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中村大造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかむら たいぞう

中村 大造
生誕 (1920-07-25) 1920年7月25日
死没 (1987-05-06) 1987年5月6日(66歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 官僚実業家
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中村 大造(なかむら たいぞう、1920年(大正9年)7月25日 - 1987年昭和62年)5月6日[1])は、日本の官僚実業家。元運輸事務次官全日本空輸社長。三重県桑名市出身。

略歴

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  • 1944年(昭和19年)9月、学徒動員により東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、海軍に入隊[1]戦艦長門」に乗務し終戦を迎える[1]
  • 1946年(昭和21年)、運輸省に入省[2]。名古屋鉄道局官補[3]。以後、大臣官房人事課長・大臣官房観光部長・自動車局長・航空局長を歴任する[1]
  • 1976年(昭和51年)6月、運輸事務次官就任[1]ロッキード事件徹底解明の姿勢を見せる[2]
  • 1978年(昭和53年)、日本国有鉄道常務理事に就任[2][4]
  • 1979年(昭和54年)8月、新東京国際空港公団副総裁[1]
  • 1980年(昭和55年)8月、新東京国際空港公団総裁[1]
  • 1983年(昭和58年)6月、次期社長と目されながら退社した住田正二に代わり、第7代社長として全日本空輸に招聘される[1][5]
  • 1987年(昭和62年)肺の石灰化のため手術を受ける[1]
  • 1987年(昭和62年)5月6日、死去[1]

エピソード

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  • 成田空港問題で反対派が何度も運輸省に抗議に訪れたが、歴代運輸事務次官の中で唯一直接応対したのが中村であり[6]三里塚芝山連合空港反対同盟の幹部をして「あんないい役人もいる」といわしめた[7]
  • 石橋正次反対同盟委員長代行が運輸相時代の中村がコーヒーを出してもてなしたことを覚えており、中村の空港公団副総裁就任を機会に水面下の交渉が進められた。しかし、1981年加藤紘一衆議院議員らとともに行おうとした秘密会談(通称「官並会議[8]」)への反対同盟からの出席者の名前が反対派内に漏洩した。これによって交渉がとん挫しただけでなく、石橋は自己批判に追い込まれた。その石橋の処遇を巡って反対同盟内で対立が生じ、分裂する要因の一つとなった[6]
  • 社長在任中の1986年に全日本空輸の悲願だった国際線進出を果たした。初フライト(成田-グアム線)の同年3月3日には古巣の成田空港で式典に立ち、「国際進出は創業以来の夢。この間、国際チャーター便を飛ばし、今日あるを期してきたが、いざ実現となってみると、感無量です」と悲願達成を喜んでいたが、翌年に現職のまま死去した[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 大空への挑戦 ANA50年の航跡 104、105頁
  2. ^ a b c 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “中村大造(なかむら たいぞう)とは”. コトバンク. 2018年12月30日閲覧。
  3. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、378頁
  4. ^ 昭和53年後半 鉄道ニュース”. 国鉄があった時代. 2018年12月30日閲覧。
  5. ^ a b 原口和久 (2002). 成田 あの1年. 崙書房. pp. 139-143 
  6. ^ a b 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、47-48・165-172・200-209頁
  7. ^ 中村 大造”. 日外アソシエーツ(コトバンク). 2017年9月29日閲覧。
  8. ^ 1981年10月23日に、芝山町官並台にある共同利用施設で開かれた。政府側からは中村と加藤の他に、航空局長・運輸省審議官・空港公団理事・用地交渉担当者が同席した。(映画『三里塚のイカロス』パンフレット、63頁)

参考文献

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  • ANA50年史編集委員会『大空への挑戦 -ANA50年の航跡-』全日本空輸株式会社、2004年。 
  • 『ジャパン who was who : 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ、1988年。


先代
小林正興
運輸省自動車局
1973年 - 1974年
次代
高橋壽夫
先代
寺井久美
運輸省航空局
1974年 - 1976年
次代
高橋壽夫
先代
内村信行
運輸事務次官
第16代: 1976年 - 1978年
次代
住田正二
先代
安西正道
全日本空輸社長
第7代:1983年 - 1987年
次代
近藤秋男