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2023年11月18日 (土) 05:10時点における版

横山 隆一
『サンケイグラフ』1955年1月23日号
『サンケイグラフ』1955年1月23日号
本名 同じ
生誕 (1909-05-17) 1909年5月17日[1][2]
日本の旗 日本 高知県高知市[1][2]
死没 (2001-11-08) 2001年11月8日(92歳没)[1]
日本の旗 日本 神奈川県鎌倉市[3]
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1931年 - 2001年
ジャンル 4コマ漫画幼年漫画
ナンセンス漫画
代表作 漫画
フクちゃん
デンスケ』 他
アニメーション
おんぶおばけ』 他
受賞 第8回日本漫画家協会賞 大賞(1979年)[4]
文化功労者(1994年)[4]
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横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日[1][2] - 2001年11月8日[1][4][5])は高知県高知市[1]出身の日本の漫画家アニメーション作家。

政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し[6]、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション[3]を設立したほか、広告絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた[1]

経歴

高知市堺町[2][4][5]に生まれる。公式の誕生日(戸籍上の生年月日)は5月17日であるが、横山自身は母から、名付けの遅れのために届け出が遅れ、本当の生まれた日付は5月10日であったことを伝え聞いているという[7]。6人きょうだいの第2子[7]で長男[1]。もとの生家は裕福な生糸問屋であった[7]が、14歳のときに父親が死去。一家は没落し、母親が出稼ぎのために高知市を離れたため、きょうだいは複数の親類宅に離れ離れに預けられ、その後横山が経済的に成功するまで、長らく離散状態となる[8]。このころ、似顔絵や、チョークに裸婦像を彫刻したものを同級生に売って小遣いを稼いでいた[8]

1927年[4]、旧制高知県立高知城東中学校(のちの高知県立高知追手前高等学校)卒業[1][2]の翌日より[5]、就職を目指すため横浜市の叔父(父の弟)宅に寄寓し、中学時代の経験から美術家をこころざすも、東京美術学校の受験に2回[1][6]、また東京高等工芸学校の受験にも失敗する[9]横浜職業補導所へ通い、大工の技術を学ぶかたわら、関東学院英語科夜間部に通った[9]。やがて、いとこが美術モデルをしていた関係で、画家・高橋虎之助と知遇を得て、1928年[1]、高橋の教えを受けて川端画学校に合格[10]。同年暮れには同郷の新聞記者・澤本孟虎(澤本江南)の紹介[11]で、やはり同郷の彫刻家本山白雲に弟子入り[1]

この頃、居候生活から逃れるために入り浸った図書館で、雑誌に多く掲載されていた海外のナンセンス漫画にはじめて接し[9]、それまでの日本の風刺漫画などと異なり「描かれた線がきれいで」「内容がわかりやすく、くり返し見てもおかしく面白かった」と大きな衝撃を受ける[12]。また当時、日本の漫画界では山本鼎石井柏亭らファインアートの画家による「コマ画[13]」制作が盛んな時期であり、これらの持つ叙情性やユーモアにも大きな影響を受ける[12]。居候生活の脱却を目指した横山は、1929年頃[5]からギャグを志向した1コマ漫画の投稿を開始する[9]。叔父宅を離れ、本山宅に住み込むようになると、『アサヒグラフ』『新青年[1]など本山のもとに届く大量の雑誌の懸賞漫画に次々と応募するようになり、より広く作品が採用されるようになる[11]。体力に乏しかった横山は、重労働である銅像制作の現場に不向きと判断され、東京の本山の本邸を離れ、神奈川県鎌倉郡片瀬村(のちの藤沢市片瀬)にあった本山の別邸の管理をまかされるようになった[14]が、本山は横山の漫画の腕に理解を示し、投稿活動の継続を許す[14]。横山は買い出しに訪れた鎌倉郡鎌倉町(のちの鎌倉市)の書店で新創刊の『月刊マンガ・マン』を知り、投稿常連となる[14][6]。やがて横山は、本山に漫画家への転身をすすめられて堤寒三を紹介され、堤の門下に[1]、のちに岡本一平の門下に転じる[2]。また、若手投稿家のグループ「漫画研究会」に入会するも、プロレタリア漫画が主流のグループで、会合はほとんど政治論争となって「ペンの話」にならなかったため、すぐにグループを離れる[15]

1930年、いとこ(上記とは別人)が東京・大塚に書店を開業し、手伝いを請われたため、本山の元を離れる[16]。かつての投稿先である『新青年』で、1931年2月号より掲載小説の挿絵の担当を開始し、実質的なプロデビューを果たす[17]。また同年、ピー・シー・エル映画製作所に入社し、アニメーション技術の習得と研究に従事する[18]。挿絵画家としての活動と並行し、『アサヒグラフ』連載のジョージ・マクマナス英語版『ジグス(親爺教育英語版)』の書き文字の日本語リライトを担当した(翻訳は中里富次郎[19]

この頃、『月刊マンガ・マン』の投稿者から社員に転じていた吉田貫三郎と親しくなった[16]ことをきっかけに、『月刊マンガ・マン』の寄稿者で、岡本門下だった近藤日出造杉浦幸雄らと知り合った[1]。昭和初期の漫画界は文壇・画壇をもじって「漫画壇」とも呼ばれ、新聞や雑誌は少数のベテランが独占しているような状態で、横山ら若手はプロとしての発表の場がなかなか得られなかった。横山・近藤・杉浦の3人を中心に「漫画市場に若手が結束して売り込もう」「殴り込みをかける」といった意見が高まり[6]、1932年[1][4]に「新漫画派集団」の結成にいたった。同年には[17]北澤楽天が横山の漫画に惚れ込み、時事新報社の自身の部屋に横山を招き、面会をしている。この経験は横山に自信を与えたという[6]

「線を大胆に簡略化した絵と奇抜な発想[6]」で抜きん出ていた横山は、「新漫画派集団」の中で最初に名が売れていった。杉浦は横山の作風を「昭和のピカソ」と評し、「奇想天外の発想はだれもついていけなかったのに、みんながマネをしようとして失敗した」と語っている[6]

経済的に余裕が出た横山は、離れ離れになっていた母や妹を東京・本郷に呼び寄せ、同居を再開する[20]。1935年10月、郷里の知人の妹と結婚[20]。1936年1月、朝日新聞東京版朝刊に『江戸っ子健ちゃん』を連載開始。サブキャラクターのフクちゃんに人気が集まったため、同年に『フクちゃん』と改題。掲載媒体を変えながら1971年まで連載が継続し、横山の代表作となった。1937年、一家で鎌倉に移住する[21]

開戦後の1942年1月[22]陸軍報道班員として、小野佐世男大宅壮一武田麟太郎[23]らとともにジャワ島へ派遣された。ジャワへ向かう際、バタビア沖海戦に巻き込まれ、乗っていた輸送船・佐倉丸が沈没するも、九死に一生を得る。復員後の1945年3月末、空襲の激化にともない、母と妹を郷里の高知に、妻と子供を近藤日出造の世話で長野県小県郡神科村(のちの上田市)に疎開させる[24]。横山も5月に神科の妻子のもとに合流するが、8月2日に妻が病死[25]。ほどなく終戦となり、失意のうちに鎌倉に戻るも、心労や栄養失調のために腎臓を病む[25]。多くの漫画家たちが応召や疎開のために東京を留守にする中、鎌倉在住で仕事場や画材が焼けなかった横山がいち早く病を押して仕事を再開し[25]清水崑矢崎武子田河水泡らとともに『新夕刊』漫画部の嘱託となる[26]。10月、横山らは「新漫画派集団」を「漫画集団」に改組[26]。戦後初期から昭和中期を通じ、新進の漫画家を多く世に出すことに貢献した[6]

やがて、毎日新聞の専属[27]となり、『ペ子ちゃん』『デンスケ[5]をへて、『フクちゃん』の連載を再開。また、戦前から横山の仕事場を手伝っていた前妻の兄の娘(義理の姪)と再婚する[28]。1951年、毎日の特派員団の一員としてサンフランシスコ講和会議取材のためアメリカ合衆国に長期滞在[27]。その際、戦前からの念願であるアニメーション制作の参考のため、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオを見学。その際にウォルト・ディズニー本人とも会談を果たした[29]

1956年[5]、アニメーション制作会社「おとぎプロダクション」[3](おとぎプロ)を設立。自主上映の短編アニメ、劇場用アニメ映画、テレビCM用のアニメ素材[30]のほか、1961年に、日本初の連続テレビアニメシリーズ『インスタントヒストリー』を制作した[31]

1971年の『フクちゃん』連載終了後は連載漫画家としての活動を控え、児童文学の挿絵や絵本の制作を手掛けた。

2001年11月8日[5]、脳梗塞[4]のため鎌倉市内の病院で死去[3]。翌年に「横山隆一記念まんが館」が開館することが決定していたが、開館を待たずに亡くなった。

受賞歴

漫画作品
アニメーション作品
受章・顕彰

画風・評価

  • 横山死去の際、横山の娘は新聞取材に対し「現代ではおどろおどろしい絵や話のものが漫画と呼ばれてしまっている。本当の意味での『漫画』は終わった[要出典]」と語っている。

人物・エピソード

弟・泰三(右)とともに
(『アサヒグラフ』1948年2月18日号)
家族・親族
  • 8児の父[34]。画家・イラストレーター・絵本作家の横山ふさ子は三女。
横山ふさ子
鎌倉との関わり
  • 長男の病気を機に、1937年頃に鎌倉町(のちの鎌倉市)に移住[21]。妻の兄宅への寄寓や借家住まいを経て、戦後、市内の御成町に土地を購入し最初の自邸を新築[39]。のち「おとぎプロ」設立を期に事務所兼自宅を増築[40]
  • かつての自邸跡地にはスターバックスコーヒー鎌倉御成町店が建っている。桜の木、藤棚プール等が残されているほか、店内に『フクちゃん』の原画が展示されている[41]
    • プールは、アニメーション制作の現場が暑くなるため、スタッフや横山本人がいつでも飛び出し、飛び込めるように作ったもの[30]
  • 戦時中、横須賀海兵団に召集され、規則で上京できなくなった新漫画派集団メンバーのため、鎌倉の自宅を面会所として提供した[42]
  • 戦時中に途絶えていた鎌倉カーニバルの復活を後押しした[43]。再開第1回の1947年に「漫画集団」チームとして参加し、団体一等賞を受賞[44]
ベレー帽
ベレー帽がトレードマークだった。漫画家を示す「記号」のようになった、漫画家によるベレー帽の着用は、横山ら「漫画集団」に端を発する[45]
  • 1933年頃に新漫画派集団の「制帽」として全員でベレー帽をかぶることを決めたが、すぐにルールが有名無実化し、常にかぶっているのは横山ひとりだけとなった[45]。そのうち頭髪が薄くなり、「脱ぐチャンスがなくなりました[46]」と横山本人は述べている。
  • 太平洋戦争中、「自由主義的なもの」を身に着けにくい時勢となったため、その間は戦闘帽を常用していた[46]
身長
成人してからの身長は147センチメートル[2]と、当時の日本人の成人男性の平均から見ても大変な短躯だった。横山の自伝『わが遊戯的人生』には、低身長に起因する以下のエピソードが紹介されている。
  • 博文館の専属作家だった玉川一郎が挿絵を取りに横山の居候先をたずねた際、そこが豪邸であったこともあり、応対した横山をその家の小学生の息子と間違え、横山が「(私が)横山です」と答えても玉川は「いえ、横山先生を」と納得せず、押し問答となった[18]
  • 出版社を和服で訪ねた際、たまたまいた林芙美子に「小僧さんのやぶいりかと思いました」と笑われて以来、一度も和装を私用しなかった[47]
  • 徴用のために軍刀を仕立てたが、一般のサイズでは地面に引きずってしまうため、刀身や鞘を短く切ったものを用いた[22]
  • 陸軍報道班員として台湾に寄港した際、現地女性の「なんだろうねえ、七五三でもないし」という陰口を聞いた。居合わせた大宅壮一が場所を鶴岡八幡宮に変え、ジョークに仕立て直した[23]
鉄道模型とともに
(『アサヒグラフ』1950年9月27日号)
趣味
その他

作品

[2][49]

漫画

連載作品
  • 江戸っ子健ちゃん → フクちゃん(1936年 - 1945年、1946年 - 1947年、1950年 - 1951年、1956年 - 1971年) - タイトルのマイナーチェンジや掲載媒体の変更を繰り返しながら断続的に長期連載された横山の代表作。
  • ペ子ちゃん毎日新聞朝刊 1948年 - 1949年)
  • デンスケ(毎日新聞朝刊 1949年 - 1955年)
  • 百馬鹿漫画サンデー 1968年 - 1970年)
    • 小学館文庫 1977年
    • 奇想天外社 1979年
    • 『百馬鹿』傑作選 プラス フクちゃん(実業之日本社 2002年)
描き下ろし作品
作品集

イラストレーション

挿絵
絵本
  • 主婦之友絵本 ビックリウサ坊(主婦之友社編輯局・文 主婦之友社 1933年)
  • ワンワン物語(サトウハチロー・文 博文館 1940年)
  • プロペラブンチャン(博文館 1941年)
  • たけとりものがたり(朝日新聞社 1947年)
  • フクチャンのいろいろおしごと(保育社 1947年)
  • フクチャンのアメリカけんぶつ(ロマンス社 1948年)
  • 動物サーカス(佐川健三・文 新潮社 1951年)
  • ジャングルブック四季社 1951年)
  • もりのおばあさんヒュー・ロフティング原作・光吉夏弥岩波書店 1954年)
  • 「トッパンのおとぎえほん」シリーズ(おとぎプロダクション製作 フレーベル館 1963年 - 1965年) - 構成と文
    • 1 ぶんぶくちゃがま
    • 2 がりばーのたび
    • 3 てんぐのたいこ
    • 4 こびととくつや
    • 5 らいおんのめがね
    • 6 かもとりごんべえ
    • 7 うかればいおりん
    • 8 かくれみの
    • 9 六にんのごうけつ
    • 10 さるとかに
    • 11 ちびのしたてや
    • 12 おどるおひめさま
    • 13 ふしぎなよこぶえ
    • 14 こぶとり
    • 15 おむすびころりん
  • ふくちゃんとおもちゃのくに(フレーベル館 1964年)
  • 小さな青いきかんしゃ(アーシュラ・フリハン原作、八木田宜子大日本図書 1968年)
  • べアくん じてんしゃのけいこ(スタン・ベレンスタインジャン・ベレンスタイン原作・絵 日本パブリッシング 1968年) - 翻訳
  • 地球はおおさわぎ(筒井康隆・文 盛光社 1969年)
  • どうぶつむらのたいかくけんさ(自由学園幼児生活団・原案 婦人之友社 1971年)
  • 動物村ものがたり」シリーズ(小松正美・文 講談社 1971年)
    • よわむしゴリラ
    • ねずみのマント
    • はまべの大くじら
    • 七ひきのふうせんだこ
    • しろぴかライオン
  • くわんたらぶね(学習研究社 1972年)
  • ふしぎな五百のぼうし(ドクター・スース原作、前田三恵子訳 学習研究社 1972年)
  • うそうりおじさん(学習研究社 1973年)
  • おんぶおばけシリーズ(まやひろし・画 小学館 1973年) - 文
    • おんぶとかみなりのこ
    • おんぶとかっぱ
    • おんぶとてんぐ
  • かぼすけのふんすい(学習研究社 1974年)
  • なないろのじどうしゃ(フレーベル館 1978年)
  • ころころくん(フレーベル館 1980年)
  • ころころくんだいすき(フレーベル館 1980年)
  • ころころくんのおともだち(フレーベル館 1980年)
  • およめさんのほしい雪だるま(ルードルフ・ウィーマー原作、塩谷太郎訳 学習研究社 1982年)
  • 「フクちゃんえほん」シリーズ(横山ふさ子作・絵) - 原作
  • まんがえほん フクちゃん・あめふり(奇想天外社 1983年)
  • まんがえほん フクちゃん・ひげがいっぱい(奇想天外社 1983年)
  • まんがえほん フクちゃん・まつりだわっしょい(奇想天外社 1983年)
その他
  • フクチャン ト チョキン(日本教育紙芝居協会 1940年) - 紙芝居原画

キャラクターデザイン

アニメーション

劇場用アニメ映画など[51]
  • フクチャンの奇襲(松竹動画研究所 1942年) - 原作、脚本
  • フクチャンの増産部隊(松竹動画研究所 1943年) - 原作
  • フクチャンの潜水艦(朝日映画 1944年) - 原作、演出(監督)
  • 上の空博士(朝日映画 1944年) - 原作
  • おんぶおばけ ※短編映画版(自主制作 1955年) - 製作、演出(監督)、作画
  • ふくすけ(おとぎプロ・東宝 1957年) - 製作、演出(監督)、編集
  • ひょうたんすずめ(おとぎプロ・東宝 1959年) - 監督
  • おとぎの世界旅行(おとぎプロ・東宝 1962年) - 原作、製作、監督
上記のいくつかを含む短編・超短編作品はDVD『日本アートアニメーション映画選集 8 横山隆一作品集』(紀伊國屋書店 2004年)に収録されている。
テレビアニメ
その他アニメーション素材提供

随筆など

その他作品

実写映画[51]
  • 江戸っ子健ちゃん(P.C.L.・東宝 1937年) - 原作
  • エノケンのちゃっきり金太 前篇・後篇(P.C.L.・東宝 1937年) - 漫画(カット提供)
  • ペ子ちゃんとデン助(松竹 1950年) - 原作
  • プーサン(東宝 1953年) - 出演(警官R 役)
  • デンスケの宣伝狂(日活 1956年) - 原作

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 横山隆一』 - コトバンク、『横山 隆一』 - コトバンク 典拠は『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『デジタル大辞泉』、『百科事典マイペディア』、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、『世界大百科事典』第2版、『日本大百科全書 ニッポニカ』、『20世紀日本人名事典』
  2. ^ a b c d e f g h プロフィール 横山隆一記念まんが館
  3. ^ a b c d e f g h i 横山隆一 東文研アーカイブデータベース - 典拠は『日本美術年鑑』
  4. ^ a b c d e f g h i j 少年の心の持ち主、横山隆一 横山隆一記念まんが館
  5. ^ a b c d e f g h 92年の遊戯的人生 横山隆一記念まんが館
  6. ^ a b c d e f g h i j 寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』毎日新聞社、1990年 pp.10-20「新漫画派集団の誕生」
  7. ^ a b c 横山隆一『わが遊戯的人生』(日本図書センター、1997年)p.11
  8. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.21-30
  9. ^ a b c d 『わが遊戯的人生』pp.33-34
  10. ^ 『わが遊戯的人生』p.35
  11. ^ a b 『わが遊戯的人生』p.38
  12. ^ a b 『わが遊戯的人生』p.187
  13. ^ 須山計一『日本漫画一〇〇年 西洋ポンチからSFまんがまで』(芳賀書店、1968年)pp.69-72
  14. ^ a b c 『わが遊戯的人生』pp.40-41
  15. ^ 『わが遊戯的人生』p.188
  16. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.52-54
  17. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.56-59
  18. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.59-60
  19. ^ 『わが遊戯的人生』p.190
  20. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.74-76
  21. ^ a b 『わが遊戯的人生』p.89
  22. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.92-93
  23. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.94-95
  24. ^ 『わが遊戯的人生』pp.110-111
  25. ^ a b c d 『わが遊戯的人生』pp.115-118
  26. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.119-120
  27. ^ a b 『わが遊戯的人生』p.139
  28. ^ 『わが遊戯的人生』pp.121-122
  29. ^ 『わが遊戯的人生』p.143
  30. ^ a b c 『わが遊戯的人生』pp.148-152
  31. ^ この作品は毎回1分程度の放送であったために、後発の手塚治虫による毎週30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(1963年放映開始)の陰に隠れた存在となってしまっている。
  32. ^ 表彰データベース 早稲田大学
  33. ^ 鎌倉市名誉市民 - 鎌倉市、2022年7月23日閲覧
  34. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.166-168
  35. ^ 『わが遊戯的人生』p.14
  36. ^ 『わが遊戯的人生』p.69
  37. ^ 『わが遊戯的人生』p.63
  38. ^ 『わが遊戯的人生』p.9
  39. ^ 『わが遊戯的人生』p.127
  40. ^ 『わが遊戯的人生』pp.148-152
  41. ^ 鎌倉御成町店”. スターバックスコーヒージャパン. 2020年7月8日閲覧。
  42. ^ 『わが遊戯的人生』p.105
  43. ^ 鎌倉が日本が熱狂したカーニバル”. タウンニュース (2015年8月14日). 2019年12月24日閲覧。
  44. ^ 『わが遊戯的人生』p.128
  45. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.72-73
  46. ^ a b 『わが遊戯的人生』pp.158-162
  47. ^ 『わが遊戯的人生』p.86
  48. ^ 横山隆一の世界13 横山隆一記念まんが館
  49. ^ 横山隆一 - メディア芸術データベース
  50. ^ 脳の病気 大塚ホールディングス株式会社
  51. ^ a b 横山隆一 - 日本映画データベース

関連項目

外部リンク