永井岩之丞
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 弘化2年(1845年)9月 |
死没 | 明治40年(1907年)5月25日 |
改名 | 鍵之丞(幼名)→尚忠(諱) |
別名 | 誠斎(号) |
戒名 | 瑞雲院殿尚忠日順大居士 |
墓所 | 東京都荒川区西日暮里の本行寺 |
官位 | 従四位勲三等 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 三好氏→永井氏 |
父母 | 父:三好長済、養父:永井尚志 |
兄弟 | 三好悌三郎、岩之丞、三好晋六郎 |
妻 | 高(松平頼位の三女) |
子 | 壮吉、平岡夏子(平岡定太郎妻)、亨、啓、繁、大屋敦、鐘、愛、千恵(横山英太郎妻)、清子、文子 |
永井 岩之丞(ながい いわのじょう)は、幕末の幕臣、明治期の裁判官(大審院判事)。三島由紀夫の曾祖父にあたる。
生涯
[編集]三好為三の子孫である700石取りの幕臣・三好長済(山城守幽雙)の次男として生まれ、旗本・永井尚志(玄番頭)の養子となる。
戊辰戦争では養父と共に蝦夷地へ脱走し、函館の五稜郭に立て籠もって戦った。
明治5年(1872年)7月7日、常陸宍戸藩主・松平頼位の三女・鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。
明治6年(1873年)7月、司法省十等出仕を命ぜられる。明治13年(1880年)5月1日、判事。明治16年(1883年)1月、控訴院判事。明治27年(1894年)4月、大審院判事。
明治40年(1907年)5月25日、下谷区上野桜木町の自宅で死去。享年63。
栄典
[編集]人物
[編集]六男の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、父・岩之丞について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事は行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大の教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[3]と語っている。
家族・親族
[編集]- 父・三好長済(山城守幽雙)(幕臣)
- 養父・永井尚志 (旗本・玄番頭)
- 長男・永井壮吉(海軍中佐)
- 二男・永井亨(経済学博士、人口問題研究所所長)
- 三男・永井啓(第一銀行監査役)
- 四男・永井繁(東洋リノリューム社長)
- 五男・高校生の時に急逝(京都三高の学生時、スペイン風邪で死去)
- 六男・大屋敦(住友本社理事、日銀政策委員)
- 長女・夏子(なつ)(内務官僚・平岡定太郎に嫁ぐ)
- 二女・鐘(海軍技術中将・磯崎清吉の妻)
- 三女・愛(警察部長・豊沢弥二の妻。弥二は三島通庸の二男)
- 四女・順(電波研究所長・横山英太郎に嫁ぐ)
- 五女・清子(田中千吉の妻)
- 六女・文子(医師・渡辺隣二の妻)
- 孫
- 壮吉の子:多喜子(衆議院議員・岡田五郎に嫁ぐ)、稔子、永井隆
- 夏子(なつ)の子:平岡梓(農商務官僚)
- 亨の子:永井良(明石合金)、永井弘(日本通運健保常務理事)、久子、志子、信子、保子、礼子
- 啓の子:細谷省吾(娘・悠が伊勢丹社長・小菅丹治に嫁ぐ)、永井彰(新家電工業取締役)、永井保(彫刻家)、永井治(石川島播磨設計課長)
- 繁の子:恵美子、永井基(住友軽金属常務)、永井三明(同志社大学教授)
- 敦の子:大屋宏(住友金属鉱山取締役)、純子、大屋薫(東芝音楽工業邦楽部長)、千枝子、大屋韶(日本板硝子ガラス課長)
- 鐘の子:磯崎隆吉(海軍造船少将)、磯崎勉(東急自動車社長)、磯崎叡(国鉄総裁)、京子、磯崎迪(三菱商事鹿児島支店長)、澄子
- 愛の子:加代子、豊沢通明
- 順の子:喜美(住友銀行専務取締役・伊部恭之助に嫁ぐ)、秀
- 清子の子:田中泰(互栄酵素代表者)、博子、静子、和子
- 文子の子:渡辺篤二(農林省食品栄養部長)、渡辺文治(東芝音楽工業)、久子、重子
- 曾孫・平岡公威(作家、筆名:三島由紀夫)、平岡美津子、平岡千之(外交官)、その他
系譜
[編集]- 永井岩之丞系図2