北富士演習場
北富士演習場(きたふじ えんしゅうじょう)は、富士山北麓の山梨県富士吉田市、山中湖村にまたがる陸上自衛隊の演習場。北富士駐屯地業務隊(山梨県忍野村)が管理を担当している。
概要
[編集]小銃や機関銃のほか、各種火砲の射撃訓練に使われる。日米安保条約及び日米地位協定に基づき、陸上自衛隊だけでなく、アメリカ軍も共同利用している[1]。
面積は4,597ha。国有地だけでなく県有地、公民有地も含む[2]。演習場敷地に入会権を持つ地元住民でつくる富士吉田市外二ケ村恩賜県有財産保護組合(吉田恩組)と国が、5年ごとに使用協定を更新している[3]。
この入会権に基づき地元住民は林業や山菜採取のため日を決めて演習場敷地に入っているほか、入会権確認のイベントとして吉田恩組と旧11ケ村入会組合の合同による火入れ(野焼き)が年中行事となっている[4][5]。
歴史
[編集]- 1936年(昭和11年)11月:大日本帝国陸軍が開設[6]。
- 1938年(昭和13年)10月:山梨県と用地売買の契約調印[6]。
- 1945年(昭和20年)10月:太平洋戦争敗戦により、連合国軍が接収。
- 1955年(昭和30年)5月10日:アメリカ軍が地元住民の座り込みによる反対運動を無視して射撃演習を開始[7]。
- 1958年(昭和33年):アメリカ軍から日本に返還。
- 1970年(昭和45年)5月3日:演習場内の大和ケ原で不発弾が爆発、少年1人が死亡、1人が重傷。入会地の野焼き準備中に不発弾を見つけ、触っていたところ爆発した[8]。
- 1973年(昭和48年)4月:自衛隊管理の演習場に使用転換。
- 2018年(平成30年)10月:陸上自衛隊がイギリス陸軍との間で、日本では初の合同演習を実施し、報道機関に公開[9]。
北富士演習場問題
[編集]江戸時代から入会地として使われていた同地を明治初期に官営地とされて以降、忍野村農民らは国を相手に入会地を求めて闘争を続けており、戦前には一定の入会権を黙認されていた[1][6]。
戦後、演習場が米軍に接収されると、現地では砲弾が飛び交い樹木も標的とされ、売春婦が跋扈するなど状況が悪化した。これに対して、アメリカ人に生活を乱され生計を立てる途を失うことを懸念した忍野村の農民らは、1947年に入会権を守るための宣言をして、米軍に闘争を挑んだ。具体的には実弾射撃が行われている演習場に侵入して着弾地に座り込み、排除されそうになると地形を利用して逃亡するというゲリラ的抵抗であった[6][10]。
日本への返還後も米軍による演習が続けられており[11]、入会地からの収入が減り、生計を維持するために男性たちが出稼ぎに出ざるを得なくなったことから、忍野村農家の女性らが1960年6月に「忍草母の会」を結成(会長:渡辺喜美江)。「土は万年、金はいっとき」を合言葉に、入会権等を巡って反対運動を行った[6][12][13]。
「忍草母の会」は千葉県の成田空港を巡り日本国政府と争っている三里塚芝山連合空港反対同盟とも交流して三里塚闘争に大きな影響を与えており、「母なる闘争」と呼ばれる。富士の北麓を駆け巡り小屋や櫓を建て、地面に穴を掘って立て籠もり、立ち木によじ登って梢にしがみつく忍草の闘争スタイルは、警察との激しい衝突が生じた強制代執行阻止闘争をはじめ三里塚に受け継がれた[6][10][14][15]。両者の交流は、1967年9月に会員が成田現地での「三里塚空港粉砕・婦人のつどい」に参加したことから始まった。1968年6月には、「北富士」と「三里塚」の連携を企図する中核派が、戸村一作空港反対同盟代表を伴って北富士現地闘争に初参加している[13]。
「忍草母の会」は当初入会地などの民事的権利を主張していたが、中核派の介入を受けて次第に「反戦・反基地・反自衛隊」などの政治的課題を標榜するようになった。1967年12月には「全学連反戦現地等総本部」が設置されている[13]。中核派系の動労千葉とも共闘関係にあった[16]。
ベトナム戦争に際しては、密林に覆われ起伏の多い沖縄の訓練場よりも使い勝手の良い富士山麓の演習場で激しい米軍の訓練が行われるようになる。1970年夏頃からキャンプ富士周辺では強盗、交通事故、白人兵と黒人兵との喧嘩などが続出し、憲兵が常駐するようになる。 1970年11月5日には、防衛施設庁長官から在日米軍司令部に対し長射程の実弾演習を取りやめるよう要請が行われ、一時的に演習規模の一部縮小が実現したが、地域の農民らは着弾地付近に妨害工作として茅葺小屋を建てるなどの抵抗を続けた。この頃には左翼運動のカウンターとして右翼団体も現地一帯に出入りするようになっており、小屋を発見した右翼が防衛施設庁に先駆け手破壊する行為も見られた[17]。 1971年2月には105ミリ榴弾砲の発射に反対する地元農民によるゲリラ活動が行われ、同時期に行われた成田空港予定地の代執行とともに連日報道された[11][18][19]。
1988年1月22日に横浜防衛施設局(現・南関東防衛局)幹部宅が、1989年9月3日に山梨県北富士演習場対策室長宅が、それぞれ放火されている[20][21]。1993年4月26日には、中核派が住宅2軒を放火。うち1軒は北富士演習場対策協議会理事の自宅であり、もう1軒も北富士演習場対策協議会会長が以前居住していたものであるが事件当時は別人が住んでおり、攻撃対象を取り違えたものとみられる[22]。
「忍草母の会」は結成から半世紀の時を経ても活動を続けていたが[23]、現在は高齢となった会員の死去により活動を停止している。
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主な使用部隊
[編集]- 陸上自衛隊
- 第3海兵遠征軍(キャンプ富士)
周辺の自衛隊
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 小山高司. “北富士演習場をめぐる動き――その設置から使用転換の実現まで――” (PDF). 防衛研究所. 2009年2月11日閲覧。
- ^ 北富士演習場について山梨県(2018年3月30日閲覧)
- ^ 北富士演習場 第7次入会協定調印 吉田恩組「一層の権益確保」『毎日新聞』朝刊2018年3月25日(山梨県版)
- ^ 平成30年度 北富士演習場内国有入会地の火入れについて富士吉田市外二ケ村恩賜県有財産保護組合(2018年3月30日閲覧)
- ^ “山梨)約1900ヘクタールで野焼き:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2020年4月6日). 2020年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e f 福田克彦 (2001). 三里塚アンドソイル. 平原社. pp. 135-141
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、68頁。ISBN 9784309225043。
- ^ 「不発弾爆発 少年が死傷 北富士演習場」『朝日新聞』昭和45年(1970年)5月4日朝刊、12版、15面
- ^ “陸自と英陸軍が共同訓練、北富士演習場と富士学校で”. 日本経済新聞ニュースサイト. (2018年10月2日)
- ^ a b D.E.アプター (1986). 三里塚 もうひとつの日本. 岩波書店. pp. 91-92
- ^ a b “ベトナムに直結する北富士”. 朝日新聞: p. 23. (1971年2月26日)
- ^ 20世紀日本人名事典. “渡辺 喜美江(ワタナベ キミエ)とは”. コトバンク. 2019年2月11日閲覧。
- ^ a b c 公安調査庁 (1993). 成田闘争の概要. p. 183
- ^ 大金義昭 (2017年1月23日). “【JA創立70年 おんなたちの戦後史から】女性に見放されたJAに未来はありません!”. 農業協同組合新聞 電子版. 2019年8月31日閲覧。
- ^ 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、184-185頁
- ^ “『日刊 動労千葉』No.1769” (PDF). 国鉄千葉動力車労働組合 (1984年10月18日). 2017年11月12日閲覧。
- ^ 北富士 長射程砲取りやめ きょうの演習規模縮小 第四小屋を強制撤去『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月6日朝刊 12版 22面
- ^ “長距離砲据え付ける”. 『朝日新聞』(夕刊): p. 9. (1971年2月24日)
- ^ “ついに105ミリ砲撃つ”. 朝日新聞: p. 3. (1971年2月25日)
- ^ “平成元年版 犯罪白書第1編/第2章/第7節/2”. 法務省. 2018年1月30日閲覧。
- ^ 立花書房編 (2009). 新 警備用語辞典. 立花書房. pp. 463-688
- ^ 過激派事件簿40年史のその後. 月刊 治安フォーラム. 立花書房. (2007-11). p. 45
- ^ “北富士のページ”. 婦人民主クラブ全国協議会 (2006年5月28日). 2017年9月24日閲覧。