グラハム・ヒル
グラハム・ヒル Graham Hill OBE | |
---|---|
1969年撮影 | |
基本情報 | |
フルネーム |
ノーマン・グラハム・ヒル Norman Graham Hill |
国籍 |
イギリス ( イングランド) |
出身地 | 同・ロンドン・ハムステッド |
生年月日 | 1929年2月15日 |
死没地 |
イングランド 同・グレーター・ロンドン・アークリー |
没年月日 | 1975年11月29日(46歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1958-1975 |
所属チーム |
'58-'59,'67-'70 ロータス '60-'66 BRM '71-'72 ブラバム '73 シャドウ '74-'75 ローラ '75 ヒル |
出走回数 | 179 (176スタート) |
タイトル | 2 (1962,1968) |
優勝回数 | 14 |
表彰台(3位以内)回数 | 36 |
通算獲得ポイント | 270 (289) |
ポールポジション | 13 |
ファステストラップ | 10 |
初戦 | 1958年モナコGP |
初勝利 | 1962年オランダGP |
最終勝利 | 1969年モナコGP |
最終戦 | 1975年モナコGP |
ノーマン・グラハム・ヒル(Norman Graham Hill, OBE 1929年2月15日 - 1975年11月29日) は、イギリスのレーシングドライバーであり、1962年・1968年のF1チャンピオン。1996年のチャンピオンであるデイモン・ヒルは実子。
Grahamの発音 [gréɪəm] はカタカナ表記にすれば「グレイアム」に近いが、日本では現役活躍時からほぼグラハムと表記されており、本稿でもそれに従う。
人物
[編集]2023年現在、F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レースの「世界3大レース」全てでの優勝経験を持つ唯一のドライバーである[1][2]。特にモナコGPには滅法強く、当時としては最多勝となる通算5勝をあげ、「ミスター・モナコ」と呼ばれた[3][2]。1990年代以降の日本では「モナコ・マイスター」と呼び、ヒル父子は親子でF1チャンピオンを獲得した初の例となった[注釈 1]。
裕福な階級出身ではなく、本格的にレース活動を始めたのは20代半ばで、当時としてもF1ドライバーのレースキャリア開始時期としては比較的遅い。同時期に活躍したジム・クラークが「内気な天才」とみなされる一方、グラハムは「努力と意思の力」で実績を積み上げてきたドライバーと認識されて親しまれ[4]、社交的なその性格もあって、現役当時にイギリスの愛好家を中心に幅広い人気を得た[4]。
経歴
[編集]ロンドンのハムステッドで生まれる[5]。父親は株式仲介人で、それほど裕福ではない中流家庭で育った[6][5]。
ヘンドン・テクニカルカレッジで工学を3年間学んだ後、スミス社で技師として務め、この間にミッドランドの大学にも通ってさらに専門的に工学を学んだ[6]。この頃にオートバイを買い、趣味として乗り回すようになる[6]。
1950年、21歳の時にイギリス海軍で2年間の兵役に就いた[6][7][8]。海軍ではマイノーター級軽巡洋艦スウィフトシュアに乗艦し機関室の技師としての任務に就き、兵役終了時までに兵曹(PO)に昇進した[7]。
兵役後はスミス社に復帰したが、1953年に「ブランズ・ハッチで1周5シリングでF3カーを走らせることができる」という雑誌広告を見つけ、興味本位で1ポンド支払い4周走ったことでレースに魅せられる[9][2][注釈 2]。スミス社を退職したヒルは、失業手当を受けつつ、レーシングスクールのメカニックとなり、整備を無償で引き受ける代わりにその学校の車両を使ってレースへの出場を始めた[7][2]。
いくつかのレースに出場する間にコーリン・チャップマンと知り合い、1954年にロータスにメカニックとして加入[6][7][2]。ほどなくして、ロータスのドライバーとしてレースに出走するようになり[注釈 3]、1958年、29歳の時にチーム・ロータスからF1デビューを果たした[注釈 4]。2年間在籍したが、チームもF1参戦を始めたばかりであり戦力も乏しく、この際には芳しい成績を残すことは出来なかった[2]。
BRM時代
[編集]1960年にはBRMに移籍。当初は目立った成績を残していなかったが、1962年に開幕戦オランダGPで初優勝。最終的にシーズン4勝を挙げ、ロータスのクラークを破って、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめた。
その後もリッチー・ギンサーとの名コンビで活躍し、クラークと並び当時のF1界の2大スタードライバーと呼ばれた。1964年は最終戦までチャンピオン争いがもつれたが、ポイントリーダーのヒルはフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われた。フェラーリが故意にぶつけたのではという報道に対し、ヒルは皮肉混じりに「わざとではない、ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」とコメントした。
初優勝の1962年からは1965年まで、毎シーズン2勝以上を挙げる活躍を見せていたが、新加入のジャッキー・スチュワートに迫られる場面が増えていた。1966年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、6シーズンぶりの未勝利に終わってしまう。ヒルは成功を共にしたBRMを離れ、ライバルチーム、ロータスへの移籍を決意する。
ロータス時代
[編集]1967年のロータスは、クラークとヒルの豪華なジョイント・ナンバー・ワン体制となった。当時クラークは税金対策でパリに居住していたので、ロータス・49の開発テストを任されたが、フォード・コスワース・DFVエンジンの初期トラブルやZF製ギアボックスの低信頼性のため7回リタイアし、49では2戦しか完走できず、1度も優勝できずに(他にロータス・33でモナコGP2位入賞)、ヒルはクラークの陰に隠れてしまった。
1968年はクラークがF2参戦中に事故死する事態に、ヒルは自らの活躍でクラークの死に意気消沈していたチームスタッフを奮い立たせた。この年3勝を挙げ、6年ぶりに自身2度目のチャンピオンを獲得した。
しかし、1969年は新加入のヨッヘン・リントに速さで劣り、またしてもチームメイトの陰に隠れる形となる。第3戦モナコGPでは、自身5度目の同GP優勝を記録したが、これは最終的に自身最後の優勝となった。リントが初優勝した第10戦アメリカGPでは、ヒルはエンジン再始動時のアクシデントで脚を骨折する重傷を負ってしまう[10]。
プライベーターでの参戦
[編集]前年の負傷がキャリアの転機となり、1970年よりロブ・ウォーカー・レーシング・チームのプライベート・ロータスで走ることになったが、かつての速さをとり戻すことはなかった。これ以後は優勝はおろか、表彰台に昇ることも無かった。やがて、その熱意は自らのチームを立ち上げ、自ら運転する「オーナー・ドライバー」の夢へと向かうことになる。
チーム設立
[編集]1973年に、自分のチームであるエンバシー・ヒル (Embassy Hill) を結成。初年度はシャドウ、翌1974年はローラからシャシーを購入して参戦したが、自らのドライビングによる第7戦スウェーデンGP6位入賞以外は結果を残せずに終わった。
1975年の第4戦スペインGPからは、念願の自社製シャシーであるヒル・GH1で参戦を開始した。しかし競争力に欠け、過去5勝を記録したモナコGPで予選落ちを喫した。このレースを最後にF1ドライバーを引退し、監督業に専念した。その後は、新鋭のトニー・ブライズとアラン・ジョーンズの頑張りにより、チームはこの年3ポイントを獲得した。
ヒルはF1では1958年から1975年にかけて176戦でスタートを記録した(予選落ちしたレース等を含めたエントリー記録では179戦を記録)。この最多出走記録は、1989年ブラジルグランプリでリカルド・パトレーゼが177戦目のレーススタートを果たすまで誰にも破られることはなかった[注釈 5]。
事故死
[編集]1975年シーズン終了後の11月、ヒルチームはフランスのポール・リカール・サーキットで翌シーズン用のヒル・GH2のテストを行った。そのテストからの帰途、11月29日21時30分頃、ヒル自ら操縦していた軽飛行機は、霧のかかったエルストゥリー飛行場に着陸を試みた際に、飛行場の3海里(5.6km)東に位置するアークリーのゴルフ場に墜落した[11][12][13]。
墜落の結果、搭乗していた6名は全員死亡し、同乗していたメインドライバーのトニー・ブライズ、チームマネージャーのレイ・ブリンブル、GH2の設計者であるアンディ・スモールマンらを含むチームのメンバーたちと共に、ヒルは帰らぬ人となった。事故原因について、事故調査局がまとめた事故報告書の結論では、この事故に機体の異常等は認められず、また着陸に向けた航空管制にも不備は確認できず、(断定はできないものの、としつつ)パイロットが霧で視界不良の中で着陸を試み、飛行場までまだ距離があるにもかかわらず尚早に高度を下げていったことに原因があった可能性を示唆している[11]。
ヒルの葬儀は聖オルバンズ大聖堂で行われ、遺体はハートフォードシャー州シェンリーの聖ボトルフ墓地に葬られた。
事故の影響
[編集]- 1976年から使用されるはずだったGH2は、1975年に行われた2回のテストで良好なタイムを記録しており、チームは翌年に期待を抱いていたが[13]、この事故で主要なメンバーを失ったことで、チームは消滅した。イギリス人の若手ドライバーとして期待の星だったトニー・ブライズが失われたことはファンを落胆させた[4][14]。
- 事故に際して、グラハム・ヒルは自身の飛行免許と所有していた墜落機の登録状況に不備を抱えており[11]、これを理由に遺族であるヒル家は保険金の支払いを拒否された[15][16]。ヒル家は同乗者遺族への補償金支払いを私財から行うことになり、窮乏生活を強いられることになる。この時、長男デイモンは15歳で、後に彼も父と同様、レーサーを志す事となった[注釈 6]。
ドライビングスタイル
[編集]スターリング・モスは1963年にヒルを評し、ヒルは車両の機構への造詣も深い「メカニック・ドライバー」であり、今後のドライバーの理想となるべき人物だと述べている[17][18][注釈 7]。そのドライビングスタイルは正確かつスムースで、無茶な走り方もせず、速い車を与えられればその性能を十全に引き出して走ることができるという、当時としては得難い能力を持っていた[17]。反面、車の限界を超えるような無理な走りはしないため、もしもヒルの車両よりも速い車両があれば、そのドライバーはヒルを破ることが可能だろう[17][18](その条件を満たさない限りヒルを上回ることはできない)、とも述べている。
コーナリングは、クリッピングポイントをコーナー奥に取る「レイト・エイペックス」を特徴としていた[6][10]。当時の常識では、クリッピングポイントを奥に取ればコーナー立ち上がりの加速が遅くなると考えられていたが、ヒルは立ち上がりも素早く、コーナリングスピードが速いという不思議なテクニックを持っていた[6][注釈 8]。これはロータス時代のチームメイトで「アーリー・エイペックス」を特徴としていたジム・クラークとは対照的なドライビングスタイルだった[19][注釈 9]。BRMなどでチームメイトだった若き日のジャッキー・スチュワートも他の大部分のドライバーと比較して奥にクリッピングポイントを取っていたが、ヒルのそれは、同じ車のスチュワートと比較しても、より奥にクリッピングポイントを取っており、さらに、よりアウト側を旋回し、脱出もよりアウト側のラインを使うというものだった[20]。
エピソード
[編集]- 人物
- 口ひげを蓄えた優雅な風貌や紳士的な物腰は、かつてモータースポーツが貴族の趣味であった時代の「ジェントルマン・ドライバー」を思わせた。デイモンも幼い頃、その姿に憧れたと語っている。
- 当時のF1ドライバーの中にあって`50年代のハリウッドスター的風貌は、渋い二枚目としてモータースポーツにさして興味のない人達からも人気を博し、ドライバー本人が広告塔としてメディアに取り上げられた最初の例となった。ヒル以降、F1ドライバーもサッカーなどの他のプロスポーツ選手の様にスターとしての知名度が上がってゆくことになる。
- グランプリドライバー本人が多数出演する映画『グラン・プリ』でも、他のドライバー達がパドックでうろつく姿やマシンに乗りこむカットのみが使われた中、写真写りがよく既にメディアでも取り上げられていたヒルのみ台詞付きで登場する。
- トレードマークとなった口ひげや襟足の長い髪型は兵役の終わり頃に、「口ひげは全て剃るか、全て伸ばした状態(full beard)にする」ことのみ認めていた海軍への反感から始めたものである[8]。
- 紳士的な風貌の一方で、ひょうきんな素顔を持つ人だったという。また落ち着いた風貌とは裏腹に、激高して怒鳴り散らす気分屋としても有名だった。
- 初めてインディアナポリスを訪れた際に、印象に残ったことを質問され「トイレにドアが無いんだね、あれには驚いた。まぁ、みんなが見たいなら個人的にはあれでもいいけどね(笑)」と回答。翌日の夜にはインディアナポリスのすべてのトイレにドアが取り付けられた[21]。
- それまで、マシンの整備ミスがあっても「担当のメカニックが叱られるから」という理由でチーム監督のチャップマンには黙っている優しいジム・クラークと仕事をしてきたロータスのメカニックたちは、翌シーズンにヒルがロータスへ移籍してくることを聞き、恐怖を覚えたという。
- 息子デイモンの話した逸話で、「1950年代の父の日記が出てきて、それには、グリッドに着いた私のロータスから燃料が漏れている。ウチのメカがぐるりとマシンを取り囲んだ。そうしないと、今チャップマンが燃料を継ぎ足しているのがオフィシャルにバレちまうからな! これで完走できることを祈った」と書いてあった。もう時効だよね(笑)と1993年に話している[21]。
- 1966年のインディアナポリス500で優勝して得た賞金で、ヒルは小さなセスナを購入し、その後、(後に墜落することとなる)パイパー・PA23(機体番号・N6645Y)を購入した[22]。この飛行機はふだんはエルストゥリー飛行場に駐機され、ヒル自らの操縦で常用されていた[22]。
- 家族
- 父親は機械関係とは縁遠く、車を運転したこともないような人物だった[7]。一方、母親は10代からトライアンフの250㏄オートバイに乗っていた[7]。
- 1955年に元ボート競技選手のベティ・シャブルックと結婚[23][24]。長女ブリジット、デイモン、次女サマンサの3子をもうける。
- ヘルメット
- 若き日のヒルは8人乗りのボート競技に打ち込んでおり、1949年頃にオリオール・ローイング・クラブのジュニアチームに加入し、1952年から1954年にかけてはロンドン・ローイング・クラブに選手として所属していた[25]。ヒルが四輪レースで着用したヘルメットのデザインはロンドン・ローイング・クラブの会員用の帽子を模したもので、黒に近い濃紺(ネイビー)地に、オールを表現した8本の白いラインを入れたデザインになっている[8]。このデザインは息子デイモン、孫ジョシュアも引継ぎ、同じデザインのヘルメットを着用している。
- モナコ
- チャップマンとの出会い
- コーリン・チャップマンと出会ったのは、1954年8月にヒルがブランズハッチでレースに参戦した帰りの出来事だった[6]。ロンドンに帰る金の持ち合わせがなかったヒルはヒッチハイクして帰ることにし、たまたま通りかかって止まったのはチーム・ロータスの車だった[6]。その車に乗っていたのはチャップマンとマイク・コスティンで、どちらもヒルとは面識を持っていなかったが、ヒルがあまりにも親しげに乗り込んできたため、コスティンはチャップマンの友人だろうと思い、チャップマンはコスティンの知り合いなのだろうと考えていたという[6]。この時、ヒルは何食わぬ顔でチャップマンと食事を共にし、チャップマンのメカニックとなることを決意し、ちょうどチームが飛躍しようとしていた時期だったことからチャップマンもヒルを雇うことにし[6]、これがその後も続く関係の端緒となった。
- 交友関係
- 労働者階級の出身だが、貴族階級の友人も多かった。1975年11月のポール・リカールでのテストには、そんな友人の一人で、写真家のスノードン伯も撮影のため同行していた[26]。スノードン伯はヒル一行と同じ飛行機で帰路に就く予定だったが、テストの時点で充分な枚数の写真を撮影していたため、同行を辞退し難を逃れた[26]。
- その他
- 1999年、ノーサンプトンシャー州シルバーストンにある英国レーシング・ドライバーズ・クラブ(BRDC)からグラハムのブロンズ像が盗まれる事件が起こった。8年後の2007年末、ボルトン、リトルリバーのビヴァリー・ロードの家でこの像が発見されたとき、当時のBRDC会長は息子デイモンであった。後日、像がBRDCに戻った際、彼はこの件について「BRDCのクラブハウスにこの胸像が戻ってきたことは格別だ」と述べ、「レーシング・ドライバーとしても、チャンピオンとしても、彼(グラハム・ヒル)はとても特別で、感動を与えることができる人物だった。警察が銅像を追跡し、ふさわしい場所にやっと取り戻してくれたことは素晴らしい」と語った[27]
レース戦績
[編集]F1
[編集]USAC・チャンピオンシップ
[編集]年 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1963年 | TRE | INDY DNQ |
MIL | LAN | TRE | SPR | MIL | DUQ | ISF | TRE | SAC | PHX | - | 0 | ||||||||||||||||
1966年 | PHX | TRE | INDY 1 |
MIL | LAN | ATL | PIP | IRP | LAN | SPR | MIL | DUQ | PHX | TRE | SAC | PHX | - | 0 | ||||||||||||
1967年 | PHX | TRE | INDY 32 |
MIL | LAN | PIP | MOS | MOS | IRP | LAN | MTR | MTR | SPR | MIL | DUQ | ISF | TRE | SAC | HAN | PHX | RIV | - | 0 | |||||||
1968年 | HAN | LVG | PHX | TRE | INDY 19 |
MIL | MOS DNQ |
MOS | LAN | PIP | CDR | NAZ | IRP | IRP | LAN | LAN | MTR | MTR | SPR | MIL | DUQ | ISF | TRE | SAC | MCH | HAN | PHX | RIV | - | 0 |
1969年 | PHX | HAN | INDY Wth |
MIL | LAN | PIP | CDR | NAZ | TRE | IRP | IRP | MIL | SPR | DOV | DUQ | ISF | BRN | BRN | TRE | SAC | KEN | KEN | RIV | - | 0 |
インディアナポリス500
[編集]
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タスマンシリーズ
[編集]年 | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | ランク | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1964年 | ブラバム・BT3 | LEV | PUK | WIG | TER | SAN | WAR 4 |
LAK | LON 1 |
6位 | 12 |
1965年 | ブラバム・BT11A | PUK 1 |
LEV | WIG | TER | WAR 5 |
SAN Ret |
LON 4 |
7位 | 14 | |
1966年 | BRM・P261 | PUK 1 |
LEV | WIG | TER | WAR 2 |
LAK 1 |
SAN (3) |
LON 2 |
2位 | 30 (34) |
1967年 | ロータス・48 | PUK | WIG | LAK | WAR Ret |
SAN | LON | NC | 0 | ||
1968年 | ロータス・49T | PUK | LEV | WIG | TER | SUR 2 |
WAR 2 |
SAN 3 |
LON 6 |
4位 | 17 |
1969年 | PUK Ret |
LEV Ret |
WIG 2 |
TER 2 |
LAK 4 |
WAR 11 |
SAN 6 |
5位 | 16 |
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合 順位 |
クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1958年 | チーム・ロータス | クリフ・アリソン | ロータス・XV クライマックス | S2.0 | 3 | DNF | DNF |
1959年 | デレク・ジョリー | 119 | DNF | DNF | |||
1960年 | ポルシェKG | ジョー・ボニエ | ポルシェ・718/4 RS | 191 | DNF | DNF | |
1961年 | ノース・アメリカン・レーシング・チーム | スターリング・モス | フェラーリ・250 GT GWB | GT3.0 | 121 | DNF | DNF |
1962年 | デイヴィッド・ブラウン・オーガナイゼーション | リッチー・ギンサー | アストンマーティン・DP212 | Exp 4.0 | 78 | DNF | DNF |
1963年 | オーウェン・レーシング・オーガナイゼーション | リッチー・ギンサー | ローヴァー・BRM | ACO Prize | 310 | (8位)* | (1位)* |
1964年 | マラネロ・コンセッショネアーズ | ジョー・ボニエ | フェラーリ・330P | P4.0 | 344 | 2位 | 2位 |
1965年 | オーウェン・レーシング・オーガナイゼーション | ジャッキー・スチュワート | ローヴァー・BRM | P2.0 | 284 | 10位 | 2位 |
1966年 | アラン・マン・レーシング | ブライアン・ミューア | フォード・GT40 Mk.II | P7.0 | 110 | DNF | DNF |
1972年 | エキップ・マトラ・シムカ・シェル | アンリ・ペスカロロ | マトラ・シムカ MS670 | S3.0 | 344 | 1位 | 1位 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 2018年シーズン終了時点までで、親子でF1チャンピオンを獲得した例はヒル父子とロズベルク父子(ケケ、ニコ)の2例だけである。
- ^ ヒルが四輪の運転免許を取得したのはこの出来事の後である[2]。
- ^ 当時のロータスは小さな組織であり、従業員に過ぎないヒルでもそうした機会を得ることができた[2]。
- ^ チーム・ロータスのF1参戦開始時のドライバーだった。
- ^ パトレーゼ以前にジャック・ラフィットが1986年イギリスグランプリで決勝出走176戦で並び、エントリー数では180戦となり上回っている。ラフィットはこのレースのスタート直後に起こった事故で負った骨折により引退を余儀なくされ、結果的にヒルの記録を抜くことはできなかった。
- ^ デイモンは自伝の中で、15歳の時に父が死去するという出来事がもしなかったら、自分が父と同じ道を辿ることはなかったのではないだろうか、と語っている[8]。
- ^ モスは「メカニック・ドライバー」として、ジャック・ブラバム、ブルース・マクラーレンらの名も挙げているが、彼らと比較してもヒルを第一人者として筆頭に挙げている[17][18]。
- ^ 当時としては、不思議なテクニックだった。クリッピングポイントを奥に取るからといって減速(ブレーキ)の開始が遅いとは限らない点に留意を要する。
- ^ クラークはファーストイン・ファーストアウトの独特なテクニックを持っていた[19]。
出典
[編集]- ^ “Graham Hill and the Triple Crown (1) – A winless nine-year stretch at the 24 Hours” (英語). Hear The Boat Sing (2017年5月11日). 2019年9月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Gerald Donaldson. “HALL OF FAME: Graham Hill” (英語). Formula One official website. 2019年9月29日閲覧。
- ^ “CIRCUITS: MONACO” (英語). Inside F1, Inc.. 2017年6月19日閲覧。
- ^ a b c Graham Moggipaldi (2008年12月2日). “From the Vault: motor racing legend Graham Hill killed in a plane crash” (英語). ガーディアン(電子版)・Guardian Classic. 2019年9月29日閲覧。
- ^ a b Hunting People(Davies 1995)、「Graham Hill」
- ^ a b c d e f g h i j k オートスポーツ 1966年7月号(No.12)、「グラハム・ヒル物語」(久保正明) pp.96–100
- ^ a b c d e f Graham Moggipaldi (2012年5月21日). “Graham Hill – The Man They Called “Mister Monaco”” (英語). BadgerGP.com. 2019年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月29日閲覧。
- ^ a b c d e Watching the Wheels(Hill 2016)、「1 » THE LEGEND OF GRAHAM HILL」
- ^ Bas Naafs (2017年). “Graham Hill: a portrait” (英語). Drivetribe. 2019年9月29日閲覧。
- ^ a b オートスポーツ 1970年3月号(No.59)、「回復したグラハム・ヒルの近況」(Araldo Crollalanza) pp.40–42
- ^ a b c P J Bardon, Accidents Investigation Branch, Department of Trade (1976年9月29日). “Piper PA 23-250 Turbo Aztec 'D' N6645Y Report on the accident at Arkley golf course, Arkley, Hertfordshire, on 29 November 1975. 3. Conclusions” (英語). GOV.UK. Her Majesty's Stationery Office. 2019年9月25日閲覧。
- ^ Accidents Investigation Branch, Department of Trade (1976年9月29日). “Piper PA 23-250 Turbo Aztec 'D' N6645Y Report on the accident at Arkley golf course, Arkley, Hertfordshire, on 29 November 1975. Appendix B” (英語). GOV.UK. Her Majesty's Stationery Office. 2019年9月29日閲覧。
- ^ a b Paul Landry (2019年9月25日). “Embassy Hill” (英語). Retro GP. 2019年9月29日閲覧。
- ^ Nigel Roebuck. “Tony Brise, Britain's lost champion” (英語). Motor Sport Magazine. p. 40. 2019年9月29日閲覧。
- ^ Brian Viner (1999年3月3日). “Motor racing: Hill driven on by quest for true respect” (英語). インデペンデント (電子版). 2019年9月25日閲覧。
- ^ Watching the Wheels(Hill 2016)、「7 » THE ACCIDENT」
- ^ a b c d 命ぎりぎり(モス / 橋本1969)、p.122
- ^ a b c オートスポーツ 1967年1月号(No.18)、「現代トップ・ドライバーあらかると」 pp.109–111
- ^ a b オートスポーツ 1966年5月号(No.10)、「来日した世界チャンピオン ジム・クラークの2日間」(久保正明) pp.94–98
- ^ オートスポーツ 1966年11月号(No.16)、「インディ・マシンが描くスピードの理論値とコーナリングの実際」 pp.20–21
- ^ a b デイモン・ヒル 大いなるステップ F1速報 テスト情報号 60-65頁 ニューズ出版 1993年2月12日発行
- ^ a b Watching the Wheels(Hill 2016)、「4 » THE GARDEN OF EDEN: MILL HILL」
- ^ “Bette Hill (née Shubrook) – Rowing Story” (英語). Rowing Story. 2019年9月25日閲覧。
- ^ David Tremayne (2017年12月12日). “Bette Hill: Formidable driving force behind F1 champions Graham Hill and Damon Hill” (英語). インデペンデント (電子版). 2019年9月25日閲覧。
- ^ “Graham Hill: English Gentleman, Oarsman and King of Monaco” (英語). Hear The Boat Sing (2014年5月9日). 2019年9月29日閲覧。
- ^ a b "Lord Snowdow missed Hill death flight". The Times (英語). No. 59567. London. 2 December 1975. col B, p. 3.
- ^ グラハム・ヒルの胸像、クラブに戻る - F1通信・2008年1月25日
参考資料
[編集]- 書籍
- Stirling Moss; Ken W. Purdy (1963). All But My Life. E. P. Dutton & Co.. ASIN B0000CLT0D
- スターリング・モス 著、橋本茂春 訳『命ぎりぎり』八重洲出版、1969年。ASIN B000J92XLQ。 NCID BA39608952。
- Hunter Davies (1995-03-01). Hunting People: Thirty Years of Interviews With the Famous. Mainstream Publishing. ASIN 1851585516. ISBN 978-1851585519
- Damon Hill (2016-08-30). Watching the Wheels: My Autobiography. マクミラン出版社. ASIN B01FSHGZHQ. ISBN 978-1509831906
- 雑誌 / ムック
- 『オートスポーツ』(NCID AA11437582)
- 『1966年5月号(No.10)』三栄書房、1966年5月1日。ASB:AST19660501。
- 『1966年7月号(No.12)』三栄書房、1966年7月1日。ASB:AST19660701。
- 『1966年11月号(No.16)』三栄書房、1966年11月1日。ASB:AST19661101。
- 『1967年1月号(No.18)』三栄書房、1967年1月1日。ASB:AST19670101。
- 『1970年3月号(No.59)』三栄書房、1970年3月1日。ASB:AST19700301。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Hall of Fame - Formula 1 The Official Website
タイトル | ||
---|---|---|
先代 フィル・ヒル |
F1ドライバーズチャンピオン 1962年 |
次代 ジム・クラーク |
先代 デニス・ハルム |
F1ドライバーズチャンピオン 1968年 |
次代 ジャッキー・スチュワート |
先代 ヘルムート・マルコ ジィズ・ヴァン・レネップ |
ル・マン24時間優勝者 1972 with: アンリ・ペスカロロ |
次代 アンリ・ペスカロロ ジェラール・ラルース |