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吉野照蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉野 照蔵(吉野 照藏[1]、よしの てるぞう、1918年7月19日 - )は、日本経営者[2]清水建設9代目社長。

来歴

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群馬県出身。旧制群馬県立太田中学校旧制水戸高等学校東京帝国大学工学部建築学科卒業[2]

1942年、株式会社清水組(現・清水建設株式会社)に入社[2]

戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリ第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった[3]

1970年、清水建設取締役に就任[2]

1981年6月に清水建設社長に就任[2][4]

在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。また総合技術力の強化のため、耐震構造分野の世界的権威、大崎順彦を招聘した[5]

1988年4月、日本鉄道建設業協会会長に就任[6]。同年11月、海外建設協会「中国建設事情視察団」の団長として訪中[7]

1989年6月、建築・設備維持保全推進協会(現・ロングライフビル推進協会)初代会長に就任[8]。病気のため東大病院に入院。

1990年2月27日、中核派の放火ゲリラの標的となり、自宅を時限発火装置により放火される[注 1]。発火当時吉野は就寝中であったが、妻とともに脱出して難を逃れた[9]。同年5月、海外建設協会会長に就任。同年6月、清水建設代表取締役会長に就任[2][10]

1991年5月、日本建設業団体連合会会長に就任し、指導力を発揮[2][11]

1993年ゼネコン汚職事件贈賄容疑により逮捕され、同年9月、日建連会長を辞任[2][12]

1984年春の叙勲で藍綬褒章を受章しているが[1]、2006年6月23日返上[13]

脚注

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注釈

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  1. ^ 吉野が中核派の攻撃対象となった背景として、清水建設は成田空港二期工事の一部を請け負っていたほか、前年12月の団結小屋・東峰団結会館撤去の際に機動隊に機材を提供していたことが挙げられる(成田空港問題[9]

出典

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  1. ^ a b 『官報』号外第48号13頁 昭和59年4月30日号
  2. ^ a b c d e f g h 吉野照蔵(よしの てるぞう)とは”. コトバンク. 2020年4月5日閲覧。
  3. ^ 吉野照蔵 (1981-1-12). “主計長殿の下、全員集合 海軍航空隊の戦友たち”. 日経ビジネス 283: 93. 
  4. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
  5. ^ 吉野照蔵、九代社長に就任 | History | Our Heritage |”. www.shimz.co.jp. 清水建設. 2020年4月5日閲覧。
  6. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
  7. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
  8. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
  9. ^ a b 原口和久 (2000-05-10). 成田空港365日. 崙書房. pp. 44-45 
  10. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2020年4月2日閲覧。
  11. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年4月5日閲覧。
  12. ^ 清水建設(株)『清水建設二百年. 経営編』(2003.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団. 2020年4月5日閲覧。
  13. ^ 『官報』第4374号11頁 平成18年7月6日号