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橋健三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はし けんぞう

橋 健三
1936年以前、75歳頃
生誕 瀬川健三
1861年2月11日万延2年1月2日
江戸幕府加賀国金沢区(現・石川県金沢市
死没 (1944-12-05) 1944年12月5日(83歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国・石川県金沢市
墓地 石川県金沢市・野田山墓地
国籍 日本の旗 日本
職業 漢学者
開成中学校・開成予備学校校長
配偶者 橋こう(先妻)
橋トミ(後妻)
子供 健行、雪子、正男、健雄
行蔵、倭文重、重子
瀬川朝治(父)、ソト(母)
親戚 橋健堂(養父・岳父)
平岡公威(孫)
平岡美津子平岡千之(孫)
平岡紀子平岡威一郎(曾孫)
補足
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橋 健三(はし けんぞう、1861年2月11日万延2年1月2日〉 - 1944年昭和19年)12月5日〉は、日本漢学者開成中学校校長(第5代)。夜間中学・開成予備学校(のちに昌平中学)の校長。作家・三島由紀夫の祖父。橋倭文重の父[1][2][3][4]

経歴

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1861年万延2年1月2日)、加賀国金沢区(現・石川県金沢市)大豆田町で、加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に、二男として生まれる[1][2][5]。幼少より漢学者橋健堂(加賀藩学問所「壮猶館」教授)に学んだ[1][2]

1873年明治6年)12月7日、12歳の時に、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三となる[1][2][5]。14、5歳から、健堂や橋一巴(健堂の父)の代理で、藩主・前田直行に漢学の講義をしたほどの秀才であった[1][2]。その後、健堂から漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となった[1]

1884年(明治17年)2月6日、こうとの間に、長男の健行を儲ける[1][5]。やがて、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子を連れて上京した健三は、東京市小石川区指ヶ谷町92番地(現・東京都文京区白山)に居住し学塾を開いた[1][4]

1888年(明治21年)、佐野鼎と養父・健堂が親しかった縁で共立学校(のちの開成中学校)に招かれた[1][2]。健三は漢文教諭として漢文倫理を教え、幹事に就任する[2]。妻・こうの死亡により、当時29歳の健三は1890年(明治23年)2月24日に、健堂の五女で16歳のトミ(こうの妹)を後妻とする[1]。トミとの間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女を儲けた[1][2][5]

1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わった健三は、1900年(明治33年)、田辺新之助を第4代校長に第二開成中学校神奈川県逗子町に開校された際、同校の幹事となる[6]1903年(明治36年)には、開成中学校に日本初の夜間中学・開成予備学校が田辺新之助により併設される(同校はのちの1936年(昭和11年)に校名を昌平中学と改称)。

1910年(明治43年)、第二開成中学校の分離独立に際して、開成中学校の第5代校長に就任する[1][注釈 1]。漢文の授業では、教科書として『四書五経』ではなく『蒙求』を使用した[2]。『蒙求』は養父の健堂も採用していた[1][注釈 2]

1915年(大正4年)、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし理事となった[2]。当時の寄付行為第5条には、3校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付して之を財団法人の財産とすることが謳われ、「この3校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている[7][2]

多年の功績により、健三は1923年(大正12年)2月、勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された[1][2]1928年(昭和3年)、開成中学校校長を辞職後は、夜間中学・開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽力する[1][2]1936年(昭和11年)4月18日、長男・健行(享年52)を病気で亡くす[1]

1944年(昭和19年)、四男の行蔵にその職を譲り[注釈 3]、1月に故郷の金沢に帰った健三は、同年12月5日に死亡。享年84[1][2]。健三の遺骨は、橋家の墓地がある野田山に納められた[8]

人物像

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開成中学校校長時代の健三の顔写真は、白い長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相で[2]、生徒からは「青幹あおかん」「漸々じえんじえん」「岩石がんじえき」と渾名をつけられていたという[7][2]。また、自分の名の「健三」を名乗る時はいつも「けんう」と濁らないで称していた[7]

学校経営者であった健三にとって、老朽化・狭隘化が著しい校舎の建物(当時、生徒たちは「豚小屋」と呼んでいた)の移転整備が課題であったが、学校側には土地も資金の当てもなかった[2]。そこで健三たち校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)は、窮状を詩文に託して早大教授で漢学者の桂湖邨に訴え[注釈 4]、桂はこれを前田利為侯爵に伝えため、1921年(大正10年)に前田家の所有地を格安で払い下げて貰えることになったという[2][注釈 5]。この場所は、現在の新宿文化センター一帯(新宿六丁目東大久保)である[2]

しかし、この土地に目をつけた東京市長後藤新平が、電車車庫の整備を計画し、学校側に譲渡を申し入れてくるが、健三は直ちにそれを拒否した[2]。開成の初代校長の高橋是清からも譲渡を勧められたが[注釈 6]、健三はそれも拒絶する[2]。しかしながら、関係者と相談を重ねるうちに考えを変え、市民のために東大久保の土地を譲ることになった[2]。そして、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手し、建設資金不足や関東大震災という難関を経て新校舎を竣工させた[2]

1941年(昭和16年)5月、長男・健行の死から5年後、健三は息子の親友であった歌人斎藤茂吉の家を訪ね、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した[2][8]。そのことが斎藤茂吉の日記に記されている[2][9][10]

橋健三の教え子には、娘の倭文重の夫となる平岡梓も教え子であったが、孫の三島由紀夫が、作家となり演劇の世界に入って知り合うことになる村山知義滝沢修中村伸郎芦原英了らは、橋健三の教え子だったという[11]。健三は学問のある厳格な先生で、「ギュウギュウやられたものだった」と芦原英了が述べている[12][11]。学校の水泳合宿が千葉で行なわれた時には、健三の「二人の美しいお嬢さん」(倭文重と重子の姉妹)がやって来て、芦原は彼女らが真紅のモダンな水着姿で海岸を散歩していたのに驚いたと語っている[12][11]

系譜

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橋家系図
 
 
 
 
 
往来
 
船次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋一巴
 
 
 
 
 
 
 
つね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
健堂
 
 
ふさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋健行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瀬川健三
 
 
雪子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋正男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トミ
 
 
橋健雄
 
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
より
 
 
橋行蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひな
 
 
倭文重
 
 
杉山瑤子
 
 
平岡威一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
 
平岡千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重子
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

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注釈

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  1. ^ 開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかである[2]
  2. ^ この『蒙求』は、清少納言から夏目漱石に至るまでの日本の文学者に影響を与えたとされる故事集である[2]
  3. ^ 行蔵は、横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)の銀行員で、上海やマニラの海外駐在員として働いていたが、帰国後に老父・健三が赤字経営の昌平中学に尽力する姿を見かねて、銀行から帰宅後に父の仕事を手伝っていた[2]岡山典弘によると、行蔵の顔写真は、面長でげじげじ眉毛が印象的で、その笑顔が三島由紀夫に似ているという[2]
  4. ^ 桂湖邨は、王陽明に関する論文『王詩臆見』などを著した漢学者。三島由紀夫が小説『奔馬』を執筆する際に藍本の一つとした『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった人物である[2]
  5. ^ 旧加賀藩主・前田本家第16代目当主(侯爵)の前田利為には、幕末期に橋家三代が仕えた。ちなみに、橋健三の孫・三島由紀夫の小説『春の雪』には、松枝侯爵家の別邸として、王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」が登場することになる[2]。「終南別業」は鎌倉の一万坪にあまる一つの谷をそっくり占める別邸で、モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸である[2]
  6. ^ 開成中学校の初代校長の高橋是清は、のちに第20代内閣総理大臣となり、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺された。三島由紀夫の小説『憂国』、『英霊の聲』は、二・二六事件を題材にとっている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈――橋家」(越次 1983, pp. 86–100)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」(研究11 2011, pp. 112–127)。岡山 2016, pp. 9–42に所収
  3. ^ 「明治38年」(42巻 2005, pp. 12–13)
  4. ^ a b 「母の周辺・橋家」(年表 1990, p. 15)
  5. ^ a b c d 「生誕以前」(日録 1996, pp. 7–13)
  6. ^ 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)
  7. ^ a b c 90年史 1961
  8. ^ a b 岡山典弘「三島文学に先駆けた橋健行」(三島由紀夫の総合研究、2011年11月11日・通巻第579号)。「第二章 三島由紀夫の先駆――伯父・橋健行の生と死」として岡山 2016, pp. 43–70に所収
  9. ^ 「日記 昭和16年5月11日、5月23日-30日、7月1日」。茂吉全集31 1974, pp. 283–379に所収
  10. ^ 「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」(北國新聞、2006年4月15日に掲載)
  11. ^ a b c 「第一章 作家の誕生まで――両親」(佐藤 2006, pp. 23–25)
  12. ^ a b 芦原英了「三島由紀夫という作家」(青年座 1955年10月)。佐藤 2006, p. 24

参考文献

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  • 開成学園90年史編纂委員会 編『開成学園九十年史』開成学園、1961年。NCID BN05032564 
  • 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820 
  • 安藤武 編『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年4月。NCID BN14429897 
  • 磯田光一 編『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』新潮社、1983年12月。ISBN 978-4106206207 
  • 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185 
  • 猪瀬直樹『ペルソナ――三島由紀夫伝』文藝春秋〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167431099 初版(文藝春秋)は1995年11月 NCID BN13365755
  • 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年11月。NCID BN00378721 
  • 岡山典弘『三島由紀夫の源流』新典社〈新典社選書 78〉、2016年3月。ISBN 978-4787968289 
  • 斎藤茂吉『斎藤茂吉全集第31巻 日記3』岩波書店、1974年10月。NCID BN00984506 
  • 佐藤秀明『三島由紀夫――人と文学』勉誠出版〈日本の作家100人〉、2006年2月。ISBN 978-4585051848 
  • 平岡梓『伜・三島由紀夫』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 978-4167162047 初版(文藝春秋)は1972年5月 NCID BN04224118。月刊誌『諸君!』1971年12月号-1972年4月号に連載されたもの。
  • 松本徹『三島由紀夫――年表作家読本』河出書房新社、1990年4月。ISBN 978-4309700526 
  • 松本徹; 佐藤秀明; 井上隆史 ほか 編『三島由紀夫と編集』鼎書房〈三島由紀夫研究11〉、2011年9月。ISBN 978-4907846855 

関連項目

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外部リンク

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