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ピーター・ゲシン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピーター・ゲシン
基本情報
フルネーム ピーター・ケネス・ゲシン
国籍 イギリスの旗 イギリス
(イングランドの旗 イングランド)
出身地 同・サリー
生年月日 (1940-02-21) 1940年2月21日
没年月日 (2011-12-05) 2011年12月5日(71歳没)
F1での経歴
活動時期 1970-1974
所属チーム '70-'71 マクラーレン
'71-'72,'73 BRM
'74 ローラ
出走回数 30
タイトル 0
優勝回数 1
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 11
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1970年オランダGP
初勝利 1971年イタリアGP
最終勝利 1971年イタリアGP
最終戦 1974年イギリスGP
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ピーター・ケネス・ゲシンPeter Kenneth Gethin, 1940年2月21日 - 2011年12月5日)は、イギリスのレーシングカー・ドライバーで、F1世界選手権において1勝を挙げている。ヨーロッパF5000では2度の年間チャンピオンになっている。

経歴

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若年時代

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1940年2月21日サリーにて出生。父は競馬騎手であった[1]

1965年から1968年まで、F3ロータスブラバムシェブロンから出場、非選手権扱いのレースを含めて4年で9勝を記録した。

1969年から1970年まではF1車両と混走されることもあったF5000に出場した。1969年はヨーロッパF5000イギリスGPを含めて4度の優勝で年間チャンピオンを獲得。同年にはアメリカF5000でも参戦し、1勝を挙げた。1970年には年間最多勝の8勝を記録し、2シーズン連続でヨーロッパF5000チャンピオンになった。

フォーミュラ1

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マクラーレン・M19Aを駆るゲシン(1971年ドイツグランプリ

1970年マクラーレンの創設者、ブルース・マクラーレンがテスト中の事故で死亡すると、チームはブルース・マクラーレンの後釜として、同チームからF5000に出場していたゲシンを指名した。1970年の第5戦オランダGPでゲシンはF1にデビュー。第8戦からはレギュラードライバーとして出走し、第11戦のカナダGPで6位に入賞し、1ポイントを獲得した。また、前述の通り、同年のヨーロッパF5000では年間チャンピオンになった。

1971年もマクラーレンからエントリーしたが、ゲシンもチームも成績は全く振るわず、第8戦オーストリアGPからBRMへ移籍した。第9戦イタリアGPでゲシンはF1初優勝を果たした。このレースは、スリップストリームの応酬で26回もラップリーダーが入れ替わり、ゴール時には0.61秒差で5台がゴールに雪崩れ込むという混戦だったが、ゲシンはこれを制した。優勝平均速度242.616km/hは当時の新記録で、以後32年間にわたり破られることはなかった。2位とのタイム差は0.01秒で、しばしばF1史上1位と2位が最も僅差のレースとして挙げられる[注釈 1]

1972年もBRMからフル参戦するが、年間で6位入賞が1回のみと成績が振るわず、年末にシートを失った。同年ヨーロッパF2にも参戦、そのうち1戦で優勝した。

その後はヨーロッパF5000に戻り活躍する傍ら、1973年の第14戦カナダGPと1974年の第10戦イギリスGPにスポット参戦したが、共にリタイヤに終わった。ゲシンのF1参戦はこのレースが最後となった。

F1以後

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F5000へ戻り、1975年までヨーロッパF5000に参戦した。F5000での生涯成績は通算21勝、2度の年間チャンピオンを獲得した。1975年5月には来日し、富士スピードウェイでの全日本F2000選手権に出場している。

現役引退後はドライバーのマネジメント業を行った。

2011年12月6日、長い闘病の末に永眠[2]。71歳没。

レース戦績

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フォーミュラ1

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所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 WDC ポイント
1970年 マクラーレン M14A RSA ESP MON BEL NED
Ret
FRA GBR GER
Ret
AUT
10
ITA
NC
CAN
6
USA
14
MEX
Ret
23位 1
1971年 RSA
Ret
ESP
8
MON
Ret
9位 9
M19A NED
NC
FRA
9
GBR
Ret
GER
Ret
BRM P160 AUT
10
ITA
1
CAN
14
USA
9
1972年 P160B ARG
Ret
RSA
NC
MON
Ret
BEL
Ret
FRA
DNS
GBR
Ret
GER 21位 1
P180 ESP
Ret
P160C AUT
13
ITA
6
CAN
Ret
USA
Ret
1973年 P160E ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE FRA GBR NED GER AUT ITA CAN
Ret
USA NC 0
1974年 ローラエンバシー・ヒル T370 ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE NED FRA GBR
Ret
GER AUT ITA CAN USA NC 0

全日本フォーミュラ2000選手権

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所属チーム マシン エンジン タイヤ 車番 1 2 3 4 5 順位 ポイント
1975年 エルスター VICIC マーチ・752 BMW M12/6 B 6 FSW
8
SUZ FSW SUZ SUZ -[3] -[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ ただしこのレースのタイム計測は1/100秒単位であり、実際のタイム差は1/1000秒単位で計測された1986年スペインGP(0.014秒差)、2002年アメリカGP(0.011秒差)のほうが接近していた可能性がある。

出典

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  1. ^ 往年のF1ドライバー、ピーター・ゲシン亡くなる AUTO SPORTS WEB 2011年12月6日閲覧
  2. ^ ピーター・ゲシンが永眠 ESPN Japan F1News 2011年12月6日閲覧
  3. ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。

関連項目

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タイトル
先代
グラハム・マクレー
タスマンシリーズチャンピオン
1974
次代
ワーウィック・ブラウン