コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

時事新報

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
時事新報社から転送)
時事新報
明治22年2月の紙面
種類 日刊紙
サイズ ブランケット判

事業者慶應義塾出版社→)
合名会社時事新報社→)
(株式会社大阪毎日新聞社→)[注 1]
(株式会社毎日新聞社→)
株式会社時事新報社
本社東京府東京市芝区三田2-2[注 2]→)
(東京市日本橋区通3-11[注 3]→)
(東京市京橋区南鍋町2-12[注 4]→)
(東京市麹町区八重洲町1丁目[注 5]→)
(東京市麹町区有楽町1-2→)
(東京都千代田区有楽町2-2-1[注 6]→)
東京都千代田区大手町1-7-2[注 7][1]
代表者 鈴木隆敏代表取締役社長産経新聞社顧問)
創刊 1882年明治15年)3月1日
廃刊 1955年昭和30年)10月31日
(以後は産経新聞東京本社版に合同)
前身 民間雑誌
公布日誌
言語 日本語
価格 1部 2銭(1887年
月極 50銭(1887年)
株式会社時事新報社
本社所在地 日本の旗 日本
100-0004
東京都千代田区大手町1-7-2
事業内容 (休眠会社)
業種 情報・通信業
資本金 7,000万円
テンプレートを表示

時事新報(じじしんぽう)は、かつて存在した日本の日刊新聞である。1882年明治15年)3月1日福澤諭吉の手により創刊された。戦前の五大新聞の一つ。

1936年(昭和11年)12月25日に休刊[2]。戦後復刊し、1955年(昭和30年)に産業経済新聞東京本社と合同、1958年(昭和33年)まで『産経時事』(現・産経新聞)を発行した[3]

2024年9月11日、休眠会社として存続していた株式会社時事新報社(2代目法人)の臨時株主総会が開催され、解散が決議された。2025年2月の清算完了を目指し、保有する『時事新報』などの商標権は産経新聞社に譲渡する[3]後述参照)。

歴史

[編集]

慶應の機関紙として創刊

[編集]

当初の福澤諭吉の計画では、宮内卿で後に初代内閣総理大臣を務める伊藤博文や、参議侯爵井上馨明治政府元勲の要請を受けて政府系新聞を作る予定であった。ところが、1881年の「明治十四年の政変」により、大隈派官僚が失脚したため、その計画は頓挫した。

すでに記者や印刷機械を準備していた慶應義塾の出版局(現・慶應義塾大学出版会)は、独自に新聞を発行するに至り、1882年明治15年)3月1日、「時事新報」を創刊した。創刊時は紙面を5部に分け、漫画(日本初)や料理レシピを載せるなど、当時の新聞としては非常に画期的な紙面構成であった[4]。福澤は創刊にあたって「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。

国権論を主張

[編集]

『時事新報』の紙面は、国際情勢に関する記事が多かった。福澤の甥になる初代社長兼主筆の中上川彦次郎は、本紙の社説国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮に関する論説や中国に関わる様々な形の東洋政略を論じたものが多かった[5][6]。この国権論を、水戸藩出身で慶應同窓の高橋義雄、渡辺治、井坂直幹石河幹明が紙面で引き継ぎ、水戸中学(現在の茨城県立水戸第一高等学校)系の松木直己が協力した[7]

条約改正問題や、大阪事件朝鮮問題が起こると、『時事新報』は対外強硬論を紙面で主張した。

1885年(明治18年)1月18日、「上野公園全国有志大運動会」と称する大井憲太郎の一派と聴衆3,000人余りが市中行進をし、時事新報社前では同社万歳を連呼し、同紙と反対の論調を唱えた銀座尾張町の朝野新聞本社(後に銀座和光となる)を危く焼き討ちしそうな気配となり、警官の出動でわずかに事なきを得る騒ぎとなった[8]

時事新報は創刊時より「国権皇張」・「不偏不党」を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、わずか1,500部余りであった当初の発行部数は2年後には5,000部余りまで増加した[9]

日本一の時事新報

[編集]

日清戦争後の1896年(明治29年)、時事新報はロイター通信社と契約を締結。20世紀初頭に契約先が10社に増えるまで、ロイターの外信記事は本紙が独占的に使用していた。

明治末期には、新聞業界の代表2人を選ぶ際に、時事新報から1人が無条件に選出され、もう1人は競合他社の中から抽選で選出するほどに業界内での地位を高めた[10]。大正中期には「日本一の時事新報」と呼ばれるようになり、東京日日新聞(現:毎日新聞東京本社版)、報知新聞(現:スポーツ報知)、國民新聞(現:東京新聞)、東京朝日新聞(現:朝日新聞東京本社版)と並ぶ“東京五大新聞”の一つとなった。

また、1905年(明治38年)には、大阪へ進出している(以下、後述参照)。 1921年(大正10年)のパリ講和会議ワシントン軍縮会議では、伊藤正徳特派員が世界的スクープを獲得し、世間から大きな注目を集めた。

関東大震災による影響

[編集]

しかし、その後は大正関東地震関東大震災)による被災で、時事新報をはじめとする在京紙の業績は悪化し部数も減少の一途を辿る。それに取って代わる形で大阪資本を背景とした東京日日新聞(のちの毎日新聞)、東京朝日新聞(のちの朝日新聞)が部数を伸ばし、加えて社会面の充実で伸ばした読売新聞を含めた3紙が、大正後期から昭和前期にかけての東京エリアでの新聞シェア上位を占め、時事新報は、報知新聞、國民新聞・都新聞などの2番手のグループに甘んじ、『万朝報』以下の小さな諸新聞は部数の競争から脱落していった。

帝人事件の報道

[編集]

紙勢の退調を補うために1932年(昭和7年)に鐘淵紡績社長で政界にも影響力を持っていた武藤山治が経営権を取得し、武藤自らの発案と企画による「番町会を暴く」を1934年(昭和9年)1月17日から大々的に取り上げた。当時の日本にはびこる財界の不正を糾弾する特集記事であり、刺激的な筆致は各界で大きな反響を呼んだ[11]

やがて#それは「帝人事件」(昭和初期の大疑獄事件)まで引き起こし、それまで赤字に陥っていた時事新報の業績は黒字に転換し部数も大きく伸びた。しかし、武藤が暴漢に射殺されて番町会への追及も中断し、帝人事件を通じて検挙された者のほとんどは裁判で無罪となった。結果的に斎藤実内閣を倒す政治陰謀の御先棒を担いだだけの形となり、一時的に持ち直した時事新報の業績も再度不振を託つことになった。

東京日日新聞への合同

[編集]

打開策として慶應義塾卒業生で当時大阪毎日新聞社(大毎)政治部長であった、のちの毎日新聞社会長高石真五郎に経営支援を仰いだ。しかし、当時の東日は経営が厳しい時期でもあり、高石自身は東日の経営に手一杯でこれを固辞する。代わりに高石は、大毎の社外役員で夕刊大阪新聞社(現・産経新聞大阪本社)創業社長の前田久吉を推挙し、1935年(昭和10年)11月から前田が専務となって時事新報の経営に参加することになった。しかし、前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質は折り合わず、一時は好転していた時事新報の業績は再び悪化へと転じる。このために高石は責任を取る形で1936年(昭和11年)12月25日、時事新報を東日に合同した[注 8]

合同前日には、福澤の墓前に奉告(報告)が行われている[12]。なお、東日は1943年(昭和18年)1月1日、大毎と題字を統一して『毎日新聞』となるが、それまでの約7年間は、東日紙面の題字の下に「時事新報合同」の文字があった。

復刊から産経新聞への合同まで

[編集]

1945年(昭和20年)、GHQ占領下で日本新聞連盟などの用紙割当機能が10月26日に停止されたが、改組後の新聞及出版用紙割当委員会が用紙の割当を認可したことから発行に至った。

1946年(昭和21年)1月1日、戦前の時事新報で主筆を務めていた慶應義塾名誉教授の板倉卓造を社長兼主筆に据え、慶應義塾出身者と日本工業新聞改め「産業経済新聞」を率いる前田久吉らの支援により「時事新報」が復刊された[13][14][15]。この復刊の直後、前田は戦時中の論陣を理由に公職追放に遭い、時事新報社と産業経済新聞社の経営から一時退くこととなった。

復刊当初は新興紙ブームの時流で、名門復活と謳われた時事新報の業績は堅調に推移していたが、既存紙の巻き返しにより再び業績が低下していった。

前田は追放解除後の1950年(昭和25年)、産業経済新聞の全国紙化を目指して東京に進出する。あわせて時事新報についても板倉の後任として経営にあたることとなった。こうして時事新報は産経新聞と兄弟関係となり、1955年(昭和30年)産経と合同して『産経時事』(さんけいじじ)と改題、時事新報社の経営の一切を産経新聞社に委任した。

休眠会社化、そして解散へ

[編集]

その後の「産経時事」は大阪本社版と題字を合わせて現在の『産経新聞』となるが、1969年(昭和44年)に題字を片仮名の「サンケイ」に変更するまで「産経新聞」という題字の下に「時事新報合同」の文字が添えられた[16]

2024年(令和6年)現在、「時事新報」の題号などの権利の一切は株式会社時事新報社(2代)が保有している。

2代法人は、慶應義塾大学を卒業した産経新聞社幹部が代々社長を務め、140年以上の歴史を誇った時事新報の商標と過去のデータを守ってきたが、2024年令和6年)9月11日開催の臨時株主総会で会社解散を決議した[3]。この理由について、2代法人現社長で産経新聞社顧問の鈴木隆敏(慶應大文学部卒)は、「産経新聞社以外にも2代法人の株主を務めていた東証上場企業があったが、政策保有株を手放す流れが加速したことにより、この企業において当社株が整理の対象となってしまい、新聞全体の大きな時代の変化の中で苦渋の選択をせざるを得なくなった」と説明した。

2代法人が保有する『時事新報』などの商標権は産経新聞社に譲渡する。『産経時事』および1955年以前の紙面のデータ保管や販売は、産経新聞社と慶應義塾が密接に協議をした上で継続される。2代法人は、2025年(令和7年)2月までに清算を結了し、登記簿が閉鎖される予定である。

大阪時事新報

[編集]

時事新報は、1905年(明治38年)3月15日から大阪大阪時事新報を発行していた。当初は大阪時事新報社という別法人での発行であったが、1920年(大正9年)6月に東京の時事新報社に吸収合併。しかし1923年(大正12年)8月に再度分離独立したものの不振に陥り、1930年(昭和5年)3月に神戸新聞社に買収される。翌1931年(昭和6年)8月1日には京都日日新聞社と共に神戸新聞社に吸収合併され、京阪神の新聞トラスト三都合同新聞株式会社が誕生。しかし、大阪時事新報は三都合同新聞大阪本社から発行が継続された。

その後三都合同新聞社は1940年(昭和15年)7月30日に解体し、大阪時事新報は再び独立会社・大阪時事新報社として発足。間もなく読売新聞社(現・読売新聞グループ本社)が株式を買い集め経営に参加するも、翌1941年(昭和16年)12月8日に「夕刊大阪新聞」と合併して大阪新聞となり終刊した。

戦後1946年(昭和21年)2月1日、前田の手により復刊したが、1951年(昭和26年)6月に再び大阪新聞に合同して終刊。その後大阪新聞は2002年(平成14年)、産経新聞大阪本社版に合同して廃刊となった。

経済時事新報

[編集]

日本経済新聞社は、戦時統制1942年(昭和17年)に日本産業経済(現・日本経済新聞)が誕生する際に、前身の中外商業新報が東京で発行されていた経済時事新報という新聞を合併したと社史の中で記述している。しかし、この新聞に時事新報社が関与していたかなどの詳細はわかっていない。

備考

[編集]
  • 日本音楽コンクール大相撲優勝力士額掲示については現在毎日新聞社が継承している。
  • 時事通信社と直接のつながりはないが、かつて時事新報が発行していた『時事年鑑』は、同盟通信社を経て時事通信社が継承して発行した(1994年廃刊)。
  • 『時事新報』創刊25周年記念号(明治40年3月1日記念号)は、ページ数が224ページに達し、日本の新聞としては最多ページ数記録となった。同号は1961年に日本新聞資料協会から縮刷版が発行されている。
  • 慶應義塾大学日吉キャンパス(1年、2年生が通う)をエリアに含む産経新聞日吉専売所の店頭には「(慶應)塾生[注 9]諸君、福澤諭吉先生が創刊した時事新報が前身の産経新聞を読もう」との広告が掲示されている。

主な人物

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1936年(昭和11年)に買収、権利一切を引き継ぐ。
  2. ^ 現・東京都港区三田2-15-45。慶応義塾大学三田キャンパス構内、旧図書館の辺りにあった。
  3. ^ 現・東京都中央区日本橋3丁目
  4. ^ 現・東京都中央区銀座6-8-7 交詢社ビルディングの南側にあたる。
  5. ^ 現・東京都千代田区丸の内2丁目
  6. ^ 現・東京都千代田区有楽町1-12-1
  7. ^ 現在の時事新報社の登記上本店で、産業経済新聞社東京本社と同じ。
  8. ^ 『毎日新聞百年史』によれば、大毎は時事新報社より営業権(のれん)を購入。時事新報社はこの代金をもって解散資金にしたとしている。つまりこのとき、時事新報社の法人は解散している。なお『時事新報』を合同したのは『東京日日新聞』であって『大阪毎日新聞』ではない。
  9. ^ 慶應では「学生」ではなく「塾生」と呼ばれる。

出典

[編集]
  1. ^ 都倉武之. “時事新報史 第19回 社屋の移転 日本橋を経て銀座へ”. 慶應義塾大学出版会. 2020年4月29日閲覧。
  2. ^ 『兵は凶器なり』 (21) 15年戦争と新聞メディア -1926~1935- (PDF) 前坂俊之アーカイブス
  3. ^ a b c 福沢諭吉ゆかりの時事新報社が解散決議”. 産経ニュース. 2024年9月11日閲覧。
  4. ^ 異端と先導 創造性に満ちた生涯 東京展は来月8日まで 産経新聞2011年1月28日[リンク切れ]
  5. ^ 石田 1977.
  6. ^ 平山 2004, pp. 19–22.
  7. ^ 都倉武之. “時事新報史 第12回 水戸出身記者の入社”. 慶應義塾大学出版会. 2020年4月29日閲覧。
  8. ^ 福澤 1971, p. 599.
  9. ^ 慶應義塾豆百科 No.42 『時事新報』の創刊”. 慶應義塾大学. 2020年4月29日閲覧。
  10. ^ “朝日新聞創刊130周年記念事業(明治・大正データベース)」のご紹介”. 朝日新聞. (2008年3月10日). http://www.asahi.com/information/db/130/20080310_1.html 
  11. ^ 「番町会を暴く」が政治問題に『時事新報』昭和9年1月22日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p412 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  12. ^ 両社幹部、福沢翁墓前に合同を奉告『大阪毎日新聞』昭和11年12月25日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p236 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  13. ^ 春原昭彦. “コラム「日本の新聞人」 福沢亡き後、時事新報の論壇を主宰 板倉卓造”. 日本新聞博物館. 2020年4月29日閲覧。
  14. ^ 【現代(いま)に生きる時事新報】(24)[リンク切れ]
  15. ^ 『新聞に関する世論調査』の分析(下)」『一橋研究』第19巻第3号、一橋研究編集委員会、1994年、95-108頁。 
  16. ^ 警報発令!今度は何が? 【し】新聞社の仕組み⑰ - 産経新聞大阪本社整理部記者 日野原信生のブログ。

参考文献

[編集]
  • 石田一良『日本思想史講座 近代の思想 3』 第8巻、雄山閣、1977年1月。 
  • 鈴木隆敏、都倉武之『新聞人 福澤諭吉に学ぶ』産経新聞出版、2009年3月18日。ISBN 978-4-8191-1048-8 
  • 平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書 394〉、2004年8月20日。ISBN 978-4-16-660394-7 
  • 福澤諭吉『福澤諭吉全集』 第21巻(再版)、岩波書店、1971年6月30日。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]