吉野照蔵
吉野 照蔵(吉野 照藏[1]、よしの てるぞう、1918年7月19日 - )は、日本の経営者[2]。清水建設9代目社長。
来歴
[編集]群馬県出身。旧制群馬県立太田中学校、旧制水戸高等学校、東京帝国大学工学部建築学科卒業[2]。
戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった[3]。
1970年、清水建設取締役に就任[2]。
在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。また総合技術力の強化のため、耐震構造分野の世界的権威、大崎順彦を招聘した[5]。
1988年4月、日本鉄道建設業協会会長に就任[6]。同年11月、海外建設協会「中国建設事情視察団」の団長として訪中[7]。
1989年6月、建築・設備維持保全推進協会(現ロングライフビル推進協会)初代会長に就任[8]。病気のため東大病院に入院。
1990年2月27日、中核派の放火ゲリラの標的となり、自宅を時限発火装置により放火される[注 1]。発火当時吉野は就寝中であったが、妻とともに脱出して難を逃れた[9]。同年5月、海外建設協会会長に就任。同年6月、清水建設代表取締役会長に就任[2][10]。
1991年5月、日本建設業団体連合会会長に就任し、指導力を発揮[2][11]。
1993年ゼネコン汚職事件で贈賄容疑により逮捕され、同年9月、日建連会長を辞任[2][12]。2000年9月12日、東京地方裁判所で懲役2年執行猶予4年の有罪判決を受ける[13]。
1984年春の褒章で藍綬褒章を受章しているが[1]、2006年6月23日返上[14]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『官報』号外第48号13-14頁 昭和59年4月30日号
- ^ a b c d e f g h “吉野照蔵(よしの てるぞう)とは”. コトバンク. 2020年4月5日閲覧。
- ^ 吉野照蔵 (1981-1-12). “主計長殿の下、全員集合 海軍航空隊の戦友たち”. 日経ビジネス 283: 93.
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
- ^ “吉野照蔵、九代社長に就任 | History | Our Heritage |”. www.shimz.co.jp. 清水建設. 2020年4月5日閲覧。
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
- ^ a b 原口和久 (2000-05-10). 成田空港365日. 崙書房. pp. 44-45
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年4月5日閲覧。
- ^ “清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年4月5日閲覧。
- ^ ニューズレター〜清水建設元会長らに有罪判決
- ^ 『官報』第4374号11頁 平成18年7月6日号