「ベン・ハー (1959年の映画)」の版間の差分
独自研究 タグ: 手動差し戻し サイズの大幅な増減 ビジュアルエディター: 中途切替 |
240F:65:86BA:1:3910:B8CD:CC92:1D9E (会話) による ID:78726871 の版を取り消し タグ: 取り消し サイズの大幅な増減 |
||
10行目: | 10行目: | ||
| 製作 = サム・ジンバリスト<br />[[ウィリアム・ワイラー]](表記なし) |
| 製作 = サム・ジンバリスト<br />[[ウィリアム・ワイラー]](表記なし) |
||
| 製作総指揮 = |
| 製作総指揮 = |
||
| 出演者 = [[チャールトン・ヘストン]]<br />[[スティーヴン・ボイド]]<br />ハイヤ・ハラリート<br />サム・ジャッフェ<br />ジャック・ホーキンス<br />フィンレイ・カリー<br />ヒュー・グリフィス<br />フランク・スリング<br />マーサ・スコット<br />キャシー・オドネル<br />テレンス・ロングドン<br />アンドレ・モレル<br /> |
| 出演者 = [[チャールトン・ヘストン]]<br />[[スティーヴン・ボイド]]<br />ハイヤ・ハラリート<br />サム・ジャッフェ<br />ジャック・ホーキンス<br />フィンレイ・カリー<br />ヒュー・グリフィス<br />フランク・スリング<br />マーサ・スコット<br />キャシー・オドネル<br />ジョージ・レルフ<br />テレンス・ロングドン<br />アンドレ・モレル<br />ジュリアーノ・ジェンマ<br />マリナ・ベルティ |
||
| 音楽 = [[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]] |
| 音楽 = [[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]] |
||
| 撮影 = [[ロバート・サーティース|ロバート・L・サーティーズ]] |
| 撮影 = [[ロバート・サーティース|ロバート・L・サーティーズ]] |
||
16行目: | 16行目: | ||
| 製作会社 = [[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]] |
| 製作会社 = [[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]] |
||
| 配給 = {{Flagicon|USA}} MGM/[[ロウズ・シネプレックス・エンターテインメント]]<br />{{Flagicon|JPN}} [[ワーナー・ブラザース]] |
| 配給 = {{Flagicon|USA}} MGM/[[ロウズ・シネプレックス・エンターテインメント]]<br />{{Flagicon|JPN}} [[ワーナー・ブラザース]] |
||
| 公開 = {{Flagicon|USA}} 1959年11月18日<br />{{Flagicon|JPN}} 1960年4月1日 |
| 公開 = {{Flagicon|USA}} [[1959年]][[11月18日]]<br />{{Flagicon|JPN}} [[1960年]][[4月1日]] |
||
| 上映時間 = 224分(3時間44分) |
| 上映時間 = 224分(3時間44分) |
||
| 製作国 = {{USA}} |
| 製作国 = {{USA}} |
||
23行目: | 23行目: | ||
| 興行収入 = $74,000,000<ref name="boxoffice"/> |
| 興行収入 = $74,000,000<ref name="boxoffice"/> |
||
| 配給収入 = {{Flagicon|JPN}}9億7775万7千円<ref>キネマ旬報.1965年8月下旬号</ref> |
| 配給収入 = {{Flagicon|JPN}}9億7775万7千円<ref>キネマ旬報.1965年8月下旬号</ref> |
||
| 前作 = 1925年版[[ラモン・ノヴァロ]]主演「ベン・ハー」 |
|||
| 前作 = |
|||
| 次作 = 2016年版ジャック・ヒューストン主演「ベン・ハー」 |
|||
| 次作 = |
|||
}} |
}} |
||
『'''ベン・ハー'''』(''Ben-Hur'')は、1959年制作の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。[[ルー・ウォーレス]]による小説『[[ベン・ハー]]』の3度目の映画化作品である。[[ウィリアム・ワイラー]]監督。[[チャールトン・ヘストン]]主演。同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞をはじめ11部門を受賞。この記録はアカデミー賞史上最多記録で、 |
『'''ベン・ハー'''』(''Ben-Hur'')は、[[1959年]]制作の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。[[ルー・ウォーレス]]による小説『[[ベン・ハー]]』の3度目の映画化作品である。[[ウィリアム・ワイラー]]監督。[[チャールトン・ヘストン]]主演。同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞をはじめ11部門のオスカーを受賞。この記録はアカデミー賞史上最多記録で長期にわたりトップを維持、各映画評価コミュニティや外国の映画界の賞も含めると全部で21個の受賞。後に「[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]」(1997年)「[[ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還]]」(2003年)がアカデミー各賞でノミネートされ11部門を受賞。史上最多受賞記録としてアカデミー賞で肩を並べた。なお主演男優賞・助演男優賞の俳優演技部門を含む受賞は3作品中では本作のみである。21世紀の現在でも、名画座の企画やTVなどでの再上映・放映・レンタル・デジタルメディア開発・修復・再販、ビデオ・オン・デマンド全般、ネット配信作品で定番リストに名を連ねる人気作品として定評を得ている。撮影は主にローマの[[チネチッタ|チネチッタスタジオ]]で収録。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
=== 作品について === |
=== 作品について === |
||
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ルー・ウォーレス]]が1880年に発表した[[小説]] "''Ben-Hur: A Tale of the Christ''" を原作に、1907年に15分の[[サイレント映画]]で製作され、1925年に同じサイレント映画で2度目の映画化で[[ラモン・ノヴァロ]]がベン・ハーを演じ、これが大ヒットとなった。そして、この2度目の時にスタッフとして参加していた[[ウィリアム・ワイラー]]が34年後に今度は監督として3度目の映画化 |
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ルー・ウォーレス]]が[[1880年]]に発表した[[小説]] "''Ben-Hur: A Tale of the Christ''" を原作に、[[1907年]]に15分の[[サイレント映画]]で製作され、[[1925年]]に同じサイレント映画で2度目の映画化で[[ラモン・ノヴァロ]]がベン・ハーを演じ、これが大ヒットとなった。そして、この2度目の時にスタッフとして参加していた若き[[ウィリアム・ワイラー]]が34年後に今度は監督として[[70mmフィルム|70mm]]([[70mmフィルム|MGMCamera65]] )[[画面アスペクト比|ウルトラパナビジョン]]、[[テクニカラー]](公開当時は総天然色と和訳表記された)で撮影し3度目の映画化で完成させたのが[[チャールトン・ヘストン]]主演で最も有名な本作品である。 |
||
主人公ベン・ハーを[[チャールトン・ヘストン]]、メッサラを[[スティーヴン・ボイド]]、恋人エスターをハイヤ・ハラリート、他に[[ジャック・ホーキンス]] 、[[ヒュー・グリフィス]] が出演。[[チャールトン・ヘストン]]がアカデミー賞主演男優賞、[[ヒュー・グリフィス]] が助演男優賞を受賞し、[[ウィリアム・ワイラー]]はこの映画で3度目の監督賞を受賞している。 |
主人公、ジュダ(ユダ)・ベン・ハーを[[チャールトン・ヘストン]]、メッサラを[[スティーヴン・ボイド]]、恋人エスターをハイヤ・ハラリート、他に[[ジャック・ホーキンス]] 、[[ヒュー・グリフィス]] が出演。[[チャールトン・ヘストン]]がアカデミー賞主演男優賞、[[ヒュー・グリフィス]] が助演男優賞を受賞し、[[ウィリアム・ワイラー]]はこの映画で3度目の監督賞を受賞。悪役として迫真の演技を見せた[[スティーヴン・ボイド]]は第17回[[ゴールデングローブ賞]]では最優秀助演男優賞を獲得している。 |
||
[[ティベリウス]]皇帝の時代、[[イエス・キリスト]]の生涯を背景に国を失った民族である[[ユダヤ]]人の青年ベン・ハーが、苛酷な運命に翻弄され、復讐の憎悪と絶望に陥りながら、最後には信仰への希望に回帰するまでを描く。原作の副題に「[[ベン・ハー|キリストの物語~''A Tale of the Christ''~]]」とあるように、キリストの生誕、[[受難]]などがこの物語の根幹として貫かれている。 |
[[帝政ローマ]]における[[ティベリウス]]皇帝の時代、[[イエス・キリスト]]の生涯を背景に、ローマの属州となって国を失った民族である[[ユダヤ]]人の青年ベン・ハーが、苛酷な運命に翻弄され、復讐の憎悪と絶望に陥りながら、最後には信仰への希望に回帰するまでを描く。原作の副題に「[[ベン・ハー|キリストの物語~''A Tale of the Christ''~]]」とあるように、キリストの生誕、[[受難]]など、ユダヤ教を起点とした信仰の時代的変遷と当時の新生思想([[原始キリスト教]])としての発展がこの物語の根幹として貫かれている。映画では[[導入部|プロローグ]]においてタイトル表示前にキリストの生誕を描き、キリストの[[キリストの磔刑|処刑]]とハー家の再生でエンディングとなるが、その物語の展開で中心主題を考えたとき、副題「キリストの物語~''A Tale of the Christ''~」がオープニング「BEN-HUR」のタイトル文字直後に提示される意味合いを反映させた原作者の意図は然るべきものである。 |
||
1959年11月18日にプレミア公開され、224分の大作ながら、全米公開後には瞬く間にヒットとなった。同様に全世界でも公開されてヒット |
1959年[[11月18日]]にプレミア公開され、224分の大作([[前奏曲]]-[[導入部|プロローグ]]~[[序曲]]~前編-休憩~[[間奏曲]]-後編)ながら、全米公開後には瞬く間にヒットとなった。同様に全世界でも公開されてヒット。54億円もの制作費が投入されたが、この映画1本で倒産寸前だった[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]は一気に社運を好転させ再起する事となった。ヒットの要因は主に壮大な[[プロモーション]]活動や関連グッズの販売など宣伝広報によるものである。<ref name="宣伝活動">Blu-ray 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディション。未公開モノクロ映像。</ref>。 |
||
しかし、当時まだ大スターと言えるほどの豊富な経歴がない[[チャールトン・ヘストン]]を擁しながら、1925年に大ヒットした[[ラモン・ノヴァロ]]主演の同名作品の[[リメイク]]でそれを超える作品になるであろうという期待感、名匠ウイリアム・ワイラーの演出力に対する安心感、1950年代までに名作を手掛けたスタッフ、アクションシーンや[[スタント]]のプロを集めた制作担当サム・ジンバリストのプロとしての交渉術、加えてサム・ジンバリストの急死と残した功績に対する衝撃と尊敬、これまでにない[[70mmフィルム|70mm]]の[[画面アスペクト比|ワイドスクリーン]]で[[:en:Ultra Panavision 70|ウルトラパナビジョン]]の大画面を採用したうえに、[http://plaza.harmonix.ne.jp/~furm/av/av1.htm 6チャンネル]の[[ステレオ|ステレオフォニック]]による臨場感あふれる音響を実現したことも大きな期待と関心を集めた理由である。<ref name="要因">「ベン・ハー 前後編」LD MGM/UA HOME VIDEO 1997年メイキング映像インタビュー></ref> |
|||
そして何よりアメリカの国家的正義と精神のよりどころであるキリスト教の[[新約聖書]]の内容をもとに描かれた作品であり、教会[[牧師]]や[[神父]]らが大いに信者に対して本作品を鑑賞するように新聞や機関誌、雑誌に寄稿して推奨していたこともヒットに大きく影響していた。また時代の流れから見た時、[[第二次世界大戦]]から十数年しかたっていない当時、傷心癒えない人々がまだ大勢おり、大国の横暴や差別によって少数者が滅ぼされる経験、それを見て義憤を抱いた経験、その戦いに身を投じた経験、愛する人を失った経験をした人々が自らの物語として映画をとらえていたことも影響していた点である。かつての[[ナチス・ドイツ|ナチスドイツ]]のユダヤ人に対する迫害・[[ホロコースト]]、世界侵略と[[独裁者]]の世界征服への野心。すべてがこの映画の題材につながってカタルシスが得られたのも、正しく生きようとする多くの人々に受け入れられた。<ref name="英語版予告編">「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO オリジナル劇場予告編 長編版 写真、ソフトカバーカバーパンフレット1959年 2項下段記述</ref>。 |
|||
=== 日本初公開 === |
=== 日本初公開 === |
||
1960年4月1日から東京はテアトル東京、大阪はOS劇場でロードショー公開され、他都市も東宝洋画系で公開された。テアトル東京では翌年61年7月13日まで469日間に渡って上映され、総入場者数95万4318人、1館の[[興行収入]]3億1673万円を記録した。全国各地の上映の後に、[[配給収入]]は最終的に15億3000万円となった<ref>「映画を知るための教科書 1912~1979」132~133P参照 斉藤守彦 著 洋泉社 2016年3月発行</ref>。日本での一般公開は1960年4月1日だが、これに先立ち同年3月30日には[[ル テアトル銀座 by PARCO|テアトル東京]]でチャリティ上映が行われた。このとき[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]が招かれ、日本映画史上初の天覧上映となった。ヘストン夫妻もこの場に立ち会っている<ref>[[ポニーキャニオン|ヘラルドポニー]]版[[レーザーディスク]] |
[[1960年]][[4月1日]]から東京はテアトル東京、大阪はOS劇場でロードショー公開され、他都市も東宝洋画系で公開された。テアトル東京では翌年61年7月13日まで469日間に渡って上映され、総入場者数95万4318人、1館の[[興行収入]]3億1673万円を記録した。全国各地の上映の後に、[[配給収入]]は最終的に15億3000万円となった<ref>「映画を知るための教科書 1912~1979」132~133P参照 斉藤守彦 著 洋泉社 2016年3月発行</ref>。日本での一般公開は[[1960年]][[4月1日]]だが、これに先立ち同年[[3月30日]]には[[ル テアトル銀座 by PARCO|テアトル東京]]でチャリティ上映が行われた。このとき[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]が招かれ、日本映画史上初の天覧上映となった。ヘストン夫妻もこの場に立ち会っている<ref>[[ポニーキャニオン|ヘラルドポニー]]版[[レーザーディスク]]([[1989年]]発売)の解説文より。この解説文を書いた日野康一は当時MGM東京支社の宣伝担当だった。</ref>。 |
||
=== 海外公開での反響 === |
|||
世界においてもキリスト教圏のヨーロッパやソ連、[[イスラエル]]を中心とした中東地域([[イスラム教]]・[[ユダヤ教]]・および[[キリスト教]]は同じ[[ヤハウェ]]神を崇拝。ただしユダヤ教、キリスト教側からはイスラム教の[[ヤハウェ|ヤハウェ神]][[アッラーフ]]を共通の神と認めていない。)、日本やアジア全域でも興行成績は類を見ないものであった。ただしキリスト教信仰を受け入れない国家である中華人民共和国は[[毛沢東思想|毛沢東]]政権下での上映は当時禁止された。その他諸外国では配給側の映画興行・広報宣伝の戦略の中でキリストの説教や宗教の価値についてはあまり触れず、'''スペクタクル史劇の娯楽映画'''であり、映像がエキサイティングである点を特に強調して宣伝に臨んでいたため、観客は固定観念に縛られることなく抵抗を取り払い「ベン・ハー」の観覧に出かけ楽しむことができた。実際のところでは映画の後半42分は信仰や[[キリストの磔刑]]がメインになっていて[[無宗教|無宗教者]]には退屈で余計であると公的なレビューにおいて酷評されるきらいもあるが、戦車競走シーン以降の展開の中で感情移入に没入し、主人公の友情と恋の成り行きや家族愛とその幸せを期待する展開に目が離せなくなるという効果を醸し出している。ちなみに本作品の1968年の[[リバイバル]]公開(再上映)で新聞における映画館の広告表示や予告編には'''「文部省特選映画」「優秀映画鑑賞会特選」'''と明記されている。当時、実際に団体観覧=団観で、特定の学校ではあるが、中学生や高校生が教師の引率により集団でこの映画を観に映画館に足を運んだ。<ref name="毛沢東">Wikipedia「毛沢東」 ・1974年4月ゴールデン洋画劇場TV初放映前後編の新聞番組紹介記事1000字。</ref>。 |
|||
=== プロローグのナレーション === |
|||
本作品は、1960年代から公開初期の約十数年~二十年、冒頭のプロローグにおけるナレーション([[バルタザール|バルサザール]]役のフィンレイ・カリーによる)がオリジナルの英語ではなく、下記の日本語ナレーションに吹き替えられていた。 |
|||
'''日本語ナレーション''' |
|||
''「[[西暦紀元]]のはじめ、およそ一世紀にわたってユダヤはローマの支配下にあった。[[アウグストゥス]]帝7年の時、皇帝の布告を以てユダヤ人は全て生まれた地に帰り、人口を調査し、税金を納めよと命令した。大勢の人々がこの国の都、交易の中心たる[[エルサレム]]の森に集まっていた。その古い都は、ローマの権力のはだかる[[:en:Antonia_Fortress|アントニアの城]]、魂と不滅の信仰のしるしたる[[エルサレム神殿|金色の大寺院]]に支配されている。皇帝の命令に服従しながらも人々は古くから伝わる民族的遺産を誇らしく守り、いつか、彼らの内から救いと自由をもたらす[[イエス・キリスト|救世主]]が生まれるという預言者の言葉を忘れなかった。」'' |
|||
<ref name="日本語">1978年鑑賞1:2.76ウルトラパナビジョンリバイバル公開「国映館で完全版前奏・休憩間奏」</ref>。 |
|||
=== 戦車競技 === |
|||
この作品の最大のクライマックスシーンである[[戦車競走|4頭立ての馬車レース]]についての詳細が次項に示されている。[[戦車競走]]、[[チャリオット]]、[[クアドリガ]]。参照の事。 |
|||
== スタッフ == |
== スタッフ == |
||
* 原作:[[ルー・ウォーレス]] |
* 原作:'''[[ルー・ウォーレス]]''' |
||
* 製作:サム・ジンバリスト |
* 製作:'''サム・ジンバリスト''' |
||
* 監督:[[ウィリアム・ワイラー]] |
* 監督:'''[[ウィリアム・ワイラー]]''' |
||
* 脚本:[[カール・タンバーグ]] |
* 脚本:'''[[カール・タンバーグ]]''' ''クレジットあり'' |
||
* 脚本:[[マクスウェル・アンダーソン]](クレジットなし) |
|||
* 撮影:[[ロバート・サーティース|ロバート・L・サーティース]] |
|||
* 脚本:[[ゴア・ヴィダル]](クレジットなし) |
|||
* 音楽:[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]] |
|||
* 脚本:クリストファー・フライ(クレジットなし) |
|||
* 助監督:ガス・アゴスティ |
|||
* 脚本:S・N・バーマン(クレジットなし) |
|||
* 美術:ウィリアム・A・ホーニング エドワード・C・カーファグノ |
|||
* 撮影:'''[[ロバート・サーティース|ロバート・L・サーティース]]''' |
|||
* 衣装デザイン:エリザベス・ハフェンデン |
|||
* 音楽:'''[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]''' |
|||
* 編集:ラルフ・E・ウィンタース |
|||
* 音楽指揮:'''[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]'''(オリジナル) |
|||
* 音響:フランクリン・E・ミルトン |
|||
* 音楽演奏:'''MGM交響楽団'''(オリジナル) |
|||
* 視覚効果:A・アーノルド・ギレスビー |
|||
* 助監督:'''ガス・アゴスティ''' |
|||
* 助監督:'''アルバート・カーダン''' |
|||
* 助監督:'''アンドリュー・マートン'''(戦車競走シーン) |
|||
* 助監督:'''ヤキマ・カヌート'''(戦車競走シーン) |
|||
* スタント:ジョー・カヌート(戦車競走シーン) |
|||
* 美術:'''ウィリアム・A・ホーニング''' '''エドワード・C・カーファグノ''' |
|||
* 衣装デザイン:'''エリザベス・ハフェンデン''' |
|||
* 編集:'''ラルフ・E・ウィンタース''' |
|||
* 音響:'''フランクリン・E・ミルトン''' |
|||
* 視覚効果:'''A・アーノルド・ギレスビー''' |
|||
== 出演者(登場人物) == |
|||
* [[チャールトン・ヘストン]](ジュダ・ベン・ハー)■'''ユダヤ王族(豪族)の王子'''。豪商。裕福で幼少期からローマ軍将校の息子メッサラと親友。裏切りの報復を画策。 |
|||
* [[スティーヴン・ボイド]](メッサラ)'''ローマ軍連隊司令官大佐'''■'''ジュダの親友'''。立身出世の話に呼応せぬジュダを逆恨み。ハー家を陥れるがジュダの報復を被る。 |
|||
* ハイヤ・ハラリート(エスター)■'''ハー家の奴隷サイモニデスの娘'''。望まぬ他人との結婚に従う前夜にジュダと恋に落ちる。イエスの教えでジュダを導く。 |
|||
* [[サム・ジャッフェ]](執事サイモニデス)■'''ハー家の執事'''。隊商を取り仕切り富を得る商才に長けた屋台骨。事件後拷問を受けジュダとローマに復讐を計る。 |
|||
* [[ジャック・ホーキンス]](クイントゥス・アリウス)'''ローマ海軍艦隊総司令官大将'''■ガレー船でジュダに出会い命を救われジュダを養子にする。良き理解者。 |
|||
* フィンレイ・カリー(バルサザール)■'''三博士の一人'''。救世主の誕生を祝福したエジプト人。ジュダに信仰の助言と救世主の奇跡の示唆を与える。 |
|||
* [[ヒュー・グリフィス]](族長イルデリム)■'''バルサザール知人のアラブ人'''。ジュダの復讐心に同調し協力する。戦車競走で勝ち、賭けでメッサラの破産を狙う。 |
|||
* フランク・スリング(ポンテオ・ピラト)'''ユダヤ属州総督'''■'''アリウスの友人'''。ジュダに様々な配慮をするが本性は傲慢なローマ人。イエスを磔にする。 |
|||
* [[マーサ・スコット]](ミリアム)■'''ジュダの母'''。分別あるハー家婦人。メッサラにより業病となる。ジュダとエスターに救出されイエスに会えた後奇蹟が起こる。 |
|||
* [[キャシー・オドネル]](ティルザ)■'''ジュダの妹'''。あどけなさ残る少女で母と同じく業病となり死にかける。兄を慕いジュダとエスターの救出で奇蹟が起こる。 |
|||
* ジョージ・レルフ(ティベリウス)■'''紀元37年まで在位のローマ皇帝'''。アリウスの功績を称え褒賞バトンを授けると共に連れ帰ったジュダの処遇を自由にさせる。 |
|||
* テレンス・ロングドン(ドルサス)'''ローマ軍陣営隊長指揮官大佐'''■'''メッサラの腹心'''。最側近。冷酷非道なこともメッサラの命令とあらば進んで実行する。 |
|||
* アンドレ・モレル(セクスタス)'''ローマ軍連隊司令官大佐'''■'''メッサラの前任者'''。預言者の教えと救世主の存在に心が揺れ動いていた。 |
|||
* マリナ・ベルティ(フレビア)'''ローマ人貴族婦人'''■'''ローマでのジュダの交際相手'''。親密にはなるが心身共に思いは固く、エスターを思い恋愛には至らない。 |
|||
* [[ジュリアーノ・ジェンマ]](役名不明)'''ローマ軍将校'''■'''メッサラの部下'''。ジュダの槍の急襲に剣で対抗、メッサラに制止される。[[古代ローマの公衆浴場|大衆浴場]]で賭けの場を覗き見る。 |
|||
<ref name="人物詳細">ハードカバーパンフレット 1959年 A4 英語版1998年 米国知人の無償譲BEN-HUR A RANDOM HOUSE BOOK From MGM 34項 付録絵画6枚</ref>。 |
|||
== 登場人物 == |
|||
* ジュダ・ベン・ハー([[チャールトン・ヘストン]]) |
|||
* メッサラ([[スティーヴン・ボイド]]) |
|||
* エスター(ハイヤ・ハラリート) |
|||
* 執事サイモニデス([[サム・ジャッフェ]]) |
|||
* クイントゥス・アリウス([[ジャック・ホーキンス]]) |
|||
* バルサザール(フィンレイ・カリー) |
|||
* 族長イルデリム([[ヒュー・グリフィス]]) |
|||
* ポンテオ・ピラト(フランク・スリング) |
|||
* ミリアム([[マーサ・スコット]]) |
|||
* ティルザ([[キャシー・オドネル]]) |
|||
* ドルサス(テレンス・ロングドン) |
|||
* セクスタス(アンドレ・モレル) |
|||
== あらすじ == |
== あらすじ == |
||
* (''Prelude'') |
|||
* (''MGM logotype'')''~Prologue&Narration by Finlay Currie~'' |
|||
プロローグ<br/> |
|||
西暦紀元の始め[[ベツレヘムの星|ベツレヘムの星々]]が輝く下、厩舎で[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]]と[[イエスの母マリア|マリア]]の子が[[キリストの降誕|誕生]]した。 |
|||
* (''Fanfare and'' ''[[序曲|Overture]]---Opening Credits'') |
|||
* '' It's written with [[西暦|AD]] XXVI on the [[十字架|cross]].'' |
|||
=== 前編 === |
=== 前編 === |
||
[[File:Charlton Heston in Ben Hur trailer.jpg|thumb|250px|ベン・ハーを演じるチャールトン・ヘストン]] |
[[File:Charlton Heston in Ben Hur trailer.jpg|thumb|250px|ジュダ・ベン・ハーを演じるチャールトン・ヘストン]] |
||
それから26年後、軍事力によって勢力を拡大していたローマ帝国が支配する辺境の地[[ユダヤ]]では、植民地の政務を統括する[[属州総督|総督]]の交代が迫っていた。裕福な[[ユダヤ人]]王族子孫の若者、'''ジュダ・ベン・ハー'''([[チャールトン・ヘストン]])は、新[[属州総督|総督]]赴任の先遣隊軍司令官として戻ってきた旧友'''メッサラ'''([[スティーヴン・ボイド]])との再会を喜ぶ。ユダヤの民が希望の光とする救世主の存在を、彼らの願望にすぎぬと否定する一方で、反逆の火種となりかねない恐怖をも感じていたメッサラは、王家の流れを汲み人望のある友人ジュダにローマ側に協力するよう求める。しかし、同胞の苦難に心を痛めていた彼は、口論の末その誘いとローマに反感を持つ同胞の名の密告を断り、メッサラと決別する。 |
|||
新総督を迎えた日。ベン・ハーの館より瓦が滑り落ちて総督の行列の中へ落下する。暗殺を疑われた彼をメッサラは弁護することなく見殺しにした。混乱のなか母の'''ミリアム'''([[マーサ・スコット]])、妹の'''ティルザ'''([[キャシー・オドネル]])は行方知れずに。自らも奴隷の身分に落とされ、死ぬまで[[ガレー船]]の鎖に繋がれ漕ぎ手となる運命に見舞われる。刑を執行するため護送される中で水を与えられず渇きに苦しめられ、井戸を前に崩れかけたその時、通りがかった一人の男が彼を抱きかかえ、桶より水を呑ませる。 |
|||
新[[属州総督|総督]]グレイタスを迎えた日、ジュダの邸宅から瓦が滑り落ちて新総督の行列の中へ落下しグレイタスが負傷する。メッサラは、事故と主張するジュダに耳を貸さず、部下のドルサスに新[[属州総督|総督]]暗殺の疑いで連行させる。混乱の中、母の'''ミリアム'''([[マーサ・スコット]])と妹の'''ティルザ'''([[キャシー・オドネル]])は行方知れずとなるが、自らも罪人としてタイア([[ティルス]])行きを宣告され、死ぬまで[[ガレー船]]の鎖に繋がれ漕ぎ手となる運命に見舞われる。刑の執行のため[[ティルス|港]]まで護送される中、[[ナザレ|ナザレ村]]で一切の水を与えられず、渇きに苦しみ神の助けを祈りつつ力尽きかけたその時、一人の大工の男がひしゃくを近づけジュダに水を与える。仰ぎ見るその顔と優しさに満ちた手。ジュダは生気を取り戻し、[[ナザレ|ナザレ人]]の姿を目に焼き付けて前を向き歩き始める。 |
|||
ローマ海軍の総司令官アリウス([[ジャック・ホーキンス]])は、マケドニアとの戦いの前に、船倉で強い眼差しを放つ奴隷に目を止めた。それは3年間に渡り信仰と復讐の念によりガレー船の苦役を耐えたベン・ハーだった。実の息子を失い神の姿を見失っていたアリウスは海戦の混乱の最中、彼に命を救われ、心の支えを得た。 |
|||
かくしてアリウスを養父とし、戦車競争の騎手として第二の人生を得たベン・ハーは、ローマ皇帝[[ティベリウス]]の恩恵により市民権を得た。自由になったその夜、彼は無償の愛に感謝しながら、母と妹を探すために故郷へ戻る決意をアリウスへ伝えた。帰郷の途上、救世主を探す博士と出会い、偉大な道を歩んでいる人の存在を知らされる。また'''イルデリム'''([[ヒュー・グリフィス]])からはメッサラの様子を聞かされた。[[アラブ]]の富豪だが、ローマへの敵愾心に盛んなイルデリムは、[[チャリオット|戦車]]競争で常勝を続けるメッサラを打ち負かせようとしていた。 |
|||
ローマ海軍艦隊総司令官'''アリウス'''([[ジャック・ホーキンス]])は、[[マケドニア]]の海賊撃滅の戦いに出向く艦船で、強い眼差しを放つ奴隷に目を止めた。それは3年以上に渡り信仰と復讐の念を秘め、ガレー船の苦役を耐えたジュダだった。実の息子を失い神の姿を見失っていたアリウスは、海戦の激闘の最中彼に命を救われ、味方艦船に戻り戦勝の幸運を得て命の恩人ジュダとローマに凱旋する。ローマ皇帝[[ティベリウス]]の恩恵によりアリウスはジュダを養子にし、[[クアドリガ|戦車]]競争の騎手としてジュダは第二の人生を得た。自由の身となったジュダは、宴の夜、母と妹を探すため悲願であったユダヤへの帰郷をアリウスへ伝える。アリウスはジュダの思いを十分知っていた。そして彼の願いを受け入れる。 |
|||
仇敵の名前を耳にして身の内に燃えるものを感じたベン・ハーだが、エルサレムへ戻る。荒れ果てた我が家には家宰の'''サイモニデス'''([[サム・ジャッフェ]])と娘の'''エスター'''([[ハイヤ・ハラリート]])が隠れていた。拷問により半身不随となっても誠実なままの友との再会を喜ぶが、ミリアムとティルザの姿はそこには居なかった。ベン・ハーの帰郷の報はメッサラの知るところとなり、母と妹を地下牢に閉じ込めたローマ側は、二人を開放しようとして凄惨な光景を目にする。[[ハンセン病|業病]]に冒されたミリアムとティルザは、世間から離れる前に一目でもベン・ハーを見ようと、夜に紛れて屋敷に入ってきた。偶然にエスターは二人と出会い、ミリアムから自分たちは死んだ事にするように約束させられる。 |
|||
帰郷の途上、[[イエス・キリスト|救世主]]を探す[[バルタザール|'''バルサザール''']](フィンレイ・カリー)と出会いジュダは偉大な道を歩む人の存在を知らされる。また'''イルデリム'''([[ヒュー・グリフィス]])の歓待を受け、幕舎の中でメッサラの存在を聞かされた。[[アラブ]]の富豪でローマへの敵愾心盛んなイルデリムは、[[クアドリガ|戦車]]競争で常勝を続ける高慢極まりないメッサラを倒す機会を狙っていた。 |
|||
仇敵の名を耳にして古傷が痛むジュダだったが、はやる気持ちを抑えられず母と妹に会うためその足で急いでユダヤへ戻った。荒れ果てた我が家には家宰の'''サイモニデス'''([[サム・ジャッフェ]])と娘の'''エスター'''(ハイヤ・ハラリート)がひそかに暮らしていた。拷問により足が不自由な身となっても誠実なままの友サイモニデスとの再会を喜ぶが、母ミリアムと妹ティルザの姿はそこにはなかった。ジュダの帰郷はメッサラの知るところとなり、ジュダの母と妹を地下牢に閉じ込めたユダヤ総督府の役人は、生死を確かめるため牢に行き、惨い光景を目のあたりにする。 |
|||
[[ハンセン病|業病]]に冒された母ミリアムと妹ティルザは、牢を追放され人里離れた「死の谷」へ向かう足で、一目でもジュダを見ようと夜の物陰に隠れ屋敷前で我が家を懐かしんでいた。そのとき偶然にエスターと出会う。エスターの、ジュダとサイモニデスに対する優しい思いを気遣いつつも、ミリアムは自分たちが死んだ事にするようエスターに約束させる。 |
|||
二人の愛と切ない思いに応えるため、エスターはミリアムとティルザが既に死んでいるとジュダに伝える。あまりの衝撃で動揺隠せないジュダに、メッサラを忘れ[[ローマ帝国|ローマ]]へ戻り心の平安を得て生き直すことを望むエスター。そんな彼女への愛情を抱きながらもエスターを振り切り、遂に動き始める。箍(たが)の外れた復讐の念をジュダは抑えることが出来なかったのである。 |
|||
* (''[[インターミッション (映画用語)|Intermission]]'') |
|||
* (''[[間奏曲|ENTR'ACTE]]'' ) |
|||
=== 後編 === |
=== 後編 === |
||
[[File:Cuadrigas de Ben Hur (1959).jpg|thumb|250px|戦車競争(右がベン・ハ―)]] |
[[File:Cuadrigas de Ben Hur (1959).jpg|thumb|250px|戦車競争(右がベン・ハ―)]] |
||
巨大な[[クアドリガ|戦車]]競技場で両者は対決の日を迎えた。神の許しを請い、復讐に燃えるジュダは、イルデリムの[[アラブ種|アラブ種の白馬四頭]]を[[クアドリガ|戦車]]に繋ぎ、大観衆が見守る中でメッサラとの闘いに挑む。壮絶なレースの末ジュダは勝利した。レース後の英雄を囲む観衆たちの熱狂の傍らで、メッサラは砂上に肉引き裂かれ苦痛にもがき倒れていた。復讐を遂げたジュダは、迫る死の床で無残な姿となって横たわるかつての親友を目前に、微塵も憐れむ事なく冷やかに見下ろすだけだった。だがメッサラから母と妹が実はまだ生きており業病の者が隠れ住む「死の谷」にいる、と知らされ、驚きと悲しみで胸が張り裂ける。 |
|||
エスターは、ミリアムとティルザが既に死んでいるとベン・ハーに伝える。苦悩を深める恋人に、心の平安を求め生き直す道を歩んで欲しいと願うエスターだが、彼女への愛情を抱きながらも怒りを抑えることは出来なかった。 |
|||
怒り冷めやらぬジュダは、ユダヤ[[属州総督|総督]]ピラトのもとに出向き、親友が傲慢なままで死んだ上に、母と妹を不幸にしたローマを憎み、養父のアリウス家後継の証である指輪を[[属州総督|総督]]'''ピラト'''(フランク・スリング)に突き返した。そして[[ローマ市民権]]をも拒絶した。 |
|||
サイモニデスと共にローマのユダヤ支配を終わらせるため策をはかろうとするジュダに、エスターは「[[山上の垂訓|汝の敵を愛せ]]」とのイエスの言葉を伝える。しかし彼の心は憎悪に支配され、ローマへの反逆の剣を握ることに囚われる。そしてジュダは密かにエスターの後を追い、死の谷の洞穴で生きながらえる母と妹に再会した。拒む母と妹を救出し、エスターのすすめに従って四人でイエスのもとへと向かう。[[ヤッファ|ヨッパの門]]をくぐり街中に入ると目の見えぬ物乞いの老人がいた。街の閑散とした様子を不思議に思い、訳を聞くと[[キリストの裁判|イエスが裁判にかけられて磔にされる]]という。 |
|||
ジュダは、すがる思いで母と妹を連れて裁判が行われている街に繰り出すが、[[ヴィア・ドロローサ|十字架を背負ったイエス]]を見て、かつて罪人にされナザレ村で死にかけたとき、水を恵んでくれたあの人であることに気づき愕然となる。衝動のままに母と妹をエスターに委ね、ジュダは、[[十字架]]の行進のなか思いを秘めた穏やかな表情で目の前を立ち去ったイエスのあとを追う。そして[[十字架]]の重みに倒れたイエスへ一杯の水を差し出す。その時のイエスの眼差しからは、言葉で言い表せない威光と慈愛が溢れていた。 |
|||
ついに[[ゴルゴタの丘]]でイエスは[[キリストの磔刑|磔の刑]]に処せられる。死が迫りイエスの息途絶えたとき、激しい嵐が起きる。閃光瞬く落雷と大雨がイエスの体をつきさし、イエスの流した血が大地を流れ[[ゴルゴタの丘]]の木々の根に深く染み入っていった。空を覆っていた暗雲もやがて去り、陽の光は木々の隙間から水面にきらめく輝きのように差し込んでいった。 |
|||
雨の雫が落ちる邸宅に戻ったジュダは、待ちわびていたエスターに身を寄せて、[[十字架上のキリストの最後の7つの言葉|十字架上のイエス]]が死を前にして『父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです』と言われたと静かに語る。そしてジュダは「その声が私の手から剣や憎しみをも取り去ってくれた」と告げる。 |
|||
穏やかな目とささやく声。エスターは憎しみが消えた素顔のジュダに温かな眼差しを向ける。導かれるまま階段の上を見上げると、そこにミリアムとティルザの姿があった。嵐の中でエスターと共に風雨をしのいだ二人は[[ハンセン病|不治の病]]が癒えていたのである。 |
|||
母や妹に愛おしく寄り添い、ジュダは魂の安らぎを取り戻した喜びをいつまでもかみしめる。 |
|||
夕暮れ迫る丘の上に、[[羊飼い]]が群れをなす羊たちを連れて平地を歩いていく。<br />その向こうには、木柱だけになった[[十字架]]がとばりの落ちかけた空の影となり、まだ静かに立っているのだった。 |
|||
* (''[[ハレルヤ|Hallelujah Chorus]] & [[エンド|THE END]]'') |
|||
== 感動・共感をよぶ演技力とその場面 == |
|||
<ref name="当事者批評と説明">「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング映像約1時間。製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー。</ref> |
|||
=== ユダヤとローマ === |
|||
1,エルサレムに到着したメッサラが自分が指揮するローマ軍団に'''満悦して率いる軍団を眺める'''。<br /> |
|||
2,メッサラとベン・ハーが再会を喜び合い、肩を抱き顔を合わせ親しみの目で'''忍び笑いしつつ感激'''し合う。<br /> |
|||
3,興奮しながら立身出世を説くメッサラと次第にベン・ハーがそれに'''激しく反発して激高に発展'''していく。<br /> |
|||
4,成長したエスターが、数年ぶりに合うベン・ハーを前にして'''恥じらいを隠せずに少女のようにたたずむ'''。<br /> |
|||
5,ベン・ハーとエスターが運命の別れに'''切なさを抑えきれず抱擁し合う。涙を光らせ彼の前を立ち去る時の美しさ'''。<br /> |
|||
=== 友の裏切り === |
|||
6,無実を訴え叫ぶベン・ハーを無視し、'''目配せで部下の兵士に指示'''を送るメッサラの冷酷な表情。<br /> |
|||
7,冷たくあしらうメッサラに母と妹の釈放を'''涙ながらに訴え怒り狂う'''ベン・ハー。<br /> |
|||
8,井戸の前で倒れ'''死を目前に最後の水を求めながら「神よ助けたまえ」と力なく祈る'''ベン・ハー。<br /> |
|||
9,兵士の制止を聞かず、苦しむベン・ハーに水を与え続けるイエス。映画では'''背後しか見せない。威厳と神々しさ満ちた演技'''は世界一有名な人物を、観客のイメージを壊すことなく荘厳に表現している。<br /> |
|||
=== ガレー船の恩人 === |
|||
10,船室のアリアスにメッサラへの復讐を遂げることが生きる力だと語るベン・ハー。淡々さ'''憎しみの強さ'''を引き立て迫力ある。<br /> |
|||
11,アリアスに認められ甲板を後にする途中、ガレー船の船底で櫂を漕いでいる'''奴隷達が目に入り立ち止まる'''ベン・ハー。自由を実感しているというよりも、自分だけが自由の身になることの後ろめたさの表現。<br /> |
|||
12,アリアスの邸宅で酒宴から抜け'''一人故郷を思う'''。彼の思いは一つ。養父アリウスに感謝しつつ寂しさがこみ上げてくる。<br /> |
|||
=== 信仰の迷いと復讐 === |
|||
13,イルデリムの幕舎でバルサザールの語りに'''耳を傾けているうちに心が和む'''ベン・ハー。その昔救世主の誕生を祝い礼拝したことを話すうちに思いが熱く高まるバルサザール。<br /> |
|||
14,悲願の帰郷を遂げ、'''故郷の家の門にキスをして頬を寄せる'''ベン・ハー。あまりに変わり果てた邸宅の姿に打ちひしがれる姿。<br /> |
|||
15,拷問を受け不自由な体になったサイモニデスとベン・ハーの再会。二人強い絆が'''サイモニデスの信仰心を蘇らせる'''。<br /> |
|||
16,帰郷後にメッサラと再会。'''憎しみを露わにする'''ベン・ハー。驚きを隠せず'''動揺する'''メッサラ。<br /> |
|||
17,生きていた母と妹が自分たちの邸宅へ訪れ、エスターに最後の願いを伝える。あまりにも悲しく'''哀れな二人を見送る潤むエスターの視線'''が印象的。<br /> |
|||
18,母妹の死をエスターに告げられ、'''狂おしく泣き崩れる'''ベン・ハー。みなぎる憎しみ。メッサラへの復讐を強く誓い'''荒れた歩み'''で街中へ出る。<br /> |
|||
19,死の床に横たわるメッサラが最後の力を振り絞り'''憎しみを投げつけ息を引き取る'''。冷淡に振る舞ったベン・ハーは母と妹が'''不治の病と明かされ愕然'''とする。生きる意味を見失うこの苦しみ。<br /> |
|||
===母と妹=== |
|||
20,死の谷で'''岩場に隠れ、変わり果てた母と妹の姿を見て流れる涙を止められず'''泣きうなだれるベン・ハー。<br /> |
|||
21,憎しみに囚われるベン・ハーにエスターがイエスの存在を伝える。何を言えど頑なな彼に、失望したエスターが「'''あなたにはメッサラが乗りうつっている'''」と言うと、急にベン・ハーの'''顔から血の気が引く'''。エスターが去った時憎しみに束縛され苦しみあえぐ自分の姿に気づくベン・ハー。<br /> |
|||
22,死の谷へ母と妹を救いに来たベン・ハー。自分の姿を見られて離れる'''母に寄り添い、目を潤ませながらかぶせた布を開いて病をさらす母の目を見つめ'''、その思いを汲み取る。泣いて拒む妹も救いだし'''労わり強く抱きしめる'''。<br /> |
|||
===イエス=== |
|||
23,ユダヤ総督の裁判の後十字架を負い群衆の中を歩くイエス。'''重みに体が揺れ倒れ潰されても立ち上がり、また裸足で地面をつかむ。一歩また一歩。'''<br /> |
|||
24,処刑の丘に向かうイエスに'''恩返しの水を持ち運ぶ'''ベン・ハー。イエスの顔を見た瞬間目を見開き'''心和らぎ不思議な雰囲気'''に支配されていく。<br /> |
|||
25,ラストシーン。家族の絆を再び取り戻し、希望とやがて来る幸福に期待を寄せながら、'''いつまでも肩を寄せ合う'''4人。<br /><br /> |
|||
== 戦車競走シーン == |
|||
<ref name="レースの実際">「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング映像約1時間。製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー。</ref> |
|||
=== 競争のストーリーライン === |
|||
戦車競走の展開の仕方はまさに「エキサイティング」である。人によっては、「アドレナリンが止まらない」「見てられない」、「怖い」、「面白い」などさまざまである。印象はどのように抱いても人それぞれで肯定も否定もすることはない。しかしその時に得られる感じ方や印象の質は、映画におけるストーリーラインの影響を存分に受ける。これは紛れもない事実である。戦車競走に至るまでの物語を堪能して後にこのシーンに没頭すれば心地よくもなるし後味が悪くもなるだろう。そんな現象を引き起こす戦車競走シーンの流れを見ていく。 |
|||
* 総督ピラトのハンカチが落ちる |
|||
* スタート合図のフラッグが振り下ろされる。 |
|||
* 全御者9台が一斉にスタートする。メッサラがコースの内側に入ろうと敵御者の戦車を押しのけて割り込む。 |
|||
* 最初のコーナーにさしかかると、敵御者が遠心力で戦車を空中回転させてしまい大破、投げ出される。 |
|||
* メッサラのブラックデビル鋸戦車は次々と敵の御者を妨害し走路に割り込み前に出る。 |
|||
* ベン・ハーは戦車列中間でメッサラを追いかける位置におり中々先頭に追いつけない。 |
|||
* メッサラが緑衣装のコリントの御者に攻撃をしかけ戦車は破壊される。落下後逃げるも大事故。 |
|||
* 遂にメッサラが先頭になるが3回目のコーナーでベン・ハーが並走。メッサラは彼を妨害し列からはじき出す。同時に並列で疾走の敵御者が戦車大破で落下。 |
|||
* 7周目、ベン・ハーは列に戻り追いつきメッサラと並び始める。メッサラは横にある敵御者二人の戦車に割り込み破壊。二人の御者は落下。 |
|||
* 再度コーナーが迫るがメッサラが内側コースのベン・ハーに押し寄せ、障害物に当たるよう幅寄せする。ベン・ハーは障害に乗り上げ跳ね上がるがしがみつき戦車に這い上がる。 |
|||
* 執拗なメッサラの攻撃。近づくと鞭を放つ。そのうち二人の戦車の車輪がからみメッサラの戦車が破壊、落下。蹄に踏みつぶされ大怪我。 |
|||
* ベン・ハーが優勝しゴールする。 |
|||
=== 俳優の演技 === |
|||
* 9台の戦車の御者全員緊張の面持ちである。スタート合図を待つメッサラだけはあからさまに苛立ちを見せる。 |
|||
* ベン・ハーは手綱を引き寄せ腕に巻き付ける。表情は険しく視線をメッサラにも向ける。完全戦闘態勢に入る。 |
|||
* レーススタートと共に御者は全員前のめりである。歯を食いしばってゆがんだ表情の御者もいる。 |
|||
* 吐息が荒くなり口が開いてくる御者の姿が見える。メッサラは常に歯を食いしばり口を尖らすなど勝気な様子。他の御者も使っていたがメッサラの鞭の使い方が半端ではない。 |
|||
* ベン・ハーはイルデリムの教え通り決して鞭は使わず手綱だけで馬たちをコントロール。 |
|||
* ローマ人の応援席には総督とその側近やメッサラの部下が集合している。みな無表情。ピラトとドルサスは事故があるたびにリアクションする。事故の大きさに合わせて動作が大きくなっていく。 |
|||
* イルデリムが「ローマの豚野郎」と悪態をつくが、馬たちを愛していて声援を送る。拳や腕を大きく上げベン・ハーにも大声援を送る。 |
|||
* ローマ人たちはメッサラの敗北に険しい表情を見せる。特に総督ピラトは唇をかみ手を当てている。 |
|||
* ドルサスはメッサラの事故に目を疑い、動揺し、応援席の場から走り去る。けが人救護の場に駆け付ける。 |
|||
* ベン・ハーは勝利するもメッサラに複雑な心境なのか笑いもせず怒りも見せない。しかし競技場の応援者たちには笑顔で応える。 |
|||
* 総督ピラトは無表情で月桂冠を授け「出過ぎるな=調子に乗るな」と忠告を加える。親友の養子の勝利に全く喜びを見せない。 |
|||
=== エキストラ・無名俳優の演技や動作 === |
|||
* 御者のスタントは「落ちる」「地面にたたきつけられる」「引きずられる」「投げられる」「馬にけられる」など痛々しい危険を承知で臨んでいる。並大抵ではない。実写であり、生身の現象を映像として撮影し編集作業によりリアル感を出している。 |
|||
* 競技場の観衆は大声を出しながら手や腕を振る動作を何度も繰り返し撮影している。ベン・ハーの勝利の歓喜にわく雰囲気は実際のスポーツ観戦と同じ感覚で自然に出てきた感情や動作でもありイタリア人エキストラの奮闘ぶりに感心する。 |
|||
* イタリア人エキストラには当時制作側の映画撮影の運営上で色々な問題が起こり困惑したという記録もあるが、演技に関してはスペクタクル史劇の醍醐味を浮きだたせる意味で大きな役割を果たした。 |
|||
* 観衆の細かい反応については撮影監督がいくつかの指示を出している。代表的なもので言えば戦車競走の応援シーンや、事故が起きたときのシーン、特に一斉に総立ちになり両手を挙げて叫ぶ仕草を見せるシーンは非常に効果的であった。ローマの貴族たちや下級兵士たちが総立ちになるシーンも同様である。 |
|||
* 素晴らしい成果としては、アドリブにより戦車競走の雰囲気を本物のその時代の民族の心理を反映させて演技した点であろう。レース会場の砂場のコース上に飛び出たり、指示されてもいない演技を自分でとっさに思いついてカメラの前で演じたり。アドリブが的を射ていてワイラー監督やアンドリュー・マートン、ヤキマ・カヌートも胸をなでおろした。 |
|||
=== カメラの配置と移動 === |
|||
* カメラは定位置においての固定撮影、専用トラックに載せての撮影、クレーン撮影など様々な手法がとられた。 |
|||
* 固定位置での撮影では例えばコーナーを曲がる御者たちの全景を撮影する場合、応援席から走路のレースにくぎ付けになるピラト総督を撮影する場合、ロングショットまたはアップでの走路落下後のスタントマンを撮影する場合がある。 |
|||
* 専用トラックにカメラを乗せて撮影するシーンはまさしくこの映画のメインである。アクションシーンはほとんどこの撮影によって映像化された。 |
|||
* クレーン撮影は、高く掲げて上空から競技場中央の島にある巨像をフレームに入れながら、コースの御者たちの走りや行進を撮影する場合、戦車競走の時コーナーを曲がる複数の御者たちの動きを角度を変えて撮影する場合その他で使用されている。 |
|||
=== 色彩(テクニカラーを活かす設定) === |
|||
* 砂は淡い茶色、競技場を作る岩石は赤みががった茶、巨像は古さを感じさせるブロンズ。 |
|||
* 旗や装飾用の垂れ幕が赤、青、緑、白など。ベン・ハーの戦車は白地に金の枠模様。メッサラの戦車は赤地に金の鷲模様。 |
|||
* 御者の衣装としては紫や銀、茶、黒、赤、緑、白にピンク系赤ライン、ヒョウ柄、緑と赤線、なめし皮のこげ茶。 |
|||
* ローマ人の衣装には白と赤が目立つ。マントも赤。甲冑は銀。アクセントのついた柄も入るが総じて赤の線はほぼ必ずと言っていいほど入っている。アクセサリーは金銀。メッサラの兜は金。 |
|||
* 周回を数えるイルカの像は金。見上げた空の色は鮮やかな青。白い雲 |
|||
* 馬の色は白、黒、明るい茶、グレー、濃い茶で濃い色系は艶が目立つ。 |
|||
* 御者のケガではベン・ハーとメッサラの負う傷が濃色のリアルな血液の赤でメイクされている、あるいは剥がれた皮、剥き出た肉の色である。古い映画の絵の具の赤ではない。 |
|||
* 観衆の衣装については千差万別でどの色の服も着ている。大方茶系、赤系、白系、黒系が主であるが、中には青や緑の服も混ざり込んでいる。但し主な登場人物である御者やローマ軍兵士の衣装や、ローマ貴族の鮮やかな装飾物の色の派手さに影響がないように、一般人には「淡い色」が使われていた。 |
|||
=== 表現の制限とエンターテインメント === |
|||
* レイティングについて、戦車競走のシーンはエンターテインメントとしての役割があることからすれば、表現は大げさであり、ショッキングであり、鮮やかであり、非日常であることが必要である。しかし観覧者を守るためには表現の自由はありつつ制限されるべきものも少なからずある。本作品はレイティングではGである。確かに上映時5歳児も映画館に入れた。 |
|||
* この映画を青年や通常の現役世代に観覧させればほぼ鑑賞するに大きな問題はないと言える。だが婦人に見せると、怖がり目を背け退出する事があった。感性は人それぞれである。 |
|||
* 流血や打撲を受けるシーン、戦車に巻き込まれるシーン、引きずられて皮がむけるシーン、上体を丸ごとへし折られるシーンは、ロングショットもアップもありながら衝撃的である。 |
|||
* 制作側としては、ケガに至る「詳細な過程」までは描かず、事故「後」のケガの症状を見せるに留め、残酷度もやや控えめとも言えるであろう。そこでは嫌悪感も最大にはならない。 |
|||
* 「パッション」のキリストの磔刑に比べるとこの映画はリアルな見応えも重視しつつエンターテインメント性にも重きを置いている。 |
|||
=== 4頭立ての馬車と馬たち === |
|||
* 1925年制作の映画では危険な演技に何頭もの馬が犠牲になった。そういう意味では1959年版では昔の経験や反省を生かし頭数を増やし疲れさせない、役割を与えてその馬が得意な演技に特化して出演させる、調教の段階で馬を選別し教える内容を決める、飼育に気配りするなど念入りに馬の調教や世話を見るなどした。 |
|||
* 映画では走りがそろう場合とそろわない場合がどうしても画面の一部には見えてくる。4頭でそろえること自体大変なことで馬のせいではない。 |
|||
* 撮影で使用した馬車は練習用と本番用に作られていて破壊されたものもいくつかあった。本番用は華やかなつくりであったがどれもスプリングが付いていない古代の戦車なので御者役の俳優は御し方で苦労することが多かったという。特に車輪が土砂の表面そのままに揺れ動いてしまう事、それからコーナーを曲がるときに車輪の車軸も連動して勾配がかからないので横滑り現象が起こり危険な状況も多々あった。ヘストンやボイドはそこはできるだけスタントに任せている。 |
|||
* ベン・ハーの馬車とメッサラの馬車がこすれ合うシーンは実際には戦車の構造上ありえない。そこで戦車の位置を固定した馬のつなぎの器具から移動設置して近接するようにした。 |
|||
* 近接する戦車でできた事ではメッサラの鋸式の刃がベン・ハーの戦車の下部に当たり手すりが破壊されてしまうシーンである。実はこのとき下部しか映していないが、見えない上部では両方の乗り手スタッフ二人が互いに腕を肘から引っ張り合って近づけてできたシーンである。そのうち一人は助監督アンドリュ・ーマートンである。 |
|||
=== 歓声 === |
|||
* 歓声はほとんど外部で録音した音源の音響処理による合成である。 |
|||
* 戦車競走の場面では一番歓声の効果が出ているシーンがある。コリントの御者が真正面から衝突を受ける残酷なシーンだ。 |
|||
* 御者を紹介するときの歓声でユダヤを紹介したときに大音響で歓声が沸く。これも効果的である。ローマの紹介で歓声がないのは皮肉である。 |
|||
* 戦車競走が終わった時、大喜びでコースに降り立ってベン・ハーの戦車に集まり観衆が褒めたたえるシーンでの歓声は長い。 |
|||
* ベン・ハーが優勝し、総督ピラトから勝利の冠である月桂冠を授けられる。このシーンではよく聞くと現場での音声と重ねられ合成された音声があることに気づかされる。 |
|||
=== 競技場のオープンセット === |
|||
* ただひたすらにスケールが大きい。もちろんマットペインティングによる補完的な映像が伴っているので、観衆席も積み重ねられた。大スペクタクルであり大パノラマになっていてこの映画のセールスポイントである。競技場の全景シーンになったとたんに圧倒される。期待感が高まる効果は並大抵のものではなかったという。 |
|||
* 実際にはあの時代、この規模の競技場をユダヤに作ったら、ユダヤ民族は黙っていなかったであろう、と時代考証の担当学者は述べている。当時は戦争の雰囲気もありまたその昔は外部勢力に対し戦争を仕掛けた歴史もユダヤにはあったという。自国を外国によって損壊、他文化の象徴の建造物を据えられたら。ユダヤ教に畏敬の念を持つ民族である彼らは、ローマの文化を受け入れることに否定的になった事も想像に難くない。映画だからできたプロジェクトである。 |
|||
* 中央に4個の巨像を持つこの競技場のオープンセットは1周600m~700mにもわたるものであったが、巨像の高さが9mもあった等は史実からは不明。コースの幅は戦車9台が一列に幅を取るほどのものではなかった。今ローマには、撮影で使われたという[[チルコ・マッシモ]]が遺跡として残存し、映画のアンティオケの戦車競技場の面影が味わえる。御者たちの入場のとき、戦車整列場所からコースに出るシーンで、ヘストンを撮影した側面に映るオベリスクや巨像が立つ中央分離帯縁石にあたる芝生の盛りあがりが、その跡を残している。現在は周辺に建造物があり競技場の周りを木々が防風林のように林立している。庶民には生活の場として時々スポーツの競技会場に使われたり、ランニング・ウォーキングの場となり静かな佇まいを見せている。 |
|||
* 撮影当時の1950年代後半、競技場の外にはローマの市街が遠望できる。その写真も公開されている。観覧席の高さは実際は10m~15m。その上は映画の視覚効果でマットペインティング処理された。岩場に囲まれていたりその上にも観覧席が見えるのはそのためである。 |
|||
* 4個の巨像はローマ神話の神々である。ローマ属州となったユダヤの悲劇を暗に示している。 |
|||
* 競技の際に戦車が周回する回数を表示して知らせる器物があったのは確かである。それは高く掲げられた柱に横並びで設置された金のイルカの像であった。映画では9個。 |
|||
* 映画の撮影が終了すると、他の低予算映画で利用されないように、これら大型撮影セットは取り壊された。一時期まで巨像は所定の場所に保管されたままだったというがスーパーマーケットの建設で完全に取り壊された。 |
|||
== 映画の二つの舞台 == |
|||
<ref name="古代ユダヤ(現イスラエル)出典文書"> [[ユダヤ人]]・[[イスラエル]]・[[ヘブライ]]・[[パレスチナ]]・[[イエス・キリスト]]・[[十字架]]・[[聖書]]・[[ローマ帝国]]・[[ラテン]]・[[磔刑]] |
|||
</ref> |
|||
=== 地理 === |
|||
紀元1世紀ごろ、'''イエスが活動した地域は広義では[[ユダヤ]]に始まる。'''現代で言うところの[[イスラエル]]で、当時のユダヤは、ユダヤ属州として'''[[エルサレム]]地方'''、'''[[サマリア]]地方'''、'''[[ガリラヤ]]地方'''がローマの支配下にあった。ユダヤ直下では'''エルサレムが都市'''として栄え、ジュダ・ベン・ハーはこの地域に住んでいた。その市中に'''隣接するように[[ベツレヘム]]'''が位置していた。ガリラヤ地方と'''サマリア地方の境にはナザレの村'''が存在し,イエスはここで青年期までを過ごした。ゆえにイエスは[[ナザレのイエス|ナザレ人]]とも呼ばれる。 |
|||
=== ユダヤとイエス・キリスト === |
|||
ナザレから少し離れたガリラヤ地方に「[[カナの婚宴|カナの婚姻]]」で有名な'''カナの地'''がある。そこから少し離れた地には湖があり'''[[ガリラヤ湖]]'''と呼ばれた。そこから'''[[死海]]にまで長い距離に渡って注ぐ[[ヨルダン川]]'''では、[[洗礼者ヨハネ]]がイエスに[[バプテスマ]]を授けている。エルサレム中心街のはずれには'''[[ゲッセマネ|ゲッセマネの園]]'''がありそこから続いて構えて立つ'''オリーブ山で十字架の死を受け入れるべきか否か、神の御心を問う祈りを捧げ'''、12使徒のひとり[[イスカリオテのユダ|ユダの裏切り]]により苦痛と葛藤を経て権力者たちの手下に逮捕連行される。その後[[大祭司|祭司]]による尋問、そして映画ではユダヤ総督ピラトによる裁判が行われイエスの覚悟のもと十字架刑となるのである。 |
|||
=== ユダヤの土地風土 === |
|||
十字架の行進ではエルサレムの中心街から外れの丘までの人ごみやローマ兵による罪人たちの虐待が描かれているが、建物がひしめき合っている中、石畳や泥の通路をイエスと2人の罪人は歩んでいく。実際にはこの映画のように裁判シーンで1000人規模の大群衆が押し寄せたかどうかは定かではなく、本作品以外に磔刑を描いた他のキリストを主人公とした映画作品で、ほんの少しの人通りを抜ける程度の十字架の行進が描かれていることもある。磔刑が描かれる場所はエルサレム市中など諸説あるが、映画ではエルサレム郊外の'''ゴルゴタ'''の丘での磔刑が描かれている。エルサレムおよびその周辺はもともと'''[[石灰岩]]の石切場であった'''ため白い岩場や建造物が多数みられるが、ゴルゴタの丘も同様であったと推測できる。ただこれに関してもいまだ正確な位置は分かっていない。映画の中では緩やかな平地の外れに少し盛り上がった小丘があって、そこにローマ軍の[[ケントゥリオ|百人隊長]](百卒長)の指示により数人の兵卒がイエスを十字架に打ち付け、ロープで引き揚げ木柱を落して立ち上げる。ゴルゴタという語句の語源はアラム語の'''頭蓋骨'''の事である。 |
|||
=== ユダヤ言語の歴史 === |
|||
ユダヤではかつて王政があったはるか昔の紀元前とその後の復興も含め'''[[ヘブライ語]]'''が母国語として使われていたが、バビロン捕囚以後'''[[アラム語]]'''の影響を多大に受けるようになり、ヘブライ語自体が衰退する時期を経験する。'''イエスの話した言語はこの時代にはアラム語であった'''とされる。映画「The Passion Of Christ」はキリストの受難を描いた[[メル・ギブソン]]の制作監督作品であるが、全編にわたりユダヤ人はアラム語のセリフを話す。チャールトン・ヘストン主演の本作はハリウッド映画全盛期を経て下り坂に差し掛かった時期の制作であるが、米国はまだ世界への映画配給における利権を握る国家であり、外国が舞台であっても英語が常用語で作品が作られていた。 |
|||
=== 舞台ローマ === |
|||
映画ではローマを舞台にした場面もあるが、ティベリウス皇帝の歓待を受けるローマへの凱旋シーンと、ローマ人アリウスのパーティーのシーン、アリウスが皇帝ティベリウスの褒賞に、ベン・ハーの処遇を自由にさせる議会の間くらいである。あとはほとんどすべてエルサレムを中心としたユダヤ属州・エルサレムが舞台である'''。 |
|||
=== ティルス・ティロス(タイア)地域 === |
|||
ベン・ハーが牢獄に拘束されタイア行きの宣告を受けて愕然とするシーンがある。タイア行きというのは「[[ティルス]]」行きと言う意味である。地理的名称は時代や現地の言葉か外国語かで相違が出る。英語では映画のセリフ音声を聞く限りでは「タイウリュイス、タイアリュス、ティリュス」と発音している。日本語訳では字幕や音声で「タイア」と簡略化された。地中海に面した漁村(港)として現在も残存しているが、マケドニアとの抗争後に最大限の抵抗を続け奮闘するもその支配下に落ちる事となった。かつての繁栄の跡は今はない。ローマ帝国支配時代の遺跡はいくつも残っている。映画の中でベン・ハーが衝撃を受けるのはその場所が[[ガレー船]]の寄港停泊地だったからである。即ち罪人としてティルス行きになる=[[ガレー船時代の海戦戦術|奴隷となり、一生涯船漕ぎ]]にさせられることを意味するからであった。ベン・ハーの時代後もローマ支配に影響を受け、中世にキリスト教圏に入るが、その後内外部勢力のイスラムの力により変遷を遂げ、重要拠点とは認められなくなり粗末な扱いを受け衰退する。 |
|||
=== 護符 メズザ === |
|||
大工ヨセフの作業場に入る老人が入り口近くで傍らにある札のようなものに触れて指に口づけするシーンがある。同様に、ベン・ハーの邸宅の入り口にも埋め込み式で縦長の筒のようなものに同じ動作で触れてから屋敷に入る。あれは'''護符=[[メズーザー|メズザ]]([[メズーザー|メズーサ]]または[[メズーザー|メズーサー]]、[[メズーザー|メズーザ―]])である。'''古くは旧約聖書の出エジプト記の[[過越|過ぎ越しの儀式]]で羊の血を門柱に塗り付けて悪運を寄せ付けない(エジプト人に下す目的の神の怒りと罰をへブル(ヘブライ)人【ユダヤ人】が避ける)ための行為であったが、伝承により形を変えて紀元1世紀の時代にも受け継がれていた行為である。一番印象的なのは、アリウスのもとを離れ、イルデリムの歓待も遠慮して母と妹に会いたいためにジュダ・ベン・ハーがいち早く邸宅に帰ってくるときのシーンである。荒れた邸宅の門の前に立ち、ジュダ・ベン・ハーは変わり果てた我が家への積年の切ない思いを届けるように門へ倒れかかり、[[メズーザー|メズザ]]に愛しく頬をすり寄せてキスをする。心に響き共感を得る名シーンである。 |
|||
=== 俳優の出身国での演じ分けと言語 === |
|||
「ベン・ハー」はアメリカ映画で2作目も3作目のこの作品でも英語を言語としてサイレントで字幕が表記され、トーキーで台詞を発し演技している。制作記録には、イギリス人俳優が主にローマ人を務め英語で演技をし、アメリカ人俳優が主にユダヤ人を務め米語で演技をしたとされている。ただ例外もあり、アラブ人のイルデリム族長をイギリス人俳優が英語を使用し、ユダヤ人エスターをイスラエル俳優が英語を使用して演じている。アラブ族長イルデリムを演じたヒュー・グリフィスはイギリス:ウェールズ出身で、エスターを演じたハイヤ・ハラリートはパレスチナ。建国後のイスラエル:ハイファ出身だった。よって純粋に自国の人物を演じた主要な俳優はハイヤ・ハラリートである。古代ユダヤは今イスラエルとして国家が存続している。イスラエルの公用語はヘブライ語や稀にアラブ語モあるが少数。彼女自身は英語を話す。イスラエルには英語を話せる人たちが多い。最大の理由は世界各地特に英語圏からの移民が多かったからとされる。また交易や商業で外国人と接することが多かったのも理由にあげられる。 |
|||
<ref name="example">「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル2001年チャールトン・ヘストン音声解説。</ref> |
|||
=== ローマ帝国時代の言語 === |
|||
紀元1世紀ごろのローマ帝国はラテン語を話していたとされる。特に半島の中部地域に住んでいたラテン人が使用していた言語であり、これが当時の公用語として広まった。他の言語が乱立する中でラテン語が大きくその時代に広められていったのは、首都ローマが近接していたからである。つまり当時のローマ帝国の人々が使用していた言語だという事である。ローマ帝国の言語であるラテン語はその軍事力による勢力拡大と同期する形でヨーロッパ西部地域や北アフリカ、そしてアジアの一部にまで広がった。その後東ローマが滅亡するのを皮切りに衰退し、現代ではイタリア国内で使用する地域はごくわずかである。世界最小の国家バチカンは公用語として未だラテン語を使用しているが、通常は会話言語としての利用はあまりない。だが、文献としてはラテン語の書物が古い時代から現代に至り多くが残されているので考古学など科学的な研究や調査のためにラテン語を学ぶ識者も多い。大学など高等教育を受ける心得がある立場の人たちにとっては重要な言語である。医学用語もラテン語が多い。文化遺産として重要なものであるので保存する価値を持っている言語である。 |
|||
== T字型の十字架とラテン十字架 == |
|||
=== 教会・結婚式の十字架 === |
|||
映画ではT字型の十字架が使われている。通常の生活の中で我々が目にする十字架と言えばラテン十字架のほうである。街中の路上アクセサリーの小売り商売の人々が売っている首掛け用の十字架もラテン十字架。結婚式に教会へ足を運ぶことも時々あるが、教会式結婚を選択した友人の祝いの場で席に座ると、牧師や神父が演台を前にして挙式の儀式の進行をするため聖書を持ちながら立つ。その背後の壁正面に掲げられているのはやはりラテン十字架である。場合によってはイエスの彫刻の人形がかかっている。処刑の時と同じ姿である。 |
|||
=== 映画の十字架 === |
|||
ところが、本作品「ベン・ハー」でイエスが処刑される時の十字架はラテン十字架ではない。別の十字架である。つまり形が違っているのである。あの十字架はT字型十字架である。これはラテン十字架と違い、頭頂に突き出る木柱がないのである。イエスだけでなく二人の盗賊の罪人もT字型十字架でであった。聖書を題材としたもっとも有名でかつ多くの賞賛を得た著名な映画でありながら、なぜ通常の教会で見かけるキリスト教のシンボリックなラテン十字架の形をとらなかったのか。疑問がわいてくる。 |
|||
=== 異教のシンボルの十字架 === |
|||
歴史を調べて明確になる事がある。一つはキリスト出現前では処刑に使うラテン十字架はキリストの話も出ないはるか昔、ヨーロッパや西側にあるアジア圏で異教のシンボルとして扱われていた(例えばナチスの卍などの雰囲気で)ことだ。3世紀ごろにあるキリスト教有力者は信徒たちがその時までラテン十字架を崇め大切にする様子を見て激しくとがめたという。異教が良い悪いは別として当時はそのように自画自賛的風土が教会内にあり、他を排斥するのが良しとされたのである。ラテン十字架はその後避けられるようになって6世紀までは宗教画にさえ描かれなかった。 |
|||
=== 映画の十字架はなぜ === |
|||
その後時代的には明確ではないが、頭頂のないT字型の十字架をキリストのシンボルとした時期がくる。それは、2世紀から3世紀その時代に聖人がかけられた十字架がT字型十字架であったという伝承、エルサレムの神殿の地下聖堂に、聖職者の母親が本物の十字架を発見しそれを聖なる日としたという伝承があったからである。これらによってT字型十字架は教会のイメージを良い方向へ導く。ヘストンの映画でT字型十字架が使われた理由はそこにある。しかし時の流れとして一時的に持ち上げられた逸話は衰退していくものである。ラテン十字架は今も存在する。歴史的に信ぴょう性があるからに他ならない。イエスはローマによって磔刑を受けるからである。 |
|||
== 映画のメッセージ == |
|||
<ref name="思想的な表現">映画レビューサイト【Filmarks】と【CinemaScape】の「ベン・ハー」レビューと新約・旧約聖書</ref> |
|||
* 映画は常に何かのメッセージを発している。だからこそ「面白い」「共感する」「感動する」「悲しい」「楽しい」「怒りを感じる」「知的な快感が得られる」「緊張やスリルで感情が高まる」など様々な感情が得られる。疑似体験のなす業である。それらにより泣き、笑い、驚き、怒り、知的満足を得る。小説からのメッセージを織り込みながら映画人たちが脚本に含ませたものまで多くの時代的伝承、社会的・人道的・宗教的・道徳的な言い伝えやストーリーが語られる。チャールトン・ヘストン主演の「ベン・ハー」はルー・ウォーレスの原作を主体に制作されており、かつ1925年制作の[[ラモン・ノヴァロ]]主演作のフィルターもかかっている。この項ではその中から代表的なセリフや使われる言葉・メッセージの文章を取り上げる。 |
|||
* ただし聖書の記述に触れつつ宗教に傾倒するような専門的・学問的記述はできるだけ避けて、それはその道の専門家や宗教者に委ねる。<ref name="出典資料">映画雑誌【スクリーン】と【ロードショー】1974年3月号~1979年1月号のリバイバル公開の紹介記事、雑誌評論家の分析記事。映画レビューサイト【Filmarks】と【CinemaScape】。ローマ・イスラエル旅行記、1973年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。グランドオリオン。1974年視聴の4月にゴールデン洋画劇場TV初放映高島忠夫の解説で前後編の新聞番組欄記事。1977年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。桜坂オリオン。1978年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。国映館。イベントの説教を拝聴したときのベン・ハー談義。日本聖書刊行会 聖書(旧約・新約)新改訳中堅聖書 1970年初版2006年7刷 「いのちのことば社」発売新約聖書ルカ福音書105項~171項、ヨハネ福音書172項~226項</ref> |
|||
=== 救世主の出現の預言 === |
|||
* プロローグでまず示される。英語のナレーションの中でユダヤ人が虐げられる歴史の繰り返しの中で、旧約聖書をよりどころに何度も繰り返し記述されている救世主の出現に民族として心待ちにしているとの下りがあり、切実な海を越えての周辺諸外国や内地の他国、軍事国家ローマ帝国の蹂躙と迫害や圧政に苦しむ民族ユダヤの姿が浮き彫りにされる。 |
|||
=== 養父ヨセフと聖霊により身籠ったマリアとイエス/ヨシュア/イェホシュア/イェシュアの誕生 === |
|||
* 静かな夜空を一つの星が瞬きながら流れ動いていく。これは象徴やデフォルメであろうか。ベツレヘムにいたり厩舎の上で星が止まるが、特別なことが起こるという表現であろう。映画としては非常に非現実的な描き方であっても、救世主を身籠るマリアがヨセフと共にこの厩舎にいることを聖なる事象として表現しているのなら納得がいくものだ。 |
|||
* 厩舎の中の様子をカメラが映す。わらが詰まれその場所にベッドのように平たく敷きなおした場所がありヨセフとマリアは座っている。マリアは手に何かを抱えている。嬰児であるイエスである。ロングショットでマリアを見せながら牛の鳴き声の合間に嬰児のはっきりとした元気な泣き声がシンクロする。泣き声はあくまで明るく愛おしく、優しいマリアの腕の中で響き渡る。 |
|||
* 聖霊により身籠るという現象は聖書に書かれている。書物にはヨセフの事をイエスの養父と書いている。 |
|||
=== 三博士の祝福礼拝 === |
|||
* 三博士は新約聖書には書かれていない。登場しないということである。これは伝承によってあとから語られるようになったことでしかなく、その存在を示す文書も新約聖書での記述も福音書以外でさえ見つからない。架空の存在である。 |
|||
* この物語では三博士が存在したものとしてイエスの誕生に関わり、その教えを聞き、布教に務めたことまでを描いているが、小説ではエジプト人の博士がイエスの十字架上の死で心を痛めイエスと同じく命を落とすという展開を見せる。 |
|||
=== 洗礼者ヨハネのバプテスマ === |
|||
* 映画ではバプテスマは描かれない。地理的にはユダヤ属州内のヨルダン川にヨハネと言う預言者(英語名ではジョン)がいて民衆に「神の洗礼=バプテスマ」を授けていたという。洗礼は、民衆がヨハネのもとを訪れ浅い河原に集まって一人ずつ頭に水しずくをかけて清めるという行為であった。 |
|||
* 安息日以外毎日行われていたバプテスマであったが、イエスがヨハネのバプテスマを受けるために初めて出会ったときには、私こそがあなたからバプテスマを受けるべきと話したという。 |
|||
=== ユダヤの破壊工作 === |
|||
* 先遣隊の司令官として赴任したメッサラが前任のセクスタスの引継ぎの話の中で、ユダヤ人はローマの像を破壊したり、奪ったり、反抗的であると話す。処罰すればいいとメッサラは応えるが、軍の組織があるわけでもなく誰がことを起こしているかさえ判明しないので手の施しようがないと嘆く。 |
|||
* 歴史上ユダヤの支配を実現し君臨した王は実在した。昔はダビデとソロモンが40年近くの長い統治期間で安定した王政を保持したが、その後は数年か十数年に満たない年数で王が入れ代わり立ち代わり王位につき安定しない時代(紀元前600年前後)が続いた。しかし紀元前65年にローマからポンペイウスが侵入し、外国勢力が支配し始めるとユダヤの王は次第に勢力を弱め、離散する。やがてローマの傀儡であるヘロデが王位につき始めると、ユダヤ属州となって実質の王はローマ皇帝として君臨しヘロデはその支配下に甘んじることになる。 |
|||
* ヘロデ王は世襲で数回継承されるが、ヘロデ・アンティパスの時代がイエスの時代と重なる。このときにはヘロデによるローマ帝国の破壊工作などの考えも推奨する考えもなく、ただただローマに服従するか、利用するか、地位を維持するためにユダヤの民を操作しローマの軍人を牽制する事程度しかできなかった。 |
|||
* 映画では、ベン・ハーが破壊工作を目論むことを示唆するセリフをいくつか発している。しかし、イエスの言葉により心を揺さぶられたベン・ハーはその剣を収める事となる。 |
|||
=== 神は心の中にいる === |
|||
* セクスタスがメッサラにつぶやくイエスの言葉である。メッサラは呆れてカプリで休めというがセクスタスはこの言葉に深い意味がある。意味のとらえ方は様々。スピリチュアルにはまさに言葉通りでその形が現実にあり存在するということである。これは普通人には理解不能に陥る。 |
|||
* 映画でのそれは、イエスの語る所の[[ヤハウェ]]神が信仰という行為によって聖書に記された様々な律法、説法、メタファーに満ちた人間の在り方や考え方が支配され、良き行い良き言葉良き出来事の要となるという意味でとらえらる。 |
|||
* 現実面で哲学的に語るとするなら、理性や良心は心の中に存在し生じていて、無くならないと言う意味。同列で考えると謀略や憎しみや嫌悪や差別など悪魔も心の中にいると言える。しかしそれが人間であるとする考えを当時のユダヤ教やキリスト教は同時に認めるのかどうかは不明である。教会では悪魔の存在を認めているがそのコントロールの仕方つまり悪魔を消去・追い出す術を備えよと教える。 |
|||
=== 殺りくは簡単、宗教や思想とどう戦うか === |
|||
* セクスタスがメッサラの軽薄非情な答えに声を荒げるシーンで出てくる言葉である。叩いても叩いても、人の心の中はどう手段を講じても変えることはできないという意味である。表面では従うふりをしても陰では人は自分の思うとおりの事を自分の信念の赴くまま行動に移す。後半でのエスターのベン・ハーの復讐心を諫める言葉に通ずる言葉である。 |
|||
* 実際の世界の歴史の中でも言える事である。戦争は破壊と敵の死を招くが、物欲を満たし個人の快楽を優先したところで別の勢力からの侵略や暴力を受け潰される運命にある。殺戮と言う行為が実は元の木阿弥になり無情であり無力であるという示唆である。 |
|||
* 相手の考えを変える事と自分の考えを変える事ではどちらが易しいか。自己啓発系の問いかけにはこの問いかけがなされる。答えは自分を変える事の方がた易い。相手の考えを変えるには自分の考えを押し付ければよいとメッサラは言うが、その結果は映画で目の当たりにする。相手を変える労力か自分を変える労力か。数学的に度合いを考えて無駄な力や血を出さないということを、長い歴史の中で人類は育んできた。宗教や思想とどう戦うかという問いかけは普遍的で歴史も長い。今の時代を見てもはっきりとした答えが浮かびにくい。この映画がその答えを導き出す。 |
|||
=== ローマ人とユダヤ人 === |
|||
* ベン・ハーとメッサラが再会する。ベン・ハーは頭に乗せたキッパーを取り、歩み寄って抱擁する。互いの話の中に、昔と変わらないな?そうだといいが。と言葉を交わす。これが意味するものは何かは小説やその後の展開を知ると明快になる。物語はやはりメタファーとして支配国家ローマとユダヤ属州の悲しい運命、そして対立を描いているのである。ユダヤ代表ベン・ハー、ローマ代表メッサラ。この二人の対立をローマとユダヤの対立に投影して国家間の在り方を考えさせる映画である。 |
|||
=== 反乱の兆しと圧政や脅迫 === |
|||
* 友人の名前を言え、密告者にするのかお前は?、と言い合いになるシーンはあまりにも激しい。本心の激突である。完全にユダヤ対ローマの構図で会話が激烈にぶつかり合う。憎しみ、不信、猜疑、蔑視、反抗、神の冒涜、我田引水、我儘、名誉欲、無視、差別、強欲、そのすべてにまみれたメッサラがある意味哀れに見える。動機はユダヤに対する恐怖心と差別意識だ。 |
|||
* メッサラは口論の末、ベン・ハーに味方になるか敵になるのかを問うが、ある意味幼稚である。痴話げんかの後に脅迫するのである。二者択一は常人では混乱を招くことは承知事項である。白黒つけるということである。人間の世界は割り切れないことだらけである。中間を認めないという行為は人に難しい選択を迫っている。ギリシアの哲学者アリストテレスの「Golden Mean」、古代中国の儒教学者孔子の「中庸」を目指せないものだったのか。激高する二人には簡単にはできない事だった。 |
|||
* ベン・ハーに注目すれば、彼自身は中庸を保つ努力をしていたが気づいていただろうか。メッサラはローマ人だが少年時代からの友人だから友として大事にした。だから砦に会いに行った。だからアドバイスをして「軍隊を引き揚げろ・自由を返してくれ」と静かに忠告した、だから杯を交わした、だから邸宅に迎え家族と再会させた、だから高級なアラブ馬を贈った、だからユダヤの同胞に話し合ってユダヤの反乱は考えないことで話をまとめた。そうであるならメッサラがどれだけ自分勝手かがわかる。 |
|||
=== 会食の場 === |
|||
* 家族で食事を前にベン・ハーはキッパーを頭にして手を洗い、パンをまず手にしながらミリアム、ティルザと共に神への祈りをささげパンを食べる。クッションを傍らに置き体を斜めに倒しながら少し低い会食テーブルで出された食事を手に取り食する。羊肉は生のままだろうか、スライスされたものを一枚手で皿にのせる。神への感謝の気持ちが現れている。 |
|||
* パンは当時の主食である。石を使い麦などの穀物をつぶしてひく。共和制ローマ、帝政ローマの時代には既にヘレニズム時代からの物が伝わっていた。ヨーロッパ産の物がアジア全域に伝わった。ハー家が金持ちであったことの証拠。 |
|||
* 結局家族の食事のシーンではパンと肉だけ。非常に質素である。時間帯として昼食だろうが少ない。 |
|||
=== 結婚 === |
|||
* エスターは、父サイモニデスの意思により商人であるマティアスの息子デビッドと結婚することになる。彼は自由人かつ商人でアンティオキアで有名だ、とサイモニデスは自慢げに話すが、当時は世界の一部地域、昔の日本と同じで、結婚は本人の意思で決めるものではなかった。 |
|||
* ユダヤでは、ソロモンやダビデなど王政時代の結婚については、奴隷であっても見初めた娘がいたら身分に関係なく自分のものとすることができたという。背徳的な行為ではなく王に許された権利だった。アラブ地域の一夫多妻制につながる。 |
|||
* 映画で解せない部分がある。ロマンチックなので許容範囲だが、元主人のベン・ハーが結婚前の元奴隷女性エスターにキスをするが、そんなことが本当にできたとは思えない。男女関係は計れない。それだけエスターの事を好きになった表現であり一途で真面目なベン・ハーの性格を印象付ける意図が演出にはある。 |
|||
=== 復讐の誓いと信仰 === |
|||
* ユダヤ教には旧約聖書の中に「出エジプト記」があり預言者としてのモーセが登場している。かれがユダヤの民を率いてエジプトの迫害と奴隷制度から逃れ紅海を渡りシナイ山で宿営を行う。そこで神ヤハウェからとされる十戒を授かる。十の戒めで、人としてユダヤ人が守るべき戒律・律法が記されており、その中に「汝、殺すなかれ」との一つの戒めも含まれていた。 |
|||
* ベン・ハーはユダヤ教徒である。ということは十戒を守らねばならない身である。しかし映画は彼に殺人を3回以上行う場面を与えている。 |
|||
* 1回目の殺人牢から逃げる時に看守を金属製留め具の輪にぶつけて殺す。 |
|||
* 2回目にガレー船の看守を首を絞めて殺す。 |
|||
* 3回目にマケドニアの海賊を槍を投げて殺す。 |
|||
* 4回目にメッサラを殺す。ただし小説では大怪我をさせるだけである。 |
|||
* このような流れからベン・ハーの信仰心を疑う。旧約聖書「出エジプト記」には「目には目を歯には歯を持って…云々、償え」の文言がある。同等の償いが必要、こじつけ、あるいは弱者を守るための法など色々な解釈がなされているが、ハンムラビ法典に元は書かれていた内容でもあり、時代のニーズに合わせて人権を守る意図があったと受け止められる。その教えをベン・ハーが知っていたとしたら彼のいくつもの殺人は正当化される。 |
|||
=== 大工イエスと水 === |
|||
* イエスはナザレと言う村に住んでいた。そこで養父のヨセフと共に大工仕事に励んでいた。彼は時間があるとの山に出かけのんびりとすることもあった。理由は神(ヤハウェ)と会話するためであった。映画ではヨセフの友人が怠け者の息子だとあきれるシーンがある。彼は聖書によれば確かに神と会話していた。 |
|||
* 神との会話というのは現代的に考えると「自問自答」。それも良い答えを見つけるためのソクラテスばりの哲学。神に例えていたにしても生き方の答えを見つけるために熱心な思考に傾倒していた点では真面目であり一途であった。 |
|||
* このイエスのもとに、ガレー船の船漕ぎにされる罪人たちの行列が入ってきてナザレの村人が大わらわになる。村人たちの大半は馬に水をやり、求められて兵士にもひしゃくを独占される。ところがなぜかベン・ハーだけには水をやるなと兵士に言われ村人たちは従う。 |
|||
* イエスは思った通り行動に移す。やろうと思ったことが正しいと思えばその通り動くのである。映画ではそこが明確である。だから傲慢な兵士もおののくのである。迫力があるのだ。思いのある彼は水をベン・ハーに与えるが、水こそ命のシンボル。イエスは命を尋常なものとは考えない。水は人間の体の70%を占めるという事から考えても聖なるものであり感謝の源である。映画は全編を通じて水を扱っている。注視して見る点である。 |
|||
=== God Help Me === |
|||
* 神様、助けてください。神よ、助けたまえ。ベン・ハーの断末魔の祈りである。信仰を持っている者の強みであり、頼りである。でも不信心者でも本当に苦しい時には似たような言葉を発する。 |
|||
* 人間にはどこかで「念じれば叶う」という考え方がある。高校野球で応援団席を見たことがあるだろう。点数が拮抗し不安で涙が出るような事がこの時にはある。若いベンチ外部員やチアリーダー、学生が一斉に手を合わせこうべを垂れる。念じるという行為によって何かの力(宇宙の法則と言う人もいる)が願いを叶えるという思いがあるからである。信仰はこれを「神への祈り」と言う。 |
|||
=== まだ死ねない 神の御力で === |
|||
* ガレー船の奴隷になって司令官のアリアスと神の話をする。そのときに自分がまだ死ねないと言う。死ぬのが当たり前のガレー船の奴隷が、「まだ死ねない」と言うベン・ハー。その根拠が神の御力があるからだという。しかしその時すでにアリウスにとっては神は結局いないのだとの悟りがある。なぜなら最愛の息子を過去に亡くしているからであった。 |
|||
* 物語ではベン・ハーの言う神とは自分を助けてくれる神であり、自分の目的を達成させるまでは生かしておくという神。目的即ち母と妹を救い出すこと、そして仇敵を殺すことである。それを神も望んでいる。だから「まだ死ねない」という理屈である。 |
|||
=== それが神の思し召しではない === |
|||
* アリウスから剣闘士になり戦車競技の御者にならないかとの誘いを受けるが興味はない。奴隷として仕えるなどまっぴらごめん。傲慢な態度にアリウスはガレー船の漕ぎ手よりましだと説得を試みるがそれは神の思し召しではないとはねつける。 |
|||
* 思い込みであり信仰でもある。神が望んでいるのは安心安泰になり自分だけが得をすることではない、と言いたいのである。神はベン・ハー自身にさせたいことがあって生かしていると考えていたのである。神の命令によって動いている自分があったという事だ。 |
|||
* 思し召しは信仰世界では神が人間を道具のように使って世界の悪しき状態を良くするという意味を含んでいる。旧約聖書「出エジプト記」のモーセのエジプト脱出でもモーセ自身がへブル人の救出をやりたくてやっているではなく、神が神の言葉神の手神の奇跡によってことの成就を計ろうとする。そこと共通している。「正当な理由」と言う意味付けもできる。 |
|||
=== 外された鎖と水 === |
|||
* ガレー船の中でベン・ハーだけ鎖が外される。そのときに彼はあまりに思いがけない出来事が続くので不可解となる。井戸の水で救われたことから続くありえない出来事の連続。そこでわずかに何かを彼は感じたのである。 |
|||
* 鎖を外されたおかげでベン・ハーはアリウス救出に成功する。それが大きな転機となる。 |
|||
* 水によって命がつながれ、息子を失った司令官の慰みを与えたことで鎖が外され、それによって死ぬはずの運命が変わり、司令官を救出し高級将校の家系を継ぐ有力者となる。転機はこうして訪れた。その過程にはいつも「水」があった。 |
|||
=== 住みにくい気候と聞くが? === |
|||
* パーティーで初対面のピラトとの出会いがある。ユダヤ出身であることから属州に配置予定のピラトはユダヤの事を詳しく聴こうとする。この会話で後半の物語のつながりが動機づけられており伏線となっている。ローマ人にとっては、辺境のユダヤ地域は厄介な地域であるという事がこの後のアリウスとの会話で明らかになる。 |
|||
* ベン・ハーはピラトがローマ人であることを知りつつ普通に接する。アリウスの友人だからという理由だが、ただそのために会話を発展させ懇意になろうとはしない。元々ローマ人に敵対心を抱いているのが彼の本心だからである。 |
|||
* ピラトは戦車競走でベン・ハーの御する戦車に毎回負けている。話題の中にその悔しさも柔和に話すが、本音では屈辱的に思っている。ユダヤが好きでないピラト、ローマが嫌いなベン・ハー。映画はこのすれ違いを全体を通して鑑賞者に意識させ、後半の二つのクライマックスに引き継いでいる。 |
|||
=== 神の真意は測れない === |
|||
* 母と妹を探しに出るため養父のアリウスとの別れが迫る。ベン・ハーの気持ちを察し、移動する日にちや時期について詳しくアドバイスをする。アリウスが同じように家族を失うことの経験を経てきたが故の思いやりであり、アドバイスである。宴の宣言の後であり、アリウスにとってベン・ハーは真の息子であり、愛すべき友であった。 |
|||
* ベン・ハーは実の母と妹を心から愛しており、居所が分からない上に生死さえ分からない。胸につかえる思いを理解しているのはローマ人ではアリウスだけだ。話を聞いてくれたのもアリウスだけ。 |
|||
* アリウスは彼の気持ちが分かるだけに引き留めないが、老人の望みが神に届くだろうかと自分の思いを初めてベランダで吐露する。「神の真意は測れません」。一言そう告げて二人は外気を浴びた後に微笑み雑談を続けながら宴の場へ戻る。少なくとも恩を互いに交換した二人の間には深い信頼関係があった事、そしてアリウスの気持ちを神は無視しないはずだ、というベン・ハーのせめてもの慰めの言葉が信仰や誠意の本質を突いている。 |
|||
=== 失礼あの方かと思った === |
|||
* ユダヤに帰る途中でアラブ人たちの集まるオアシスにつき、井戸の水を飲む。旅の疲れで砂の上で衣服のまま横になっていると一人の老人から声をかける人がいた。これが三博士の一人であるエジプト人、バルサザール。彼はベツレヘムでマリアの初子を礼拝した。その子が今はベン・ハーと同じくらいになっていると言い、近づいてあの方かと思ったとつぶやく。彼にとって今その青年と会うことが願いであった。 |
|||
* バルサザールは期待して声をかけたが、結局ベン・ハーであってあの時の初子ではないと知り落胆する。 |
|||
* バルサザールがどうしてこれほどまでにベツレヘムの初子に会いたいか。それは身内のような親しみであり、孫の成長を見守るような期待であり、信仰を助ける力に触れたい願いがあるからである。預言であっても信じる思いは強いのである。 |
|||
* ローマ帝国に支配されユダヤの民は自由を奪われた。そして生活もローマの利益のために搾取され発展も繁栄も民族の幸福のために進展することはないという諦めに似た感情も支配し始めていた。だからバルサザールにとっては常に気になる存在であり、その発する言葉にも救いを見たい気持ちでいっぱいであったのである。 |
|||
=== 妻はいつか一人持ちます === |
|||
* 族長イルデリムの幕舎で自分の妻の話になる。イルデリムはアラブの出身なので一夫多妻制の慣習を持つ。その話にベン・ハーは自分は一人持つと言う。明らかにエスターの事である。イルデリムがまくし立てても、笑って応えながらその気持ちが本当であることを笑顔で無言に示す。 |
|||
* 原作小説で色恋物語はてんこ盛りであるのに対してこの映画はあくまでも真面目である。エスターの信仰の深さも手伝ってベン・ハーに対する強い想いを描いているので、ある意味それに報いるような返答である。ユダヤ教の旧約聖書「出エジプト記」の十戒の中にある「汝、姦淫するなかれ」「他人のものを貪るなかれ」にシンクロしている。 |
|||
* ベン・ハーが小指にはめる指輪はエスターの指輪である。映画序盤の出会いのシーンで語らううちに恋に落ちる二人であるが、この指輪がストッパーになっていたのと(フレビアの演技場面がカットされなければわかる)エスターへの思いと約束が本物であり、ベン・ハーの一途さも表していてストーリーの魅力を引き立てている。 |
|||
=== 殺すというのか?殺意が見える 殺す権利などない 天罰が下る === |
|||
* 話しの流れからメッサラを殺したいベン・ハーの気持ちは最初から察しが付く。バルサザールとの出会いで気持ちが揺れる。表情が穏やかになり自分を振り返る雰囲気がひと時だが漂う。 |
|||
* どうして揺れるのか。バルサザールはイエスを礼拝した経験がある。そして信心深い。彼はイエスとの出会いと預言者の言い伝えを信じていた。神がなせる技についても伝聞で多く伝え聞いていた。 |
|||
* 教えの中にある様々な言葉の中から導き出されたことは、殺すという行為が人間の冒す罪の中で一番の重罪であるということであった。十戒の中で「汝、殺すなかれ」という言葉がある。だからベン・ハーの気持ちを理解しつつも「相手が誰であれ殺すな」と説くのである。 |
|||
* このバルサザールが説いた言葉には隠れた教えがある。「人を憎まず許せ」である。あとは運は天に任せる事だ。そう言いたいのである。後半で出てくる。 |
|||
=== 私は奇蹟を信じない === |
|||
* バルサザールに言われてさえ憎しみを抑えることはしないと言っている。ベン・ハーの傷心はそれだけ深いのである。どんなにすばらしい「お話」を聴こうが知った事ではない、大事な人をひどい目に合わせた張本人たちを放っておくことの方が罪だ、とさえ思うのがベン・ハーの本心である。 |
|||
* 奇蹟は、思いもよらない、現実的でもない知識や、経験に裏打ちされた理性でも説明できない事象を意味する。慣習としてユダヤ教を信仰しながらもそれはあくまで慣習であり、同胞の行っている事先祖が行ってきた事に忠実に従う慣習であり、慣習を実行することが安心感や平穏を生み出す、それが平和を実現するとの思いにつながっている。 |
|||
* だから信仰はしても突飛な幸福や苦しみからの解放はあり得ないと考えるのである。そんな意味での「私は奇蹟を信じない」である。 |
|||
=== 命こそ奇蹟だよ === |
|||
* 素晴らしい出来事、幸福な時間、金や物で満たされること、結婚で家族に恵まれる事、その他多くの幸福だけが奇蹟なのではないという事である。「命あっての物種」である。命は突発的に成り立つものではない。一つ一つ一見ありえない偶然が重なって起きるものでもない。 |
|||
* 命という事柄として考える。命は先祖代々受け継がれてきたもので、自分の命は父と母のおかげでできたと単純に言い放つことはできない。ここは相対性理論や量子力学、ビッグバン、宇宙、神、という言葉が頻出してきて話が複雑になる。宗教的には初めに神がいてアダムとイブを作った所からの話になる。 |
|||
* この映画の性質上ユダヤ教、のちの原始キリスト教が話の中心を占めるので、その方向から考える。議論はせず、命は奇蹟から始まったと理解すると映画が深く見られる。 |
|||
=== 今羊飼いか漁師か商人か。そろそろ神の御業を始める === |
|||
* イエスの生涯は聖書に書かれている限り正直に言うと詳細ではない。起こる物事に対してイエスの年齢は定かでなく突然時代も進み登場人物も変わりまたは突然いなくなる人がいたり書物の記された量は膨大だが、エピソード単体では話がおおざっぱである。聖書の編纂は旧約は紀元前1000年ごろ、新約は西暦100年~200年ごろである。それも大勢で書いているし統一されていない内容もある。 |
|||
* 以上の事からすれば彼が生まれた時代は本当にAD元年なのか大工の後は別の仕事をしていたのか、ユダヤ全域を回ったとされるがほかに回った地域は本当にないのか、いろいろ興味が湧く。 |
|||
* そうは言えども神の御業と書いてあるように、ユダヤ教の教えの中でイエスのみがその矛盾点、新しい考え方、彼の説くさらなる心理、当時の時代に合った民衆を救うための言葉がけ、勇気づけを行っている。反ローマ・反ユダヤ教神殿祭司の言動は不明確にしているが、実際の志高い行動(ユダヤの在り方・正義の在り方の示唆)は起こしている点は多く記述されている。 |
|||
* 聖書の内容が詳細であるかどうかは議論がある。伝承によるものであるだけにどうしても叙事・叙情双方含まれた内容となり正確さも検討の余地はある。信仰者にとっては唯一絶対の経典であるから内容は読解の趣向に頼らざるを得ない。宗派が多いのはそのためである。 |
|||
=== 神に至る道は種々ある === |
|||
* その言葉通りである。生れた時から家族の影響で・普通のきっかけで・深刻な事態を打開するために人は神の道を歩き始める。バルサザールはベン・ハーに期待する。 |
|||
* 信仰する気持ちはありつつも信頼を持てない・教えや伝道者を疑う・教会の教え自体が自分に合わないなど否定的な感情を経て、やがて時間的に長く触れ、長く付き合い、長く読み深める、説教を何度も繰り返し聞いていく。そういう行動を続けていく中で神に至る道が開ける人もいる。 |
|||
=== ジュダ・ベン・ハー おかげで信仰も戻ります === |
|||
* サイモニデスは自分が拷問にかけられ体が不自由になり信仰を疑い始めていたが、ベン・ハーの生還の事実を目で見、肌で感じ、話す声で確かめたとたんにかつての自分の姿と生活を思い出すのである。 |
|||
* ガレー船の奴隷は1年間も命が持たない。そう主張するベン・ハーは、母と妹の生存を信じていた。自分は3年間以上ガレー船の苦役を生き延びたのだから母と妹も死んでいるとは限らない。彼には打ち消すことなど出来ない希望があるのである。実はそれも憎しみににこそ支えられている。この時点では行動のエネルギーが負からでも正からでもベン・ハーにとってはどうでもいい。生きて母と妹に会い仇敵を殺す。どちらも彼の「希望」。ベン・ハーがアリウスに言われた言葉が蘇る。 |
|||
* サイモニデスはベン・ハーの言葉の良い方の意図を察することで自分を振り返ることができたのである。失いかけた信仰をベン・ハーの一言で取り戻せたという事である。サイモニデスとベン・ハーの絆の強さも信仰のなせる業である。 |
|||
=== 憎しみは毒・愛は憎しみより力がある === |
|||
* 一旦人を嫌いになったらなかなか元には戻らない。人を憎むという行為はさらに難しい。映画の言葉ではあるが近年心理学の発展により、これが証明されている。潜在意識の恐ろしさである。他人を憎んでも、その憎しみの感情は自分自身に帰ってくる。発する言葉は特に影響を与える。罵声を浴びせると、その言葉が自分自身の脳の中にもインプットされる。健康問題で言えば統合失調症にその症状は見られる。だから毒なのである。 |
|||
* 愛と憎しみを並列で考えると矛盾することもある。愛があるゆえに憎しみがあるという論理は成り立ちやすい。しかし憎しみがあるから愛することができるかどうか。考えてみるに中々難しい。 |
|||
* 愛は憎しみより力があるというイエスの教えは、北風と太陽の寓話に共通点を見出す。自分を愛してくれる人は虐めない。自分に良い行いをする人をのけ者にはしない。自分の為に大金をはたいて物やサービスや思いやりを提供する人を憎むことはしない。ほとんどそうなる。もし自分がいたらないとしたらできない時もあるが可能な場合は自分を変えその人の行為に応えるだろう。好意は相手も変える力がある。 |
|||
=== 掛け率は四対一だ ローマとユダヤの差だ アラブもな === |
|||
* 時代は第二次大戦後15年。ナチスのホロコーストがあった事を考えるとこのシーンは確実に戦争の皮肉である。かつてのローマ帝国も共和制から帝政に変わり植民地支配が顕著になって国力増強領土拡大に勤しんでいた。メッサラはそんなローマ帝国のシンボルであり、傲慢さや身勝手さは前半で存分に見せる。 |
|||
* メッサラは民族差別も臆することなく露呈させ、ハー家の婦人二人を拘束し友人さえ罪人に仕立て上げ死刑同然の処罰を受けさせる。ところがユダヤ人の親友ベン・ハーが帰郷してしまった。ベン・ハーと親しかったのは、ユダヤ人だからではない。幼い時のやんちゃ仲間であったことやライオン狩りを共に経験し怖い思いをした事、ケガをしたベン・ハーの看病をしたことがあったからである。 |
|||
* 仲良かったのになぜ決別するのか。それはユダヤ人だからだ。ユダヤ人の反ローマ的人物を庇ったベン・ハーが憎くなった。心の奥ではローマを世界に誇る超大国だとの誇りを持っていた。だから他の国家や民族の事を軽蔑し足蹴にすることによってローマ人である自分に優越感を植え付けていったのである。自分が赴任することになったユダヤ属州を変人の多い田舎者の土地と嘲笑っていたのも彼だ。 |
|||
=== 復讐するわれをお許しください御心のままに === |
|||
* お許しください、慈悲を請う意味である。母と妹を不幸に陥れた相手に対し母と妹の無念を晴らすための気高い行為を認めて欲しいという願いが暗に込められている。 |
|||
* ユダヤ教徒の祈りである。「目には目を、歯には歯を」の言葉通りに行動するが旧約聖書のこの言葉には深い意味がある。復讐の奨励をしているわけではない。だからこそ「御心のままに」という言葉が付け加えられる。 |
|||
* 御心のままに。神の考えるとおりに、神が正しいと思う結果にしていただきますように、神が思われるように私をお守りください。復讐する自分自身にお裁きをください、と言うことだ。 |
|||
* 「目には目を、歯には歯を」という言葉は下の文句が省略され誤解を招きやすい言葉であるが、ユダヤ教の教義に照らせば謙虚さも垣間見られる。誤解は危ない。 |
|||
=== お二人はあなたの幸せを願っておいでです === |
|||
* エスターがベン・ハーが死の谷で母と妹に無理やり会おうとする事は、かえって二人の思いを壊すことになりかねない。その思いとは自分たちの不幸を彼自身が感じ取り、不幸にならないですむようにしたいという思いである。 |
|||
* 家族は最も近しい人間関係である。そしてもっとも共感できる相手である。そこから考えれば身内の不幸を知らせない方が身内に苦悩を抱えさせることもない。映画では死んだことにしているが、それは逆に彼を不幸にした。 |
|||
* ベン・ハーが不幸になった理由。それは憎しみが倍増し、メッサラを殺した事、ローマを憎んだこと。ローマとの戦争計画を立てた事、エスターとの信頼関係が無くなった事、アリウスとの後継関係を解消した事である。 |
|||
* 母と妹を救いベン・ハーが幸福になった理由。とにかく二人に出会い、間近で母と妹の顔を見て慰める事が出来た事、エスターと意気投合し母と妹を救出した事。母と妹をイエスに会わせる事が出来た事。奇蹟が起き母と妹の不治の病が治る事、エスターとの信頼を戻したこと。イエスの言葉に感化されて憎しみや恨みが拭い去られたこと、イエスをキリストと思い始めた事、母と妹の病が治った姿を見られたこと。 |
|||
* 苦あれば楽あり。人間の行動とその結果は、自身の内面の在り方の洞察もそうだが、環境や出会いや事件や時事や天候に左右される。幸せを願わない人などいない。結果を受け止め次の行動を起こすのみである。ベン・ハーに対してのエスターはその調整役だった。 |
|||
===見つけたよ成人された 予言通り 間違いなく神の子 === |
|||
* 大きな声でベン・ハーにかけよってくるバルサザールに微笑みがこぼれていた。やっと「救世主」に会えたのである。ベン・ハーに出会えた時点からイエスの話ばかりしていたバルサザール。喜びをベン・ハーと分かち合おうとする。 |
|||
* シーンは山上の垂訓がこれから述べられるというところ。川の流れが清々しい。対照的にベン・ハーは死の谷からの足なので不機嫌。バルサザールの喜びにも共感できない。というより希望を失いかけている。 |
|||
* バルサザールは垂訓が述べられるというこの瞬間に期待していた。それもベツレヘムで誕生を礼拝したときから。旧約聖書の時代から語られていた救世主(キリスト)とはまさにイエスの事であるとその場で確信しているし、語気が弾んでいてうれしさに満ちている。 |
|||
* この二人の態度が対照的なのである。しかしベン・ハーは大事なことに気づいていない。垂訓を述べようと山上に立つ白衣の人こそあの人だということを。無気力なのだ。 |
|||
=== 昔水をもらった事がある でも今助けてもらう必要なんかなかったこんな命 === |
|||
* イエスに気づいてないままベン・ハーは自分の命の価値さえ否定する。彼に共感できる人もいる。自分の好きな人、大切な人、自分を必要とする人がいなくなったら誰でも一時そう思う。かつてイエスに救ってもらったことは無視しているのが彼の苦悩の深さを物語っている。「ありがとう」、より、「余計なお世話」の心境だ。 |
|||
* バルサザールのどんな誘いの言葉もにべなくはねつけるベン・ハーの心理は、落胆であり、期待外れであり、嫉妬であり、無関心。もしこのとき素直に応じていたら、生きていてよかったと思えたかもしれない。山上には彼がいたのだから。 |
|||
* ベン・ハーが一人で総督の元へ向かうときにイエスが民衆の前に進み出て優しく見守る。その時遠方にベン・ハーが木の横に立ち、すぐに立ち去る。エスターはイエスの話を垂訓の中で聞き、この後のシーンで聞いた説教を彼に語ることになっている。 |
|||
=== 世の中に合わせて生きろ 今ならローマに === |
|||
* 総督ピラトの言葉は冷淡である。アリウスの息子としての扱いと危険分子としての扱いについて警告するが、これが当時の帝政ローマ帝国の本質であった。世の中に合わせて生きるという事はしなやかで可変性があり壊れないという肯定的見方があるが、逆に言えば隷属し、反抗したり抵抗したりせず、穏便にへつらって生きよ、と言う意味でもある。 |
|||
* 当時のローマ帝国は属州をいくつも持ち、それぞれの地域には反乱分子もいて非常に手こずっていた。だからこそのピラトのこの言葉である。焦燥感や、怯え、猜疑心、高慢、支配欲の現れである。数百年たつと東ローマ帝国も滅び、ローマは全滅する。その代わり広範に普及したのはキリスト教であった。ローマでさえ遂にその広がりを抑えきれず国教として据えたのはキリスト教である。「今ならローマに」という言葉も滅びたのである。 |
|||
=== 憐れみ深い人は幸い彼らは憐れみを受けよう === |
|||
* 悲しみや苦の思いを汲みとれる人はそれは良いことである。きっとほかの人からも悲しみや苦を思いやってもらえるだろう。返報性の法則または返報性の原理である。好意には好意が返ってくるのである。エスターが、ベン・ハーの憎しみに満ちている姿を見てこう言う。憐れむとは相手の立場を思うことだ。二人は好き同志なのに考えていることがすれ違っている。信仰の状態が違うからだ。 |
|||
=== 平和を作り出す人は神の子と呼ばれよう === |
|||
* 「神の子と呼ばれよう」との言葉には信仰者には有難く受け止められて自信あふれた人生を歩むきっかけになる言葉でもある。平和を作り出すのは実は並大抵のことではないように感じる。それは規模を家族・近隣・地域・国・世界などのカテゴリーで区分すると同時にすべて実現可能であるとはいいがたいし、一部実現可能でも他のカテゴリーで平和になっていなければ、総崩れになる事さえある。 |
|||
* イエスは何をこの言葉で示したいかを考える。単純に。心の平安や争いごとのない穏やかで心地よく朗らかでいられる環境を人に提供できるのなら、その人は誰からも崇められ尊敬され手本にされ良き行いの指導者として温かく向かい入れられる。そう表現している。世の中に完璧な人や社会や環境は存在しないが、少なくともそれらがすべてそろう平和を実現することこそ究極の神の子の技なのである。 |
|||
=== 国全体を洗い清めるしかない そうだ血でだ === |
|||
* ベン・ハーがまだ怒り冷めやらない中でエスターと会話する。エスターは美しい言葉を並べるが、ベン・ハーにとっては絵空事でしかない。例えどんなにナザレの人が素晴らしい話をしていたとしても、母や妹の病は治る見込みはないし、親友を殺した自分はそれですっきりした気分にもなれない。 |
|||
* ベン・ハーは口論の中で次第に現在の自分が考えていることを口にしだす。良き行いをしたくても心がすさんでいるから穏やかに物事を考える余裕さえない。余裕もないのに説教の言葉を聞かされるから理解するに矛盾点が気になって反発しかできない。 |
|||
* だから彼は考えている。ローマ帝国との戦争を。サイモニデスに話して準備を整えるつもりでいる。そのことしか心中に無いからどんな言葉で説得されても聞く耳は持たない。完全にエスターに抗っているのである。その抗いをローマに向けている。それで手段はということになる。エスターの問いかけに対して答えるのが「そうだ血でだ」。それでこそユダヤは初めて一つの国にまとまる、そう言いたいのである。戦争の肯定である。 |
|||
=== 血は血を呼びます 犬と犬が争うのと同じ 殺せば殺されます === |
|||
* 因果応報について語るエスター。戦争によっておこる悲劇を語り、その思いに駆られているベン・ハーの心の状態に思い悩み、危機感を感じる。そしてそこには大変な事態が待ち受けているかもしれない、という焦燥感も漂ってくる。 |
|||
* ベン・ハーに過酷な運命を背負わせるわけにはいかないと、同じように犬の喧嘩について語る。むき出しの牙で相手を襲う、そして相手の肉を食いちぎり、返り血を浴びるのは自分、死ぬのは相手が先か、自分が先か計れない。もし運よく立ち上がってもまた襲ってくるかもしれない、そして自分も生き返る相手のとどめを刺すように攻撃するかもしれない。半死の状態の時どれだけ苦痛に耐えられるのか。血みどろの戦いの恐ろしさを語る。 |
|||
* 人を殺すという事は相手に苦痛を与える事、同時に殺した相手の仲間に憎しみを植え付けるという事だと伝えている。憎しみが相手仲間に芽生えればどうなるか。そのカタルシスを得るために人は行動するのである。つまり憎しみを抱かせた相手を憎むだけでなく、同じように命を奪うのである。恐ろしい連鎖である。エスターはさらに必死になって訴える。 |
|||
=== 敵を愛し迫害するもののために祈れ === |
|||
* 右の頬を打たれれば左の頬も差し出せと言うイエスの言葉がある。この言葉とリンクする。最も難しい教えである。常人では絶対できない。聖人のみにできる事ではないかとさえ思わされる。 |
|||
* 映画では帝政ローマを好きになりそのローマの為に祈れと言う言葉があてはめられるが、すぐには理解できない。承知もできない。自分に危害を加える者に好意を寄せ笑顔を振る舞い、その者のために祈れと言う。とんでもないと思うが祈る内容に着目することが必要である。イエスが言いたいのは、自分にとって悪行を積む人にも命があり、神の恩恵も受けており、良き人の時もあればそうでない時もある。または自分の意思ではなく他の者の意思を代理で執り行った場合もありうる。悩みを抱え、苦しみを抱えた事も過去現在あった事だろう。だから「許せ」。そしてその者の今後の平安と良い生き方が実現されるように「神の名において祈れ」と言っているのである。自分自身が迫害から逃れるための祈りはでなく、迫害するものの幸せを祈るのである。 |
|||
=== 愛も力になれないのですか? === |
|||
* 壁際に持たれながらエスターは落胆し、自分の言葉にさえ自信を持てなくなってくる。ベン・ハーの激しい怒りと抗いに言葉をなくして、いったい何が彼を幸せに導けるのか困惑して話すのも途切れ途切れになっていく。力になれないのかと話す前に「愛は憎しみより力がある」と彼女は話した。愛さえもとあきらめにも似た口調で語り掛ける彼女は、それでもベン・ハーの話を聞き入れ彼を理解するためにそばに居続ける。 |
|||
=== 憎しみが顔を醜くしてる まるでメッサラが乗り移ったように === |
|||
* 「もう私を愛さないほうがいい」と、ベン・ハーは言う。彼の悲しみ怒りの混ざった声にとうとうエスターは自分の怒りをぶつける。自分が感じている彼の姿をそのまま言葉を荒げて投げかけるのである。エスターはメッサラを忘れて欲しかった、ローマの属州であることに対し、ユダヤ人としての抗議活動を正当化してほしくなかった、憎しみを捨てて欲しかった。つまりメッサラに始まったローマへの怨念を取り払って幸せになる事だけを考えて欲しかったのだ。 |
|||
* そしてエスターは言う。メッサラが乗り移っていると。これ以上の激震は今まで彼の心には伝わる事がなかった。一番の仇敵、憎んでいた彼と同じだとまで言及された。それは自分も憎まれる存在になりうるという恐怖であり、嫌悪であり、エスターからの軽蔑されたという衝撃と心痛である。うなだれて考え込む姿がフェイドアウトで死の谷に移り変わる。 |
|||
=== 神の救いは誰の上にもある === |
|||
* ベン・ハーとの口論があった後日、エスターがミリアムとティルザをイエスの元へ連れて行こうとするときに言う言葉である。死の谷は暗く悲しみに満ちている。そこにいてローマの言いなりになることで一生を終わるのか、藁にもすがる思いで死の谷を出てイエスに会いに行くのか。エスターは後者を正しいこととして行動に移すのである。 |
|||
*けがれている人は救われないとかユダヤ人は救われないとかの差別など神には無いし、イエスもそれ説いていた。この言葉をかけるも始めは拒んだミリアムだった。しかしベン・ハーが突然現れた事が功を奏する。血の力は大きい。ティルザも連れてエスターはミリアムに付き添いその救いを信じて死の谷から出るのである。 |
|||
=== ナザレのイエスに会わせれば魂の平安を得られる === |
|||
* エスターはハー家の中で最もイエスに近い存在であった。その言葉、その面持ち、醸し出す高潔な雰囲気などすべてを感じながら説教を理解して、ベン・ハーや父親のサイモニデスにも語り続けていた。だからこその確信が彼女にはあった。死生観もイエスは語っていた。死んだらどんな世界があるのか、どんな存在がありどう扱われるのかもすべてである。またすさんだ心が泥沼にはまるように身動きできず、悲しみや痛みなど苦悩から解き放たれない状態からどう抜け出られるか、についても触れていた。それを良き道へと導くのがイエスと会い心を通わすことであった。 |
|||
=== ナザレの若いラビを殺せ(ユダヤ教大祭司・ヘロデ・ピラト裁判) === |
|||
* 嫉妬、恐怖、傲慢、興味、戦略が入り乱れてラビ(教師)=イエスの裁判が行われる。大祭司はユダヤ教の上級層でイエスの布教活動がユダヤ教の教義と違いがある事や、祭司の階級制や特別待遇がある事への批判、その祭司たちが支配する神殿での行為に対する批判も受け入れがたいものであった。しかし当時の大衆は大祭司たちよりもイエスの導きに心が惹かれ山上の垂訓などでイエスの説く新しい教義に耳を傾けた。死刑判決は律法の中に許されておらず、正式な判決は王か総督に委ねられた。 |
|||
* ヘロデ王はピラトの要請で裁判の場を設けるがどのような質疑を行ってもイエスは何も答えず裁判自体が成り立たなかった。アンティパスの力量による影響もあるがほぼユダヤ教のラビの裁判などほとんど関心がなかったとされる。 |
|||
* 総督のピラトはローマ帝国の威信を揺るがす教えを流布しているとの嫌疑で裁判にかける。特にどの人間も神の元では平等であり自由である、命も同等の価値があるとした。これらの教えをとがめて追及したとされる。ローマ属州としてユダヤ民族の支配を行ったこと自体この思想や教えに反したものだった。 |
|||
* キリスト教の原理主義の伝承する当時の裁判の様子に至っては、特に祭司や民衆がユダヤ人であり、イエスの死刑を望んで裁判の場で訴えていたことから実はローマ帝国総督のピラトが罪の内容を認められず有罪判決を拒否した。「この人にどんな罪があるのか?」と祭司に対して詰め寄ることもあった。結局大祭司側のもっともらしい策略に満ちた理由を前面に訴えてピラトは仕方なく死刑とする。その時に彼は盆に入れた水で手を洗い、この判決の責任は私ではないと述べている。(新約聖書) |
|||
=== あの人を知っている!あとを頼むエスター === |
|||
* ベン・ハーはナザレ村での初めての出会い以来、イエスとは会っていなかった。観客としては一瞬でしかないが嬉しい場面である。十字架を背負って行進する悲しいシーンであるが、それまで何度も会えそうで会えないシーンを繰り返し見ているために、ここでは安心感が漂う。 |
|||
* 最初は遠くから見て気づいたときのつぶやきで、その後だんだんベン・ハーと家族がいる場所に近づいていく。階下では重そうに十字架を担ぐイエスの姿。そして罪人二人もついてくる |
|||
* 上がってきた十字架はイエスが先頭。ベン・ハーたち家族の前に来たちょうどその時つまづいてイエスが十字架に潰されるように倒れる。そしてエスターに頼み込む。家族から離れてまでイエスを追うのは恩人だからである。懐かしさも手伝うが、温かい心・優しさ・兵にも抵抗する強さ、全身から放つ常人では見られない神々しさが脳裏から離れないのである。だからこそ追い続けた。兵士さえ払いのけようとするほどに。 |
|||
=== 助けてあげて!ご慈悲を! === |
|||
* 目の前で倒れたイエスに対してミリアムとティルザが叫ぶ。彼女らは業病に関わらずイエスに慈悲の言葉を投げかける。このときにミリアム・ティルザは自分達の病気を治してくれなどと、一言も言っていない。ひたすらイエスを見守り、乱暴な兵士の扱いに心を痛める。 |
|||
* 言葉を発しながらミリアムとティルザは病気の身と知りながらまた具合が悪くて声も出せないほどでありながら、イエスの事を思うのである。イエスはハー家の者たちに目を向ける事もなくずっとつまづきから立ち上がり前を向いて階段を上っていく。一歩、また一歩と体の軸さえまっすぐに保てないままイエスは階段を上っていく。兵士たちは無表情で鞭うつ。 |
|||
=== こんな時にあの安らかなお顔は…来たかいがあった === |
|||
* 十字架のイエスが通り過ぎるとエスターはミリアムたちに「申し訳ない」と謝る。奇蹟を受けさせる事が出来なかったと思い込んでいたからである。せっかくミリアムと病気のティルザまで無理をして連れてきたのに惨い姿を見せるだけになってしまった。そんな思いが彼女に言わせた言葉だったのだろう。そんなエスターの謝罪に対してのミリアムの言葉は寛容である。エスターの思いを理解しており、逆にねぎらいと感謝の気持ちに溢れている。 |
|||
* イエスの顔を見て感じる事の出来るミリアムは感性鋭く、イエスの表情に優しさを見る事が彼女にはできた。安らかと言うのは痛みを感じていないわけではなく、痛みを上回る使命感と責任感、信念を守る心意気、それらをすべて実現し果たしている喜びにも似た感覚が覆いつくした結果だ。ミリアムはその感情をしっかりと受け止めた。だから「安らか」という言葉が出たのだ。 |
|||
=== ユダヤ人の王万歳! === |
|||
* 十字架の行進がエルサレムの街中に繰り出すと水飲み場のある少し広い石畳の道路になる。その先方で一人のユダヤ人が叫ぶ言葉である。皮肉を越えていて信仰を持つ者にとっては辛い言葉がけである。12使徒との旅の中やエルサレム近辺で彼は教えを説いてきた。その説教の中で自らを王であると認める。彼を信望するユダヤ人は素直に受け止め教師としてのイエスを尊敬し信頼する。また王であると宣言することでユダヤと言う国ができたときは帝政ローマ帝国の圧政から解き放たれると期待もした。万歳と言う語句はその意味では賞賛であり、新生ユダヤ王国の誕生を夢見、実現へと民族が結集してイエスを王に迎える事が目標である。 |
|||
* ただしこの場面での万歳と言う言葉は皮肉でしかない。十字架の重みに耐えて歩く姿、その弱々しさを見て同情をこそすれ喜びの万歳を言うなどは完全に刑を受ける罪人としての見方であり、救世主、王の中の王の誉れ高き人を称える言葉ではない。悔しくも悲しいシーンである。 |
|||
=== なぜ死刑になる? === |
|||
* 磔刑のゴルゴタの丘でバルサザールとベン・ハーの会話である。そしてベン・ハーの方からなぜ?とバルサザールに問う。聖書通りに応えれば、万人の犯した罪をすべてイエスが背負い、十字架刑で死を迎え神に召されることによって重い罪の贖いをイエスが全て行ってくれるからだと。そのことでこの世に生きる全ての人が許され苦しまなくて済むようになるからだと。バルサザールはそう説明する。 |
|||
* 12使徒を含めすべての人に、自分の信念を曲げず権力に屈しなかったイエスが、その教えを末代まで伝承することこそこの世の平安や死の恐怖から解放される、と考えてとった行動である。 |
|||
* 死刑になるという事実は衝撃が大きい。その大きさがイエスという人物の神性を増したり、偉大さを強調するきっかけとなり、教えが広がる原動力になった。歴史はそれを証明している。 |
|||
* 本当のところは当時に生きた人でない限りわからない。純粋に聖書をたどる信仰は事実と違うところもあるかもしれないが、だからどうだという事もない。現代にキリスト教が世界単位で広がっている事実は無視できない。広まる理由があったからである。反面欠点もある、人間のように。 |
|||
=== わしは長く生き過ぎた === |
|||
* 映画でバルサザールが言うこの言葉は単に長生きした、年を取ったという意味で済ます性質のものではない。信仰と絡めなければならない。バルサザールはイエスの誕生から死までを見たことになる。だがイエスが死んだのは33歳のころで、バルサザールの孫ほどの年の差がある。孫が先に死に至るなど普通は考えたくないしほとんどそういうことは起こらない。 |
|||
* ここでいう長生きし過ぎたというのは、孫のように愛しく見守ってきたイエスがその使命を果たすまでをしっかりと見届けたかったという意味である。映画では語られないが、バルサザールがユダヤに近接したエジプト人であることからユダヤ教を信じていた可能性は高い。ユダヤ教に改革の波を送り出し、さらに良い教義を民衆に伝え、さらに民衆を幸福へ導き、弟子である応援者の説教を含めた伝道活動にも手を伸ばす瞬間を見届けたかった。それが十字架の死刑により別の使命を果たすことになったため叶わなかった。命が失われるということは神の御心であるという理由があるにせよ、惨い姿を見たくなかった。だから長く生き過ぎたと落胆するのである。 |
|||
=== 神よ彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです === |
|||
* 十字架上のイエスの言葉で有名なもののうちの一つ。「汝の敵を愛せ」に通ずる言葉である。そもそも人間は賢いのか賢くないのか。知っているのか無知なのか。基本的には無知である。だから知的欲求がある。そして賢くない。だから勉学を積むこと、教義を知る事、過ちを繰り返さない、という事が望まれるのである。それらは許しがない限り罰せられ自滅・排除される。許しは反省・再生と学び・事例を演習・そして差異に気づく知恵・道を修める事によって人間的成長を促す。それは何かの力によって成し遂げられる。 |
|||
=== 私の手から憎しみと剣も取り去られた === |
|||
* ベン・ハーが恨みも憎しみも消えたのは十字架上のイエスの雰囲気というもの、何となく感じる力であったと考えると説明は楽である。しかし言語に着目すると、何も知らない哀れな子供たちを思いやってください。子供だからこそ何も知りません。だから誤りもあります。自分が行う事の全部の善悪など知ろうはずがありません。どうか許してやってください、と言っている。 |
|||
* だからこそベン・ハーは、自分が囚われているメッサラへの憎しみや彼を殺した自分自身への憎しみと罪悪感、支配者ローマ人への憎しみ、十字架刑でイエスを殺した人々への憎しみ等すべてが理を知らぬ人々の行いへの憎しみであったことに気づくということである。理を知らぬものへ憎しみや恨みを持つことなく、暴力も振るわない。許し受け入れる事のほうが心の平安を得る近道である。彼はそれに気づいた。 |
|||
=== 十字架と羊飼い === |
|||
* 終幕前の最期の映像である。旧約聖書の「出エジプト記」に登場するモーセも羊飼いであった。イエスの生存した紀元1世紀頃も羊飼いがいた。キリスト教では人間の事を羊に例え、羊飼いの事をイエスに例えている。フィナーレのシーンはまさにベン・ハーの物語としてあるいはイエス・キリストの物語としては象徴的である。信仰のシンボル十字架と穏やかで静かな夕焼けが平和を意味する。そしてその前を通る羊(私達人間)とそれを導き指導する羊飼い(イエス・キリスト)がその平和を羊に与え群れに広げていくのである。 |
|||
=== ハレルヤ === |
|||
* イエス・キリストの賛美の歌である。映画の最終幕を飾る情感豊かで未来への希望と期待を高音域と最大限の音量で「THE END」の大画面表示とともに全編を締めくくる。そして音は消え画面が真っ暗になる。ハー家の家族の抱擁が残像として焼き付いて映画館を後にする。 |
|||
<ref name="以上各項目の出典資料">映画雑誌【スクリーン】と【ロードショー】1974年3月号~1979年1月号のリバイバル公開の紹介記事、雑誌評論家の分析記事。映画レビューサイト【Filmarks】と【CinemaScape】。ローマ・イスラエル旅行記、1973年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。グランドオリオン。1974年視聴の4月にゴールデン洋画劇場TV初放映高島忠夫の解説で前後編の新聞番組欄記事。1977年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。桜坂オリオン。1978年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。国映館。イベントの説教を拝聴したときのベン・ハー談義。日本聖書刊行会 聖書(旧約・新約)新改訳中堅聖書 1970年初版2006年7刷 「いのちのことば社」発売新約聖書ルカ福音書105項~171項、ヨハネ福音書172項~226項</ref> |
|||
= 受賞 = |
|||
<ref name="米国・外国の評価内容">ソフトカバーパンフレット 1959年 A4 日本版ベン・ハー 松竹株式会社事業開発部 提供MGM映画株式会社 32項。YouTube:『ベン・ハー』日本版劇場予告編 じんじんけしけし ベン・ハーBEN-HUR 日本公開1960/04/01 </ref> |
|||
==[[第32回アカデミー賞]]== |
|||
=== [[アカデミー作品賞|作品賞]] === |
|||
* '''サム・ジンバリスト''' ■MGM企画責任者。制作費と制作活動を含めた総元締め。題材の決定並びに脚本案の取捨選択。主要製作スタッフ選定。 |
|||
=== [[アカデミー監督賞|監督賞]] === |
|||
* '''[[ウィリアム・ワイラー]]''' ■映画演出総指揮。助監督指導。妥協ない演技追求。キャスティング。演技指導力と選出力。撮影環境選択・構想と指示。 |
|||
=== [[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]] === |
|||
* '''[[チャールトン・ヘストン]]''' ■喜怒哀楽の生きた感情表現。視線。勤勉さ。乗馬技術。タフなガレー船漕ぎ演技など重労働。 |
|||
=== [[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]] === |
|||
* '''[[ヒュー・グリフィス]]''' ■人物表現のユニーク性。功労。映画の緩急のアクセントを醸し出すユーモアセンス。 |
|||
=== [[アカデミー美術賞|美術賞]] === |
|||
* '''ウィリアム・A・ホーニング エドワード・C・カーファグノ''' ■ローマ総督府先遣隊の砦の内部(槍の間)古代ローマ帝国の市内建造物創作。アリーナ(戦車競技場)、コース中心建造の島、高さ9mの4個の彫刻巨像(ローマ神話の神々)、9台の戦車、古代のイスラエル地区(ユダヤ・ベツレヘム・エルサレム)の岩石積上げ型民家や豪邸、アリウス邸の噴水の間。ガレー船の船底の奴隷座板とオールの配置、 |
|||
=== [[アカデミー撮影賞|撮影賞]] === |
|||
* '''ロバート・L・サーティース''' ■映像の美的完成度。65mmフィルムを活かした構図。スタジオ・ロケーション両環境に沿う映像作り。戦車競走。 |
|||
=== [[アカデミー衣装デザイン賞|衣装デザイン賞]] === |
|||
* '''エリザベス・ハフェンデン''' ■創作的美の実現。十字架とイエスの衣服、ユダヤ人衣服、ローマ人衣装、民衆衣服、装飾品、軍甲冑、武器。 |
|||
=== [[アカデミー編集賞|編集賞]] === |
|||
* '''ラルフ・E・ウィンタース''' ■場面切替、ストーリーの連続性、アクションシーンのカット割り。ショット、ショットの細分化による緊張感の効果。戦車競走の展開の場面的整合性とリアル性追求。ガレー船の戦闘ミニチュアと実物大のシーンで差異のないつなぎと展開の組み立て。クロスフェイド。 |
|||
=== [[アカデミー作曲賞|劇映画音楽賞]] === |
|||
* [[ロージャ・ミクローシュ|'''ミクロス・ローザ''']] ■時代考証で古くはヘブライの民族音楽の旋律にならい、現イスラエル・中東各地の音楽を再現またはアレンジ。ローマ帝国時代の題材で作られた[[オットリーノ・レスピーギ]]作曲「[[ローマの噴水]]」「[[ローマの松]]」「[[ローマの祭り]]」の3部作など、クラシック音楽の研究を行い、独創的な音階で斬新な交響・管弦楽曲を創作した。古代楽器の作製・再現と活用も特筆に値する。近年全世界においてサウンドトラックの各テーマを組曲(Suite)としてまとめた楽譜を使用し様々な楽団が20~50分前後で演奏を披露している。演奏でメインになる曲は、ベン・ハー序曲・ベツレヘムの星・愛のテーマ・砂漠の行進・ガレー船の奴隷・母の愛・戦車のパレード・十字架の行進・奇蹟とフィナーレ等。カバーで吹奏楽、ピアノ、弦楽重奏があるが、'''交響・管弦楽が秀逸である。''' |
|||
=== [[アカデミー音響賞|音響賞]] === |
|||
* [[フランクリン・ミルトン|'''フランクリン・E・ミルトン''']] ■6チャンネル立体音響の実現、槍の飛翔音、軍隊の行進、馬の蹄音とギャロップ、ガレー船の槌音、鎖の擦れる音、海戦での剣の戦闘音や浸水音、群衆の歓声や騒音、戦車の衝突・車輪破壊・轟音、鞭の音、雷鳴と地響きや豪雨。風吹と枯葉や塵や屑の飛び流れる音。 |
|||
=== [[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]] === |
|||
* '''A・アーノルド・ギレスビー''' ■[[マットペイント|マットペインティング]]、[[スクリーン・プロセス]]、ベツレヘムの星、戦闘シーン・衝突シーン・ミニチュア[[高速度撮影]]・軍行列の複製と合成・戦車競走のコマ削除でスピード感創出、キリスト裁判の広場の光景、ゴルゴタの丘処刑時の稲妻の光。 |
|||
* ノミネートされたが受賞を逃したのは[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]。カール・タンバーグ。(当日受賞したのは『[[年上の女 (1959年の映画)|年上の女]]』)。 |
|||
==第17回[[ゴールデングローブ賞]] 映画部門== |
|||
=== [[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞(ドラマ部門)]] === |
|||
* サム・ジンバリスト |
|||
=== [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]] === |
|||
* [[ウィリアム・ワイラー]] |
|||
=== [[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]] === |
|||
* [[スティーヴン・ボイド]] |
|||
=== [https://www.allcinema.net/award/230 特別賞] === |
|||
アンドリュー・マートン(戦車競走シーン演出) |
|||
==その他== |
|||
=== [[英国アカデミー賞 作品賞|英国アカデミー作品賞]] === |
|||
* [[ウィリアム・ワイラー]] |
|||
=== [[ニューヨーク映画批評家協会賞|第25回ニューヨーク映画批評家協会]]作品賞 === |
|||
* サム・ジンバリスト |
|||
=== [[全米監督協会賞 長編映画監督賞|全米監督協会賞長編映画監督賞]] === |
|||
* [[ウィリアム・ワイラー]] |
|||
=== [[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞|イタリア「ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞」]]外国男優賞 === |
|||
* [[チャールトン・ヘストン]] |
|||
=== 文部省特選 === |
|||
* 当時の文部省(現文部科学省)の評価 |
|||
=== 日本優秀映画鑑賞会特選 === |
|||
* 優秀映画鑑賞会の評価 |
|||
= 映画技術と映画芸術 = |
|||
== 大画面70mmウルトラパナビジョンとテクニカラー == |
|||
<ref name="映像テクニック">ハードカバーパンフレット1959年 A4 英語版 BEN-HUR A RANDOM HOUSE BOOK From MGM 34項第33項に記述。1996年ぴあシネマクラブ洋画編作品ガイド辞典全1204項中の823項目に記述あり。「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル 2枚組 2001年チャールトン・ヘストンのみの音声解説。メイキング映像。「ベン・ハー」吹き替えの力。3枚組 2017年 Blu-ray VIDEOジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説よりの内容。</ref> |
|||
=== 横長の大画面 === |
|||
映像の芸術として映画を制作する側は、まず間違いなく美観を意識している。「ベン・ハー」はワイラー監督の感性が余すところなく発揮された映画でこの映画の中で登場する大小さまざまなセットと色彩、そこに立って演技する俳優たちの姿・衣裳は、70mmウルトラパナビジョンという横長の大画面にうまく調和していて美しく、観る者の目を存分に楽しませてくれた。なぜなら本作品の画面の構図の決定には、ひとつのポリシーが貫かれているからである。全画面がそうとは限らずとも、凝視して鑑賞すればそれについて気づくことができる。 |
|||
=== 1.00対2.76 === |
|||
フィルムに収まる物の位置、人間や事物の移動や動きを予測・想定して配置し撮影するなど、画面の随所に計算され尽くした構図を観ることができる。70mmウルトラパナビジョンというあまりにワイドな規格であるだけに、画面をフルに使えるように工夫された箇所も多い。このことに関しては、1対2.76という画面アスペクト比率ゆえに特にアップシーンで画面に大きなスペースができてしまうため、構図のバランスを失わないように何か置かなければ格好悪いという理由も含まれていた。簡単に言えば、バランスをとったということである。スペクタクルなシーンを売り物にする映画、大河ドラマ的な映画では、ほとんどこの「ベン・ハー」と同じようにパナビジョン、あるいはアスペクト比率は少々違うがシネマスコープ、ビスタビジョンの規格で撮影されている。今ならIMAXとかScreenXも加わる。群衆シーンや大型のセット、奥行きの深い景観を映し出すのには最適だからである。 |
|||
=== 撮影のプロが魅せるテクニック === |
|||
この映画を見る時によく観察すると特徴的なものは2つ。まず俳優のツーショット以上のアップでは、その間隙に空白がほとんどなく、人物、建物・木・柱などが配置されている。ワンショットの場合も両脇に人物や飾りなどが配置され、画面全体のバランスがとれるようにしている。もう一つは遠景(ロングショット)のシーンである。この場合は、奥行きの中心像が画面中心と一致せずにずれている。ど真ん中に一番見せたい被写体が来るのが当然だが、これをあえて少しだけ中心からずらすのである。また画面に伸びる直線的なもの、つまり道とか家とか壁とかである。これも画面の中央を突っ切る配置はしていない。ほとんど対角線のように画面右下から左上、左下から右上と、遠近法に従うように伸びている。それによって画面の絵として規則正しい「デザイン」ではなく、生身の人物、あるいは現実の世界を強調することができるのである。シンメトリックはある意味面白みに欠ける。だからずらす。こうして画面に趣が出て飽きない。本作品は3時間44分の大作である。長くても楽しめるための見せ方も大事だ。撮影班のテクニックに脱帽の映画。 |
|||
=== テクニカラー === |
|||
映画ができてトーキーがはやりだした頃、モノクロの画像とは別に色のついた画像も投影できる技術が発展を遂げていた。テクニカラー社による「テクニカラー」である。1925年制作の「ベン・ハー」は2色法の効果を活かした映像を全編ではなく一部のシーンでいくつか使用して実現し、それ以後3色法の映像によるテクにカラー映像(総天然色)がはやりだした。光の3色法テクニカラーが生み出す色はRGB(レッド・グリーン・ブルー)の光を重ねる方式であり、絢爛豪華な衣装・装飾物・立体的な形を際立たせるなど映像表現の幅を広げた。三色の重なりの部分では白も投影することができる技術で映像の明るさも陰の黒さも鮮やかに表出させることができた。ローマ軍兵士たちや将校の鎧姿や赤いマントと羽根飾り、民族衣装の様々な種類、建物に置かれた植物や装飾品、環境や大自然の壮大さを表現するリアルさ、血で傷ついた負傷者、戦車競走の鮮やかな色も、テクニカラーのなせる業である。ただ高価であっただけに世界恐慌時代を終えて以降の混沌とした時代では、衰退することもあった。その後は本作品でも使用されるなど開発研究によってテクニカラー社の法人としての経営も持ち直していくこととなる。詳細については[[テクニカラー]]に記述されている。 |
|||
=== 70mm映画 === |
|||
映画は通常35mm幅のフィルムで撮影する。ところが1959年版「ベン・ハー」ではパナビジョンにおいては70mmの規格フィルムでの撮影がセットになり映像効果もこれまでにないものを生み出している。テクニカラーの技術に合わせて70mmの規格が加わるという事は、それだけ鮮明な映像が再現できるという事である。何度も紹介しているがMGMcamera65はこの70mmフィルムの撮影映像を作るために使用された大型のカメラである。65mmのネガ作成用のカメラで、これを作動させ撮影を行い、その後引き延ばしによって70mmに拡大する。フィルムが大きいことの利点は撮影した映像の解像度が増すという事である。デティールにまで光が行き届きそしてレンズに反映されフィルムに焼き付けられるのである。「十戒」という、映画も大ヒットした映画であるがその作品も70mmである。大海が割れる有名なシーンでは息をのむ経験をした人も多い。色も鮮やかであり波の揺らぎも鮮明。ある意味美しい。制作陣は映像技術の域を尽くして本作品を仕上げたのである。 |
|||
== ミクロス・ローザの音楽 == |
|||
[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]の手掛けた音楽にはクラシックにならう芸術音楽・室内楽・協奏曲・管弦楽と映画音楽がある。映画音楽については[[アカデミー作曲賞|劇映画音楽賞]]受賞の本作品以外にも歴史劇を題材とした映画では「[[バグダッドの盗賊 (1940年の映画)|バクダッドの盗賊]]」「[[黒騎士 (1952年の映画)|黒騎士]]」「[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]」「[[悲恋の王女エリザベス]]」「[[円卓の騎士]]」「[[ジュリアス・シーザー (1953年の映画)|ジュリアス・シーザー]]」「[[キング・オブ・キングス (1961年の映画)|キング・オブ・キングス]]」「[[エル・シド (映画)|エル・シド]]」「[[ソドムとゴモラ (映画)|ソドムとゴモラ]]」「[[シンドバッド黄金の航海]]」などが代表的である。 |
|||
※音楽の記述に関しては、以下の既存サウンドトラック盤の視聴と同梱のパンフレット等の記述内容を参照した。[[オリジナルサウンドトラック]]盤は、本編の音源と異なるカルロ・サヴィーナ指揮によるローマ交響楽団の演奏が長年公式盤とされ、作曲者の[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]も数回再録音を行ったが、1996年に[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]自身の指揮による本編の音楽と未採用音源が収録された2枚組CDセットが、当時MGM作品の配給を行っていたTurnerから発売された。同音源から選曲によりCD1枚に集約された日本語版も1999年に発売。2017年10月20日にリリースされたニック・レイン指揮、プラハ・シティフィルハーモニックオーケストラ&コーラス演奏版は、最新のオリジナルサウンドトラック盤である。 |
|||
=== 音楽の出典資料 === |
|||
* EP:本命盤ベリーベスト映画音楽シリーズ「ベン・ハー」パート1,2<br /> |
|||
スタンリー・ブラック指揮 1975年12月<br /> |
|||
ロンドンフェスティバル管弦楽団とコーラス<br /> |
|||
裏表紙1面記載の映画制作記事と解説。パート分割の2曲。<br /> |
|||
* EP:本命盤ベリーベスト映画音楽シリーズ94「ベン・ハー&サムソンとデリラ」<br /> |
|||
スタンリー・ブラック指揮 1978年8月<br /> |
|||
ロンドンフェスティバル管弦楽団<br /> |
|||
裏表紙1面記載の映画制作記事と解説。2曲。<br /> |
|||
* LP:MGMレコードポリドール株式会社<br /> |
|||
MGM映画オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」<br /> |
|||
カルロ・サヴィーナ指揮ローマ交響楽団 録音1959年<br /> |
|||
裏表紙2面パンフ裏表2面記載の映画制作記事と楽団および楽曲14曲解説。<br /> |
|||
* LP:MGMレコードポリドール株式会社<br /> |
|||
More Music From Ben-Hur 復刻版 1981年<br /> |
|||
エリッヒ・クロス指揮 フランケンランド州立交響楽団<br /> |
|||
MGMオリジナルサウンドトラックコレクターズアイテムズ<br /> |
|||
MGM同名映画オリジナルサウンドトラック「ベン・ハーVOL,2」<br /> |
|||
裏面英語1面パンフ表1面記載の映画制作記事と楽団および楽曲16曲解説。<br /> |
|||
* CD:TURNUR CLASSIC MOVIES MUSIC R2-72197 Deluxe Version<br /> |
|||
ミクロスローザ指揮Metro-Goldwin-Mayer交響楽団 1959年 2枚組<br /> |
|||
オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」(Film)楽曲合計88曲<br /> |
|||
内面箇条書き数行背面に楽曲名パンフレット48項制作記事英語解説文<br /> |
|||
デジタルリマスター©&℗1996 Turner Entertainment Co.Ltd<br /> |
|||
このサウンドレコーディングの著作権はEMI Records。<br /> |
|||
* CD:TURNUR CLASSIC MOVIES MUCIS 7243 8 52787 2 3<br /> |
|||
ミクロスローザ指揮Metro-Goldwin-Mayer交響楽団 1959年<br /> |
|||
オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」(Film)楽曲合計36曲<br /> |
|||
背面に楽曲名パンフレット14項制作記事英語解説文。<br /> |
|||
デジタルリマスター©&℗1996 Turner Entertainment Co.Ltd<br /> |
|||
このサウンドレコーディングの著作権はEMI Records。<br /> |
|||
* CD:東芝EMI株式会社MGM映画オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」<br /> |
|||
カルロ・サヴィーナ指揮ローマ交響楽団 録音1959年<br /> |
|||
裏1面曲目パンフ1冊10項裏表2面記載の映画制作記事と楽曲14曲解説。<br /> |
|||
* CD:Ben-Hur (Complete Soundtrack Collection) CD 1959年 5枚組<br /> |
|||
オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」(Film)楽曲合計164曲<br /> |
|||
指揮者ミクロス・ローザ MGM交響楽団 FSM GOLDEN AGE CLASSICS。<br /> |
|||
* CD:Ben-Hur New Degital Recording Of The Conpulete Film Scor<br /> |
|||
指揮者ニックレイン演奏 プラハシティーフィルハーモニー管弦楽団<br /> |
|||
オリジナルサウンドトラック 157分 2017年10月20日リリース最新版。<br /> |
|||
* CD:SLCS-7206 ハリウッドクラッシックシリーズ9映画音楽 13曲。<br /> |
|||
ミクロスローザ 「ベン・ハー」「エル・シド」「キング・オブ・キングス」<br /> |
|||
リヒャルト・ミュラー・ランペルツ指揮ハンブルグコンサート交響楽団と合唱団<br /> |
|||
裏1面曲目パンフレット1冊10項製作記事と曲目解説△オムニバス。1986年。<br /> |
|||
* CD:1907-1995 THE EPIC FILM MUSIC OF Miklos Rozsa<br /> |
|||
ケネス・アルウィン指揮プラハシティー交響楽団 1996年<br /> |
|||
クラウチエンドフェスティバル合唱団 オムニバス盤17曲<br /> |
|||
裏1面曲目パンフレット1冊14項制作記事曲目解説文。<br /> |
|||
* CD:Miklos Rozsa at M-G-M: Motion Picture Soundtrack Anthology<br /> |
|||
2枚組裏1面曲目パンフレット52項製作記事と曲目解説△オムニバス13曲<br /> |
|||
Miklos Rozsa指揮 オリジナルレコーディング<br /> |
|||
TURNUR CLASSIC MOVIES MUCIS 1999年。<br /> |
|||
* CD:Ben-Hur Essential Miklos Rozsa / O.S.T.SILVER SCREEN.COM<br /> |
|||
指揮者ケネス・アルウィン、ポールベイトマン、ニックレイン演奏<br /> |
|||
プラハシティーフィルハーモニー管弦楽団 △オムニバス23曲<br /> |
|||
裏1面曲目パンフレット1冊6項曲目解説文。2枚組 2000年。<br /> |
|||
=== 「ベン・ハー」楽曲イメージと創作活動 === |
|||
映画ではローザ自身が過去に手掛けた1952年制作の代表作「[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]」の影響が色濃く、実際に[戦車の追走と間奏曲]の音楽は一部フレーズを引用、[[[ガルバ|ヘイルガルバ]]]は、ほぼ原形を残して本作品にてアレンジを加え活用・転用している。この映画の制作もMGMで壮大なスペクタクルを売りにして、[[ネロ|皇帝ネロ]]の迫害に耐えるキリスト教徒の試練を描いた力作である。ローザはこの作品の楽曲制作の記憶を活かしつつ、他の歴史劇作品の新感覚も取り入れながら1959年版「ベン・ハー」の楽曲作りと編成に着手した。 |
|||
当然ながら上記「[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]」からの幾つかの曲を除いては、新たなインスピレーションと[[ヘブライ人|ヘブライ]]の時代のユダヤの民族音楽を起点にしつつ、ローマの楽曲の研究も並行して作曲活動を始めるが、MGMの命運を立て直す意味あいの元での制作活動であったため、気合の入れようは半端ではなかった。ときにインスピレーションが湧きローマ郊外の丘の散歩時に口笛でイメージの旋律を鳴らしていると、すれ違いの女性二人から怪訝そうな視線を受けたこともあるという。その結果数々の親しまれる名曲を生み出すこととなる。 |
|||
=== [[管楽器]]演奏の充実(MGM交響楽団) === |
|||
1959年版「ベン・ハー」のサウンドトラック盤は公開時期から発表・販売されていて市場にも長年出て販売されている。どれも本作品で名シーンを彩ったローザの楽曲を再現し、それぞれの場面に思いを馳せ映画の雰囲気に浸りインスパイアされる。但し演奏の質では違いが判然としており、選択を誤るとオリジナルのミクロス・ローザの原曲との差がありすぎて落胆する。大方CDショップ店回りやネット販売で情報を集めると数作品がある。代表的なものは、 |
|||
<br />1.ローザ本人指揮MGM交響楽団の演奏、<br />2.カルロ・サヴィーナ指揮ローマ交響楽団の演奏、<br />3.エリッヒ・クロス指揮フランケンランド州立交響楽団の演奏 、<br />4.ローザ本人指揮[[ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団|ナショナルフィルハーモニー管弦楽団]]と合唱団の演奏(再録盤)、<br />5.ニック・レイン指揮プラハシティーフィルハーモニー交響楽団と合唱団の演奏<br />6.Complete Soundtrack Collection Film Score Monthly FSM Golden Age Classics |
|||
※ニック・レイン指揮プラハシティーフィルハーモニー交響楽団と合唱団は2012年に「[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]」のサウンドトラック盤再録も手がけた。<br /> |
|||
である。これらを聴き比べると、映画の中で流れていた曲を忠実に収録したミクロス・ローザ指揮MGM交響楽団の本家オリジナルサウンドトラック盤を基本にして、あとは全て'''[[編曲]]盤'''・'''[[変奏曲]]盤'''・'''代替曲'''・MGM交響楽団の'''未発表別バージョン曲混在盤'''であるという事に気づく。聞き比べて感じることは、MGM交響楽団バージョンの'''[[管楽器]]'''が飛びぬけて素晴らしいことである。[[演奏記号|スタッカート]]や[[演奏記号|タンギング]]の正確さは、キリスト誕生後の「ベン・ハー序曲」、「パンとサーカス」とそのファンファーレ、「ローマ軍のマーチ」「勝利の行進」「グレイタスのエルサレム入城」「サーカスパレード」「ガレー船の奴隷」で顕著に表れていて非常に歯切れが良い。また統一性あるストレートな音色、ムラのない一定の[[ビブラート]]を含ませた響きと演奏、一糸乱れない音符の再現と一致、[[音域]]の広さ、[[レガート]]や[[スラー]]で滑らかな音づくりを緩急つけて完ぺきに近く実現しており、ドラマチックで心酔するような民族音楽の魅力を引き出している。フランケンランド州立交響楽団の管楽器演奏と比べるといい。その違いがはっきりと分かる。ローザの再録盤の4は音場に加え音質も向上し巧みな編曲を行っている。'''6はローザ、サヴィーナ、クロス指揮の混在版でCD5枚組、164曲:340分近くある。'''その中に曲によっては同じ映画オリジナル収録版であっても'''1のターナー盤とまた違った曲がある。使われなかった代替曲も入っている'''。好みの違いで原曲を愛好する派と、その別バージョンで音楽の可能性を楽しむ派がある。聞き比べを試す価値はある。 |
|||
=== 「ベン・ハー」オリジナルサウンドトラック各楽曲解説 === |
|||
各オリジナル楽曲は以下のものが主であるが、ここではメロディ・旋律が独自性ある曲のみを表示。各オリジナル楽曲の旋律をいくつもつなげたメドレー形式の前奏曲・間奏曲・穴埋め式にBGMとして断片的に使用されていた小曲は割愛する。 |
|||
* プロローグ([[西暦|Anno Domini]])テーマ ●ベン・ハーのオープニングテーマからユダヤの民族的楽曲につながる。 |
|||
* ベツレヘムの星 ●夜空を仰ぐ博士らをとらえ救世主の生誕をもたらす星がベツレヘムへ向かう。[[エコー]]の女性[[合唱|コーラス]]が清らかな雰囲気。 |
|||
* 救世主の誕生 ●優しい女性の[[合唱|コーラス]]がマリアを包み込み、この世界を変える初子の誕生を祝いそして見守る。 |
|||
* ベン・ハー序曲(映画テーマ曲)●4~8連符の歯切れ良い金管の高らかな[[ファンファーレ]]で開幕、キリストとベン・ハーのテーマが響き渡り愛のテーマへ。 |
|||
* ローマ軍の行進 ●平穏なナザレ村にものものしい威圧的雰囲気が漂う。[[コントラバス]]・[[バスドラム]]・[[スネアドラム]]・金管で華やかながら高慢で重苦しい曲。 |
|||
* ナザレのイエス ●穏やか。[[ハープ]]と[[ヴァイオリン|バイオリン]]の音が細く柔らかでひたすら穏やか。優しさと理性を思わせる旋律である。 |
|||
* 友情と再会 ●切ない感情と喜びに包まれた音楽。[[メゾピアノ]]の低音単楽器から次第に緩やかだが各楽器総出の音響で盛り上がる。槍投げの[[シンクロ]]曲は秀逸。 |
|||
* エスターとの再会 ●[[ファゴット]]、[[オーボエ]]や[[クラリネット]]。ひたすら健気で恥じらいの隠せないエスターの性格を表現。主旋律のバイオリンが美しい。 |
|||
* 愛のテーマ ●[[フルート]]の優しい音色。[[チェロ]]。美しく成長したエスターとの語らい。互いの恋の葛藤を[[ヴァイオリン|バイオリン]]の艶やかな高音の響きで切なく表現。 |
|||
* グレイタスのエルサレム入城 ●金管の低い音によるものものしさ。[[ティンパニ]]や[[ドラム]]等打楽器のテンポ良い響きの調和で軍の高慢さや緊張感を醸し出す。 |
|||
* 砂漠の行進 ●タイア行きの罪人の苦悩。高低音が交互に入り乱れる。[[コントラバス]]、[[トロンボーン]]、[[ヴァイオリン|バイオリン]]。[[スラー]]や[[タイ (音楽記号)|タイ]]の多用で体の弱りを表現。 |
|||
* キリストのテーマ ●ナザレ村の水。[[エレクトーン]]の穏やかで優しい響き。ベン・ハーが水を与えられ生気を取り戻す。別れで高揚し感情揺さぶる曲。 |
|||
* ガレー船の奴隷 ●アリウスがベン・ハーの闘争心を揺さぶる。[[バストロンボーン]]、[[コントラバス]]と[[槌]]の低音の交互の響きが不気味。[[リズム]]は[[スローモーション|スロー]]から[[アップ]]へ。太鼓を打つ槌の音と、奴隷が漕ぐ[[櫂|オール]]のリズムがマッチ。同[[フレーズ]]の繰り返しに[[金管楽器の一覧|金管楽器]]の音層が重ねられていく。ローザの手腕が光る一曲である。 |
|||
* 海戦 ●硬軟・強弱・遅速入り乱れる曲想・編曲が素晴らしい。スピード感に満ちており戦闘の迫力と緊張感を盛り上げる。 |
|||
* 勝利の行進 ●華やかなローマ凱旋パレードの活気や歓喜に満ちた群衆の歓声。[[シンバル]]、[[打楽器]]、[[金管楽器]]の6[[音符|連符]]がきらびやか。誇り高らかに奏でる曲。 |
|||
* ファティリティダンス(アリウスの宴のダンス)●アリウス邸のパーティーでのアフリカ系のダンサーの踊り。[[マラカス]]、[[ボンゴ]]、[[ピッコロ]]や[[フルート]]を多用。 |
|||
* アリウスのパーティー ●宴の場。邸宅小楽団のバックミュージックで流れた親しみある曲。[[鈴]]、[[オーボエ]]、[[ファゴット]]、[[タンバリン]]、[[クラリネット]]、[[ハープ]]。 |
|||
* さらばローマ ●アリウスはパーティーから離れ一人ベランダに出たベン・ハーのユダヤ帰郷を望む気持ちを察する。父の愛。[[ヴィオラ|ビオラ]]・[[チェロ]]の響きが切ない。 |
|||
* ユダヤに帰る ●4年間願い続けた家族との再会の為船に乗り込むベン・ハー。[[調|短調]]の[[ヴァイオリン|バイオリン]]と[[オーボエ]]でユダヤの郷愁とハー家の悲劇を暗示。 |
|||
* 地下牢の悲劇 ●母と妹の捜索をした地下牢の役人と軍人の驚き。曲は大音響。[[トランペット]]の叫びにも似た高音と[[トロンボーン]]の荒い低音が衝撃を表現。 |
|||
* 母の愛 ●死の谷の旋律の後に母の愛の曲になる。[[チェロ]]・[[ヴィオラ|ビオラ]]・[[コントラバス]]の[[調|短調]]の低音と[[ファゴット]]・[[チェロ]]・[[ヴァイオリン|バイオリン]]の旋律が母の思いを描く。 |
|||
* 復讐(Intermission)●ユダヤの旋律の後ベン・ハーの動作に合わせ[[調|曲調]]が変化する。憎しみで立ち去るシーンでは悲哀と憎悪の激情を大音響で締めくくる。 |
|||
* パンとサーカス ●[[歩法 (馬術)|ピアッフェ・パッサージュ]]を想像させる軽快で賑やかな曲。[[ティンパニ]]と[[バスドラム]]のリズム。[[シンバル]]を多用。[[トランペット]]、[[トロンボーン]]がメインを務める。 |
|||
* 競技前のファンファーレ ●数種類あるが、どれも独特で聞いていて面白さがある。競技進行の段階的な合図。御者は合図に合わせ集合する。金管楽器中心。 |
|||
* サーカスパレード ●メッサラのテーマ[[変奏曲]]が流れ[[金管楽器の一覧|金管楽器]]の高音・低音の重奏が巧み。4[[音符|連符]]が部分的に頻出し[[シンバル]]音が[[メロディ|節]]ごと短く曲を引き締める。 |
|||
* 死の谷 ●打楽器のスローリズム、[[チェロ]]その他[[弦楽器]]がテーマを奏でる。金管が弱く主旋律に絡み[[弱音器|カップミュート]]を入れる。恐怖を主に暗く業病患者の運命を表現する。 |
|||
* 山上の垂訓 ●川を越えた山頂にキリストが立つ。大勢の民衆が彼を見上げ彼が民の前に進むとこの曲が流れる。[[チェロ]]・[[ヴィオラ|ビオラ]]・[[ヴァイオリン|バイオリン]]が繊細で象徴的。 |
|||
* 十字架の行進 ●[[ティンパニ]]・[[コントラバス]]・[[ヴィオラ|ビオラ]]・[[チェロ]]・[[バストロンボーン]]・[[ホルン]]・[[ユーフォニアム|ユーホニウム]]が重々しい。ときに[[トランペット]]が[[アクセント]]をつける。[[半音階]]の流れをやがて[[ヴァイオリン|バイオリン]]がリードしていく。バスドラムが音高くリズムをとる。十字架を背負う悲劇的なイエスの姿がイメージに強く残る大スペクタクル音楽である。やがて[[ヴァイオリン|バイオリン]]が感傷的に優しくも悲しい音を奏でる。木管楽器も目立って登場してくる。[[ヴァイオリン|バイオリン]]、[[トランペット]]、[[ホルン]]が少しづつ前面に出、痛々しさやイエスを慕う人々の突き上げる感情を表しドラマティック。ひしゃくの水の場面で[[ハープ]]の艶やかな響き。ベン・ハーとイエスの感動的な再会である。約7分越えの大作。 |
|||
* ゴルゴタの丘 ●メッサラのテーマ(決別の音楽)から[[オーボエ]]の[[短調]]の友情のテーマにつながり、キリストのテーマで磔刑の苦難に重なり[[ヴァイオリン|バイオリン]]の音へ。 |
|||
* 奇蹟 ●明るさと希望や喜びの混じった[[ホルン]]・[[ユーフォニアム|ユーホニウム]]・[[ヴァイオリン|バイオリン]]によるキリストのテーマが主として使われており、続いて管弦楽の[[オーケストラ|フルオーケストラ]]演奏で壮大な盛り上がりを見せる。紛れもなく、キリストのテーマの編曲あるいは変奏曲である。 |
|||
* フィナーレ ●ベン・ハーのテーマ・キリストのテーマの[[変奏曲]]・友情と再会のテーマの[[変奏曲]]・数個の[[ヴァイオリン|バイオリン]]によるキリストのテーマ・[[変奏曲]]の愛のテーマ・母の愛・[[合唱|コーラス]]~愛のテーマの壮大な響き。特にキリストのテーマと愛のテーマの交差が多い。 |
|||
* hallelujah chorus ●[[感情|エモーショナル]]かつ[[叙情|リリック]]なフルオーケストラと男女[[混声合唱]]。[[ハレルヤ]]の言葉通りキリストの[[賛美歌|賛美曲]]。素地となっているメロディはキリストのテーマで[[強弱法|フォルテッシモ]]に至ってこの曲で幕が閉じ、ベン・ハーの物語は終わる。 |
|||
※「奇蹟」はキリストのテーマが主軸・「フィナーレ」はストーリー全体のオマージュ・「ハレルヤコーラス」もキリストのテーマが主軸である。音楽の側面から見ると映画「ベン・ハー」の本当の主題は「キリストの物語~''A Tale of the Christ''~」だという事が家族愛がテーマとは言え明確である。 |
|||
=== 吹き替え版でのオリジナルサウンドトラック部分消失 === |
|||
[[DVD-Video|DVD]]および[[Blu-ray Disc|Blu-ray]](若しくはそれを活用したTV放送)の日本語吹替版では、サウンドトラックの音楽でところどころオリジナルに被さるように別曲を差し替えている。 例1:前奏曲直後、中東地域の地図を示してローマ支配を説明するオープニングのナレーター([[バルタザール|バルサザール]]役の[[フィンレイ・カリー]])のバックで流れる曲。 例2:磔刑のシーンでベン・ハーと[[バルタザール|バルサザール]]が木の幹の側で話すシーンの音楽など。例3:ラストシーンでベン・ハーがエスターにキリストの言葉を伝え「憎しみが消えた」と告げるときに流れている音楽、ほか多数の箇所に散見される。元がTV版の吹替であるため、日本語音声の録音のためサウンドトラックを消去。またTV放映に合わせて映画短縮の為カットシーンが多々あり、それにともなって番組CMが挿入される部分やつなぎとの整合性を[[カモフラージュ]]するために生成されたサウンドトラックの音響編集もある。 |
|||
<ref name="サウンドトラック差し替え">「CinemaScape」「Yahoo映画」のレビューおよび販売元にネット利用の質疑</ref> |
|||
=== 栄光への脱出テーマとベン・ハー愛のテーマの対立 === |
|||
1960年「[[栄光への脱出]]」のテーマを作曲した[[アーネスト・ゴールド]]と、「ベン・ハー」愛のテーマを作曲したミクロスローザは、両曲の類似性に関して'''[[盗作]]'''に当たらないか、'''[[著作権侵害|著作権の侵害]]'''に当たらないかの真偽を争った。訴えはミクロス・ローザの側であり、アーネスト・ゴールドは訴えを受けて著作物審査の専門家を係として迎え慎重な比較検査を委任した。審査の結果ローザの訴えは退けられ、ミクロス・ローザの抗議は認められなかった。2つの音楽はほぼ同年に発表された音楽であり、アカデミー音楽賞の受賞で自身の作品への思い入れがある中、アーネスト・ゴールドの映画のテーマ曲がそれを超える大ヒットを記録した点で懐疑的になった事情もローザにはあったのであろう。実際にどちらも題材が中東のイスラエル・そして古代のユダヤという事もあり拮抗する側面もあってつばぜり合いの様相を見せていた。そのことも、争いのきっかけになった可能性は大きい。この二つの曲の聞き比べをして確かにメロディの組み立てや編曲の接続部、旋律の流れ方やさびの部分とかクライマックスの音程や楽器の使い方にだいぶ違いがあり、残念だが審査結果は適当だった。哀愁漂い、美しいイスラエルやユダヤ民謡の旋律が魅了している点では、どちらも傑作である<ref name="抗議">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説</ref>。 |
|||
=== ミクロス・ローザに影響され師事した作曲家 === |
|||
[[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]]の作風に影響を受けた映画音楽家は少なくない。特に「ベン・ハー」のような歴史劇におけるドラマティックな楽曲を作った有名作曲家も多い。筆頭にあげられるのは、近年他界したが大作を手掛けることの多かった'''[[ジェリー・ゴールドスミス]]'''、そして押しも押されぬ現役名作曲家[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|'''ジョン・ウィリアムズ''']]である。[[ジェリー・ゴールドスミス]]は'''ローザに長年師事した'''。「[[トラ・トラ・トラ!|トラ・トラ・トラ]]」「[[パピヨン (1973年の映画)|パピヨン]]」「[[風とライオン]]」「[[ランボー]]」「ルディ」「[[ムーラン (1998年の映画)|ムーラン]]」などが代表的作品である。もう一人の[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]は'''ローザのアメリカでの映画音楽にインスパイアされその作風を自作品に取り入れた。'''「[[ジョーズ]]」「[[タワーリング・インフェルノ]]」「[[スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ]]」「[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》|レイダース/失われたアーク]]」「[[E.T.]]」「[[シンドラーのリスト]]」「[[プライベート・ライアン]]」など無数の代表作があり知らない人がいないほどの功績を残し、それぞれの時代を魅了した名画のサウンドトラック音楽を生み出している。オリジナルの曲で人々を画面に引き込み、興奮を抱かせ、溢れんばかりの感動に引き込んだ名曲が多いのは、2人ともローザと共通している。ローザの影響は、この2人の大物作曲家のどんな個性に見られるのか、それは2人がこの世に送り出したヒット作で気づく。<ref>二人の音楽作品レコード・CDの説明書きに特徴が記載。記事でローザとの関連にも触れていた</ref>、 |
|||
1.映画の複数の場面に合わせた一つ一つのテーマ曲を作り、それを様々に紡いで映画全体にまんべんなく割り振り(編曲や変奏曲の創作など)別曲のごとく観客に聞かせ、シーンを盛り上げているという事が一つ。 |
|||
2.そして、この出来上がった一つ一つのテーマをメドレー形式につなげ、オープニング(またはエンドクレジット)の主題音楽としている事。 |
|||
巨大な戦車競技場で両者は対決の日を迎え、神への許しを求めつつ復讐に燃えるベン・ハーは、イルデリムが提供した駿馬を戦車に繋ぎ、大観衆が見守る中でメッサラとの闘いに臨む。壮絶なレースの末、ついに彼に勝利した。ユダヤの誇りを守った英雄を包む熱狂の影で、メッサラは戦車に引き潰され瀕死となる。 |
|||
なおこの2点は現代の映画作曲家のほとんどが踏襲するに至っている。[[ジェームズ・ホーナー]]、[[ハンス・ジマー]]、[[ハワード・ショア|ハワード・ショア―]]、[[ダニー・エルフマン]]、[[アレクサンドル・デスプラ]]、[[トーマス・ニューマン]]、[[ジェームズ・ニュートン・ハワード]]、[[ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ|ハリー・グレッグソン・ウィリアムズ]]、[[ルパート・グレッグソン=ウィリアムズ|ルパート・グレッグソン・ウィリアムズ]]等多数。なお[[久石譲]]に関しては上記に同様でありつつ、メドレー式よりも独自のオープニングテーマ曲やエンディングテーマ曲を配している場合が見られる。 |
|||
結果的に復讐は達成されたが、ベン・ハーは余りに無残な姿に変わった仇敵を前に言葉を失う。しかし、メッサラから戦いは未だ終わっていないと告げられ、母と妹が生きている事、業病の者が隠れ住む死の谷にいると知らされる。そして密かにエスターの後を追って洞穴で生きながらえる母と妹に再会した。ベン・ハーは家族や親友を不幸にしたローマを憎み、市民権を放棄する。 |
|||
3.加えて2人ともローザなみに外国音楽について研究熱心で、[[民族音楽]]を再現・アレンジする力にも長けている事。 |
|||
悩むベン・ハーにエスターは救世主と言われるようになったイエスの話をするが、いっこうに聞く耳を持たない。やがてイエスが裁判にかけられて磔にされるという話を聞いて、すがる思いで母と妹を連れて街に繰り出すが、[[ヴィア・ドロローサ|十字架を背負ったイエス]]を見て、あの時に水を恵み自分を救ってくれた人であったことにベン・ハーは愕然とする。母と妹を帰らせて彼は後を追いかけ、そして倒れたイエスに今度は自ら水を飲ませたが、役人に蹴とばされる。やがて[[ゴルゴタの丘]]でイエスは[[キリストの磔刑|磔の刑]]に処せられた。その直後に俄かに天から雷雨と大風が舞い、イエスの流した血が大地を流れていった。 |
|||
例えばジョン・ウィリアムズの場合「[[シンドラーのリスト]]」でのバイオリンをはじめとした弦楽器によるイスラエル音楽・民謡の[[短調]]の曲風、琴線に触れるような哀愁あるリズムとしつこくない民謡の引用と編曲、「[[SAYURI]]」での[[拍子木]]・[[横笛]]・[[錫杖]](しゃくじょう)の音、[[和太鼓|和の小太鼓]]、[[三味線]]、そしてメロディそのものも日本音楽らしさほとばしる[[筝]]の音とビオラやチェロの和音も混在させながら美しく主人公の激情を描いている。「[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》|レイダース/失われたアーク]]」でもエジプトの民族音楽のアレンジや[[アラブの音楽|アラブの音階]]を取り入れたり、ユダヤ音楽の曲調も取り入れたりして場面に合ったサウンドを作り出した。ジェリー・ゴールドスミスの場合は、[[北魏|中国北魏]]時代の「[[ムーラン (1998年の映画)|ムーラン]]」での[[フン族]]([[柔然]] [[突厥]] [[匈奴]]など諸説ある)の来襲や、皇帝を護衛する軍隊の登場曲、金管楽器の迫力と曲想の急展開の面白さ、大陸の旋律を多用した弦楽奏、「[[トラ・トラ・トラ!|トラ・トラ・トラ]]」の[[邦楽|日本陰音階]]の使用、楽器としての[[琴|筝(琴)]]の演奏、「[[ランボー/怒りの脱出|ランボー怒りの脱出]]」での[[ダン・チャイン]](ベトナム琴)、[[サオ (楽器)|サオ・チュック(]]ベトナム竹笛)を使った[[ベトナムの民族楽器|ベトナム音楽]]の旋律の楽曲や、戦闘シーンでの管弦楽の演奏。これらは、まさしくローザの民族音楽の歴史研究に対する傾倒姿勢に通ずるもの。ジェリー・ゴールドスミスは既にこの世におらず世界は稀なる一つの才能を失った。ジョン・ウィリアムズは昨今スター・ウォーズオリジナルシリーズ最終作品でも秀逸な曲を披露した。<ref name="民族音楽">スクリーン誌1976年、スターウォーズサウンドトラックレコードの二つ折りシート記事、ランボーサウンドトラックCD6項パンフレット。「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング。</ref> |
|||
絶望したベン・ハーは重い心で邸宅に戻った。しかしエスターは微笑みながら彼を迎えた。ふと上を見上げると母と妹が元の健康な姿に戻っていた。あの雷雨の中で洞穴に退避した2人は、急な激痛の後に病が癒えていたのだった。ベン・ハーは母と妹を抱きしめながら喜びを分かち合い、神の[[奇跡]]を知る。 |
|||
== 受賞 == |
|||
* [[第32回アカデミー賞]] |
|||
[[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー監督賞|監督賞]]、[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]、[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]、[[アカデミー美術賞|美術賞]]、[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]、[[アカデミー衣装デザイン賞|衣装デザイン賞]]、[[アカデミー編集賞|編集賞]]、[[アカデミー作曲賞|劇映画音楽賞]]、[[アカデミー音響賞|音響賞]]、[[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]]などで受賞。[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]はノミネートのみ。 |
|||
== 日本語吹替版 == |
== 日本語吹替版 == |
||
109行目: | 928行目: | ||
テレビ東京版は2013年4月5日に[[BSテレビ東京|BSジャパン]]の「シネマクラッシュ 金曜名画座」でノーカット放映された際、初回放送時にカットされた箇所が同一声優で追加録音された。その際、ピラト役の佐古正人とバルサザー役の小林勝彦は既に他界していたため、この2人の追加録音部分はそれぞれ世古陽丸と小島敏彦が担当した。この追加録音版は[[WOWOW]]では2014年2月2日、[[BS-TBS]]では2015年6月13・14日の2夜連続で「完全版」と銘打って放送された。 |
テレビ東京版は2013年4月5日に[[BSテレビ東京|BSジャパン]]の「シネマクラッシュ 金曜名画座」でノーカット放映された際、初回放送時にカットされた箇所が同一声優で追加録音された。その際、ピラト役の佐古正人とバルサザー役の小林勝彦は既に他界していたため、この2人の追加録音部分はそれぞれ世古陽丸と小島敏彦が担当した。この追加録音版は[[WOWOW]]では2014年2月2日、[[BS-TBS]]では2015年6月13・14日の2夜連続で「完全版」と銘打って放送された。 |
||
2017年1月25日発売<ref>当初は2016年12月21日に発売を予定していたが、制作の都合により、発売日を延期する事になった。</ref>の「[[吹替の力]]」シリーズ『ベン・ハー 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ』にはフジテレビ版と、従来ソフト収録されているテレビ東京版に追加録音したBSジャパン版が収録された。 |
[[2017年]][[1月25日]]発売<ref>当初は[[2016年]][[12月21日]]に発売を予定していたが、制作の都合により、発売日を延期する事になった。</ref>の「[[吹替の力]]」シリーズ『ベン・ハー 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ』にはフジテレビ版と、従来ソフト収録されているテレビ東京版に追加録音したBSジャパン版が収録された。 |
||
=== キャスト === |
=== キャスト === |
||
152行目: | 971行目: | ||
| イエス・キリスト || [[w:Claude Heater|クロード・ヒーター]] || colspan="5" style="background:#d3d3d3;"| |
| イエス・キリスト || [[w:Claude Heater|クロード・ヒーター]] || colspan="5" style="background:#d3d3d3;"| |
||
|- |
|- |
||
| ナレーション || || 小林清志 || ||[[矢島正明]] || 小林修 || |
| ナレーション || フィンレイ・カリー || 小林清志 || ||[[矢島正明]] || 小林修 || |
||
|- |
|- |
||
| 配役不明 || - || [[北村弘一]] |||| [[寺田誠]]<br>[[飯塚昭三]]<br>[[村松康雄]]<br>[[石井敏郎]]<br>北村弘一<br>[[増岡弘]]<br>[[山田礼子]]<br>[[上田敏也]]<br>[[幹本雄之]] ||[[石森達幸]]<br>[[梶哲也]]<br>[[沢木郁也]]<br>[[斉藤茂]]<br>[[大山高男]]<br>[[山口健]]<br>[[広瀬正志]]<br>[[鈴木れい子]] ||[[斎藤志郎]]<br>[[水野龍司]]<br>[[大滝寛]]<br>[[清水敏孝]]<br>[[すずき紀子]]<br>[[安井邦彦]]<br>[[楠見尚己]] |
| 配役不明 || - || [[北村弘一]] |||| [[寺田誠]]<br>[[飯塚昭三]]<br>[[村松康雄]]<br>[[石井敏郎]]<br>北村弘一<br>[[増岡弘]]<br>[[山田礼子]]<br>[[上田敏也]]<br>[[幹本雄之]] ||[[石森達幸]]<br>[[梶哲也]]<br>[[沢木郁也]]<br>[[斉藤茂]]<br>[[大山高男]]<br>[[山口健]]<br>[[広瀬正志]]<br>[[鈴木れい子]] ||[[斎藤志郎]]<br>[[水野龍司]]<br>[[大滝寛]]<br>[[清水敏孝]]<br>[[すずき紀子]]<br>[[安井邦彦]]<br>[[楠見尚己]] |
||
174行目: | 993行目: | ||
| 解説 || - || 高島忠夫 || [[水野晴郎]] || [[淀川長治]] || 水野晴郎 || [[木村奈保子]] |
| 解説 || - || 高島忠夫 || [[水野晴郎]] || [[淀川長治]] || 水野晴郎 || [[木村奈保子]] |
||
|- |
|- |
||
| 初回放送 || - ||1974年4月5日・12日<br>21:00-22:55<br>『[[ゴールデン洋画劇場]]』<br>(約190分) || 1979年4月25日・5月2日<br>『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]』 || 1981年5月10日・17日<br>『[[日曜洋画劇場]]』 || 1990年6月15日・22日<br>『[[金曜ロードショー]]』<br>(約178分) || 2000年3月30日・4月6日<br>21:02-22:54<br>『[[木曜洋画劇場]]』<br>(約189分)<br>'''追加録音版'''<br>2013年4月5日<br>『シネマクラッシュ 金曜名画座』 |
| 初回放送 || - ||[[1974年]][[4月5日]]・[[4月12日|12日]]<br>21:00-22:55<br>『[[ゴールデン洋画劇場]]』<br>(約190分) || [[1979年]][[4月25日]]・[[5月2日]]<br>『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]』 || [[1981年]][[5月10日]]・[[5月17日|17日]]<br>『[[日曜洋画劇場]]』 || [[1990年]][[6月15日]]・[[6月22日|22日]]<br>『[[金曜ロードショー]]』<br>(約178分) || [[2000年]][[3月30日]]・[[4月6日]]<br>21:02-22:54<br>『[[木曜洋画劇場]]』<br>(約189分)<br>'''追加録音版'''<br>[[2013年]][[4月5日]]<br>『シネマクラッシュ 金曜名画座』 |
||
|- |
|- |
||
|} |
|} |
||
181行目: | 1,000行目: | ||
== 逸話 == |
== 逸話 == |
||
[[File:Creación de Adán.jpg|thumb|200px|『アダムの創造』]] |
[[File:Creación de Adán.jpg|thumb|200px|『アダムの創造』]] |
||
* タイトルで[[ミケランジェロ]]の[[フレスコ画]]『[[アダムの創造]]』が効果的に使用されている。旧約聖書の創世記に記された人間の始祖の起源を描いた絵。上空は[[ヤハウェ|神]]、下方は人類の始祖[[アダム]]。[[ヤハウェ|神]]が[[アダム]]に命を授けている場面である。映画はロングショットからズームインをしながらこの絵画をバックにクレジットを表示する。映画の趣旨との関連性については聖書の物語が基盤にあるという暗示、もしくは人間は神とのつながりや契約を以て存在するというユダヤ教~キリスト教の教義の表現である。<ref name="タイトルバック絵">[[ミケランジェロ]]、旧約聖書【創世記】、タイトルロール背景がの映像確認。</ref> |
|||
* タイトルで[[ミケランジェロ]]の[[フレスコ画]]『[[アダムの創造]]』が使用されている。 |
|||
* [[チャールトン・ヘストン]]主演の本作は[[1925年]][[ラモン・ノヴァロ]]主演作に比べ宗教色を抑えて制作されている。ワイラー監督を含めた制作側スタッフの脚本選定と検討作業の中で、より広い観客層に受け入れられるようにする為、「家族愛」を物語の中心に据え宗教は背景とするに留めた。特にキリストの奇跡に関しては[[1925年]]作品ではキリストが直接母と妹に対面して病を治すのに対し、本作では落雷と大雨の中のキリストの映像と、母と妹の避難した洞穴の映像が繰り返し交互に編集されていて、奇跡かそうでないかは観客の主観に委ねる手法がとられている。脚本でキリストの通った道に這いつくばりキスするシーンもカット。ベン・ハーが散歩途中に何回か出会うシーンも始めからカットされている。<ref name="宗教色">特別版 DVD メイキング映像。</ref> |
|||
* 砂漠の行進後、罪人たちがナザレ村で休憩するシーンがある。水を飲む罪人たちの中でベン・ハーだけが一人の[[ケントゥリオ|百卒隊長]]からの虐待を受け絶命寸前となる。そこにキリストが百卒隊長の制止を聞かずベン・ハーに水を与えるが、百卒隊長は水を与えるキリストの行為をやめさせようと乱暴に近づく。しかしキリストが真っ向から[[ケントゥリオ|百卒隊長]]を見つめ立ち上がり動じない姿を見て[[ケントゥリオ|百卒隊長]]は凍り付いたように動かなくなる。キリストに目を合わせにくくなった[[ケントゥリオ|百卒隊長]]は何度も躊躇し振り向いてキリストの顔を窺うが、結局何も言えない。★このシーンは大変有名である。この役者の選出では当初採用担当者の面接で不合格だった(彼がギャラを吊り上げてきたから)。しかしワイラー自身は彼を呼び戻して[[ケントゥリオ|百卒隊長]]役に抜擢した。撮影後「彼を使ったのは正解だった」と述べたという。無名俳優でありながら、今も語り草になるほど彼の演技の評価は高い。彼の目の動きや表情を通じてキリストの顔を見た感覚になる観客は多かったという。<ref name="顔">製作50周年記念Blu-ray ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストン音声解説。</ref> |
|||
* ベン・ハーの母親と妹が患う病について、日本語字幕の表記は現在「[[ハンセン病|業病]]」、吹き替えでは「[[疫病]]」であるが、日本初公開当時から十数年近くにわたり、字幕に関しては「[[ハンセン病|癩病]]」と表記されていた。[[ハンセン病|英語で同義語Leper(癩病患者の意)]]は[[国際連合総会]]本会議では「差別用語」にあたるとして排除勧告されている病名である。日本でも近年[[らい予防法違憲国家賠償訴訟]]において国策の誤りとして国民への人権擁護意識を促す判決が確定し、原告患者へ国家賠償が成立している。感染力は非常に低く、触れただけでは病はうつらないという。映画ではエスターとベン・ハーがミリアムとティルザに愛情深く寄り添っている。石を投げた人々は当時の人々の業病についての認識がどの程度だったのかの示唆。詳しくは「[[ハンセン病]]」参照の事。 |
|||
* 「''Who are they?''」=そいつらは誰だ?(そいつの名は?)と密告を迫られると、ベン・ハーは唖然とし口論となる。そしてメッサラは「ローマ皇帝こそ神だ」と崇め叫びながら空中を指さし「''not that''」=あれじゃ無い!と吐き捨てる。あれ=ユダヤ教の唯一絶対神[[ヤハウェ]](ヤーウェ・エホバ)である。これは親友の信仰を蔑んでいる証で、後のストーリー展開の暗示である。<ref name="唯一絶対神">日本聖書刊行会 聖書(旧約・新約)新改訳中堅聖書 1070年初版2006年7刷 「いのちのことば社」</ref> |
|||
* 約8分間の戦車競走の2~10秒ショットごとの場面編集で競技場に落ちる太陽光の影の角度が一定ではない。(ベン・ハーがイエスと初めて会うナザレ村のシーンも同様。)レースの撮影では競技場のコースを一周させず、片方の直線コースから一つ目のコーナーまでを使用している。<ref name="影の方向">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-ray ビハインドストーリー</ref> |
|||
* [[カエサル (称号)|カエサル]]([[シーザー]]。当時の古代ローマ皇帝の敬称・称号・代名詞として使われた。この映画の時代ではティベリウスを指している。)に対しての[[ローマ式敬礼]](後世、[[ナチス式敬礼]]として利用)が描かれたが史実に基づいた演出である。戦車競走が開始される直前にユダヤ総督ピラトが敬礼と共に「ヘイル、シーザー!(ハイル・シーザー)」と宣言するシーンも見られる。 |
|||
* 本作の[[クアドリガ|二輪戦車]]の疾走するレースシーンの演出は第二班監督のアンドリュー・マートンと同じく第二班監督で、ウェスタンの名作『[[駅馬車 (1939年の映画)|駅馬車]]』のスタントで名を馳せた元スタントマンのヤキマ・カヌートが担当、ワイラーは総合監督の立場で、受賞の際のスピーチも「オスカーが増えてうれしい」という短いものだった。<ref name="授賞式">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO アカデミー賞授賞式他Youtube監督賞発表シーン映像)</ref> |
|||
* ヤキマ・カヌートの息子ジョー・カヌートは、父親の演出と指導に従いスタントマンとして戦車競走シーンに出演している。いくつかのコーナーを曲がるシーンと戦車が障害物を越えてベン・ハーが放り出される危険シーンでは、命がけのスタントを見せた。しかしこれはジョーが護身のベルトをつけ忘れたことによるミス。編集ではジョーの戦車の跳ね上がり・落下と、ヘストンが片足をかけて戦車に這い上がるシーンをつなげ、本当にヘストンが放り出されたように見える映像効果を実現している。本番前、父親のカヌートはベルトを締めるように忠告したあと、不安ながら息子の演技を見守ったが、落下事故になり当然ながら肝を冷やした。なおジョーは轢かれず戦車の真下をくぐれたのであごの傷一つで済んだ。<ref name="カヌート親子">特別版 DVD メイキング。</ref> |
|||
* ジョー・カヌートが戦車の御者としてヘストンの代役を務めているのが分かるシーンがある。[[ロングショット]]なので判別しにくいが、散乱した戦車の残骸を飛び越える寸前、カメラは彼の真横を映しているが、まとまりあるヘストンの髪型と違って、彼の後ろ髪は少し長めになびいているのが分かる。<ref name="スタント">特別版 DVD メイキング。</ref> |
|||
* ベン・ハーが駆った戦車の白馬四頭([[アルタイル]]・[[アルデバラン]]・[[リゲル]]・[[アンタレス]])は4組が調教された(全16頭)。戦車競走は本番だけでなく俳優やスタントマンの練習でも走らせなけらばならなかったため労わる必要があった。また16頭は場面ごとに出演目的を分け、(例えば、予想されるのは'''イルデリムの幕舎のジュダになつく馬'''、'''練習疾走用の馬'''、'''パレード行進の馬'''、'''戦車競走の全力疾走用の馬'''などというように)役割を分担させた。<ref name="馬16頭">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* 戦車競走の序盤、グリーンの戦闘衣装を着たコリント代表の御者がメッサラの卑劣な攻撃により戦車から落下する。その後態勢を戻そうとする瞬間、瞬く間に後続の戦車に正面から激突されて轢かれ、体幹ごと身体をへし折られて即死する残酷シーンがある。もちろん[[ダミー人形]]を使っているが、編集技術により、実際の人身事故のように見える。一方制作過程の競走シーンの撮影では戦車が[[70mmフィルム|MGMCamera65]]に突っ込み大破させてしまう事故もあった。<ref name="ダミー">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー</ref> |
|||
* 戦車競走が終了した後に歓喜した観衆がベン・ハーの戦車の元へとアリーナからコースに多人数なだれ込むが、あれは担当撮影監督の演出ではない。実はイタリア人エキストラの突発的行為である。敗れたメッサラの兜を拾い上げて高く掲げるエキストラの演技もアドリブである。<ref name="エキストラ">特別版 DVDチャールトン・ヘストン音声解説。メイキング。</ref> |
|||
* 本編中に3カ所コマ落ちが見られる。1.ナザレ村で大工の[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]](イエスの父)の言動に呆れた友人が立ち去るシーン。2.ガレー船の指揮官室で会話するアリウスとベン・ハーのシーン。3.アリウスとの養子縁組発表の宴の場で階段を下りる召使い(給仕)の歩行シーン。但し2のアリアスとのシーンはセリフを省略するため意図的に大きくコマをカットしているので「コマ落ち」と言うより「編集」が適しているとも言える。<ref name="コマ落ち">メイキング。ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* 水を与えられたベンハーを見送るイエスの袖や肩に[[70mmフィルム|MGMCamera65]]の影が入っている。また戦車競走シーンで第一カメラで撮影中、おなじく別箇所で撮影中の第二カメラが入り込んでいる。その後修正を試みはじめ編集で6コマをカットして入り込んだカメラの像を省く作業をしたが、映像が飛び過ぎて見栄えが良くなかったのでそのままにした。<ref name="修復の試み">特別版 DVD メイキング。製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー</ref> |
|||
* マケドニアの海賊との戦闘シーンで突撃を受けたベン・ハーのガレー船の奴隷たちが怪我をしながら次々脱出するが、本当に手首(足首)がないエキスなどトラが出演している。一方マケドニアのガレー船の攻撃用先端突起部が、ベン・ハーの船の船腹横を突き破るとき、漕ぎ手を巻き込んで破壊されるが、突撃による罪人の負傷者は全てダミーである。<ref name="怪我の奴隷役">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* イエスの裁判のときに、盆に入った水で手を洗う総督ピラトの向こう側にイエスが立つ。だが顔に影が落とされ顔がはっきり見えない。同じ方向を向く他の罪人の顔は見えている。<ref name="イエスの顔に影">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* ベン・ハー役は[[ポール・ニューマン]]、[[マーロン・ブランド]]、[[バート・ランカスター]]、[[カーク・ダグラス]]、[[ロック・ハドソン]]など多人数にオファーされたが、諸事情から全ての候補者に断られた。ニューマンは「スクリーンに堪えうる下半身じゃない」という理由で出演を断っている。そこで、ヘストンに役が回ってきた。ヘストンは「ベン・ハー」の撮影の一年前にワイラーの監督する'''「[[大いなる西部]]」'''の撮影で「[[ローマの休日]]」の名優[[グレゴリー・ペック]]と共演中だった。街から来た洗練された男ジェームズと、根っからのカーボーイの牧童頭スティーブが殴り合うシーンが有名。牧童頭がヘストンだった。自分の映画に初出演したヘストンを知っていたワイラーは、彼の演技力を評価していた。そのため最後はワイラーの推薦により主役は彼に決定した。<ref name="キャスティング">ビハインドストーリー(未公開映像)製作50周年記念Blu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* ローマ艦隊総司令官アリウス役のジャック・ホーキンスは、撮影途中、喉頭癌により声帯の部位を切除手術していたので声が出せなかった。その代わりに、俳優の[[チャールズ・グレイ (俳優)|チャールズ・グレイ]]の吹き換えで録音編集された。<ref name="喉頭癌">ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* ハイヤ・ハラリートは徴兵制によるイスラエル軍兵士出身で射撃の経験がある。本作品の出演後インターン(1963年)やアトランタイド(1965年)などの作品に出演。その後イギリス人監督[[ジャック・クレイトン]](「[[華麗なるギャツビー]]」監督)と結婚。俳優業は引退した。2020年時点も健在で御年89歳。俳優を早期引退した理由は諸説あるが、ベン・ハー特別版DVDにあるヘストン氏の音声解説によると、ワイラー監督との仕事で完璧な演技を求められることの精神的プレッシャーもあったのだろうと述べている。他に各種メディアの取材でインタビューなど質問を受けた記録からは、もともと脚本家であり実際その能力を活かす場があった事、史劇以外の現代ドラマに出演したいとの希望が[[ハリウッド]]では叶わなかった事も引退の要因として考えられるとされている。<ref name="ハイヤ">「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO チャールトン・ヘストン音声解説。</ref> |
|||
* 母親役のマーサ・スコットはチャールトン・ヘストンと1957年制作の「[[十戒 (映画)|十戒]]」で共演したがその時も母親役だった。オファーがあった時には年齢が10歳しか違わないヘストンの母親役を2度も担う事への抵抗感が実は少なからずあったという。自分自身の容姿が適していたからなのか、[[セシル・B・デミル]]作品の出演で拍が付いた恩恵なのか戸惑いもあった。結局ワイラー監督を信頼し役を引き受け、演技に務めた。実際、映画序盤の演技だけでなく、業病に罹る母親ミリアムの苦悩する姿や、キャシー・オドネル(実は当時ヘストンと同じ35歳。若く見える。)演じる娘ティルザを労わる演技、息子ジュダとの真に迫る真心の温かな母親役は、家族愛を前面に押し出す映画の主目的を達成した要として高く評価されている。<ref name="マーサ&キャシー">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-ray ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー</ref> |
|||
* ウイリアム・ワイラーには兄[[ロバート・ワイラー]](47歳)がおり、その兄はティルザ役の[[キャシー・オドネル]](24歳)と1948年に結婚して夫婦になった。ワイラーにとって年齢の逆転した義理の姉がキャシー・オドネルという事になる。キャシー・オドネル(35歳)はこの作品出演(1959年)以後は映画出演をしておらず、子どもはいなかったが11年間は家庭に落ち着いて夫婦円満に過ごしている。1970年に癌による脳内出血で帰らぬ人となった。<ref name="年下の姉">製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-ray ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー</ref> |
|||
* [[バルタザール|バルサザール]]役のフィンレイ・カリーは年長者のベテラン俳優だったため、ワイラー監督の完璧を目指す演出・指導があっても自分の演技を変える事がなかった。そのたびにワイラーは注文を付けたが、全く変わらなかった。ベテランのプライドがあったのだとか、あるいは、カリーにこだわりや悪気はなく御年80代で演技に限界があったのだろうという制作秘話もある<ref name="フィンレイ">「ベン・ハー」製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。</ref> |
|||
* 当時ほぼ無名だったアイルランド出身でメッサラ役の[[スティーヴン・ボイド|スティーブン・ボイド]]は、本作出演後に1962年ミュージカル「[[:en:Billy_Rose's_Jumbo|ジャンボ]]」にも出演し、美声とダンスを披露している。悪役メッサラとのギャップが感じられる点で特異な作品であり、彼の多彩な才能が垣間見られる。その他「オスカー」「[[ローマ帝国の滅亡]]」「[[天地創造 (映画)|天地創造]](ニムロデ役)」「[[ミクロの決死圏]]」等に出演した。YouTubeには「ベン・ハー」で著名になった頃のTV特集番組として彼の歌声やMCの女性歌手とのデュエット、彼女も含めての男性ダンサーたちとのステップが巧みな集団ダンスの披露、コントが収録された映像も鑑賞できる。<ref name="歌とダンス">[YoutubeにこのTVバラエティの映像がある。Stepen Boyd Danceで検索]</ref> |
|||
* アラブ系イギリス人俳優のヒュー・グリフィスは本作品後に「[[栄光への脱出]]」、「[[おしゃれ泥棒]]」など他ジャンルの映画にも精力的に出演、名優[[オードリー・ヘプバーン]]とも共演している。 |
|||
* 総督ピラト役のフランク・スリングはチャールトン・ヘストンとの史劇共演が2回ある。「ベン・ハー」「[[エル・シド (映画)|エル・シド]]」。その他歴史劇では「[[ヴァイキング (映画)|ヴァイキング]]」と「[[キング・オブ・キングス (1961年の映画)|キング・オブ・キングス]]」がある。<ref name="フランク">映画雑誌1974年から1978年のスクリーン・ロードショー記事。ビハインドストーリー</ref> |
|||
* 撮影に使われたのは『[[愛情の花咲く樹 (映画)|愛情の花咲く樹]]』と同じ70mm映画用カメラ「[[70mmフィルム|MGMCamera65]]」。これに左右幅を4/5に圧縮する[[パナビジョン (会社)|パナビジョン]]社製アナモフィックレンズを取り付け[[アスペクト比]] 1:2.76を得ている。同方式は数年後パナビジョン社があらためて「ウルトラ・パナビジョン70」として採用した。なお撮影の多くは[[イタリア]]の[[ローマ]]にある大規模映画[[スタジオ]]である「[[チネチッタ]]」で行われた。 |
|||
* テレビ放映を前提に画面両端が[[画面アスペクト比|スタンダードサイズ]]に[[トリミング (映画映像の用語)|トリミング]]されていた80年代以前は問題にならなかったが、90年代に入りソフト化(主としてレーザーディスク)がノートリミングで行われるようになると、幅のある65mmカラーフィルムオリジナルネガの経年劣化が第一にある上、ニュープリント現像の技術的問題で画面端が褐色に変色する状態が顕在化。その後フィルムの損傷や劣化は公開50年を記念した2009年の[[Blu-ray Disc|ブルーレイ]]化の際にデジタル修復(4K解像度)によって改善されている。<ref name="フィルム">「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング。</ref> |
|||
== 脚本のクレジット問題 == |
== 脚本のクレジット問題 == |
||
脚本のクレジットは映画では[[カール・タンバーグ]]1人になっているが、実は彼とクリストファー・フライ、[[ゴア・ヴィダル]]、[[マクスウェル・アンダーソン]]、S・N・バーマンの5人で執筆したものである。ヴィダルは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]が契約を2年残して彼を自由にするという条件で、フライと共に脚本を再執筆することに合意したのだが、プロデューサーのサム・ジンバリストが死去したことで、クレジットの問題が複雑化してしまう。そこで[[全米脚本家組合]]は『ベン・ハー』の脚本のクレジットをタンバーグのみとし、ヴィダルとフライの両名をクレジットしないことで問題を解決した。これについて、『ベン・ハー』の主演俳優[[チャールトン・ヘストン]]は、ヴィダルが執筆したと主張する(注意深く慎重に隠された)[[同性愛]]の場面に満足せず、ヴィダルが脚本に大きく関与したことを否定した<ref>{{Cite web|url=http://www.isebrand.beliefnet.com/page4.html|title=GORE VIDAL IN HIS OWN WORDS "OUR GREATEST LIVING MAN OF LETTERS."|publisher=Beliefnet|accessdate=2016-01-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011117031141/http://www.isebrand.beliefnet.com/page4.html|archivedate=2001-11-17}}</ref>。しかし、『映画秘宝』が2011年にヴィダルに行ったインタビューによれば、ヴィダルは脚本を盗まれてコピーされ、ノンクレジットにされたため、裁判沙汰に持ち込んだと主張している<ref>{{Cite web |date= |url=http://vidal1925.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html |title=『映画秘宝』ゴア・ヴィダルインタビュー |publisher=Homage to Gore Vidal ゴア・ヴィダルを讃えて |accessdate=2016-01-12}}</ref>。 |
脚本のクレジットは映画では[[カール・タンバーグ]]1人になっているが、実は彼とクリストファー・フライ、[[ゴア・ヴィダル]]、[[マクスウェル・アンダーソン]]、S・N・バーマンの5人で執筆したものである。ヴィダルは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]が契約を2年残して彼を自由にするという条件で、フライと共に脚本を再執筆することに合意したのだが、プロデューサーのサム・ジンバリストが死去したことで、クレジットの問題が複雑化してしまう。そこで[[全米脚本家組合]]は『ベン・ハー』の脚本のクレジットをタンバーグのみとし、ヴィダルとフライの両名をクレジットしないことで問題を解決した。これについて、『ベン・ハー』の主演俳優[[チャールトン・ヘストン]]は、ヴィダルが執筆したと主張する(注意深く慎重に隠された)[[同性愛]]の場面に満足せず、ヴィダルが脚本に大きく関与したことを否定した<ref>{{Cite web|url=http://www.isebrand.beliefnet.com/page4.html|title=GORE VIDAL IN HIS OWN WORDS "OUR GREATEST LIVING MAN OF LETTERS."|publisher=Beliefnet|accessdate=2016-01-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011117031141/http://www.isebrand.beliefnet.com/page4.html|archivedate=2001-11-17}}</ref>。しかし、『映画秘宝』が2011年にヴィダルに行ったインタビューによれば、ヴィダルは脚本を盗まれてコピーされ、ノンクレジットにされたため、裁判沙汰に持ち込んだと主張している<ref>{{Cite web |date= |url=http://vidal1925.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html |title=『映画秘宝』ゴア・ヴィダルインタビュー |publisher=Homage to Gore Vidal ゴア・ヴィダルを讃えて |accessdate=2016-01-12}}</ref>。 |
||
=== 著作権について === |
|||
著作権保護についてはこれまでだと[[著作権]]所有者の死後70年が明記されている。しかし訪れた1978年に[[著作権延長法]]が施行されたタイミングだと通常は1959年に世に出た多くの作品が2016年1月1日の時点でパブリックドメインとなり、自由に利用できるようになる予定であった。しかし、'''1978年に[[著作権延長法]]ができたときには、著作権の保護期間が延長されてしまった。'''その為に、1959年制作のこの作品は最長で2055年まで著作権で保護されることになっている。<ref>ということは「ベン・ハー」の映像を勝手に編集しなおして公衆に見せたり、写真にして売買に使用したり、ネットの時代にあっては勝手にブログに写真を張り付けたり動画編集で映写公開(youtube含む)したりすると違反となる。2055年という事は2020年時点からあと35年間は著作権の制限がかかり続けるということになる。</ref> |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
195行目: | 1,072行目: | ||
* [[ベン・ハー (2016年の映画)]] |
* [[ベン・ハー (2016年の映画)]] |
||
* [[キリストを描いた映画]] |
* [[キリストを描いた映画]] |
||
* [[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]のポッドレースシーンは本作品のオマージュと言われている。競技場の形状やフラッグの先導、レース展開とアクション、ゴール後のウィニングランなど。 |
|||
* [[内藤國雄]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。この映画をモチーフとした111手詰めの[[詰将棋]]を作成している。構想は2週間ですんだものの完成までに40年を要しており、その手順の過程において玉が勇壮に駆け回る[[クアドリガ|戦車]]のごとく盤上を走りまわす様子が描かれている。 |
* [[内藤國雄]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。この映画をモチーフとした111手詰めの[[詰将棋]]を作成している。構想は2週間ですんだものの完成までに40年を要しており、その手順の過程において玉が勇壮に駆け回る[[クアドリガ|戦車]]のごとく盤上を走りまわす様子が描かれている。 |
||
* [[セルロイド・クローゼット]] |
* [[セルロイド・クローゼット]] |
2020年7月29日 (水) 21:51時点における版
ベン・ハー | |
---|---|
Ben-Hur | |
公開時の英語版ポスター。競技場の巨像と古代遺跡の岩場を背景にクライマックスの戦車競走の白馬が疾走しているデザインが物語を象徴。 | |
監督 | ウィリアム・ワイラー |
脚本 |
カール・タンバーグ マクスウェル・アンダーソン(表記なし) クリストファー・フライ ゴア・ヴィダル(表記なし) S・N・バーマン(表記なし) |
原作 | ルー・ウォーレス |
製作 |
サム・ジンバリスト ウィリアム・ワイラー(表記なし) |
出演者 |
チャールトン・ヘストン スティーヴン・ボイド ハイヤ・ハラリート サム・ジャッフェ ジャック・ホーキンス フィンレイ・カリー ヒュー・グリフィス フランク・スリング マーサ・スコット キャシー・オドネル ジョージ・レルフ テレンス・ロングドン アンドレ・モレル ジュリアーノ・ジェンマ マリナ・ベルティ |
音楽 | ミクロス・ローザ |
撮影 | ロバート・L・サーティーズ |
編集 |
ジョン・D・ダニング ラルフ・E・ウィンタース |
製作会社 | メトロ・ゴールドウィン・メイヤー |
配給 |
MGM/ロウズ・シネプレックス・エンターテインメント ワーナー・ブラザース |
公開 |
1959年11月18日 1960年4月1日 |
上映時間 | 224分(3時間44分) |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
製作費 | $15,000,000[1](概算) |
興行収入 | $74,000,000[1] |
配給収入 | 9億7775万7千円[2] |
前作 | 1925年版ラモン・ノヴァロ主演「ベン・ハー」 |
次作 | 2016年版ジャック・ヒューストン主演「ベン・ハー」 |
『ベン・ハー』(Ben-Hur)は、1959年制作のアメリカ映画。ルー・ウォーレスによる小説『ベン・ハー』の3度目の映画化作品である。ウィリアム・ワイラー監督。チャールトン・ヘストン主演。同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞をはじめ11部門のオスカーを受賞。この記録はアカデミー賞史上最多記録で長期にわたりトップを維持、各映画評価コミュニティや外国の映画界の賞も含めると全部で21個の受賞。後に「タイタニック」(1997年)「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」(2003年)がアカデミー各賞でノミネートされ11部門を受賞。史上最多受賞記録としてアカデミー賞で肩を並べた。なお主演男優賞・助演男優賞の俳優演技部門を含む受賞は3作品中では本作のみである。21世紀の現在でも、名画座の企画やTVなどでの再上映・放映・レンタル・デジタルメディア開発・修復・再販、ビデオ・オン・デマンド全般、ネット配信作品で定番リストに名を連ねる人気作品として定評を得ている。撮影は主にローマのチネチッタスタジオで収録。
概要
作品について
アメリカのルー・ウォーレスが1880年に発表した小説 "Ben-Hur: A Tale of the Christ" を原作に、1907年に15分のサイレント映画で製作され、1925年に同じサイレント映画で2度目の映画化でラモン・ノヴァロがベン・ハーを演じ、これが大ヒットとなった。そして、この2度目の時にスタッフとして参加していた若きウィリアム・ワイラーが34年後に今度は監督として70mm(MGMCamera65 )ウルトラパナビジョン、テクニカラー(公開当時は総天然色と和訳表記された)で撮影し3度目の映画化で完成させたのがチャールトン・ヘストン主演で最も有名な本作品である。
主人公、ジュダ(ユダ)・ベン・ハーをチャールトン・ヘストン、メッサラをスティーヴン・ボイド、恋人エスターをハイヤ・ハラリート、他にジャック・ホーキンス 、ヒュー・グリフィス が出演。チャールトン・ヘストンがアカデミー賞主演男優賞、ヒュー・グリフィス が助演男優賞を受賞し、ウィリアム・ワイラーはこの映画で3度目の監督賞を受賞。悪役として迫真の演技を見せたスティーヴン・ボイドは第17回ゴールデングローブ賞では最優秀助演男優賞を獲得している。
帝政ローマにおけるティベリウス皇帝の時代、イエス・キリストの生涯を背景に、ローマの属州となって国を失った民族であるユダヤ人の青年ベン・ハーが、苛酷な運命に翻弄され、復讐の憎悪と絶望に陥りながら、最後には信仰への希望に回帰するまでを描く。原作の副題に「キリストの物語~A Tale of the Christ~」とあるように、キリストの生誕、受難など、ユダヤ教を起点とした信仰の時代的変遷と当時の新生思想(原始キリスト教)としての発展がこの物語の根幹として貫かれている。映画ではプロローグにおいてタイトル表示前にキリストの生誕を描き、キリストの処刑とハー家の再生でエンディングとなるが、その物語の展開で中心主題を考えたとき、副題「キリストの物語~A Tale of the Christ~」がオープニング「BEN-HUR」のタイトル文字直後に提示される意味合いを反映させた原作者の意図は然るべきものである。
1959年11月18日にプレミア公開され、224分の大作(前奏曲-プロローグ~序曲~前編-休憩~間奏曲-後編)ながら、全米公開後には瞬く間にヒットとなった。同様に全世界でも公開されてヒット。54億円もの制作費が投入されたが、この映画1本で倒産寸前だったMGMは一気に社運を好転させ再起する事となった。ヒットの要因は主に壮大なプロモーション活動や関連グッズの販売など宣伝広報によるものである。[3]。
しかし、当時まだ大スターと言えるほどの豊富な経歴がないチャールトン・ヘストンを擁しながら、1925年に大ヒットしたラモン・ノヴァロ主演の同名作品のリメイクでそれを超える作品になるであろうという期待感、名匠ウイリアム・ワイラーの演出力に対する安心感、1950年代までに名作を手掛けたスタッフ、アクションシーンやスタントのプロを集めた制作担当サム・ジンバリストのプロとしての交渉術、加えてサム・ジンバリストの急死と残した功績に対する衝撃と尊敬、これまでにない70mmのワイドスクリーンでウルトラパナビジョンの大画面を採用したうえに、6チャンネルのステレオフォニックによる臨場感あふれる音響を実現したことも大きな期待と関心を集めた理由である。[4]
そして何よりアメリカの国家的正義と精神のよりどころであるキリスト教の新約聖書の内容をもとに描かれた作品であり、教会牧師や神父らが大いに信者に対して本作品を鑑賞するように新聞や機関誌、雑誌に寄稿して推奨していたこともヒットに大きく影響していた。また時代の流れから見た時、第二次世界大戦から十数年しかたっていない当時、傷心癒えない人々がまだ大勢おり、大国の横暴や差別によって少数者が滅ぼされる経験、それを見て義憤を抱いた経験、その戦いに身を投じた経験、愛する人を失った経験をした人々が自らの物語として映画をとらえていたことも影響していた点である。かつてのナチスドイツのユダヤ人に対する迫害・ホロコースト、世界侵略と独裁者の世界征服への野心。すべてがこの映画の題材につながってカタルシスが得られたのも、正しく生きようとする多くの人々に受け入れられた。[5]。
日本初公開
1960年4月1日から東京はテアトル東京、大阪はOS劇場でロードショー公開され、他都市も東宝洋画系で公開された。テアトル東京では翌年61年7月13日まで469日間に渡って上映され、総入場者数95万4318人、1館の興行収入3億1673万円を記録した。全国各地の上映の後に、配給収入は最終的に15億3000万円となった[6]。日本での一般公開は1960年4月1日だが、これに先立ち同年3月30日にはテアトル東京でチャリティ上映が行われた。このとき昭和天皇・香淳皇后が招かれ、日本映画史上初の天覧上映となった。ヘストン夫妻もこの場に立ち会っている[7]。
海外公開での反響
世界においてもキリスト教圏のヨーロッパやソ連、イスラエルを中心とした中東地域(イスラム教・ユダヤ教・およびキリスト教は同じヤハウェ神を崇拝。ただしユダヤ教、キリスト教側からはイスラム教のヤハウェ神アッラーフを共通の神と認めていない。)、日本やアジア全域でも興行成績は類を見ないものであった。ただしキリスト教信仰を受け入れない国家である中華人民共和国は毛沢東政権下での上映は当時禁止された。その他諸外国では配給側の映画興行・広報宣伝の戦略の中でキリストの説教や宗教の価値についてはあまり触れず、スペクタクル史劇の娯楽映画であり、映像がエキサイティングである点を特に強調して宣伝に臨んでいたため、観客は固定観念に縛られることなく抵抗を取り払い「ベン・ハー」の観覧に出かけ楽しむことができた。実際のところでは映画の後半42分は信仰やキリストの磔刑がメインになっていて無宗教者には退屈で余計であると公的なレビューにおいて酷評されるきらいもあるが、戦車競走シーン以降の展開の中で感情移入に没入し、主人公の友情と恋の成り行きや家族愛とその幸せを期待する展開に目が離せなくなるという効果を醸し出している。ちなみに本作品の1968年のリバイバル公開(再上映)で新聞における映画館の広告表示や予告編には「文部省特選映画」「優秀映画鑑賞会特選」と明記されている。当時、実際に団体観覧=団観で、特定の学校ではあるが、中学生や高校生が教師の引率により集団でこの映画を観に映画館に足を運んだ。[8]。
プロローグのナレーション
本作品は、1960年代から公開初期の約十数年~二十年、冒頭のプロローグにおけるナレーション(バルサザール役のフィンレイ・カリーによる)がオリジナルの英語ではなく、下記の日本語ナレーションに吹き替えられていた。
日本語ナレーション 「西暦紀元のはじめ、およそ一世紀にわたってユダヤはローマの支配下にあった。アウグストゥス帝7年の時、皇帝の布告を以てユダヤ人は全て生まれた地に帰り、人口を調査し、税金を納めよと命令した。大勢の人々がこの国の都、交易の中心たるエルサレムの森に集まっていた。その古い都は、ローマの権力のはだかるアントニアの城、魂と不滅の信仰のしるしたる金色の大寺院に支配されている。皇帝の命令に服従しながらも人々は古くから伝わる民族的遺産を誇らしく守り、いつか、彼らの内から救いと自由をもたらす救世主が生まれるという預言者の言葉を忘れなかった。」 [9]。
戦車競技
この作品の最大のクライマックスシーンである4頭立ての馬車レースについての詳細が次項に示されている。戦車競走、チャリオット、クアドリガ。参照の事。
スタッフ
- 原作:ルー・ウォーレス
- 製作:サム・ジンバリスト
- 監督:ウィリアム・ワイラー
- 脚本:カール・タンバーグ クレジットあり
- 脚本:マクスウェル・アンダーソン(クレジットなし)
- 脚本:ゴア・ヴィダル(クレジットなし)
- 脚本:クリストファー・フライ(クレジットなし)
- 脚本:S・N・バーマン(クレジットなし)
- 撮影:ロバート・L・サーティース
- 音楽:ミクロス・ローザ
- 音楽指揮:ミクロス・ローザ(オリジナル)
- 音楽演奏:MGM交響楽団(オリジナル)
- 助監督:ガス・アゴスティ
- 助監督:アルバート・カーダン
- 助監督:アンドリュー・マートン(戦車競走シーン)
- 助監督:ヤキマ・カヌート(戦車競走シーン)
- スタント:ジョー・カヌート(戦車競走シーン)
- 美術:ウィリアム・A・ホーニング エドワード・C・カーファグノ
- 衣装デザイン:エリザベス・ハフェンデン
- 編集:ラルフ・E・ウィンタース
- 音響:フランクリン・E・ミルトン
- 視覚効果:A・アーノルド・ギレスビー
出演者(登場人物)
- チャールトン・ヘストン(ジュダ・ベン・ハー)■ユダヤ王族(豪族)の王子。豪商。裕福で幼少期からローマ軍将校の息子メッサラと親友。裏切りの報復を画策。
- スティーヴン・ボイド(メッサラ)ローマ軍連隊司令官大佐■ジュダの親友。立身出世の話に呼応せぬジュダを逆恨み。ハー家を陥れるがジュダの報復を被る。
- ハイヤ・ハラリート(エスター)■ハー家の奴隷サイモニデスの娘。望まぬ他人との結婚に従う前夜にジュダと恋に落ちる。イエスの教えでジュダを導く。
- サム・ジャッフェ(執事サイモニデス)■ハー家の執事。隊商を取り仕切り富を得る商才に長けた屋台骨。事件後拷問を受けジュダとローマに復讐を計る。
- ジャック・ホーキンス(クイントゥス・アリウス)ローマ海軍艦隊総司令官大将■ガレー船でジュダに出会い命を救われジュダを養子にする。良き理解者。
- フィンレイ・カリー(バルサザール)■三博士の一人。救世主の誕生を祝福したエジプト人。ジュダに信仰の助言と救世主の奇跡の示唆を与える。
- ヒュー・グリフィス(族長イルデリム)■バルサザール知人のアラブ人。ジュダの復讐心に同調し協力する。戦車競走で勝ち、賭けでメッサラの破産を狙う。
- フランク・スリング(ポンテオ・ピラト)ユダヤ属州総督■アリウスの友人。ジュダに様々な配慮をするが本性は傲慢なローマ人。イエスを磔にする。
- マーサ・スコット(ミリアム)■ジュダの母。分別あるハー家婦人。メッサラにより業病となる。ジュダとエスターに救出されイエスに会えた後奇蹟が起こる。
- キャシー・オドネル(ティルザ)■ジュダの妹。あどけなさ残る少女で母と同じく業病となり死にかける。兄を慕いジュダとエスターの救出で奇蹟が起こる。
- ジョージ・レルフ(ティベリウス)■紀元37年まで在位のローマ皇帝。アリウスの功績を称え褒賞バトンを授けると共に連れ帰ったジュダの処遇を自由にさせる。
- テレンス・ロングドン(ドルサス)ローマ軍陣営隊長指揮官大佐■メッサラの腹心。最側近。冷酷非道なこともメッサラの命令とあらば進んで実行する。
- アンドレ・モレル(セクスタス)ローマ軍連隊司令官大佐■メッサラの前任者。預言者の教えと救世主の存在に心が揺れ動いていた。
- マリナ・ベルティ(フレビア)ローマ人貴族婦人■ローマでのジュダの交際相手。親密にはなるが心身共に思いは固く、エスターを思い恋愛には至らない。
- ジュリアーノ・ジェンマ(役名不明)ローマ軍将校■メッサラの部下。ジュダの槍の急襲に剣で対抗、メッサラに制止される。大衆浴場で賭けの場を覗き見る。
[10]。
あらすじ
- (Prelude)
- (MGM logotype)~Prologue&Narration by Finlay Currie~
プロローグ
西暦紀元の始めベツレヘムの星々が輝く下、厩舎でヨセフとマリアの子が誕生した。
前編
それから26年後、軍事力によって勢力を拡大していたローマ帝国が支配する辺境の地ユダヤでは、植民地の政務を統括する総督の交代が迫っていた。裕福なユダヤ人王族子孫の若者、ジュダ・ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)は、新総督赴任の先遣隊軍司令官として戻ってきた旧友メッサラ(スティーヴン・ボイド)との再会を喜ぶ。ユダヤの民が希望の光とする救世主の存在を、彼らの願望にすぎぬと否定する一方で、反逆の火種となりかねない恐怖をも感じていたメッサラは、王家の流れを汲み人望のある友人ジュダにローマ側に協力するよう求める。しかし、同胞の苦難に心を痛めていた彼は、口論の末その誘いとローマに反感を持つ同胞の名の密告を断り、メッサラと決別する。
新総督グレイタスを迎えた日、ジュダの邸宅から瓦が滑り落ちて新総督の行列の中へ落下しグレイタスが負傷する。メッサラは、事故と主張するジュダに耳を貸さず、部下のドルサスに新総督暗殺の疑いで連行させる。混乱の中、母のミリアム(マーサ・スコット)と妹のティルザ(キャシー・オドネル)は行方知れずとなるが、自らも罪人としてタイア(ティルス)行きを宣告され、死ぬまでガレー船の鎖に繋がれ漕ぎ手となる運命に見舞われる。刑の執行のため港まで護送される中、ナザレ村で一切の水を与えられず、渇きに苦しみ神の助けを祈りつつ力尽きかけたその時、一人の大工の男がひしゃくを近づけジュダに水を与える。仰ぎ見るその顔と優しさに満ちた手。ジュダは生気を取り戻し、ナザレ人の姿を目に焼き付けて前を向き歩き始める。
ローマ海軍艦隊総司令官アリウス(ジャック・ホーキンス)は、マケドニアの海賊撃滅の戦いに出向く艦船で、強い眼差しを放つ奴隷に目を止めた。それは3年以上に渡り信仰と復讐の念を秘め、ガレー船の苦役を耐えたジュダだった。実の息子を失い神の姿を見失っていたアリウスは、海戦の激闘の最中彼に命を救われ、味方艦船に戻り戦勝の幸運を得て命の恩人ジュダとローマに凱旋する。ローマ皇帝ティベリウスの恩恵によりアリウスはジュダを養子にし、戦車競争の騎手としてジュダは第二の人生を得た。自由の身となったジュダは、宴の夜、母と妹を探すため悲願であったユダヤへの帰郷をアリウスへ伝える。アリウスはジュダの思いを十分知っていた。そして彼の願いを受け入れる。
帰郷の途上、救世主を探すバルサザール(フィンレイ・カリー)と出会いジュダは偉大な道を歩む人の存在を知らされる。またイルデリム(ヒュー・グリフィス)の歓待を受け、幕舎の中でメッサラの存在を聞かされた。アラブの富豪でローマへの敵愾心盛んなイルデリムは、戦車競争で常勝を続ける高慢極まりないメッサラを倒す機会を狙っていた。
仇敵の名を耳にして古傷が痛むジュダだったが、はやる気持ちを抑えられず母と妹に会うためその足で急いでユダヤへ戻った。荒れ果てた我が家には家宰のサイモニデス(サム・ジャッフェ)と娘のエスター(ハイヤ・ハラリート)がひそかに暮らしていた。拷問により足が不自由な身となっても誠実なままの友サイモニデスとの再会を喜ぶが、母ミリアムと妹ティルザの姿はそこにはなかった。ジュダの帰郷はメッサラの知るところとなり、ジュダの母と妹を地下牢に閉じ込めたユダヤ総督府の役人は、生死を確かめるため牢に行き、惨い光景を目のあたりにする。
業病に冒された母ミリアムと妹ティルザは、牢を追放され人里離れた「死の谷」へ向かう足で、一目でもジュダを見ようと夜の物陰に隠れ屋敷前で我が家を懐かしんでいた。そのとき偶然にエスターと出会う。エスターの、ジュダとサイモニデスに対する優しい思いを気遣いつつも、ミリアムは自分たちが死んだ事にするようエスターに約束させる。
二人の愛と切ない思いに応えるため、エスターはミリアムとティルザが既に死んでいるとジュダに伝える。あまりの衝撃で動揺隠せないジュダに、メッサラを忘れローマへ戻り心の平安を得て生き直すことを望むエスター。そんな彼女への愛情を抱きながらもエスターを振り切り、遂に動き始める。箍(たが)の外れた復讐の念をジュダは抑えることが出来なかったのである。
- (Intermission)
- (ENTR'ACTE )
後編
巨大な戦車競技場で両者は対決の日を迎えた。神の許しを請い、復讐に燃えるジュダは、イルデリムのアラブ種の白馬四頭を戦車に繋ぎ、大観衆が見守る中でメッサラとの闘いに挑む。壮絶なレースの末ジュダは勝利した。レース後の英雄を囲む観衆たちの熱狂の傍らで、メッサラは砂上に肉引き裂かれ苦痛にもがき倒れていた。復讐を遂げたジュダは、迫る死の床で無残な姿となって横たわるかつての親友を目前に、微塵も憐れむ事なく冷やかに見下ろすだけだった。だがメッサラから母と妹が実はまだ生きており業病の者が隠れ住む「死の谷」にいる、と知らされ、驚きと悲しみで胸が張り裂ける。
怒り冷めやらぬジュダは、ユダヤ総督ピラトのもとに出向き、親友が傲慢なままで死んだ上に、母と妹を不幸にしたローマを憎み、養父のアリウス家後継の証である指輪を総督ピラト(フランク・スリング)に突き返した。そしてローマ市民権をも拒絶した。
サイモニデスと共にローマのユダヤ支配を終わらせるため策をはかろうとするジュダに、エスターは「汝の敵を愛せ」とのイエスの言葉を伝える。しかし彼の心は憎悪に支配され、ローマへの反逆の剣を握ることに囚われる。そしてジュダは密かにエスターの後を追い、死の谷の洞穴で生きながらえる母と妹に再会した。拒む母と妹を救出し、エスターのすすめに従って四人でイエスのもとへと向かう。ヨッパの門をくぐり街中に入ると目の見えぬ物乞いの老人がいた。街の閑散とした様子を不思議に思い、訳を聞くとイエスが裁判にかけられて磔にされるという。
ジュダは、すがる思いで母と妹を連れて裁判が行われている街に繰り出すが、十字架を背負ったイエスを見て、かつて罪人にされナザレ村で死にかけたとき、水を恵んでくれたあの人であることに気づき愕然となる。衝動のままに母と妹をエスターに委ね、ジュダは、十字架の行進のなか思いを秘めた穏やかな表情で目の前を立ち去ったイエスのあとを追う。そして十字架の重みに倒れたイエスへ一杯の水を差し出す。その時のイエスの眼差しからは、言葉で言い表せない威光と慈愛が溢れていた。
ついにゴルゴタの丘でイエスは磔の刑に処せられる。死が迫りイエスの息途絶えたとき、激しい嵐が起きる。閃光瞬く落雷と大雨がイエスの体をつきさし、イエスの流した血が大地を流れゴルゴタの丘の木々の根に深く染み入っていった。空を覆っていた暗雲もやがて去り、陽の光は木々の隙間から水面にきらめく輝きのように差し込んでいった。
雨の雫が落ちる邸宅に戻ったジュダは、待ちわびていたエスターに身を寄せて、十字架上のイエスが死を前にして『父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです』と言われたと静かに語る。そしてジュダは「その声が私の手から剣や憎しみをも取り去ってくれた」と告げる。
穏やかな目とささやく声。エスターは憎しみが消えた素顔のジュダに温かな眼差しを向ける。導かれるまま階段の上を見上げると、そこにミリアムとティルザの姿があった。嵐の中でエスターと共に風雨をしのいだ二人は不治の病が癒えていたのである。
母や妹に愛おしく寄り添い、ジュダは魂の安らぎを取り戻した喜びをいつまでもかみしめる。
夕暮れ迫る丘の上に、羊飼いが群れをなす羊たちを連れて平地を歩いていく。
その向こうには、木柱だけになった十字架がとばりの落ちかけた空の影となり、まだ静かに立っているのだった。
感動・共感をよぶ演技力とその場面
ユダヤとローマ
1,エルサレムに到着したメッサラが自分が指揮するローマ軍団に満悦して率いる軍団を眺める。
2,メッサラとベン・ハーが再会を喜び合い、肩を抱き顔を合わせ親しみの目で忍び笑いしつつ感激し合う。
3,興奮しながら立身出世を説くメッサラと次第にベン・ハーがそれに激しく反発して激高に発展していく。
4,成長したエスターが、数年ぶりに合うベン・ハーを前にして恥じらいを隠せずに少女のようにたたずむ。
5,ベン・ハーとエスターが運命の別れに切なさを抑えきれず抱擁し合う。涙を光らせ彼の前を立ち去る時の美しさ。
友の裏切り
6,無実を訴え叫ぶベン・ハーを無視し、目配せで部下の兵士に指示を送るメッサラの冷酷な表情。
7,冷たくあしらうメッサラに母と妹の釈放を涙ながらに訴え怒り狂うベン・ハー。
8,井戸の前で倒れ死を目前に最後の水を求めながら「神よ助けたまえ」と力なく祈るベン・ハー。
9,兵士の制止を聞かず、苦しむベン・ハーに水を与え続けるイエス。映画では背後しか見せない。威厳と神々しさ満ちた演技は世界一有名な人物を、観客のイメージを壊すことなく荘厳に表現している。
ガレー船の恩人
10,船室のアリアスにメッサラへの復讐を遂げることが生きる力だと語るベン・ハー。淡々さ憎しみの強さを引き立て迫力ある。
11,アリアスに認められ甲板を後にする途中、ガレー船の船底で櫂を漕いでいる奴隷達が目に入り立ち止まるベン・ハー。自由を実感しているというよりも、自分だけが自由の身になることの後ろめたさの表現。
12,アリアスの邸宅で酒宴から抜け一人故郷を思う。彼の思いは一つ。養父アリウスに感謝しつつ寂しさがこみ上げてくる。
信仰の迷いと復讐
13,イルデリムの幕舎でバルサザールの語りに耳を傾けているうちに心が和むベン・ハー。その昔救世主の誕生を祝い礼拝したことを話すうちに思いが熱く高まるバルサザール。
14,悲願の帰郷を遂げ、故郷の家の門にキスをして頬を寄せるベン・ハー。あまりに変わり果てた邸宅の姿に打ちひしがれる姿。
15,拷問を受け不自由な体になったサイモニデスとベン・ハーの再会。二人強い絆がサイモニデスの信仰心を蘇らせる。
16,帰郷後にメッサラと再会。憎しみを露わにするベン・ハー。驚きを隠せず動揺するメッサラ。
17,生きていた母と妹が自分たちの邸宅へ訪れ、エスターに最後の願いを伝える。あまりにも悲しく哀れな二人を見送る潤むエスターの視線が印象的。
18,母妹の死をエスターに告げられ、狂おしく泣き崩れるベン・ハー。みなぎる憎しみ。メッサラへの復讐を強く誓い荒れた歩みで街中へ出る。
19,死の床に横たわるメッサラが最後の力を振り絞り憎しみを投げつけ息を引き取る。冷淡に振る舞ったベン・ハーは母と妹が不治の病と明かされ愕然とする。生きる意味を見失うこの苦しみ。
母と妹
20,死の谷で岩場に隠れ、変わり果てた母と妹の姿を見て流れる涙を止められず泣きうなだれるベン・ハー。
21,憎しみに囚われるベン・ハーにエスターがイエスの存在を伝える。何を言えど頑なな彼に、失望したエスターが「あなたにはメッサラが乗りうつっている」と言うと、急にベン・ハーの顔から血の気が引く。エスターが去った時憎しみに束縛され苦しみあえぐ自分の姿に気づくベン・ハー。
22,死の谷へ母と妹を救いに来たベン・ハー。自分の姿を見られて離れる母に寄り添い、目を潤ませながらかぶせた布を開いて病をさらす母の目を見つめ、その思いを汲み取る。泣いて拒む妹も救いだし労わり強く抱きしめる。
イエス
23,ユダヤ総督の裁判の後十字架を負い群衆の中を歩くイエス。重みに体が揺れ倒れ潰されても立ち上がり、また裸足で地面をつかむ。一歩また一歩。
24,処刑の丘に向かうイエスに恩返しの水を持ち運ぶベン・ハー。イエスの顔を見た瞬間目を見開き心和らぎ不思議な雰囲気に支配されていく。
25,ラストシーン。家族の絆を再び取り戻し、希望とやがて来る幸福に期待を寄せながら、いつまでも肩を寄せ合う4人。
戦車競走シーン
競争のストーリーライン
戦車競走の展開の仕方はまさに「エキサイティング」である。人によっては、「アドレナリンが止まらない」「見てられない」、「怖い」、「面白い」などさまざまである。印象はどのように抱いても人それぞれで肯定も否定もすることはない。しかしその時に得られる感じ方や印象の質は、映画におけるストーリーラインの影響を存分に受ける。これは紛れもない事実である。戦車競走に至るまでの物語を堪能して後にこのシーンに没頭すれば心地よくもなるし後味が悪くもなるだろう。そんな現象を引き起こす戦車競走シーンの流れを見ていく。
- 総督ピラトのハンカチが落ちる
- スタート合図のフラッグが振り下ろされる。
- 全御者9台が一斉にスタートする。メッサラがコースの内側に入ろうと敵御者の戦車を押しのけて割り込む。
- 最初のコーナーにさしかかると、敵御者が遠心力で戦車を空中回転させてしまい大破、投げ出される。
- メッサラのブラックデビル鋸戦車は次々と敵の御者を妨害し走路に割り込み前に出る。
- ベン・ハーは戦車列中間でメッサラを追いかける位置におり中々先頭に追いつけない。
- メッサラが緑衣装のコリントの御者に攻撃をしかけ戦車は破壊される。落下後逃げるも大事故。
- 遂にメッサラが先頭になるが3回目のコーナーでベン・ハーが並走。メッサラは彼を妨害し列からはじき出す。同時に並列で疾走の敵御者が戦車大破で落下。
- 7周目、ベン・ハーは列に戻り追いつきメッサラと並び始める。メッサラは横にある敵御者二人の戦車に割り込み破壊。二人の御者は落下。
- 再度コーナーが迫るがメッサラが内側コースのベン・ハーに押し寄せ、障害物に当たるよう幅寄せする。ベン・ハーは障害に乗り上げ跳ね上がるがしがみつき戦車に這い上がる。
- 執拗なメッサラの攻撃。近づくと鞭を放つ。そのうち二人の戦車の車輪がからみメッサラの戦車が破壊、落下。蹄に踏みつぶされ大怪我。
- ベン・ハーが優勝しゴールする。
俳優の演技
- 9台の戦車の御者全員緊張の面持ちである。スタート合図を待つメッサラだけはあからさまに苛立ちを見せる。
- ベン・ハーは手綱を引き寄せ腕に巻き付ける。表情は険しく視線をメッサラにも向ける。完全戦闘態勢に入る。
- レーススタートと共に御者は全員前のめりである。歯を食いしばってゆがんだ表情の御者もいる。
- 吐息が荒くなり口が開いてくる御者の姿が見える。メッサラは常に歯を食いしばり口を尖らすなど勝気な様子。他の御者も使っていたがメッサラの鞭の使い方が半端ではない。
- ベン・ハーはイルデリムの教え通り決して鞭は使わず手綱だけで馬たちをコントロール。
- ローマ人の応援席には総督とその側近やメッサラの部下が集合している。みな無表情。ピラトとドルサスは事故があるたびにリアクションする。事故の大きさに合わせて動作が大きくなっていく。
- イルデリムが「ローマの豚野郎」と悪態をつくが、馬たちを愛していて声援を送る。拳や腕を大きく上げベン・ハーにも大声援を送る。
- ローマ人たちはメッサラの敗北に険しい表情を見せる。特に総督ピラトは唇をかみ手を当てている。
- ドルサスはメッサラの事故に目を疑い、動揺し、応援席の場から走り去る。けが人救護の場に駆け付ける。
- ベン・ハーは勝利するもメッサラに複雑な心境なのか笑いもせず怒りも見せない。しかし競技場の応援者たちには笑顔で応える。
- 総督ピラトは無表情で月桂冠を授け「出過ぎるな=調子に乗るな」と忠告を加える。親友の養子の勝利に全く喜びを見せない。
エキストラ・無名俳優の演技や動作
- 御者のスタントは「落ちる」「地面にたたきつけられる」「引きずられる」「投げられる」「馬にけられる」など痛々しい危険を承知で臨んでいる。並大抵ではない。実写であり、生身の現象を映像として撮影し編集作業によりリアル感を出している。
- 競技場の観衆は大声を出しながら手や腕を振る動作を何度も繰り返し撮影している。ベン・ハーの勝利の歓喜にわく雰囲気は実際のスポーツ観戦と同じ感覚で自然に出てきた感情や動作でもありイタリア人エキストラの奮闘ぶりに感心する。
- イタリア人エキストラには当時制作側の映画撮影の運営上で色々な問題が起こり困惑したという記録もあるが、演技に関してはスペクタクル史劇の醍醐味を浮きだたせる意味で大きな役割を果たした。
- 観衆の細かい反応については撮影監督がいくつかの指示を出している。代表的なもので言えば戦車競走の応援シーンや、事故が起きたときのシーン、特に一斉に総立ちになり両手を挙げて叫ぶ仕草を見せるシーンは非常に効果的であった。ローマの貴族たちや下級兵士たちが総立ちになるシーンも同様である。
- 素晴らしい成果としては、アドリブにより戦車競走の雰囲気を本物のその時代の民族の心理を反映させて演技した点であろう。レース会場の砂場のコース上に飛び出たり、指示されてもいない演技を自分でとっさに思いついてカメラの前で演じたり。アドリブが的を射ていてワイラー監督やアンドリュー・マートン、ヤキマ・カヌートも胸をなでおろした。
カメラの配置と移動
- カメラは定位置においての固定撮影、専用トラックに載せての撮影、クレーン撮影など様々な手法がとられた。
- 固定位置での撮影では例えばコーナーを曲がる御者たちの全景を撮影する場合、応援席から走路のレースにくぎ付けになるピラト総督を撮影する場合、ロングショットまたはアップでの走路落下後のスタントマンを撮影する場合がある。
- 専用トラックにカメラを乗せて撮影するシーンはまさしくこの映画のメインである。アクションシーンはほとんどこの撮影によって映像化された。
- クレーン撮影は、高く掲げて上空から競技場中央の島にある巨像をフレームに入れながら、コースの御者たちの走りや行進を撮影する場合、戦車競走の時コーナーを曲がる複数の御者たちの動きを角度を変えて撮影する場合その他で使用されている。
色彩(テクニカラーを活かす設定)
- 砂は淡い茶色、競技場を作る岩石は赤みががった茶、巨像は古さを感じさせるブロンズ。
- 旗や装飾用の垂れ幕が赤、青、緑、白など。ベン・ハーの戦車は白地に金の枠模様。メッサラの戦車は赤地に金の鷲模様。
- 御者の衣装としては紫や銀、茶、黒、赤、緑、白にピンク系赤ライン、ヒョウ柄、緑と赤線、なめし皮のこげ茶。
- ローマ人の衣装には白と赤が目立つ。マントも赤。甲冑は銀。アクセントのついた柄も入るが総じて赤の線はほぼ必ずと言っていいほど入っている。アクセサリーは金銀。メッサラの兜は金。
- 周回を数えるイルカの像は金。見上げた空の色は鮮やかな青。白い雲
- 馬の色は白、黒、明るい茶、グレー、濃い茶で濃い色系は艶が目立つ。
- 御者のケガではベン・ハーとメッサラの負う傷が濃色のリアルな血液の赤でメイクされている、あるいは剥がれた皮、剥き出た肉の色である。古い映画の絵の具の赤ではない。
- 観衆の衣装については千差万別でどの色の服も着ている。大方茶系、赤系、白系、黒系が主であるが、中には青や緑の服も混ざり込んでいる。但し主な登場人物である御者やローマ軍兵士の衣装や、ローマ貴族の鮮やかな装飾物の色の派手さに影響がないように、一般人には「淡い色」が使われていた。
表現の制限とエンターテインメント
- レイティングについて、戦車競走のシーンはエンターテインメントとしての役割があることからすれば、表現は大げさであり、ショッキングであり、鮮やかであり、非日常であることが必要である。しかし観覧者を守るためには表現の自由はありつつ制限されるべきものも少なからずある。本作品はレイティングではGである。確かに上映時5歳児も映画館に入れた。
- この映画を青年や通常の現役世代に観覧させればほぼ鑑賞するに大きな問題はないと言える。だが婦人に見せると、怖がり目を背け退出する事があった。感性は人それぞれである。
- 流血や打撲を受けるシーン、戦車に巻き込まれるシーン、引きずられて皮がむけるシーン、上体を丸ごとへし折られるシーンは、ロングショットもアップもありながら衝撃的である。
- 制作側としては、ケガに至る「詳細な過程」までは描かず、事故「後」のケガの症状を見せるに留め、残酷度もやや控えめとも言えるであろう。そこでは嫌悪感も最大にはならない。
- 「パッション」のキリストの磔刑に比べるとこの映画はリアルな見応えも重視しつつエンターテインメント性にも重きを置いている。
4頭立ての馬車と馬たち
- 1925年制作の映画では危険な演技に何頭もの馬が犠牲になった。そういう意味では1959年版では昔の経験や反省を生かし頭数を増やし疲れさせない、役割を与えてその馬が得意な演技に特化して出演させる、調教の段階で馬を選別し教える内容を決める、飼育に気配りするなど念入りに馬の調教や世話を見るなどした。
- 映画では走りがそろう場合とそろわない場合がどうしても画面の一部には見えてくる。4頭でそろえること自体大変なことで馬のせいではない。
- 撮影で使用した馬車は練習用と本番用に作られていて破壊されたものもいくつかあった。本番用は華やかなつくりであったがどれもスプリングが付いていない古代の戦車なので御者役の俳優は御し方で苦労することが多かったという。特に車輪が土砂の表面そのままに揺れ動いてしまう事、それからコーナーを曲がるときに車輪の車軸も連動して勾配がかからないので横滑り現象が起こり危険な状況も多々あった。ヘストンやボイドはそこはできるだけスタントに任せている。
- ベン・ハーの馬車とメッサラの馬車がこすれ合うシーンは実際には戦車の構造上ありえない。そこで戦車の位置を固定した馬のつなぎの器具から移動設置して近接するようにした。
- 近接する戦車でできた事ではメッサラの鋸式の刃がベン・ハーの戦車の下部に当たり手すりが破壊されてしまうシーンである。実はこのとき下部しか映していないが、見えない上部では両方の乗り手スタッフ二人が互いに腕を肘から引っ張り合って近づけてできたシーンである。そのうち一人は助監督アンドリュ・ーマートンである。
歓声
- 歓声はほとんど外部で録音した音源の音響処理による合成である。
- 戦車競走の場面では一番歓声の効果が出ているシーンがある。コリントの御者が真正面から衝突を受ける残酷なシーンだ。
- 御者を紹介するときの歓声でユダヤを紹介したときに大音響で歓声が沸く。これも効果的である。ローマの紹介で歓声がないのは皮肉である。
- 戦車競走が終わった時、大喜びでコースに降り立ってベン・ハーの戦車に集まり観衆が褒めたたえるシーンでの歓声は長い。
- ベン・ハーが優勝し、総督ピラトから勝利の冠である月桂冠を授けられる。このシーンではよく聞くと現場での音声と重ねられ合成された音声があることに気づかされる。
競技場のオープンセット
- ただひたすらにスケールが大きい。もちろんマットペインティングによる補完的な映像が伴っているので、観衆席も積み重ねられた。大スペクタクルであり大パノラマになっていてこの映画のセールスポイントである。競技場の全景シーンになったとたんに圧倒される。期待感が高まる効果は並大抵のものではなかったという。
- 実際にはあの時代、この規模の競技場をユダヤに作ったら、ユダヤ民族は黙っていなかったであろう、と時代考証の担当学者は述べている。当時は戦争の雰囲気もありまたその昔は外部勢力に対し戦争を仕掛けた歴史もユダヤにはあったという。自国を外国によって損壊、他文化の象徴の建造物を据えられたら。ユダヤ教に畏敬の念を持つ民族である彼らは、ローマの文化を受け入れることに否定的になった事も想像に難くない。映画だからできたプロジェクトである。
- 中央に4個の巨像を持つこの競技場のオープンセットは1周600m~700mにもわたるものであったが、巨像の高さが9mもあった等は史実からは不明。コースの幅は戦車9台が一列に幅を取るほどのものではなかった。今ローマには、撮影で使われたというチルコ・マッシモが遺跡として残存し、映画のアンティオケの戦車競技場の面影が味わえる。御者たちの入場のとき、戦車整列場所からコースに出るシーンで、ヘストンを撮影した側面に映るオベリスクや巨像が立つ中央分離帯縁石にあたる芝生の盛りあがりが、その跡を残している。現在は周辺に建造物があり競技場の周りを木々が防風林のように林立している。庶民には生活の場として時々スポーツの競技会場に使われたり、ランニング・ウォーキングの場となり静かな佇まいを見せている。
- 撮影当時の1950年代後半、競技場の外にはローマの市街が遠望できる。その写真も公開されている。観覧席の高さは実際は10m~15m。その上は映画の視覚効果でマットペインティング処理された。岩場に囲まれていたりその上にも観覧席が見えるのはそのためである。
- 4個の巨像はローマ神話の神々である。ローマ属州となったユダヤの悲劇を暗に示している。
- 競技の際に戦車が周回する回数を表示して知らせる器物があったのは確かである。それは高く掲げられた柱に横並びで設置された金のイルカの像であった。映画では9個。
- 映画の撮影が終了すると、他の低予算映画で利用されないように、これら大型撮影セットは取り壊された。一時期まで巨像は所定の場所に保管されたままだったというがスーパーマーケットの建設で完全に取り壊された。
映画の二つの舞台
地理
紀元1世紀ごろ、イエスが活動した地域は広義ではユダヤに始まる。現代で言うところのイスラエルで、当時のユダヤは、ユダヤ属州としてエルサレム地方、サマリア地方、ガリラヤ地方がローマの支配下にあった。ユダヤ直下ではエルサレムが都市として栄え、ジュダ・ベン・ハーはこの地域に住んでいた。その市中に隣接するようにベツレヘムが位置していた。ガリラヤ地方とサマリア地方の境にはナザレの村が存在し,イエスはここで青年期までを過ごした。ゆえにイエスはナザレ人とも呼ばれる。
ユダヤとイエス・キリスト
ナザレから少し離れたガリラヤ地方に「カナの婚姻」で有名なカナの地がある。そこから少し離れた地には湖がありガリラヤ湖と呼ばれた。そこから死海にまで長い距離に渡って注ぐヨルダン川では、洗礼者ヨハネがイエスにバプテスマを授けている。エルサレム中心街のはずれにはゲッセマネの園がありそこから続いて構えて立つオリーブ山で十字架の死を受け入れるべきか否か、神の御心を問う祈りを捧げ、12使徒のひとりユダの裏切りにより苦痛と葛藤を経て権力者たちの手下に逮捕連行される。その後祭司による尋問、そして映画ではユダヤ総督ピラトによる裁判が行われイエスの覚悟のもと十字架刑となるのである。
ユダヤの土地風土
十字架の行進ではエルサレムの中心街から外れの丘までの人ごみやローマ兵による罪人たちの虐待が描かれているが、建物がひしめき合っている中、石畳や泥の通路をイエスと2人の罪人は歩んでいく。実際にはこの映画のように裁判シーンで1000人規模の大群衆が押し寄せたかどうかは定かではなく、本作品以外に磔刑を描いた他のキリストを主人公とした映画作品で、ほんの少しの人通りを抜ける程度の十字架の行進が描かれていることもある。磔刑が描かれる場所はエルサレム市中など諸説あるが、映画ではエルサレム郊外のゴルゴタの丘での磔刑が描かれている。エルサレムおよびその周辺はもともと石灰岩の石切場であったため白い岩場や建造物が多数みられるが、ゴルゴタの丘も同様であったと推測できる。ただこれに関してもいまだ正確な位置は分かっていない。映画の中では緩やかな平地の外れに少し盛り上がった小丘があって、そこにローマ軍の百人隊長(百卒長)の指示により数人の兵卒がイエスを十字架に打ち付け、ロープで引き揚げ木柱を落して立ち上げる。ゴルゴタという語句の語源はアラム語の頭蓋骨の事である。
ユダヤ言語の歴史
ユダヤではかつて王政があったはるか昔の紀元前とその後の復興も含めヘブライ語が母国語として使われていたが、バビロン捕囚以後アラム語の影響を多大に受けるようになり、ヘブライ語自体が衰退する時期を経験する。イエスの話した言語はこの時代にはアラム語であったとされる。映画「The Passion Of Christ」はキリストの受難を描いたメル・ギブソンの制作監督作品であるが、全編にわたりユダヤ人はアラム語のセリフを話す。チャールトン・ヘストン主演の本作はハリウッド映画全盛期を経て下り坂に差し掛かった時期の制作であるが、米国はまだ世界への映画配給における利権を握る国家であり、外国が舞台であっても英語が常用語で作品が作られていた。
舞台ローマ
映画ではローマを舞台にした場面もあるが、ティベリウス皇帝の歓待を受けるローマへの凱旋シーンと、ローマ人アリウスのパーティーのシーン、アリウスが皇帝ティベリウスの褒賞に、ベン・ハーの処遇を自由にさせる議会の間くらいである。あとはほとんどすべてエルサレムを中心としたユダヤ属州・エルサレムが舞台である。
ティルス・ティロス(タイア)地域
ベン・ハーが牢獄に拘束されタイア行きの宣告を受けて愕然とするシーンがある。タイア行きというのは「ティルス」行きと言う意味である。地理的名称は時代や現地の言葉か外国語かで相違が出る。英語では映画のセリフ音声を聞く限りでは「タイウリュイス、タイアリュス、ティリュス」と発音している。日本語訳では字幕や音声で「タイア」と簡略化された。地中海に面した漁村(港)として現在も残存しているが、マケドニアとの抗争後に最大限の抵抗を続け奮闘するもその支配下に落ちる事となった。かつての繁栄の跡は今はない。ローマ帝国支配時代の遺跡はいくつも残っている。映画の中でベン・ハーが衝撃を受けるのはその場所がガレー船の寄港停泊地だったからである。即ち罪人としてティルス行きになる=奴隷となり、一生涯船漕ぎにさせられることを意味するからであった。ベン・ハーの時代後もローマ支配に影響を受け、中世にキリスト教圏に入るが、その後内外部勢力のイスラムの力により変遷を遂げ、重要拠点とは認められなくなり粗末な扱いを受け衰退する。
護符 メズザ
大工ヨセフの作業場に入る老人が入り口近くで傍らにある札のようなものに触れて指に口づけするシーンがある。同様に、ベン・ハーの邸宅の入り口にも埋め込み式で縦長の筒のようなものに同じ動作で触れてから屋敷に入る。あれは護符=メズザ(メズーサまたはメズーサー、メズーザ―)である。古くは旧約聖書の出エジプト記の過ぎ越しの儀式で羊の血を門柱に塗り付けて悪運を寄せ付けない(エジプト人に下す目的の神の怒りと罰をへブル(ヘブライ)人【ユダヤ人】が避ける)ための行為であったが、伝承により形を変えて紀元1世紀の時代にも受け継がれていた行為である。一番印象的なのは、アリウスのもとを離れ、イルデリムの歓待も遠慮して母と妹に会いたいためにジュダ・ベン・ハーがいち早く邸宅に帰ってくるときのシーンである。荒れた邸宅の門の前に立ち、ジュダ・ベン・ハーは変わり果てた我が家への積年の切ない思いを届けるように門へ倒れかかり、メズザに愛しく頬をすり寄せてキスをする。心に響き共感を得る名シーンである。
俳優の出身国での演じ分けと言語
「ベン・ハー」はアメリカ映画で2作目も3作目のこの作品でも英語を言語としてサイレントで字幕が表記され、トーキーで台詞を発し演技している。制作記録には、イギリス人俳優が主にローマ人を務め英語で演技をし、アメリカ人俳優が主にユダヤ人を務め米語で演技をしたとされている。ただ例外もあり、アラブ人のイルデリム族長をイギリス人俳優が英語を使用し、ユダヤ人エスターをイスラエル俳優が英語を使用して演じている。アラブ族長イルデリムを演じたヒュー・グリフィスはイギリス:ウェールズ出身で、エスターを演じたハイヤ・ハラリートはパレスチナ。建国後のイスラエル:ハイファ出身だった。よって純粋に自国の人物を演じた主要な俳優はハイヤ・ハラリートである。古代ユダヤは今イスラエルとして国家が存続している。イスラエルの公用語はヘブライ語や稀にアラブ語モあるが少数。彼女自身は英語を話す。イスラエルには英語を話せる人たちが多い。最大の理由は世界各地特に英語圏からの移民が多かったからとされる。また交易や商業で外国人と接することが多かったのも理由にあげられる。 [14]
ローマ帝国時代の言語
紀元1世紀ごろのローマ帝国はラテン語を話していたとされる。特に半島の中部地域に住んでいたラテン人が使用していた言語であり、これが当時の公用語として広まった。他の言語が乱立する中でラテン語が大きくその時代に広められていったのは、首都ローマが近接していたからである。つまり当時のローマ帝国の人々が使用していた言語だという事である。ローマ帝国の言語であるラテン語はその軍事力による勢力拡大と同期する形でヨーロッパ西部地域や北アフリカ、そしてアジアの一部にまで広がった。その後東ローマが滅亡するのを皮切りに衰退し、現代ではイタリア国内で使用する地域はごくわずかである。世界最小の国家バチカンは公用語として未だラテン語を使用しているが、通常は会話言語としての利用はあまりない。だが、文献としてはラテン語の書物が古い時代から現代に至り多くが残されているので考古学など科学的な研究や調査のためにラテン語を学ぶ識者も多い。大学など高等教育を受ける心得がある立場の人たちにとっては重要な言語である。医学用語もラテン語が多い。文化遺産として重要なものであるので保存する価値を持っている言語である。
T字型の十字架とラテン十字架
教会・結婚式の十字架
映画ではT字型の十字架が使われている。通常の生活の中で我々が目にする十字架と言えばラテン十字架のほうである。街中の路上アクセサリーの小売り商売の人々が売っている首掛け用の十字架もラテン十字架。結婚式に教会へ足を運ぶことも時々あるが、教会式結婚を選択した友人の祝いの場で席に座ると、牧師や神父が演台を前にして挙式の儀式の進行をするため聖書を持ちながら立つ。その背後の壁正面に掲げられているのはやはりラテン十字架である。場合によってはイエスの彫刻の人形がかかっている。処刑の時と同じ姿である。
映画の十字架
ところが、本作品「ベン・ハー」でイエスが処刑される時の十字架はラテン十字架ではない。別の十字架である。つまり形が違っているのである。あの十字架はT字型十字架である。これはラテン十字架と違い、頭頂に突き出る木柱がないのである。イエスだけでなく二人の盗賊の罪人もT字型十字架でであった。聖書を題材としたもっとも有名でかつ多くの賞賛を得た著名な映画でありながら、なぜ通常の教会で見かけるキリスト教のシンボリックなラテン十字架の形をとらなかったのか。疑問がわいてくる。
異教のシンボルの十字架
歴史を調べて明確になる事がある。一つはキリスト出現前では処刑に使うラテン十字架はキリストの話も出ないはるか昔、ヨーロッパや西側にあるアジア圏で異教のシンボルとして扱われていた(例えばナチスの卍などの雰囲気で)ことだ。3世紀ごろにあるキリスト教有力者は信徒たちがその時までラテン十字架を崇め大切にする様子を見て激しくとがめたという。異教が良い悪いは別として当時はそのように自画自賛的風土が教会内にあり、他を排斥するのが良しとされたのである。ラテン十字架はその後避けられるようになって6世紀までは宗教画にさえ描かれなかった。
映画の十字架はなぜ
その後時代的には明確ではないが、頭頂のないT字型の十字架をキリストのシンボルとした時期がくる。それは、2世紀から3世紀その時代に聖人がかけられた十字架がT字型十字架であったという伝承、エルサレムの神殿の地下聖堂に、聖職者の母親が本物の十字架を発見しそれを聖なる日としたという伝承があったからである。これらによってT字型十字架は教会のイメージを良い方向へ導く。ヘストンの映画でT字型十字架が使われた理由はそこにある。しかし時の流れとして一時的に持ち上げられた逸話は衰退していくものである。ラテン十字架は今も存在する。歴史的に信ぴょう性があるからに他ならない。イエスはローマによって磔刑を受けるからである。
映画のメッセージ
- 映画は常に何かのメッセージを発している。だからこそ「面白い」「共感する」「感動する」「悲しい」「楽しい」「怒りを感じる」「知的な快感が得られる」「緊張やスリルで感情が高まる」など様々な感情が得られる。疑似体験のなす業である。それらにより泣き、笑い、驚き、怒り、知的満足を得る。小説からのメッセージを織り込みながら映画人たちが脚本に含ませたものまで多くの時代的伝承、社会的・人道的・宗教的・道徳的な言い伝えやストーリーが語られる。チャールトン・ヘストン主演の「ベン・ハー」はルー・ウォーレスの原作を主体に制作されており、かつ1925年制作のラモン・ノヴァロ主演作のフィルターもかかっている。この項ではその中から代表的なセリフや使われる言葉・メッセージの文章を取り上げる。
- ただし聖書の記述に触れつつ宗教に傾倒するような専門的・学問的記述はできるだけ避けて、それはその道の専門家や宗教者に委ねる。[16]
救世主の出現の預言
- プロローグでまず示される。英語のナレーションの中でユダヤ人が虐げられる歴史の繰り返しの中で、旧約聖書をよりどころに何度も繰り返し記述されている救世主の出現に民族として心待ちにしているとの下りがあり、切実な海を越えての周辺諸外国や内地の他国、軍事国家ローマ帝国の蹂躙と迫害や圧政に苦しむ民族ユダヤの姿が浮き彫りにされる。
養父ヨセフと聖霊により身籠ったマリアとイエス/ヨシュア/イェホシュア/イェシュアの誕生
- 静かな夜空を一つの星が瞬きながら流れ動いていく。これは象徴やデフォルメであろうか。ベツレヘムにいたり厩舎の上で星が止まるが、特別なことが起こるという表現であろう。映画としては非常に非現実的な描き方であっても、救世主を身籠るマリアがヨセフと共にこの厩舎にいることを聖なる事象として表現しているのなら納得がいくものだ。
- 厩舎の中の様子をカメラが映す。わらが詰まれその場所にベッドのように平たく敷きなおした場所がありヨセフとマリアは座っている。マリアは手に何かを抱えている。嬰児であるイエスである。ロングショットでマリアを見せながら牛の鳴き声の合間に嬰児のはっきりとした元気な泣き声がシンクロする。泣き声はあくまで明るく愛おしく、優しいマリアの腕の中で響き渡る。
- 聖霊により身籠るという現象は聖書に書かれている。書物にはヨセフの事をイエスの養父と書いている。
三博士の祝福礼拝
- 三博士は新約聖書には書かれていない。登場しないということである。これは伝承によってあとから語られるようになったことでしかなく、その存在を示す文書も新約聖書での記述も福音書以外でさえ見つからない。架空の存在である。
- この物語では三博士が存在したものとしてイエスの誕生に関わり、その教えを聞き、布教に務めたことまでを描いているが、小説ではエジプト人の博士がイエスの十字架上の死で心を痛めイエスと同じく命を落とすという展開を見せる。
洗礼者ヨハネのバプテスマ
- 映画ではバプテスマは描かれない。地理的にはユダヤ属州内のヨルダン川にヨハネと言う預言者(英語名ではジョン)がいて民衆に「神の洗礼=バプテスマ」を授けていたという。洗礼は、民衆がヨハネのもとを訪れ浅い河原に集まって一人ずつ頭に水しずくをかけて清めるという行為であった。
- 安息日以外毎日行われていたバプテスマであったが、イエスがヨハネのバプテスマを受けるために初めて出会ったときには、私こそがあなたからバプテスマを受けるべきと話したという。
ユダヤの破壊工作
- 先遣隊の司令官として赴任したメッサラが前任のセクスタスの引継ぎの話の中で、ユダヤ人はローマの像を破壊したり、奪ったり、反抗的であると話す。処罰すればいいとメッサラは応えるが、軍の組織があるわけでもなく誰がことを起こしているかさえ判明しないので手の施しようがないと嘆く。
- 歴史上ユダヤの支配を実現し君臨した王は実在した。昔はダビデとソロモンが40年近くの長い統治期間で安定した王政を保持したが、その後は数年か十数年に満たない年数で王が入れ代わり立ち代わり王位につき安定しない時代(紀元前600年前後)が続いた。しかし紀元前65年にローマからポンペイウスが侵入し、外国勢力が支配し始めるとユダヤの王は次第に勢力を弱め、離散する。やがてローマの傀儡であるヘロデが王位につき始めると、ユダヤ属州となって実質の王はローマ皇帝として君臨しヘロデはその支配下に甘んじることになる。
- ヘロデ王は世襲で数回継承されるが、ヘロデ・アンティパスの時代がイエスの時代と重なる。このときにはヘロデによるローマ帝国の破壊工作などの考えも推奨する考えもなく、ただただローマに服従するか、利用するか、地位を維持するためにユダヤの民を操作しローマの軍人を牽制する事程度しかできなかった。
- 映画では、ベン・ハーが破壊工作を目論むことを示唆するセリフをいくつか発している。しかし、イエスの言葉により心を揺さぶられたベン・ハーはその剣を収める事となる。
神は心の中にいる
- セクスタスがメッサラにつぶやくイエスの言葉である。メッサラは呆れてカプリで休めというがセクスタスはこの言葉に深い意味がある。意味のとらえ方は様々。スピリチュアルにはまさに言葉通りでその形が現実にあり存在するということである。これは普通人には理解不能に陥る。
- 映画でのそれは、イエスの語る所のヤハウェ神が信仰という行為によって聖書に記された様々な律法、説法、メタファーに満ちた人間の在り方や考え方が支配され、良き行い良き言葉良き出来事の要となるという意味でとらえらる。
- 現実面で哲学的に語るとするなら、理性や良心は心の中に存在し生じていて、無くならないと言う意味。同列で考えると謀略や憎しみや嫌悪や差別など悪魔も心の中にいると言える。しかしそれが人間であるとする考えを当時のユダヤ教やキリスト教は同時に認めるのかどうかは不明である。教会では悪魔の存在を認めているがそのコントロールの仕方つまり悪魔を消去・追い出す術を備えよと教える。
殺りくは簡単、宗教や思想とどう戦うか
- セクスタスがメッサラの軽薄非情な答えに声を荒げるシーンで出てくる言葉である。叩いても叩いても、人の心の中はどう手段を講じても変えることはできないという意味である。表面では従うふりをしても陰では人は自分の思うとおりの事を自分の信念の赴くまま行動に移す。後半でのエスターのベン・ハーの復讐心を諫める言葉に通ずる言葉である。
- 実際の世界の歴史の中でも言える事である。戦争は破壊と敵の死を招くが、物欲を満たし個人の快楽を優先したところで別の勢力からの侵略や暴力を受け潰される運命にある。殺戮と言う行為が実は元の木阿弥になり無情であり無力であるという示唆である。
- 相手の考えを変える事と自分の考えを変える事ではどちらが易しいか。自己啓発系の問いかけにはこの問いかけがなされる。答えは自分を変える事の方がた易い。相手の考えを変えるには自分の考えを押し付ければよいとメッサラは言うが、その結果は映画で目の当たりにする。相手を変える労力か自分を変える労力か。数学的に度合いを考えて無駄な力や血を出さないということを、長い歴史の中で人類は育んできた。宗教や思想とどう戦うかという問いかけは普遍的で歴史も長い。今の時代を見てもはっきりとした答えが浮かびにくい。この映画がその答えを導き出す。
ローマ人とユダヤ人
- ベン・ハーとメッサラが再会する。ベン・ハーは頭に乗せたキッパーを取り、歩み寄って抱擁する。互いの話の中に、昔と変わらないな?そうだといいが。と言葉を交わす。これが意味するものは何かは小説やその後の展開を知ると明快になる。物語はやはりメタファーとして支配国家ローマとユダヤ属州の悲しい運命、そして対立を描いているのである。ユダヤ代表ベン・ハー、ローマ代表メッサラ。この二人の対立をローマとユダヤの対立に投影して国家間の在り方を考えさせる映画である。
反乱の兆しと圧政や脅迫
- 友人の名前を言え、密告者にするのかお前は?、と言い合いになるシーンはあまりにも激しい。本心の激突である。完全にユダヤ対ローマの構図で会話が激烈にぶつかり合う。憎しみ、不信、猜疑、蔑視、反抗、神の冒涜、我田引水、我儘、名誉欲、無視、差別、強欲、そのすべてにまみれたメッサラがある意味哀れに見える。動機はユダヤに対する恐怖心と差別意識だ。
- メッサラは口論の末、ベン・ハーに味方になるか敵になるのかを問うが、ある意味幼稚である。痴話げんかの後に脅迫するのである。二者択一は常人では混乱を招くことは承知事項である。白黒つけるということである。人間の世界は割り切れないことだらけである。中間を認めないという行為は人に難しい選択を迫っている。ギリシアの哲学者アリストテレスの「Golden Mean」、古代中国の儒教学者孔子の「中庸」を目指せないものだったのか。激高する二人には簡単にはできない事だった。
- ベン・ハーに注目すれば、彼自身は中庸を保つ努力をしていたが気づいていただろうか。メッサラはローマ人だが少年時代からの友人だから友として大事にした。だから砦に会いに行った。だからアドバイスをして「軍隊を引き揚げろ・自由を返してくれ」と静かに忠告した、だから杯を交わした、だから邸宅に迎え家族と再会させた、だから高級なアラブ馬を贈った、だからユダヤの同胞に話し合ってユダヤの反乱は考えないことで話をまとめた。そうであるならメッサラがどれだけ自分勝手かがわかる。
会食の場
- 家族で食事を前にベン・ハーはキッパーを頭にして手を洗い、パンをまず手にしながらミリアム、ティルザと共に神への祈りをささげパンを食べる。クッションを傍らに置き体を斜めに倒しながら少し低い会食テーブルで出された食事を手に取り食する。羊肉は生のままだろうか、スライスされたものを一枚手で皿にのせる。神への感謝の気持ちが現れている。
- パンは当時の主食である。石を使い麦などの穀物をつぶしてひく。共和制ローマ、帝政ローマの時代には既にヘレニズム時代からの物が伝わっていた。ヨーロッパ産の物がアジア全域に伝わった。ハー家が金持ちであったことの証拠。
- 結局家族の食事のシーンではパンと肉だけ。非常に質素である。時間帯として昼食だろうが少ない。
結婚
- エスターは、父サイモニデスの意思により商人であるマティアスの息子デビッドと結婚することになる。彼は自由人かつ商人でアンティオキアで有名だ、とサイモニデスは自慢げに話すが、当時は世界の一部地域、昔の日本と同じで、結婚は本人の意思で決めるものではなかった。
- ユダヤでは、ソロモンやダビデなど王政時代の結婚については、奴隷であっても見初めた娘がいたら身分に関係なく自分のものとすることができたという。背徳的な行為ではなく王に許された権利だった。アラブ地域の一夫多妻制につながる。
- 映画で解せない部分がある。ロマンチックなので許容範囲だが、元主人のベン・ハーが結婚前の元奴隷女性エスターにキスをするが、そんなことが本当にできたとは思えない。男女関係は計れない。それだけエスターの事を好きになった表現であり一途で真面目なベン・ハーの性格を印象付ける意図が演出にはある。
復讐の誓いと信仰
- ユダヤ教には旧約聖書の中に「出エジプト記」があり預言者としてのモーセが登場している。かれがユダヤの民を率いてエジプトの迫害と奴隷制度から逃れ紅海を渡りシナイ山で宿営を行う。そこで神ヤハウェからとされる十戒を授かる。十の戒めで、人としてユダヤ人が守るべき戒律・律法が記されており、その中に「汝、殺すなかれ」との一つの戒めも含まれていた。
- ベン・ハーはユダヤ教徒である。ということは十戒を守らねばならない身である。しかし映画は彼に殺人を3回以上行う場面を与えている。
- 1回目の殺人牢から逃げる時に看守を金属製留め具の輪にぶつけて殺す。
- 2回目にガレー船の看守を首を絞めて殺す。
- 3回目にマケドニアの海賊を槍を投げて殺す。
- 4回目にメッサラを殺す。ただし小説では大怪我をさせるだけである。
- このような流れからベン・ハーの信仰心を疑う。旧約聖書「出エジプト記」には「目には目を歯には歯を持って…云々、償え」の文言がある。同等の償いが必要、こじつけ、あるいは弱者を守るための法など色々な解釈がなされているが、ハンムラビ法典に元は書かれていた内容でもあり、時代のニーズに合わせて人権を守る意図があったと受け止められる。その教えをベン・ハーが知っていたとしたら彼のいくつもの殺人は正当化される。
大工イエスと水
- イエスはナザレと言う村に住んでいた。そこで養父のヨセフと共に大工仕事に励んでいた。彼は時間があるとの山に出かけのんびりとすることもあった。理由は神(ヤハウェ)と会話するためであった。映画ではヨセフの友人が怠け者の息子だとあきれるシーンがある。彼は聖書によれば確かに神と会話していた。
- 神との会話というのは現代的に考えると「自問自答」。それも良い答えを見つけるためのソクラテスばりの哲学。神に例えていたにしても生き方の答えを見つけるために熱心な思考に傾倒していた点では真面目であり一途であった。
- このイエスのもとに、ガレー船の船漕ぎにされる罪人たちの行列が入ってきてナザレの村人が大わらわになる。村人たちの大半は馬に水をやり、求められて兵士にもひしゃくを独占される。ところがなぜかベン・ハーだけには水をやるなと兵士に言われ村人たちは従う。
- イエスは思った通り行動に移す。やろうと思ったことが正しいと思えばその通り動くのである。映画ではそこが明確である。だから傲慢な兵士もおののくのである。迫力があるのだ。思いのある彼は水をベン・ハーに与えるが、水こそ命のシンボル。イエスは命を尋常なものとは考えない。水は人間の体の70%を占めるという事から考えても聖なるものであり感謝の源である。映画は全編を通じて水を扱っている。注視して見る点である。
God Help Me
- 神様、助けてください。神よ、助けたまえ。ベン・ハーの断末魔の祈りである。信仰を持っている者の強みであり、頼りである。でも不信心者でも本当に苦しい時には似たような言葉を発する。
- 人間にはどこかで「念じれば叶う」という考え方がある。高校野球で応援団席を見たことがあるだろう。点数が拮抗し不安で涙が出るような事がこの時にはある。若いベンチ外部員やチアリーダー、学生が一斉に手を合わせこうべを垂れる。念じるという行為によって何かの力(宇宙の法則と言う人もいる)が願いを叶えるという思いがあるからである。信仰はこれを「神への祈り」と言う。
まだ死ねない 神の御力で
- ガレー船の奴隷になって司令官のアリアスと神の話をする。そのときに自分がまだ死ねないと言う。死ぬのが当たり前のガレー船の奴隷が、「まだ死ねない」と言うベン・ハー。その根拠が神の御力があるからだという。しかしその時すでにアリウスにとっては神は結局いないのだとの悟りがある。なぜなら最愛の息子を過去に亡くしているからであった。
- 物語ではベン・ハーの言う神とは自分を助けてくれる神であり、自分の目的を達成させるまでは生かしておくという神。目的即ち母と妹を救い出すこと、そして仇敵を殺すことである。それを神も望んでいる。だから「まだ死ねない」という理屈である。
それが神の思し召しではない
- アリウスから剣闘士になり戦車競技の御者にならないかとの誘いを受けるが興味はない。奴隷として仕えるなどまっぴらごめん。傲慢な態度にアリウスはガレー船の漕ぎ手よりましだと説得を試みるがそれは神の思し召しではないとはねつける。
- 思い込みであり信仰でもある。神が望んでいるのは安心安泰になり自分だけが得をすることではない、と言いたいのである。神はベン・ハー自身にさせたいことがあって生かしていると考えていたのである。神の命令によって動いている自分があったという事だ。
- 思し召しは信仰世界では神が人間を道具のように使って世界の悪しき状態を良くするという意味を含んでいる。旧約聖書「出エジプト記」のモーセのエジプト脱出でもモーセ自身がへブル人の救出をやりたくてやっているではなく、神が神の言葉神の手神の奇跡によってことの成就を計ろうとする。そこと共通している。「正当な理由」と言う意味付けもできる。
外された鎖と水
- ガレー船の中でベン・ハーだけ鎖が外される。そのときに彼はあまりに思いがけない出来事が続くので不可解となる。井戸の水で救われたことから続くありえない出来事の連続。そこでわずかに何かを彼は感じたのである。
- 鎖を外されたおかげでベン・ハーはアリウス救出に成功する。それが大きな転機となる。
- 水によって命がつながれ、息子を失った司令官の慰みを与えたことで鎖が外され、それによって死ぬはずの運命が変わり、司令官を救出し高級将校の家系を継ぐ有力者となる。転機はこうして訪れた。その過程にはいつも「水」があった。
住みにくい気候と聞くが?
- パーティーで初対面のピラトとの出会いがある。ユダヤ出身であることから属州に配置予定のピラトはユダヤの事を詳しく聴こうとする。この会話で後半の物語のつながりが動機づけられており伏線となっている。ローマ人にとっては、辺境のユダヤ地域は厄介な地域であるという事がこの後のアリウスとの会話で明らかになる。
- ベン・ハーはピラトがローマ人であることを知りつつ普通に接する。アリウスの友人だからという理由だが、ただそのために会話を発展させ懇意になろうとはしない。元々ローマ人に敵対心を抱いているのが彼の本心だからである。
- ピラトは戦車競走でベン・ハーの御する戦車に毎回負けている。話題の中にその悔しさも柔和に話すが、本音では屈辱的に思っている。ユダヤが好きでないピラト、ローマが嫌いなベン・ハー。映画はこのすれ違いを全体を通して鑑賞者に意識させ、後半の二つのクライマックスに引き継いでいる。
神の真意は測れない
- 母と妹を探しに出るため養父のアリウスとの別れが迫る。ベン・ハーの気持ちを察し、移動する日にちや時期について詳しくアドバイスをする。アリウスが同じように家族を失うことの経験を経てきたが故の思いやりであり、アドバイスである。宴の宣言の後であり、アリウスにとってベン・ハーは真の息子であり、愛すべき友であった。
- ベン・ハーは実の母と妹を心から愛しており、居所が分からない上に生死さえ分からない。胸につかえる思いを理解しているのはローマ人ではアリウスだけだ。話を聞いてくれたのもアリウスだけ。
- アリウスは彼の気持ちが分かるだけに引き留めないが、老人の望みが神に届くだろうかと自分の思いを初めてベランダで吐露する。「神の真意は測れません」。一言そう告げて二人は外気を浴びた後に微笑み雑談を続けながら宴の場へ戻る。少なくとも恩を互いに交換した二人の間には深い信頼関係があった事、そしてアリウスの気持ちを神は無視しないはずだ、というベン・ハーのせめてもの慰めの言葉が信仰や誠意の本質を突いている。
失礼あの方かと思った
- ユダヤに帰る途中でアラブ人たちの集まるオアシスにつき、井戸の水を飲む。旅の疲れで砂の上で衣服のまま横になっていると一人の老人から声をかける人がいた。これが三博士の一人であるエジプト人、バルサザール。彼はベツレヘムでマリアの初子を礼拝した。その子が今はベン・ハーと同じくらいになっていると言い、近づいてあの方かと思ったとつぶやく。彼にとって今その青年と会うことが願いであった。
- バルサザールは期待して声をかけたが、結局ベン・ハーであってあの時の初子ではないと知り落胆する。
- バルサザールがどうしてこれほどまでにベツレヘムの初子に会いたいか。それは身内のような親しみであり、孫の成長を見守るような期待であり、信仰を助ける力に触れたい願いがあるからである。預言であっても信じる思いは強いのである。
- ローマ帝国に支配されユダヤの民は自由を奪われた。そして生活もローマの利益のために搾取され発展も繁栄も民族の幸福のために進展することはないという諦めに似た感情も支配し始めていた。だからバルサザールにとっては常に気になる存在であり、その発する言葉にも救いを見たい気持ちでいっぱいであったのである。
妻はいつか一人持ちます
- 族長イルデリムの幕舎で自分の妻の話になる。イルデリムはアラブの出身なので一夫多妻制の慣習を持つ。その話にベン・ハーは自分は一人持つと言う。明らかにエスターの事である。イルデリムがまくし立てても、笑って応えながらその気持ちが本当であることを笑顔で無言に示す。
- 原作小説で色恋物語はてんこ盛りであるのに対してこの映画はあくまでも真面目である。エスターの信仰の深さも手伝ってベン・ハーに対する強い想いを描いているので、ある意味それに報いるような返答である。ユダヤ教の旧約聖書「出エジプト記」の十戒の中にある「汝、姦淫するなかれ」「他人のものを貪るなかれ」にシンクロしている。
- ベン・ハーが小指にはめる指輪はエスターの指輪である。映画序盤の出会いのシーンで語らううちに恋に落ちる二人であるが、この指輪がストッパーになっていたのと(フレビアの演技場面がカットされなければわかる)エスターへの思いと約束が本物であり、ベン・ハーの一途さも表していてストーリーの魅力を引き立てている。
殺すというのか?殺意が見える 殺す権利などない 天罰が下る
- 話しの流れからメッサラを殺したいベン・ハーの気持ちは最初から察しが付く。バルサザールとの出会いで気持ちが揺れる。表情が穏やかになり自分を振り返る雰囲気がひと時だが漂う。
- どうして揺れるのか。バルサザールはイエスを礼拝した経験がある。そして信心深い。彼はイエスとの出会いと預言者の言い伝えを信じていた。神がなせる技についても伝聞で多く伝え聞いていた。
- 教えの中にある様々な言葉の中から導き出されたことは、殺すという行為が人間の冒す罪の中で一番の重罪であるということであった。十戒の中で「汝、殺すなかれ」という言葉がある。だからベン・ハーの気持ちを理解しつつも「相手が誰であれ殺すな」と説くのである。
- このバルサザールが説いた言葉には隠れた教えがある。「人を憎まず許せ」である。あとは運は天に任せる事だ。そう言いたいのである。後半で出てくる。
私は奇蹟を信じない
- バルサザールに言われてさえ憎しみを抑えることはしないと言っている。ベン・ハーの傷心はそれだけ深いのである。どんなにすばらしい「お話」を聴こうが知った事ではない、大事な人をひどい目に合わせた張本人たちを放っておくことの方が罪だ、とさえ思うのがベン・ハーの本心である。
- 奇蹟は、思いもよらない、現実的でもない知識や、経験に裏打ちされた理性でも説明できない事象を意味する。慣習としてユダヤ教を信仰しながらもそれはあくまで慣習であり、同胞の行っている事先祖が行ってきた事に忠実に従う慣習であり、慣習を実行することが安心感や平穏を生み出す、それが平和を実現するとの思いにつながっている。
- だから信仰はしても突飛な幸福や苦しみからの解放はあり得ないと考えるのである。そんな意味での「私は奇蹟を信じない」である。
命こそ奇蹟だよ
- 素晴らしい出来事、幸福な時間、金や物で満たされること、結婚で家族に恵まれる事、その他多くの幸福だけが奇蹟なのではないという事である。「命あっての物種」である。命は突発的に成り立つものではない。一つ一つ一見ありえない偶然が重なって起きるものでもない。
- 命という事柄として考える。命は先祖代々受け継がれてきたもので、自分の命は父と母のおかげでできたと単純に言い放つことはできない。ここは相対性理論や量子力学、ビッグバン、宇宙、神、という言葉が頻出してきて話が複雑になる。宗教的には初めに神がいてアダムとイブを作った所からの話になる。
- この映画の性質上ユダヤ教、のちの原始キリスト教が話の中心を占めるので、その方向から考える。議論はせず、命は奇蹟から始まったと理解すると映画が深く見られる。
今羊飼いか漁師か商人か。そろそろ神の御業を始める
- イエスの生涯は聖書に書かれている限り正直に言うと詳細ではない。起こる物事に対してイエスの年齢は定かでなく突然時代も進み登場人物も変わりまたは突然いなくなる人がいたり書物の記された量は膨大だが、エピソード単体では話がおおざっぱである。聖書の編纂は旧約は紀元前1000年ごろ、新約は西暦100年~200年ごろである。それも大勢で書いているし統一されていない内容もある。
- 以上の事からすれば彼が生まれた時代は本当にAD元年なのか大工の後は別の仕事をしていたのか、ユダヤ全域を回ったとされるがほかに回った地域は本当にないのか、いろいろ興味が湧く。
- そうは言えども神の御業と書いてあるように、ユダヤ教の教えの中でイエスのみがその矛盾点、新しい考え方、彼の説くさらなる心理、当時の時代に合った民衆を救うための言葉がけ、勇気づけを行っている。反ローマ・反ユダヤ教神殿祭司の言動は不明確にしているが、実際の志高い行動(ユダヤの在り方・正義の在り方の示唆)は起こしている点は多く記述されている。
- 聖書の内容が詳細であるかどうかは議論がある。伝承によるものであるだけにどうしても叙事・叙情双方含まれた内容となり正確さも検討の余地はある。信仰者にとっては唯一絶対の経典であるから内容は読解の趣向に頼らざるを得ない。宗派が多いのはそのためである。
神に至る道は種々ある
- その言葉通りである。生れた時から家族の影響で・普通のきっかけで・深刻な事態を打開するために人は神の道を歩き始める。バルサザールはベン・ハーに期待する。
- 信仰する気持ちはありつつも信頼を持てない・教えや伝道者を疑う・教会の教え自体が自分に合わないなど否定的な感情を経て、やがて時間的に長く触れ、長く付き合い、長く読み深める、説教を何度も繰り返し聞いていく。そういう行動を続けていく中で神に至る道が開ける人もいる。
ジュダ・ベン・ハー おかげで信仰も戻ります
- サイモニデスは自分が拷問にかけられ体が不自由になり信仰を疑い始めていたが、ベン・ハーの生還の事実を目で見、肌で感じ、話す声で確かめたとたんにかつての自分の姿と生活を思い出すのである。
- ガレー船の奴隷は1年間も命が持たない。そう主張するベン・ハーは、母と妹の生存を信じていた。自分は3年間以上ガレー船の苦役を生き延びたのだから母と妹も死んでいるとは限らない。彼には打ち消すことなど出来ない希望があるのである。実はそれも憎しみににこそ支えられている。この時点では行動のエネルギーが負からでも正からでもベン・ハーにとってはどうでもいい。生きて母と妹に会い仇敵を殺す。どちらも彼の「希望」。ベン・ハーがアリウスに言われた言葉が蘇る。
- サイモニデスはベン・ハーの言葉の良い方の意図を察することで自分を振り返ることができたのである。失いかけた信仰をベン・ハーの一言で取り戻せたという事である。サイモニデスとベン・ハーの絆の強さも信仰のなせる業である。
憎しみは毒・愛は憎しみより力がある
- 一旦人を嫌いになったらなかなか元には戻らない。人を憎むという行為はさらに難しい。映画の言葉ではあるが近年心理学の発展により、これが証明されている。潜在意識の恐ろしさである。他人を憎んでも、その憎しみの感情は自分自身に帰ってくる。発する言葉は特に影響を与える。罵声を浴びせると、その言葉が自分自身の脳の中にもインプットされる。健康問題で言えば統合失調症にその症状は見られる。だから毒なのである。
- 愛と憎しみを並列で考えると矛盾することもある。愛があるゆえに憎しみがあるという論理は成り立ちやすい。しかし憎しみがあるから愛することができるかどうか。考えてみるに中々難しい。
- 愛は憎しみより力があるというイエスの教えは、北風と太陽の寓話に共通点を見出す。自分を愛してくれる人は虐めない。自分に良い行いをする人をのけ者にはしない。自分の為に大金をはたいて物やサービスや思いやりを提供する人を憎むことはしない。ほとんどそうなる。もし自分がいたらないとしたらできない時もあるが可能な場合は自分を変えその人の行為に応えるだろう。好意は相手も変える力がある。
掛け率は四対一だ ローマとユダヤの差だ アラブもな
- 時代は第二次大戦後15年。ナチスのホロコーストがあった事を考えるとこのシーンは確実に戦争の皮肉である。かつてのローマ帝国も共和制から帝政に変わり植民地支配が顕著になって国力増強領土拡大に勤しんでいた。メッサラはそんなローマ帝国のシンボルであり、傲慢さや身勝手さは前半で存分に見せる。
- メッサラは民族差別も臆することなく露呈させ、ハー家の婦人二人を拘束し友人さえ罪人に仕立て上げ死刑同然の処罰を受けさせる。ところがユダヤ人の親友ベン・ハーが帰郷してしまった。ベン・ハーと親しかったのは、ユダヤ人だからではない。幼い時のやんちゃ仲間であったことやライオン狩りを共に経験し怖い思いをした事、ケガをしたベン・ハーの看病をしたことがあったからである。
- 仲良かったのになぜ決別するのか。それはユダヤ人だからだ。ユダヤ人の反ローマ的人物を庇ったベン・ハーが憎くなった。心の奥ではローマを世界に誇る超大国だとの誇りを持っていた。だから他の国家や民族の事を軽蔑し足蹴にすることによってローマ人である自分に優越感を植え付けていったのである。自分が赴任することになったユダヤ属州を変人の多い田舎者の土地と嘲笑っていたのも彼だ。
復讐するわれをお許しください御心のままに
- お許しください、慈悲を請う意味である。母と妹を不幸に陥れた相手に対し母と妹の無念を晴らすための気高い行為を認めて欲しいという願いが暗に込められている。
- ユダヤ教徒の祈りである。「目には目を、歯には歯を」の言葉通りに行動するが旧約聖書のこの言葉には深い意味がある。復讐の奨励をしているわけではない。だからこそ「御心のままに」という言葉が付け加えられる。
- 御心のままに。神の考えるとおりに、神が正しいと思う結果にしていただきますように、神が思われるように私をお守りください。復讐する自分自身にお裁きをください、と言うことだ。
- 「目には目を、歯には歯を」という言葉は下の文句が省略され誤解を招きやすい言葉であるが、ユダヤ教の教義に照らせば謙虚さも垣間見られる。誤解は危ない。
お二人はあなたの幸せを願っておいでです
- エスターがベン・ハーが死の谷で母と妹に無理やり会おうとする事は、かえって二人の思いを壊すことになりかねない。その思いとは自分たちの不幸を彼自身が感じ取り、不幸にならないですむようにしたいという思いである。
- 家族は最も近しい人間関係である。そしてもっとも共感できる相手である。そこから考えれば身内の不幸を知らせない方が身内に苦悩を抱えさせることもない。映画では死んだことにしているが、それは逆に彼を不幸にした。
- ベン・ハーが不幸になった理由。それは憎しみが倍増し、メッサラを殺した事、ローマを憎んだこと。ローマとの戦争計画を立てた事、エスターとの信頼関係が無くなった事、アリウスとの後継関係を解消した事である。
- 母と妹を救いベン・ハーが幸福になった理由。とにかく二人に出会い、間近で母と妹の顔を見て慰める事が出来た事、エスターと意気投合し母と妹を救出した事。母と妹をイエスに会わせる事が出来た事。奇蹟が起き母と妹の不治の病が治る事、エスターとの信頼を戻したこと。イエスの言葉に感化されて憎しみや恨みが拭い去られたこと、イエスをキリストと思い始めた事、母と妹の病が治った姿を見られたこと。
- 苦あれば楽あり。人間の行動とその結果は、自身の内面の在り方の洞察もそうだが、環境や出会いや事件や時事や天候に左右される。幸せを願わない人などいない。結果を受け止め次の行動を起こすのみである。ベン・ハーに対してのエスターはその調整役だった。
見つけたよ成人された 予言通り 間違いなく神の子
- 大きな声でベン・ハーにかけよってくるバルサザールに微笑みがこぼれていた。やっと「救世主」に会えたのである。ベン・ハーに出会えた時点からイエスの話ばかりしていたバルサザール。喜びをベン・ハーと分かち合おうとする。
- シーンは山上の垂訓がこれから述べられるというところ。川の流れが清々しい。対照的にベン・ハーは死の谷からの足なので不機嫌。バルサザールの喜びにも共感できない。というより希望を失いかけている。
- バルサザールは垂訓が述べられるというこの瞬間に期待していた。それもベツレヘムで誕生を礼拝したときから。旧約聖書の時代から語られていた救世主(キリスト)とはまさにイエスの事であるとその場で確信しているし、語気が弾んでいてうれしさに満ちている。
- この二人の態度が対照的なのである。しかしベン・ハーは大事なことに気づいていない。垂訓を述べようと山上に立つ白衣の人こそあの人だということを。無気力なのだ。
昔水をもらった事がある でも今助けてもらう必要なんかなかったこんな命
- イエスに気づいてないままベン・ハーは自分の命の価値さえ否定する。彼に共感できる人もいる。自分の好きな人、大切な人、自分を必要とする人がいなくなったら誰でも一時そう思う。かつてイエスに救ってもらったことは無視しているのが彼の苦悩の深さを物語っている。「ありがとう」、より、「余計なお世話」の心境だ。
- バルサザールのどんな誘いの言葉もにべなくはねつけるベン・ハーの心理は、落胆であり、期待外れであり、嫉妬であり、無関心。もしこのとき素直に応じていたら、生きていてよかったと思えたかもしれない。山上には彼がいたのだから。
- ベン・ハーが一人で総督の元へ向かうときにイエスが民衆の前に進み出て優しく見守る。その時遠方にベン・ハーが木の横に立ち、すぐに立ち去る。エスターはイエスの話を垂訓の中で聞き、この後のシーンで聞いた説教を彼に語ることになっている。
世の中に合わせて生きろ 今ならローマに
- 総督ピラトの言葉は冷淡である。アリウスの息子としての扱いと危険分子としての扱いについて警告するが、これが当時の帝政ローマ帝国の本質であった。世の中に合わせて生きるという事はしなやかで可変性があり壊れないという肯定的見方があるが、逆に言えば隷属し、反抗したり抵抗したりせず、穏便にへつらって生きよ、と言う意味でもある。
- 当時のローマ帝国は属州をいくつも持ち、それぞれの地域には反乱分子もいて非常に手こずっていた。だからこそのピラトのこの言葉である。焦燥感や、怯え、猜疑心、高慢、支配欲の現れである。数百年たつと東ローマ帝国も滅び、ローマは全滅する。その代わり広範に普及したのはキリスト教であった。ローマでさえ遂にその広がりを抑えきれず国教として据えたのはキリスト教である。「今ならローマに」という言葉も滅びたのである。
憐れみ深い人は幸い彼らは憐れみを受けよう
- 悲しみや苦の思いを汲みとれる人はそれは良いことである。きっとほかの人からも悲しみや苦を思いやってもらえるだろう。返報性の法則または返報性の原理である。好意には好意が返ってくるのである。エスターが、ベン・ハーの憎しみに満ちている姿を見てこう言う。憐れむとは相手の立場を思うことだ。二人は好き同志なのに考えていることがすれ違っている。信仰の状態が違うからだ。
平和を作り出す人は神の子と呼ばれよう
- 「神の子と呼ばれよう」との言葉には信仰者には有難く受け止められて自信あふれた人生を歩むきっかけになる言葉でもある。平和を作り出すのは実は並大抵のことではないように感じる。それは規模を家族・近隣・地域・国・世界などのカテゴリーで区分すると同時にすべて実現可能であるとはいいがたいし、一部実現可能でも他のカテゴリーで平和になっていなければ、総崩れになる事さえある。
- イエスは何をこの言葉で示したいかを考える。単純に。心の平安や争いごとのない穏やかで心地よく朗らかでいられる環境を人に提供できるのなら、その人は誰からも崇められ尊敬され手本にされ良き行いの指導者として温かく向かい入れられる。そう表現している。世の中に完璧な人や社会や環境は存在しないが、少なくともそれらがすべてそろう平和を実現することこそ究極の神の子の技なのである。
国全体を洗い清めるしかない そうだ血でだ
- ベン・ハーがまだ怒り冷めやらない中でエスターと会話する。エスターは美しい言葉を並べるが、ベン・ハーにとっては絵空事でしかない。例えどんなにナザレの人が素晴らしい話をしていたとしても、母や妹の病は治る見込みはないし、親友を殺した自分はそれですっきりした気分にもなれない。
- ベン・ハーは口論の中で次第に現在の自分が考えていることを口にしだす。良き行いをしたくても心がすさんでいるから穏やかに物事を考える余裕さえない。余裕もないのに説教の言葉を聞かされるから理解するに矛盾点が気になって反発しかできない。
- だから彼は考えている。ローマ帝国との戦争を。サイモニデスに話して準備を整えるつもりでいる。そのことしか心中に無いからどんな言葉で説得されても聞く耳は持たない。完全にエスターに抗っているのである。その抗いをローマに向けている。それで手段はということになる。エスターの問いかけに対して答えるのが「そうだ血でだ」。それでこそユダヤは初めて一つの国にまとまる、そう言いたいのである。戦争の肯定である。
血は血を呼びます 犬と犬が争うのと同じ 殺せば殺されます
- 因果応報について語るエスター。戦争によっておこる悲劇を語り、その思いに駆られているベン・ハーの心の状態に思い悩み、危機感を感じる。そしてそこには大変な事態が待ち受けているかもしれない、という焦燥感も漂ってくる。
- ベン・ハーに過酷な運命を背負わせるわけにはいかないと、同じように犬の喧嘩について語る。むき出しの牙で相手を襲う、そして相手の肉を食いちぎり、返り血を浴びるのは自分、死ぬのは相手が先か、自分が先か計れない。もし運よく立ち上がってもまた襲ってくるかもしれない、そして自分も生き返る相手のとどめを刺すように攻撃するかもしれない。半死の状態の時どれだけ苦痛に耐えられるのか。血みどろの戦いの恐ろしさを語る。
- 人を殺すという事は相手に苦痛を与える事、同時に殺した相手の仲間に憎しみを植え付けるという事だと伝えている。憎しみが相手仲間に芽生えればどうなるか。そのカタルシスを得るために人は行動するのである。つまり憎しみを抱かせた相手を憎むだけでなく、同じように命を奪うのである。恐ろしい連鎖である。エスターはさらに必死になって訴える。
敵を愛し迫害するもののために祈れ
- 右の頬を打たれれば左の頬も差し出せと言うイエスの言葉がある。この言葉とリンクする。最も難しい教えである。常人では絶対できない。聖人のみにできる事ではないかとさえ思わされる。
- 映画では帝政ローマを好きになりそのローマの為に祈れと言う言葉があてはめられるが、すぐには理解できない。承知もできない。自分に危害を加える者に好意を寄せ笑顔を振る舞い、その者のために祈れと言う。とんでもないと思うが祈る内容に着目することが必要である。イエスが言いたいのは、自分にとって悪行を積む人にも命があり、神の恩恵も受けており、良き人の時もあればそうでない時もある。または自分の意思ではなく他の者の意思を代理で執り行った場合もありうる。悩みを抱え、苦しみを抱えた事も過去現在あった事だろう。だから「許せ」。そしてその者の今後の平安と良い生き方が実現されるように「神の名において祈れ」と言っているのである。自分自身が迫害から逃れるための祈りはでなく、迫害するものの幸せを祈るのである。
愛も力になれないのですか?
- 壁際に持たれながらエスターは落胆し、自分の言葉にさえ自信を持てなくなってくる。ベン・ハーの激しい怒りと抗いに言葉をなくして、いったい何が彼を幸せに導けるのか困惑して話すのも途切れ途切れになっていく。力になれないのかと話す前に「愛は憎しみより力がある」と彼女は話した。愛さえもとあきらめにも似た口調で語り掛ける彼女は、それでもベン・ハーの話を聞き入れ彼を理解するためにそばに居続ける。
憎しみが顔を醜くしてる まるでメッサラが乗り移ったように
- 「もう私を愛さないほうがいい」と、ベン・ハーは言う。彼の悲しみ怒りの混ざった声にとうとうエスターは自分の怒りをぶつける。自分が感じている彼の姿をそのまま言葉を荒げて投げかけるのである。エスターはメッサラを忘れて欲しかった、ローマの属州であることに対し、ユダヤ人としての抗議活動を正当化してほしくなかった、憎しみを捨てて欲しかった。つまりメッサラに始まったローマへの怨念を取り払って幸せになる事だけを考えて欲しかったのだ。
- そしてエスターは言う。メッサラが乗り移っていると。これ以上の激震は今まで彼の心には伝わる事がなかった。一番の仇敵、憎んでいた彼と同じだとまで言及された。それは自分も憎まれる存在になりうるという恐怖であり、嫌悪であり、エスターからの軽蔑されたという衝撃と心痛である。うなだれて考え込む姿がフェイドアウトで死の谷に移り変わる。
神の救いは誰の上にもある
- ベン・ハーとの口論があった後日、エスターがミリアムとティルザをイエスの元へ連れて行こうとするときに言う言葉である。死の谷は暗く悲しみに満ちている。そこにいてローマの言いなりになることで一生を終わるのか、藁にもすがる思いで死の谷を出てイエスに会いに行くのか。エスターは後者を正しいこととして行動に移すのである。
- けがれている人は救われないとかユダヤ人は救われないとかの差別など神には無いし、イエスもそれ説いていた。この言葉をかけるも始めは拒んだミリアムだった。しかしベン・ハーが突然現れた事が功を奏する。血の力は大きい。ティルザも連れてエスターはミリアムに付き添いその救いを信じて死の谷から出るのである。
ナザレのイエスに会わせれば魂の平安を得られる
- エスターはハー家の中で最もイエスに近い存在であった。その言葉、その面持ち、醸し出す高潔な雰囲気などすべてを感じながら説教を理解して、ベン・ハーや父親のサイモニデスにも語り続けていた。だからこその確信が彼女にはあった。死生観もイエスは語っていた。死んだらどんな世界があるのか、どんな存在がありどう扱われるのかもすべてである。またすさんだ心が泥沼にはまるように身動きできず、悲しみや痛みなど苦悩から解き放たれない状態からどう抜け出られるか、についても触れていた。それを良き道へと導くのがイエスと会い心を通わすことであった。
ナザレの若いラビを殺せ(ユダヤ教大祭司・ヘロデ・ピラト裁判)
- 嫉妬、恐怖、傲慢、興味、戦略が入り乱れてラビ(教師)=イエスの裁判が行われる。大祭司はユダヤ教の上級層でイエスの布教活動がユダヤ教の教義と違いがある事や、祭司の階級制や特別待遇がある事への批判、その祭司たちが支配する神殿での行為に対する批判も受け入れがたいものであった。しかし当時の大衆は大祭司たちよりもイエスの導きに心が惹かれ山上の垂訓などでイエスの説く新しい教義に耳を傾けた。死刑判決は律法の中に許されておらず、正式な判決は王か総督に委ねられた。
- ヘロデ王はピラトの要請で裁判の場を設けるがどのような質疑を行ってもイエスは何も答えず裁判自体が成り立たなかった。アンティパスの力量による影響もあるがほぼユダヤ教のラビの裁判などほとんど関心がなかったとされる。
- 総督のピラトはローマ帝国の威信を揺るがす教えを流布しているとの嫌疑で裁判にかける。特にどの人間も神の元では平等であり自由である、命も同等の価値があるとした。これらの教えをとがめて追及したとされる。ローマ属州としてユダヤ民族の支配を行ったこと自体この思想や教えに反したものだった。
- キリスト教の原理主義の伝承する当時の裁判の様子に至っては、特に祭司や民衆がユダヤ人であり、イエスの死刑を望んで裁判の場で訴えていたことから実はローマ帝国総督のピラトが罪の内容を認められず有罪判決を拒否した。「この人にどんな罪があるのか?」と祭司に対して詰め寄ることもあった。結局大祭司側のもっともらしい策略に満ちた理由を前面に訴えてピラトは仕方なく死刑とする。その時に彼は盆に入れた水で手を洗い、この判決の責任は私ではないと述べている。(新約聖書)
あの人を知っている!あとを頼むエスター
- ベン・ハーはナザレ村での初めての出会い以来、イエスとは会っていなかった。観客としては一瞬でしかないが嬉しい場面である。十字架を背負って行進する悲しいシーンであるが、それまで何度も会えそうで会えないシーンを繰り返し見ているために、ここでは安心感が漂う。
- 最初は遠くから見て気づいたときのつぶやきで、その後だんだんベン・ハーと家族がいる場所に近づいていく。階下では重そうに十字架を担ぐイエスの姿。そして罪人二人もついてくる
- 上がってきた十字架はイエスが先頭。ベン・ハーたち家族の前に来たちょうどその時つまづいてイエスが十字架に潰されるように倒れる。そしてエスターに頼み込む。家族から離れてまでイエスを追うのは恩人だからである。懐かしさも手伝うが、温かい心・優しさ・兵にも抵抗する強さ、全身から放つ常人では見られない神々しさが脳裏から離れないのである。だからこそ追い続けた。兵士さえ払いのけようとするほどに。
助けてあげて!ご慈悲を!
- 目の前で倒れたイエスに対してミリアムとティルザが叫ぶ。彼女らは業病に関わらずイエスに慈悲の言葉を投げかける。このときにミリアム・ティルザは自分達の病気を治してくれなどと、一言も言っていない。ひたすらイエスを見守り、乱暴な兵士の扱いに心を痛める。
- 言葉を発しながらミリアムとティルザは病気の身と知りながらまた具合が悪くて声も出せないほどでありながら、イエスの事を思うのである。イエスはハー家の者たちに目を向ける事もなくずっとつまづきから立ち上がり前を向いて階段を上っていく。一歩、また一歩と体の軸さえまっすぐに保てないままイエスは階段を上っていく。兵士たちは無表情で鞭うつ。
こんな時にあの安らかなお顔は…来たかいがあった
- 十字架のイエスが通り過ぎるとエスターはミリアムたちに「申し訳ない」と謝る。奇蹟を受けさせる事が出来なかったと思い込んでいたからである。せっかくミリアムと病気のティルザまで無理をして連れてきたのに惨い姿を見せるだけになってしまった。そんな思いが彼女に言わせた言葉だったのだろう。そんなエスターの謝罪に対してのミリアムの言葉は寛容である。エスターの思いを理解しており、逆にねぎらいと感謝の気持ちに溢れている。
- イエスの顔を見て感じる事の出来るミリアムは感性鋭く、イエスの表情に優しさを見る事が彼女にはできた。安らかと言うのは痛みを感じていないわけではなく、痛みを上回る使命感と責任感、信念を守る心意気、それらをすべて実現し果たしている喜びにも似た感覚が覆いつくした結果だ。ミリアムはその感情をしっかりと受け止めた。だから「安らか」という言葉が出たのだ。
ユダヤ人の王万歳!
- 十字架の行進がエルサレムの街中に繰り出すと水飲み場のある少し広い石畳の道路になる。その先方で一人のユダヤ人が叫ぶ言葉である。皮肉を越えていて信仰を持つ者にとっては辛い言葉がけである。12使徒との旅の中やエルサレム近辺で彼は教えを説いてきた。その説教の中で自らを王であると認める。彼を信望するユダヤ人は素直に受け止め教師としてのイエスを尊敬し信頼する。また王であると宣言することでユダヤと言う国ができたときは帝政ローマ帝国の圧政から解き放たれると期待もした。万歳と言う語句はその意味では賞賛であり、新生ユダヤ王国の誕生を夢見、実現へと民族が結集してイエスを王に迎える事が目標である。
- ただしこの場面での万歳と言う言葉は皮肉でしかない。十字架の重みに耐えて歩く姿、その弱々しさを見て同情をこそすれ喜びの万歳を言うなどは完全に刑を受ける罪人としての見方であり、救世主、王の中の王の誉れ高き人を称える言葉ではない。悔しくも悲しいシーンである。
なぜ死刑になる?
- 磔刑のゴルゴタの丘でバルサザールとベン・ハーの会話である。そしてベン・ハーの方からなぜ?とバルサザールに問う。聖書通りに応えれば、万人の犯した罪をすべてイエスが背負い、十字架刑で死を迎え神に召されることによって重い罪の贖いをイエスが全て行ってくれるからだと。そのことでこの世に生きる全ての人が許され苦しまなくて済むようになるからだと。バルサザールはそう説明する。
- 12使徒を含めすべての人に、自分の信念を曲げず権力に屈しなかったイエスが、その教えを末代まで伝承することこそこの世の平安や死の恐怖から解放される、と考えてとった行動である。
- 死刑になるという事実は衝撃が大きい。その大きさがイエスという人物の神性を増したり、偉大さを強調するきっかけとなり、教えが広がる原動力になった。歴史はそれを証明している。
- 本当のところは当時に生きた人でない限りわからない。純粋に聖書をたどる信仰は事実と違うところもあるかもしれないが、だからどうだという事もない。現代にキリスト教が世界単位で広がっている事実は無視できない。広まる理由があったからである。反面欠点もある、人間のように。
わしは長く生き過ぎた
- 映画でバルサザールが言うこの言葉は単に長生きした、年を取ったという意味で済ます性質のものではない。信仰と絡めなければならない。バルサザールはイエスの誕生から死までを見たことになる。だがイエスが死んだのは33歳のころで、バルサザールの孫ほどの年の差がある。孫が先に死に至るなど普通は考えたくないしほとんどそういうことは起こらない。
- ここでいう長生きし過ぎたというのは、孫のように愛しく見守ってきたイエスがその使命を果たすまでをしっかりと見届けたかったという意味である。映画では語られないが、バルサザールがユダヤに近接したエジプト人であることからユダヤ教を信じていた可能性は高い。ユダヤ教に改革の波を送り出し、さらに良い教義を民衆に伝え、さらに民衆を幸福へ導き、弟子である応援者の説教を含めた伝道活動にも手を伸ばす瞬間を見届けたかった。それが十字架の死刑により別の使命を果たすことになったため叶わなかった。命が失われるということは神の御心であるという理由があるにせよ、惨い姿を見たくなかった。だから長く生き過ぎたと落胆するのである。
神よ彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです
- 十字架上のイエスの言葉で有名なもののうちの一つ。「汝の敵を愛せ」に通ずる言葉である。そもそも人間は賢いのか賢くないのか。知っているのか無知なのか。基本的には無知である。だから知的欲求がある。そして賢くない。だから勉学を積むこと、教義を知る事、過ちを繰り返さない、という事が望まれるのである。それらは許しがない限り罰せられ自滅・排除される。許しは反省・再生と学び・事例を演習・そして差異に気づく知恵・道を修める事によって人間的成長を促す。それは何かの力によって成し遂げられる。
私の手から憎しみと剣も取り去られた
- ベン・ハーが恨みも憎しみも消えたのは十字架上のイエスの雰囲気というもの、何となく感じる力であったと考えると説明は楽である。しかし言語に着目すると、何も知らない哀れな子供たちを思いやってください。子供だからこそ何も知りません。だから誤りもあります。自分が行う事の全部の善悪など知ろうはずがありません。どうか許してやってください、と言っている。
- だからこそベン・ハーは、自分が囚われているメッサラへの憎しみや彼を殺した自分自身への憎しみと罪悪感、支配者ローマ人への憎しみ、十字架刑でイエスを殺した人々への憎しみ等すべてが理を知らぬ人々の行いへの憎しみであったことに気づくということである。理を知らぬものへ憎しみや恨みを持つことなく、暴力も振るわない。許し受け入れる事のほうが心の平安を得る近道である。彼はそれに気づいた。
十字架と羊飼い
- 終幕前の最期の映像である。旧約聖書の「出エジプト記」に登場するモーセも羊飼いであった。イエスの生存した紀元1世紀頃も羊飼いがいた。キリスト教では人間の事を羊に例え、羊飼いの事をイエスに例えている。フィナーレのシーンはまさにベン・ハーの物語としてあるいはイエス・キリストの物語としては象徴的である。信仰のシンボル十字架と穏やかで静かな夕焼けが平和を意味する。そしてその前を通る羊(私達人間)とそれを導き指導する羊飼い(イエス・キリスト)がその平和を羊に与え群れに広げていくのである。
ハレルヤ
- イエス・キリストの賛美の歌である。映画の最終幕を飾る情感豊かで未来への希望と期待を高音域と最大限の音量で「THE END」の大画面表示とともに全編を締めくくる。そして音は消え画面が真っ暗になる。ハー家の家族の抱擁が残像として焼き付いて映画館を後にする。
受賞
- サム・ジンバリスト ■MGM企画責任者。制作費と制作活動を含めた総元締め。題材の決定並びに脚本案の取捨選択。主要製作スタッフ選定。
- ウィリアム・ワイラー ■映画演出総指揮。助監督指導。妥協ない演技追求。キャスティング。演技指導力と選出力。撮影環境選択・構想と指示。
- チャールトン・ヘストン ■喜怒哀楽の生きた感情表現。視線。勤勉さ。乗馬技術。タフなガレー船漕ぎ演技など重労働。
- ヒュー・グリフィス ■人物表現のユニーク性。功労。映画の緩急のアクセントを醸し出すユーモアセンス。
- ウィリアム・A・ホーニング エドワード・C・カーファグノ ■ローマ総督府先遣隊の砦の内部(槍の間)古代ローマ帝国の市内建造物創作。アリーナ(戦車競技場)、コース中心建造の島、高さ9mの4個の彫刻巨像(ローマ神話の神々)、9台の戦車、古代のイスラエル地区(ユダヤ・ベツレヘム・エルサレム)の岩石積上げ型民家や豪邸、アリウス邸の噴水の間。ガレー船の船底の奴隷座板とオールの配置、
- ロバート・L・サーティース ■映像の美的完成度。65mmフィルムを活かした構図。スタジオ・ロケーション両環境に沿う映像作り。戦車競走。
- エリザベス・ハフェンデン ■創作的美の実現。十字架とイエスの衣服、ユダヤ人衣服、ローマ人衣装、民衆衣服、装飾品、軍甲冑、武器。
- ラルフ・E・ウィンタース ■場面切替、ストーリーの連続性、アクションシーンのカット割り。ショット、ショットの細分化による緊張感の効果。戦車競走の展開の場面的整合性とリアル性追求。ガレー船の戦闘ミニチュアと実物大のシーンで差異のないつなぎと展開の組み立て。クロスフェイド。
- ミクロス・ローザ ■時代考証で古くはヘブライの民族音楽の旋律にならい、現イスラエル・中東各地の音楽を再現またはアレンジ。ローマ帝国時代の題材で作られたオットリーノ・レスピーギ作曲「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」の3部作など、クラシック音楽の研究を行い、独創的な音階で斬新な交響・管弦楽曲を創作した。古代楽器の作製・再現と活用も特筆に値する。近年全世界においてサウンドトラックの各テーマを組曲(Suite)としてまとめた楽譜を使用し様々な楽団が20~50分前後で演奏を披露している。演奏でメインになる曲は、ベン・ハー序曲・ベツレヘムの星・愛のテーマ・砂漠の行進・ガレー船の奴隷・母の愛・戦車のパレード・十字架の行進・奇蹟とフィナーレ等。カバーで吹奏楽、ピアノ、弦楽重奏があるが、交響・管弦楽が秀逸である。
- フランクリン・E・ミルトン ■6チャンネル立体音響の実現、槍の飛翔音、軍隊の行進、馬の蹄音とギャロップ、ガレー船の槌音、鎖の擦れる音、海戦での剣の戦闘音や浸水音、群衆の歓声や騒音、戦車の衝突・車輪破壊・轟音、鞭の音、雷鳴と地響きや豪雨。風吹と枯葉や塵や屑の飛び流れる音。
- A・アーノルド・ギレスビー ■マットペインティング、スクリーン・プロセス、ベツレヘムの星、戦闘シーン・衝突シーン・ミニチュア高速度撮影・軍行列の複製と合成・戦車競走のコマ削除でスピード感創出、キリスト裁判の広場の光景、ゴルゴタの丘処刑時の稲妻の光。
- ノミネートされたが受賞を逃したのは脚色賞。カール・タンバーグ。(当日受賞したのは『年上の女』)。
第17回ゴールデングローブ賞 映画部門
- サム・ジンバリスト
アンドリュー・マートン(戦車競走シーン演出)
その他
- サム・ジンバリスト
文部省特選
- 当時の文部省(現文部科学省)の評価
日本優秀映画鑑賞会特選
- 優秀映画鑑賞会の評価
映画技術と映画芸術
大画面70mmウルトラパナビジョンとテクニカラー
横長の大画面
映像の芸術として映画を制作する側は、まず間違いなく美観を意識している。「ベン・ハー」はワイラー監督の感性が余すところなく発揮された映画でこの映画の中で登場する大小さまざまなセットと色彩、そこに立って演技する俳優たちの姿・衣裳は、70mmウルトラパナビジョンという横長の大画面にうまく調和していて美しく、観る者の目を存分に楽しませてくれた。なぜなら本作品の画面の構図の決定には、ひとつのポリシーが貫かれているからである。全画面がそうとは限らずとも、凝視して鑑賞すればそれについて気づくことができる。
1.00対2.76
フィルムに収まる物の位置、人間や事物の移動や動きを予測・想定して配置し撮影するなど、画面の随所に計算され尽くした構図を観ることができる。70mmウルトラパナビジョンというあまりにワイドな規格であるだけに、画面をフルに使えるように工夫された箇所も多い。このことに関しては、1対2.76という画面アスペクト比率ゆえに特にアップシーンで画面に大きなスペースができてしまうため、構図のバランスを失わないように何か置かなければ格好悪いという理由も含まれていた。簡単に言えば、バランスをとったということである。スペクタクルなシーンを売り物にする映画、大河ドラマ的な映画では、ほとんどこの「ベン・ハー」と同じようにパナビジョン、あるいはアスペクト比率は少々違うがシネマスコープ、ビスタビジョンの規格で撮影されている。今ならIMAXとかScreenXも加わる。群衆シーンや大型のセット、奥行きの深い景観を映し出すのには最適だからである。
撮影のプロが魅せるテクニック
この映画を見る時によく観察すると特徴的なものは2つ。まず俳優のツーショット以上のアップでは、その間隙に空白がほとんどなく、人物、建物・木・柱などが配置されている。ワンショットの場合も両脇に人物や飾りなどが配置され、画面全体のバランスがとれるようにしている。もう一つは遠景(ロングショット)のシーンである。この場合は、奥行きの中心像が画面中心と一致せずにずれている。ど真ん中に一番見せたい被写体が来るのが当然だが、これをあえて少しだけ中心からずらすのである。また画面に伸びる直線的なもの、つまり道とか家とか壁とかである。これも画面の中央を突っ切る配置はしていない。ほとんど対角線のように画面右下から左上、左下から右上と、遠近法に従うように伸びている。それによって画面の絵として規則正しい「デザイン」ではなく、生身の人物、あるいは現実の世界を強調することができるのである。シンメトリックはある意味面白みに欠ける。だからずらす。こうして画面に趣が出て飽きない。本作品は3時間44分の大作である。長くても楽しめるための見せ方も大事だ。撮影班のテクニックに脱帽の映画。
テクニカラー
映画ができてトーキーがはやりだした頃、モノクロの画像とは別に色のついた画像も投影できる技術が発展を遂げていた。テクニカラー社による「テクニカラー」である。1925年制作の「ベン・ハー」は2色法の効果を活かした映像を全編ではなく一部のシーンでいくつか使用して実現し、それ以後3色法の映像によるテクにカラー映像(総天然色)がはやりだした。光の3色法テクニカラーが生み出す色はRGB(レッド・グリーン・ブルー)の光を重ねる方式であり、絢爛豪華な衣装・装飾物・立体的な形を際立たせるなど映像表現の幅を広げた。三色の重なりの部分では白も投影することができる技術で映像の明るさも陰の黒さも鮮やかに表出させることができた。ローマ軍兵士たちや将校の鎧姿や赤いマントと羽根飾り、民族衣装の様々な種類、建物に置かれた植物や装飾品、環境や大自然の壮大さを表現するリアルさ、血で傷ついた負傷者、戦車競走の鮮やかな色も、テクニカラーのなせる業である。ただ高価であっただけに世界恐慌時代を終えて以降の混沌とした時代では、衰退することもあった。その後は本作品でも使用されるなど開発研究によってテクニカラー社の法人としての経営も持ち直していくこととなる。詳細についてはテクニカラーに記述されている。
70mm映画
映画は通常35mm幅のフィルムで撮影する。ところが1959年版「ベン・ハー」ではパナビジョンにおいては70mmの規格フィルムでの撮影がセットになり映像効果もこれまでにないものを生み出している。テクニカラーの技術に合わせて70mmの規格が加わるという事は、それだけ鮮明な映像が再現できるという事である。何度も紹介しているがMGMcamera65はこの70mmフィルムの撮影映像を作るために使用された大型のカメラである。65mmのネガ作成用のカメラで、これを作動させ撮影を行い、その後引き延ばしによって70mmに拡大する。フィルムが大きいことの利点は撮影した映像の解像度が増すという事である。デティールにまで光が行き届きそしてレンズに反映されフィルムに焼き付けられるのである。「十戒」という、映画も大ヒットした映画であるがその作品も70mmである。大海が割れる有名なシーンでは息をのむ経験をした人も多い。色も鮮やかであり波の揺らぎも鮮明。ある意味美しい。制作陣は映像技術の域を尽くして本作品を仕上げたのである。
ミクロス・ローザの音楽
ミクロス・ローザの手掛けた音楽にはクラシックにならう芸術音楽・室内楽・協奏曲・管弦楽と映画音楽がある。映画音楽については劇映画音楽賞受賞の本作品以外にも歴史劇を題材とした映画では「バクダッドの盗賊」「黒騎士」「クォ・ヴァディス」「悲恋の王女エリザベス」「円卓の騎士」「ジュリアス・シーザー」「キング・オブ・キングス」「エル・シド」「ソドムとゴモラ」「シンドバッド黄金の航海」などが代表的である。
※音楽の記述に関しては、以下の既存サウンドトラック盤の視聴と同梱のパンフレット等の記述内容を参照した。オリジナルサウンドトラック盤は、本編の音源と異なるカルロ・サヴィーナ指揮によるローマ交響楽団の演奏が長年公式盤とされ、作曲者のミクロス・ローザも数回再録音を行ったが、1996年にミクロス・ローザ自身の指揮による本編の音楽と未採用音源が収録された2枚組CDセットが、当時MGM作品の配給を行っていたTurnerから発売された。同音源から選曲によりCD1枚に集約された日本語版も1999年に発売。2017年10月20日にリリースされたニック・レイン指揮、プラハ・シティフィルハーモニックオーケストラ&コーラス演奏版は、最新のオリジナルサウンドトラック盤である。
音楽の出典資料
- EP:本命盤ベリーベスト映画音楽シリーズ「ベン・ハー」パート1,2
スタンリー・ブラック指揮 1975年12月
ロンドンフェスティバル管弦楽団とコーラス
裏表紙1面記載の映画制作記事と解説。パート分割の2曲。
- EP:本命盤ベリーベスト映画音楽シリーズ94「ベン・ハー&サムソンとデリラ」
スタンリー・ブラック指揮 1978年8月
ロンドンフェスティバル管弦楽団
裏表紙1面記載の映画制作記事と解説。2曲。
- LP:MGMレコードポリドール株式会社
MGM映画オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」
カルロ・サヴィーナ指揮ローマ交響楽団 録音1959年
裏表紙2面パンフ裏表2面記載の映画制作記事と楽団および楽曲14曲解説。
- LP:MGMレコードポリドール株式会社
More Music From Ben-Hur 復刻版 1981年
エリッヒ・クロス指揮 フランケンランド州立交響楽団
MGMオリジナルサウンドトラックコレクターズアイテムズ
MGM同名映画オリジナルサウンドトラック「ベン・ハーVOL,2」
裏面英語1面パンフ表1面記載の映画制作記事と楽団および楽曲16曲解説。
- CD:TURNUR CLASSIC MOVIES MUSIC R2-72197 Deluxe Version
ミクロスローザ指揮Metro-Goldwin-Mayer交響楽団 1959年 2枚組
オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」(Film)楽曲合計88曲
内面箇条書き数行背面に楽曲名パンフレット48項制作記事英語解説文
デジタルリマスター©&℗1996 Turner Entertainment Co.Ltd
このサウンドレコーディングの著作権はEMI Records。
- CD:TURNUR CLASSIC MOVIES MUCIS 7243 8 52787 2 3
ミクロスローザ指揮Metro-Goldwin-Mayer交響楽団 1959年
オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」(Film)楽曲合計36曲
背面に楽曲名パンフレット14項制作記事英語解説文。
デジタルリマスター©&℗1996 Turner Entertainment Co.Ltd
このサウンドレコーディングの著作権はEMI Records。
- CD:東芝EMI株式会社MGM映画オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」
カルロ・サヴィーナ指揮ローマ交響楽団 録音1959年
裏1面曲目パンフ1冊10項裏表2面記載の映画制作記事と楽曲14曲解説。
- CD:Ben-Hur (Complete Soundtrack Collection) CD 1959年 5枚組
オリジナルサウンドトラック「ベン・ハー」(Film)楽曲合計164曲
指揮者ミクロス・ローザ MGM交響楽団 FSM GOLDEN AGE CLASSICS。
- CD:Ben-Hur New Degital Recording Of The Conpulete Film Scor
指揮者ニックレイン演奏 プラハシティーフィルハーモニー管弦楽団
オリジナルサウンドトラック 157分 2017年10月20日リリース最新版。
- CD:SLCS-7206 ハリウッドクラッシックシリーズ9映画音楽 13曲。
ミクロスローザ 「ベン・ハー」「エル・シド」「キング・オブ・キングス」
リヒャルト・ミュラー・ランペルツ指揮ハンブルグコンサート交響楽団と合唱団
裏1面曲目パンフレット1冊10項製作記事と曲目解説△オムニバス。1986年。
- CD:1907-1995 THE EPIC FILM MUSIC OF Miklos Rozsa
ケネス・アルウィン指揮プラハシティー交響楽団 1996年
クラウチエンドフェスティバル合唱団 オムニバス盤17曲
裏1面曲目パンフレット1冊14項制作記事曲目解説文。
- CD:Miklos Rozsa at M-G-M: Motion Picture Soundtrack Anthology
2枚組裏1面曲目パンフレット52項製作記事と曲目解説△オムニバス13曲
Miklos Rozsa指揮 オリジナルレコーディング
TURNUR CLASSIC MOVIES MUCIS 1999年。
- CD:Ben-Hur Essential Miklos Rozsa / O.S.T.SILVER SCREEN.COM
指揮者ケネス・アルウィン、ポールベイトマン、ニックレイン演奏
プラハシティーフィルハーモニー管弦楽団 △オムニバス23曲
裏1面曲目パンフレット1冊6項曲目解説文。2枚組 2000年。
「ベン・ハー」楽曲イメージと創作活動
映画ではローザ自身が過去に手掛けた1952年制作の代表作「クォ・ヴァディス」の影響が色濃く、実際に[戦車の追走と間奏曲]の音楽は一部フレーズを引用、[ヘイルガルバ]は、ほぼ原形を残して本作品にてアレンジを加え活用・転用している。この映画の制作もMGMで壮大なスペクタクルを売りにして、皇帝ネロの迫害に耐えるキリスト教徒の試練を描いた力作である。ローザはこの作品の楽曲制作の記憶を活かしつつ、他の歴史劇作品の新感覚も取り入れながら1959年版「ベン・ハー」の楽曲作りと編成に着手した。
当然ながら上記「クォ・ヴァディス」からの幾つかの曲を除いては、新たなインスピレーションとヘブライの時代のユダヤの民族音楽を起点にしつつ、ローマの楽曲の研究も並行して作曲活動を始めるが、MGMの命運を立て直す意味あいの元での制作活動であったため、気合の入れようは半端ではなかった。ときにインスピレーションが湧きローマ郊外の丘の散歩時に口笛でイメージの旋律を鳴らしていると、すれ違いの女性二人から怪訝そうな視線を受けたこともあるという。その結果数々の親しまれる名曲を生み出すこととなる。
管楽器演奏の充実(MGM交響楽団)
1959年版「ベン・ハー」のサウンドトラック盤は公開時期から発表・販売されていて市場にも長年出て販売されている。どれも本作品で名シーンを彩ったローザの楽曲を再現し、それぞれの場面に思いを馳せ映画の雰囲気に浸りインスパイアされる。但し演奏の質では違いが判然としており、選択を誤るとオリジナルのミクロス・ローザの原曲との差がありすぎて落胆する。大方CDショップ店回りやネット販売で情報を集めると数作品がある。代表的なものは、
1.ローザ本人指揮MGM交響楽団の演奏、
2.カルロ・サヴィーナ指揮ローマ交響楽団の演奏、
3.エリッヒ・クロス指揮フランケンランド州立交響楽団の演奏 、
4.ローザ本人指揮ナショナルフィルハーモニー管弦楽団と合唱団の演奏(再録盤)、
5.ニック・レイン指揮プラハシティーフィルハーモニー交響楽団と合唱団の演奏
6.Complete Soundtrack Collection Film Score Monthly FSM Golden Age Classics
※ニック・レイン指揮プラハシティーフィルハーモニー交響楽団と合唱団は2012年に「クォ・ヴァディス」のサウンドトラック盤再録も手がけた。
である。これらを聴き比べると、映画の中で流れていた曲を忠実に収録したミクロス・ローザ指揮MGM交響楽団の本家オリジナルサウンドトラック盤を基本にして、あとは全て編曲盤・変奏曲盤・代替曲・MGM交響楽団の未発表別バージョン曲混在盤であるという事に気づく。聞き比べて感じることは、MGM交響楽団バージョンの管楽器が飛びぬけて素晴らしいことである。スタッカートやタンギングの正確さは、キリスト誕生後の「ベン・ハー序曲」、「パンとサーカス」とそのファンファーレ、「ローマ軍のマーチ」「勝利の行進」「グレイタスのエルサレム入城」「サーカスパレード」「ガレー船の奴隷」で顕著に表れていて非常に歯切れが良い。また統一性あるストレートな音色、ムラのない一定のビブラートを含ませた響きと演奏、一糸乱れない音符の再現と一致、音域の広さ、レガートやスラーで滑らかな音づくりを緩急つけて完ぺきに近く実現しており、ドラマチックで心酔するような民族音楽の魅力を引き出している。フランケンランド州立交響楽団の管楽器演奏と比べるといい。その違いがはっきりと分かる。ローザの再録盤の4は音場に加え音質も向上し巧みな編曲を行っている。6はローザ、サヴィーナ、クロス指揮の混在版でCD5枚組、164曲:340分近くある。その中に曲によっては同じ映画オリジナル収録版であっても1のターナー盤とまた違った曲がある。使われなかった代替曲も入っている。好みの違いで原曲を愛好する派と、その別バージョンで音楽の可能性を楽しむ派がある。聞き比べを試す価値はある。
「ベン・ハー」オリジナルサウンドトラック各楽曲解説
各オリジナル楽曲は以下のものが主であるが、ここではメロディ・旋律が独自性ある曲のみを表示。各オリジナル楽曲の旋律をいくつもつなげたメドレー形式の前奏曲・間奏曲・穴埋め式にBGMとして断片的に使用されていた小曲は割愛する。
- プロローグ(Anno Domini)テーマ ●ベン・ハーのオープニングテーマからユダヤの民族的楽曲につながる。
- ベツレヘムの星 ●夜空を仰ぐ博士らをとらえ救世主の生誕をもたらす星がベツレヘムへ向かう。エコーの女性コーラスが清らかな雰囲気。
- 救世主の誕生 ●優しい女性のコーラスがマリアを包み込み、この世界を変える初子の誕生を祝いそして見守る。
- ベン・ハー序曲(映画テーマ曲)●4~8連符の歯切れ良い金管の高らかなファンファーレで開幕、キリストとベン・ハーのテーマが響き渡り愛のテーマへ。
- ローマ軍の行進 ●平穏なナザレ村にものものしい威圧的雰囲気が漂う。コントラバス・バスドラム・スネアドラム・金管で華やかながら高慢で重苦しい曲。
- ナザレのイエス ●穏やか。ハープとバイオリンの音が細く柔らかでひたすら穏やか。優しさと理性を思わせる旋律である。
- 友情と再会 ●切ない感情と喜びに包まれた音楽。メゾピアノの低音単楽器から次第に緩やかだが各楽器総出の音響で盛り上がる。槍投げのシンクロ曲は秀逸。
- エスターとの再会 ●ファゴット、オーボエやクラリネット。ひたすら健気で恥じらいの隠せないエスターの性格を表現。主旋律のバイオリンが美しい。
- 愛のテーマ ●フルートの優しい音色。チェロ。美しく成長したエスターとの語らい。互いの恋の葛藤をバイオリンの艶やかな高音の響きで切なく表現。
- グレイタスのエルサレム入城 ●金管の低い音によるものものしさ。ティンパニやドラム等打楽器のテンポ良い響きの調和で軍の高慢さや緊張感を醸し出す。
- 砂漠の行進 ●タイア行きの罪人の苦悩。高低音が交互に入り乱れる。コントラバス、トロンボーン、バイオリン。スラーやタイの多用で体の弱りを表現。
- キリストのテーマ ●ナザレ村の水。エレクトーンの穏やかで優しい響き。ベン・ハーが水を与えられ生気を取り戻す。別れで高揚し感情揺さぶる曲。
- ガレー船の奴隷 ●アリウスがベン・ハーの闘争心を揺さぶる。バストロンボーン、コントラバスと槌の低音の交互の響きが不気味。リズムはスローからアップへ。太鼓を打つ槌の音と、奴隷が漕ぐオールのリズムがマッチ。同フレーズの繰り返しに金管楽器の音層が重ねられていく。ローザの手腕が光る一曲である。
- 海戦 ●硬軟・強弱・遅速入り乱れる曲想・編曲が素晴らしい。スピード感に満ちており戦闘の迫力と緊張感を盛り上げる。
- 勝利の行進 ●華やかなローマ凱旋パレードの活気や歓喜に満ちた群衆の歓声。シンバル、打楽器、金管楽器の6連符がきらびやか。誇り高らかに奏でる曲。
- ファティリティダンス(アリウスの宴のダンス)●アリウス邸のパーティーでのアフリカ系のダンサーの踊り。マラカス、ボンゴ、ピッコロやフルートを多用。
- アリウスのパーティー ●宴の場。邸宅小楽団のバックミュージックで流れた親しみある曲。鈴、オーボエ、ファゴット、タンバリン、クラリネット、ハープ。
- さらばローマ ●アリウスはパーティーから離れ一人ベランダに出たベン・ハーのユダヤ帰郷を望む気持ちを察する。父の愛。ビオラ・チェロの響きが切ない。
- ユダヤに帰る ●4年間願い続けた家族との再会の為船に乗り込むベン・ハー。短調のバイオリンとオーボエでユダヤの郷愁とハー家の悲劇を暗示。
- 地下牢の悲劇 ●母と妹の捜索をした地下牢の役人と軍人の驚き。曲は大音響。トランペットの叫びにも似た高音とトロンボーンの荒い低音が衝撃を表現。
- 母の愛 ●死の谷の旋律の後に母の愛の曲になる。チェロ・ビオラ・コントラバスの短調の低音とファゴット・チェロ・バイオリンの旋律が母の思いを描く。
- 復讐(Intermission)●ユダヤの旋律の後ベン・ハーの動作に合わせ曲調が変化する。憎しみで立ち去るシーンでは悲哀と憎悪の激情を大音響で締めくくる。
- パンとサーカス ●ピアッフェ・パッサージュを想像させる軽快で賑やかな曲。ティンパニとバスドラムのリズム。シンバルを多用。トランペット、トロンボーンがメインを務める。
- 競技前のファンファーレ ●数種類あるが、どれも独特で聞いていて面白さがある。競技進行の段階的な合図。御者は合図に合わせ集合する。金管楽器中心。
- サーカスパレード ●メッサラのテーマ変奏曲が流れ金管楽器の高音・低音の重奏が巧み。4連符が部分的に頻出しシンバル音が節ごと短く曲を引き締める。
- 死の谷 ●打楽器のスローリズム、チェロその他弦楽器がテーマを奏でる。金管が弱く主旋律に絡みカップミュートを入れる。恐怖を主に暗く業病患者の運命を表現する。
- 山上の垂訓 ●川を越えた山頂にキリストが立つ。大勢の民衆が彼を見上げ彼が民の前に進むとこの曲が流れる。チェロ・ビオラ・バイオリンが繊細で象徴的。
- 十字架の行進 ●ティンパニ・コントラバス・ビオラ・チェロ・バストロンボーン・ホルン・ユーホニウムが重々しい。ときにトランペットがアクセントをつける。半音階の流れをやがてバイオリンがリードしていく。バスドラムが音高くリズムをとる。十字架を背負う悲劇的なイエスの姿がイメージに強く残る大スペクタクル音楽である。やがてバイオリンが感傷的に優しくも悲しい音を奏でる。木管楽器も目立って登場してくる。バイオリン、トランペット、ホルンが少しづつ前面に出、痛々しさやイエスを慕う人々の突き上げる感情を表しドラマティック。ひしゃくの水の場面でハープの艶やかな響き。ベン・ハーとイエスの感動的な再会である。約7分越えの大作。
- ゴルゴタの丘 ●メッサラのテーマ(決別の音楽)からオーボエの短調の友情のテーマにつながり、キリストのテーマで磔刑の苦難に重なりバイオリンの音へ。
- 奇蹟 ●明るさと希望や喜びの混じったホルン・ユーホニウム・バイオリンによるキリストのテーマが主として使われており、続いて管弦楽のフルオーケストラ演奏で壮大な盛り上がりを見せる。紛れもなく、キリストのテーマの編曲あるいは変奏曲である。
- フィナーレ ●ベン・ハーのテーマ・キリストのテーマの変奏曲・友情と再会のテーマの変奏曲・数個のバイオリンによるキリストのテーマ・変奏曲の愛のテーマ・母の愛・コーラス~愛のテーマの壮大な響き。特にキリストのテーマと愛のテーマの交差が多い。
- hallelujah chorus ●エモーショナルかつリリックなフルオーケストラと男女混声合唱。ハレルヤの言葉通りキリストの賛美曲。素地となっているメロディはキリストのテーマでフォルテッシモに至ってこの曲で幕が閉じ、ベン・ハーの物語は終わる。
※「奇蹟」はキリストのテーマが主軸・「フィナーレ」はストーリー全体のオマージュ・「ハレルヤコーラス」もキリストのテーマが主軸である。音楽の側面から見ると映画「ベン・ハー」の本当の主題は「キリストの物語~A Tale of the Christ~」だという事が家族愛がテーマとは言え明確である。
吹き替え版でのオリジナルサウンドトラック部分消失
DVDおよびBlu-ray(若しくはそれを活用したTV放送)の日本語吹替版では、サウンドトラックの音楽でところどころオリジナルに被さるように別曲を差し替えている。 例1:前奏曲直後、中東地域の地図を示してローマ支配を説明するオープニングのナレーター(バルサザール役のフィンレイ・カリー)のバックで流れる曲。 例2:磔刑のシーンでベン・ハーとバルサザールが木の幹の側で話すシーンの音楽など。例3:ラストシーンでベン・ハーがエスターにキリストの言葉を伝え「憎しみが消えた」と告げるときに流れている音楽、ほか多数の箇所に散見される。元がTV版の吹替であるため、日本語音声の録音のためサウンドトラックを消去。またTV放映に合わせて映画短縮の為カットシーンが多々あり、それにともなって番組CMが挿入される部分やつなぎとの整合性をカモフラージュするために生成されたサウンドトラックの音響編集もある。 [20]
栄光への脱出テーマとベン・ハー愛のテーマの対立
1960年「栄光への脱出」のテーマを作曲したアーネスト・ゴールドと、「ベン・ハー」愛のテーマを作曲したミクロスローザは、両曲の類似性に関して盗作に当たらないか、著作権の侵害に当たらないかの真偽を争った。訴えはミクロス・ローザの側であり、アーネスト・ゴールドは訴えを受けて著作物審査の専門家を係として迎え慎重な比較検査を委任した。審査の結果ローザの訴えは退けられ、ミクロス・ローザの抗議は認められなかった。2つの音楽はほぼ同年に発表された音楽であり、アカデミー音楽賞の受賞で自身の作品への思い入れがある中、アーネスト・ゴールドの映画のテーマ曲がそれを超える大ヒットを記録した点で懐疑的になった事情もローザにはあったのであろう。実際にどちらも題材が中東のイスラエル・そして古代のユダヤという事もあり拮抗する側面もあってつばぜり合いの様相を見せていた。そのことも、争いのきっかけになった可能性は大きい。この二つの曲の聞き比べをして確かにメロディの組み立てや編曲の接続部、旋律の流れ方やさびの部分とかクライマックスの音程や楽器の使い方にだいぶ違いがあり、残念だが審査結果は適当だった。哀愁漂い、美しいイスラエルやユダヤ民謡の旋律が魅了している点では、どちらも傑作である[21]。
ミクロス・ローザに影響され師事した作曲家
ミクロス・ローザの作風に影響を受けた映画音楽家は少なくない。特に「ベン・ハー」のような歴史劇におけるドラマティックな楽曲を作った有名作曲家も多い。筆頭にあげられるのは、近年他界したが大作を手掛けることの多かったジェリー・ゴールドスミス、そして押しも押されぬ現役名作曲家ジョン・ウィリアムズである。ジェリー・ゴールドスミスはローザに長年師事した。「トラ・トラ・トラ」「パピヨン」「風とライオン」「ランボー」「ルディ」「ムーラン」などが代表的作品である。もう一人のジョン・ウィリアムズはローザのアメリカでの映画音楽にインスパイアされその作風を自作品に取り入れた。「ジョーズ」「タワーリング・インフェルノ」「スター・ウォーズ」「レイダース/失われたアーク」「E.T.」「シンドラーのリスト」「プライベート・ライアン」など無数の代表作があり知らない人がいないほどの功績を残し、それぞれの時代を魅了した名画のサウンドトラック音楽を生み出している。オリジナルの曲で人々を画面に引き込み、興奮を抱かせ、溢れんばかりの感動に引き込んだ名曲が多いのは、2人ともローザと共通している。ローザの影響は、この2人の大物作曲家のどんな個性に見られるのか、それは2人がこの世に送り出したヒット作で気づく。[22]、
1.映画の複数の場面に合わせた一つ一つのテーマ曲を作り、それを様々に紡いで映画全体にまんべんなく割り振り(編曲や変奏曲の創作など)別曲のごとく観客に聞かせ、シーンを盛り上げているという事が一つ。
2.そして、この出来上がった一つ一つのテーマをメドレー形式につなげ、オープニング(またはエンドクレジット)の主題音楽としている事。
なおこの2点は現代の映画作曲家のほとんどが踏襲するに至っている。ジェームズ・ホーナー、ハンス・ジマー、ハワード・ショア―、ダニー・エルフマン、アレクサンドル・デスプラ、トーマス・ニューマン、ジェームズ・ニュートン・ハワード、ハリー・グレッグソン・ウィリアムズ、ルパート・グレッグソン・ウィリアムズ等多数。なお久石譲に関しては上記に同様でありつつ、メドレー式よりも独自のオープニングテーマ曲やエンディングテーマ曲を配している場合が見られる。
3.加えて2人ともローザなみに外国音楽について研究熱心で、民族音楽を再現・アレンジする力にも長けている事。
例えばジョン・ウィリアムズの場合「シンドラーのリスト」でのバイオリンをはじめとした弦楽器によるイスラエル音楽・民謡の短調の曲風、琴線に触れるような哀愁あるリズムとしつこくない民謡の引用と編曲、「SAYURI」での拍子木・横笛・錫杖(しゃくじょう)の音、和の小太鼓、三味線、そしてメロディそのものも日本音楽らしさほとばしる筝の音とビオラやチェロの和音も混在させながら美しく主人公の激情を描いている。「レイダース/失われたアーク」でもエジプトの民族音楽のアレンジやアラブの音階を取り入れたり、ユダヤ音楽の曲調も取り入れたりして場面に合ったサウンドを作り出した。ジェリー・ゴールドスミスの場合は、中国北魏時代の「ムーラン」でのフン族(柔然 突厥 匈奴など諸説ある)の来襲や、皇帝を護衛する軍隊の登場曲、金管楽器の迫力と曲想の急展開の面白さ、大陸の旋律を多用した弦楽奏、「トラ・トラ・トラ」の日本陰音階の使用、楽器としての筝(琴)の演奏、「ランボー怒りの脱出」でのダン・チャイン(ベトナム琴)、サオ・チュック(ベトナム竹笛)を使ったベトナム音楽の旋律の楽曲や、戦闘シーンでの管弦楽の演奏。これらは、まさしくローザの民族音楽の歴史研究に対する傾倒姿勢に通ずるもの。ジェリー・ゴールドスミスは既にこの世におらず世界は稀なる一つの才能を失った。ジョン・ウィリアムズは昨今スター・ウォーズオリジナルシリーズ最終作品でも秀逸な曲を披露した。[23]
日本語吹替版
長年チャールトン・ヘストンの吹き替えを務めてきた納谷悟朗は、ラジオ番組『癒されBar若本シーズンZwei』に出演時、吹き替えのキャリアにおいてベン・ハーを思い入れの深い作品の一つとして挙げている。番組のパーソナリティーである若本規夫も当時、「傭兵1」としてほんの一瞬出演していたと語っており(フジテレビ版なのかテレビ朝日版なのかは不明)、若本も納谷も揃って「ベン・ハーを今の声優で吹き替えるにしても最近の声優ではアニメチックになる可能性が高く、自分たちの世代の役者じゃないとベン・ハーの吹き替えは出来ない」と語っている。
納谷悟朗と羽佐間道夫が共に務めているフジテレビ版とテレビ朝日版ではカットされている箇所が異なっている。フジテレビ版には後半のベン・ハーが死の谷で母と妹を探すシーンやピラトにアリウスからの指輪を返すシーン、ユダヤ人への差別的な発言が多い台詞はカットされているが、テレビ朝日版には存在する。
日本テレビ旧版は企画段階で、チャールトン・ヘストンの声には納谷悟朗以外の役者を起用するように、という要請が出ていたため、演出の壺井正と水曜ロードショーの番組プロデューサーが相談した結果、石田太郎をヘストンの吹替に起用する事となった。石田はこのキャスティングを不思議に思っており、後日、壺井と再会した際に「どうしてあの時、自分を『ベン・ハー』で起用したんだ?」と話したという。[24]。
テレビ東京版は2013年4月5日にBSジャパンの「シネマクラッシュ 金曜名画座」でノーカット放映された際、初回放送時にカットされた箇所が同一声優で追加録音された。その際、ピラト役の佐古正人とバルサザー役の小林勝彦は既に他界していたため、この2人の追加録音部分はそれぞれ世古陽丸と小島敏彦が担当した。この追加録音版はWOWOWでは2014年2月2日、BS-TBSでは2015年6月13・14日の2夜連続で「完全版」と銘打って放送された。
2017年1月25日発売[25]の「吹替の力」シリーズ『ベン・ハー 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ』にはフジテレビ版と、従来ソフト収録されているテレビ東京版に追加録音したBSジャパン版が収録された。
キャスト
2017年1月25日発売の「吹替の力」シリーズ『ベン・ハー 日本語吹替音声追加収録版ブルーレイ』にはフジテレビ版とテレビ東京追加録音版の吹替を2種収録。
逸話
- タイトルでミケランジェロのフレスコ画『アダムの創造』が効果的に使用されている。旧約聖書の創世記に記された人間の始祖の起源を描いた絵。上空は神、下方は人類の始祖アダム。神がアダムに命を授けている場面である。映画はロングショットからズームインをしながらこの絵画をバックにクレジットを表示する。映画の趣旨との関連性については聖書の物語が基盤にあるという暗示、もしくは人間は神とのつながりや契約を以て存在するというユダヤ教~キリスト教の教義の表現である。[28]
- チャールトン・ヘストン主演の本作は1925年ラモン・ノヴァロ主演作に比べ宗教色を抑えて制作されている。ワイラー監督を含めた制作側スタッフの脚本選定と検討作業の中で、より広い観客層に受け入れられるようにする為、「家族愛」を物語の中心に据え宗教は背景とするに留めた。特にキリストの奇跡に関しては1925年作品ではキリストが直接母と妹に対面して病を治すのに対し、本作では落雷と大雨の中のキリストの映像と、母と妹の避難した洞穴の映像が繰り返し交互に編集されていて、奇跡かそうでないかは観客の主観に委ねる手法がとられている。脚本でキリストの通った道に這いつくばりキスするシーンもカット。ベン・ハーが散歩途中に何回か出会うシーンも始めからカットされている。[29]
- 砂漠の行進後、罪人たちがナザレ村で休憩するシーンがある。水を飲む罪人たちの中でベン・ハーだけが一人の百卒隊長からの虐待を受け絶命寸前となる。そこにキリストが百卒隊長の制止を聞かずベン・ハーに水を与えるが、百卒隊長は水を与えるキリストの行為をやめさせようと乱暴に近づく。しかしキリストが真っ向から百卒隊長を見つめ立ち上がり動じない姿を見て百卒隊長は凍り付いたように動かなくなる。キリストに目を合わせにくくなった百卒隊長は何度も躊躇し振り向いてキリストの顔を窺うが、結局何も言えない。★このシーンは大変有名である。この役者の選出では当初採用担当者の面接で不合格だった(彼がギャラを吊り上げてきたから)。しかしワイラー自身は彼を呼び戻して百卒隊長役に抜擢した。撮影後「彼を使ったのは正解だった」と述べたという。無名俳優でありながら、今も語り草になるほど彼の演技の評価は高い。彼の目の動きや表情を通じてキリストの顔を見た感覚になる観客は多かったという。[30]
- ベン・ハーの母親と妹が患う病について、日本語字幕の表記は現在「業病」、吹き替えでは「疫病」であるが、日本初公開当時から十数年近くにわたり、字幕に関しては「癩病」と表記されていた。英語で同義語Leper(癩病患者の意)は国際連合総会本会議では「差別用語」にあたるとして排除勧告されている病名である。日本でも近年らい予防法違憲国家賠償訴訟において国策の誤りとして国民への人権擁護意識を促す判決が確定し、原告患者へ国家賠償が成立している。感染力は非常に低く、触れただけでは病はうつらないという。映画ではエスターとベン・ハーがミリアムとティルザに愛情深く寄り添っている。石を投げた人々は当時の人々の業病についての認識がどの程度だったのかの示唆。詳しくは「ハンセン病」参照の事。
- 「Who are they?」=そいつらは誰だ?(そいつの名は?)と密告を迫られると、ベン・ハーは唖然とし口論となる。そしてメッサラは「ローマ皇帝こそ神だ」と崇め叫びながら空中を指さし「not that」=あれじゃ無い!と吐き捨てる。あれ=ユダヤ教の唯一絶対神ヤハウェ(ヤーウェ・エホバ)である。これは親友の信仰を蔑んでいる証で、後のストーリー展開の暗示である。[31]
- 約8分間の戦車競走の2~10秒ショットごとの場面編集で競技場に落ちる太陽光の影の角度が一定ではない。(ベン・ハーがイエスと初めて会うナザレ村のシーンも同様。)レースの撮影では競技場のコースを一周させず、片方の直線コースから一つ目のコーナーまでを使用している。[32]
- カエサル(シーザー。当時の古代ローマ皇帝の敬称・称号・代名詞として使われた。この映画の時代ではティベリウスを指している。)に対してのローマ式敬礼(後世、ナチス式敬礼として利用)が描かれたが史実に基づいた演出である。戦車競走が開始される直前にユダヤ総督ピラトが敬礼と共に「ヘイル、シーザー!(ハイル・シーザー)」と宣言するシーンも見られる。
- 本作の二輪戦車の疾走するレースシーンの演出は第二班監督のアンドリュー・マートンと同じく第二班監督で、ウェスタンの名作『駅馬車』のスタントで名を馳せた元スタントマンのヤキマ・カヌートが担当、ワイラーは総合監督の立場で、受賞の際のスピーチも「オスカーが増えてうれしい」という短いものだった。[33]
- ヤキマ・カヌートの息子ジョー・カヌートは、父親の演出と指導に従いスタントマンとして戦車競走シーンに出演している。いくつかのコーナーを曲がるシーンと戦車が障害物を越えてベン・ハーが放り出される危険シーンでは、命がけのスタントを見せた。しかしこれはジョーが護身のベルトをつけ忘れたことによるミス。編集ではジョーの戦車の跳ね上がり・落下と、ヘストンが片足をかけて戦車に這い上がるシーンをつなげ、本当にヘストンが放り出されたように見える映像効果を実現している。本番前、父親のカヌートはベルトを締めるように忠告したあと、不安ながら息子の演技を見守ったが、落下事故になり当然ながら肝を冷やした。なおジョーは轢かれず戦車の真下をくぐれたのであごの傷一つで済んだ。[34]
- ジョー・カヌートが戦車の御者としてヘストンの代役を務めているのが分かるシーンがある。ロングショットなので判別しにくいが、散乱した戦車の残骸を飛び越える寸前、カメラは彼の真横を映しているが、まとまりあるヘストンの髪型と違って、彼の後ろ髪は少し長めになびいているのが分かる。[35]
- ベン・ハーが駆った戦車の白馬四頭(アルタイル・アルデバラン・リゲル・アンタレス)は4組が調教された(全16頭)。戦車競走は本番だけでなく俳優やスタントマンの練習でも走らせなけらばならなかったため労わる必要があった。また16頭は場面ごとに出演目的を分け、(例えば、予想されるのはイルデリムの幕舎のジュダになつく馬、練習疾走用の馬、パレード行進の馬、戦車競走の全力疾走用の馬などというように)役割を分担させた。[36]
- 戦車競走の序盤、グリーンの戦闘衣装を着たコリント代表の御者がメッサラの卑劣な攻撃により戦車から落下する。その後態勢を戻そうとする瞬間、瞬く間に後続の戦車に正面から激突されて轢かれ、体幹ごと身体をへし折られて即死する残酷シーンがある。もちろんダミー人形を使っているが、編集技術により、実際の人身事故のように見える。一方制作過程の競走シーンの撮影では戦車がMGMCamera65に突っ込み大破させてしまう事故もあった。[37]
- 戦車競走が終了した後に歓喜した観衆がベン・ハーの戦車の元へとアリーナからコースに多人数なだれ込むが、あれは担当撮影監督の演出ではない。実はイタリア人エキストラの突発的行為である。敗れたメッサラの兜を拾い上げて高く掲げるエキストラの演技もアドリブである。[38]
- 本編中に3カ所コマ落ちが見られる。1.ナザレ村で大工のヨセフ(イエスの父)の言動に呆れた友人が立ち去るシーン。2.ガレー船の指揮官室で会話するアリウスとベン・ハーのシーン。3.アリウスとの養子縁組発表の宴の場で階段を下りる召使い(給仕)の歩行シーン。但し2のアリアスとのシーンはセリフを省略するため意図的に大きくコマをカットしているので「コマ落ち」と言うより「編集」が適しているとも言える。[39]
- 水を与えられたベンハーを見送るイエスの袖や肩にMGMCamera65の影が入っている。また戦車競走シーンで第一カメラで撮影中、おなじく別箇所で撮影中の第二カメラが入り込んでいる。その後修正を試みはじめ編集で6コマをカットして入り込んだカメラの像を省く作業をしたが、映像が飛び過ぎて見栄えが良くなかったのでそのままにした。[40]
- マケドニアの海賊との戦闘シーンで突撃を受けたベン・ハーのガレー船の奴隷たちが怪我をしながら次々脱出するが、本当に手首(足首)がないエキスなどトラが出演している。一方マケドニアのガレー船の攻撃用先端突起部が、ベン・ハーの船の船腹横を突き破るとき、漕ぎ手を巻き込んで破壊されるが、突撃による罪人の負傷者は全てダミーである。[41]
- イエスの裁判のときに、盆に入った水で手を洗う総督ピラトの向こう側にイエスが立つ。だが顔に影が落とされ顔がはっきり見えない。同じ方向を向く他の罪人の顔は見えている。[42]
- ベン・ハー役はポール・ニューマン、マーロン・ブランド、バート・ランカスター、カーク・ダグラス、ロック・ハドソンなど多人数にオファーされたが、諸事情から全ての候補者に断られた。ニューマンは「スクリーンに堪えうる下半身じゃない」という理由で出演を断っている。そこで、ヘストンに役が回ってきた。ヘストンは「ベン・ハー」の撮影の一年前にワイラーの監督する「大いなる西部」の撮影で「ローマの休日」の名優グレゴリー・ペックと共演中だった。街から来た洗練された男ジェームズと、根っからのカーボーイの牧童頭スティーブが殴り合うシーンが有名。牧童頭がヘストンだった。自分の映画に初出演したヘストンを知っていたワイラーは、彼の演技力を評価していた。そのため最後はワイラーの推薦により主役は彼に決定した。[43]
- ローマ艦隊総司令官アリウス役のジャック・ホーキンスは、撮影途中、喉頭癌により声帯の部位を切除手術していたので声が出せなかった。その代わりに、俳優のチャールズ・グレイの吹き換えで録音編集された。[44]
- ハイヤ・ハラリートは徴兵制によるイスラエル軍兵士出身で射撃の経験がある。本作品の出演後インターン(1963年)やアトランタイド(1965年)などの作品に出演。その後イギリス人監督ジャック・クレイトン(「華麗なるギャツビー」監督)と結婚。俳優業は引退した。2020年時点も健在で御年89歳。俳優を早期引退した理由は諸説あるが、ベン・ハー特別版DVDにあるヘストン氏の音声解説によると、ワイラー監督との仕事で完璧な演技を求められることの精神的プレッシャーもあったのだろうと述べている。他に各種メディアの取材でインタビューなど質問を受けた記録からは、もともと脚本家であり実際その能力を活かす場があった事、史劇以外の現代ドラマに出演したいとの希望がハリウッドでは叶わなかった事も引退の要因として考えられるとされている。[45]
- 母親役のマーサ・スコットはチャールトン・ヘストンと1957年制作の「十戒」で共演したがその時も母親役だった。オファーがあった時には年齢が10歳しか違わないヘストンの母親役を2度も担う事への抵抗感が実は少なからずあったという。自分自身の容姿が適していたからなのか、セシル・B・デミル作品の出演で拍が付いた恩恵なのか戸惑いもあった。結局ワイラー監督を信頼し役を引き受け、演技に務めた。実際、映画序盤の演技だけでなく、業病に罹る母親ミリアムの苦悩する姿や、キャシー・オドネル(実は当時ヘストンと同じ35歳。若く見える。)演じる娘ティルザを労わる演技、息子ジュダとの真に迫る真心の温かな母親役は、家族愛を前面に押し出す映画の主目的を達成した要として高く評価されている。[46]
- ウイリアム・ワイラーには兄ロバート・ワイラー(47歳)がおり、その兄はティルザ役のキャシー・オドネル(24歳)と1948年に結婚して夫婦になった。ワイラーにとって年齢の逆転した義理の姉がキャシー・オドネルという事になる。キャシー・オドネル(35歳)はこの作品出演(1959年)以後は映画出演をしておらず、子どもはいなかったが11年間は家庭に落ち着いて夫婦円満に過ごしている。1970年に癌による脳内出血で帰らぬ人となった。[47]
- バルサザール役のフィンレイ・カリーは年長者のベテラン俳優だったため、ワイラー監督の完璧を目指す演出・指導があっても自分の演技を変える事がなかった。そのたびにワイラーは注文を付けたが、全く変わらなかった。ベテランのプライドがあったのだとか、あるいは、カリーにこだわりや悪気はなく御年80代で演技に限界があったのだろうという制作秘話もある[48]
- 当時ほぼ無名だったアイルランド出身でメッサラ役のスティーブン・ボイドは、本作出演後に1962年ミュージカル「ジャンボ」にも出演し、美声とダンスを披露している。悪役メッサラとのギャップが感じられる点で特異な作品であり、彼の多彩な才能が垣間見られる。その他「オスカー」「ローマ帝国の滅亡」「天地創造(ニムロデ役)」「ミクロの決死圏」等に出演した。YouTubeには「ベン・ハー」で著名になった頃のTV特集番組として彼の歌声やMCの女性歌手とのデュエット、彼女も含めての男性ダンサーたちとのステップが巧みな集団ダンスの披露、コントが収録された映像も鑑賞できる。[49]
- アラブ系イギリス人俳優のヒュー・グリフィスは本作品後に「栄光への脱出」、「おしゃれ泥棒」など他ジャンルの映画にも精力的に出演、名優オードリー・ヘプバーンとも共演している。
- 総督ピラト役のフランク・スリングはチャールトン・ヘストンとの史劇共演が2回ある。「ベン・ハー」「エル・シド」。その他歴史劇では「ヴァイキング」と「キング・オブ・キングス」がある。[50]
- 撮影に使われたのは『愛情の花咲く樹』と同じ70mm映画用カメラ「MGMCamera65」。これに左右幅を4/5に圧縮するパナビジョン社製アナモフィックレンズを取り付けアスペクト比 1:2.76を得ている。同方式は数年後パナビジョン社があらためて「ウルトラ・パナビジョン70」として採用した。なお撮影の多くはイタリアのローマにある大規模映画スタジオである「チネチッタ」で行われた。
- テレビ放映を前提に画面両端がスタンダードサイズにトリミングされていた80年代以前は問題にならなかったが、90年代に入りソフト化(主としてレーザーディスク)がノートリミングで行われるようになると、幅のある65mmカラーフィルムオリジナルネガの経年劣化が第一にある上、ニュープリント現像の技術的問題で画面端が褐色に変色する状態が顕在化。その後フィルムの損傷や劣化は公開50年を記念した2009年のブルーレイ化の際にデジタル修復(4K解像度)によって改善されている。[51]
脚本のクレジット問題
脚本のクレジットは映画ではカール・タンバーグ1人になっているが、実は彼とクリストファー・フライ、ゴア・ヴィダル、マクスウェル・アンダーソン、S・N・バーマンの5人で執筆したものである。ヴィダルはMGMが契約を2年残して彼を自由にするという条件で、フライと共に脚本を再執筆することに合意したのだが、プロデューサーのサム・ジンバリストが死去したことで、クレジットの問題が複雑化してしまう。そこで全米脚本家組合は『ベン・ハー』の脚本のクレジットをタンバーグのみとし、ヴィダルとフライの両名をクレジットしないことで問題を解決した。これについて、『ベン・ハー』の主演俳優チャールトン・ヘストンは、ヴィダルが執筆したと主張する(注意深く慎重に隠された)同性愛の場面に満足せず、ヴィダルが脚本に大きく関与したことを否定した[52]。しかし、『映画秘宝』が2011年にヴィダルに行ったインタビューによれば、ヴィダルは脚本を盗まれてコピーされ、ノンクレジットにされたため、裁判沙汰に持ち込んだと主張している[53]。
著作権について
著作権保護についてはこれまでだと著作権所有者の死後70年が明記されている。しかし訪れた1978年に著作権延長法が施行されたタイミングだと通常は1959年に世に出た多くの作品が2016年1月1日の時点でパブリックドメインとなり、自由に利用できるようになる予定であった。しかし、1978年に著作権延長法ができたときには、著作権の保護期間が延長されてしまった。その為に、1959年制作のこの作品は最長で2055年まで著作権で保護されることになっている。[54]
脚注
- ^ a b “Ben-Hur (1959)” (英語). Box Office Mojo. 2011年6月2日閲覧。
- ^ キネマ旬報.1965年8月下旬号
- ^ Blu-ray 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディション。未公開モノクロ映像。
- ^ 「ベン・ハー 前後編」LD MGM/UA HOME VIDEO 1997年メイキング映像インタビュー>
- ^ 「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO オリジナル劇場予告編 長編版 写真、ソフトカバーカバーパンフレット1959年 2項下段記述
- ^ 「映画を知るための教科書 1912~1979」132~133P参照 斉藤守彦 著 洋泉社 2016年3月発行
- ^ ヘラルドポニー版レーザーディスク(1989年発売)の解説文より。この解説文を書いた日野康一は当時MGM東京支社の宣伝担当だった。
- ^ Wikipedia「毛沢東」 ・1974年4月ゴールデン洋画劇場TV初放映前後編の新聞番組紹介記事1000字。
- ^ 1978年鑑賞1:2.76ウルトラパナビジョンリバイバル公開「国映館で完全版前奏・休憩間奏」
- ^ ハードカバーパンフレット 1959年 A4 英語版1998年 米国知人の無償譲BEN-HUR A RANDOM HOUSE BOOK From MGM 34項 付録絵画6枚
- ^ 「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング映像約1時間。製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー。
- ^ 「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング映像約1時間。製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー。
- ^ ユダヤ人・イスラエル・ヘブライ・パレスチナ・イエス・キリスト・十字架・聖書・ローマ帝国・ラテン・磔刑
- ^ 「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル2001年チャールトン・ヘストン音声解説。
- ^ 映画レビューサイト【Filmarks】と【CinemaScape】の「ベン・ハー」レビューと新約・旧約聖書
- ^ 映画雑誌【スクリーン】と【ロードショー】1974年3月号~1979年1月号のリバイバル公開の紹介記事、雑誌評論家の分析記事。映画レビューサイト【Filmarks】と【CinemaScape】。ローマ・イスラエル旅行記、1973年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。グランドオリオン。1974年視聴の4月にゴールデン洋画劇場TV初放映高島忠夫の解説で前後編の新聞番組欄記事。1977年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。桜坂オリオン。1978年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。国映館。イベントの説教を拝聴したときのベン・ハー談義。日本聖書刊行会 聖書(旧約・新約)新改訳中堅聖書 1970年初版2006年7刷 「いのちのことば社」発売新約聖書ルカ福音書105項~171項、ヨハネ福音書172項~226項
- ^ 映画雑誌【スクリーン】と【ロードショー】1974年3月号~1979年1月号のリバイバル公開の紹介記事、雑誌評論家の分析記事。映画レビューサイト【Filmarks】と【CinemaScape】。ローマ・イスラエル旅行記、1973年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。グランドオリオン。1974年視聴の4月にゴールデン洋画劇場TV初放映高島忠夫の解説で前後編の新聞番組欄記事。1977年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。桜坂オリオン。1978年鑑賞リバイバル公開の映画館広告記事。国映館。イベントの説教を拝聴したときのベン・ハー談義。日本聖書刊行会 聖書(旧約・新約)新改訳中堅聖書 1970年初版2006年7刷 「いのちのことば社」発売新約聖書ルカ福音書105項~171項、ヨハネ福音書172項~226項
- ^ ソフトカバーパンフレット 1959年 A4 日本版ベン・ハー 松竹株式会社事業開発部 提供MGM映画株式会社 32項。YouTube:『ベン・ハー』日本版劇場予告編 じんじんけしけし ベン・ハーBEN-HUR 日本公開1960/04/01
- ^ ハードカバーパンフレット1959年 A4 英語版 BEN-HUR A RANDOM HOUSE BOOK From MGM 34項第33項に記述。1996年ぴあシネマクラブ洋画編作品ガイド辞典全1204項中の823項目に記述あり。「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO ドルビーデジタル 2枚組 2001年チャールトン・ヘストンのみの音声解説。メイキング映像。「ベン・ハー」吹き替えの力。3枚組 2017年 Blu-ray VIDEOジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説よりの内容。
- ^ 「CinemaScape」「Yahoo映画」のレビューおよび販売元にネット利用の質疑
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説
- ^ 二人の音楽作品レコード・CDの説明書きに特徴が記載。記事でローザとの関連にも触れていた
- ^ スクリーン誌1976年、スターウォーズサウンドトラックレコードの二つ折りシート記事、ランボーサウンドトラックCD6項パンフレット。「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング。
- ^ 『刑事コロンボ 完全捜査ブック』228P 宝島社
- ^ 当初は2016年12月21日に発売を予定していたが、制作の都合により、発売日を延期する事になった。
- ^ “吹替の力 ベン・ハー”. 2016年10月21日閲覧。
- ^ 追録版は現名義の「ブロードメディア・スタジオ」でクレジットされている。
- ^ ミケランジェロ、旧約聖書【創世記】、タイトルロール背景がの映像確認。
- ^ 特別版 DVD メイキング映像。
- ^ 製作50周年記念Blu-ray ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストン音声解説。
- ^ 日本聖書刊行会 聖書(旧約・新約)新改訳中堅聖書 1070年初版2006年7刷 「いのちのことば社」
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-ray ビハインドストーリー
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO アカデミー賞授賞式他Youtube監督賞発表シーン映像)
- ^ 特別版 DVD メイキング。
- ^ 特別版 DVD メイキング。
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー
- ^ 特別版 DVDチャールトン・ヘストン音声解説。メイキング。
- ^ メイキング。ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ 特別版 DVD メイキング。製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ ビハインドストーリー(未公開映像)製作50周年記念Blu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ 「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO チャールトン・ヘストン音声解説。
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-ray ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー
- ^ 製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-ray ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。ビハインドストーリー
- ^ 「ベン・ハー」製作50周年記念 アルティメットコレクターズエディションBlu-rayVIDEO ジーン・八チャーとチャールトン・ヘストンによる音声解説。
- ^ [YoutubeにこのTVバラエティの映像がある。Stepen Boyd Danceで検索]
- ^ 映画雑誌1974年から1978年のスクリーン・ロードショー記事。ビハインドストーリー
- ^ 「ベン・ハー」特別版 DVD VIDEO 2枚組 2001年 チャールトン・ヘストン音声解説。メイキング。
- ^ “GORE VIDAL IN HIS OWN WORDS "OUR GREATEST LIVING MAN OF LETTERS."”. Beliefnet. 2001年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月12日閲覧。
- ^ “『映画秘宝』ゴア・ヴィダルインタビュー”. Homage to Gore Vidal ゴア・ヴィダルを讃えて. 2016年1月12日閲覧。
- ^ ということは「ベン・ハー」の映像を勝手に編集しなおして公衆に見せたり、写真にして売買に使用したり、ネットの時代にあっては勝手にブログに写真を張り付けたり動画編集で映写公開(youtube含む)したりすると違反となる。2055年という事は2020年時点からあと35年間は著作権の制限がかかり続けるということになる。
関連項目
- ベン・ハー (1925年の映画)
- ベン・ハー (2016年の映画)
- キリストを描いた映画
- スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナスのポッドレースシーンは本作品のオマージュと言われている。競技場の形状やフラッグの先導、レース展開とアクション、ゴール後のウィニングランなど。
- 内藤國雄 - 将棋棋士。この映画をモチーフとした111手詰めの詰将棋を作成している。構想は2週間ですんだものの完成までに40年を要しており、その手順の過程において玉が勇壮に駆け回る戦車のごとく盤上を走りまわす様子が描かれている。
- セルロイド・クローゼット
- We Didn't Start The Fire - 歌詞中にこの映画のタイトルが使われている。