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同年、[[第35回衆議院議員総選挙]]に[[長野県第3区_(中選挙区)|旧長野県第3区]]から[[無所属]]で出馬。苦戦が予想されたものの、下馬評を覆して約6万票を獲得し、初当選を果たした(当選同期に[[佐藤信二]]・[[保利耕輔]]・[[畑英次郎]]・[[麻生太郎]]・[[小里貞利]]・[[岸田文武]]・[[白川勝彦]]・[[丹羽雄哉]]・[[亀井静香]]・[[吹田あきら]]・[[亀井善之]]・[[船田元]]らがいる)。以後8期連続当選。初当選後、[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の追加公認を受け、大蔵省出身の[[福田赳夫]]が率いる紀尾井会<ref>現在の[[清和政策研究会]]の旧称である[[清和会]]の名は、福田の首相退陣後につけられたものである。</ref>(福田派)に入会。早くから政策通で知られ、自民党では当選3回で[[政務次官]]、当選4回で部会長を務めるのが慣例であったが、宮下は当選3回で国防部会長、財政部会長を務め、政務次官を経験しないまま、後には閣僚を務めている。[[1989年]]に[[三塚博]][[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]の下で政調副会長に就任し、三塚政調会長の下での仕事ぶりが評価されて、[[1991年]]に[[宮澤内閣]]で[[防衛庁長官]]に任命された。防衛庁長官在任中は[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO協力法]]の成立に尽力する。
同年、[[第35回衆議院議員総選挙]]に[[長野県第3区_(中選挙区)|旧長野県第3区]]から[[無所属]]で出馬。苦戦が予想されたものの、下馬評を覆して約6万票を獲得し、初当選を果たした(当選同期に[[佐藤信二]]・[[保利耕輔]]・[[畑英次郎]]・[[麻生太郎]]・[[小里貞利]]・[[岸田文武]]・[[白川勝彦]]・[[丹羽雄哉]]・[[亀井静香]]・[[吹田]]・[[亀井善之]]・[[船田元]]らがいる)。以後8期連続当選。初当選後、[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の追加公認を受け、大蔵省出身の[[福田赳夫]]が率いる紀尾井会<ref>現在の[[清和政策研究会]]の旧称である[[清和会]]の名は、福田の首相退陣後につけられたものである。</ref>(福田派)に入会。早くから政策通で知られ、自民党では当選3回で[[政務次官]]、当選4回で部会長を務めるのが慣例であったが、宮下は当選3回で国防部会長、財政部会長を務め、政務次官を経験しないまま、後には閣僚を務めている。[[1989年]]に[[三塚博]][[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]の下で政調副会長に就任し、三塚政調会長の下での仕事ぶりが評価されて、[[1991年]]に[[宮澤内閣]]で[[防衛庁長官]]に任命された。防衛庁長官在任中は[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO協力法]]の成立に尽力する。


[[1994年]]、[[村山内閣]]の[[桜井新]][[環境庁長官]]が[[第二次世界大戦]]における日本による侵略を否定する主旨の発言を行い辞任に追い込まれたため、後任の環境庁長官に任命された。[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]では、[[小選挙区比例代表並立制]]の導入に伴い新設された[[長野県第5区]]から出馬。[[新進党]]公認で出馬した元[[科学技術庁長官]]の[[中島衛]]を破り、7選。[[1998年]]、[[小渕内閣]]で[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]に任命され、[[小渕内閣_(第1次改造)|小渕第1次改造内閣]]まで務める。
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2020年7月25日 (土) 04:13時点における版

宮下 創平
みやした そうへい
生年月日 (1927-11-10) 1927年11月10日
出生地 長野県上伊那郡伊那里村(現伊那市
没年月日 (2013-10-07) 2013年10月7日(85歳没)
死没地 東京都
出身校 陸軍士官学校
旧制松本高等学校
東京大学法学部
前職 国家公務員大蔵省
所属政党 自由民主党
親族 長男・宮下一郎

日本の旗 第82代 厚生大臣
内閣 小渕内閣
小渕第1次改造内閣
在任期間 1998年7月30日 - 1999年10月5日

日本の旗 第31代 環境庁長官
内閣 村山内閣
在任期間 1994年8月14日 - 1995年8月8日

日本の旗 第51代 防衛庁長官
内閣 宮澤内閣
在任期間 1991年11月5日 - 1992年12月12日

選挙区旧長野3区→)
長野5区
当選回数 8回
在任期間 1979年 - 2003年
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宮下 創平(みやした そうへい、1927年11月10日 - 2013年10月7日)は、日本の政治家、大蔵官僚厚生大臣第82代)、環境庁長官第31代)、防衛庁長官第51代)、衆議院議員(8期)等を歴任した。

長男は衆議院議員の宮下一郎

概要

長野県上伊那郡伊那里村(現伊那市長谷市野瀬)の農家に生まれる。伊那中学校(現伊那北高等学校)から陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に進むが、第二次世界大戦敗戦により旧制松本高等学校に入学。1953年東京大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。入省同期に、津島雄二吉野良彦水野繁(元国税庁長官)、大場智満(元財務官)、宮本保孝(元銀行局長)らがいる。大蔵省では銚子税務署長を皮切りに大蔵省主計官保利茂内閣官房長官秘書官、主計局総務課長、東京税関長、財務研修所長、大蔵省大臣官房審議官等を歴任し、1979年に退官。

同年、第35回衆議院議員総選挙旧長野県第3区から無所属で出馬。苦戦が予想されたものの、下馬評を覆して約6万票を獲得し、初当選を果たした(当選同期に佐藤信二保利耕輔畑英次郎麻生太郎小里貞利岸田文武白川勝彦丹羽雄哉亀井静香吹田愰亀井善之船田元らがいる)。以後8期連続当選。初当選後、自由民主党の追加公認を受け、大蔵省出身の福田赳夫が率いる紀尾井会[1](福田派)に入会。早くから政策通で知られ、自民党では当選3回で政務次官、当選4回で部会長を務めるのが慣例であったが、宮下は当選3回で国防部会長、財政部会長を務め、政務次官を経験しないまま、後には閣僚を務めている。1989年三塚博政務調査会長の下で政調副会長に就任し、三塚政調会長の下での仕事ぶりが評価されて、1991年宮澤内閣防衛庁長官に任命された。防衛庁長官在任中はPKO協力法の成立に尽力する。

1994年村山内閣桜井新環境庁長官第二次世界大戦における日本による侵略を否定する主旨の発言を行い辞任に追い込まれたため、後任の環境庁長官に任命された。1996年第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い新設された長野県第5区から出馬。新進党公認で出馬した元科学技術庁長官中島衛を破り、7選。1998年小渕内閣厚生大臣に任命され、小渕第1次改造内閣まで務める。

1998年、同年の自由民主党総裁選挙に端を発した三塚派内の森喜朗と自身の当選同期である亀井静香の対立においては森を支持し、森の強い推挙により三塚派事務総長に就任。亀井らは森の発言力の増大に反発し、同年9月に三塚派を離脱した(同年12月、森は三塚から派閥を継承)。2003年第43回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退。地盤は長男の宮下一郎が引き継いだ。引退後は公益財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会の会長を務めていた[2]

2013年10月7日、東京都内の病院で死去[3]。85歳没。

脚注

  1. ^ 現在の清和政策研究会の旧称である清和会の名は、福田の首相退陣後につけられたものである。
  2. ^ (公財)千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会役員、評議員、顧問、相談役
  3. ^ 行政・政治 : 宮下創平氏が死去 権兵衛トンネル開通に尽力 長野日報 2013年10月10日

参考文献

外部リンク


議会
先代
野中英二
日本の旗 衆議院決算委員長
1988年 - 1989年
次代
中村靖
公職
先代
小泉純一郎
日本の旗 厚生大臣
第82代:1998年 - 1999年
次代
丹羽雄哉
先代
桜井新
日本の旗 環境庁長官
第31代:1994年 - 1995年
次代
大島理森
先代
池田行彦
日本の旗 防衛庁長官
第51代:1991年 - 1992年
次代
中山利生