リカルド・ズニーノ
リカルド・ズニーノ | |
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1980年 | |
基本情報 | |
フルネーム | リカルド・ヘクトール・ズニーノ |
国籍 | アルゼンチン |
出身地 | 同・サンフアン |
生年月日 | 1949年4月13日(75歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1979-1981 |
所属チーム |
'79-'80 ブラバム '81 ティレル |
出走回数 | 11 (10スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1979年カナダGP |
最終戦 | 1981年アルゼンチンGP |
リカルド・ズニーノ(Ricardo Héctor Zunino[1], 1949年4月13日 - )は、アルゼンチン出身の元レーシングドライバー。
来歴
[編集]1977年、ユーロレーシングからヨーロッパF2選手権に参戦。翌1978年はマーチのワークスチームから出走し、選手権12位に入る[2]。1979年にオーロラF1選手権に参加、ブランズ・ハッチで優勝するなど39ポイントを獲得しランキング5位を記録した[2]。
この年の9月、ズニーノはF1第14戦カナダGPを観戦するためにモントリオールを訪れていたが[3]、フリー走行終了後にブラバムのニキ・ラウダが突然引退を表明し、以後の走行を打ち切ってサーキットを去った。その後釜としてブラバムでテスト走行の経験があったズニーノが急遽出走する事になった[3]。そのため、予選にはラウダが残していったヘルメットとレーシングスーツを着用して臨んだ[4]。このF1デビューレースでは一時4位を走り、最終的に7位で完走[3]、続く第15戦アメリカGPでは予選9位に入った[3]。
1980年もブラバムに残留し、チームのエースとなったネルソン・ピケをサポートするセカンドドライバーとして開幕を迎えた。アルゼンチンGP、ブラジルGPでそれぞれ7位・8位完走を果たすが、以降は成績が下降し、第6戦モナコGPでは予選通過に失敗。第7戦フランスGPへの参戦を最後に、多くのメキシカン・スポンサーマネーを持ち込めるヘクトール・レバークにシートを奪われた[3]。
1981年、非選手権レースとして開催された南アフリカGPでブラバムに戻って出走[2]した後、F1第2戦ブラジルGPと第3戦アルゼンチンGPの南米2連戦の契約でティレルから出走し、2戦ともに13位での完走で契約を終え、ミケーレ・アルボレートと交代する形で再びシートを失う。
1982年に祖国アルゼンチンとイギリスとの間でフォークランド紛争が開戦し、以後のF1参戦を断念した[3]。
引退後は地元のサンフアン州バレアルでリゾートホテルを経営している[3]。
F1での年度別成績
[編集]年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | WDC | ポイント |
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1979年 | パルマラット (ブラバム) | BT49 | ARG | BRA | RSA | USW | ESP | BEL | MON | FRA | GBR | GER | AUT | NED | ITA | CAN 7 |
USA Ret |
NC | 0 |
1980年 | ARG 7 |
BRA 8 |
RSA 10 |
USW Ret |
BEL Ret |
MON DNQ |
FRA Ret |
GBR | GER | AUT | NED | ITA | CAN | USA | NC | 0 | |||
1981年 | ティレル | 010 | USW | BRA 13 |
ARG 13 |
SMR | BEL | MON | ESP | FRA | GBR | GER | AUT | NED | ITA | CAN | CPL | NC | 0 |
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