コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

三島事件

この記事は良質な記事に選ばれています
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三島由紀夫 > 楯の会 > 三島事件
三島事件
バルコニーで演説する三島由紀夫
場所 日本の旗 日本東京都新宿区市谷本村町1番地
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
座標
北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.69278度 東経139.72861度 / 35.69278; 139.72861座標: 北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.69278度 東経139.72861度 / 35.69278; 139.72861
日付 1970年昭和45年)11月25日水曜日
午前10時58分頃 – 午後0時20分頃 (JST (UTC+9))
概要 三島由紀夫森田必勝ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監部を訪問し、益田兼利総監を拘束。幕僚らを斬りつけた後、三島がバルコニーで自衛官に決起のを訴え、その後総監室で三島と森田が割腹自決に至ったクーデター未遂事件。
武器 日本刀、短刀、特殊警棒
死亡者 2人(三島由紀夫、森田必勝)
負傷者 8人(幕僚、自衛官)
被害者 東部方面総監、幕僚、自衛官
犯人 楯の会メンバー5人(三島由紀夫、森田必勝、小賀正義小川正洋古賀浩靖
対処 懲役4年の実刑判決(監禁致傷暴力行為等処罰に関する法律違反、傷害職務強要嘱託殺人
テンプレートを表示

三島事件(みしまじけん)とは、1970年昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1][2]

この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した[3][4]。2000年(平成12年)に『文藝春秋』が実施した「20世紀における20大事件」というアンケートでは、1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦に次ぐ、第2位の出来事となった[5]。警視庁が2016年(平成28年)に実施した「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート投票においては、三島事件は第29位となった(警視庁職員だけの投票では第52位)[6]

※なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。

経緯

[編集]

総監を訪問し拘束

[編集]
舞台となった市ヶ谷駐屯地。事件当時の看板は墨文字の書体で「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」となっていた[7]。渦中となった東部方面総監部は1994年に朝霞へ移駐している。

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室に通じる正面玄関に到着。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された[8][9][注釈 1]

この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった[7][注釈 2]

応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した[8][12]

ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた[8][12]

三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった[8]。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した[8]。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った[12]

三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。この時、11時5分頃であった[8]。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鳴りを「パチン」と響かせて刀をに納めた[11][13]

それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した[8]。古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた[8][12]

総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた[12]。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した[8][14]

幕僚らと乱闘

[編集]

お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治3佐が、総監室の物音に気づき、その報告を受けた原勇1佐が廊下に出て、正面入口の擦りガラスの窓(一片のセロハンテープが貼られ、少し透明に近づけてある)から室内を窺うと、益田総監の後ろに楯の会隊員たちが立っていた。総監がマッサージでも受けているかのように見えたが、動きが不自然なため、中に入ろうとすると鍵が閉まっていた[9]

原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された[9][13]。それに目を通した原1佐らはすぐに行政副長・山崎皎陸将補(53歳)と防衛副長・吉松秀信1佐(50歳)に、「三島らが総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告。幕僚らに非常呼集をかけ、沢本3佐の部下が警務隊に連絡した[7][9]

総監室左側に通じる幕僚長室のドアのバリケードを背中で壊し、川辺晴夫2佐(46歳)と中村菫正2佐(45歳)がいち早くなだれ込むと、すぐさま三島は軍刀拵えの“関孫六”を抜いて背中などを斬りつけ、続いて木刀を持って突入した原1佐、笠間寿一2曹(36歳)、磯部順蔵2曹らにも、「出ろ、出ろ」、「要求書を読め」と叫びながら応戦した[7][9]。この時に三島は腰を落として刀を手元に引くようにし、大上段からは振り下ろさずに、刃先で撫で斬りにしていたという[9][13]。この乱闘で、ドアの取っ手のあたりに刀傷が残った[9]。時刻は11時20分頃であった[8]

彼ら5人を退散させている間に、さらに幕僚副長室側から、清野不二雄1佐(50歳)、高橋清2佐(43歳)、寺尾克美3佐(41歳)、水田栄二郎1尉、菊地義文3曹、吉松秀信1佐、山崎皎陸将補の7人が次々と突入してきた[7][8]。副長の吉松1佐が、「何をするんだ。話し合おうではないか」と言うが乱闘は続き、古賀浩靖は小テーブルや椅子を投げつけ、小川正洋は特殊警棒で応戦した[8][9][14]

森田も短刀で応戦するが、逆に寺尾3佐に短刀をもぎ取られた[8][15]。三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した寺尾3佐、高橋2佐に斬りつけた[7]。総監を見張っていた小賀に、清野1佐が灰皿を投げつけると、三島が斬りかかった。清野1佐は、地球儀を投げて応戦するが躓いて転倒。山崎陸将補も斬りつけられ、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした[7][9]

この乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった[4]。三島の刀を玩具だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌のを切った中村2佐は、左手の握力を失う後遺症が残った[7][16][17]。しかし中村2佐は、三島に対して「まったく恨みはありません」と語り、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」と述懐している[16][注釈 3]

11時22分、東部方面総監室から警視庁指令室に110番が入り、11時25分には、警視庁公安部の公安第一課(本来は極左対策課)が警備局長室を臨時本部にして関係機関に連絡し[18]、120名の機動隊員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた[10][18]。室外に退散した幕僚らは三島と話し合うため11時30分頃、廊下から総監室の窓ガラスを割った。最初に顔を出した功刀松男1佐が額を切られた[17]。吉松1佐が窓越しに三島を説得するが、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と、最初に森田がドア下から廊下に差し出したものと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた[8]

要求書には主に

(一)11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合せしめること。

(二)左記次第の演説を静聴すること。
 (イ)三島の演説(の撒布)
 (ロ)参加学生の名乗り
 (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示

(三)楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。

(四)11時30分より13時10分にいたる2時間の間、一切の攻撃妨害を行はざること。一切の攻撃妨害が行はれざる限り、当方よりは一切攻撃せず。

(五)右条件が完全に遵守せられて2時間を経過したときは、総監の身柄は安全に引渡す。その形式は、2名以上の護衛を当方より附し、拘束状態のまま(自決防止のため)、本館正面玄関に於て引渡す。

(六)右条件が守られず、あるいは守られざる惧れあるときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する。

などと書かれてあった[12][19]

幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に吉松1佐が三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた[9]。三島は「君は何者だ。どんな権限があるのか」と質問し、吉松1佐が「防衛副長で現場の最高責任者である」と名乗ると、三島は少し安心した表情となり腕時計を見てから、「12時までに集めろ」と言った[9]

その間、三島は森田に命じ、益田総監にも要求書の書面を読み聞かせた[8]。手の痺れた益田総監は、細引を少し緩めてもらった[12]。総監は、何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか、演説なら内容によっては私が代わりに話すなどと説得すると、三島は総監に檄文のような話をして、自衛隊も総監も憎いのではない、妨害しなければ殺さないと告げ、「きょうは自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」と言った[12]

なお、三島が総監室で恩賜煙草を吸ったかどうかは不明であるが、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と、他の荷物と一緒に、園遊会で貰った恩賜煙草もアタッシュケースに入れるように前々日にメンバーに渡していたという[20][注釈 4]

11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合して下さい」というマイク放送がなされ、その後も放送が繰り返された[7][8]。11時46分、警視庁は三島ら全員について逮捕を指令した[10]。駐屯地内には、パトカー、警務隊の白いジープが次々と猛スピードで入って来ていた[13][14]。この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた[10]

バルコニーで演説

[編集]

部隊内放送を聞いた自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した[4][8]。中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった[7]。彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「赤軍派が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた[7][10][13]

11時55分頃、鉢巻に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「」を多数撒布し、要求項目を墨書きした垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らした[13]。自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった[13]。前庭には、ジュラルミンを持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた[14][22]

当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった[18][22]。不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、ピストルで制止された[18][22]

正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀・“関孫六”の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った[11][注釈 5]。日本刀が見えたのは一瞬のことだった[7]。三島の頭には、「七生報國」(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意[注釈 6])と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた[7][11]。右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた[14]

「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて[注釈 7]絶叫しながら演説を始めた[10]。〈日本を守る〉ための〈建軍の本義〉に立ち返れという憲法改正決起を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった[23][24]。上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミヘリコプターが騒音を出し、何台も旋回していた[7][22]

おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本……アメリカからしか来ないんだ。シビリアン・コントロールといって……シビリアン・コントロール……んだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法の下でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
そこでだ、おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。 — 三島由紀夫、バルコニーにて[23][注釈 8]

自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした[7][10]。「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」と野次が飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した[13][23]

その場にいたK陸曹(原典でも匿名)は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている[10][注釈 9]

三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気違い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた[10]。予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた[20]。三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている[14]

演説を終えた三島は、最後に森田と共に皇居に向って、〈天皇陛下万歳!〉を三唱した。その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった[10]。この日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった[7]。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた[7]。バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった[7]

三島は神風連敬神党)の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、マイクを使用していなかった[13][25]。マイクや拡声器を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった[13][26]。三島は林房雄との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、神風連が西洋文明に対抗するため、電線の下をくぐる時は白扇を頭に乗せたことや、彼らがあえて日本刀だけで戦ったの意味を語っていた[27][注釈 10]

三島の演説をテレビで見ていた作家の野上弥生子は、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走って届けに行ってやりたかった」と語っていたという[28]水木しげるは、『コミック昭和史』第8巻(1989年)で、当時の自衛官が演説を聴かなかったことについて、「三島由紀夫が武士道を強調しながら自衛隊員に相手にされなかったのは自衛隊員も豊かな日本で個人主義享楽主義の傾向になっていたからだろう」としている[29]

事前に三島の連絡を受け、当日朝、11時に市ヶ谷会館に来るように指定されていたサンデー毎日記者・徳岡孝夫とNHK記者・伊達宗克は、楯の会会員・田中健一を介して三島の手紙と檄文、5人の写真などが入った封書を渡されていた[13]。それは万が一、警察から檄文が没収され、事件が隠蔽された時のことを惧れて託されたものだった[13]。徳岡はそれを靴下の内側に隠してバルコニー前まで走り、演説を聞いていた[13]

前庭に駆けつけたテレビ関係者などは、野次や騒音で演説はほとんど聞こえなかったと証言しているが、徳岡孝夫は、「聞く耳さえあれば聞こえた」「なぜ、もう少し心を静かにして聞かなかったのだろう」とし[13]、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている[30][注釈 11]

この演説の全容を録音できたのは文化放送だけだった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や報道ヘリコプターの騒音の中、〈それでも武士か〉と自衛官たちに向けて怒号を発する三島の声を良好に録音することに成功し、スクープとなったという[13][注釈 12]。文化放送報道部監修『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(2005年、新潮社)の付属CDでこの演説の肉声を聴くことができる。

割腹自決へ

[編集]

12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた[31]。そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した[14][31][32]

三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した[14]。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち[4][32]、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした[11][33]

割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した[11][20]。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した[7][11][31]

左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた[7][32][34]。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした[14][32][35]。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ[32][注釈 13]

介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した[14]。最後に小賀が、三島の握っていた短刀を使い首の皮を胴体から切り離した[14][35][注釈 14]。その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた[8]

続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した[31]。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた[8][31]。総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた[32]

3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた[32]。三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した[31]

12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た[8][14]。3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された[13][14]。警察の温情からか3人に手錠はかけられなかった[37]。群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した[37][38]

12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した[18]。「君は三島由紀夫と親しいのだろ?すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長・佐々淳行が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[39][40]

人質となった総監はその後、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った[32]

現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった[12]

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそと 吹く小夜嵐 — 三島由紀夫
今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは — 森田必勝
火と燃ゆる 大和心を はるかなる 大みこころの 見そなはすまで — 小賀正義
をらび しらさやぐ 富士の根の 歌の心ぞ もののふの道 — 小川正洋
獅子となり となりても 国のため ますらをぶりも のまにまに — 古賀浩靖

三島由紀夫(本名・平岡公威)は享年45。森田必勝は享年25、自分の名を「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという[14]

当日の余波

[編集]

市ヶ谷会館の中で、警察官や機動隊の監視下に置かれていた楯の会会員30人中、森田と同じ班の者たちは事件を知って動揺し、「(現場に)行かせろ」と激しく抵抗して3名が公務執行妨害で逮捕された[18][22]。会館に残された会員たちは、任意同行を求められ、整列して「君が代」を斉唱した後、四谷署に連れて行かれた[18]

12時30分過ぎ、総監部内に設けられた記者会見場では、開口一番、2人が自決した模様と伝える警視庁の係官と、矢継ぎ早に生死を質問する新聞記者たちとの興奮したやり取りが交わされ始めた[18]。2人の首がはねられたことを初めて知った記者たちの間からは、うめき声が洩れ、どよめきが広がった[18]

吉松1佐も記者たちの前で一部始終を説明した。切腹、介錯という信じがたい状況を記者たちは何度も確認し、「つまり首と胴が離れたんですか」と1人が大声で叫ぶように質問すると、吉松1佐はそのままオウム返しで肯定した[13]。もはや聞くべきことがなくなった記者たちはそれぞれ足早に外へ散っていった[13]

多方面で活躍し、ノーベル文学賞候補としても知られていた著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決の衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街では号外が配られた[11][18][22][41]。番組は急遽、特別番組に変更され、文化人など識者の電話による討論なども行われた[42]。市ヶ谷駐屯地の前には、9つあまりの右翼団体が続々と押し寄せた[4]

12時30分から防衛庁で記者会見を開いた中曽根康弘防衛庁長官は、事件を「非常に遺憾な事態」とし、三島の行動を「迷惑千万だ」「民主的秩序を破壊するような事態に対しては徹底的に糾弾しないといけない」と批判した。官邸でニュースを知った佐藤栄作首相も記者団に囲まれ、「全く気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」と暗い表情でコメントした[43][13][42][44]。両人はそれまで、三島の自衛隊体験入隊を自衛隊PRの好材料として好意的に見ていたが、事件後は政治家としての立場で発言した[45]。なお、佐藤首相はこの日の日記に「(事件を起こした)この連中は楯の会三島由紀夫その他ときいて驚くのみ。気が狂ったとしか考へられぬ。詳報を受けて愈々判らぬ事ばかり。(中略)立派な死に方だが、場所と方法は許されぬ。惜しい人だが、乱暴はなんといっても許されぬ」と困惑している旨を書き残している[46]。一方、中曽根は後に『私の履歴書』で「私は、これは美学上の事件でも芸術的な殉教でもなく、時代への憤死であり、思想上の諌死だったのだろうと思った。が、菜根譚にあるように『操守は厳明なるべく、しかも激烈なるべからず』であり、個人的な感慨にふけっているときではなかった」としている[47]

釈放された益田総監が自衛官たちの前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いた[10]。その場で取材していた東京新聞の記者は、その光景になんとも我慢できないものを感じたとし、その「軍隊」らしくない集団の態度への違和感を新聞コラムに綴った[10]

三島の自決に対する追悼ではもちろんない。民主主義に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた“社長”へのねぎらいであり、サラリーマンの団結心といったところだろうか。
残された隊員へ、マイクで指示が出た。「みなさんは勤務に服してください。どうぞ、そうしてください」と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。(中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態。 — 東京新聞コラム(昭和45年11月25日)[10]

テレビの正午のニュースで息子の事件を知り注視していた三島の父・平岡梓は、速報のテロップで流れた「介錯」「死亡」の字を「介抱」と見間違え、なぜ介抱されたのに死んだのだろうと医者を恨み動転していた[48]。そのうち、外出先で事態を知った母・倭文重や妻・瑤子が緊急帰宅し、一家は「青天の霹靂」の混乱状態となった[48]

13時20分頃、三島と親しい川端康成が総監部に駆けつけたが、警察の現場検証中で総監室には近づけなかった[49]。呆然と憔悴した面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった――もったいない死に方をしたものです」と答えた[50]石原慎太郎(当時参議院議員)も現場を訪れたが、入室はしなかったという[51][52]。石原は集まった記者団に対して「現代の狂気としかいいようがない」、「ただ若い命をかけた行動としては、あまりにも、実りないことだった」とコメントしている[53]

14時、警視庁は牛込警察署内に、「楯の会自衛隊侵入不法監禁割腹自殺事件特別捜査本部」を設置した[10]。自衛隊の最高幹部の1人は、「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ」とこの日の感想を結んだ[10]

演説を見ていたK陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語り、幕僚3佐のTも、「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた[10]

17時15分、三島と森田の首は検視のため一つずつビニール袋に入れられ、胴体はに収められて、市ヶ谷駐屯地を出て牛込署に移送され、遺体は署内に安置された[11][54]。署には民族派学生たち右翼団体が弔問に訪れ、仮の祭壇が設けられたが、すぐに撤去された[4][54]

22時過ぎ、警視庁は三島邸や森田のアパートの家宅捜索を開始し、三島の家は、翌日の午前4時頃まで捜索された[54][55]。三島の書斎からは、家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった[56][57]

三島邸の閉ざされた門の前の路上には、多くの報道陣が密集し、その後方には、三島ファンの女学生が肩を抱き合い泣く姿が見られ、詰襟の学生服を着た民族派学生の一団が直立不動の姿勢で頬を濡らし、嗚咽をこらえて長い時間立っていたという[10]

検視・物証・逮捕容疑

[編集]

翌日の11月26日の午前11時20分から13時25分まで、慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、三島の遺体を斎藤銀次郎教授、森田の遺体を船尾忠孝教授が解剖執刀した。その検視によると、2人の死因は、「頸部割創による離断」で、以下の所見となった[13][36][58]

三島由紀夫:

頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長163センチ。45歳だが30歳代の発達した若々しい筋肉。脳の重さ1440グラム。血液A型。

森田必勝:

第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5.4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。右肩に0.5センチの小さな傷。身長167センチ。若いきれいな体。 — 解剖所見(昭和45年11月26日)

三島は、小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったという[7]。また一太刀が顎に当たり大臼歯が砕け、を噛み切ろうとしていたとされる[7]

介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた[11][36]。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主である渋谷大盛堂書店社長・舩坂弘が牛込警察署で確認した[48][59]

刀剣鑑定の専門家・渡部真吾樹は、この刀の刀紋は「三本杉」でなく、「互の目乱れ」だとし、刀の地もかなり柔らかく、関孫六の鍛え方とは違うと鑑定した[60]。他にも、この刀が本物の関孫六ではないとする専門家の断言や、刀の出所調査もあり、三島が贋物をつかまされていたという説は根強くある[61]

小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の所持品には、三島が3名に渡した「命令書」と現金3万円ずつ(弁護士費用)、特殊警棒各自1本ずつ、登山ナイフなどがあった[36]。小賀への命令書には主に、以下の文言が書かれてあった。

君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。
今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。
三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ。 — 三島由紀夫「命令書」[62]

小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、嘱託殺人不法監禁傷害暴力行為建造物侵入銃刀法違反の6つの容疑で、11月27日に送検され[4][54]、その後12月17日に、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴された[54]

事件後

[編集]

各所の反響・論調

[編集]

自衛隊・防衛庁

[編集]

事件翌日11月26日の総監室の前には、誰がたむけたのかの花束がそっと置かれていたが、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた[44]。その後、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという[44]

警察が、三島と知り合った自衛隊の若い幹部に事情聴取すると、三島に共鳴し真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという[63]。楯の会にゲリラ戦略の講義などをしていた山本舜勝1佐も事情聴取されたが、警察当局は事件を単なる暴徒乱入事件という形で処理する方針となっていたため、山本1佐は法廷までは呼ばれなかった[63][注釈 15]

12月22日、東部方面総監・益田兼利陸将が事件の全責任をとって辞職した[54]。この際、益田総監と中曽根康弘防衛庁長官が談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額を増やし、退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるとされる[17]。三島事件の被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて「腸が煮えくり」かえり、それまで尊敬していた中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」としている[17][注釈 16]

事件から1年後、三島と楯の会が体験入隊していた陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地には、第2中隊隊舎前に追悼碑がひっそりと建立された[45][65]。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれた[45][65]

事件から2年後、かつて三島と対談したことのある防衛大学校長・猪木正道は、三島の「檄」を、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と批判した[66]

事件から3年後の1973年(昭和48年)秋から、自衛官用の服務の宣誓文に「日本国憲法及び法令を遵守し」という文言を防衛庁内局が挿入した[37]。この文言は、それまで国家公務員警察官他)の宣誓文だけに書かれ、自衛官の宣誓文に「憲法遵守」を入れるのは躊躇されていたが(憲法第9条を素読すれば自衛隊の存在が違憲と捉えることが可能なため[37])、三島事件で自衛隊が全くの安全人畜無害な組織であることが明瞭となったため(誰1人としてこの文言を入れても将校が反抗しないと判断したため[37])、挿入することになった[37]

新聞社説・海外報道

[編集]

事件に対する主要な新聞各紙の論調は、読売新聞朝日新聞毎日新聞、がほぼ一様に、当日の中曽根康弘防衛庁長官や佐藤栄作首相のコメントを踏襲するような論調で、三島の行動を、狂気の暴走と捉え、反民主主義的な行動は断じて許されないという主旨のものであった[18][41][42]

朝日新聞の社説は、三島の行動を支配していたものは「政治的な思考より、その強烈で、特異な美意識」であろうとした上で、「彼の哲学がどのようなものであるか理解できたとしても、その行動は決して許されるべきではない」と批判した[67]

毎日新聞の社説でも、「まったく狂気の沙汰というよりほかない」とした上で、「(三島の)思想がいかに純粋で、それなりの価値を持つものであろうと、正当なルールによらない、反民主的な行動は断じて許されない」と纏められた[68]。同紙で伝えられた海外の反応としては、ワシントンからは、「軍国主義復活の恐れ」、ロンドンからは「右翼を刺激することが心配」、パリからは「知名人の行動に驚き」といった打電が報じられた[41]

アメリカのクリスチャン・サイエンス・モニターの社説は、「三島の自決を日本軍国主義復活のきざしとみなすことはむずかしい。それにもかかわらず、三島自決の意味はよく検討するに値するほど重大である」と論じ[69]、イギリスのフィナンシャル・タイムズは、「たとえ気違いだろうと正気だろうと、彼(三島)の示した手本は、日本の少数の若者たちにとって、現在、将来を通じ、強い影響力を持つことになるだろう」とした[69]

ドイツディ・ヴェルトは、「詩人精神の純粋さに殉じてハラキリを行う」と報じた[69]フランスのレクスプレスは、「憂うべき日本の現状を昔に戻せと唱えて割腹した」と報じ、ル・モンドは、「三島の自刃は偽善を告発するためのものである」と論じた[69]

オーストラリアフィナンシャル・レビューは、「三島の死を、日本に多い超国家主義暴力団と結びつけるのは、単に三島に対する誤解のみならず、近代日本に対する誤解でもある」として、「伝統的文化と近代社会の間にある構造的な相剋の中に、真の美を追求し、死にまで至った彼の悲劇は、彼自身の作品のように完璧な域にまで構成されている」と論じた[69]

事件が起ったときにアメリカのマサチューセッツ州にいた野口武彦によると、現地の新聞の反応としては、「狂気」の行為として冷笑する声が多く、心理分析が流行する土地柄からか、知日家と呼ばれる大学の学者でさえ市民と同様に、三島の死の意味をもっぱら「心理学上の異常」「病理の問題」として話し、社会的文脈から切り離す傾向が見られたという[70]。野口は、そのマサチューセッツでの傾向を、自殺を罪とみる州法の土地柄と関係もあるかもしれないとしつつ、いずれにしても、三島の死を「人間の生の論理の問題」とされることが決してなかったことに、他者の自殺の意味を生のこちら側に寄せて考える日本人の習慣とは異なる思考を感じたという[70]

新左翼

[編集]

三島と討論会を行なったことのある東大全共闘は、駒場キャンパスで「三島由紀夫追悼」の垂れ幕で弔意を示し、京都大学などでも、「悼 三島由紀夫割腹」の垂れ幕で追悼した[18][58]

京都大学パルチザン指揮者の滝田修は、「われわれ左翼の思想的敗退です。あそこまでからだを張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転したね。新左翼の側にも何人もの"三島"を作られねばならん」とコメントした[18][58]

新左翼有力党派の幹部は、三島と自分たちの違いを強調し、「われわれは三島の“死の美学”に対して、“生の哲学”でいきます。死ねば何かができるというものではないですから。でも死ぬことを避けるというのではありませんよ。われわれが死ぬときは、殺されて死ぬのです」と語った[18]

右翼

[編集]

佐郷屋留雄は、三島と楯の会の行動を「義挙」と捉え、このことで「日本国民の目が醒まされ、日本維新運動の突破口がひらかれたように思われる」とコメントした[71]浅沼美智雄も三島の行動や檄文を讃美し、「檄文を一貫している憂国の至情は、民族の正気そのもの」だとした[72]

大日本生産党は、中曽根防衛庁長官と佐藤栄作首相のコメントに「断じて納得できない」とし、自民党の綱領に「憲法改正」と明示しているにもかかわらず、自民党が自らその目的を放棄し「戦後一貫して政権の座にあぐらをかき党利党略に明け暮れてきた」ことを厳しく批判しながら、「三島氏を死に追いつめた責任は、政府自民党にほかならない」と断罪した[73]

作家・文化人

[編集]

三島と近しかった友人や同じ思想の系譜に連なる作家や評論家らは、三島事件の意味を「諌死」と捉えた[18]。三島と異なる思想傾向の作家らも、三島が思想を超え、公平な審美眼で文芸批評をしていたことに対する畏敬の念から、現場での川端康成のコメントのように、その稀有な才能の喪失を純粋に惜しむ声が多かった[18][42]。その一方、あくまでも思想的反対や反天皇の姿勢から、三島の行動を「錯誤の愚行」と批判する山田宗睦などの評論家や[74]、軍国主義化を警戒する野間宏のような、当時の「戦後文化人」の一般的意見を反映するものも多かった[18][75]

司馬遼太郎は、三島の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした[76][注釈 17]

柴田翔は、「直感的にナルシズムを感じて腹が立った」、「若い人たち、特に新左翼の人たちには、動揺などしないでほしい。死の哲学による自己破壊が大事なのか、人間として生き続けることが大事なのか、自分の原理がどちらにあるのか、互いによく踏みとどまって考えなければならない時だろう」と語った[77][注釈 18]

中野重治は、「佐藤も中曽根も、こんどの『楯の会』を前髪でつかんだ」とし、三島事件を「狂気」化することにより、逆に自衛隊が合理的理性的なもの、市民的常識に違反しない非暴力集団かのような印象を社会に喧伝する機会として政治家が利用したと批判した[79]

小林秀雄は、「右翼といふやうな党派性は、あの人(三島)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれる」とし、事件について様々な「講釈」を垂れ批判する人間には、「事件を抽象的事件として感受し直知する事」が容易でないとした[80]

実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。 — 小林秀雄「感想」[80]

村松剛は、作家としての地位も家族にも恵まれ、生きていれば、いずれノーベル文学賞を受賞する可能性が大いにあった三島が、その全てを押し切って行動した意義を、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」とし[81]林房雄も追悼集会で、三島が、自衛隊を本来の「名誉ある国軍」に帰れと呼びかけ、「死をもって反省を促した」諌死だとした[18]

舟橋聖一は、三島の死を「憤りの死」だとし、その死の意味について、「――わたしは思う。表現力の極限は死につながることを――。表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」という見解を示して追悼した[82]

村上一郎は、三島と森田の死を無駄死、犬死にだったという者たちを批判して、自分の元に届いた知人の和歌を紹介した後に以下のような反論を述べた[83]

むだであった、犬死にあったという輩よ、よく聴け、こういう義肝のような歌の群れが両士の死にうごいてぞくぞく生れているのだ。これらの風潮をもって「万葉」「新古今」にもってゆけるなら、いまひとがもっとも疎外され、であるがゆえに、世間でいちばん美しい詩の生れる可能性のあるのはアメリカ、西独と日本なのだから、両士の死は御一新以上の変革に比さるべき文明大革命のいとぐちとなるのである。何が犬死であるものか。 — 村上一郎「荒御魂の鎮めに」[83]

橋川文三は、三島の戦前からの精神史を踏まえた上で、三島の「狂い死」を、高山彦九郎神風連横山安武相沢三郎や、「無名のテロリスト」の朝日平吾中岡艮一と同じように位置づけた[84]。少年時代の三島に影響を与えた保田與重郎は、「森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらにかなしい」[85]、「三島氏は人を殺さず、自分が死ぬことに精魂をこらす精密の段どりをつけたのである」と哀悼し以下のように語った[86]

怖れた者は狂と云ひ、不安の者は暴といひ、またゆきづまりといひ、壁に頭を自らうちつけたものといつたりしてゐる。想像や比較を絶した事件として、国中のみならず世界に怖ろしい血なまぐさい衝動を与へた点、近来の歴史上類例がない。その特異を識別することは怖れをともなふ故に、それを無意識にさけて、政論的類型的に判断する者は、特異のふくんでゐる創造性や未来性や革命性に恐れる、現状の自己保全に処世してゐる者らである。創造性以下のことばは、イデオロギーや所謂思想と無縁の人の生命の威力そのものである。 — 保田與重郎「天の時雨」[86]

高橋和巳は、三島と思想的立場は違いながらも、「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」、「もし三島由紀夫氏のにして耳あるなら、聞け。高橋和巳が『をくつがえして哭いている』その声を」[注釈 19]と哀悼した[87]武田泰淳は、「私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません」とコメントし[88]大岡昇平は、「ほかにやり方はなかったものか。……なぜこの才能が破壊されねばならなかったのか」と無念さを表明した[89]

倉橋由美子は、三島の行動や死を非難したり否定したりするのに躍起になっている人間たち(おもに同業者の作家)を、恐怖が大きすぎて吠えることしかできない弱い犬に喩え、彼らの言葉は「自己防衛」のための喋りであり、人として生き続けることが大事だとかのその物言いは、自分の欲するように死ぬことのできた天才にとっては「ほとんど耳を籍すに足らぬ言葉」だと述べている[90]。また、もっと生きていればもっといい仕事ができたのにとか、あるいは、文学の仕事に行き詰まってああした行動に走ったという説を唱えたりする作家に対しては、自分たちが作家・文学者であることが特別な資格や存在でもあるかのような(すべて文学のためにあるかのような)物言いをしているとし、「三島氏が同業者たちとのおつきあいにつくづく厭気がさしていた気持」がよく分かると語っている[90]

ひとつの稀有な文才の消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだよい作品が書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。三島氏の作品がもっと多ければそれだけ日本の文化遺産だか何だかのの量がふえるのに、というのがそもそも俗悪な考えかたなので、三島氏がその行動によって示したのが、文化とはどういうものであるかということなのだった。 — 倉橋由美子「英雄の死」[90]

中井英夫は、三島の死を短絡的に異常者扱いする風潮を批判し、「ただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか」と嘆いた[91]森茉莉は、「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい」として、以下のように語った[92]

現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。[注釈 20](中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か? このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。 — 森茉莉「気ちがいはどっち?」[92]

石川淳は、〈天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る[24]〉主義の三島が、「武士」という強い観念を持ちながら剣術を始め、〈能動的ニヒリズム[93]〉の根元である陽明学という行動哲学(知行合一の行動により万物創造の源である「太虚」に帰する「帰太虚」の考え)を持ったことが決定的であり、〈ムダを承知〉の死への〈跳躍〉となったのは、楯の会という「集団の組織」の一員となり「錬成の形式」を取ったことが大きいとし、「もはやたかが思想とはいえない。すでにして、思想は信念であって、組織は微小にしても、ともかく現実にはたらきかける力であった」と捉えつつ、最期に残された『』にみられる「信念の炎」は「戦中の少年のすがたに跳ねかへつたかのやう」で、これを引き止めるような全ての歯止めは断ち切られたのだろうとしている[94]。そして石川は、自身は三島のように天皇中心主義を「絶対不変」のものとする思想ではないものの、「いのちの水のあふれる壺」(肉体)の中の〈ニヒリズム〉が「太虚」へと飛び立っていった場所が、「武士」でない「サラリーマン」がたむろする「役所の屋上」であったことを憐れみ、屋上と塀外のあいだに断絶があっても「精神上の事件であつたことは一点のうたがひもない」と述べ[94]、すでに三島の精神が「太虚」に帰した後に様々な「思想屋の惰夫」が「思想の符号の正か負かに拘泥してつべこべ」と論ずることを難じ[94]、三島が熊野神社の神輿担ぎの最中に見た〈青空〉を「三島君の〈肉体〉の戦利品」だと評価した自身の4月の時評[95]を重ねながら以下のように追悼した[94]

三島君はわたしのくみしがたい「中心」思想に立ちながらも、その行動哲学をもつて、大塩平八郎の乱から学生の運動にまでわたつて、敵をもふくめた広いところに単身よく著眼の筋を通してゐた。
さきに四月のこの欄に、「太陽と鉄」について書いたとき、わたしは三島君がミコシをかついで「青空」を見たくだりを引いて、その「青空」に感動したといつた。今、三島君は文学の場を去つて、剣といふ道具を取り、それをもつておのれの身を刺したが、この道具はものをいはないから、当人が末期の目になにを見たか、こちら側につたへて来るたよりはない。三島君の小説の中では、腹を切つたものが「日輪」を見ることになつてゐるが、それから類推もできない。すべてこれ虚妄と観ずるか。わたしもまた発するにことばなく、感動は深く沈むばかりである。 — 石川淳「認識から行動への跳躍」[94]

吉本隆明は、三島と同じ戦中戦後を通った世代の人間として、事件の衝撃を自身への問いとして語った[96]

三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを「コケ」にみせるだけの迫力をもっている。この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの「檄文」や「辞世」の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの「醒めた計算」の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。「どこまで本気なのかね」。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬「おまえはなにをしてきたのか!」と迫るだけの力をわたしに対してもっている。 — 吉本隆明「情況への発言――暫定的メモ」[96]

磯田光一は、三島事件は、死後に浴びせられる様々な罵詈雑言や批判を知った上の行為であり、「戦後」という「ストイシズムを失った現実社会そのものに、徹底した復讐をすること」だったとし、三島にとって天皇とは、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものか」で、「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」だと捉えた[97]

たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。 — 磯田光一「太陽神と鉄の悪意」[97]

谷口雅春生長の家創始者)は、明治憲法復元を唱え、その著書『占領憲法下の日本』において、三島に序文の寄稿を依頼し[98]、また事件に参加した古賀浩靖と小賀正義が生長の家の会員であった縁があり、三島が事件直前の11月22日(谷口雅春の誕生日に当たる)に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れたことを述懐している。面会は叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる[99]。谷口は後に『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』を上梓し「この谷口だけは死のあの行為の意義を知っていてくれるだろうと、決行を伴にした青年たちに遺言のように言われたことを考えると、三島氏のあの自刃が如何なる精神的過程で行われ、如何なる意義をもつものであるかについて、私が理解し得ただけのことを三島氏の霊前に献げて、氏の霊の満足を願うことが私に負わされた義務のような気もするのである」と述べ、三島の自刃がクーデターではなく、後世の人々の為の自決であり、吉田松陰の処刑された旧暦の10月27日(西暦の1970年11月25日は旧暦の10月27日に当たる)に合わせて計画したものであると語っている[99]

ヘンリー・ミラーは、三島が西洋の文化や思想に強い関心を持ち意識的に取り入れていた作家でありながらも「日本独自の伝統を擁護するために身を捧げたこと」にとても興味をそそられたとし、三島の死の意味には「日本人を覚醒させて、祖国の伝統的生活様式に内在する美と効力に、日本人の目を向けさせることにあった」という見解を示した[100]。そして、「西欧の思想に追随している日本のさらされている様々な危険を、三島以上に鋭く感知できた者が日本にいただろうか」と述べ、行く末には大量破壊的な死、「全地球の死」が待ち受けている西洋的「進歩主義」に対する「服従拒否の精神」が三島にはあったとした[100]

進歩、効率、安全などに関するわれわれ西洋人の未熟な考えに、どれほどの毒が含まれていることだろう。もうそのことに世界中の人々が――ファシストであろうと、共産主義者であろうと、民主主義者であろうと――見極めるべきだ。西洋世界はうわべの安楽や進歩を推し進めてきたが、それら全てのために支払われている代償はあまりにも大きい。(中略)彼(三島)は品性を、自尊の念を、真の同胞愛を、自己信頼を、効率ではなく自然への愛を、極端な国粋主義ではなく愛国心を訴え、政治理論家による御墨付きの変転きわまりないイデオロギーに盲従する、個性のない愚かな群衆とは対照的な、指導力の象徴としての天皇制復活を望んだのだ。 — ヘンリー・ミラー「特別寄稿――三島由紀夫の死」[100]

またヘンリー・ミラーは、「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」とも問いかけ、以下のように語った[100]

かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。(中略)彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。 — ヘンリー・ミラー「特別寄稿――三島由紀夫の死」[100]

ヘンリー・スコット=ストークスは、三島を「日本人のうちでは最も重要な人物」とし、それまで自民党の幹部たちが私的な場所でだけ意見交換していた国防問題・政治論争のすべてを、敢然として「公開の席に持ちだした」ことで注目に値するとして、なぜ、それが今まで日本の職業政治家たちに出来なかったのかと指摘した[101]

(日本は)国防の問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人はほとんどあるまい。(中略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。 — ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大だったか」[101]

エドワード・G・サイデンステッカーは、新聞記者らから「三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか」と問われ、直感的に「ノー」と答えた理由を以下のようにコメントした[102]

たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。三島の生涯はある意味でシュバイツァー的生涯だった。 — エドワード・G・サイデンステッカー「時事評論」[102]

ドナルド・キーンは、「私は佐藤首相が三島の行動を狂気と言ったのが間違いであることを知っている。それ(三島の行動)は論理的に構成された不可避のものであった。(中略)世界は大作家を失ったのである」と語った[103]

報道における呼び捨て

[編集]

当時の新聞、テレビなど報道機関がこの事件を報じる際、三島の名前を呼び捨てにしたことが議論の的になった[104]。生前には「三島先生」という呼び方をしていた人たちが急に「三島」と呼び捨てしはじめたことに違和感があったとする声がある[105][106]島内景二は日本社会が晩年の三島を「奇人変人」扱いし、事件後にはNHKですら呼び捨てにすることで「犯罪者」扱いしていたとする[107]

葬儀・記念碑・裁判など

[編集]

事件翌日の11月26日、慶応義塾大学病院で解剖を終えた2遺体は、首と胴体をきれいに縫合された[108]。午後3時前に死体安置室において、三島の遺体は弟・千之に引き渡され、森田の遺体は兄・治に引き渡された[48][54]。森田の方は、そのまますぐに渋谷区代々木火葬場荼毘に付された[54]。弟の死顔は、安らかに眠っているようだったと治は述懐している[109]

15時30分過ぎ、病院からパトカーの先導で三島の遺体が自宅へ運ばれた。父・は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、楯の会の制服が着せられ軍刀が胸のあたりでしっかり握りしめられ、遺体の顔もまるで生きているようであった[48][110]。これは警察官たちが、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった[48]。翌日は友引で火葬場が休みのため、この日に密葬することになり、何人かの編集者がデスマスクを取ることを遺族に訊いたが、必要ないだろうという返事を受けて実行されなかった[108]

密葬には親族のほか、川端康成、伊沢甲子麿、村松剛、松浦竹夫、大岡昇平石原慎太郎村上兵衛堤清二増田貴光徳岡孝夫などが弔問に訪れた[41][54][111]。三島邸の庭のアポロンの立像の脚元には、30本あまりの真紅の薔薇が外から投げ入れられていた[111][注釈 21]。愛用の原稿用紙と万年筆が棺に納められ、16時過ぎに出棺となった。その時に母・倭文重は指で柩の顔のあたりを撫でて、「公威さん、さようなら」と言った[108]。本当はこの時、「公威さん、立派でしたよ」と倭文重は言いたかったが、周りのお客から芝居がかりと思われそうで躊躇してしまったのだという[112][108]。三島の遺体は品川区桐ヶ谷斎場で18時10分に荼毘に付された[48][113]

森田の通夜も18時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。森田の戒名は「慈照院釈真徹必勝居士[58][109]。この時に、三島が楯の会会員一同へ宛てた遺書が皆に回し読みされた[114]三重県四日市市の実家での通夜は、翌日11月27日、葬儀は11月28日にカトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、16時頃に納骨された。三島家からは弟・千之が出席した[54]

11月30日、三島の自宅で初七日法要が営まれた。三島は両親への遺言に、「自分の葬式は必ず式で、ただし平岡家としての式は式でもよい」としていた[48]。戒名については「必ず〈武〉の字を入れてもらいたい。〈文〉の字は不要である」と遺言していたが、遺族は「文人として育って来たのだから」という思いで、〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることし、「彰武院文鑑公威居士」となった[48]

12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋豊島公会堂で行われた[115][44]。これが後に毎年恒例となる「憂国忌」の母胎である[115][116]。司会は川内康範藤島泰輔、実行委員は日本学生同盟などの民族派学生で、集まった人々は3000人以上となった(主催者発表は5000人)。会場に入りきれず、近くの中池袋公園にも人が集まり、場内の模様を伝える特設スピーカーから流れる各人の追悼の辞や、録音された三島の自決前の演説に聴き入っていた[54][115][44]

三島由紀夫の墓

翌年1971年(昭和46年)1月12日、平岡家で49日の法要が営まれた。大阪のサンケイホールでは、林房雄ら10名を発起人とした「三島由紀夫氏を偲ぶつどひ」が催され、約2000人が集まった[117]。1月13日は、負傷した自衛官たちへ三島夫人・瑤子がお詫びの挨拶回りに来た[17][117]

1月14日、三島の誕生日でもあるこの日、府中市多磨霊園の平岡家墓地(10区1種13側32番)に遺骨が埋葬された[48][117]。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めたのではないかという説もある[118]

朝から快晴の1月24日、13時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた[117][44]喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成、司会は村松剛。三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人ら、そして一般参列者のうち先着180名が列席した[117]安達瞳子のデザイン制作により、黒のスポーツシャツ姿の三島の遺影を中心に、黒布の背景に白菊で作った大小7個の花玉が飾られた簡素な祭壇が設けられた[117]

弔辞は舟橋聖一(持病のため途中から北条誠が代読)、武田泰淳細江英公佐藤亮一村松英子伊沢甲子麿藤井浩明出光佐三の8名が読んだ[42][117][119]。演劇界を代表した村松英子は嗚咽しながら弔辞を読んでいた[119][120]

先生が身をもって虚空に描き出された灼熱の、そして清らかな光を前にしては、すべてのことばが、むなしく感じられ、私はただ茫然と佇む思いです。私にとってかけがえのない師だった先生、先生の血潮は、絢爛と燃える夕映えののように、日本の汚れた空を染め上げたのです。(中略)
いたわりを、それと見せないように、いたわって下さるのが、先生でした。燃えたぎる情熱と冷徹な知性とを、同時に兼ねそなえることの可能性を、示して下さったのが先生でした。明晰な炎は、つねに私たちを導く光でした。(中略)先生が身をもって點じられたあの美しい炎は、永久に消えることなく、先生を愛惜し敬慕する人たちの頭上に、燃えつづけることでしょう。ふつつかな私も、その輝きに忠実を誓うひとりでございます。どうかそういう私たちをお見守り下さいますように。 — 村松英子「弔辞」[120]

他の参列者は、藤島泰輔篠山紀信横尾忠則黛敏郎芥川比呂志五味康祐中村伸郎野坂昭如井上靖中山正敏、徳岡孝夫などがいた[41][44]イギリスBBC放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを辞退した[44]。当時の首相佐藤栄作寛子夫人も、ヘリコプターに乗り変装してでも参列したいと申し出ていたが、極左勢力が式場を襲うという噂が飛び交っていたため警備上の問題で実現しなかった[119]

自動車で来た弔問客は晴海埠頭の駐車場に誘導され、そこから4台の観光バスが客をピストン輸送した[44]。臨時の看護施設やトイレットカーが配備され、私服・制服警察官100人、機動隊50人、ガードマン46人が警備に当たる中、8200人以上の一般客が会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけた[42][44]。中には、「追悼三島由紀夫」ののぼり旗を立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあり、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった[42][44]。翌日の1月25日には、日本学生同盟(委員長・玉川博己)が「三島由紀夫研究会」の発足の構想を表明した[44]

1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた[117][121]。碑には、「」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれた[121]

2月11日、三島の本籍地の兵庫県加古川市志方町の八幡神社境内で、地元の生長の家(現生長の家本流運動)の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた[122]

2月28日、楯の会の解散式が西日暮里神道禊大教会で行われ、瑤子夫人と75名の会員が出席した[109]。瑤子夫人の実家の杉山家が神道と関係が深く、神道禊大教会と縁があったため、解散式の場所となった[123]。倉持清が「声明」を読み、〈蹶起と共に、楯の会は解散されます〉[124]という三島の遺言の内容を伝えて解散宣言をした[117]。三島が各班長らに渡し、皇居の済寧館に預けられていた日本刀は、瑤子夫人のはからいで、それぞれ班長に形見として渡された[114]

3月23日、「楯の会事件」第1回公判東京地方裁判所の701号法廷で開かれた。3被告の家族らと平岡梓、瑤子、遺言執行人の斎藤直一弁護士が傍聴した[4]。裁判長は櫛淵理。陪席裁判官は石井義明、本井文夫。検事は石井和男、小山利男。主任弁護人は草鹿浅之介。弁護人は野村佐太男、酒井亨、林利男、江尻平八郎、大越譲であった[4][42]。裁判長の櫛淵理は、神道一心流の剣をたしなむ文武両道の人物で幼少の頃から漢文の素読を習い、三島が傾倒した陽明学にも詳しかった[42]。櫛淵はこの裁判のために、陽明学や葉隠に関する三島の著書をよく読み[42][44]、陽明学と革命思想の結びつきに着目した[42]

6月26日には、フランスの三島文学ファンたちの強い要望によりパリで追悼集会が開催され、詩人のエマニュエル・ローテンが事件後に作った三島に捧げる詩「愛と死の儀式(憂国)」が吟じられた[125]。この詩は、裁判の公判中にも三島の海外での評価に対する質問に答える形で黛敏郎によって紹介され朗読された[125][42]

第7回公判日の2日後の7月7日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3被告が保釈となった[126]。犯罪事実を認め、証拠隠滅や逃亡の恐れがないため、17時に東京拘置所を出所した3人は瑤子夫人に出迎えられ、19時から赤坂プリンスホテルで記者会見を行なった[117][126]

9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づいた。翌日の9月21日、立花家石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見し、府中警察署に届け出た。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままで、一緒に入れられていた葉巻も元の状態であった[42][117][121]

11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)。生前、三島が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載された[117]。同日、平岡家では神式の一年祭を丸の内パレスホテルで行なった[42][121]。この会には元楯の会の何人かのメンバーが私服で参列し、土方巽丸山明宏もいた[127]

12月6日には第14回の公判が行なわれ、当時自民党総務会長で防衛庁長官であった中曽根康弘が証言台に立った[128]。中曽根は、自分が事件直後に「迷惑千万」と言ったのは公人の立場で自衛隊内に不穏な動きが発生するのを防ぐためだったとし[128]、三島の考えには全幅的に賛成しないものの、彼(三島)は「かくすれば、かくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」でやったもので、それを自分は政治家なりに事件を受けとめ消化していきたいとしつつ、「憎む気持よりもいたわりたい気持である」と述べた[128]

1972年(昭和47年)4月16日、川端康成が神奈川県逗子市の逗子マリーナのマンションの仕事部屋で自殺した。この日は5月に刊行予定の『裁判記録「三島由紀夫事件」』の序文を弟子の北條誠に渡す予定だったが、序文は書かれていなかった[129]

1972年(昭和47年)4月27日、これまで17回の公判までに、中曽根康弘、村松剛、黛敏郎など多彩な人物が証人に立った「楯の会事件」裁判の第18回最終公判が開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名に懲役4年の実刑判決が下された[42][130]。罪名は、「監禁致傷暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、傷害職務強要嘱託殺人」となった[130][42][116]

判決文の最後は「被告人らは宜しく、『学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る』べきことを銘記し[注釈 22]、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する」と締めくくられていた[130]

同年の1972年(昭和47年)には、楯の会一期生だった阿部勉を中心に「一水会」(毎月第1水曜日に例会を持とうという意味で)が結成された[132]

1974年(昭和49年)10月に3人が4年の刑期満了前に出所となってから、元楯の会会員たちによる三島・森田の慰霊祭が始まった[114]。出所した古賀が国学院大学で神道を学んだ後、鶴見神社神主の資格を取り、3人で慰霊している所に元会員が集まるようになり、毎年慰霊祭が行われるようになった[114]。その後、元会員と平岡家との連絡機関として「三島森田事務所」が出来た[114]。出所した3人は森田の兄と共に、事件で負傷した寺尾克美3佐など自衛官に謝罪のため面会を求めに行った[133]

1975年(昭和50年)3月29日、三島と親交があり三島事件に強い共感を示していた村上一郎が、自宅で日本刀により自害した[18]

1977年(昭和52年)3月3日、元楯の会会員・伊藤好雄(1期生)と西尾俊一(4期生)が参加した経団連襲撃事件が起こった。瑤子夫人の説得により投降し終結した[134]

楯の会一期生だった本多清が、事件後に「蛟竜会」を作っていたことを1979年(昭和54年)に読売新聞が報じた[116]

1980年(昭和55年)8月9日、三島が仲人を引き受けていた楯の会会員・倉持清(現・本多清)に宛てた遺書の全文が、朝日新聞で紹介された[135][136]。同年11月24日、山本舜勝、元楯の会有志らにより「三島由紀夫烈士及び森田必勝烈士慰霊の十年祭」が市ヶ谷の私学会館(アルカディア市ヶ谷)で開催された[135]

1984年(昭和59年)に発刊された写真週刊誌『フライデー』創刊号の「14年目に発見された衝撃写真―自決の重みをいま」に、三島の生首のアップ写真が掲載されたことを受け、未亡人・平岡瑤子が講談社に強硬抗議、出版が差し止められた。このことにつき平岡瑤子は、同年末に行われた伊達宗克徳岡孝夫によるインタビューで、「フォト・ジャーナリズムのこのたびの行為は、(江戸時代の)晒し首です。晒し首は死刑以上の刑罰であることを、あの雑誌の編集に携った人々は、ご存じなのでしょうか」と述べた[137]

1999年(平成11年)11月下旬と2000年(平成12年)1月4日、三島が楯の会会員一同に宛てた遺書が新聞各紙に公開された[138][139]

2018年(平成30年)11月26日、三島事件の当事者で楯の会メンバーの小川正洋が心不全のため70歳で死去した[140]

三島由紀夫と自衛隊

[編集]

昭和41年

[編集]

1965年(昭和40年)頃から自衛隊体験入隊希望を口にするようになっていた三島は、「昭和元禄」の真っ只中の1966年(昭和41年)6月に、昭和天皇人間宣言を呪う二・二六事件で決起した青年将校や神風特攻隊の兵士らの霊を描いた短編『英霊の聲』を発表[141][116]。8月に長編『奔馬』の取材のために奈良県大神神社を訪れ、その足で広島県江田島海上自衛隊第一術科学校などを見学。教育参考館で特攻隊員の遺書を読んだ[142][143]。その後熊本県に渡り神風連のゆかりの地(新開大神宮桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入する[61][144][145]

三島は秋頃から民兵組織の構想を練り始め[146]、10月頃から防衛庁へ自衛隊体験入隊希望を打診したが断られ、橋渡しを毎日新聞社常務の狩野近雄に依頼し、防衛庁事務次官・三輪良雄や元陸将藤原岩市などと接触して口利きを求めた[7][147][148]

12月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄門人で明治学院大学卒)が三島宅を訪ねて来た[7][149][150]。また同月には、舩坂弘著『英霊の絶叫』(12月10日刊)の序文を書いた礼として、舩坂から日本刀・関孫六を寄贈されていた[48][59]

昭和42年

[編集]

1967年(昭和42年)1月5日に民族派月刊雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、11日に編集長・中辻和彦(平泉澄門人で明治学院大学卒)と副編集長・万代潔の両人が揃って、寄稿依頼のために三島宅を訪問した[注釈 23]。三島は無償で同誌に寄稿することにし、2人は3日に1度の割で三島を訪ねた[152][153]

三島は2人の青年に、「『英霊の聲』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」と真剣な顔で言い、ある時は日本刀を抜いて、「刀というものは鑑賞するものではない。生きているものだ。この生きた刀によって、60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない」とも言った[154]

1月27日には、万代らと同じ平泉澄の門人で『論争ジャーナル』のスタッフをしている日本学生同盟(日学同)の持丸博早稲田大学生)も三島宅を訪問し、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した[151][155]

この頃三島は、新潮社の担当編集者の小島喜久江に、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったという[28]。また、この頃に中国で学問芸術関係の人々(文学座の俳優らの訪中時に現地を案内・接待してくれていた人たちも含め)が酷い目にあっていることを知った三島は、地理的に近い隣国の日本が率先して抗議しなければならないという使命感で[156]、中国の学問芸術(その古典研究を含め)が本来の自律性を恢復するための努力への支持を表明し、川端康成石川淳安部公房と連名で、中共の弾圧である文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった[143][157][156]。ちなみに、当時この声明文の全文を報じた新聞は東京新聞だけだった[158][注釈 24]

3月、三島の自衛隊体験入隊許可が下り(1、2週間ごとに一時帰宅するという条件付)、4月12日から5月27日までの46日間、単身で体験入隊する[148]。本名の「平岡公威」で入隊した三島は先ず、久留米陸上自衛隊幹部候補生学校隊付となった。4月19日に離校後、陸上自衛隊富士学校に赴き、山中踏破、山中湖露営などを体験後、富士学校幹部上級課程(AOC)に属し、菊地勝夫1尉の指導を受けた[161][162][163]

その4月中旬か下旬頃、三島は藤原岩市から「若手自衛官幹部の生活ぶりを見せましょう」と娘婿・冨澤暉の借家を案内され、数日後冨澤とその同期生5人ほどと会食した[164]。その席で三島は、学生デモ隊を警察力だけで抑えきれなくなった際の自衛隊治安出動時を利用し政権をこちら(自衛隊側)のものにしようと、共に行動を促す自身のクーデター案を述べたが、冨澤は「そんな非合法なことはやりません」と答えた[164]。その時三島は冨澤らに対し「倶に天を戴かず」といった顔色になったという[164]。5月11日以降は、レンジャー課程に所属した後、習志野第一空挺団に移動し、基礎訓練(降下訓練を除く)を体験した[161][162][163]

論争ジャーナル組、日学同の学生たちが、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との意向を示した[151]。三島は民兵組織の立ち上げを本格的に企図し、持丸博を通じて、早稲田大学国防部(4月に結成)からの選抜協力を要請した[147]。こうして、論争ジャーナル組、日学同と三島の三者関係が徐々に出来上がった[148][151]

6月19日、六本木喫茶店「ヴィクトリア」で行われた早稲田大学国防部代表との会見で、三島と森田必勝(早稲田大学教育学部、日学同)は初めて顔を会わせ、早大国防部の自衛隊体験入隊の日程を決めた[165][注釈 25]

7月2日から1週間、早大国防部13名が自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊。森田はその時の感想を、「それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職が有利だとか言っている連中のサラリーマン化現象は何とかならないのか」と綴り、自衛隊員が「憲法について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた[165]

8月、三島は国土防衛隊中核体となる青年を養成する具体的計画を固め、自衛隊体験入隊を定期的に実施するため、9月9日に、陸上自衛隊の重松恵三と面談した[167][168]。9月26日、インドに行くため日本航空機で羽田空港を出発した三島は、若い頃からの知り合いで、香港に赴任していた警視庁の佐々淳行啓徳空港で落ち合い、「このままでは日本はダメになる。ソ連にやられる。極左に天下をとられる。自衛隊ではダメだ。警察もダメだ。闘う愛国グループをつくらなければいけない。自分は国軍をつくりたい。日本に戻ったら一緒に手を組んでやろう」と訴えたが、佐々は、三島にオピニオンリーダーとして警備体制強化に協力してほしいと言って、私兵創設の考えを制した[169]

同8月、三島は原爆の日に『週刊朝日』に寄稿し、戦時中のアメリカによる広島への原爆投下ナチスユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉だったとし、それ対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は唯一、昭和天皇の終戦の詔勅での「五内為ニ裂ク」(五臓が引き裂かれる思い)という一節だったと述べた[170][171][172]。そしてこれからの日本では、日本だけが〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉とし、世界の国々の中で核を〈良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない〉と主張した[170][172]

核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。 — 三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」[170]

10月、三島は小説『暁の寺』の取材で訪れたインドで、5日にインディラ・ガンディー首相ザーキル・フセイン大統領陸軍大佐と面会し、中共の脅威に対する日本の国防意識の欠如について危機感を抱く[173][174]。そして惰眠を貪っている日本を「アリとキリギリス」の夏のキリギリスに喩えつつ、〈アリがせつせと働いてゐて、片方ぢやキリギリスが遊びほうけてゐるのとおんなじ〉構図だとし、〈冬のたくはへは絶対にしておきべきだ〉、〈木枯らしが吹きだしたときのことを考へないのはバカだ〉、〈(日本は)愚者の天国ですなあ〉と述べた[173]

中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。 — 三島由紀夫「インドの印象」[173]

帰国後の11月、三島は、論争ジャーナルのメンバーと民兵組織「祖国防衛隊」の試案を討議し、祖国防衛隊構想パンフレットを作成し始めた[146]。12月5日には、航空自衛隊百里基地からF-104戦闘機に試乗した[175][176]。12月末、祖国防衛隊構想パンフレットを、元上司・藤原岩市から見せられた陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝1佐が、藤原の仲介で三島と赤坂の料亭で会食した[177][116]

巷でノーベル文学賞候補と騒がれている三島に対し、「文士でいらっしゃるあなたは、やはり書くことに専念すべきであり、書くことを通してでも、あなたの目的は達せられるのではありませんか」と問う山本1佐に、三島は「もう書くことは捨てました。ノーベル賞なんかには、これっぽちの興味もありませんよ」と、じっと目を見据えてきっぱりと答えた[177]

この瞬間、山本1佐は背筋にピリリと火花が走り、「これは本気なのだ」と確信し、三島と一緒にやれると思ったと同時に、この人には大言壮語してはならぬと感じた[177]。事件後、山本1佐は三島が「もう書くことは捨てた」に続いて「あなたのおっしゃるような役割はF氏が果たしてくれるでしょう」と述べていたことも記している[33]。持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と言ったという[7]

この頃、「祖国防衛隊」構想に全面的に賛同する論争ジャーナル組と、その「急進主義的色彩」と三島の私兵的なイメージに難色を示す日学同(斉藤英俊、宮崎正弘)との間に亀裂が生じ始め、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉らが日学同を除籍となり、論争ジャーナル組に合流した[151]。持丸は三島と共に、雑誌『論争ジャーナル』の副編集長となった[151]

昭和43年

[編集]

1968年(昭和43年)2月25日[注釈 26]、銀座8丁目4-2の小鍛冶ビルの育誠社内の論争ジャーナル事務所において、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博、伊藤好雄、宮沢徹甫、阿部勉ら11名が血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と三島が墨で大書し、各人が小指を剃刀で切って集めた血で署名し、三島は本名で“平岡公威”と記した[152][176]

その時に三島は、「血書しても紙は吹けば飛ぶようなものだ。しかし、ここで約束したことは永遠に生きる。みんなでこの血を呑みほそう」と、先ず自分が呑もうとして、「おい、この中で病気のある奴は手をあげろ」と皆を大笑いさせてから、全員で呑み合った[176]。血には固まらないようにを入れていた[25]

3月1日から1か月、持丸博を学生長とする論争ジャーナル組が、三島と陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地へ自衛隊体験入隊。直前に中央大学の5名がスト解除で参加できなくなり、持丸は日学同の矢野潤に代員の応援を求めた[33][178]。これに応じて森田必勝が1週間遅れで入隊した[165]。春休み帰省中にスキーで右足を骨折して治療中だったにもかかわらず、苦しい訓練に参加し頑張る森田の姿に三島は感心し注目した[165]

3月30日、体験入隊が無事終了し、主任教官や隊員と「男の涙」の別れをした森田ら学生一行は貸し切りバスで大田区南馬込の三島邸に向い、慰労会の夕食に招かれた[165]。1期生となった森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と速達で書き送った[151][179]。それに対し三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あの一言には参った」と森田に告げた[151][179]。森田はこの頃、北方領土返還運動などに尽力していた[151][179]

三島は、基幹産業の企業構成員1万人規模の民間防衛組織を目指す「祖国防衛隊」構想に政財界の協力を得るため、与良ヱに相談していたが、この頃から持丸博を通じ、桜田武日本経営者団体連盟代表常任理事)らへの接触を始め、初面談を持った。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨を伝えた[180]

4月上旬、堤清二の手配により、五十嵐九十九ドゴールの制服担当)のデザインした制服が完成したのを祝し、三島は論争ジャーナル組から成る祖国防衛隊隊員らと共にその制服で青梅市の愛宕神社を参拝し、満開の桜吹雪の下で記念写真を撮った[152][181][182]

同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談した。桜田は前回より理解を示し、民兵組織を「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核隊員のみを無名称で置いて「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した[181]。この頃、早稲田大学の校内には、「体験入隊募集」の看板が設置されるなど広く人材を求め、応募してきた学生を持丸が一次面接試験した[33][141]

5月から、山本舜勝1佐による祖国防衛隊の中核要員への集中講義、訓練支援が開始され、27日には、北朝鮮工作員と思しき遺体が秋田県能代市の浜浅内に漂流した「能代事件」(1963年4月)が扱われた[183]。この事件が何かの圧力で単なる密入国事件として処理され、うやむやのままとなったことを知った三島は、溺死体の写真をじっと見つめた後、「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」と激昂したという[183]

6月1日、三島と中核要員は山本1佐の指導の下、市中で対ゲリラ戦略の総合演習(張り込み、潜入、尾行、変装など)を行なった[183]。労務者に成りすまして任務をこなし、誰にも見破られないように山谷玉姫公園までたどり着いた三島の疲れ果てた真剣な姿に、山本1佐は深い感動を覚えたという[183]。同月15日、「全日本学生国防会議」が結成され、森田必勝が初代議長に就任。三島は森田のため、この結成大会で祝辞を述べ万歳三唱し、デモの時もタクシーで随伴し、窓から森田を激励した[151][165]

7月25日、学生らを引率した第2回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われた。この時に伊藤邦典の紹介で小賀正義古賀浩靖(共に神奈川大学生、全国学生協議会)が参加し、2期生となった[141][160]

一方、桜田武(日経連)からの支援協力が結局は中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、私兵など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという)、三島のプライドはひどく傷つき、民兵組織を全て自費で賄うことにした[184]

組織規模を縮小せざるをえなくなった祖国防衛隊は、隊の名称を万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ吾は」と、歌人・橘曙覧の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首にちなんだ「楯の会」と変えた。10月5日に虎ノ門国立教育会館で三島と初代学生長・持丸博、中核会員約50名が「楯の会」の正式結成式が行われ、ある新聞がこれをスクープし戯画化して伝えた[160][185]

10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員、山本1佐と陸上自衛隊調査学校の学生らは、新左翼デモ(新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査した[184]。三島は、山本から「クーデター研究」の講義を受けていた[116]

火炎瓶の黒煙や催涙ガスが充満する中、三島は目を真っ赤に充血させながら身じろぎもせずに機動隊全学連の攻防戦を見つめていた[184]。場所を銀座に移動し、交番の屋根の上から、石が飛び交う激しい市街戦を見ている三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、すぐ隣にいた山本1佐は気づいた[184]。この日、六本木の防衛庁にも新左翼の社学同が突入しようとし、機動隊が猛烈な放水で応戦するが正門は突破されてしまった[186]

新左翼の暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、その時に楯の会が斬り込み隊として自衛隊の手が及ばないところを加勢し、それに乗じて自衛隊国軍化・憲法9条改正を超法規的に実現する計画を構想し始めた[33][187][188]。この日の昼過ぎ、赤坂に設営していた拠点に一旦引き揚げた時、山本1佐が持参のウィスキーを三島に勧めると、「えっ、なんですか。この事態に酒とは!」と憤然と席を立ち去ったという[184]

騒乱の続く夜、会員たちを拠点に集結させた三島は、この日の総括の会をここで持ちたいと山本1佐に願い出た。まさに今こそ決起行動に出るべきと主張し詰め寄る会員もいたが、まだ治安出動はないと見込んだ山本1佐は演習会の解散を進言し、落胆した三島は会員たちを国立劇場へ移動させていった[184][185]

治安出動イコール政治条件と私は考へても間違ひないと思ふ。でありますから、「撤兵しないぞ」と言はれたら、どんな政権もかなふ政権はないんです。だから、「ぢや、おまへ、撤兵するにはどうしたらいいんだ。撤兵してもらふにはどうしたらいいんだ」。
「憲法を改正して軍隊を認めなさい」と言つちやへばそれまでだ。これは何もクーデターしなくてもできちやふ。私は悪いことを唆すんぢやないけれども(笑)、それくらゐの腹がなければ、自衛隊のゼネラルといふものはこれからやつていけないと私は思つてる。だから、遠くのはうから遠巻きにして世論を動かさう、なんていふことを考へるよりも、本当のチャンスが来たときにグッと政治的な手を打てるゼネラルがゐないといかんな。 — 三島由紀夫「素人防衛論」(防衛大学校での講演)[188]

11月10日、東大全共闘に軟禁されている文学部部長の林健太郎の解放を求めて、三島は阿川弘之と共に東大に赴き、林との面会を求めるが全共闘に拒絶されて叶わなかった(林健太郎監禁事件)。

12月21日の山本1佐によるゲリラ戦の講義の時、三島は、「ゲリラとは、(人を欺く)弱者の戦術ではないですか?」と疑問を投げかけた[184]。講義の休憩中、森田必勝は山本1佐に、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねたという[184]。山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた[184]

12月末、三島邸に楯の会の中核会員と山本1佐らが集まり、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画が模索された[184]。やがて話題が間接侵略などに及び、「あなたは一体いつ起つのか」という主旨で三島に問われた山本1佐が、暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱された時と、治安出動の際だという主旨で答えると、「その時は、あなたのもとで、中隊長をやらせてもらいます」と三島が哄笑して言ったという[184][116]

三島は、山本1佐やそれに繋がる旧陸軍関係者や政府高官との接触を通じ、治安出動の可能性の感触を得て、以下のようなクーデター計画を構想していた[33][189]。三島は、陸上自衛隊の対心理情報過程の卒業生たちにより作られた秘密諜報組織「青桐グループ」の一員となっていた[116]。この卒業生たちは、「青桐」という小冊子を年一回発行していた[190]

治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(山本1佐)の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。
このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。 — 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」[189]

山本一佐によると、「三無事件」の首謀者たちと親交のあったH陸将は、自衛隊のクーデターの機会を以前から求めていて、三島とも連絡を取っていたという[189]。H中将はアメリカ陸軍やCIAともパイプがあり、治安出動を利用して自衛隊を国軍化する計画を、中国とソ連の接近に危機感を募らせていた米軍から承認されていたとされる[189]

しかし、山本一佐は、その計画で自死をいとわずに真っ向から突き進むすることが適切かどうか確信を持てず、誠実な同志である三島がそうした拙速な計画のために命を落とすのはもったいないと感じ[189]、また、親米派のH陸将らの手駒として三島が利用されて死ぬことより、長期的展望に立った大規模な民間防衛構想を一緒に確立していくために三島の存在が欠かせないと思っていた[189][注釈 27]

昭和44年

[編集]

1969年(昭和44年)1月18日、反日本共産党系の新左翼学生らが東京大学安田講堂を占拠する東大安田講堂事件が起きた。19日、警視庁機動隊と学生らとの攻防戦を見ていた三島は、新左翼が時計台から飛び降り自決して共産主義日本主義が結びつくことを防ぐため、「ヘリコプターで催眠ガスを撒いて眠らせてくれ」と警視庁に電話を入れた[143]

しかし、三島の危惧は無用の老婆心となり、予想に反し誰も命を賭けるような意欲のある東大生などいなかった[33]。三島は、あっけなく投降する全共闘に安堵すると同時に失望し、最終的には自分たちとは価値観が違うことを悟って軽蔑するようになった[191][192][193]

2月1日、論争ジャーナル組と日学同との架け橋役であった森田必勝が、日学同よりも論争ジャーナル組側に完全に傾き、小川正洋明治学院大学法学部)、野田隆史、田中健一、鶴見友昭、西尾俊一の5名と共に日学同を除籍となった[160][194][注釈 28]。この6名は新宿区十二社西新宿4丁目)にあるアパート小林荘をたまり場としていたため「十二社グループ」と呼ばれ、テロルも辞さない一匹狼の集団であった[160][194]

2月19日から23日まで、山本舜勝1佐の指導の下、板橋区松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が行われた[187]。暖房もない厳寒の本堂で、夜は寝袋、食事は持参の缶詰という過酷な状況の中、皆が寝静まった後、三島は白い息を吐きながら机に向かって執筆活動もしていたという[187]。その後ろ姿を見た山本1佐は、「私はこの人となら死んでもいい」と思った[187]

2月25日、山本1佐の旧陸軍時代の同期生で三無事件の協力者であった自衛隊員Mを交えて、山本宅で三島との会談があった。Mは三島の『反革命宣言』の思想に大いに共鳴していたが、〈有効性は問題ではない〉という部分についてだけは、「行動する以上勝たなければ意味がない」と反論し、敵に優る武器(戦車ミサイル)など、具体的な手段の有効性が第一だと論じた[187]

それに対して三島は、「それでは問題のたて方がまるで違うんだ」と、先ず「文化を守る」という目標意識の重要性、「日本刀」で戦うことの比喩的意義を説き、「実際に、自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為があとにつづく者をまた作り出すんだ」と、自らは安全地帯の発射ボタン一つで大量殺戮をする物質的近代武力意識への反論を返した[187]

われわれは、護るべき日本の文化歴史伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめるからである。
自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。 — 三島由紀夫「反革命宣言」[195]

3月1日から、学生を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で29日まで行われた。この第3回体験入隊で、小川正洋が参加して3期生となった。9日から15日には、体験入隊経験者(会員)を対象とする上級のリフレッシャーコースの訓練も行われ、「玩具の兵隊さん」と世間から呼ばれていた楯の会の実態は、自衛隊の将校も驚くほど精鋭にされていった[64][注釈 29]

ヘンリー・スコット=ストークスはこの体験入隊を取材し、ロンドンの『ザ・タイムズ』に記事掲載した。ストークスがリフレッシャーコースの森田必勝に、「なぜ楯の会に入ったのか」と問うと、「三島に随いていこうと思った。……三島は天皇とつながっているから」と答えた[197]

4月13日、ストークスの記事を読んだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷会館での楯の会の4月例会の取材に来て、訓練の様子を撮影した。三島は、ストークスや、テムズ・テレビのレポーター・ピーター・テイラー英語版を自宅に招いた[198]

4月28日の沖縄デーの日、三島と山本1佐は、新左翼全学連のゲリラ活動や激しい渦巻きデモを視察した。その後、三島は山本1佐を皇居に面する国立劇場に連れて行き、エレベーターで舞台下の奈落を案内し、「奈落は、私の信頼する友人が管理しています。いつでもお使い下さい」と言った[187]。同月には、『自衛隊二分論』を発表した[199]

三島は、体験入隊の訓練中に知り合った若い自衛隊幹部の中に協力者を見つけ出そうとしていたが、三島に同調する幹部もこの時期に出始めていた[187]。その中の1人は、山本1佐の真意が解らないと三島が漏らす言葉を聞き、山本1佐に「もし、あなたの心が変わったのなら、われわれも黙っておりませんから、どうかそのつもりでいてください!」と電話して来る者もあった[187]

防衛大学校を卒業した将校とも交流を求め、親交を深めようとしていた三島に対する防衛庁内局の圧力が、この春頃から様々なかたちであり、楯の会の訓練の規制がはめられるようになって来ていた[64]。官民一体となった行動の模索をしていた三島の自衛隊内部への苛立ちが次第に強まり、表向きは自衛隊の内部批判はしなかったが、楯の会の会員の間では内局への罵倒が繰り返された[64]

5月11日、港区愛宕青松寺(三島の祖父・平岡定太郎菩提寺)境内の精進料理・醍醐で、三島と山本1佐ら自衛隊幹部が会食し、新左翼の解放区闘争や国防問題の情勢を分析した。この時、三島はボーガンの訓練をする適切な場所はないか訊ねたという[187]。5月13日、三島は、東大教養学部教室で開催された全共闘との討論会に出席し、新左翼学生らと激論を交わした(詳細は討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争を参照)。

5月から三島は、楯の会の幹部級の7、8名にも居合を習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田敏夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡し、斬り込み可能の「決死隊」を作った[200][201][202]。5月23日、山本1佐の下、楯の会会員100名の特別訓練の初日。26日まで訓練が行われた。この少し前、三島は伊沢甲子麿の仲介で、山本1佐と共に保利茂官房長官と会った[201]

6月下旬、三島と山本1佐と部下5名の自衛官が山の上ホテルのレストランの個室で会食した。三島は、楯の会の皇居死守の具体的な実行動の計画について話し、「すでに決死隊を作っている」と山本1佐に決断を迫った。5名の自衛官らは三島に賛同したが、山本1佐は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と制して賛同しなかった[189][201]

自衛官らが、「臆病者! あなたはわれわれを裏切るのか!」と山本1佐に詰め寄るのを三島が制止した[189]。沈黙の後、三島は義憤を抑えた面持で、「皇居突入、死守」など三ヶ条が書かれた紙を灰皿の上で燃やした[201]。次の訓練の試案を山本1佐が話し終えた後、三島は総理官邸での演習計画を提案するが、自衛隊に批判的なマスコミの目を恐れた山本1佐はすぐに「それは駄目です」と断った[201]。7月、山本1佐が陸上自衛隊調査学校副校長に昇格し、次第に楯の会の指導協力に費やす時間がなくなっていった[201]

この初夏の頃、何人かの将校幹部(H陸将)と三島の間で企図されていたクーデター計画が闇に葬られることになった[189]。将校幹部らは米軍とパイプがあり、アメリカ側の了解を得て、自衛隊国軍化に向けた治安出動を行うはずであったが、キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めアメリカが親中路線に転換したため(米中和解計画)、日本国軍化が認められない状況となった[189]

7月26日から、学生と会員を引率した第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で8月23日まで行われた。この第4回の体験入隊の合間を抜けて、下田への恒例の家族旅行をした三島は、11月に行なわれる楯の会の一周年記念パレードへの出席を川端康成に依頼し、翌年に賭ける思いを手紙に綴った[203][204]。しかし、この三島の手紙に対する川端の返信はなかった[204]

ますますバカなことを言ふとお笑ひでせうが、小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。小生にもしものことがあつたら、早速そのことで世間は牙をむき出し、小生のアラをひろひ出し、不名誉でメチャクチャにしてしまふやうに思はれるのです。生きてゐる自分が笑はれるのは平気ですが、死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら頼りにさせていただいてをります。
又一方、すべてが徒労に終り、あらゆる汗の努力は泡沫に帰し、けだるい倦怠の裡にすべてが納まつてしまふといふことも十分考へられ、常識的判断では、その可能性のはうがずつと多い(もしかすると90パーセント!)のに、小生はどうしてもその事実に目をむけるのがイヤなのです。ですからワガママから来た現実逃避だと云はれても仕方のない面もありますが、現実家のメガネをかけた肥つた顔といふのは、私のこの世でいちばんきらひな顔です。 — 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡(昭和44年8月4日付)」[203]

この頃から、楯の会の主要古参会員の中辻和彦、万代潔らと三島との間の齟齬が表面化。三島の意に反して、金銭感覚や女性関係がルーズだった中辻が財政難の論争ジャーナルの資金源を田中清玄に求めたことが決定的な亀裂となり、8月下旬に、中辻、万代ら数名が楯の会を退会した[33][200]。楯の会の全員の旅費や滞在費、食費や雑費、制服代などの費用はすべて、三島が賄っていたが[205]田中清玄が「自分は三島と楯の会のパトロンである」と財界で吹聴していたことが三島の耳に入ってきたことが、楯の会の名誉を重んじる三島の怒りを買った[64][注釈 30]

10月12日、楯の会の10月例会で持丸博(初代学生長)も正式退会となった。中辻と親しい持丸は、どちらの側に付くか迷ったあげく、論争ジャーナルの編集と楯の会の活動の両方を辞めることに決めた[33]。持丸は、会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた[25]。三島は、「楯の会の仕事に専念してくれれば(結婚後の)生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、持丸はそれを辞退した[200][25]

持丸はすでに帝国警備保障での役員の就職を決めていた[206]。持丸の代わりに森田必勝が楯の会の学生長となり、論争ジャーナル編集部内に置いていた楯の会事務所も森田の住むアパートに移転した[201]。大事な右腕だった持丸を失った三島は山本1佐に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという[201]

10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員は昨年と同様に、左翼デモ(10.21国際反戦デー闘争)の状況を確認するが、新左翼は機動隊に簡単に鎮圧された。もはや自衛隊の治安出動と斬り込み隊・楯の会の出る幕はなく、憲法改正と自衛隊国軍化への道がないことを認識した[24]。警察と自衛隊との相違を明確化するため、政府(防衛庁)はこのチャンスにあえて自衛隊を治安出動すべきであると考えていた三島にとって、失望感と憤慨は大きかった[24][64]。三島は新宿の街を歩きながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と独り言を繰り返し、自暴自棄になったように「だめだよ、これでは」と叫んだという[64]

三島と家族ぐるみの付き合いがあった佐々淳行によれば、このときの視察は「(三島に)マスコミの場で機動隊の応援をしていただくようお願いせよ」との上司の指示を受けた佐々の計らいによるものであったが、戻ってきた三島は「もう僕らの出番はないよ。機動隊員たちは皆、白い歯を見せながら余裕綽々過激派を捌いている。僕らの出番を奪ってしまった佐々さん、貴方を恨みますよ」と述べた。佐々は「もうゲバ闘争は終りです。貴方も文学の世界に戻られては如何ですか」と説得したが、以後両者の間で音信は途絶えた[40]

10月25日、三島が少年時代に書いた「花ざかりの森」を激賞し、出征地のジョホールバルにて終戦直後に拳銃自決した蓮田善明(享年41)の25回忌が、中央本線沿線・荻窪の料亭・桃山で行われ[207][208]、その席上、三島は、「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」、「私も蓮田さんのあのころの年齢に達した」と挨拶の辞を述べていたという[209][210]

10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、10・21が不発に終わったことで今後の計画をどうするかが討議された。森田は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか」と提案するが、武器の調達の問題や、国会会期中などで実行困難と三島は返答した[211]

11月3日の15時から、国立劇場屋上で、陸上自衛隊富士学校前校長・碇井準三元陸将を観閲者に迎えて、楯の会結成一周年パレードが行われた[212]。演奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。女優の村松英子倍賞美津子が花束を贈呈した。同劇場2階大食堂でのパーティーでは、藤原岩市元陸将、三輪良雄元防衛事務次官が祝辞を述べ、三島が挨拶した[143][212]

単に、軍隊的行動であるが故に嫌悪する、戦後の風潮は私は非常にある意味で偽善であると思ってきたわけであります。ここで、私は決して軍国主義とか、ファシズムとかという意味ではなしに、日本人が市民生活のなかに、自然に軍隊教養を持っていつでも銃を持って立ちあがれる、外的な侵入に際しても銃をとって立ちあがれるだけの、訓練をへた人間が青年のなかに一人でも多くならなければいかん、そこではじめて我々にも自信をもって文化ないし、思想を自分のなかで養い、育てることができるんだと思ったことが、楯の会をつくった動機であります。 — 三島由紀夫「楯の会1周年挨拶」[204]

三島は、このパレードに出席を依頼し何の返信もなかった川端の家を10月に直接訪問し、再び依頼していたが冷たい言い方で断られてしまい、非常に落胆して、家族や村松剛などの友人らにその憤りや悲嘆の気持を吐露していたという[213][204]

11月16日、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われるが、再び機動隊に簡単に鎮圧され自衛隊の治安出動は完全に絶望的となった。11月28日、三島は山本1佐を招いて自宅で「最終的計画案」の討議を開くが、山本1佐から具体策が得られず終わった[212]。12月8日から4日間、三島は北朝鮮武装ゲリラに対する軍事事情視察のために韓国に行った[212]

12月22日、三島と楯の会は、陸上自衛隊習志野駐屯地で例会を開き、空挺団落下傘降下の予備訓練を行なった[198]。訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説いた。これに基づいて、 阿部勉(1期生)を班長とする「憲法改正草案研究会」が楯の会内に組織されることが決まり、毎週水曜日の夜に3時間討議会を実施することとなった[214][215]

12月1日に三島は、翌年正月に発表する村上一郎との対談で、現下の自衛隊には、二・二六事件のような革命を起こせる体制はなく、1佐以上の将校でなければ何も起こせない状態だと語っていた[216]

昭和45年

[編集]

1970年(昭和45年)正月、山本舜勝1佐や楯の会会員たちが集まった三島邸での新年会で、民間防衛の話に及んだ際、三島が何気なく、「自衛隊に刃を向けることもあり得るでしょうね」と発した[217]

1月末、三島は昨年12月に訪韓した際に世話になった韓国陸軍の元少将Rと山本舜勝1佐とを招いて会食。Rの辞去後、三島が山本1佐に、「(クーデターを)やりますか!」と問うが、山本1佐は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答した[217][116]。この頃三島は、山本1佐が「硬骨」と評価している自衛隊将校と接触していた[215]

3月1日、学生と会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、28日まで行われた。この頃から、森田必勝(学生長、第1班班長)と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同月、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟いた[108]

3月末に突然、三島は和服姿で袋に入れた日本刀を携えて山本1佐宅を訪問した。山本1佐は日本刀の話題を出さないようにしていたが、三島がその刀を自分に提供して決意を促すつもりのような気がした[217]。山本夫人のとりなしで、その場はなんとか平穏に過ぎた[217][116]。帰り際に三島は、「山本1佐は冷たいですな」と言い、「やるなら制服のうちに頼みますよ」と山本1佐は返した[217]

4月3日、三島は千代田区内幸町1-1の帝国ホテルのコーヒーショップにおいて小賀正義(第5班班長)に、最後まで行動を共にする意志があるかを訊ね、小賀は承諾した[8]。4月10日、三島は自宅に招いた小川正洋(第7班班長)にも、「最終行動」に参加する意志があるかどうか打診し、小川も小賀同様に沈思黙考の末に承諾した[8][20]

4月下旬、11年前の1959年(昭和34年)から毎号読んでいた『蓮田善明とその死』(小高根二郎著)が3月刊行されたため、三島はそれを携え山本1佐宅を訪問し、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した[217]。5月、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第1回「新憲法における『日本』の欠落」を三島は配布した[218][注釈 31]

5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋の3名が集まった。楯の会と自衛隊が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった[8]。6月2日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、4日まで行なった[196]。この回は食糧を支給されず不眠不休で青木ヶ原樹海行軍する過酷な訓練だった[196]

6月13日、三島、森田、小賀、小川の4名が港区赤坂葵町3番地(現・虎ノ門2丁目10-4)のホテルオークラ821号室に集合。これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことを悟り、自分たちだけで実行する具体的な計画を練った[8][20][215]

三島は、自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させて、国会占拠・憲法改正を議決させる計画を提案した[8]。討議の結果、東部方面総監を拘束する方法を取ることにし、楯の会2周年記念パレードに総監を招いて、その際に拘束する案などが検討された[8]

6月21日、三島ら4名は、千代田区駿河台1丁目1番地の山の上ホテル206号室に集合。三島から、市ヶ谷駐屯地内のヘリポートを楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨が報告された。そして、総監室がヘリポートから遠いため、拘束相手を32連隊長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され、全員が賛同した[8]

7月5日、三島ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した[8]

同月、保利茂官房長官に防衛に関する意見を求められていた三島は、防衛に関する文書を政府への「建白書」として保利官房長官に託し、それを佐藤栄作首相も目を通して閣僚会議に提出される予定になっていたが、中曽根康弘防衛庁長官が保利官房長官を制したために閣僚会議に提出されることはなかった[219][220][116]

7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の41年式白塗りトヨタ・コロナを久下本モータースから購入した[8]。7月下旬、三島ら4名は、千代田区紀尾井町4番地のホテルニューオータニのプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことにし、誰にするか相談した[8]。この夏、三島は3名それぞれに8万円を渡し、北海道に慰安旅行させた[221][20]

この頃、三重県四日市市に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島由紀夫に会って自分の考え方が理論化できた。だから三島をひとりで死なせるわけにはいかん」と言った[194]。8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった三島ら4名は、古賀浩靖(第5班副班長)を仲間に加えることを決定した[8][222]

9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、森田と小賀は新宿区西新宿3丁目8-1の深夜スナック「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明して賛同を得た[8][31]。2人から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われ、「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、楯の会に入会した時からその覚悟ができていたため承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した[20][31][64]

9月9日、三島は銀座4丁目のフランス料理店に古賀を招き、計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語った[8]。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」[8]、「ここまで来たら、地獄の三丁目だよ」と言った[31]

9月10日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを12日まで行なった。9月15日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は、千葉県野田市の興風館で行われた戸隠流忍法演武会(忍者大会)を見物し、帰途に墨田区両国 1丁目10-2のイノシシ料理店「ももんじ屋」で会食して同志的結束を固めた[8][31]

この頃、三島は約4年近く世話になった陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の機関紙に感謝の言葉と複雑な心境を綴った[223]

ここでは終始温かく迎へられ、利害関係の何もからまない真の人情と信頼を以つて遇され、娑婆ではついに味はふことのない男の涙といふものを味はつた。私にとつてはここだけが日本であつた。娑婆の日本の喪つたものの悉くがここにあつた。日本の男の世界の厳しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を気づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運命について憂へた。(中略)ここは私の鍛錬の場所でもあり、思索の場所でもあつた。私は、ここで自己放棄の尊さと厳しさを教へられ、思想行為の一体化を、精神肉体の綜合のきびしい本道を教へられた。(中略)歴代連隊長を始め、滝ヶ原分とん地の方々のすべてに、私は感謝の一語あるのみである。
同時に、二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみを馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた自分自身の、ほとんど狂熱的心情を自らあはれみもするのである。 — 三島由紀夫「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」[223]

9月にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は、食事後に暗い面持ちで、日本から精神的伝統が失われ物質主義がはびこってしまったと言い、「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」という不思議な喩え話をした[224][221][注釈 32]。三島は時々予言めいたことを突然発することがあり、春頃にも茶の間で父・梓に日本の未来を案ずる言葉を言っていた[225]

ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜は茶の間で、「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに中国に接触しますよ、日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。わが友台湾はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう。日本は東洋孤児となって、やがて人買い商人の商品に転落するのではないでしょうか。いまや日本の将来を託するに足るのは、実に十代の若者の他はないのです」と申しました。これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。 — 平岡梓「伜・三島由紀夫」[225]

9月25日、三島ら5名は、新宿3丁目17番地の伊勢丹会館後楽園サウナに集合。三島は楯の会例会の招集方法を変更することを提案し、特に11月の例会は、自衛隊関係者を近親や親戚に持つ者を除いた隊員に三島が直接連絡することを決め[8]、就職や結婚が決まっている者も除いた[20]。10月初め、死ぬ前に故郷の北海道の山河を見ておきたいと言う古賀のため、三島は旅費の半額1万円を与えた[31]

10月2日、三島ら5名は、銀座2丁目6-9の中華料理店「第一楼」に集合。11月の楯の会例会を午前11時に開いて、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練を開始後、三島と小賀が葬儀参列を理由に退席して、日本刀を車に搬入する手筈で32連隊長を拘束するという具体的手順を決定した[8]

その行動の際、ありのままを報道してもらえる信頼できる記者2名を予めパレスホテルに待機させておき、一緒に車に同乗させ、32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した[8]。10月9日、北海道旅行中の古賀を除いた4名が「第一楼」に再び集合し、計画を再確認した[8]

10月17日、三島は持丸博を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状を持って来てほしいと頼み、著名した者の多くが脱退したので焼却したい旨を伝えた[141][226]。10月19日、三島ら5名は10月例会の後、千代田区麹町1丁目4番地の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった[8]

10月23日、都内の火葬場や給電指令所で楯の会の演習を行なった。この演習前に市ヶ谷私学会館に集合した会員の前で、黒板に「coup d'État(クーデター)」と無言で書いた三島は、都市機能をマヒさせるための具体的な場所を示した[196][227]。会員たちは、いよいよ楯の会全員でのクーデターが始まるのだと思ったという[196]。この訓練後、三島は夜1人で、山本1佐宅を訪ねた[21]。この日の訪問を山本1佐は、「赤垣源蔵徳利の別れ」のようなものだったのではないかと回想している[21]

10月27日、血盟状を、持丸とともに劇団浪曼劇場の庭で焼却した[226]。しかし、持丸はこれを渡す前に、血盟状のコピーを内密にとっておいた[141]。焼却後、港区六本木の「アマンド」でコーヒーを飲みながら三島は持丸に、「お前がやめた後、会の性格が変わったよ。これから(来年から)は会のかたちを変えようと思う。お前も、会のことはよく知っているので、外部からひとつ応援してくれよ」と言ったという[141][226]

11月3日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は「アマンド」で待ち合わせ、六本木4丁目5-3のサウナ「ミスティー」に集合。檄文と要求項目の原案を検討した[31]。この時、全員自決するという計画を三島は止めさせ、「死ぬことはやさしく、生きることはむずかしい。これに堪えなければならない」と小賀、小川、古賀の3名に命じた[31]

三島は、「今まで死ぬ覚悟でやってきてくれた、その気持は嬉しく思う。しかし、生きて連隊長を護衛し、連隊長を自決させないように連れて行く任務も誰かがやらなければならない。その任務を古賀、小賀、小川の3人に頼む、森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った[8]

森田は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)あの世はひとつになるんだ」と言った[20][31][211]。三島は前日の11月2日、銀座の「浜作」に森田を呼び出し、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決を止めるように説得していた[222][48][注釈 33]

しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った[222]。その後、小賀、小川、古賀の3名も、「お前も一緒に生きて先生の精神を継ごう」と説得し、三島も森田が自決を思い止まることを期待したが、森田の決心は揺るがなかった[222][33]

11月4日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを、6日まで行なった。会員たちは、この時に鉄道爆破の訓練を受け、爆弾の設置方法などを教わった。実際に線路を爆破して、爆音と共に線路が粉々になるのを見学した[196][227]

訓練終了後、三島ら5名は、御殿場市内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛隊員らと密かに別離を惜しみ、三島は全員に正座をして酒をついで廻って、「唐獅子牡丹」を歌い、森田は小学唱歌「」と「加藤隼戦闘隊」、小賀は「白い花の咲く頃」、小川は「昭和維新の歌」「知床旅情」を歌い、古賀は特攻隊員の詩を朗読した[20][226]

11月10日、森田、小賀、小川、古賀の4名は、菊地勝夫1等陸尉との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、32連隊隊舎前を下見して駐車場所を確認した。11月12日、森田、小川、小賀の3名は、東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」を見学。その夜、スナック「パークサイド」で、小川は森田から介錯を依頼されて承諾した[8]

11月14日、三島ら5名は、サウナ「ミスティー」に集合。32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・伊達宗克サンデー毎日記者・徳岡孝夫にし、檄文と記念写真を決起当日に渡す主旨の説明が三島からなされ、5名で檄文の原案を検討した[8]

11月18日、自宅で行なわれた古林尚との対談で三島は、〈ぼくはそうやすやすと敵の手には乗りません。敵というのは、政府であり、自民党であり、戦後体制の全部ですよ。社会党共産党も含まれています。ぼくにとっては、共産党と自民党とは同じものですからね。まったく同じものです、どちらも偽善の象徴ですから〉と発言した[231][232]

11月19日、三島ら5名は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合。32連隊長を拘束した後の自衛隊の集合までの時間や、三島の演説などの時間配分を打ち合わせした[8]。森田が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた[20]。その後、スナック「パークサイド」で、古賀は森田から、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」と言われた[31]

11月21日、決行当日の11月25日に32連隊長の在室の有無を確認するため、森田が三島の著書『行動学入門』を届けることを口実に市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日に宮田朋幸32連隊長が不在であることが判明した[8]。三島ら5名は、中華「第一楼」に集合。森田の報告を受け協議の結果、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定した[8]。三島はすぐに益田兼利東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつけた[8]

同日と翌11月22日、森田ら4名は三島から4千円を受け取り、新宿ステーションビルなどにおいて、ロープバリケード構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用のブランデー、水筒などを購入した。夜、小賀は横浜市内を森田とドライブ中、「三島の介錯ができない時は頼む」と森田から依頼されて承諾した[8]

11月23日、三島ら5名は、千代田区丸の内1丁目1番地のパレスホテル519号室に集合。決起の最終準備(垂れ幕、檄文、鉢巻、辞世の句など)と、一連の行動の予行演習を行なった。辞世の句は「うまくなくてもいい、自由奔放に書け」と三島は言った[31]。翌11月24日も、三島ら5名はパレスホテルに集合。再度の予行演習をし、前日と合わせて約8回練習を行なった[8]

同日の昼14時頃、三島は徳岡孝夫と伊達宗克に、指定する或る場所に「明日午前11時に腕章カメラを持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨の電話をし、このことは口外しないよう約束をとりつけ[8]、15時頃には、新潮社の担当編集者・小島喜久江に明日朝10時30分に『天人五衰』の原稿を自宅に取りに来るように電話を入れた[28]

夕方16時頃から、三島ら5名は、新橋2丁目15-7の料亭「末げん」の奥の間(五番八畳)で鳥鍋料理の「わ」のコース(1人15,000円)とビール7本で別れの会食をした[8][57][233]。18時頃、お店の豊さん(赤間百合子)がお酌をしようとすると、三島は自分でビールをつぎ、最後の乾杯をした[57]

食事中は明日の決起のことは話さず、映画女優や三島が映画『人斬り』で共演した俳優の勝新太郎の話などの雑談をした[57]。三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない。結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った[20][57]

食事が終わった20時頃、一同は店を出て、小賀の運転する車で帰宅。車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言った[211]。また、(演説後)もしも総監室に入る前に自衛隊員らに捕まった場合は、5人全員でを噛んで死ぬしかないとも話した[20]

大田区南馬込4丁目32-8の自宅に帰宅した三島は、22時頃に自宅敷地内の両親宅に就寝の挨拶に行き、父親から煙草の吸い過ぎをたしなめられた[48]。森田は西新宿4丁目32-12の小林荘8号室の下宿に帰宅後、同居する楯の会会員の田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行き、例会の市ヶ谷会館で徳岡孝夫と伊達宗克に渡すべき封書2通を託した[194]

小川と古賀は、小賀の戸塚1丁目498番地の大早館の下宿に宿泊した。その際に3人は介錯のことを話し合い、小川は、剣道経験豊富な小賀に、森田の介錯ができない場合の代わりを依頼し、小賀は承諾した。しかし3人の間では、介錯は予定者が実行できない時には、三島、森田を問わずに、残りの誰かが介錯するという意思であった[8][注釈 34]

11月25日、小賀ら3名は午前7時に起床。古賀は森田に「起こしてくれ」と頼まれていたため、森田の下宿の廊下にあるピンク電話を鳴らした[31][194]。3名は、朝食は取らず、目立たぬように制服の上からコートやカーディガンを羽織って、制帽はビニールの買物袋に入れ、午前8時50分頃、小賀の運転するコロナに同乗し下宿を出発した[8][20]

森田は7時に起床し、9時頃、新宿西口公園付近の西口ランプ入口で、コロナでやって来た小賀ら3名と合流した[8]。一行は三島邸に向い、荏原ランプを出て、三島邸近くの第二京浜国道を曲がったあたりのガソリンスタンドに立ち寄って洗車。その間に各人故郷の家族への別れの手紙を投函した[8][7][11][20]

三島は8時に起床し、コップ一杯の水だけを飲み、お手伝いさんに小島喜久江に渡す小説原稿を預けた[13]。10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、市ヶ谷会館に午前11時に来るように指定し、田中か倉田という者が案内すると伝えた[8]。小賀の運転するコロナに同乗した一行が10時13分頃に三島邸に到着した[8]

三島は玄関に迎えに来た小賀に、小川、古賀ら3名宛ての封筒入りの命令書と現金3万円ずつを手渡し、車中で読むように命じた[8]。軍刀仕様にした日本刀・関孫六と革製アタッシュケースを提げ、車までゆっくりと歩いた三島は、「命令書はしかと判ったか」と助手席に乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令は絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言った[20]

一行を乗せたコロナは自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。秋晴れの空の下、白いコロナは環状7号線に出て、第二京浜国道に入り、品川から中原街道を経て、荏原ランプから高速道路2号線に乗った[13][22]。10時40分頃、コロナは飯倉ランプで高速を降りた[13][22]

赤坂から青山を経て神宮外苑前に出たが、まだ時間が早かったため外苑を2周した[22]。この時、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」と言った[31][234]。古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している[31][234]

権田原坂から、右に赤坂離宮、左に明治記念館を見て進行し、学習院初等科校舎近くに一時停車した時、「我が母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と三島は言った[11][20]。コロナは四谷見附の交差点を直進し、靖国通りを突っ切り、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門に入っていった[11]

決起に至った要因

[編集]

自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた[24]。三島は最初の単身自衛隊体験入隊直後の1967年(昭和42年)5月27日の時点では、〈いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます〉と公けのインタビュー向けには応えながらも、以下のように述べている[162]

私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)
政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかにはいる、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです。 — 三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」[162]

さらに三島は、〈いまの制度がそうさせるのか、陛下のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣を羽田で迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊の儀仗を避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました〉とも述べている[162]

また1967年(昭和42年)11月の福田恆存との対談では、高坂正堯の憲法への苦心を尊重しながらも、自分は憲法に対して〈現実主義の立場に立ちたい〉が、〈現状肯定主義〉ではあってはならないと思うとし、このまま日本国憲法第9条を改正しないまま〈解釈〉で〈縄抜け〉するという論理的なトリックに三島は疑問を呈しつつ、〈ぼくはもっと憲法を軽蔑している〉と述べ[235]、憲法改正への法的手続(国会の三分の二と、過半数の国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条がクーデターでしか変えられないと語っている[235]

このように、日本国憲法第9条の第2項がある限り、自衛隊は〈違憲の存在〉でしかないと見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』のなかで、自民党の第9条第2項に対する解釈や、共産党社会党が日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲を堅持するという矛盾姿勢を、〈日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因〉をなしているものと見て、両者の国体をないがしろにする姿勢を批判している[24][218]。演説の中でも、自衛官らに、〈諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫し、ばらまいた『檄文』のなかで〈生命尊重のみで、は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉と訴えた[24]

三島の自決の決心に影響を与えた動因の一つには、自決前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決もあった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、〈私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である〉と記しており、この青年の至誠と壮絶な死が三島の出処進退に及ぼしていた心情が看取されている[236]

三島の自殺には様々な側面から諸説が挙げられ、その要因の一つとして、三島が少年時代にレイモン・ラディゲの夭折に憧れていたことなどや[237]、『豊饒の海』で副主人公・本多の老醜を描いていることなどから、自身の「老い」への忌避が推察される向きもある。新潮社の担当編集者だった小島千加子によると、『豊饒の海』執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島が言っていたことがあるとされる[238]。また月刊誌『中央公論』の編集長であった粕谷一希によると、三島は、「おれが荷風みたいな老人になることが想像できるか?」と言ったとされ(なお、三島と荷風とは系図上では遠戚関係にある)、その一方で、「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現ととる」とも言ったという[239]

しかし、三島の老いへの考えは一面的ではなく、〈自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう〉とも述べており[240]、〈室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へられないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる〉とも語っている[241]。小島千加子にも以前には、「川端康成佐藤春夫などは、年をとって精神の美しさが滲み出て来た良い例」とも言っていたという[242]

1969年(昭和43年)10月に行われた学生との対談では、学生が、三島が以前から「夭折の美学」ということをしばしば説いていたことに触れ、「死」とかけ離れては考えられない「美学」について質問された際に以下のように答えている[243]

ギリシア人は美しく生き美しく死ぬことを望んだといわれています。美しく死ぬということはつまり私の年齢ではもう遅いのかもしれないけれども、西郷隆盛は私は美しく死んだと思っている。(中略)
それじゃ醜く死ぬというのは何だろうと思うと、これはだんだんにいろいろな世間的な名誉の滓がたまって、そして床の中でたれ流しになって死ぬことです。私はそれが嫌で嫌でおそろしくてたまらない。きっと私もそうなるかもしれないですね。だからそれがおそろしいから、いろいろなことをやって、なるたけ早く何か決着がつくように企んでいる。
あなたは本気に死ぬ気はなかったのだろうというけれども、戦争が済んでからなかなかチャンスがないわけだ。とにかく太宰さんみたいに女と一緒に川へ飛び込むのもいいだろうが、なかなかチャンスがない。私と一緒に死んでくれる女性――この中にそんな女性の方でもおられればいいのですが、――そういう志望者がなかなか現れないのです。(笑)ですから要するにチャンスを逸したということですな。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」[243]
日時 昭和四十三年十月三日
場所 早稲田大学大隈講堂
主催 早稲田大学尚史会

1969年(昭和44年)3月の第3回自衛隊体験入隊時の学生と雑談でも、「由紀夫」という名前は若すぎる名前だから、年を取ったらシェークスピア(沙吉比亜)の尊称の「沙翁」にあやかって「雪翁」にするつもりだと言い、「えっ、先生は若くして死ぬんじゃないんですか」と学生が驚いて質問すると、三島は苦虫を噛み潰したような渋い表情に変わって横を向いてしまったという[244]。このことから、44歳の時点では、作品外の実人生では長生きするつもりだったとも見られている[244]

なお、三島にはヒロイズムつまり英雄自己犠牲に対する憧れがあることがエッセイなどから散見され、それも要因の一つに数えられる。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して新聞に発表した文章で、〈西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と述べている[245]。また、『行動学入門』のなかでは、以下のように語っている。

かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた。(中略)会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?
現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて少年雑誌劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。 — 三島由紀夫「行動学入門[246]

そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、平田弘史時代物劇画を好きだと語っていることなどからうかがえ[247]切腹に対する官能的な嗜好やこだわりも、自身が映画制作した小説『憂国』や、榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』から看取される[248]。三島が『憂国』を執筆する前に切腹について三島と語り合ったことのある切腹研究家の中康弘通は、切腹願望は日本人独特のもので、自虐よりも、より多くナルシシズムに発し、切腹に興味を持つ傾向の人々は男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛と崇高な自己犠牲の悲愴美を、思春期の心に刻みつけて以来、条件反射のように、愛と死の両極を結ぶ媒体として、切腹の意義を把握している」とし[249]、そういった人々でも、自殺に切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と解説している[249]

なお、三島は1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得てゐない約束』というエッセイを寄稿し、その中で、自身の戦後25年の〈空虚〉を振り返り、それを〈鼻をつまみながら通りすぎた〉とし、以下のようにその時代について語っている[250]

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。 — 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年[250]

三島はその戦後民主主義を否定しつつも〈そこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる〉と告白し、多くの作品を積み重ねても、自身にとっては〈排泄物を積み重ねたのと同じ〉で、〈その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない〉として最後の一節では以下のような訣別を表明している。この文章は、実質的な遺書の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。

二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。 — 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」[250]

ちなみに、三島が決起の時点ですでに死を決意していたことは、事件前の9月に「楯の会」メンバーの古賀浩靖に向かって、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたことから明らかで[8]、8月には「諌死」という漢字の読みを「kanshi」とノート片に書いて、ヘンリー・スコット・ストークスに渡していることなどから、自決がクーデターの実行ではなく、「諫死」(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いであったことがうかがえる[194]

林房雄は、三島が林との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、政治家たちは詩人文学者が予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら[251]、「三島君とその青年同志の諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている[251]

また、三島の自決への要因の一つとして欠かせないものには、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人でもあった蓮田善明が敗戦に際し、国体護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある[252](詳細は蓮田善明と三島由紀夫を参照)。1945年(昭和20年)8月19日、戦地のジョホールバルで蓮田は、中条豊馬大佐が軍旗の決別式で天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。三島は翌年11月17日に成城学園素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた[注釈 35]

三島と同じ戦中派世代であり知人であった吉田満は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは、「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島を鑑みて、戦艦大和海上特攻戦に参加し21歳で戦死した臼淵磐と三島に共通する精神や、四国沖の上空で米軍機と交戦し散華した林尹夫(遺された日記が『わがいのち月明に燃ゆ』として戦後出版)と三島に共通する自己凝視の平静さを見ながら、次のように考察している[254]

出陣する先輩や日本浪曼派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。林尹夫の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとって過去と未来に一貫せる生き方を学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分に鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。 — 吉田満「三島由紀夫の苦悩」[254]

三島と同じ1925年(大正14年)生まれの中康弘通も、小学校入学の年の満洲事変が始まり、戦争が当たり前だった時代に育った世代にとって死は必然であり「如何に死ぬべきか」が命題だったとし、中康自身も、戦後は生き残り、死に遅れの負い目を感じながら、旧友らの戦死の報がある度にその負い目が深まり、観念の中で彼らがインモータル(不死身)なエリートのように思えた経験から、三島にもそうした青春の傷が心にずっと留まっていたのではないかと述べている[255]。そして、中康自身が古典や乱世の尊皇思想に美学を求め切腹研究に没入したように、三島も世界の中での日本を拡大し日本文学に邁進する蔭で、自身の中の日本を求め、彼の生き方のテーマでもあった日本人の死に方、「日本人が生命を賭けて何かを行なうときのセレモニー」、「敗者が死ぬ前に、屈辱を補償するための最高のセレモニー」である切腹をすることが彼の心に蔵されている理想の天皇への忠心でもあったとしている[255]

1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本に滞在していたというインド人ビジネスマンのM.K.シャルマは、三島の行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世でありとあらゆる栄光を手に入れたが、戦時に自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。兵役を逃れたことは男児としての証明に欠けるだけでなく、彼にとって、民族の一人としての資格に欠けることだったのだろう。この劣等感は、名声を手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたのにちがいない」と述べている[256]

杉山隆男は、三島が滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、〈自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた〉[223]と言っていたことに触れつつ、「じっさい〈知りすぎた〉三島は、『檄』にも書きとめた通り、〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べ、杉山自身も実際に体験して悟った自衛隊観と重ねて以下のように分析している[257]

隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようがないのである。(中略)
私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 — 杉山隆男「『兵士』になれなかった三島由紀夫」[257]

三島の行動の文学史的な位置づけなど

[編集]

島田雅彦は、三島が『文化防衛論』のような論文を書き、そうした「イデオロギーを支えるべく言葉の伽藍」を小説において創作しながら、その一方で「サブカルチャーの帝王としてのポジション」を作っていった理由は、安保反対左翼全盛の時代にイデオロギーをストレートに出しても全面的に支持が得られるはずもないため、民主主義的に支持を取りつけなければならなかったからだと考察し[258]、それは「戦後民主主義の守護神」という位置を占めるようになった「戦後の天皇そのものの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたのではないかと述べている[258]。そしてそのやり方は、石原慎太郎のように文学者政治にかかわるという方向ではないが、「一人で三島党みたいなものの勢力を伸ばしていく手口」であり、三島の意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている[258]

また島田は、今日の文学が、「この日本を変えるとか、日本の政治を変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまったことに触れつつ、以下のような見解を述べている。

今の時点の後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治に敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学に深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への逆転さよならホームラン的コミット、文学の革命が社会の革命になるということをどこかで信じていたのではないか。むろんそれは非常に難しい。かつての自由民権運動の担い手たちや、大正デモクラシーの担い手たち、共産主義運動にコミットした文学者たちが抱いていた理想主義は持ち得なかったかもしれないけれども、苦い現実認識を伴いつつ、過去の文学者と政治のかかわり方の一変形を三島に認めるのは可能かもしれない。 — 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」[258]

田中美代子は、三島が遺稿『壮年の狂気』の中で[259]、〈現代一般の政治家・実業家知識人はそれほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「三無事件」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間の狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〈檄〉の指摘する沖縄問題もいまだに解決をみず、現憲法はいわばゴルディウスの結び目であり、三島事件は、内外の情勢に照らし、改憲の不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違えた象徴的行動だった」と考察している[260]

磯田光一は、三島のなかに、「戦後の安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発、戦後国家のはらんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代の価値観に逆行する道を行く動因の一つ」になったと述べている[261]。そして、その小説家の生涯がたとえ「三島由紀夫」という名の「仮面劇」であったとしても、「その仮面のそなえていた妥協を知らない歩み」は、三島が唱えた政治思想の評価に多くの問題が残されているにせよ、その行為は「その芸術上の豊かな達成とともに、人間の精神的価値を証明しようとする誠実な試みの一つであった」として、「自身の行為を時代へのアンチテーゼと意識していた三島は、その評価をのこされた人びとにゆだねたのである」と考察している[261]

死後46年経った2017年(平成29年)1月に初公表されたジョン・ベスターとの対談(自死の9か月前の1970年2月19日に実施)で三島は、〈死がね、自分の中に完全にフィックスしたのはね、自分の肉体ができてからだと思うんです。(中略)死の位置が肉体の外から中に入ってきたような気がする〉、〈平和憲法です。あれが偽善のもとです。(中略)憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と自身の死生観や文学や憲法について触れ、行動については自身を〈ピエロ〉に喩え、後世に理解を委ねるかのような以下の発言をしている[262][263][264][265]

僕がやっていることが写真に出ます。あるいは、週刊誌で紹介されます。それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということを幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。(中略)ですから、僕は、スタンダールじゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。(中略)それをわかりたい人は「太陽と鉄」を読んでくれ。あれを読んでくれればわかるという気持ちですね。僕はそれ以上、何も言わないんです。
あるいは、僕が死んでね、50年か100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。それでも構わない。生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でピエロです。これは免れない。佐藤首相でもやっぱり一種のピエロですね。生きている人間がピエロでないということはあり得ないですね。

人間がピエロというのは、ある意味で芝居をやらなくちゃ生きていけない。(ジョン・ベスターの問い)

芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっと神様が我々を人形に扱っているわけでしょう。我々は人生で一つの役割を、puppet play(パペット・プレー)を強いられているんですね。それは「葉隠」にも書いてあります。よくできたからくり人形だって、人間は[注釈 36] — 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)[263][264][266]

裁判での陳述など

[編集]

生き残った3人への公訴は、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要など刑事訴訟法の枠内の外形的なものに留まり、改憲論議については、法廷自体意見を左右し、支援団体(全国学協、日本青年協議会、11・25義挙正当裁判要求闘争実行委員会など)が三島の論文『問題提起』を提出したにもかかわらず、弁護団も「現行憲法の批判は司法裁判所の関与するところではない」として証拠物件とはしなかった[260]

大越護弁護人は最終弁論で、「国家のためにする緊急救助の法理」の適用を主張したが、櫛淵理裁判長は、「国家公共機関の有効な公的活動を期待しえないだけの緊急な事態が存在していたとは到底認められない」として被告らは懲役4年の実刑となった[注釈 37]。なお、被告らの裁判中の陳述などは以下のものである。

小賀正義
「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生(三島)からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は占領軍が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。(中略)日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは軍国主義者ではない。永遠に続くべき日本の天皇の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」[4]
「天皇の地位は、天皇が御存在するが故に、歴史的に天皇なのであって、大統領議員を選ぶように多数決で決まるものではないのです。菊は菊であるからこそ菊なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様に、天皇を選挙やそれに類するもので否定することはできないのです。それなのに(国民の)『総意に基づく』とあるのは現行憲法が西洋の民主概念を誤って天皇に当てはめ、天皇が国民と対立するヨーロッパの暴君のように描き出したアメリカ占領軍の日本弱化の企みです。それ故、現行憲法を真に日本人と自覚するならば黙って見過ごすわけにはできないはずです。三島先生と森田大兄の自決は、この失われつつある大義のために行なった至純にして至高、至尊な自己犠牲の最高の行為であります。『死』は文化であるといった三島先生の言葉は、このことを指していたのではないかと思います」[126]
小川正洋
「自衛隊が治安出動するまでの空白を埋めるのが、楯の会の目的だった。国がみずからの手で日本の文化と伝統を伝え、国を守るのを憲法で保障するのは当然である」[4]
「三島先生の『右翼は理論でなく心情だ』という言葉はとてもうれしいものでした。自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。(中略)楯の会の例会を通じ、先生は『左翼と右翼との違いは“天皇と死”しかないのだ』とよく説明されました。『左翼は積み重ね方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信じるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが神風特攻隊の行動原理“あとに続く者ありと信ず”の思想だ。(中略)武士道とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ』と教えてくださいました。(中略)私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」[126]
古賀浩靖
「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。(中略)その傾向をさらに推し進めると、日本の歴史、文化、伝統を破壊する恐れがある。(中略)この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法はマッカーサーサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」[4]
「現実には、日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」[126]
「狂気、気違い沙汰といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった」[211]
大越護弁護人
「まれにみる鋭敏な頭脳の持主である三島の脳裏には、この美しい日本が、ガラガラと音をたてて崩れてゆく姿が、捉えられていたに違いない。三島の畢生の大作『豊饒の海』これと同名の月の海は、その名の華麗さに似ず、死の海であり、廃墟の世界である。これと同様、三島の脳裏には、経済的には益々豊かになる日本が、精神的には月の海のように荒廃してしまうのが映っていた。われわれは、その危機の一つを最近、連合赤軍の事件で示された。あの事件こそ、道義が根底から失われていることを、最も端的に示すものである。三島の親友である村松剛は、その著書『三島由紀夫―その生と死』に、『日本人は繁栄のぬるま湯につかり、氏の頼みとしていた自衛隊も、当にはならなかった。どうしたらこの事態を動かし得るか、氏は死をもって諌める道を選んだ』と書いている。こうして、三島と森田は、割腹自決をし、社会を覚醒させようとした」[69]

三島の遺書

[編集]

三島が楯の会会員・倉持清(1期生、第2班班長)に宛てた遺書は、事件の日の夜に、瑤子夫人から倉持清に手渡された[110][267]。倉持は、決起した会員4名同様に三島から信頼されていた人物であった[124][268]

三島は倉持から仲人を依頼され快諾していたために、〈蹶起と死の破滅の道へ導くこと〉、〈許婚者を裏切つて貴兄だけを行動させること〉は不可能だったことを伝え、人生を生きてもらいたいことを遺言した[124]

小生の小さな蹶起は、それこそ考へに考へた末であり、あらゆる条件を参酌して、唯一の活路を見出したものでした。活路は同時に明確なを予定してゐました。あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした。それだけに人選は厳密を極め、ごくごく少人数で、できるだけ犠牲を少なくすることを考へるほかはありませんでした。
小生としても楯の会会員と共にのために起つことをどんなに念願し、どんなに夢みたことでせう。しかし、状況はすでにそれを不可能にしてゐましたし、さうなつた以上、非参加者には何も知らせぬことが情である、と考へたのです。小生は決して貴兄らを裏切つたとは思つてをりません。(中略)どうか小生の気持を汲んで、今後、就職し、結婚し、汪洋たる人生の波を抜手を切つて進みながら、貴兄が真の理想を忘れずに成長されることを念願します。 — 三島由紀夫「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月)[124]

この倉持への封書と共に同封されていた楯の会会員一同宛ての遺書は、事件翌日11月26日に代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた森田必勝の通夜の席で、皆に回し読みされた[114]。これを読んだ会員たちは、残された者への三島の思いやりが伝わってきたと回想している[114][268]

たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会会員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。(中略)革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真価は全国民の目前に証明される筈であつた。
しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日のとりかへしのつかぬ症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。 — 三島由紀夫「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)[269]

その他

[編集]

三島は自決1週間前の11月18日夜に、大田区南馬込の自宅で古林尚による1時間余りの対談インタビューに応じた。この時、話題が楯の会に及ぶと〈いまにわかります〉と2、3度繰り返し、古林が『豊饒の海』の次の今後の予定を聞くと、〈いまのところ、次のプランは何もないんです〉と語った[231]

古林はこの日のことを振り返り、三島が、「ほんとうに、なんにも、予定がない」と言った時の顔を、「あれほど淋しそうな顔を、私はみたことがない」と語り、三島が「敗戦より妹の死のほうが、ショックだったと書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。どうしていいのかわからなかった」とも言っていたと回想している[270]

事件に参加した古賀浩靖の父親は事件当時、「生長の家」本部の講師をし、古賀自身も入信していた[8][31][注釈 38]。出所後に古賀に会ったという元楯の会の会員の伊藤邦典が、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、古賀はただ掌を上に向けて、何かの重さ(三島と森田の首の重さ)を持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという[271]

市谷記念館でツアーガイドの仕事をしていた葛城奈海によると、東部方面総監室(旧陸軍大臣室)から天皇の「御休憩所(旧便殿の間)」に向かって、両部屋の前の廊下を移動して行く三島と森田必勝のと思われる「黒い影」を見たことがあるという[37]

1949年(昭和24年)に発生した弘前大学教授夫人殺人事件では、三島事件に影響を受けて1971年(昭和46年)に真犯人が名乗り出たため、冤罪で懲役囚になっていた人物は、後に再審が開かれ無罪判決となった[272]

三島事件の後、何人かの高校生が後追い自殺をしたという新聞記事があり、翌年1971年(昭和46年)9月には、八王子の高校生が三島の著書2冊を抱えて、校庭でガソリンをかぶって焼身自殺した記事も毎日新聞で報道された[121]

俳優の高倉健は三島事件に触発され、三島の映画を製作する予定だったという[273]。高倉健と親しかった横尾忠則によると、具体的プランも煮詰まり、高倉健はロサンゼルスへ何度も渡航していたとされ、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんの霊が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と横尾は述懐している[273]。ところが土壇場で瑤子未亡人の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、多磨霊園に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「カメラを持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという[273]

1988年に、ロシア語に翻訳した三島の『憂国』と、三島の伝記を綴ったエッセイを雑誌に掲載したボリス・アクーニンによると、ミンスクの刑務所にいた1人の囚人が、そのエッセイと『憂国』を読んだ後、スプーンで割腹自殺した事件があったという[274]。また、ロシアの作家のエドワルド・リモノフは、三島由紀夫と楯の会に影響を受けて、国家ボリシェヴィキ党を結成し、「ロシアの三島」と呼ばれていた[274][注釈 39]

三島事件前後の日本に関する社会的出来事

[編集]

出典は[159][275][276][277][278][279]

三島事件前後に勃発した世界のクーデター・戦争・暗殺・テロ・事件

[編集]

出典は[37][275][276][277][279]

三島事件を題材・ヒントにしている作品

[編集]

映画

[編集]

テレビ

[編集]

漫画

[編集]
  • 夕やけ番長 第15集「文武両道」
    • 原作:梶原一騎 漫画:荘司としお
    • アキレス腱を切ってスポーツ特待生の道を絶たれてしまった主人公・赤城忠治の元に級友であるインテリの青木輝夫が三島由紀夫の自殺の知らせを告げ、大いにショックを受ける場面が描かれており、三島を尊敬していた青木は「憂国の切腹だよ。諌死だ!」と泣き叫び、劇中でも6頁に渡って三島の演説から切腹に至るまでの描写が描かれている。
      また、三島事件を聞いて、日本の魂のために命を捨てた三島に感動した赤城が「俺もその魂を追っかけるぜ!」と決意し、それを見た青木は「ああ、いま……かつて国定忠治を尊敬していた男が日本の生んだ巨大なる知性、三島由紀夫を志向したのだ」と感じ、「自衛隊へいって三島先生は日本の魂をよびかけたがその死をかけた声をだれも聞いてくれなかった………が、だがよ、おれにゃ聞こえたぜ」と涙ながらに語る赤城の姿が描かれている。

小説

[編集]

出典は[280]

  • みずから我が涙をぬぐいたまう日大江健三郎
    • 『群像』1971年10月号に掲載。のち『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(講談社、1972年10月)に所収。
  • 三島由紀夫の首(武智鉄二
    • 都市出版社から1972年刊行。関東上空を飛行する三島の首が、平将門の首と論争する怪奇譚。
  • 帰らざる夏(加賀乙彦
    • 講談社から1973年7月刊行。谷崎潤一郎賞受賞。加賀は『帰らざる夏』の構想中に起った三島事件について、「それは私が小説で書こうと思っていた出来ごとが、ふいに現実となったような驚きを私に与えた。三島事件は当然私の筆に影響し、緊張を与えた」と語っている[281]
  • 菊帝悲歌――小説後鳥羽院(塚本邦雄
  • 優しいサヨクのための嬉遊曲島田雅彦
  • 倉橋由美子の怪奇掌篇(倉橋由美子
  • 帝都物語荒俣宏
    • 角川書店から1986年刊行。「6 不死鳥篇」(新装版の「第四番」)、「7 百鬼夜行篇」「8 未来宮篇」(新装版の「第伍番」)に登場する。霊的防衛を叫んで自決した三島の霊が、平将門の地霊と対決。「9 喪神篇」(新装版の「第六番」)で大沢美千代という女性に転生。
  • ポポイ(倉橋由美子
  • ミイラになるまで(島田雅彦)
    • 『中央公論文芸特集』1990年冬号に掲載。のち『アルマジロ王』(新潮社、1991年4月)に所収。
  • 伝説――夏の朝、幻の岸辺で(中山雅仁
  • 天啓の宴(笠井潔
  • さよなら、ハニー(中山紀
  • もうひとつの憂國(荻原雄一
    • 夏目書房から2000年11月刊行。森田必勝による介錯が失敗し苦しむ三島を見かねた益田兼利総監が実はとどめの介錯をしていたことを、総監自らの霊が回想するフィクションの物語。
  • ふくみ笑い(町田康
    • 群像』2002年11月号に掲載。のち『権現の踊り子』(講談社、2003年3月)に所収。
  • 第二部 僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる。(舞城王太郎
    • 『群像』2003年3月号に掲載。のち『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』(バジリコ、2007年3月)に所収。
  • ファンタジスタ(星野智幸
    • 集英社から2003年3月刊行。
  • ロンリー・ハーツ・キラー(星野智幸)
  • さようなら、私の本よ!(大江健三郎)
    • 講談社から2005年9月刊行。
  • 無間道(星野智幸)
    • 集英社から2007年11月刊行
  • 蒼白の月(広瀬亮
  • 水死(大江健三郎)
    • 講談社から2009年12月刊行。
  • 憂国者たち――The patriots(三輪太郎
    • 講談社から2015年11月刊行。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ この建物は1874年(明治7年)から1879年(明治12年)まで陸軍士官学校、戦争時は大本営陸軍部、陸軍省参謀本部などが置かれ、 大日本帝国陸軍メッカでもあった[10]太平洋戦争(当時の日本では「大東亜戦争」と呼んだ)の敗戦時には、晴気誠少佐吉本貞一大将などが割腹自決をし、極東国際軍事裁判の法廷にも使用された場所でもある[10]
  2. ^ 玄関で出迎えた沢本三佐が、日本刀の所持について質問したが、三島は例会に使う「指揮刀」だと言った[7][11]
  3. ^ 中村2佐はその後、陸幕広報班長、第32連隊長、総監部幕僚副長、久留米の幹部候補生学校校長を歴任し、1981年(昭和56年)7月、陸将で定年退官した[16]
  4. ^ ちなみに、山本舜勝が最後に三島宅を訪問した際、形見かのように、三島から恩賜の煙草と楯の会の隊歌のレコードを貰ったという[21]
  5. ^ このバルコニーは、かつて太田道灌江戸城防衛のために展望台を置いた所でもある[10]
  6. ^ この「七生報國」という語は、楠木正季が兄・楠木正成と共に自害した時に発した言葉として『太平記』で語られている(正成も弟のその言葉に同意)。
  7. ^ 力強く振るう右手は手袋のボタンが弾け捲れ上がっている。
  8. ^ 「檄文」では、自分を否定する憲法にぺこぺこする自衛官たちを〈自ら冒瀆する者〉と表現されている[24]
  9. ^ K陸曹はその当時の心境を以下のように述懐している。
    無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。 —  K陸曹の回想[10]
  10. ^ 三島は楯の会の会員に、「人間が自分の話す言葉の真意を誤りなく伝え、相手に正確に理解してもらえる範囲は、せいぜい10人が限界だ」と、軍隊の最小単位の班が何故10人かという根拠の説明をし、話し手の表情・呼吸・息吹が聞き手に直接伝わる範囲の中で普通の肉声で話さない限り、話の真意はなかなか伝わらず、大勢を相手にして文明の利器のマイクを使って声を張り上げて演説すると、そこには必ず虚飾と誇張が入り、本質的に人の心を動かすことはできないという意味の話をしていた[25]
  11. ^ 徳岡孝夫は、演説を聞き取れる範囲で書き残したメモを、三島から託された手紙・写真と共に、銀行の貸金庫に保管しているという[30]
  12. ^ 文化放送で、この事件を担当した若手記者・三木明博は、その後同社の社長に就任している。
  13. ^ この時、介錯を三度失敗したことで、刀先がS字型に曲がってしまったとも言われる[36]
  14. ^ 1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらず、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。」
    また慶応義塾大学病院法医学解剖室教授・斎藤銀次郎(当時)による1970年11月26日の解剖所見の三島の切腹傷のように(「#検視・物証・逮捕容疑」を参照)、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。さらに瞬時に襲ってくる全身の痙攣硬直により両脚が伸びきり、そのために上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう。だから切腹する者の傍らに押さえ役を配しておかなければ到底介錯することはできないのである。
    なお森田の割腹に関して、三島および森田の空手の師匠であった中山正敏が次のように述べている。「目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。」(中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」1971年2月1日付)
    以上の事実から判断するに、森田必勝による三島由紀夫の介錯が失敗だったことは疑うまでもないもののそこには無理からぬ理由があったものと斟酌すべきだろう。
  15. ^ 三島自決の3年後、市ヶ谷のとある企業の参与となった山本舜勝を持丸博が訪ね、「山本さん、いい悪いは別にして、三島先生があのような事件を起こしたのは、あなたに刺激されたせいかもしれませんよ」と言うと、山本は下を向いたまま、「寝覚めが悪い。いまは三島さんの霊を慰めながら、俳句三昧の生活をしている」と答えたという[64]
  16. ^ 寺尾克美によれば、歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根だけで、「風見鶏」さながら渡り歩いて総理大臣にまで登りつめた後、「憲法改正ができないので〈専守防衛〉という〈政治的捏造語〉を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化して」きたとしている[17]。そして寺尾克美は、後年自衛隊を退官後、加害者である三島の行為を「義挙」と総括し、憲法改正を訴える日本会議の活動家となった[17]
  17. ^ しかし、そんな司馬遼太郎も自身の晩年には、三島の予言と同じように、バブル期から平成時代の日本人の拝金主義や倫理喪失をしきりに嘆いて憂うようになった[41]
  18. ^ 櫻井秀勲は、「『ナルシシズムに腹が立つ』といった若手作家」(柴田翔のこと)を含め、三島の自決直後に批判的コメントをした者の何人かは、生前は三島のことを「先生!」と呼んで媚び「生きている間は(三島を)尊敬していた人たちである」と述べている[78]
  19. ^ 弟子の子路が殺され遺体を切り刻まれてにされてしまったことを知った孔子が、家の醢をすべて捨てて子路の死を嘆き悲しんだという逸話からきている。孔子と子路の関係を描いた小説には、中島敦の『弟子』がある。
  20. ^ 三島の『』の中でも、日本が飲まされた不平等条約の例として「ワシントン海軍軍縮条約」「核拡散防止条約」「日米繊維交渉」が挙げられている。
  21. ^ その光景を見た川端康成が、「薔薇って怖いね」と増田貴光の耳元で呟いたという[111]
  22. ^ 「学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る…」は王陽明の『伝習録』にある言葉[131]
  23. ^ 雑誌『論争ジャーナル』は、豊島区高田本町2-1467のビルの一室をオフィスとする育誠社から発刊された[151]
  24. ^ この当時、朝日新聞は文化大革命に対して礼賛一色であったが、他の新聞報道では、中国大陸から香港まで泳いで逃げてくる民衆が、の餌食になっているという記事もあったという[159][160]
  25. ^ 「ヴィクトリア」の場所を、銀座8丁目とする出典もある[166]
  26. ^ この日を2月26日だとする安藤武や猪瀬直樹の出典もあるが、持丸博本人の出典や決定版三島全集42巻の年譜では2月25日となっている。
  27. ^ しかし、山本一佐は三島の死後、自分が良いと思った長期的展望に立った大規模な民間防衛構想が必ずしも、三島が思い描いた自衛隊国軍化への短期的決着のクーデターよりも現実的であるともいえなかったと反省し、たとえ多少の無理があっても10月21日に治安出動してクーデターを起そうとした三島の計画は「千載一遇のチャンスだったかもしれない」と何度も自問し、30年後の2000年も相変わらずな日本の状況を考え、当時の唯一のチャンスを見過ごしたという思いになった[189]
  28. ^ 日学同の宮崎正弘は、森田らの除籍理由を「共産主義に魂を売り渡したため」と『日本学生新聞』に書いた[160][194]
  29. ^ リフレッシャーコースは、2泊3日で、3・6・9・11月に年4回行われた[196]
  30. ^ 林房雄は、中辻和彦と万代潔の退会問題に触れ、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、三島から、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と電話があったとして、以下のように語っている[150]
    彼らは小澤開作氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。やがて雑誌も出て、後援者が増え、多少の金が集まるにつれて、急速に変質して行った。(中略)
    ある“大先輩”の一人は、「ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連中みたいな奴らばかりだった」とまで極言した。(中略)「楯の会」はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された。 — 林房雄「悲しみの琴」[150]
  31. ^ 7月配布の第2回は「戦争の放棄」、9月配布の第3回は「『非常事態法』について」と続いた[215]
  32. ^ この「緑色の蛇」の意味が何なのか考え続けたヘンリー・スコット・ストークスは、1990年(平成2年)頃に突然、「米ドル」(緑色の紙幣)のことだと解ったと徳岡孝夫に告げた[41]
  33. ^ 森田には柴田由美子というガールフレンドがいた。彼女は、楯の会の会員同士や外部との事務連絡のため電話秘書業務を委託していたフォーンセクレタリーサービス会社に務めていた女性で、2人は毎日伝言連絡をやり取りしていたのをきっかけに1970年(昭和45年)1月末から交際するようになっていたが[228]、事件の約1か月前の同年10月31日に、「俺より君にふさわしい人が居ると思う。そいつを見つけて幸せになってくれ」と、由美子は森田から別れを告げられたという[229]。2人の交際は、森田の仲間の「十二社グループ」の友人たちも知っていた[230]。事件後、由美子は警察に事情を聞かれたり、森田の墓参りに三重県四日市市の森田の兄を訪ねたりしている[230]
  34. ^ 小川正洋はこの日に交際していた女性と入籍し、そのことを2人に告げた[20]
  35. ^ 三島が蓮田に献じた哀悼の句は、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉[253]
  36. ^ なお、この後半の続きでは以下のように、自身の行動に絡めて人間の運命について語っている。
    小林秀雄が言ってますけど、人間は死んだとき初めて人間になる。人間の形をとると言うんです。なぜかというと、運命がヘルプしますから。運命がなければ、人間は人間の形をとれないんです。ところが、生きているうちは、その人間の運命は何かわからないんですよ、予言者でなければ。運命が決定しなければ、その人間の形は完成しないでしょう。それで、やっていることはみんなバカげたことに見えるんですね。でも、運命が芸術家を決定する。 — 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)[266]
  37. ^ これに関し、裁判を傍聴していた三島の父・平岡梓は、裁判長が審理を離れて独断的な陽明学論や武士道論を展開したことに疑問を呈している[38]
  38. ^ なお、小賀正義の母も「生長の家」に入信していた[8]
  39. ^ ソ連時代は敵視され発禁になっていた三島の詳細が一般に解禁されるようになったペレストロイカ以降、ロシア人にとって三島が「ミシンカ」「ミシミッチ」という愛称で呼ばれるほどの人気となった理由についてボリス・アクーニンは、日本とロシアの国民性にかなり似ている点があることと、三島の文学や行為のすべてから感じ取れる「非常にドストエフスキー的でロシア的な情念の力」にあるとし、「自らの信念と理想に忠実に生き、割腹という終末へと向かった作家は、彼がいかに異文化的な側面を持っていようとも、ロシア人の愛の抱擁から逃れられるとは思えない」と説明している[274]

出典

[編集]
  1. ^ 「終章 『三島事件』か『楯の会事件』か」(保阪 2001, pp. 303–322)
  2. ^ 高橋新太郎「『楯の会』事件裁判」(旧事典 1976, pp. 247–248)
  3. ^ 「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」(柴田 2012, pp. 16–35)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 「春の雪 ■第一回公判」(裁判 1972, pp. 20–59)
  5. ^ 「二十一世紀の三島――序に代えて」(日地谷 2010序文内のivページ)
  6. ^ 「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」アンケート結果 第11位から50位まで 更新日:2016年3月31日(警視庁ホームページ)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 「第四章 時計と日本刀」(猪瀬 1999, pp. 321–449)
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi 「国会を占拠せよ ■第二回公判」(裁判 1972, pp. 59–82)
  9. ^ a b c d e f g h i j k 「総監が危ない ■第四回公判」(裁判 1972, pp. 99–108)
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「第一章 三島由紀夫の死」(再訂 2005, pp. 5–62)
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――宿命の哲学」(生涯 1998, pp. 319–331)
  12. ^ a b c d e f g h i 「『散ること花と……』■第三回公判」(裁判 1972, pp. 83–98)
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「第十章 十一月二十五日」(徳岡 1999, pp. 238–269)
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「第四章 市ヶ谷台にて」(彰彦 2015, pp. 199–230)
  15. ^ 三島由紀夫没後45年(下)三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した」産経新聞、2015年11月24日号)
  16. ^ a b c 「『三島事件』をふり返って」(原 2004, pp. 119–127)
  17. ^ a b c d e f g 寺尾克美「三島由紀夫に斬られた男」(憂国忌 2020, pp. 47–72)
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「第一章『最後の一年は熱烈に待つた』」(保阪 2001, pp. 57–92)
  19. ^ 「要求書」(昭和45年11月25日)。36巻 2003, pp. 680–681
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「第七章」(梓 1996, pp. 233–256)
  21. ^ a b c 「XI 市ヶ谷台上へ」(山本 1980, pp. 243–266)
  22. ^ a b c d e f g h i 「第七章 昭和45年11月25日」(年表 1990, pp. 219–228)
  23. ^ a b c 「無題」(市ヶ谷駐屯地にて演説 1970年11月25日)。36巻 2003, pp. 682–683、日録 1996, pp. 418–420、小室 1985, pp. 186–189、三島由紀夫演説文”. 2007年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月7日閲覧。
  24. ^ a b c d e f g h 」(市ヶ谷駐屯地にて撒布 1970年11月25日)。36巻 2003, pp. 402–406、保阪 2001, pp. 18–25
  25. ^ a b c d e 「三、さむらい『三島由紀夫』と『楯の会』」(松浦 2010, pp. 59–144)
  26. ^ 「第四章 その時、そしてこれから――四期 野田隆史」(火群 2005, pp. 169–172)
  27. ^ 林房雄との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月。夏目書房、2002年3月増補再刊)。39巻 2004, pp. 554–682
  28. ^ a b c 「最後の電話」(ポリタイア 1973年6月号)。小島 1996, pp. 8–24、群像18 1990, pp. 78–88
  29. ^ 水木しげるコミック昭和史 第8巻――高度成長以降』(講談社文庫、1994年11月)p.15。初版は、講談社、1989年12月
  30. ^ a b 徳岡孝夫「”あの事件”から四十年――三島由紀夫と私(前編)」(正論 2010年10月号)
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「『死ぬことはやさしい』■第六回公判」(裁判 1972, pp. 117–122)
  32. ^ a b c d e f g h 「国を思う純粋な心に ■第五回公判」(裁判 1972, pp. 109–116)
  33. ^ a b c d e f g h i j 「第四章 三島事件前後の真相」(持丸 2010, pp. 125–190)
  34. ^ 呉智英「『本気』の時代の終焉」(中条 2005, pp. 188–203)
  35. ^ a b 「非常の連帯 ■第十六回公判」(裁判 1972, pp. 245–270)
  36. ^ a b c d 「第四章 『楯の会』と『自衛隊』」(再訂 2005, pp. 157–184)
  37. ^ a b c d e f g h 「第五章 三島・森田蹶起と日本の運命」(村田 2015, pp. 223–286)
  38. ^ a b 「三島裁判に思う」(梓・続 1974, pp. 5–72)
  39. ^ 佐々淳行「そのとき、私は……」(諸君! 1999年12月号)。彰彦 2015, pp. 226–227
  40. ^ a b 佐々淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996年
  41. ^ a b c d e f g 「第十一章 死後」(徳岡 1999, pp. 238–269)
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「第八章」(年表 1990, pp. 229–245)
  43. ^ 「記事」(毎日新聞 1970年11月25日夕刊)。堀 1993, p. 80
  44. ^ a b c d e f g h i j k l m 「第五章 三島事件の波紋」(再訂 2005, pp. 185–215)
  45. ^ a b c 「第五章 自決の背景」(小室 1985, pp. 121–198)
  46. ^ 佐藤栄作 (1997). 佐藤栄作日記〈第4巻〉. 朝日新聞社. p. 210 
  47. ^ 日本経済新聞 編『私の履歴書 保守政権の担い手』日本経済新聞出版社、2007年、542-544頁。ISBN 978-4532193737 
  48. ^ a b c d e f g h i j k l m 「第一章」(梓 1996, pp. 7–30)
  49. ^ 川端康成「三島由紀夫」(臨時 1971)。群像18 1990, pp. 229–231、評論1 1982, pp. 615–619、一草一花 1991, pp. 215–218
  50. ^ 川端康成「『もったいない死に方だった』=かけつけた川端氏」(朝日新聞 1970年11月26日号 3面、週刊サンケイ 1970年12月31日号)。再訂 2005, p. 57、保阪 2001, p. 86
  51. ^ 石原 1999, pp. 195–196
  52. ^ 「三二 三島の霊と話をしていた川端康成」(岡山 2014, pp. 159–163)
  53. ^ 石原慎太郎「かけつけた石原氏ぼう然」(読売新聞夕刊 1970年11月25日号 10面)。年表 1990, p. 230
  54. ^ a b c d e f g h i j k 「年譜 昭和45年11月25日-12月」42巻 2005, pp. 330–334
  55. ^ 「昭和45年11月25日」(日録 1996, pp. 412–422)
  56. ^ 「没後」(日録 1996, pp. 423–426)
  57. ^ a b c d e 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――禁忌の黙契」(生涯 1998, pp. 311–319)
  58. ^ a b c d 「没後」(日録 1996, pp. 423–426)
  59. ^ a b 舩坂弘『関ノ孫六――三島由紀夫、その死の秘密』(光文社カッパ・ブックス、1973年)。岡山 2014, p. 105
  60. ^ 「関の孫六の刃こぼれ ■第八回公判」(裁判 1972, pp. 151–156)
  61. ^ a b 「十九 佩刀『関ノ孫六』の由来」(岡山 2014, pp. 103–108)
  62. ^ 「命令書」(昭和45年11月)。36巻 2003, pp. 678–679、再訂 2005, p. 236
  63. ^ a b 「XII 果てしなき民坊への道」(山本 1980, pp. 267–289)
  64. ^ a b c d e f g h 「第四章 邂逅、そして離別」(保阪 2001, pp. 189–240)
  65. ^ a b 「あとがき」(山本 1980, pp. 290–298)
  66. ^ 猪木正道『国を守る』(実業之日本社、1972年)
  67. ^ 「社説――三島由紀夫の絶望と陶酔」(朝日新聞 1970年11月26日号)。年表 1990, p. 230、堀 1993, p. 79
  68. ^ 「社説」(毎日新聞 1970年11月26日号 5面)。年表 1990, p. 230
  69. ^ a b c d e f 「春の嵐 ■第十七回公判」(裁判 1972, pp. 271–304)
  70. ^ a b 「三島文学の宿命」(野口 1992, pp. 199–217)
  71. ^ 佐郷屋留雄のコメント」。70年代研究会編『三島事件』(日本国防調査会、1971年4月)に所収。堀 1993, p. 80
  72. ^ 浅沼美智雄のコメント」。70年代研究会編『三島事件』(日本国防調査会、1971年4月)に所収。堀 1993, p. 80
  73. ^ 「大日本生産党のコメント」。70年代研究会編『三島事件』(日本国防調査会、1971年4月)に所収。堀 1993, pp. 80–81
  74. ^ 山田宗睦週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)。保阪 2001, pp. 88–89
  75. ^ 野間宏「錯誤にみちた文学・政治の短絡」(朝日ジャーナル 1970年12月6日号)。保阪 2001, p. 89
  76. ^ 司馬遼太郎「異常な三島事件に接して」(毎日新聞 1970年11月26日号 1面)。徳岡 1999, p. 290、中公編集 2010, pp. 133–135
  77. ^ 柴田翔「ナルシシズムに腹が立つ」(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)p.168
  78. ^ 「初めて三島邸を訪ねたときのこと」(櫻井 2020, pp. 21–26)
  79. ^ 中野重治(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)。保阪 2001, pp. 89–90
  80. ^ a b 小林秀雄「感想」(臨時 1971読本 1983, pp. 56–57
  81. ^ 村松剛「市谷台上の諌死」(週刊時事 1970年12月26日号)。保阪 2001, p. 81
  82. ^ 舟橋聖一「壮烈な憤死」(東京新聞 1970年11月26日号)。進藤 1976, p. 507
  83. ^ a b 村上一郎「荒御魂の鎮めに」(臨時 1971)。保阪 2001, pp. 84–85
  84. ^ 「“狂い死の思想” 美学の完結とは思えぬ」(朝日新聞夕刊 1970年11月26日号 10面)。橋川 1998, pp. 132–134
  85. ^ 保田與重郎「眼裏の太陽」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 230–239
  86. ^ a b 保田與重郎「天の時雨」(臨時 1971)。福田 1996, pp. 167–192
  87. ^ 高橋和巳「果敢な敵の死悲し」(サンケイ新聞 1970年11月26日号)。新読本 1990, pp. 130–131
  88. ^ 武田泰淳(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)。年表 1990, p. 231、保阪 2001, p. 86
  89. ^ 大岡昇平「生き残った者への証言」(文藝春秋 1972年2月号)。保阪 2001, p. 86
  90. ^ a b c 倉橋由美子「英雄の死」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 131–136、彼女 2020, pp. 143–150
  91. ^ 中井英夫「ケンタウロスの嘆き」(潮・特集 三島由紀夫 生と死の遍歴 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 302–311
  92. ^ a b 森茉莉「気ちがいはどっち?」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 96–99
  93. ^ 「革命哲学としての陽明学」(諸君! 1970年9月号)。行動学 1974, pp. 189–228、36巻 2003, pp. 277–310
  94. ^ a b c d e 石川淳「文芸時評 上・下――認識から行動への跳躍 割腹の必然はあったか 三島の死、『楯の会』で思想を固定 檄には見えぬ三島の姿」(朝日新聞夕刊 1970年12月24日-25日号)。「文林通言――昭和45年12月」として石川・評論15 1990, pp. 413–421
  95. ^ 石川淳「文芸時評 上・下(『太陽と鉄』、『古今集と新古今集』)――『肉体』の戦利品『青空』、『英雄』への道急ぐな 三島氏のまぼろしの旅」(朝日新聞夕刊 1970年4月27日-28日号)。「文林通言――昭和45年4月」として石川・評論15 1990, pp. 341–349
  96. ^ a b 吉本隆明「情況への発言――暫定的メモ」(試行 1971年2月・32号)。『詩的乾坤』(国文社、1974年9月)所収。読本 1983, pp. 60–65、夢ムック 2020, pp. 178–184
  97. ^ a b 「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死」(文學界・特集 三島由紀夫 1971年3月号)。磯田 1979, pp. 434–445
  98. ^ 「『占領憲法下の日本』に寄せる」(谷口雅春著『占領憲法下の日本』日本教文社、1969年5月)。『蘭陵王』(新潮社、1971年5月)、35巻 2003, pp. 450–452
  99. ^ a b 谷口雅春『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』(日本教文社、1971年11月)pp.2-3
  100. ^ a b c d e ヘンリー・ミラー「特別寄稿――三島由紀夫の死」(週刊ポスト 1971年10月29日・44号 – 48号)。小室 1985, pp. 194–195、ミラー 2017, pp. 199–234
  101. ^ a b ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大だったか」(諸君!・総特集 三島由紀夫の死を見つめて 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 321–323
  102. ^ a b エドワード・G・サイデンステッカー(時事評論 1971年4月20日号)。裁判 1972, pp. 299–300
  103. ^ ドナルド・キーン(時事評論 1971年4月20日号)。裁判 1972, p. 300
  104. ^ 文藝年鑑 1971, p. 318
  105. ^ 瀬戸内寂聴美輪明宏の対談「今こそ語る三島由紀夫」(すばる 22(10) 特集三島由紀夫没後30年・2000年10月号)pp.15-35における、p.32の美輪明宏の発言
  106. ^ 滝原健之「昭和元禄の忠臣蔵」(回想 1971, p. 168)
  107. ^ 島内景二「評伝 三島由紀夫 【めくるめく薔薇の世界へ、変なのは、どっち?】」(文豪ナビ 2004, pp. 146–148)
  108. ^ a b c d e 「IV 行動者――訣別」(村松 1990, pp. 469–503)
  109. ^ a b c 「第五章 野分の後」(彰彦 2015, pp. 231–253)
  110. ^ a b 「武人としての死 ■第九回公判」(裁判 1972, pp. 157–196)
  111. ^ a b c 増田元臣「美しい人間の本性」(月報34巻 2003
  112. ^ 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号)。村松 1990, p. 503、群像18 1990, pp. 193–204、年表 1990, pp. 17, 21, 172, 192
  113. ^ 「既得権益化」で儲かる火葬場が、「中国系資本」に狙われている”. 週刊文春 - 清水 俊一. 2022年8月6日閲覧。
  114. ^ a b c d e f g 「第四章 その時、そしてこれから」(火群 2005, pp. 111–188)
  115. ^ a b c 「プロローグ あれから四十年が経過した」「第一章『憂国忌』前史」憂国忌 2010, pp. 15–56
  116. ^ a b c d e f g h i j k 「第二章 安保闘争以後の右翼勢力 三、三島事件 【三島と自衛隊】」(堀 1993, pp. 81–86)
  117. ^ a b c d e f g h i j k l 「年譜 昭和46年」42巻 2005, pp. 334–338
  118. ^ 「第六章 三島由紀夫の遺言状」(小室 1985, pp. 199–230)
  119. ^ a b c 「三島先生の葬儀」「付記として」(英子 2007, pp. 131–145)
  120. ^ a b 「第四章 新劇女優 村松英子」(岡山 2016, pp. 135–174)
  121. ^ a b c d e 「第六章」(梓 1996, pp. 206–232)
  122. ^ 「昭和46年」(日録 1996, pp. 427–432)
  123. ^ 伊藤好雄「召命――隊長三島の決起に取り残されて」(大吼 2008年7月夏季号・第261号)。村田 2015, pp. 292–298
  124. ^ a b c d 「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月)。38巻 2004, pp. 495–496
  125. ^ a b 「愛と死の儀式 ■第十一回公判」(裁判 1972, pp. 203–214)
  126. ^ a b c d e 「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」(裁判 1972, pp. 123–150)
  127. ^ 「29 事件のあと――有り難う御座いました」(村上 2010, pp. 181–185)
  128. ^ a b c 「文武両道の達人 ■第十四回公判」(裁判 1972, pp. 227–232)
  129. ^ 北條誠「恩師に代りて序を書く――川端康成先生と『三島事件』」(裁判 1972序文)
  130. ^ a b c 「憂国と法理の接点 ■第十八回公判」(裁判 1972, pp. 305–318)
  131. ^ 堀 1993, p. 106
  132. ^ 「薄き日陽に舞いて墜ち来る――七」山平 2004, pp. 123–129
  133. ^ 「 (三島を) 恨んでも怒ってもいない」と文書でView point、2020年11月25日)
  134. ^ 「エピローグ その後の楯の会」(村田 2015, pp. 287–303)
  135. ^ a b 「年譜 昭和55年」42巻 2005, pp. 347–348
  136. ^ 「序章 十年目の遺書」(保阪 2001, pp. 27–56)
  137. ^ 伊達宗克徳岡孝夫によるインタビュー・平岡瑤子「三島家十四年の歳月」(諸君! 1985年1月号)。徳岡 1999, p. 305
  138. ^ 「捕章 三十一年目の『事実』」(保阪 2001, pp. 323–344)
  139. ^ 「年譜 平成12年」42巻 2005, pp. 368–369
  140. ^ 三島由紀夫研究会メルマガ通巻第1298号(2018年11月27日)
  141. ^ a b c d e f 「第二章 三島由紀夫と青年群像」(保阪 2001, pp. 93–143)
  142. ^ 「習字の伝承」(婦人生活 1968年1月号)。34巻 2003, pp. 612–614
  143. ^ a b c d 「第六章」(年表 1990, pp. 161–218)
  144. ^ 荒木 1971西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)
  145. ^ 「第二章 学習院という湖」(島内 2010, pp. 57–92)
  146. ^ a b 「祖国防衛隊はなぜ必要か?」(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)。34巻 2003, pp. 626–643
  147. ^ a b 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――重力の供物」(生涯 1998, pp. 249–258)
  148. ^ a b c 「IV 行動者――『狂気』の翼」(村松 1990, pp. 421–442)
  149. ^ 「青年について」(論争ジャーナル 1967年10月号)。34巻 2003, pp. 561–564
  150. ^ a b c 「第十七章」(林 1972, pp. 233–247)
  151. ^ a b c d e f g h i j 「第二章 ノサップ」(彰彦 2015, pp. 71–136)
  152. ^ a b c 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」(32巻 2003月報)
  153. ^ 「年譜 昭和42年」42巻 2005, pp. 287–294
  154. ^ 藤島泰輔『天皇・青年・死――三島由紀夫の死をめぐって』(日本教文社、1973年)。保阪 2001, p. 105
  155. ^ 「第三章 『弱者天国』の時代に抗して」(持丸 2010, pp. 75–124)
  156. ^ a b 石川淳川端康成安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか――芸術は政治の道具か?」(中央公論 1967年5月号)。中公編集 2010, pp. 210–221
  157. ^ 文化大革命に関する声明」(東京新聞 1967年3月1日号)。36巻 2003, p. 505
  158. ^ 「謎の人――NHK記者伊達宗克」(西 2020, pp. 189–207)
  159. ^ a b 「第一章 ナンパ系全学連が楯の会へ」(村田 2015, pp. 11–70)
  160. ^ a b c d e f 「第一章 曙」(火群 2005, pp. 9–80)
  161. ^ a b 「自衛隊を体験する――46日間のひそかな“入隊”」(サンデー毎日 1967年6月11日号)。34巻 2003, pp. 404–413
  162. ^ a b c d e 「三島帰郷兵に26の質問」(サンデー毎日 1967年6月11日号)。34巻 2003, pp. 414–422
  163. ^ a b 「第一章 忍」(杉山 2007, pp. 8–71)
  164. ^ a b c 「第一章 三島のクーデター論」(西村 2019, pp. 13–32)
  165. ^ a b c d e f 「日誌二」(必勝 2002, pp. 89–142)
  166. ^ 「第一章 名物学生」(彰彦 2015, pp. 9–70)
  167. ^ 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年8月25日付)。38巻 2004, pp. 455–457
  168. ^ 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年9月24日付)。38巻 2004, pp. 457–460
  169. ^ 「警察との唯一の絆――佐々淳行(一)」(西 2020, pp. 71–96)
  170. ^ a b c 「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」(週刊朝日 1967年8月11日号)pp.16-18。34巻 2003, pp. 447–449
  171. ^ 「第四章 だからあれほど言ったのに〔大衆社会と全体主義〕」(適菜 2015, pp. 156–159)
  172. ^ a b 「第III部 語る/騙る(検閲と表現:外国人記者の被爆地ルポ ほか)――柳瀬善治『26 文学者・文化人と核武装論』」(川口 2017, pp. 148–152)
  173. ^ a b c 「インドの印象」(毎日新聞 1967年10月20日-21日号)。34巻 2003, pp. 585–594
  174. ^ 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年10月20日付)。38巻 2004, p. 460
  175. ^ 「F104」(文藝 1968年2月号)。33巻 2003, pp. 570–580
  176. ^ a b c 「第五章」(梓 1996, pp. 165–205)
  177. ^ a b c 「III 祖国防衛論」(山本 1980, pp. 46–72)
  178. ^ 「年譜 昭和43年」42巻 2005, pp. 294–303
  179. ^ a b c 宮崎 1999
  180. ^ 「三輪良雄への書簡」(昭和43年3月18日、4月17日付)。38巻 2004, pp. 927–931
  181. ^ a b 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和43年4月17日付)。38巻 2004, pp. 463–464
  182. ^ 現物写真は火群 2005, p. 29
  183. ^ a b c d 「V 祖国防衛隊の訓練」(山本 1980, pp. 93–118)
  184. ^ a b c d e f g h i j k 「VI 民防活動の目標模索」(山本 1980, pp. 119–149)
  185. ^ a b 「第三章 『楯の会』の結成」(保阪 2001, pp. 143–188)
  186. ^ 「第二章 山本一佐と三島の複雑な関係」(西村 2019, pp. 33–70)
  187. ^ a b c d e f g h i j 「VII 近目標・治安出動に燃える」(山本 1980, pp. 150–175)
  188. ^ a b 「素人防衛論」(防衛大学校講演 1968年11月20日)。「防衛大学校最終講演全再録」(諸君! 2005年12月号)、補巻 2005村田 2015, pp. 46–47
  189. ^ a b c d e f g h i j k 「終章 誰が三島を殺したのか」(山本 2001, pp. 192–237)
  190. ^ 「第二章 影の軍隊――『赤旗』がスクープしたクーデター計画」(山本 2001, pp. 60–64)
  191. ^ 高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」( 1969年11月号)。
  192. ^ 林房雄との対談「現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし」(流動 1969年12月号)。
  193. ^ 堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」(財界 1970年1月1日・15日号)。
  194. ^ a b c d e f g 「第三章 惜別の時」(彰彦 2015, pp. 137–198)
  195. ^ 「反革命宣言」(論争ジャーナル 1969年2月号)。35巻 2003, pp. 389–405、防衛論 2006, pp. 9–32
  196. ^ a b c d e f 「第二章 楯の会第五期生」(村田 2015, pp. 71–126)
  197. ^ 「IV 四つの河[5]行動の河」(ストークス 1985, pp. 276–346)
  198. ^ a b 「年譜 昭和44年」42巻 2005, pp. 304–315
  199. ^ 「自衛隊二分論」(20世紀 1969年4月号)。35巻 2003, pp. 434–446
  200. ^ a b c 「IV 行動者――集団という橋」(村松 1990, pp. 443–468)
  201. ^ a b c d e f g h 「VIII 遠・近目標混淆のなかで」(山本 1980, pp. 176–205)
  202. ^ 「昭和44年」(日録 1996, pp. 365–384)
  203. ^ a b 「川端康成宛ての書簡」(昭和44年8月4日付)。川端書簡 2000, pp. 196–200、38巻 2004, pp. 306–309
  204. ^ a b c d 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――銀色の黄金」(生涯 1998, pp. 280–286)
  205. ^ 「7 資金――持ち出し」(村上 2010, pp. 41–45)
  206. ^ 「五、自決」(松浦 2010, pp. 145–174)
  207. ^ 中河与一「魂の高まり」(浪曼 1975, pp. 126–128)
  208. ^ 「年譜」(昭和44年10月25日)(三島42巻 2005, p. 313)
  209. ^ 栗山理一池田勉塚本康彦の鼎談「雅を希求した壮烈な詩精神――蓮田善明 その生涯の熱情」(浪曼 1975, pp. 106–124)
  210. ^ 「『葉隠』に隠された孤高の決意」(櫻井 2020, pp. 45–48)
  211. ^ a b c d 「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」(裁判 1972, pp. 233–244)
  212. ^ a b c d 「IX 絶望に耐えてなお活路を」(山本 1980, pp. 206–222)
  213. ^ 「三島の死と川端康成」(新潮 1990年12月号)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 三島の死と川端康成」として西欧 1994, pp. 9–29に所収
  214. ^ 「第三章 草案につづられた三島の真意」(松藤 2007, pp. 89–118)
  215. ^ a b c d 「第五章 公然と非公然の谷間」(保阪 2001, pp. 241–302)
  216. ^ 村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命」(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号)。40巻 2004, pp. 608–621
  217. ^ a b c d e f 「X 決起の黙契軋み出す」(山本 1980, pp. 223–242)
  218. ^ a b 「問題提起 (一)新憲法における『日本』の欠落」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年5月)。36巻 2003, pp. 118–128
  219. ^ 「山本舜勝宛ての書簡」(昭和45年8月10日付)。38巻 2004, pp. 946–947
  220. ^ 「第三章 武士道と不正規軍――引きちぎったノートに書いた手紙」(山本 2001, pp. 66–74)
  221. ^ a b 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――血盟の迷想」(生涯 1998, pp. 294–302)
  222. ^ a b c d 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――赤心の逆流」(生涯 1998, pp. 302–311)
  223. ^ a b c 滝ヶ原分屯地は第二の我が家」(たきがはら 1970年9月25日創刊号)。36巻 2003, pp. 348–349
  224. ^ 「プロローグ――個人的な記憶」(ストークス 1985, pp. 3–30)
  225. ^ a b 「第四章」(梓 1996, pp. 103–164)
  226. ^ a b c d 「第二章 予兆」(火群 2005, pp. 81–102)
  227. ^ a b 「第十二章 決起1ヶ月前」(豊夫 2006, pp. 97–102)
  228. ^ 「第一章」(長和 2023, pp. 14–35)
  229. ^ 「第五章 18 俺のことを忘れないでくれ」(長和 2023, pp. 134–139)
  230. ^ a b 「第七章」(長和 2023, pp. 176–189)
  231. ^ a b 古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日号)。(新潮カセット版1989年4月、CD版2002年6月)。古林尚『戦後派作家は語る』(筑摩書房、1971年)、群像18 1990, pp. 205–228、40巻 2004, pp. 739–782
  232. ^ 野口武彦編「三島由紀夫事典――近代」(必携 1989, pp. 38–39)
  233. ^ 「第九章 その前夜まで」(徳岡 1999, pp. 212–237)
  234. ^ a b 「ワグナーと三島由紀夫――トリスタン和音か『唐獅子牡丹』か」(野口 1992, pp. 195–196)
  235. ^ a b 福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号)。サムライ 1996, pp. 205–266、持丸 2010, pp. 13–24、39巻 2004, pp. 696–728
  236. ^ 若きサムラヒのために――政治について」(PocketパンチOh! 1969年5月号)。サムライ 1996, pp. 19–23、35巻 2003, pp. 58–60
  237. ^ 私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。32巻 2003, pp. 271–323
  238. ^ 「日々の分れ――死への一里塚」(ポリタイア 1973年7月号)。小島 1996, pp. 25–40
  239. ^ 「III 成熟と崩壊の同時進行 2 作家の『自己犠牲』と『自己表現』――三島由紀夫の美学」(粕谷 2006, pp. 163–168)
  240. ^ 「私の顔」(毎日新聞 1954年9月19日号)。28巻 2003
  241. ^ 「『純文学とは?』その他」(雑誌・風景 1962年6月号)。32巻 2003
  242. ^ 「作中人物への傾斜」(ポリタイア 1973年10月号)。小島 1996, pp. 81–126
  243. ^ a b 「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」(早稲田大学大隈講堂 1968年10月3日)。防衛論 2006, pp. 232–298、40巻 2004, pp. 232–271
  244. ^ a b 「21 死生観――自分の名前は好きじゃない」(村上 2010, pp. 133–136)
  245. ^ 「年頭の迷ひ」(読売新聞 1967年1月1日号)。34巻 2003, pp. 284–287
  246. ^ 行動学入門」(PocketパンチOh! 1969年9月号-1970年8月号)。35巻 2003, pp. 606–658
  247. ^ 「劇画における若者論」サンデー毎日 1970年2月1日号)。36巻 2003, pp. 53–56
  248. ^ 「第六章 映画『憂国』」(堂本 2005, pp. 115–148)
  249. ^ a b 中康弘通「悲愴美に魅せられた作家 三島由紀夫の死――ナルシスはなぜ……」(噂 1973, pp. 48–58)
  250. ^ a b c 果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞夕刊 1970年7月7日号)。防衛論 2006, pp. 369–373、36巻 2003, pp. 212–215
  251. ^ a b 林房雄「弔辞」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 86–91
  252. ^ 小高根 1970文學大系 1970, pp. 461–471(1968年9月号-11月号分)、再訂 2005, pp. 99–156、北影 2006, pp. 22–92
  253. ^ 「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日)。浪曼 1975冒頭に現物写真、37巻 2004, p. 762、再訂 2005, p. 152、島内 2010, p. 262
  254. ^ a b 吉田満「三島由紀夫の苦悩」(ユリイカ 1976, pp. 56–64)、中公編集 2010, pp. 136–146、吉田下巻 1986, pp. 127–143、戦中派 2015, pp. 70–88
  255. ^ a b 中康弘通「悲愴美に魅せられた作家 三島由紀夫の死――ナルシスはなぜ……」(噂 1973, pp. 58–60)
  256. ^ M.K.シャルマ(訳:山田和)『喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文藝春秋、2001年3月。文春文庫、2004年1月)pp.254-264。初出は雑誌『諸君!』1998年6月号-2000年10月号
  257. ^ a b 「最終章 手紙」(杉山 2007, pp. 185–219)
  258. ^ a b c d 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」(古井由吉平野啓一郎との座談)(没後30 2000, pp. 322–340)
  259. ^ 旧版『三島由紀夫全集35』(新潮社、1976年4月)所収
  260. ^ a b 田中美代子「三島事件」(事典 2000, pp. 604–606)
  261. ^ a b 「かなたへの疾走」(アルバム 1983, pp. 80–96)
  262. ^ 三島由紀夫 自決9カ月前の肉声…TBSに録音テープ(毎日新聞、2017年1月12日)
  263. ^ a b 三島由紀夫「平和憲法は偽善。憲法は、日本人に死ねと言っている」TBSが未公開テープの一部を公開・放送(産経ニュース、2017年1月12日)
  264. ^ a b 「新発見 自決九ヵ月前の未公開インタビュー――三島由紀夫 素顔の告白」(群像 2017, pp. 119–137)
  265. ^ 「三島由紀夫未公開インタビュー」(告白 2017, pp. 5–74)
  266. ^ a b 「三島由紀夫未公開インタビュー――マスコミと三島」(告白 2017, pp. 30–38)
  267. ^ 井上隆史「解題――楯の会会員」(38巻 2004, pp. 989–990)
  268. ^ a b 「第三章 昭和45年11月25日」(村田 2015, pp. 127–160)
  269. ^ 「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)。38巻 2004, pp. 672–673
  270. ^ 古林尚「私は『死』を打ち明けられていた」(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月11日号)。年表 1990, p. 212
  271. ^ 「第四章 その時、そしてこれから――一期 伊藤邦典」(火群 2005, pp. 177–180)
  272. ^ 井上安正『冤罪の軌跡――弘前大学教授夫人殺害事件』(新潮社、2011年1月)
  273. ^ a b c 横尾忠則「追悼・高倉健 幻となった三島由紀夫映画」(中央 2015, pp. 200–201)
  274. ^ a b c ボリス・アクーニン「ロシアの作家ミシンカ」(日地谷 2010, pp. 9–14)
  275. ^ a b 「三島由紀夫 関連年表」(柴田 2012, pp. 268–279)
  276. ^ a b 「三島由紀夫と楯の会 年譜」(保阪 2001, pp. 355–373)
  277. ^ a b 「三島由紀夫年譜」(熊野 2020, pp. 253–270)
  278. ^ 「日誌一」(必勝 2002, pp. 23–88)
  279. ^ a b 「戦後右翼史年表――1958年 – 1975年」 (堀 1993, pp. 330–342)
  280. ^ 「第六章 小説に描かれた三島由紀夫――蠱惑する文学と生涯」(岡山 2016, pp. 159–192)
  281. ^ リービ英雄「解説――加賀乙彦の大きな『反証言』」(加賀 1993, pp. 614–621)

参考文献

[編集]

三島の著作・全集

[編集]

事典・資料・アルバム系

[編集]

論考・評伝・研究

[編集]

親族・学友・私人の追想

[編集]
  • 井上豊夫『果し得ていない約束――三島由紀夫が遺せしもの』コスモの本、2006年10月。ISBN 978-4906380800  - 著者は元楯の会会員。
  • 鈴木亜繪美、監修・田村司『火群のゆくへ――元楯の会会員たちの心の軌跡』柏艪舎、2005年11月。ISBN 978-4434070662 
  • 長和由美子『手記 三島由紀夫様 私は森田必勝の恋人でした』秀明大学出版会、2023年6月。ISBN 978-4915855474 
  • 西村繁樹『三島由紀夫と最後に会った青年将校』並木書房、2019年10月。ISBN 978-489063-3913 
  • 原竜一『熱海の青年将校――三島由紀夫と私』新風舎、2004年10月。ISBN 978-4797443240 
  • 平岡梓『伜・三島由紀夫』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 978-4167162047 初版(文藝春秋)は1972年5月 NCID BN04224118。月刊誌『諸君!』1971年12月号 - 1972年4月号に連載されたもの。
  • 平岡梓『伜・三島由紀夫 (没後)』文藝春秋、1974年6月。NCID BN03950861  - 倭文重夫人との回想対談も収録。絶版
  • 松浦芳子監修、松浦博『今よみがえる三島由紀夫――自決より四十年』高木書房、2010年12月。ISBN 978-4884710866 増補版は2020年11月
  • 三谷信『級友 三島由紀夫』(再刊)中央公論新社〈中公文庫〉、1999年12月。ISBN 978-4122035577 原版(笠間書院)は1985年7月 NCID BN01049725 – 絶版
  • 宮崎正弘『三島由紀夫「以後」――日本が日本でなくなる日』並木書房、1999年9月。ISBN 978-4890631124 
  • 村上建夫『君たちには分からない――「楯の會」で見た三島由紀夫』新潮社、2010年10月。ISBN 978-4103278511 
  • 村田春樹『三島由紀夫が生きた時代――楯の会と森田必勝』青林堂、2015年10月。ISBN 978-4792605322 
  • 持丸博; 佐藤松男『証言三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』文藝春秋、2010年10月。ISBN 978-4163732503 
  • 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』日本文芸社、1980年6月。NCID BN10688248 
  • 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』講談社、2001年6月。ISBN 978-4062107815 
  • 日本学生新聞 編『回想の三島由紀夫』行政通信社、1971年11月。NCID BN0927582X 
  • 三島由紀夫研究会 編『「憂国忌」の四十年――三島由紀夫氏追悼の記録と証言』並木書房、2010年10月。ISBN 978-4890632626 
  • 三島由紀夫研究会 編『「憂国忌」の五十年』啓文社書房、2020年10月。ISBN 978-4899920717 

編集者・公人の追想

[編集]

雑誌系の特集本

[編集]
  • 新潮 臨時増刊 三島由紀夫読本』、新潮社、1971年1月。ASIN B00QRZ32NO 
  • 安部順一 編『中央公論』第1巻、第29号、中央公論新社、2015年1月。ASIN B00PM72XQK 
  • 小野好恵 編『ユリイカ 詩と批評 特集・三島由紀夫――傷つける美意識の系譜』第11巻、第8号、青土社、1976年10月。ASIN B00UYW77RS 
  • 梶山季之 編「〈特別レポート〉三島由紀夫の無視された家系」『月刊噂 八月号』第2巻、第8号、噂発行所、48-62頁、1972年8月。 
  • 坂本忠雄 編『新潮 12月特大号 没後二十年 三島由紀夫特集』第12巻、第87号、新潮社、1990年12月。 
  • 佐藤辰宣 編『群像』第3巻、第72号、講談社、2017年3月。ASIN B01NH2WT0X 
  • 中康弘通 編「悲愴美に魅せられた作家 三島由紀夫の死――ナルシスはなぜ……」『月刊噂 八月号』第3巻、第8号、噂発行所、48-60頁、1973年8月。 
  • 中島和夫 編『群像 二月特大号 三島由紀夫 死と芸術』第2巻、第26号、講談社、1971年2月。 
  • 長谷川泉 編『現代のエスプリ 三島由紀夫』至文堂、1971年3月。NCID BN09636225 
  • 藤島泰輔 編『浪曼 新年号(12・1月合併) 特集・三島由紀夫の不在』第1巻、第4号、株式会社浪曼、1975年1月。 
  • 前田速夫 編『新潮 臨時増刊 三島由紀夫 没後三十年』、新潮社、2000年11月。NCID BA49508943 
  • 『新装版 文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社、1983年12月。NCID BA35307535  - 初版は1975年8月
  • 『新文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社、1990年11月。ISBN 978-4309701554 
  • 『中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後』中央公論新社、2010年10月。ISBN 978-4120041617 
  • 文藝別冊 増補新版 三島由紀夫――死にいたるまで魂は叫びつづけよ』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2012年4月。NCID BA75322341  - 旧版は2005年11月の『文藝別冊 永久保存版 三島由紀夫 没後35年・生誕80年』
  • 『文藝別冊 三島由紀夫1970――海を二つに割るように、彼は逝った』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2020年3月。ISBN 978-4309980058 
  • 『中央公論特別編集 彼女たちの三島由紀夫』中央公論新社、2020年10月。ISBN 978-4120053474 

他作家関連・その他

[編集]

外国人による三島研究書

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
画像外部リンク
三島由紀夫事件 写真特集 - 時事通信社