドイツに向けて成田を出発。翌月3日に帰国[119][414]。
- 6月30日:村山内閣が発足。自社さ連立政権となり、自民党が与党に復帰。
- 7月26日:第10回成田空港問題円卓会議で、旧熱田派がB・C滑走路予定地に地球環境に配慮した「地球的課題の実験村」建設を要求[140]。
- 8月24日:空港と地域の共生を考える勉強会で、6月から7月にかけて行われたミュンヘン空港施設の報告が行われる[54]。
- 9月4日:関西国際空港開港[414]。
- 9月13日:第11回成田空港問題円卓会議で、運輸省が横風用滑走路計画の凍結と当該施設の誘導路としての使用を提案し、旧熱田派に歩み寄りを見せる[140]。
- 9月15日:A滑走路16(北側)進入方式フルカテゴリーII運用開始。
- 9月29日:国との対話路線を推進した旧熱田派の石毛事務局長が「これまでの戦争状態を終結させる私の仕事は終わった」として辞意表明[140]。
- 10月11日:成田空港問題解決のための第12回成田空港問題円卓会議で、国と旧熱田派が学識経験者による調停案を受入れ(円卓会議終了)。会議の終わりには東峰十字路事件発生時に警察庁警備課長補佐として現場指揮を行っていた亀井静香運輸相と同事件での逮捕歴がある石毛博道旧熱田派事務局長が握手を交わす。会議終了後に石毛は記者会見で「三里塚闘争は名実ともに終わりを告げた」と闘争終結を宣言し、全国の支援者への感謝の気持ちを述べてから反対同盟離脱を表明[435]。
- 隅谷調査団所見の概要は以下のとおり[436]。
- 平行滑走路の整備は必要であるという運輸省の方針は理解できる。ただし、その用地取得は話し合いにより行うこと。横風用滑走路の整備については、平行滑走路が完成する時点で改めて提案すること。なお、横風用滑走路建設用地を現滑走路と平行滑走路間の航空機の地上通路として整備するという運輸省の方針については、横風用滑走路とは別の問題として理解できる。
- 円卓会議で提案のあった「地球的課題の実験村」の構想については、その意義を高く評価する。国は運輸省に検討委員会を設けて、すみやかに具体化のための検討を開始すること。
- 空港の建設・運営における攻勢を担保するための第三者機関として、共生懇親会(仮称)を設置すること。
- 騒音対策の一層の充実や成田空港周辺地域振興策の推進などについては、円卓会議の結論に従って、その実現の為に努力すること。
- 円卓会議を構成するすべての構成員および関係するすべての地域社会の住民によって所見が受け入れられ、合意された事柄がすべての関係者によって尊重され実現を見ることによって、四半世紀を超える対立構造と不信感とが解消し、地域の将来の発展が図られていくことを強く期待する。
- 今後の空港の整備についは、円卓会議の結論に則り、まず、平行滑走路を整備すること。
- 運輸省が行う「地球的課題の実験村」構想の具体化に関する検討作業に協力するとともに、これに関連し、自ら取り組むことが適切な課題について積極的に対応すること。
- 共生懇親会(仮称)の討論の結論については、誠意を持って受け止め、その実現を図ること。また、共生懇親会の円滑な運営について積極的に協力すること。
- 空港と地域との共生の観点から、騒音対策の一層の充実や騒音地域の計画的な緑化に積極的に取り組むとともに、地域振興についても貢献するよう努めること。
- 11月1日:空港公団が地域共生室と地球環境管理室を設置[437]。
- 12月10日:成田空港問題円卓会議拡大運営委員会が成田市役所で開催され、成田空港地域共生委員会・「地球的課題の実験村」構想具体化検討委員会・芝山鉄道延伸整備検討委員会の設置が正式に決定[148][414][437]。
- 12月12日:中核派が空港公団社宅駐車場の車両を放火[184]。
- 12月22日:空港公団総裁の諮問機関として、騒音・大気・水質・植生などの各専門分野の学識経験者らからなる地域環境委員会が設置される[437]。
1995年
- 1月10日:小川派代表の弟小川喜平が、村山富市首相及び亀井静香運輸相あてにこれまでの空港づくりへの反省を促す書簡を送付[237][431]。
- 1月10日:「空港運営を住民の立場でチェックする」として、成田空港地域共生委員会が発足(代表委員は隅谷調査団メンバーだった山本雄二郎)[148][405][438]。
- 1月17日:阪神・淡路大震災。
- 1月20日:10日に出された書簡に対する村山首相・亀井運輸相からの返書が小川派に届く[237][431]。
- 1月21日:政府側からの返書を受けて、小川派代表の小川嘉吉が反対運動の終了を決定(事実上の小川派解散)。その後小川派のメンバーと移転に向けた交渉が進められるが、島村昭治が翌日に支援者らとともに旗開きを行って反対運動継続を宣言し、2018年現在も東峰地区の用地内に留まり続けている[237][431][439]。
- 1月24日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の初会合が航空会館で開かれる[151][414]。
- 2月6日:航空機落下物防止のための施策である「洋上脚下げ」の実施状況を確認するための海岸観測を運輸省新東京空港事務所が実施。空港事務所は2時間の間に飛来した45機のうち3機が実施していなかったことを確認し、洋上脚下げの徹底を航空会社に再度要請[272]。
- 3月20日:地下鉄サリン事件。
- 4月8日:開港以来の国際旅客2億5千万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。
- 4月23日:この日行われた成田市長選挙に、社会党の議員として三里塚闘争を支援していた小川国彦が完全空港化などを掲げて立候補し、下馬評を覆して小林攻らを破り当選[204][433]。
- 5月7日:小川嘉吉と国が合意書を締結[注 11]。
- 5月13日:革労協狭間派が第2旅客ターミナルビル内でパチンコ玉を発射[184]。
- 6月7日:航空機の地上走行を妨げていた「梅の木共有地」について、2日前に旧熱田派が持ち分を土地提供者に返還し、さらに空港公団がその所有権をすべて取得。植えられていた梅の木は東成田駅のロータリー付近に移され、翌年2月に「共生への願いを込めて」と刻まれた記念碑が設置される[119][281][431][441]。
- 6月22日:第2旅客ターミナルビル南側エプロン部分の一坪共有地の所有権を空港公団が全て取得。
- 7月20日:小川嘉吉が訴訟の終結方法等について国と同意。
- 7月28日:小川嘉吉・喜平兄弟が、二期工事差し止め訴訟を取り下げ[79]。
- 8月9日:小川嘉吉が空港建設を巡る4件の行政訴訟を取り下げ[79]。
- 8月22日:空港公団が成田市芦田地区の8戸と集団移転補償契約を締結。
- 10月25日:未明、中核派が地連協初代会長である村山元英の自宅を時限式発火装置で放火し、家屋を半焼。一家は就寝中であったが、次女が火災に気付き、難を逃れる。地元住民・旧熱田派農民・空港関係者らが駆けつけて村山らを見舞い、地元からは「今度という今度は我慢できない」との激しい怒りの声が上がる[442]。
- 11月22日:中核派が空港公団企画室主幹宅を放火[184]。
- 12月7日:「梅の木共有地」撤去が完了[405][431]。
- 12月13日:旧熱田派がタイのNGO「開発に関するアジア文化フォーラム」がコーンチアム郊外で開催した集会に参加し、柳川世話人が三里塚闘争の経緯や現状を発表する。同行した元小川プロの福田克彦が『第二砦の人々』を投影しながら空港問題の概略を説明[148]。
1996年
- 1月11日:橋本内閣が発足。
- 1月19日:1990年の「横堀団結の砦」撤去の際に起きた作物被害を巡って、熱田一が国を相手取り千葉地裁で争っていた損害賠償裁判で、国が謝罪するとともに約225万円の和解金を支払うことで和解が成立[370][443]。
- 2月:東京一極集中是正の観点から行政組織の地方移転が検討され、運輸相が空港公団を移転の対象としたことから、空港公団法が改正されて空港内への移転が正式に決定する。
- 3月18日:「宇部方式」を用いて騒音問題等を解決した山口宇部空港を成田空港地域共生委員会メンバーらが視察[217]。
- 3月28日:ILSカテゴリーIIIa運用開始、及びストップ・バーシステム供用開始。
- 4月30日:元小川派代表の小川嘉吉が移転に合意したことを亀井善之運輸相及び中村徹空港公団総裁が発表。11年ぶりの移転合意[204]。
- 5月10日:小川嘉吉の弟、小川喜平が自宅前の畑で離農式を行う[83]。
- 5月31日:チューリヒの国際サッカー連盟(FIFA)本部で、2002年予定のFIFAワールドカップを日韓共同で開催することが発表される。
- 6月5日:芝山鉄道早期実現住民会議が発足[119]。
- 7月1日:空港公団本社が成田空港内の旧日本航空オペレーションセンターに移転。周辺住民約8000世帯に引っ越し挨拶の手拭を配布[79]。
- 7月9日:中核派が空港公団工務部管理課長宅を爆破[184]。
- 7月12日:東山事件について、最高裁が県側の上告を棄却し、原告勝訴が確定[286]。
- 7月17日:空港公団が用地提供者らを招き移転記念の懇親会を本社ビルで開催[79]。
- 7月18日:小川嘉吉が空港公団と移転契約を締結[370]。
- 9月10日:空港公団が新しいシンボルマークを公表。旧シンボルマークは3本の滑走路を連想させるものであったのに対し、新しいものは空港公団の略称である「NAA」の文字と空港・地域住民・利用者を現す3つの三角形(共生策・空港づくり・地域づくりの三位一体)で構成される[444]。
- 9月11日:空港公団が創立三十周年記念パーティーを本社ビルで開催。挨拶中に地震が派生するハプニングに見舞われた中村空港公団総裁が、「公団三十年の歴史のようです」と述べる[140][370]。
- 9月18日:熱田派系の団結小屋4件について、成田新法に基づく使用禁止が解除される[370]。
- 10月21日:中核派が運輸省航空局幹部宅の車両を放火[184]。
- 11月12日:小川喜平が空港公団と移転契約を締結。残る用地内農家が6戸となる[83][370]。
- 11月20日:沼田千葉県知事が、北原派を支援する新左翼党派の妨害などによって中断させられていた騒特法に基づく騒音対策基本方針見直しを行う考えを表明。都市計画に「航空機騒音障害防止特別地区」及び「航空機騒音障害防止地区」を設けて騒音地対策を行うための手続きが進められる[83]。
- 12月11日:航空審議会が答申した第7次空港整備5ヵ年計画の審議の中で、国内線の充実、成田・羽田を結ぶ直通電車の運行、B滑走路の2000年度完成(目標)などの方針(「今後の成田空港と地域との共生、空港整備、地域整備に関する基本的考え方」)を運輸省が打ち出す。一方、計画の中には首都圏第三空港の整備も盛り込まれる[148][370][405]。
1997年
- 2月25日:中核派が芝山鉄道社長宅を爆破[184]。
- 3月27日:羽田空港の新C滑走路が供用開始[230][338]。
- 4月3日:開港以来の国際旅客3億人達成。
- 5月4日:「労農合宿所」が閉所し、「横堀農業研修センター」と改称[369]。
- 6月1日:空港公団が、空港建設予定地の取得と総合的な共生策を推進するための「空港づくり推進本部」及び「地域共生推進本部」を発足させる[281][445]。
- 6月17日:中核派が運輸省大臣官房審議官宅を爆破[184]。
- 6月19日:一宮町議会が、九十九里沖への首都圏第3空港建設を求める意見書を採択[119]。
- 6月25日:円卓会議での合意事項である空港と地域との共生策の一環として、成田空港周辺地域共生財団の設立発起人会が開催される[119]。
- 7月27日:成田市内の航空機騒音下の地域に住む約7700世帯から選ばれた理事ら約100人構成する「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、総会で「共生の実現に向けて、より積極的な活動を展開する」とする共生決議を採択[79][433]。
- 8月19日:二期地区内の木の根地区に居住する旧熱田派の農家2戸(小川明治・小川源の子息であり、いとこ同士)が空港公団と移転交渉を行うことで合意。熱田派系の用地内農家がいなくなる[127]。
- 8月7日:中核派秘密アジト「藤沢アジト」が6月17日の審議官宅爆破事件等の捜査で摘発され、水溶紙メモや武器製造・開発・研究等に関する資料、工具類等が押収される[184][445]。
- 9月:6月17日の審議官宅爆破事件捜査のための全国一斉捜索が行われ、東京都内の中核派拠点の捜索で、免状不実記載罪で指名手配中の中核派秘密部隊員が検挙される[445]。
- 9月9日:富津市沖での首都圏第三空港建設の可能性を探る富津市新空港研究会が発足[140]。
- 9月16日:横堀墓地を入会地だとする熱田一らと、瀬利元反対同盟副委員長の相続人から所有権を取得したとする空港公団とが争っていた、横堀墓地訴訟で、和解が成立。千葉地裁では熱田側の請求が棄却されていたが空港公団が譲歩し、熱田の所有権が回復される[140]。
- 9月22日:革労協が成田国際高校校舎から成田警察署に向けて金属弾を発射[140][184][445]。
- 9月25日:中核派が空港公団職員宅を放火[184]。
- 10月13日:開港以来の航空貨物取扱量2千万トン達成。
- 10月16日:元小川派メンバーの天神峰地区農家が移転契約を締結[169][184][433]。
- 10月24日:内田芝山町長が収賄容疑で逮捕される[433]。
- 11月7日:北原派農家(10月16日に移転契約を結んだ農家の叔父)が移転契約を締結。北原派用地内農家の移転同意は初。用地内農家は2戸となる[169][184]。
- 11月12日:成田市内にある芝山鉄道専務宅が中核派により爆破される[184]。
- 12月7日:熱田派を離脱し、「2000年までに成田国際空港平行滑走路完成」や「芝山鉄道建設」などを公約に掲げて反対派のイメージを払拭した相川勝重が、芝山町長選挙で当選[148][433]。
- 12月10日:成田市議会が「過激派暴力集団の排除等に関する決議」を可決。
- 12月15日:中核派が運輸省大臣官房技術審議官宅車両等を放火[184][445]。
1998年
- 1月22日:芝山鉄道線建設工事が着工(トンネル工事等は二期工事の一環として既に実施されていた)。開港前年に後背地となる芝山町が要望して以来、21年越しの実現となる[151][338]。
- 2月1日:第1旅客ターミナルビル第1サテライトの供用開始。
- 2月2日:空港へ迫撃弾2発と金属弾1発が撃ち込まれ、貨物地区の作業員1人が迫撃弾の破片に被弾。救急車で近くの病院に救急搬送される。迫撃弾のうち、1発は近くで破裂し、金属弾1発は不発[184]。
- 2月25日:元運輸省航空局長で隅谷調査団メンバーの高橋寿夫が、建築中の自宅を時限式発火装置で放火される。中核派が犯行声明。
- 4月22日:千葉県企画課長の自宅が放火される。中核派が犯行声明。
- 4月25日:1日の発着枠を360回から370回へと改定。
- 5月1日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会が最終報告を取りまとめ、解散[230][338]。
- 5月18日:隅谷調査団が「空港問題は社会的に解決した」とする所見を藤井孝男運輸相に提出、翌日閣議で報告される。一方、地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の最終報告に不満を持つ一部旧熱田派や対話拒否を貫く北原派が依然残されていた[230][338]。
- 5月27日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の最終報告を踏まえ、運輸省と空港公団が周辺環境への配慮や農的価値の視点を大切にすることを謳った「エコ・エアポート基本構想」を発表[230][338]。
- 6月2日:松戸市-成田空港の運行に用いられている京成バスの車両が松戸市内の車庫で炎上。中核派が犯行声明[184]。
- 6月11日:1997年東京都議会議員選挙で自民党都議連が羽田空港の国際化を公約に掲げるなどの羽田再国際化を進める動きに対し、千葉県議会や自民党県議連が青島幸男都知事に遺憾の意を表明[230]。
- 6月17日:東京都議会が羽田空港再国際化を推進する意見書を採択。これに対し、千葉県議会が「空港問題に対する基本的認識が欠けている」とのコメントを出し、運輸省が「国際線は成田、国内線は羽田」とする方針に変わりがないことを強調[230][338]。
- 7月15日:運輸省と空港公団が、今後の空港整備の具体的指針となる「地域と共生する空港づくり大綱」を千葉・茨城両県に提示。「共生策、空港づくり、地域づくり」の三位一体で進めていくことが明記される。B滑走路の発着回数(1日247回、年間約9万回)や新しい飛行コースも示される[79][338]。
- 7月29日:横浜市の運輸省幹部が自宅玄関を放火され、火傷を負う。中核派が犯行声明[184]。
- 7月30日:小渕内閣が発足。
- 9月11日:運輸省航空局課長の自宅が爆破される。中核派が犯行声明。同日、成田開港後の初の国際民間チャーター便が、羽田からホノルルに向けて飛び立つ[230][338]。
- 9月17日:移転により住民がいなくなったことから、木の根地区で閉村式が行われる[127]。
- 9月24日:2期地区内にある組合道路売却を阻止するため、休眠状態となっている駒之頭開拓農協に北原派・旧熱田派・元小川派の農家5戸が加入[140]。
- 9月27日:旧熱田派を支援してきたプロ青同が現地闘争団を解散して三里塚闘争から撤退。解散時に現地に常駐していた活動家は1人。解散後、熱田一の敷地内にあったプロ青同の団結小屋は自主的に解体される[140][374]。
- 10月5日:東峰地区の地権者(農家8人とラッキョウ工場を営む"三里塚物産")らが「空港建設のためには農地は売らない」等とする「東峰声明」を発表。派閥を超えて反対派農家らが結束したことは、B滑走路建設の阻害要素となる[169][184][338][405]。
- 10月28日:千葉県旭市内の自民党千葉県連幹事長飯島重雄県議宅の車両が中核派に放火される[184][446]。
- 10月30日:4月の千葉県企画課長宅放火事件に関して、千葉県警が、千葉市にある動労千葉の会館や栗源町にある「三芝物産北総センター」など中核派拠点30カ所を家宅捜索[447]。
- 10月31日:午前1時35分ごろ、共生委員会事務所近くで不審な男女を警備員が発見。男女は逃走し、現場に残されたリュックからは火炎瓶らしきものが見つかる[184][447]。
- 11月18日:成田空港-羽田空港間直通列車運転開始[370]。(→エアポート快特)
- 12月16日:7月15日に提示された共生大綱に対し各自治体から寄せられた要望等を踏まえ、最終的な大綱が取りまとめられる[79]。
- 12月23日:開港以来の航空機発着回数200万回達成。
1999年
- 1月21日:北原派農家の市東東市が死去。市川市で飲食業を営んでいた子の市東孝雄が成田に戻り、誘導路が「へ」の字に湾曲する原因となっている東峰地区の耕作地を引き継ぐ。市東家は、大正時代に孝雄の祖父が開墾して以降、この地で農業を続けている[336][433][448]。
- 1月25日:芝山鉄道非常勤取締役宅が放火される。中核派が犯行声明[184]。
- 1月27日:鈴木朗運輸省審議官と永井隆男副総裁が東峰地区の反対派農家等を訪問。訪問活動は4月まで続けられるが反対派の態度は変わらず[387][449]。
- 1月28日:飛行コースを外れた航空機による騒音を防止するため、運輸省と空港公団が飛行コースに幅を設定するとともに航空機の監視を始める。合理的な理由のない逸脱が確認された場合には、会社名と便名が公表されるようになる[387]。
- 2月20日:東峰地区の反対派地権者らに対し、前年10月5日の声明に答えるとともに話し合いに応じるよう求める手紙を、川崎二郎運輸相が中村空港公団総裁との連名で送る。手紙は鈴木朗運輸省審議官と永井隆男副総裁によって手渡されるが、受け取りの拒否や未開封のままの返送等の冷淡な反応が目立る[229][387][449]。
- 3月:地元新聞社が行ったアンケート調査で、空港圏在住の住民の約7割が「平行滑走路の整備を急ぐべきだ」と回答[39]。
- 3月16日:第1旅客ターミナルビル北ウイングがリニューアルされ中央ビル新館とともに供用開始(南ウイングが改修の為に閉鎖)。
- 3月25日:運輸省が飛行コース幅設定から約一ヶ月の間に全体の約0.6%の便が逸脱したことを成田空港地域共生委員会に報告。山本雄二郎代表委員が「共生委員会としては飛行コースを一直線に飛ぶことを望む」と要望[387]。
- 4月2日:東峰地区の総会で、反対派が話し合い拒否を再確認[449]。
- 4月5日:黒野匡彦運輸省事務次官が「平行滑走路を一時凍結することも最悪の選択肢としてないとは言えない」と定例会見で述べ、地元市町や関係団体に危機感が広がる[275][449]。
- 4月6日:小川成田市長らが前日の黒野事務次官発言を遺憾とする申し入れ書を提出[275][449]。
- 4月11日:1999年東京都知事選挙で羽田空港の国際化を公約に掲げた石原慎太郎が当選。
- 4月14日:空港公団が平行滑走路予定地を横切る原野0.3ヘクタールを取得[449]。
- 4月15日:成田商工会議所などを中心に「成田空港早期完成促進協議会」が発足。B滑走路の進展に危機感を持った空港周辺1市7町で、平行滑走路早期完成を求める署名活動を開始。活動の結果、目標としていた10万人を大幅に上回る26万人の署名が集まり、運輸大臣に提出される[39][449]。
- 4月23日:林幹雄運輸政務次官が東峰地区の農家を訪問[387][449]。
- 4月27日:新消音施設(ノイズリダクションハンガー)竣工。5月7日から性能試験[230]。
- 4月28日:成田空港付近の路上から迫撃弾が射出され、発射に使用された車両が炎上。革労協狭間派が犯行声明[184]。
- 5月10日:反対派農家との用地売買交渉の目途が立たないことなどから、平行滑走路2000年度完成目標断念と反対派所有地を避ける形状での暫定滑走路建設を運輸省が発表[184][230][405][449]。
- 5月21日:川崎運輸相が中村空港公団総裁に暫定平行滑走路建設を指示。「2002 FIFAワールドカップ開催も念頭に、現計画に基づく2500mの平行滑走路の早期着工・運用開始を目指して、地元自治体、関係者の協力のもとに、今後とも地権者との話し合いを行い、その早急な解決を図る」としたうえで、「それが当面困難な場合には、暫定的措置として、平行滑走路の完成済み施設の一部とNAAの取得済み用地を活用して、ワールドカップ開催に間に合うよう延長約2200mの暫定平行滑走路を建設し、運用することを考慮する」方針が示される[39][184][230]。
- 6月:「周辺住民による成田空港問題フォーラム」が開催され、閉塞的状況が解消されることを望む声が上がる[39]。
- 7月7日:中核派が運輸省航空局国際航空課長宅(空き家)を放火[184]。
- 8月6日:栗源町住民ら(議会・区長会・商工金・婦人会・老人クラブ等12団体)で組織する「栗源5000人会」が、町人約5400人の署名とともに過激派排除の申し入れを空港公団等に提出[281][450]。
- 8月24日:空港公団が一坪共有地0.2ヘクタールを取得[184]。
- 9月3日:関係自治体・住民団体などへの130回にわたる説明会を経て、空港公団が平行滑走路等の整備に関する工事実施計画の変更認可申請。平行滑走路の完成て2001年11月30日に設定するとともに、マスタープランどおりの滑走路が整備できない場合に備えて約2200mの暫定平行滑走路が計画に追加される[39][230]。
- 9月12日:成田駅を出発直後のJR総武線の快速電車と京成成田空港駅に停車していた京成電鉄の特急電車で、時限式発火装置による小火が発生。革労協が犯行声明。
- 10月14日:空港公団が芝山町菱田地区の住民(11戸)と集団移転に係る補償契約及び代替地譲渡契約を締結[451]。
- 10月18日:9月3日の空港公団による計画変更の申請を受け、運輸省が航空法に基づく公聴会を32年ぶりに成田国際文化会館で開催[39][184][405][449]。公述人として参加した東峰地区の住民ら7人が反対意見を表明するが、これに対する非難の声も会場で上がった。公述人52人のうち、40人が賛成派で、残りの5人が騒音地区での防音対策を求める条件付き賛成の住民らであった[450]。
- 10月21日:自民・自由・公明の与党3党が、羽田国際化に向けて検討するよう運輸省に指示。
- 11月9日:空港公団職員宅が放火される。中核派が犯行声明[184]。
- 11月27日:沼田千葉県知事が反対派農家を初めて訪問。平行滑走路本体上の一坪共有地の持ち分を持つ反対派から、話し合いに応じる考えを示した手紙を託される[148][449]。
- 11月30日:27日に手紙を出した反対派農家が二階運輸相からの返書を受け取る。翌日、返書を受け取った反対派農家が持ち分の譲渡などで空港公団と同意(翌年7月25日に正式契約)[148][281][405][449]。
- 12月1日:運輸省がB滑走路建設計画を認可[405]。
- 12月3日:暫定平行滑走路工事着工。平行滑走路の工事は6年ぶりで、安全祈願祭が執り行われる(実際の工事は翌日以降)[148][184][449]。
- 12月13日:第7次空港整備5ヵ年計画(翌年7ヵ年計画に変更)が閣議決定され、首都圏第三空港について海上空港の方針が出される[412]。同日、中核派が自民党千葉県議会議員宅兼店舗棟を放火[184]。
- 12月20日:空港公団が平行滑走路南側航空保安施設用地の地権者と土地売買契約・移転補償契約を締結[451]。
- 12月26日:革労協反主流派が、京成線及びJRの成田空港行き列車3編成を同時多発的に時限式発火装置で放火[184]。
2000年代
2000年
- 1月27日:運輸政策審議会答申第18号において、成田新高速鉄道が「目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線」と位置付けられる[452]。
- 3月21日:運輸省が、深夜・早朝帯の国際チャーター便の活用による羽田再国際化を目指す「羽田空港有効活用検討委員会」を設置。「国際線は成田、国内線は羽田」という基本方針を転換させるものであり、千葉県や成田市は「羽田国際化は容認できない」と反発[217][273]。
- 3月23日:印旛日本医大-成田市土屋間の線路敷設について、成田新高速鉄道事業化推進検討委員会が発足[324][452]。
- 3月29日:芝山鉄道株式会社が暫定的に未買収地を迂回するルートをとることを決定[273]。
- 4月5日:森内閣が発足。
- 4月17日:東峰地区での暫定平行滑走路工事が始まる[273]。
- 4月26日:千葉地裁が、(旧)熱田派の団結小屋のうち3件に対するシンポジウム以降の使用禁止処分を違法とする一審判決を下す[370]。
- 5月:芝山鉄道の迂回路に建つ「木の根ペンション」の撤去を地権者が要請したことから、旧熱田派が本来の芝山鉄道ルート上にある加瀬勉が所有する未買収地にペンションを移設[273]。木の根地区に建てられていた灌漑用風車が自主撤去される[453]。
- 6月20日:芝山鉄道の迂回路ルートでの建設が認可される[273]
- 8月26日:中核派が運輸省運輸政策局幹部宅を爆破[184]
- 秋:羽田の再国際化を目指す石原東京都知事が、亀井静香自民党政調会長に羽田拡張の図面を持ち込み、その場から梅崎壽運輸事務次官を電話で「恫喝」。翌年度の国の予算に調査費がねじ込まれる(首都圏第3空港関係調査費からの割り当て)[454][455][456]。
- 9月13日:中核派が運輸大臣官房文書課長所有車両を放火[184]。
- 9月26日:首都圏第3空港調査検討会 が発足[412]。
- 11月8日:中核派が空港公団幹部宅を爆破[184]。
- 12月1日:運輸省が羽田空港における千葉県にチャーター便とビジネス機の国際運航を深夜・早朝に限り認めるよう打診[273]。
- 12月6日:なし崩し的な羽田再国際化を警戒する千葉県が羽田発着の国際チャーター便の深夜・早朝の運航を条件付き(運航は午後11時-午前6時に限る・運輸省は本来計画での平行滑走路と成田新高速鉄道の早期実現に向けて努力する)で容認[273][457]。
- 12月8日:6日の取り決めにもかかわらず、扇千景運輸相が「滑走路が1本しかないのは千葉県の努力の成果が見えていないということ」「羽田の方が成田より近くて便利だから、みんな羽田を利用する」と成田羽田の棲み分け見直しについて記者会見で言及。地元の反発を招き、21日に沼田千葉県知事が梅崎運輸事務次官に抗議[273][457]。
- 12月28日:深谷憲一航空局長と中村空港公団総裁が、「小泉よね問題」についてよねの養子に謝罪[458]。
2001年
- 1月23日:中核派が空港公団幹部宅車両を放火[184][459]。
- 2月5日:大木(小泉)よねに対する代執行などが違法として、養子となった活動家夫婦が国を相手取っていた訴訟で、国と空港公団が謝罪に応じ(一審と二審では原告の訴えが退けられ国側が勝訴)、最高裁で和解が成立[269][458]。
- 2月16日:羽田空港を利用した深夜・早朝の国際チャーター便の供用が開始[38]。
- 3月23日:空港周辺の市町からなる「成田空港圏自治体連絡協議会」と空港公団の間に「地域と空港の共生に係る協定書」が締結される。
- 3月25日:2001年千葉県知事選挙で堂本暁子が無党派層の支持を受けて当選(4月5日就任)[460]。
- 3月29日:アジアのハブを目指す韓国が仁川国際空港を開港[460][461]。
- 4月18日:中核派が千葉県企画部理事宅を放火[184][459]。
- 4月26日:小泉内閣が発足。
- 6月1日:千葉県町村会が千葉県収用委員会の機能回復を求める提案を全会一致で採択[460]。
- 6月16日:空港公団が、前日に登記移転した東峰神社の立木を伐採し、暫定平行滑走路を阻む障害物が取り払われる。作業を妨害しようとした北原派の事務局長が逮捕される[38][460][461]。
- 7月3日:千葉県議会が横風用滑走路を含めた早期の完全空港化を求める意見書を採択[461]。
- 9月10日:石原東京都知事がペンタゴンでポール・ウォルフォウィッツ国防副長官と会談。石原都知事は立体模型を用いて東京都空域の情勢を説明し、空域管制権の日本への返還や横田基地の日米合同の軍民共用化を要請[462]。
- 9月11日:アメリカ同時多発テロ事件。
- 10月2日:中核派が千葉県企画部交通計画課主幹宅車両を放火[184][459]。
- 10月31日:暫定平行滑走路が完成[39]。
- 11月28日:団結小屋に対する使用禁止処分をめぐる係争について、東京高裁が前年の一審判決を覆し、(旧)熱田派の請求を棄却[370]。
2002年
- 1月9日:中核派が千葉県総務部幹部(元地域共生財団事務局長)宅を放火[184][459]。
- 4月12日:革労協解放派・反主流派が京成本線の車両を放火[184][459][463]。
- 4月14日:北原派が「4・14全国総決起集会」を開催[463]。
- 4月16日:「成田空港圏自治体連絡協議会」が国・空港公団及び千葉県に対し「地域と空港の共生」実現に向けての要望書を提出[281]。
- 4月17日:空港公団が暫定平行滑走路供用を「第2の開港」と位置づけ、扇千景国土交通相・堂本千葉県知事・小川成田市長らを招き式典を開催。3機のチャーター機がB滑走路から離陸[39]。
- 4月18日:2本目の滑走路であるB滑走路が、2180メートルの暫定平行滑走路として供用開始。新規乗り入れを実現した航空会社の初便が発着が相次ぎ、定期便乗り入れ航空会社がそれまでの35カ国1地域54社から39カ国2地域(台湾・香港)68社に大幅増加[39]。一方、東峰地区では空港反対同盟「旧熱田派」と「北原派」がそれぞれ終日抗議行動を展開。
- 4月22日:中核派が千葉県土木部職員宅車両を放火[184][463]。
- 5月31日-6月30日:2002 FIFAワールドカップ(日韓共催)。
- 8月6日:中核派系「8・6ヒロシマ大行動実行委員会」が「被爆57周年再び戦争をくり返すな!8・6ヒロシマ大行動」を実施[464]。中核派が成田高速鉄道アクセス監査役宅を放火[465][466]。
- 9月17日:日朝首脳会談。北朝鮮が日本人拉致の事実を認める。
- 10月16日:空港南口ゲートの供用開始[281]。
- 10月27日:芝山鉄道線の供用開始[281]。
- 10月27日:日本の市民団体の招きで来日したフランスの酪農家で社会運動家ジョゼ・ボヴェが、熱田一宅や石井武宅などのいくつかの空港反対派農家を訪問する。反対同盟は、1981年にボヴェの故郷で軍事基地反対運動が起こっていたフランス・ラルザック地方を訪問していた。
- 11月15日:中核派が、千葉県企画部交通計画課主幹宅を放火[459][467]。
- 11月25日:横堀要塞の取り壊し撤去作業を底地地権者が実施(〜27日)[281]。
- 12月1日:市東孝雄(北原派)が耕作を継続する未買収地を避けて建設された、暫定平行滑走路に併設する「への字誘導路」上で、日本エアシステム機とルフトハンザドイツ航空機の接触事故が発生[281]。
- 12月16日:第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。
2003年
- 1月20日:新東京国際空港の改称「成田国際空港」及び新会社「成田国際空港株式会社」の名称について扇国土交通相へ要望書を提出。
- 1月27日:午後9時49分に、韓国仁川国際空港発のエアージャパン908便(乗客・乗員102人、ボーイング767-300型)が暫定滑走路南端から70メートルオーバーランし、航空灯火に激突(全日空機成田空港オーバーラン事故)。開港以来初のオーバーラン事故。
- 1月31日:小泉純一郎首相が、2010年に訪日外国人旅行者を1000万人(現状の500万人から倍増)にすると施政方針演説(ビジット・ジャパン・キャンペーン)[468]。
- 2月13日:千葉県収用委員会会長襲撃事件で負傷した小川彰弁護士が、事件の後遺症を苦に福岡県で入水自殺。
- 2月28日:国・千葉県・「成田空港圏自治体連絡協議会」を構成する市町村・空港公団の間(四者協議会)で、「新東京国際空港公団民営化に関する覚書」が締結される[469]。
- 3月11日:「成田国際空港株式会社法案」が閣議決定[470]。
- 3月20日:「イラクの自由作戦」が開始される(イラク戦争)。
- 3月30日:北原派が「イラク侵略戦争反対・有事立法粉砕/暫定滑走路を閉鎖し軍事空港を廃港へ」をスローガンに集会・デモを実施
- 4月17日:第2旅客ターミナルビル北側及び地上通路沿いのスポットの供用開始。
- 5月29日:開港以来の航空貨物取扱量3千万トン達成。
- 7月11日:「成田国際空港株式会社法」成立(参議院本会議可決。18日に公布・施行)[471][472]。
- 8月26日:深夜、八街市内の民間人家の敷地内に仕掛けられた爆弾が爆発。被害者は成田空港問題と無関係の一般人であるが、千葉県幹部と同姓同名であったため、攻撃対象を誤って引き起こした事件とみられる。千葉県警は爆発物の形状から中核派のテロと断定した[459][473][474]。
- 11月17日:航空燃料輸送量1億kL達成。
- 12月5日:東峰神社に係る所有権移転登記手続等請求事件について、和解が成立[281]。
- 12月12日:石原伸晃国交相が、1300億円の無利子貸し付けを受益が大きい東京都・神奈川県・横浜市・川崎市から受けることで合意したと発表。これにより2004年度からの羽田再拡張事業の着手が決定[475]。
- 12月24日:NAAが、天神峰地区における空港用地(計7筆 (うち1筆は一坪共有地))及び岩山地区における航空保安施設用地(1筆)の所有権を取得[281]。
2004年
- 3月31日:「東京国際空港における緊急整備事業の円滑な推進に関する特別措置法」が公布、施行される[476]。
- 4月1日:新東京国際空港公団が会社化され成田国際空港株式会社に改組(以下、NAA)。新東京国際空港から成田国際空港に改称、第2給油センター供用開始。
- 10月19日:第1ターミナルの第1サテライトと第2サテライトを結ぶ連絡通路が開通。
- 11月1日:北側一雄国交相が成田空港を視察。NAA 社長に対し用地交渉の進捗状況を年明けに報告するよう指示[281]。
- 11月18日:堂本千葉県知事が定例県議会知事挨拶で収用委員会を再建する方針を示す。ただし、成田空港については国はこれまでの経緯及び土地収用法を適用しないという約束等を十分に尊重し、今後も守ることとする条件が付される[396]。
- 11月25日:第1旅客ターミナルビルの第4サテライトが開業。
- 12月7日:千葉県政初となる秘密会で県議会が千葉県収用委員人事を承認[396]。
- 12月8日:堂本千葉県知事が収用委員を任命。委員の氏名は非公開となった[396]。
2005年
- 1月11日:平行滑走路延伸に関し、NAAが北側国交相に用地交渉の状況を報告[405]。北側国交相から年度内の再報告を指示される[281]。
- 3月27日:北原派が、「暫定平行滑走路北側延伸阻止」などを掲げ、全国総決起集会を開催[477]。
- 4月14日:基本計画どおりの平行滑走路2500メートル化(南側延伸)について、NAAが東峰地区住民5人との話し合いを行う(第1回)。6月まで計4回実施されたが、交渉は不調に終わる[281][405]。
- 5月9日:東峰地区住民4人との第2回話し合い。黒野NAA社長の謝罪が受け入れられる[281]。
- 6月7日:東峰地区住民4人との第3回話し合い[281]。
- 6月8日:開港以来の発着回数が300万回達成。
- 6月16日:NAAが地元住民と横堀墓地(持ち分1/2)の土地売買契約を締結[281]。
- 6月30日:東峰地区住民4人との第4回話し合い。後日「北側延伸」が決定したことにより話し合いは中断[281]。
- 7月15日:黒野NAA社長が、国土交通大臣北側一雄に暫定平行滑走路の北側に伸ばす案を申し入れ[405]。
- 8月4日:国土交通省が、B滑走路を暫定平行滑走路を本来の計画とは逆、北側に延伸し2500メートル化することを決定。北側国交相がNAAに指示(方角と名前を合わせた「北側延伸」)[39][281][405]。
- 10月3日:NAAが北伸案の内容や騒音対策などについて公表。以後、関係市町・地元住民などに計100回以上の説明を実施[39]。
- 10月9日:北原派が、「暫定平行滑走路の北側延伸阻止」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催[478]。
- 11月11日:前田道彦ら1978年に成田空港管制塔占拠事件を起こし政府などから事件の損害賠償を求められていた元活動家16人が、賠償請求額と利息の合計である約1億300万円を、マスコミを集めたうえで国土交通省に支払う。元活動家らは1995年に判決が確定して以降も損害賠償の支払いを拒否していたが、給料の差し押さえや督促が相次ぎ、生活に支障を出す者もいたため、中川憲一が2005年7月に元管制塔被告団の事務局長となって「連帯基金運動」を行いカンパを呼びかけていた[479]。
- 11月18日:旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社とNAAが東京地検の捜索を受ける。
- 12月5日:公団時代の電気設備工事に係る談合について、東京地検特捜部がNAA社員を逮捕し、競売入札妨害罪で起訴[405][480]。
2006年
- 堂本千葉県知事が、1970年から2003年にかけて地主から土地を取得しているNAAに対し、借地で耕作を続けている市東孝雄(北原派)との賃貸借契約の解約を農地法に基づいて許可。市東は解約申し入れを拒否[481]。
- 1月15日:熱田一(元空港反対同盟熱田派代表)が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明[482]。熱田元代表は「若者が世界へ飛び立ち、帰ってくることによって日本の将来に役立つと考えた」と述べ、反対運動から完全に身を引く。「横堀墓地」は他界した支援者の墓や、やぐらがあるなど、成田空港反対運動の象徴とされていた。
- 3月22日:NAAと熱田一が横堀墓地他用地の売買契約を締結[281]。
- 3月23日:「成田空港に関する四者協議会」(四者協)が平行滑走路の北延伸に係る確認書を締結[39][281]。
- 3月26日:北原派が、「暫定平行滑走路北側延伸攻撃粉砕」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催[483]。
- 4月13日:ILSカテゴリーIIIb運用開始。
- 6月2日:航空会社再配置、第1旅客ターミナル南ウイング(第5サテライト)・第4-第5サテライト連絡地下通路が供用開始[405]。
- 7月2日:北原派が、「暫定平行滑走路北延伸着工阻止」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催[484]。
- 7月10日:NAAは、航空法に基づく飛行場変更申請(平行滑走路の北伸・誘導路の新設・エプロンの新設)を国土交通省に提出するとともに、「成田国際空港平行滑走路北伸整備事業に伴う環境とりまとめ」を公表[39][405]。
- 8月21日:国土交通省が7月10日のNAA申請についての公聴会を成田市で開催。28人(賛成24人、条件付き賛成2人、反対2人)が公述[39][405][485]。
- 9月5日:四者協が騒特法の騒音対策及び発着回数の増加を了承[39]。
- 9月11日:国土交通省が7月10日のNAA申請を許可[39]。
- 9月15日:NAAがB滑走路北側延伸に着手[39][405]。
- 9月15日-18日:北原派・熱田派が、それぞれB滑走路北側延伸着工に対する抗議の集会・デモを実施[486]。
- 9月26日:第1次安倍内閣が発足。
- 9月29日:安倍晋三首相が所信表明演説でアジア・ゲートウェイ構想を打ち出す[487]。
- 10月8日:北原派が、成田空港の「暫定平行滑走路北延伸工事粉砕」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催[488]。
2007年
- 2月26日:NAAが、平行滑走路北伸に係る航空保安無線施設(進入灯)用地取得を完了[281]。
- 3月25日:北原派が、「東峰の森 伐採阻止」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催[489]。
- 4月23日:暫定平行滑走路の誘導路新設に伴い、NAAが滑走路南東側の「東峰の森」(約10ヘクタール)で計画していた樹木の伐採作業に着手。NAAの発表によると、作業は6月末まで行い、4ヘクタールの森林で伐採を行う計画。北原派が弾劾声明[490]。
- 5月22日:NAAの社長人事で、政府が6月下旬に任期満了を迎える黒野匡彦社長の後任として、森中小三郎・住友商事特別顧問を充てる方向で最終調整に入る。空港公団時代も含めて、成田空港トップへの民間人起用は初。同社社長に民間人を起用したい総理大臣官邸が、国土交通省が打診した元運輸事務次官の黒野の再任案を拒否したのに対し、自民党千葉県連や地元の成田市が黒野の続投を要請しており、首相官邸と地元の対立が表面化[491][492]。
- 6月:初のNAAトップとして森中小三郎が代表取締役社長に就任。
- 6月14日:東京高裁が、暫定平行滑走路の誘導路建設に伴う樹木伐採問題で、伐採禁止を求めた東峰地区住民の主張を退けた千葉地裁決定を支持し、住民の即時抗告を棄却。
- 7月9日:空港周辺9市町「成田空港周辺市町議会連絡協議会」の議員約40人が「空港の完全化と機能拡充に関する決議」を採択[492]。
- 7月29日:第21回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗し、ねじれ国会となる。
- 9月26日:福田康夫内閣発足。
2008年
- 1月:空港周辺9市町の首長が、今後の成田空港の整備を踏まえつつ、国際拠点空港としての機能を活かした都市づくりを推進するとの趣旨で、「成田国際空港都市づくり推進会議」を設置[39]。第1回会議が30日に開催される[281]。
- 1月17日:最高裁において、一坪共有地に係る分割請求訴訟6件について、NAAの勝訴判決が確定[281]。
- 3月1日:革労協解放派・主流派がA滑走路に向けて迫撃弾を発射。3日に犯行声明。7日に千葉県警が犯行に使われたとみられる迫撃弾を空港敷地内で発見[184][493][494][495]。
- 3月25日:NAAが周辺9市町に「年間30万回は発着可能」とする試算を公表[405]。
- 3月30日:北原派が、「暫定滑走路北伸阻止」などを掲げた「全国総決起集会」を開催[495]。
- 4月13日:旧熱田派支援の団体が、「暫定滑走路北側延伸粉砕」「新誘導路建設阻止」などを訴える集会・デモを実施[496]。
- 5月21日:冬柴鐵三国土交通相が羽田空港での国際線定期便を昼夜あわせてこれまでの倍の約6万回とすることを視野に入れた方針を示す[497]。
- 6月8日:北原派が、「暫定滑走路北延伸粉砕」「新誘導路建設阻止」などを訴え、「6・8成田現地闘争」を実施[498][499]。
- 9月24日:麻生太郎内閣発足。
- 9月25日:国土交通大臣に就任したばかりの中山成彬が、産経新聞などのインタビューの際、成田国際空港の拡張が「地元住民の反対などで進まなかった経緯」について触れて、空港反対派農民らを「ゴネ得」と述べる。千葉県知事堂本暁子から抗議されるなど社会問題化し、更に「日本は単一民族」等の舌禍事件が続いたことから、中山は28日に国土交通大臣を辞任。同日、横田空域の一部が返還され、羽田空港の出発経路が変更される[500]。
- 11月9日:北原派が、「市東さんの農地を守れ!11・9三里塚緊急現地闘争」を実施[501]。
- 12月12日:NAAが、約千人の「一坪共有地」の地主に、土地の権利を約3万円で譲渡することを求める手紙を、森中社長名で一斉に郵送。
2009年
- 1月9日:第65回成田空港地域共生委員会が開催され、委員会は14年に及ぶ活動を終えて解消[281]。
- 1月23日:四者協で発着容量30万回化の検討着手に地元首長が合意[281][405]。
- 2月18日:木の根地区に建てられていた反対同盟の風車が撤去される[79]。
- 3月23日:アメリカ合衆国の貨物機・フェデックス機が着陸時にポーポイズ現象を発生し、複数回バウンドして横転・炎上。機長と副操縦士2人が死亡(フェデックス80便着陸失敗事故)。開港以来、初の成田空港における死亡事故となり、A滑走路が26時間21分閉鎖される。
- 3月29日:2009年千葉県知事選挙で森田健作が当選(4月5日就任)。
- 4月1日:成田空港地域共生委員会の後継として、地連協に成田空港地域共生・共栄会議を設置することが決定[281]。
- 4月12日:旧熱田派が「2010年3月平行滑走路供用を許すな!東峰住民の追い出しをやめろ!一坪共有地を堅持しよう!4・12三里塚・東峰現地行動」を実施[502]。
- 4月24日:常設展示施設の建設に向けて、第1回NAA歴史伝承委員会が開催される[281]。
- 6月16日:第1回成田空港地域共生・共栄会議が開催される[281]。
- 6月29日:B滑走路北側延伸の施設が完成検査に合格[39]。
- 7月9日:森田千葉県知事が、成田空港の未買収地について、用地内の地権者に対して「早い段階で訪問したい」と述べ、直接面会する考えを定例会見で示す[503]。
- 7月21日:衆議院が解散。NAA民営化(株式上場)の法案が廃案となる[254]。
- 7月30日:成田空港のB滑走路とターミナルビルがある駐機場を結ぶ「東側誘導路」が供用開始[405]。
- 8月30日:第45回衆議院議員総選挙で自民党が大敗し、民主党が大幅に議席を伸ばす。
- 9月16日:鳩山由紀夫内閣が発足し、自民党が下野。
- 9月17日:NAAが、「一坪運動共有地」と「土地」について反対派らに売却を求める訴訟を千葉地裁に提起し未買収用地取得を進める方針を固める[504]。
- 9月24日:運輸政策研究機構が主催するシンポジウム「首都圏空港の将来像」で、首都圏空港将来像検討調査委員会がオープンスカイの推進や航空会社の資本・労働政策の自由化、成田空港と羽田空港の機能分担見直しなどを提言。
- 10月12日:前原誠司国土交通相が突如「日本にはハブ空港が存在しない状態。羽田空港の24時間空港化を目指したい」と発言、千葉県関係者には成田に代わって羽田が国際空港の中心になるとの受け止めが広がる[405][505]。
- 10月13日:森田千葉県知事は前日の前原発言について「冗談じゃない」「昨夜は頭にきて眠れなかった」など強い口調で非難、その他地元から批判の声が相次ぐ[505]。一方、前原国土交通相は記者会見で前日の発言での考えに変わりがないことを重ねて表明[506]。
- 10月14日:前原国土交通相と森田知事の会談が行われ、「成田と羽田の両空港を一体的にとらえて合理的なすみ分けをする」などの点で合意、森田知事は「例えば足(距離)の長い米国は成田、東南アジアは羽田」「夜間、成田は飛べないので、羽田にお譲りしよう」などと述べる[505][507]。しかし、後にこの棲み分けも取り払われることとなる。
- 10月18日:旧熱田派が、「東峰住民の追い出しを許すな!10・22平行滑走路供用開始をやめろ!一坪共有地強奪攻撃と闘うぞ!10・18東峰現地行動」と称する集会・デモを実施[508]。
- 10月22日:B滑走路が2500mに延伸され、供用開始[509]。1966年12月の基本計画の制定から40年余を経ての完成となる[39]。
- 11月18日:NAAが岩山地区における航空保安施設用地 (1筆)を取得し、すべての航空保安施設用地の取得完了[281]。
- 12月15日:相川芝山町長が、運用時間と午後10時台の制限緩和を提案[405]。反対派出身であり、これまでNAAによる容量拡大の動きをけん制し続けてきた相川町長からの緩和案は驚きをもって受け止められる[510]。
- 12月25日:NAAが発着容量30万回の騒音予想図を地元首長に提示[405]。
2010年代
2010年
- 2月25日:成田空港B滑走路西側の平行誘導路上にある、「天神峰現地闘争本部」をめぐり、NAA が三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)を相手に、建物撤去と土地明け渡しを求めた訴訟の判決が千葉地裁であり、「地上権が成立したとの事実は認められない」とNAA側の訴えを認め、空港反対派に対し建物撤去と土地明け渡しを命じる(ただし、仮執行は認められず)[511]。
- 3月:B滑走路の発着能力が約1.5倍に増強される[39]。
- 3月16日:北原派支援が「団結街道廃道化阻止集会」を開催し、「営農破壊・生活破壊攻撃を絶対許さない」など訴える[512][513]。
- 5月17日:国土交通省の有識者会議「成長戦略会議」の最終報告が取りまとめられ、羽田空港の国際線枠を年9万回に広げ、「アジア長距離路線、欧米路線を含む高需要ビジネス路線」を取り込む方針を明記。また、規制改革検討リストに昼間時間帯は近距離アジア路線のみ就航が可能となる羽田の国際線運用について「羽田空港国際線の就航先制限の撤廃」を主張する大上二三雄(エム・アイ・コンサルティンググループ社長)の意見が加えられる[514]。同日、空港の敷地への立ち入りを規制する看板を壊したとして、東峰地区の北原派反対農家である市東孝雄が器物損壊の容疑で逮捕される [515]。
- 5月25日:森田千葉県知事と小泉一成成田市長が前原国土交通相と面談、「成長戦略会議」の最終報告について「従来の方針を大きく転換するものだ」と懸念を表明。更に羽田発着便は千葉県上空を飛ぶ便が多いため騒音が拡大するとして地元との事前協議の必要性を主張。面談後、森田知事は「成田で請け負いきれない国際線を羽田で補完してくれるのは国益にもかなう。ただ、そういう話は事前に相談してくれと伝えた。前原さんも必ず相談すると約束してくれた」、小泉市長は「前原大臣には、やはり国際線の中心は成田です、との言葉をいただいた」とそれぞれ述べる[516]。
- 6月8日:菅直人内閣が発足。
- 6月28日:新誘導路工事のため、NAAがB滑走路わきの旧市道(NAAに売却・廃止済み。通称「団結街道」)を閉鎖[517]。
- 6月30日:NAAがB滑走路西側誘導路整備に伴う天神峰事業用地の取得完了[281]。
- 7月11日:第22回参議院議員通常選挙で民主党が惨敗し、ねじれ国会となる。
- 7月17日:成田スカイアクセスが開業し、日暮里-空港第2ビル駅間が36分で結ばれる(15分短縮)。
- 10月13日:四者協において、成田空港の空港容量30万回への拡大について、国・千葉県・空港周辺9市町・NAAの四者が合意。「容量拡大(30万回) に係る確認書」が締結される[39][281]。
- 10月31日:羽田空港が正式に再国際化し、定期国際線が就航[518]。
2011年
- 3月11日:東日本大震災。福島第一原子力発電所事故が発生し、中核派等新左翼セクトが反原発を前面に掲げるようになる[519]。
- 5月20日:「天神峰現地闘争本部」撤去の控訴審で、東京高裁は建物撤去と土地明け渡しの仮執行宣言を付す判決を命じる。また、北原鉱治ら反対同盟のメンバー、織田陽介全学連委員長、齋藤郁真文化連盟委員長らが東京高等裁判所で不退去罪で逮捕され、勾留される[520][521]。
- 6月23日:NAAが航空科学博物館敷地(駐車場)内に、成田空港問題の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港 空と大地の歴史館」を開館(入場無料)。
- 7月18日:北原派が、「現闘本部破壊実力阻止」「第3誘導路建設阻止」などを訴える「7・18現地緊急闘争」を実施[522]。
- 8月6日:5月の東京高裁判決に基づく仮執行により、千葉地裁が「天神峰現地闘争本部」を強制撤去[281]。
- 9月2日:野田内閣が発足。
- 10月20日:飛行コース逸脱を常時監視する体制が確立されたことから、成田空港での滑走路の同時離着陸方式による運用が開始される[281][523]。
2012年
- 1月25日:天神峰現地闘争本部(前年8月に仮執行による撤去済み)に係る建物収去土地明渡請求訴訟について、最高裁においてNAAの勝訴判決が確定[281]。
- 6月:国土交通省の規制緩和とNAAの用地買収によりA滑走路南側進入灯の延長が実現し、用地問題で進入灯を正規の位置に設置できなかったためにA滑走路を北風運用時に3250メートル分しか使えなかった課題が解消する[524]。
- 7月8日:北原派が、「7・8現地闘争」を実施し、農地裁判闘争勝利・成田空港第3誘導路建設阻止などを訴える[525]。
- 8月12日:芝山町朝倉にある、反対派の「三里塚野戦病院」の建物が焼失[526]。
- 11月28日:千葉地裁が反対同盟旧熱田派の所有する「横堀団結小屋」を強制撤去。人が住んでいる反対派の建物撤去としては10年ぶり[527][528]。
- 12月6日:第46回衆議院議員総選挙で自民党が大勝。
- 12月13日:A滑走路の4000mによる全面運用を開始。A滑走路南側のディスプレイスドスレッシュホールドが廃止される[281][524][529][530]。
- 12月26日:第2次安倍内閣が発足し、自民党が政権復帰。
2013年
- 1月5日:元空港反対同盟熱田派代表の熱田一が死去[482]。
- 2月28日:一坪共有地に係る分割請求訴訟2件について、最高裁においてNAAの勝訴判決が確定[281]。
- 3月7日:B滑走路西側誘導路および横堀地区エプロン運用開始[281]。
- 3月29日:四者協でカーフュー(時間外離着陸制限)の弾力的運用について合意[39][281]。
- 3月31日:カーフューの弾力的運用、オープンスカイの適用開始[281]。
- 4月25日:NAAが横風用滑走路(C滑走路)予定地上の「一坪運動共有地」の売却を求めて2009年9月17日に提訴していた訴訟について、最高裁判所は2件について地権者54人の上告却下を決定。買収に応じるよう命じた一・二審判決が確定した[281][481][531][532][533]。これによりNAAが2009年に起こした6件の訴訟が終結(4ヶ所でNAA勝訴、2ヶ所で和解)[532][533]。NAAは、訴訟になっていない数カ所について交渉を続け、今後取得を目指すとする[532]。
- 5月15日:辺田部落から移転した農家の女性が自殺。女性はプロレタリア青年同盟の元女性リーダーであり、現地の農家へ嫁に入っていた[534]。
- 7月29日:旧・新東京国際空港公団が1970年から2003年にかけて地主から買収した土地を元地主との賃貸借契約により耕作を続けている、市東孝雄(北原派)に対しての耕作地の明け渡し請求訴訟の判決。千葉地裁は、「NAAには(対象地で)実施が確実な事業計画があり、1億8千万円という補償金を提示している」として、農地法で定めた「農地以外への転用が相当な場合」に該当するとして、地裁は農地と建物の明け渡しを命じる。国が1991年に反対派との対話路線に転じて以降の用地内の土地明け渡しをめぐる判決としては最大規模(ただし、「被告は農業で生計を立てている」として判決確定前の強制執行が可能な仮執行宣言は付されず)[281][481][535][536]。耕作地は2ヵ所で計約7284平方メートル[481]。いずれもB滑走路の誘導路脇にあり、うち1カ所は誘導路が「へ」の字に湾曲する一因になっている[481]。
- 7月31日:成田空港を活用した県経済の活性化を目的として、地方自治体や民間事業者からなる「成田空港活性化協議会」が発足[537]。
- 9月8日:ブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、2020年オリンピックの東京開催が決定。
- 12月3日:民主党成田空港ハブ化推進連盟が「成田空港の機能拡張に関する要望書」を太田昭宏国土交通相へ提出[281]。
- 12月11日:三里塚芝山連合空港反対同盟北原派の農家で、千葉県芝山町菱田の騒音区域に居住する女性とその家族が反対運動から退き、 自宅と農地、航空貨物ターミナル増設予定地に所有している一坪共有地をNAAに売却したい意向を同派に伝えたことが報道される[538]。同派からの農家脱退は16年ぶり[538]。
2014年
- 1月15日:千葉県内経済3団体(千葉県経済同友会、千葉県経済協議会、千葉県経営者協会) 及び成田市内3団体(成田商工会議所、成田市観光協会、成田空港対策協議会) が国土交通省に要望書提出[281]。自民党成田国際空港推進議員連盟(成田議連)が機能強化への積極的な取り組み等を要請する決議書を国へ提出[539]。
- 2月6日:NAAが三里塚芝山連合空港反対同盟に対し、空港用地内の団結小屋「横堀現地闘争本部」撤去と土地(約180m2)の明け渡しを求め、千葉地裁に提訴[540]。
- 2月27日:地元4団体(成田商工会議所、成田市観光協会、成田空港対策協議会、成田青年会議所)が成田市長へ要望書提出[281]。
- 3月12日:自由民主党成田国際空港推進議員連盟が成田空港の機能強化などに関する決議を行い、国土交通大臣に申し入れ[281]。
- 3月26日:NAAがB滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている土地の賃貸借契約解除を求めている問題で、市東孝雄(北原派)が建物の撤去と土地の明け渡しを命じた前年7月29日の一審千葉地裁判決取り消しを求めた控訴審が、東京高裁で始まる。市東は意見陳述で「農地は私にとって命そのもので、一審判決は絶対に受け入れられない」と訴える。NAA側は控訴棄却を求めたが、判決の確定前に強制執行が可能な仮執行宣言は「緊急性がない」として求めず[541]。
- 4月30日:成田商工会議所や空港周辺市町の商工会等で構成される「成田第3滑走路実現する会」が設立。署名活動を実施[281]。
- 5月17日:国土交通省が成田・羽田の両空港において、2030年代を目途に滑走路をそれぞれ1本新設し、発着枠を現在の5割増となる110万回/年にする方向で本格的な検討に入る[542]。
- 7月28日:国土交通省が交通政策審議会航空分科会基本政策部会の下に設置した「首都圏空港機能強化技術検討小委員会」が、羽田・成田両空港の空港処理能力拡大方策を中心とした首都圏空港の機能強化について技術的な選択肢の中間とりまとめを公表[543][544]。
- 7月31日:「千葉県経営者協会」が第3滑走路早期実現等の政策提言を森田千葉県知事に提出[281]。
- 8月20日:「千葉県経済協議会」が第3滑走路早期実現等の要望書を森田千葉県知事に提出[281]。
- 11月22日:熱田派系の農民らを取材したドキュメンタリー映画『三里塚に生きる』が公開される。
2015年
- 1月5日:NAAが団結小屋の一つ再共有化市民の家(通称・共有者の家)を撤去する方針を固める[545]。現在はほとんど使用されていない小屋で、土地の所有権もNAAがすでに取得している[545]。撤去されれば、空港用地と保安用地に残る団結小屋は7カ所になる[545]。
- 2月3日:1971年に強制収用されて以降43年に渡り補償されないままになっている、大木よね(故人)の自宅や宅地について、補償問題の最終解決を目指し、大木よねの養子夫婦と、国・千葉県・NAAが、話し合いを再開することで合意[546][547][548][549]。同地は三里塚闘争で唯一、自宅を強制収用されたため、三里塚闘争の象徴的な存在であった[546][547]。
- 2月20日:NAAが、強制執行により反対同盟旧熱田派の団結小屋である「再共有化市民の家(共有者の家[281])」を撤去。空港用地内の団結小屋が残り5ヵ所となる。
- 3月:第3旅客ターミナルが完成し、年間発着枠30万回化のための施設整備が完了[550]。
- 3月30日:正午より、1978年の開港以来続けてきた、利用客や送迎者を空港入場前に一旦停止させ身分証明証を確認する検問が廃止される。これに伴い、顔認識システムや監視カメラを利用した新しい機械警備システムの運用が、開始される[281][551][552]。
- 4月8日:LCC専用ターミナルとして第3旅客ターミナルが供用開始[281][553]。
- 4月28日:「成田第3滑走路実現する会」及び千葉県経済3団体(千葉県経済同友会、千葉県経済協議会、千葉県経営者協会)が国土交通省大臣へ署名簿及び要望書を提出 (署名数:約16万6000人)[281][539]。
- 5月7日:NAAが、用地内のB滑走路南側の土地2132平方メートルについて、地権者の男性との用地売買契約が正式に成立し、所有権移転登記が完了したことを発表[554][555][556]。同じ成田市東峰地区にある東峰墓地と野菜共同出荷場跡地に関する地権者の共有持ち分も、併せてNAAが取得[554]。一坪共有地以外の反対派所有地の買収としては、2006年3月に熱田一から横堀墓地を取得して以来となる約9年ぶりであり、空港用地内に土地を所有する反対派農家は3戸に減る[555][556]。NAAの夏目誠社長は、「親子2代にわたり、空港問題でさまざまなご労苦をお掛けした。それゆえ、今般のご決断に衷心より敬意を表するとともに深く感謝申し上げたい」と述べる[554]。男性は熱田派世話人で故人となった石井武の長男で、青年行動隊員として反対運動に参加し、活動家の女性と結婚していたが、近年離婚。離婚後に交渉が進められていた[557]。中核派は「裏切り」として男性を批判し[558]、元妻の女性も旧熱田派の集会で「納得できない。仲間たちや信用を失ってまでお金がいるとは思わない」と批判めいたスピーチ[557]。
- 5月18日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が第3滑走路構想を発表[281]。
- 5月21日:故・大木(小泉)よねに関する本補償について、遺族と合意[281]。
- 6月12日:B滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている土地で耕作をつづける市東孝雄(北原派)へ賃貸借契約解除を求めた控訴審で東京高裁は明け渡しを命じた一審・千葉地裁判決(2013年7月)を支持し、市東側の控訴を棄却[281][559]。市東側は即日上告[559]。
- 7月23日:「千葉県経営者協会」が第3滑走路早期実現等の政策提言を森田千葉県知事に提出[281]。
- 7月29日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が発起人会を開催[281]。
- 7月31日:自民党本部で開かれた党成田国際空港推進議連の総会で、同議連幹事長の林幹雄が「国は第3滑走路をやる気があるのか。無いならこの会は解散させる」と国土交通省航空局長に迫る[560]。
- 8月3日:自民党成田議連が国へ四者協議会の開催を求める決議書を提出[539]。
- 8月25日:「成田空港圏自治体連絡協議会」が今後は四者協議会で議論していくことを確認[539]。
- 9月2日:NAAが「三里塚芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋「横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟で、千葉地裁がNAA側の請求を認め、小屋の撤去と土地の明け渡しを命じた[281][561][562][563]。旧熱田派が一坪共有していたが、NAA側に土地の持ち分を売却するよう命じた判決が2013年4月に最高裁で確定しており、NAA側が2014年2月に明け渡しを求めて提訴していた[562]。
- 9月17日:四者協が開催され、成田空港の更なる機能強化に向けた検討を開始[281]。
- 9月24日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」の設立総会が開催される[564][565]。
- 11月10日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、成田空港の機能強化に関する要望書をNAAに提出[281]。
- 11月19日:成田市が成田国際空港総合対策本部を設置[281]。
- 11月27日:千葉県・国・地元9市町・NAA が開いた四者協議会において、B滑走路の延伸と第三滑走路の新設について具体的な検討に入ることが決まる。B滑走路について、NAAは東関東自動車道の通る北部へと約1000m延伸し、B滑走路を3500m化、さらに首都圏中央連絡自動車道の東側に、新たに長さ3500mの第三滑走路を新設し、大型機の離着陸枠の増大と年間発着台数50万便(16万便増)を目指すとする。加えて都市間競争力を増すためにも、夜間飛行制限の緩和についても議論を進めていく予定である[566]。
- 12月28日:NAAが成田空港の更なる機能強化に関するパンフレット「成田空港の明日を、いっしょに」を配布し、特設サイト をオープン[281]。
2016年
- 1月23日:ノースウエスト航空との合併後、成田を「アジアのハブ」と位置づけて成田空港の整備部門などに投資を重ねてきたデルタ航空が、日米航空交渉で羽田空港と米国を結ぶ昼間時間帯の路線配分が決まれば、成田空港と米主要都市を結ぶ全7路線が廃止に追い込まれるとの声明を発表[567]。
- 2月3日:NAAが「三里塚芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋「横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は、一審千葉地裁に続き、原告のNAAの請求を認め、撤去と土地の明け渡しを命じた[281][568][569]。土地の所有権は、別訴訟で勝訴したNAAが全て取得している[568][569]。
- 2月18日:航空交渉の結果、日米両政府が昼間時間帯の羽田発着の米国路線就航に同意[570]。
- 3月18日:芝山町にA滑走路16Rから南に600メートル離れた場所に、新観光・航空機撮影スポット「ひこうきの丘」がオープン[281][571]。
- 3月27日:北原派が、第3誘導路(「への字誘導路」)の裁判を争う市東孝雄(北原派)への支援を訴える集会。これまでは集会を空港周辺で行っていたが、今回は敢えて空港勤務者が多い成田ニュータウン地区内にある赤坂公園を会場とした。空港用地内の耕作地を持ち「このままでは反対闘争は先細り。戦いに勝ち抜くためには誰とでもつながっていく」と危機感を持つ萩原富夫(東峰地区農家、北原派事務局)が、「国家権力に立ち向かうためには闘いを一回り大きくする必要がある。(旧)熱田派にも支援を訴えていこう」と旧熱田派との共闘を呼びかけ。これに対し、内ゲバで自派の支援者を負傷させられ、シンポジウム・円卓会議等のこれまでの国との対話の取り組みについて北原派から「脱落者」などと激しく批判されてきた旧熱田派からは、概ね冷ややかな反応だったが、設立時に市東の父が保証人になっていた三里塚物産の経営者である平野靖識が支持を表明[336][572]。
- 7月21日:「横堀現地闘争本部」の撤去をNAAが求めた裁判で、最高裁が旧熱田派の上告を棄却し、撤去と土地の明け渡しを命じた二審判決が確定[573][574]。
- 9月20日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が自由民主党成田国際空港推進議員連盟会長、航空局長に成田空港の更なる機能強化に関する要望書を提出[281]。
- 9月27日:四者協が開催され、成田空港の更なる機能強化の検討を進めるに当たっての確認書を締結[281]。NAAからは更なる機能強化に向けた調査報告として、発着容量50万回時の成田空港の全体像について、滑走路の配置案(C 滑走路の新設、B 滑走路の北側延伸)・空港敷地範囲(約1,000ha 拡大)・夜間飛行制限の緩和( 運航可能時間を午前5 時~午前1時に拡大)・予測騒音コンター(50万回時)が提案される[575]。
- 9月30日:「成田空港対策協議会」が27日のNAAからの提案に全面的支持を表明[576]。
- 10月3日:「成田空港対策協議会」が「成田空港圏自治体連絡協議会」会長に成田空港の更なる機能強化に関する意見書を提出[281]。
- 10月6日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が森田千葉県知事に成田空港の更なる機能強化に関する要望書を提出[281]。
- 10月14日:「成田空港の機能拡充と地域経済の活性化を実現する会」及び「成田第3滑走路を実現する会」が成田空港の機能拡充に関する要望書を国・千葉県・NAA他に提出[281]。
- 10月25日:B滑走路誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている、誘導路脇の土地の賃貸借契約解除をNAAが求めた上告審で、最高裁第三小法廷はこの土地で耕作を続ける市東孝雄(北原派)の上告を棄却。これにより土地明け渡しと、上に建てられた小屋などの建物の撤去を命じた一・二審判決が確定し、土地の明け渡しに応じなければ、NAAの申し立てにより、裁判所が強制執行することとなった[577][578][579]。土地(2カ所の計7284平方メートル)自体は、2003年(平成15年)にNAAが取得しており、NAAは賃貸借契約の解約を求めていた[577][578][579]。同日、「成田空港対策協議会」が国・千葉県・NAAに成田空港の更なる機能強化に関する意見書を提出[281]。市東は「ここで変わらずに農業を続けていく」とコメントし、明け渡しに応じない意向を示す[448][580]。
- 10月30日:2016年度冬ダイヤが始まり、昼間の羽田空港に米国路線が就航[581]。この余波によりデルタ航空がニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)・ロサンゼルス・ミネアポリス・バンコク・関西の5路線から撤退するなど[582]、減便・羽田への移管の動きが相次ぐ。
- 11月7日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が、成田空港の更なる機能強化に関する要望書をNAAに提出[281]。要望書は、空港周辺地域の産業振興に向けた「成田国際空港圏特区」の創設や規制緩和、騒音や防音、落下物防止などの対策、空港のバスターミナル強化や空港へ通じる道路のノンストップゲート化、雇用創出、防災拠点の整備など9つの項目を柱とする[583]。
- 11月16日:「NARITA空港圏青年交流会」が成田空港の機能拡充に関する意見書を提出[281]。
- 11月30日:成田用水事業を巡り、「成田用水事業推進協議会」(会長・小泉成田市長)が、千葉県庁で森田健作知事に用水施設の改修に対する国や県の支援拡充などを要望[584]。
- 12月6日:NAAが、年間発着30万回を念頭に、ピーク時間帯の空港処理能力を向上させ、滑走路の時間値を72回へ拡大することに伴い、エプロン及び周辺誘導路を整備することについて、航空法第43条に基づく空港変更許可申請を行う[585]。
- 12月8日:空港展開候補地内にある芝山町中郷区が、成田空港の更なる機能強化に関する表意書を芝山町に提出[281]。
- 12月25日:更なる機能強化案について、NAA社員による対話式・個別対応の説明会が始まる[586]。
2017年
- 1月11日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」 が成田空港の機能拡充に関する要望書を千葉県・NAAに提出[281]。
- 1月27日:NAAが、「成田空港の更なる機能強化 環境影響評価方法書」を公表[587]。
- 2月6日:横芝光町が成田空港の機能拡充に関する要望書を国・千葉県・NAAに提出[281]。
- 2月16日:千葉県が駒井野地区の貨物ターミナル増設予定地(NAAに売却予定の県有地)内にある一坪共有地の引き渡しを求めていた裁判で、千葉地裁が、「被告らの持ち分は小さい上、土地としての社会的、経済的効用は乏しい」として、地権者8人に対し賠償金計90万円と引き換えに全ての共有地の引き渡しを命じる[588][589]。
- 3月2日:2003年にNAAが土地を取得し、2016年11月に最高裁で賃貸借契約の解除の判決が出たB滑走路の誘導路脇にある2カ所の計7284m2の土地について市東孝雄(北原派)側が強制執行を許可しないように求めた裁判が千葉地裁で開始[590]。
- 3月16日:「多古町航空機騒音等対策協議会」が成田空港の更なる機能強化に関する要望書を国・千葉県・多古町・NAAに提出[281]。
- 3月21日:空港展開候補地内にある芝山町菱田東区が、成田空港の更なる機能強化に関する表意書をNAAに提出[281]。
- 3月27日:「成田空港地域共生・共栄会議」が地域 振興連絡協議会にこれからの成田空港に関する提言書を提出[281]。
- 4月6日:「横芝光町航空機騒音等対策協議会」が成田空港の更なる機能強化に関する意見書を国・千葉県・NAAに提出[281]。
- 5月31日:未明、前年7月に確定したNAAへの明け渡しを命じる判決に基づき、千葉地裁の執行官の強制執行指示によって旧熱田派の団結小屋「横堀現地闘争本部」(鉄骨平屋建て約50平方メートル)が撤去される。近くには旧熱田派の支援者数人が集まり「農民追い出しを許さない」などとシュプレヒコールを上げる。撤去後、NAAは「空港の機能強化が求められている中、誘導路用地として土地を活用し空港機能を拡充していきたい」とコメント。空港用地内や保安用地に残る団結小屋は6棟となる[591][592][593][594][595][596]。
- 6月12日:四者協が開催され、NAAから成田空港の更なる機能強化について、滑走路別に異なる運用時間を採用する「スライド運用」導入等の見直し案が提示される[597]。
- 8月9日:反対同盟北原派代表の北原鉱治が死去[598][599][600]。
- 9月9日:三里塚闘争の今を描いた日本映画『三里塚のイカロス』が上映開始。
- 12月27日:成田空港周辺9市町の首長らによる協議会が成田市役所内で開かれ、翌月にも国・千葉県・NAAに対する要望を取りまとめる方針を決める。一部の出席者からは、「住民の間で騒音の拡大に対する不安が大きく、現在の案のままでは、理解が得られない」との声が上がる[601]。
- 12月31日:成田空港の発着回数が2017年通年で25万1639回(国際線発着回数:19万7458回、国内線発着回数:5万4181回)となり、初めて25万回を超える。同年間の総旅客数も4068万7040人(国際線旅客数:3314万6791人、国内線旅客数:754万249人)となり、初めて4000万人を超える。一方、アジアから北米に向かう乗り継ぎ客が多かったデルタ航空運休の影響が続き、通過客(国際線乗り継ぎ)は399万3572人となり、400万人を割り込んだ[602][603]。
2018年
- 1月1日:NAAに、複数の便を名指しして「爆発物を搭載した」「滑走路延伸計画を中止しろ」などと録音した女の声で脅迫電話があり、ジェットスター・ジャパンの2便が欠航し約340人に影響。成田国際空港警察署が調べたが、不審物は見つからず[604]。
- 1月4日:NAAの夏目社長が社員への年頭訓示で、「戌年は準備を整える年。新たな成長に向けしっかりと準備をしていけば先行きは明るい」と激励し、「いよいよ大詰めの段階だ。国際的空港間競争に勝ち残っていくために総力を結集して実現していかなければならない」と成田空港の機能強化への決意を表明[605]。
- 1月15日:共産党の畑野君枝衆院議員・山添拓参院議員らが成田空港の機能強化について佐藤晴彦横芝光町長と懇談し、町側から、騒音被害の増大・NAAの周辺対策交付金や税収の地域間格差などの懸念が表明される。議員らは共産党系の地元団体「成田空港から郷土とくらしを守る会」とも懇談し、不満の意見を聴取する[606]。
- 1月22日:安倍首相が、衆院本会議での施政方針演説で、「羽田、成田空港の容量を、世界最高水準の百万回にまで拡大する」と述べる[607]。
- 1月23日:住民団体「横芝光町航空機騒音等対策協議会」が、睡眠時間確保のため更なる飛行時間延長見直しや地域間格差是正を求める要望書を県・国土交通省・NAAに提出。同協議会会長は「成田空港が地域で重要な地位を占めていると認識している」としながら、「地域が納得できる対応をしてほしい」と述べる[608][609][610][611]。
- 1月25日:空港周辺9市町の振興策として千葉県が3月までに作成する「基本プラン」について、横芝光町の佐藤晴彦町長・同町町議が県庁を訪れ、空港直結道路の整備・工業団地の誘致・河川の治水対策の三つを重点項目として森田千葉県知事に要望。佐藤町長は「地域振興にしっかり取り組む」との森田知事の回答を評価[612]。
- 1月30日:空港周辺9市町でつくる「成田空港圏自治体連絡協議会」が、空港の夜間飛行時間延長に関し、騒音被害抑制に向けた追加措置を求める要望書を森田千葉県知事に提出。成田空港の機能強化が周辺地域の活性化につながるよう、産業振興やインフラ整備に関する基本計画を県が早急に策定することも要請[613]。
- 1月31日:成田空港の機能強化を巡り、森田千葉県知事と空港周辺の市町長らが、国土交通省とNAA東京事務所を訪ね、夜間飛行制限緩和案の改善や騒音対策の拡充など6項目からなる機能強化の見直し案に関する再要請書を石井啓一国交相とNAAの夏目社長にそれぞれ手渡す。森田知事は「見直し案でも騒音の不安が払拭できていない。地域振興策の強い要望もあり、ぜひ検討していただきたい」と見直し案の改善を強く要請。石井国交相は「成田空港の国際競争力の強化と生活環境保全の両立が重要。要請を重く受け止め、最終的な結論が得られるようしっかり検討する」と応じ、夏目社長は「機能強化は地域と空港の将来を決定付ける。要請の内容を重く受け止め、関係者と相談し、できるだけ早く方向性を示したい」と述べる[614]。
- 2月19日:「成田空港圏自治体連絡協議会」が芝山町で会合を開き、国土交通省・NAA・千葉県の担当者から機能強化の見直し案に関する六項目の再要望に対する回答の説明を受ける。この中で、これまでに実施してきていた住民説明会で不満の声を寄せられていた[615] NAAが滑走路ごとの運用時間をずらすことにより夜間の静穏時間を7時間確保する「スライド運用」案や周辺対策交付金の充実を提示、国土交通省は空港全体の午前5時~翌午前0時半の運用時間で合意することが前提としつつも、C滑走路供用まで相当の期間を要するため、さらなる改善について要請があれば協議に応じるとする。千葉県が成田空港周辺9市町の新たな地域づくりの方向性を示す「基本プラン」の案を提示。協議会長の小泉一成・成田市長が「再要望を真摯に受け止めて検討していただいた回答で、一定の評価をしたい」、相川勝重・芝山町長が「(スライド運用によって確保される)7時間は、われわれや国が努力した結果の落ち着く線。町民の多くも『まあ仕方ない』と思ってくれるのではないか」とそれぞれ述べ、周辺9市町の首長らは国・NAA側の回答を一定程度評価。一方、A・B2本の滑走路の飛行コースの谷間になる地域がある横芝光町の佐藤晴彦町長は「C滑走路の運用時間を引き続き協議していただける回答」としつつも、スライド運用については「実質的な恩恵はよく分からない」とした[616][617][618]。
- 2月20日:衆院第2議員会館内で、「成田空港から郷土とくらしを守る会」等の地元住民らが国土交通省に対し成田空港の機能強化案について反対意見を述べるとともに、同空港の運用時間拡大案の白紙撤回を求める署名を提出。日本共産党の畑野君枝衆院議員・山添拓参院議員・鵜澤治成田市議・山崎よしさだ横芝光町議・志位和夫衆院議員秘書らが同席[619]。
- 2月22日:19日に示された機能強化の再修正案について、国土交通省・NAA・千葉県が横芝光町議会に説明を非公開で実施。議員らからは、周辺対策交付金や地域振興策の充実について積極的に施策に反映することや、同月28日と3月1日に予定される住民説明会での町民へ分かりやすい説明などの要望のほか、反対が強い中で制限時間緩和を実施することへの憂慮の声が上がる。佐藤晴彦町長は「再修正案は一定の評価はできる。議員からもある程度理解が得られている。町民と対話し、議会と再度協議して方向性を導きたい」とコメント[615]。再修正案について、NAAの夏目社長が「国際競争力維持と地域住民の生活保全を両立する上でギリギリの案」と記者会見で述べる[620]。
- 2月28日:横芝光町が、19日に示された成田空港の機能強化の再修正案についての住民の検討材料として、案が実行された場合に町内に整備が見込まれるインフラの予想図「将来の横芝光町の姿」を作成。予想図には空港直結の幹線道路や工業団地など、町が求めてきた地域振興策が示されている。「将来の横芝光町の姿」は同日と翌日に介された住民説明会で配布[621]。
- 2月28日 - 3月1日:横芝光町で運用拡大案についての住民説明会が開かれる。この中で佐藤町長「新たな見直し案では、今後もさらなる騒音の軽減策の協議を行うことも盛り込まれ、一定の評価をしている」と述べる。住民からは「少子高齢化が進む中でもこの地域には空港がある。空港を生かして住んでいられる、子育てできる町であってほしい」「睡眠の妨げになることには変わりない」などの声が聞かれ、賛否が分かれる[622][623]。特に住民の反応が厳しかった28日の説明会の後、佐藤町長は「住民のリアクションがあまりにも厳しかったのは否めない事実。振興策の部分では何らかのポジティブな意見が出るのかなという期待は正直持っていたのだが、反対意見の方がどうしても強い中で、これをどう判断していくか考えて行かなければならない」とコメント[624]。
- 3月2日:横芝光町で町議会全員協議会(非公開)が開催され、成田空港機能強化の見直し案について対応を協議。佐藤町長が「運用時間についてこれだけ反対意見が根強い中で、今の時点で結論を出すには至っていない」などと述べ、出席者からは「結論を出すべき」とか「決めるにはまだ早い」など賛成・反対双方の意見が出たが、受け入れの可否について結論は出ず。終了後に開かれた記者会見で佐藤町長は「この2日間で考えが変わった。深夜・早朝の運用時間のさらなる見直しも含めて求めるということだ」「条件付き賛成だが、運用時間に納得していない町民の意見を尊重したい」「現時点では四者協議会の協定書に捺印できない」と述べ、結論先送りを明言。近く開催が見込まれる四者協の最終合意が不透明な状況になる[623][625][626][627]。この事態を受け、他の空港周辺市町の首長らからは「横芝光町の厳しさは理解しているが、ただ言えることは何とか空港圏として足並みをそろえていただきたい」などと困惑のコメントが出される[628]。
- 3月3日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」(騒対協)の常任理事・監事会議が成田市役所で開かれ、国土交通省・NAA・県からの案についての説明や協議会幹部による市の対応についての質疑などがなされる。委員らからは運用時間の維持を求める声もあったが、強硬な反対意見は出ず、成尾政美会長が「われわれの要望がそれなりに検討されて示されたことは評価できる」と述べ、事実上小泉一成市長に判断を一任。小泉市長は会議後、記者団に「騒対協の意見を受けて、私が総合的に判断していきたい」「機能強化が実現すれば地域振興も行われ、地方創生につながる」と述べ、NAA・国・県が提案した対策を確実に実施することを条件に合意に前向きな姿勢を示す[628][629]。
- 3月7日:成田空港の機能強化をめぐり、横芝光町の佐藤晴彦町長が再見直し案について「拙速に答えを出さず、まだまだ住民との話し合いも必要だ」と町議会で述べ、受け入れに慎重な姿勢を示す。佐藤町長に対し、成田市や芝山町など空港周辺9市町を中心とした14商工団体の長が連名で機能強化の受け入れを申し入れ[630][631][632]。
- 3月9日:山武市の椎名千収市長が、千葉日報の取材に「山武市だけが反対するわけにはいかないが、横芝光町が賛成できないときに賛成はできない。横芝光町と問題は共有していく」などと佐藤町長に追随する意向を示唆[633]。千葉県議会の総合企画水道常任委員会で県空港地域振興課の担当者は「各市町の意思が統一しなければ、(四者協は)なかなか開けない。まず9市町の方で再修正案を改めて検討してもらい、意思が統一されてからと考えている」と説明[634]。空港周辺6市町の商工団体青年部のメンバーらで構成する「NARITA空港圏青年交流会」(会員8団体約400人)が、「少子高齢化が進む中、4万人の雇用を持つ空港は地域の宝。今回の機能強化で3万人の雇用が生まれ、波及効果は計り知れない」として早急に最終結論を出すよう求める意見書を纏める。意見書は関係市町・国土交通省・NAA・県に提出予定[635]。
- 3月11日:「午後11時から午前6時の飛行制限は、どんなことがあっても譲れない」とする横芝光町の住民団体「航空機騒音から生活を守る会」[636] の集会(参加者約160人)に協定書合意への判断を見送っている佐藤晴彦町長が出席。佐藤町長は判断見送りについて激励の声と国側からの接触を受けていることを明かし、「最後は議会と話し合い結論を出す」と述べる[637]。
- 3月12日:横芝光町の佐藤町長が町議会全員協議会後の記者会見で、「熟慮を重ねた苦渋の選択」としたうえで「これ以上判断を遅らせるのは得策ではない。機能強化実現で町がさらに発展することを期待し、合意の決断をするときが来た」と述べ、成田空港強化案受け入れを表明。全員協議会では佐藤町長の方針を大多数が支持しており、同町議会の川島勝美議長は「関係機関と精いっぱいの交渉をしてきた町長の判断を尊重する」と述べる[638][639][640][641][642]。
- 3月13日:夜、千葉県・国・地元9市町・NAAからなる四者協議会が開催され、滑走路増設や運用時間延長を含む成田空港の更なる機能強化について最終合意。「成田国際空港の更なる機能強化に関する確認書」が締結される。協議会終了後、出席者が揃って開かれた記者会見では、森田千葉県知事が「今回の成田空港の拡大案は、地元、県、国のさらなる発展に大いに寄与すると思っている」、小泉一成成田市長が「議論が始まって以降、200回を超える住民説明会を行い、丁寧な説明と意見交換を重ねてきた。住民の理解は進んだと考えているが、今も住民の間でさまざまな思いや不安を感じている人がいることも認識しており、空港の機能強化と住民の生活環境の保全、地域振興を一体として進めていきたい」とそれぞれ述べる。前日になって受け入れを表明した横芝光町の佐藤町長は、「全ての要望が受け入れられた訳ではないが、関係者は可能な限り努力してくれたと思う。悩みに悩んだ上での結論だが、ほかの自治体に乗り遅れることなく、地域振興を図るとともに、不安を抱いている多くの住民に寄り添い理解を求めていきたい」と述べる。NAAの夏目社長は「最終合意が得られたことは感無量で、成田空港にとって歴史的な1日になった。我が国と、地域の将来がかかっているプロジェクトに身が引き締まる思いだ。地域に寄り添いながら精いっぱい努力したい」した[643][644]。合意に対し、地元からは「納得できない」「町の将来を考えると受け入れざるを得ない」等様々な声が上がる[645]。
- 3月13日:同月4日に成田市西大須賀の竹林で航空機のアンテナが落下しているのが確認されたのを受け、同市内の航空機騒音下住民で構成する「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、国土交通省成田空港事務所とNAAに対して早急な対応実施を申し入れ[646]。
- 3月14日:NAAが「引き続き、地域の皆様の機能強化に対する理解を更に深められるよう努めるとともに、『空港づくりは地域づくり』という共生・共栄の理念のもと、空港があって良かったと地域の皆様から思っていただけるよう努力してまいる」等とする声明文を夏目社長名で発表[647]。
- 3月29日:自民党の成田国際空港推進議員連盟の総会が開かれ、合意に至った成田空港の機能強化に向けて、今後国と県、周辺市町、それに空港会社などの関係者が一丸となって取り組む方針が確認される[648]。
- 4月1日:NAAが「航空機落下物被害救済支援制度」を創設[649]。
- 4月2日:NAAが、多古町役場庁舎に「東地域相談センター」を新設。相談センターとしては5か所目[650]。
- 4月4日:「成田空港の機能拡充と地域経済の活性化を実現する会」及び「成田第3滑走路を実現する会」が第3滑走路早期建設に関する要望書を国・県・成田空港圏自治体連絡協議会・NAAへ提出[539]。同日、東峰地区の三里塚物産で失火、倉庫などを焼失[651][652][653][654]。
- 4月8日:多古町長選で、成田空港の機能強化に伴う騒音対策・第3滑走路新設・空港第4ターミナルビル誘致などを公約に掲げる自民推薦の所一重が現職の菅沢英毅を破り、初当選[655]。
- 4月27日:NAAが「成田国際空港の更なる機能強化 環境影響評価準備書」を公表[587]。
- 5月20日:成田国際空港が開港して40年となり、各種記念イベントが開催される[656]。
- 6月6日:所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法が成立[657]。
- 6月11日:蝦名邦晴航空局長が参院決算委員会で、成田空港第3滑走路などの建設予定地について6日に成立した「所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法」を活用して所有者が分からない土地の取得を進める考えを明らかにする[658]。
- 7月11日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が「成田空港と地域の繁栄を目指す有志の会」に名称変更。夜間飛行制限緩和の議論・空港内の大規模バスターミナル・空港東側の新玄関口・空港圏の環状道路・フェンスを可能な限り撤廃-など13項目からなる、地域住民からの建設的提言の実現を目指す「建言書」も示される[659]。
- 9月11日:成田市議会空港対策特別委員会で、成田市が内窓設置工事の助成を受けた場合にエアコンなどの空調機器を設置する費用の95%を補助する方針を明らかにする[660]。
- 9月13日:未明、A滑走路わきの緑地帯で、過去に過激派が発射した飛翔弾とみられる物体が掘削作業中に発見される。午前8時20分までA滑走路が閉鎖される[661][662]。
- 9月28日:「成田第3滑走路実現する会」と「成田空港の機能拡充と地域経済の活性化を実現する会」が、第3滑走路の早期建設を求める要望書を国土交通省・NAA・成田空港圏自治体連絡協議会・千葉県に提出。両会は要望で、台風21号で甚大な被害を受けた関西国際空港の状況にも触れ、国土強靭化を進める中「成田の容量拡大のため第3滑走路の早期着工を強く求める」と訴える[663]。
- 10月26日:NAAの定例会見で、松本大樹取締役が、新滑走路整備を含む更なる機能強化に向けた予定地について、民有地の77%に当たる約560ヘクタールの土地で地権者からの同意書を得たことを明かす。地権者に対し「NAAとしても非常に感謝申し上げる」とし、さらに「できるだけ多くの地権者へ理解が得られるよう、最大限の努力を行っていく」と述べる[664]。
- 10月末:熱田派系市民グループ「大地共有委員会」が一般社団法人「三里塚大地共有運動の会」の設立を申請(11月13日発足[665]、代表理事山口幸夫[666]。)。一坪共有地共有者の高齢者化や相続問題に対抗するのが狙いとされる[667]。
- 12月4日:NAAが成田市議会空港対策特別委員会で、A滑走路の発着時間延長に伴う周辺対策交付金を、同市など5市町に総額1億円交付することを表明[668]。
- 12月17日:「成田空港と地域の繁栄を目指す有志の会」が記者会見を開き、作成したチラシ「成田空港圏未来予想図」を公表。同会はA滑走路の運用時間延長を2019年の冬ダイヤから始めるよう求める緊急提言(「空港と地域の未来について」)も発表[669][670]。
- 12月20日:耕作地明け渡し命令(2016年10月25日の最高裁上告棄却により確定)に対して行われた、市東孝雄(北原派)の請求異議(民事執行法に基づく強制執行不許の求め)を、千葉地裁が退ける。市東らは1990年代前半の旧熱田派との対話の中で国が出した強制的手段を取らない確約などを挙げて権利乱用を主張していたが、請求異議には口頭弁論終結後の事情変更が必要であり、千葉地裁一連の対話が口頭弁論終結よりも前に行われていたものだったことに加え、「強制執行権を放棄したとまでは認められない」ことを判決理由とした。市東は即日控訴[671][672]。同日、デルタ航空日本支社長の森本大が、羽田線を巡る日米航空当局間協議について「正念場にすでに来ている。年明けの1月か2月に交渉が決着」すると見通しを述べ、「なるべく多く」羽田の発着枠を手に入れて成田から羽田へ路線を移したい旨を専門メディア向けの説明会で語る[673]。
2019年
- 1月25日:NAAと国土交通省の担当者が山武市を訪れ、A滑走路の発着時間延長を2019年冬ダイヤからとする案を説明。松下浩明市長及び加藤忠勝議長は「騒音対策や地域振興策をしっかりやると約束してもらった」などとして、冬ダイヤを「致し方ない」と容認する立場を示す[674]。
- 1月28日:横芝光町で開かれた非公開の全員協議会で、国土交通省とNAAの担当者が「東京オリンピックを万全の体制で迎えたい」としてA滑走路の発着時間延長を2019年10月末の冬ダイヤからとする案についての理解を求める。議会の同意を得た佐藤晴彦町長が受け入れを表明。これをもって空港周辺9市町全てからの同意が得られる[675][676]。同日、安倍首相が施政方針演説で「来年の四千万人目標に向かって、海外と地方をつなぐ空の玄関口、羽田、成田空港の発着枠を八万回増やします。」と述べる。
- 1月29日:羽田空港容量拡大のための新飛行ルートをめぐり、国土交通省と在日米軍の交渉が基本合意に達する。横田空域通過中の管制権を一部時間帯で日本側が取得することとなる。これにより、国際便の年発着数可能枠が6万回から9.9万回に増加し、成田空港に就航している国際線の羽田発着への振替の動きが見られた[677][678]。
- 2月4日:四者協議会で、行政やNAAから成田財特法延長の上程や落下物対策の取り組みについて説明がなされ、2019年冬ダイヤ(10月末)からのA滑走路の夜間飛行制限緩和が正式合意される。運用時間の延長は開港以来初[679][680][681]。
- 3月12日:社民党の仲介により、参議院議員会館で「郷土の空を考える会」(芝山町)と「航空機騒音から生活を守る会」(横芝光町)の両住民団体・国土交通省・NAAの間で話し合いが持たれる。冒頭、福島瑞穂社民党副党首が「住民は生活がどうなるか不安がある。懸念や心配を受け止め政策の見直しなどをしてほしい」と呼び掛ける。両会代表は「もっと親身に対応して」「平穏な生活の権利が担保されれば補償も要らない」と増加する騒音への不安や対策への疑問を訴え、国土交通省は「やるべき対策がまだまだあると分かった」、NAAは「環境対など課されたことをしっかりやっていく」とそれぞれ応じる[682]。
- 3月28日:NAAの夏目社長が、1,108人の地権者からの同意書を取得し、3本目滑走路等用地約1,000ヘクタールの92%(民有地約730ヘクタールのうち約650ヘクタール、公用地約270ヘクタール)について、買収同意が得られたことを記者会見で明らかにし、「同意いただいた地権者に改めて感謝する。機能強化への地域の理解と期待の表れと重く受け止める」と述べる[683][684]。
- 3月31日:成田財特法の期限が、2029年(令和11年)3月31日までに延長される[685][686]。
- 7月23日:「成田空港周辺市町議会連絡協議会」がNAAを訪問し、空港の一日も早い機能強化の実現などを求める決議書を提出。(1)機能強化の実現に向けた環境対策など(2)地域振興策と周辺対策交付金(3)国際・国内航空ネットワークのさらなる拡充(4)アクセス強化・道路整備(5)過激派暴力集団によるゲリラ行為の排除の5点が要求された[687]。
- 6月25日:前観光庁長官の田村明比古がNAA社長に就任。官僚出身者は、初代の黒野匡彦以来[688][689]。
- 8月9日:アメリカ合衆国運輸省がアメリカの航空会社への羽田空港発着枠の新規割当(12枠、2020年夏スケジュールから)を最終決定[690]。デルタ航空が2020年に米国-東京間航路の拠点を成田空港から羽田空港に完全に移管することを公式に発表[691]。NAAの田村社長は、デルタ撤退について「去る者があれば、来る者もある」と話す[692]。
- 10月1日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、NAAに対し、1戸だけが移転対象から除かれている荒海・駒井野地区の早急な対策とともに、内窓設置工事対象範囲を早急に第1種区域まで拡大するよう求める要望書を提出[693]。
- 10月2日:デルタ航空国際事業部門社長のスティーブ・シアーが、「今のところ(羽田移管後に)成田に戻る計画はない」と記者会見で述べる。ただし、他社から請け負う機材整備や顧客管理など一部の部門は成田に残すとした。また、移管後の羽田での運用は「日米間の輸送が中心になる」として、ハブ運航は行わないとの認識を示す[694]。
- 10月8日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が常任理事・監事会議を開き、国・県・市・NAAに地域への対策を求める。国土交通省は「4者が一つになって進んでいかなければいけない時に国の役割は大きい。一日も早く答えを出せるよう積極的に関与する」と応じる[695]。
- 10月27日:冬ダイヤが始まり、発着時間が午前0時まで延長される。開港以来初めての運用時間緩和。NAAの田村社長は「住民の皆さんの生活環境に十分配慮しながら、航空ネットワークの拡充に努めていく」とコメント[696]
- 11月5日:国土交通省が53年前に策定された成田空港の基本計画を改定。B滑走路の延長や3本目の平行滑走路(新C滑走路)の新設が盛り込まれ、未整備であった横風用滑走路(旧C滑走路)は正式に廃止された[697][698]。同日、NAAが「成田空港の更なる機能強化」について航空法に基づく空港等の変更認可申請[699]。
- 11月21日: 開港以来の航空旅客数が11億人を達成したセレモニーが開かれ、小泉成田市長が「成田空港は日本の空の玄関であると同時に、この地域にとっては大きな核となる財産でもある。来年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されることから、成田空港を擁する周辺市町としては、これらの追い風を千載一遇のチャンスと捉え、空港周辺地域の振興・発展につなげたいと考えている」と挨拶[700]。
- 12月5日:「拡大するインバウンドに対応するため、財政投融資も活用し、首都圏空港の機能強化や国際空港へのアクセス強化等を図る」ことが明記された「安心と成長の未来を拓く総合経済対策」が閣議決定される[701]。
- 12月9日:リニア中央新幹線の工事をめぐる調整が難航する中、国土交通省がJR東海とNAAの幹部を招いて地域との共生をテーマにした勉強会を開催。NAAの取り組みが紹介される[702][703]。
- 12月20日:NAAへの4000億円財政融資を含む、令和2年度財政投融資計画が閣議に提出される[704]。
- 12月25日:成田空港の施設変更・延長進入表面等の変更について、芝山文化センターで公聴会が開催される。38人の公述人のうち、賛成(条件付き含む)32人・反対6人であったが、賛成意見に野次を飛ばす議事進行妨害により退場させられる者もいた[705][706][707]。
2020年代
2020年
- 1月20日:交通政策審議会航空分科会事業評価小委員会(国土交通相諮問機関)が、「成田空港の更なる機能強化」について「実施が妥当」と判断。同委員会の家田仁委員長は「日本の経済成長と国際発展の観点からも海外とのゲートウェーは強化しなければいけない。その中でひっ迫するのが首都圏で、一翼を担う成田は相応の努力が必要」「1978年の開港以来、地元とともに課題を乗り越えてきた。それが実る形で今回のプロジェクトにつながっているだけに声援を送りたい」とコメント[708]。
- 1月31日:国土交通省が「成田国際空港の更なる機能強化」に係る施設変更を許可。年間発着容量を50万回にするための施設供用の目標が2028年度末とされる[709]。
- 2月3日:千葉県都市計画審議会が、騒音防止地区などの変更を原案どおり可決。「成田空港の更なる機能強化」によって移転の対象となる既存住宅1078戸がNAAによる移転補償の対象となる[710][711]。
- 2月10日:NAAが、成田空港の更なる機能強化に向けて、地域共生部に「機能強化・地域振興調整室」を、整備部に「機能強化整備室」をそれぞれ設置[712]。
- 3月11日:現地でワンパック運動を継続していた、石井武の長男(2015年に所有地を売却し、闘争から離脱)の元妻が事故死[713]。
- 3月18日:空港対策特別委員会成田市議会が、千葉県・NAAに対し、機能強化は地域の発展に必要不可欠としつつ、地域振興策の着実な実施・落下物対策の早期解決・移転対象区域や内窓設置区域の一部見直しを求める要望書を提出[714]。
- 3月27日:四者協議会で、県がまとめた地域振興策の実施プランが承認される[715]。新たな騒音地区が設定され、集落内で少数の住民が移転補償の対象外となって取り残される「一戸残し」問題が解消される[716]。記者会見でNAAの田村社長が「人の移動が全世界で制限され、成田空港は非常に厳しい現状だが、航空需要は過去も戦争や疫病を乗り越え、力強く伸びてきた。短期的な(新型コロナウイルス)対策としっかり分け、中長期的な視点で取り組んでいくことが大事だ」と述べる[717]。一般会計総額が102兆6580億円で過去最大となる令和2年度予算が、参議院本会議で可決され成立[718]。NAAへの4000億円財政融資が盛り込まれた令和2年度財政投融資計画が確定する[704]。
- 3月29日:夏スケジュールが始まり、羽田空港が増枠。羽田空港第2ターミナルでの国際線取り扱いが開始されるが、新型コロナウイルスの影響により利用は低調[719]。これに伴い、デルタ航空が成田便の運航から撤退[720]。
- 4月1日:騒防法・騒特法の都市計画の変更の告示がなされ、内窓設置事業及び既存防音工事充実策の対象エリアが拡大される[721]。
- 6月25日:NAAの株主総会(NAA株主は国土交通大臣・財務大臣)で、国土交通大臣を引受先とする第三者割当増資が決議される[722]。株主配当は、新型コロナウイルスの影響で先行き不透明な状況が続いているとして、見送られる[723]。
- 7月1日:NAAが、成田空港の更なる機能強化に向けた業務推進体制の一層の強化を図るため、整備部配下の「機能強化整備室」を「機能強化整備部」に改組[724]。
- 7月22日 - NAAが第三者割当増資を実施し、394,736株を発行。国土交通大臣から29,999,936,000円の払込を受ける(増資後の出資比率は、国土交通大臣91.66%・財務大臣 8.34%)[725]。
- 8月25日:千葉地裁が、北原派がやぐらと看板を設置したB滑走路側誘導路脇の3カ所について、土地の所有権を主張するNAAが工作物の撤去とその周辺の土地の明け渡しを北原派に求めた訴訟の判決を出し、「原告(NAA)に各土地の所有権が認められる。被告は各工作物を占有し、土地を占有しているが、その他の点を検討するまでもなく、占有権限が認められない」として、NAAの請求を認める。ただし、仮執行宣言は付かず。北原派は即日控訴し、「(工作物は)専業農家の市東孝雄さんの畑に承諾を得て設置したもので、NAAには明け渡しを求める権利も資格も全く存在しない。不当判決を許さない」とする声明を発表。田村NAA社長は「航空機の効率的な運用を図るため、誘導路の直線化などに向けた検討を進めていきたいと考えている」とコメント[726]。
- 9月16日:菅義偉内閣が発足。
- 12月17日:東京高裁が、市東孝雄(北原派)による強制執行不許の求めの控訴審判決で、請求を棄却した2018年12月20日の千葉地裁判決を支持し、控訴を棄却。市東側は、新型コロナウイルス感染拡大により航空機発着回数は減少しており、耕作地を空港用地に転用する目的はなくなったと主張したが、「現時点で航空需要が将来にわたり復活しないとは言えず、必要性が消滅したとは認められない」とされた。市東は最高裁に上告[727]。
- 12月23日:財務省が、令和3年度政府予算案を発表。B滑走路の延伸及びC滑走路の新設等の更なる機能強化の着実な推進の支援のためのNAAに対する無利子貸付50億円等、空港整備勘定(自動車安全特別会計)77億円が成田空港に計上される[728][729]。
脚注
注釈
- ^ この会談は運輸省事務当局が認知しているものではなかった[49]
- ^ 霞ヶ浦・百里・木更津沖・羽田拡張案について管制上の問題を検討
- ^ 米軍使用飛行場の返還、利用問題を検討
- ^ 霞ヶ浦・木更津沖・羽田拡張・富里の各案について土木上の問題を検討
- ^ 主な内容は以下の通り。(1)土地などの補償価格の基準は県知事が住民の納得を得られると判断した価格(2)代替地は一対一を原則都市、国有地は全部提供する(3)騒音被害区域は一般住家90ホン、学校病院などは80ホン以上の区域。この区域内の住宅については原則として移転先を国が措置し移転料を支払う(4)慮職者の職業あっせんは国が責任をもってする[86]。
- ^ この時佐藤首相は「東京周辺で一時間以内に行ける新空港の用地をいくら探しても北総台地しかない。空域も、自衛隊の百里空港〔ママ〕と羽田空港との間を調整可能であること、御料牧場、県有隣を提供してくれれば、民有地にかかる面積を圧縮できること、東京湾内は便利な羽田空港を国内線用として存続しなければならないので、新たな空港は難しい。また今度は地元との交渉条件は決定前に公表し、前例はないが、閣議決定の中に含ませる」などと伝えた[112]。
- ^ 総裁には岸信介が推す宮沢胤勇が内定していたが、6月2日に急死している[108]。
- ^ その中には既に土地を空港公団に売却してこの地を離れた条件派もいたという[246]。
- ^ 平野は大木(小泉)よね宅の小屋で常駐していた [335]。
- ^ 共同経営者は後の円卓会議を機に反対運動を終結[336]
- ^ 一、国は成田空港問題の原因が国側の一方的な空港づくりにあることを改めて認めるとともに、小川嘉吉の農地を一方的に空港用地と取り扱ったことについて重ねて遺憾の意を表するものであること。 一、小川嘉吉が相談した土地が依然として農地であるという事実を踏まえ、相続税問題を国側の責任において解消するものとすること。 一、国は、平成五年六月にいわゆる二期計画用地に関する収用裁決申請のすべてを取り下げ、公正的手段により第二期工事を進めることを放棄したところであり、小川嘉吉との間においても徹底した話し合いによって進めることを確約し、小川嘉吉の了解なしに農地であるその所有地が空港用地となることはないものであること。 一、小川嘉吉は、各般の訴訟の目的は上記一から三により達成され、司法の判断を仰ぐ必要が存しなくなったものと認め、訴訟を終結させるために必要な措置を執ることとし、国はこれに応ずるものとすること。 一、小川嘉吉と国は、今後、対等の立場に立ってこれからの空港建設の進め方について話し合うこととするものであること[440]。
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