「三島由紀夫」の版間の差分
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| subject = [[古典主義|古典美]]、日本の美、[[愛国心]] |
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| movement = [[第二次戦後派作家|戦後派]]、[[耽美主義|耽美派]] |
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| notable_works = 『[[仮面の告白]]』(1949年)<br />『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(1953年)<br />『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』(1956年)<br />『[[鏡子の家]]』(1959年)<br />『[[サド侯爵夫人]]』(1965年、戯曲)<br />『[[豊饒の海]]』(1965年-1970年) |
| notable_works = 『[[仮面の告白]]』(1949年)<br />『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(1953年)<br />『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』(1956年)<br />『[[鏡子の家]]』(1959年)<br />『[[サド侯爵夫人]]』(1965年、戯曲)<br />『[[豊饒の海]]』(1965年-1970年) |
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| awards = [[新潮社文学賞]](1954年)<br />[[岸田演劇賞]](1955年)<br />[[読売文学賞]](1957年・1962年)<br />[[週刊読売新劇賞]](1958年)<br />[[フォルメントール国際文学賞]]第2位 |
| awards = [[新潮社文学賞]](1954年)<br />[[岸田演劇賞]](1955年)<br />[[読売文学賞]](1957年・1962年)<br />[[週刊読売新劇賞]](1958年)<br />[[フォルメントール国際文学賞]]第2位(1964年・1967年)<br />[[毎日芸術賞]](1964年)<br />[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭賞]](1965年)<br />ツール国際短編[[映画祭]]劇映画部門第2位(1966年) |
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| debut_works = 短編小説:『酸模』、『座禅物語』(1938年)<br />長編小説:『花ざかりの森』(1941年) |
| debut_works = 短編小説:『酸模―秋彦の幼き思ひ出』、『座禅物語』(1938年)<br />長編小説:『花ざかりの森』(1941年) |
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| children = [[平岡紀子]]、[[平岡威一郎]] |
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| relations = [[松平乗尹]](五世祖父)<br />[[永井尚志]]、[[松平頼位]](高祖父)<br />[[平岡太吉]]、[[永井岩之丞]]([[曾祖父]])<br />[[平岡定太郎]](祖父)<br />[[平岡萬次郎]](大伯父)<br />[[平岡梓]](父)<br />[[平岡萬寿彦]](父の従兄)<br />[[平岡千之]](弟) |
| relations = [[松平乗尹]](五世祖父)<br />[[永井尚志]]、[[松平頼位]]、[[橋一巴]](高祖父)<br />[[平岡太吉]]、[[永井岩之丞]]、[[橋健堂]]([[曾祖父]])<br />[[平岡定太郎]]、[[橋健三]](祖父)<br />[[平岡萬次郎]](大伯父)<br />[[平岡梓]](父)<br />[[平岡萬寿彦]](父の従兄)<br />[[橋健行]](伯父)<br />[[平岡千之]](弟) |
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| influences = [[葉隠]]<br />[[森鴎外]]<br />[[谷崎潤一郎]]<br />[[川端康成]]<br />[[江藤小三郎]]<br />[[プロスペル・メリメ]]<br />[[フリードリヒ・ニーチェ]]<br />[[トーマス・マン]]<br />[[ジョルジュ・バタイユ]]<br />[[レイモン・ラディゲ]]など |
| influences = [[葉隠]]<br />[[歌舞伎]]<br />[[能楽]]<br />[[森鴎外]]<br />[[谷崎潤一郎]]<br />[[川端康成]]<br />[[江藤小三郎]]<br />[[プロスペル・メリメ]]<br />[[フリードリヒ・ニーチェ]]<br />[[トーマス・マン]]<br />[[ジョルジュ・バタイユ]]<br />[[レイモン・ラディゲ]]<br />[[二・二六事件]]<br />[[神風連の乱|神風連]]など |
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| influenced = [[小池真理子]]<br />[[島田雅彦]]<br />[[宝野アリカ]]<br />[[平野啓一郎]] |
| influenced = [[小池真理子]]<br />[[島田雅彦]]<br />[[宝野アリカ]]<br />[[平野啓一郎]]<br />[[浅田次郎]] |
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'''三島 由紀夫'''(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、[[1925年]]([[大正]]14年)[[1月14日]] - [[1970年]]([[昭和]]45年)[[11月25日]])は、[[日本]]の[[小説家]]・[[劇作家]]。 |
'''三島 由紀夫'''(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、[[1925年]]([[大正]]14年)[[1月14日]] - [[1970年]]([[昭和]]45年)[[11月25日]])は、[[日本]]の[[小説家]]・[[劇作家]]。[[第二次世界大戦]]後の[[日本文学]]界を代表する[[作家]]の一人である。代表作は[[小説]]に『[[仮面の告白]]』、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『[[鏡子の家]]』、『[[豊饒の海]]』四部作など。[[戯曲]]に『[[サド侯爵夫人]]』、『[[近代能楽集]]』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。 |
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晩年は[[自衛隊]]に[[体験入学]]したほか、[[民兵]][[組織]]「[[楯の会]]」を結成。[[右翼]]的な政治活動を行い、その後の[[新右翼]]・[[民族派]]運動に大きな影響を及ぼした。1970年11月25日、前年の[[国士|憂国烈士]]・[[江藤小三郎]]の[[自決]]に触発され、 楯の会隊員4名と共に、[[自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]](現:[[防衛省]]本省)を訪れて[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面]]総監を[[監禁]]。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前の[[バルコニー]]で演説し[[クーデター]]を促し、その約5分後に[[切腹|割腹]][[自殺]]を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは[[三島事件]]を参照)。 |
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== 略歴 == |
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[[戦後]]の[[日本文学]]を代表する[[作家]]の一人である。晩年は、[[自衛隊]]に[[体験入学]]し、[[民兵]][[組織]]「[[楯の会]]」を結成。[[右翼]]的な政治活動を行い、[[新右翼]]・[[民族派]]運動に大きなな影響を及ぼした。 |
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[[ペンネーム|筆名]]の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、[[静岡県]][[三島市|三島]]の地名に由来するなどの説がある<ref>佐伯彰一「評伝三島由紀夫」によると、学習院の学生であった平岡公威の本名での作品発表を憂慮した『[[文芸文化]]』同人たちが修善寺での合宿時に「三島-富士の白雪」の連想から考案、恩師[[清水文雄]]が本人に提案し、受け入れられたものと言う。</ref>。 |
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代表作は[[小説]]に『[[仮面の告白]]』、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『[[鏡子の家]]』、『[[豊饒の海]]』四部作など。[[戯曲]]に『[[サド侯爵夫人]]』、『[[近代能楽集]]』などがある。[[批評家]]が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。 |
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1970年11月25日、前年の[[国士|憂国烈士]]・[[江藤小三郎]]の[[自決]]に触発され、 楯の会隊長として隊員4名共に、[[自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]](現:[[防衛省]]本省)に[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面]]総監を訪れ、その[[部屋]]で懇談中に突然[[日本刀]]を持って総監を[[監禁]]。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前の[[バルコニー]]で[[演説]]し[[クーデター]]を促し、約一時間後に[[切腹|割腹]][[自殺]]を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは[[三島事件]]を参照)。 |
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[[ペンネーム|筆名]]の「三島」は、日本伝統の三つの[[島]]の[[象徴]]、[[静岡県]][[三島市|三島]]の地名に由来するなどの説がある。<ref>佐伯彰一「評伝三島由紀夫」によると、学習院の学生であった平岡公威の本名での作品発表を憂慮した『[[文芸文化]]』同人たちが修善寺での合宿時に「三島-富士の白雪」の連想から考案、恩師[[清水文雄]]が本人に提案し、受け入れられたものと言う。</ref> |
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三島の[[著作権]]は[[酒井著作権事務所]]が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上<ref>[http://sankei.jp.msn.com/culture/books/101123/bks1011231033001-n2.htm 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)]([http://megalodon.jp/2010-1220-0133-58/sankei.jp.msn.com/culture/books/101123/bks1011231033001-n2.htm ウェブ魚拓])</ref>。 |
三島の[[著作権]]は[[酒井著作権事務所]]が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上<ref>[http://sankei.jp.msn.com/culture/books/101123/bks1011231033001-n2.htm 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)]([http://megalodon.jp/2010-1220-0133-58/sankei.jp.msn.com/culture/books/101123/bks1011231033001-n2.htm ウェブ魚拓])</ref>。 |
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''[[#家族 親族|家族 親族]]も参照のこと。'' |
''[[#家族 親族|家族 親族]]も参照のこと。'' |
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[[File:Hiraoka Teitarou.jpg|thumb|200px|right|<center>祖父・[[平岡定太郎]]<br />([[樺太庁]]長官時代)</center>]] |
[[File:Hiraoka Teitarou.jpg|thumb|200px|right|<center>祖父・[[平岡定太郎]]<br />([[樺太庁]]長官時代)</center>]] |
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[[1925年]](大正14年)[[1月14日]]、[[東京市]]四谷区永住町(現・[[東京都]][[新宿区]]四谷)に父・[[平岡梓]]と母・[[平岡倭文重|倭文重]](しずえ)の間に[[長男]]として生まれた。「公威」の名は祖父[[平岡定太郎|定太郎]]による命名で、定太郎の同郷の土木工学者[[古市公威]]から取られた。兄弟は、妹・美津子([[1928年]] - [[1945年]])、弟・[[平岡千之|千之]]([[1930年]] - [[1996年]])。 |
[[1925年]](大正14年)[[1月14日]]、[[東京市]][[四谷区]]永住町2番地(現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]4丁目22番)に父・[[平岡梓]]と母・[[平岡倭文重|倭文重]](しずえ)の間に[[長男]]として生まれた。「公威」の名は祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]による命名で、定太郎の同郷の土木工学者・[[古市公威]]から取られた。兄弟は、妹・[[平岡美津子|美津子]]([[1928年]] - [[1945年]])、弟・[[平岡千之|千之]]([[1930年]] - [[1996年]])。 |
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父・梓は、一高から[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を経て[[高等文官試験]]に |
父・[[平岡梓|梓]]は、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]から[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を経て、[[高等文官試験]]に1番で合格したが、面接官に嫌われて[[大蔵省]]入りを拒絶され、[[農商務省 (日本)|農商務省]](公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない[[農林水産省|農林省]]に異動)に勤務していた。後に[[内閣総理大臣]]となる[[岸信介]]、日本民法学の泰斗と称された[[我妻栄]]とは一高以来の同窓であった。[[1924年]](大正13年)、[[平岡倭文重|橋倭文重]]と結婚する。 |
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母・[[平岡倭文重|倭文重]]は[[加賀藩 |
母・[[平岡倭文重|倭文重]]は、[[加賀藩]][[藩主]]・[[前田氏|前田家]]に仕えていた[[儒学者]]・橋家の出身。東京[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]の5代目校長で、[[漢学者]]・[[橋健三]]の次女。 |
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祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]は、兵庫県[[印南郡]]志方村(現・ |
祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]は、兵庫県[[印南郡]][[志方村]](現・兵庫県[[加古川市]]志方町)の[[農家]]の生まれ。[[東京大学 (1877-1886)|帝国大学]]法科大学(現・[[東京大学]][[法学部]])を卒業し、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省、内務官僚となる。[[1893年]](明治26年)、[[武士|武家]]の娘である[[平岡なつ|永井なつ]]と結婚。[[福島県]]知事、[[樺太庁]]長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪の判決)。 |
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祖母・夏子は、父・[[永井岩之丞]]([[大審院]]判事)と母・高([[常陸国|常陸]][[水戸藩#宍戸藩|宍戸藩]]藩主[[松平頼位]]が[[側室]]との間にもうけた娘)の間に生まれ、12歳から17歳で結婚するまで[[有栖川宮熾仁親王]]に行儀見習いとして仕えてい |
祖母・[[平岡なつ|夏子]](戸籍名:なつ)は、父・[[永井岩之丞]]([[大審院]]判事)と、母・高([[常陸国|常陸]][[水戸藩#宍戸藩|宍戸藩]]藩主・[[松平頼位]]が[[側室]]との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで[[有栖川宮熾仁親王]]に行儀見習いとして仕えていた。 |
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作家[[永井荷風]]の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。 |
作家・[[永井荷風]]の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。夏子の9代前の祖先[[永井尚政]]の異母兄[[永井正直]]が荷風の12代前の祖先にあたる<ref>安藤武『三島由紀夫 全文献目録』(夏目書房、2000年)p.442</ref>。父・[[平岡梓|梓]]の風貌は荷風と酷似していて、[[平岡公威|公威]]は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。 |
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=== 幼少年期 === |
=== 幼少年期 === |
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[[画像:Yukio Mishima 1931.gif|thumb|200px|三島由紀夫 6歳 ([[1931年]]4月)]] |
[[画像:Yukio Mishima 1931.gif|thumb|200px|三島由紀夫 6歳 ([[1931年]]4月)]] |
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公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。 |
公威と祖母・[[平岡なつ|夏子]]とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母・[[平岡倭文重|倭文重]]が[[授乳]]する際も、夏子が時間を計ったという。[[坐骨神経痛]]の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。車や鉄砲などの音の出る玩具は[[御法度]]で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は[[自家中毒]]に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、[[貴族]]趣味を含む過保護な教育を行った。また、夏子は、[[歌舞伎]]や[[能]]、[[泉鏡花]]などの[[小説]]を好み、後年の公威の[[小説家]]および[[劇作家]]としての作家的素養を培った。 |
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[[1931年]](昭和6年 |
[[1931年]](昭和6年)4月、公威は[[学習院]]初等科に入学した。当時の学習院は[[華族]]中心の学校で、平岡家は[[平岡定太郎|定太郎]]が[[樺太庁]]長官だった時期に[[男爵]]の位を受ける話があったにせよ、[[平民]]階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母・夏子の意向が強く働いていたと言われる。学習院入学当時のことを、級友だった[[三谷信]]は、「初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 『平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!』と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている」<ref name="mitani">[[三谷信]]『級友 三島由紀夫』([[中央公論新社|中公文庫]]、1999年)</ref>と語っている。 |
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公威は初等科1、2年から[[詩]]や[[俳句]]などを初等科機関紙「小ざくら」に発表し始める。読書に親しみ、[[小川未明]]、[[鈴木三重吉]]、[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベルヒ]]の[[童話]]、[[インド|印度]]童話集、及び[[講談社]]「[[少年倶楽部]]」([[山中峯太郎]]、[[南洋一郎]]、[[高垣眸]]ら)などを愛読する。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は[[肺門]][[リンパ節|リンパ線]]炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られる。当時の[[綽名]]は虚弱体質で青白い顔をしていたことから、「アオジロ」だった。しかし初等科6年の時、校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の[[精巣|睾丸]]もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にサッと[[ズボン]]の前[[ボタン (服飾)|ボタン]]を開けて[[男性器|一物]]を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の偉容で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという<ref name="mitani"/>。1936年(昭和11年)6月、作文『わが国旗』を書く。 |
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[[1937年]](昭和12年)4月、中等科に進む。両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、[[渋谷区]][[大山町 (渋谷区)|大山町]]15番地(現・渋谷区[[松涛]]2丁目4番8号)の両親のもとより通う。文芸部に入る。同年7月、学習院校内誌「[[輔仁会雑誌]]」に[[随筆]]『春草抄―初等科時代の思ひ出』を発表。国語教師の[[岩田九郎]]に作文の才能を認められ成績も上がる。以後、輔仁会雑誌には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や[[散文]]作品、戯曲を発表することとなる。同年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・[[坊城俊民]]と出会い、文学交遊を結ぶ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った。『文芸部の坊城だ』 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。『きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた』 私は学習院で使われている二人称“[[貴様]]”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 『これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである』 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、[[敬礼|挙手の礼]]をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った」<ref name="boujou">[[坊城俊民]]『焔の幻影 回想三島由紀夫』([[角川書店]]、1971年)</ref>と語っている。 |
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[[1937年]](昭和12年)中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の[[坊城俊民]]と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や[[散文]]作品を発表する。 |
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[[1938年]](昭和13年 |
[[1938年]](昭和13年)3月、輔仁会雑誌に短篇小説『([[スカンポ|酸模]](すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出』と『[[座禅]]物語』が掲載された。これが三島の活字となった初めての小説らしい小説といわれている。同年10月、祖母・夏子に連れられて、初めて[[歌舞伎]](『[[仮名手本忠臣蔵]]』)を観る。また、同月、母方の祖母・橋トミに連れられて、初めて[[能]](『[[三輪]]』)を観る。以後、歌舞伎、能の観劇に夢中になる。 |
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[[1939年]](昭和14年 |
[[1939年]](昭和14年)1月18日、祖母・夏子が他界。享年62。同年4月、[[清水文雄]]が学習院に国語教師として赴任し、国文法、作文の担当教師に加わる。清水は三島の生涯の師となり[[平安時代|平安朝]]文学への目を開かせた。同年9月、[[ドイツ]]対[[フランス]]・[[イギリス]]の戦争が始まった([[第二次世界大戦]]の始まり)。 |
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[[1940年]](昭和15年)、アオジロをもじって自ら平岡青城の[[俳号]]を名乗り、 |
[[1940年]](昭和15年)1月に、退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書く。同月、母・[[平岡倭文重|倭文重]]に連れられ、詩人・[[川路柳虹]]を訪問する。倭文重の父・[[橋健三]]と川路柳虹は友人だった。何度が川路宅を訪れ師事を受ける。同年2月に俳句雑誌「山梔(くちなし)」に俳句や詩歌を発表。以後、渾名のアオジロをもじって自ら平岡青城の[[俳号]]を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を「山梔(くちなし)」に投稿する。同年11月に短編『彩絵硝子』を輔仁会雑誌に発表。これを読んだ[[東文彦]]から始めて手紙をもらい、文通が始まる。[[徳川義恭]]とも交友を持ち始める。一方、[[坊城俊民]]との交友は徐々に疎遠になっていく。この頃の心情は、後に短篇『[[詩を書く少年]]』に描かれ、この頃の詩歌はのち、『三島由紀夫選集1 [[花ざかりの森]]』([[新潮社]]、1957年)に「十五歳詩集」として掲載された。この頃、[[レイモン・ラディゲ]]、[[オスカー・ワイルド]]、[[ジャン・コクトー]]、[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]、[[トーマス・マン]]のほか、[[ラフカディオ・ハーン]]([[小泉八雲]])、[[北原白秋]]、[[草野心平]]、[[丸山薫]]、[[芥川龍之介]]、[[谷崎潤一郎]]、[[伊東静雄]]、[[森鴎外]]、そして『[[万葉集]]』、『[[古事記]]』、『枕草子』などを愛読した。 |
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=== 戦時下の思春期 === |
=== 戦時下の思春期 === |
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[[1941年]](昭和16年 |
[[1941年]](昭和16年)4月、公威は[[輔仁会雑誌]]の編集長に選任される。同年7月に小説『[[花ざかりの森]]』を書き上げ、[[清水文雄]]に提出する。感銘を受けた清水は、自らも同人の[[日本浪曼派]]系の[[国文学]]雑誌「[[文芸文化|文藝文化]]」に掲載を決定する。同人は[[蓮田善明]]、[[池田勉]]、[[栗山理一]]など、[[斎藤清衛]]門下生で構成されていた。このとき筆名・'''三島由紀夫'''を初めて用いる。『花ざかりの森』は「文藝文化」[[1941年|昭和16年]]9月号から12月号に掲載された。編集後記で[[蓮田善明]]は公威について、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した<ref>全文は、「『[[花ざかりの森]]』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」([[蓮田善明]]『[[文芸文化|文藝文化]] [[1941年|昭和16年]]9月号 編集後記』)</ref>。 |
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この頃から公威は、随筆『[[神道|惟神之道]](かんながらのみち)』などを書き、天皇制に関して深い傾倒を見せることとなり、美的天皇主義([[尊王論|尊皇思想]])を、[[蓮田善明]]から託された形となった(蓮田は終戦直後の1945年(昭和20年)8月19日に南方にて自決)。なお、蓮田は1943年(昭和18年)11月、戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島に遺した。[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]([[ハワイ]]時間:[[12月7日]])に、日本は[[イギリス]]や[[アメリカ]]、[[オランダ]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と開戦となった。公威は同年11月から書き始めていた評論『[[王朝]]心理文学小史』を、翌年の[[1942年]](昭和17年)1月に、学習院図書館懸賞論文として提出する(この論文は、1943年(昭和18年)1月に入選し、希望賞品の豪華本『[[文楽]]』([[光吉夏弥]]編、[[筑摩書房]]刊)を貰う)。 |
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[[1942年]](昭和17年)に、席次2番で中等科卒業。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を受験するが不合格。[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類(独語)に進学。[[ドイツ語|独語]]を[[ロベルト・シンチンゲル]]に師事、ほかに独語教師は[[新関良三]]、野村行一(昭和32年に[[東宮大夫]]在職中に死去)らがいた。[[体操]]と[[物理学|物理]]を除けば極めて優秀な学生であった([[学校教練|教練]]の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を[[東文彦]]、[[徳川義恭]]と創刊する<ref>東との友情は『三島由紀夫十代書簡集』([[新潮社]])に詳しい。</ref> |
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<ref>『東文彦作品集』([[講談社]]、[[1971年]])の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を「文学に集中できたむしろ[[アリストテレス]]的静的な時代」であったと自ら回顧している。</ref>。 |
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[[1942年]](昭和17年)3月24日、席次2番で中等科を卒業。[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類(独語)に進む。[[ドイツ語|独語]]を[[ロベルト・シンチンゲル]]に師事、ほかに独語教師は[[新関良三]]、野村行一(1957年に[[東宮大夫]]在職中に死去)らがいた。なお、[[ドナルド・キーン]]が後年、ドイツで講演をした際、会場でおじいさんが立ち上がって、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったという<ref>対談『[[平野啓一郎]]が聞く[[ドナルド・キーン]]の世界』([[読売新聞]] 2007年7月31日、8月1日に掲載)</ref>。公威は、[[体操]]と[[物理学|物理]]を除けば極めて優秀な学生であった([[学校教練|教練]]の成績は[[甲]]で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。 |
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[[1943年]](昭和18年)、詩人で医師の[[林富士馬]]を知り、以降親しく交際する。同年に東文彦が死去し、三島は弔辞<ref>東への弔辞は『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)巻末に収む。</ref>を奉げた。『赤絵』は2号で廃刊となった。 |
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1942年(昭和17年)4月、詩『大詔』を[[文芸文化|文藝文化]]に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出される。同年7月1日、公威は同人誌「赤絵」を[[東文彦]]、[[徳川義恭]]と共に創刊する。彼らとの友情を深め、特に病身の東とはさらに文通を重ねた<ref name="azuma">『三島由紀夫十代書簡集』([[新潮社]]、1999年。[[新潮文庫]]、2002年)に収む。</ref><ref>『東文彦作品集』([[講談社]]、1971年。[[講談社文芸文庫]]で2007年再刊)の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を、「文学に集中できたむしろ[[アリストテレス]]的静的な時代」であったと自ら回顧している。</ref>。同年8月26日、祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]が他界。享年79。 |
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[[1944年]](昭和19年)、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した[[昭和天皇]]に初めて接し、[[恩賜]]の銀時計を拝受。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより[[東京大学|東京帝国大学]]法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ[[法学]]の厳格な論理性、とりわけ助教授であった[[団藤重光]](三島没後の定年後に[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]])から叩き込まれた[[刑事訴訟法]]理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『[[花ざかりの森]]』刊行に奔走。1944年10月に出版された。 |
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1942年(昭和17年)11月、学習院講演依頼のため、[[清水文雄]]に連れられて、[[日本浪曼派]]の小説家・[[保田與重郎]](よじゅうろう)に出会い、以後、何度か訪問する。公威は[[伊東静雄]]や、[[蓮田善明]]の[[ロマン主義]]的傾向の影響の下で詩や小説を、次々と発表する。公威が『[[伊勢物語]]のこと』を掲載した「[[文芸文化|文藝文化]]」[[1942年|昭和17年]]11月号には、蓮田は『[[神風連の乱|神風連]]のこころ』と題した一文を掲載した。これは蓮田にとって[[熊本県立済々黌高等学校|熊本済々黌]]の数年先輩にあたる[[森本忠]]が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評である(なお、三島は後年、1966年(昭和41年)に神風連の地、[[熊本]]を訪れた際に森本忠と会っている)。 |
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なお、三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」<ref>『[[婦人倶楽部]]』[[1960年]]連載「社会料理三島亭」</ref>と書いてはいるが、実は中学受験のとき[[開成中学校・高等学校|開成中学]]の入試に、高校受験のとき[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の入試に、就職のとき(健康上の理由で)[[日本勧業銀行]]の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父([[橋健三]])が開成中学の校長を務めた他に、三島の父([[平岡梓]])と、祖母夏子の実弟([[大屋敦]])が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男は[[お茶の水女子大学附属小学校]]卒業後、中学から開成に学んでいる<ref>[[原武史]]『滝山コミューン一九七四』p.262([[講談社]]、[[2007年]])</ref>。 |
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[[ファイル:Kakogawa-City-Library-1.jpg|thumb|三島が徴兵検査を受けた加古川公会堂]] |
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[[本籍地]]の[[兵庫県]]加古川市(旧・[[加古郡]]加古川町)の加古川公会堂(現・[[加古川市立加古川図書館]])で[[徴兵検査]]を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の「[[仮面の告白]]」によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵であったが、結局は合格し、召集令状を受け取ったものの風邪をこじらせて入隊検査ではねられ帰郷したとある。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の[[伊東静雄]]宅を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。 |
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[[1943年]](昭和18年)2月24日、学習院輔仁会の総務部総務幹事となる。同年6月6日、輔仁会春季文化大会で、公威の作・演出の『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演される(当初は翻訳劇を企画したが、[[山梨勝之進]]]学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。同年8月、[[富士正晴]]が『[[花ざかりの森]]』の出版の話を[[蓮田善明]]に提案する。同年9月頃から、公威は[[富士正晴]]を介して、詩人で医師の[[林富士馬]]を知り、以降親しく交際する。同年10月8日、[[東文彦]]が23歳の若さで急逝。公威は弔辞<ref name="azuma"/>を奉げた。東の死によって『赤絵』は2号で廃刊となった。文彦の父・[[東季彦]]によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという<ref name="mochimaru">[[持丸博]]と[[佐藤松男]]との共著『証言三島由紀夫・[[福田恆存]] たった一度の対決』([[文藝春秋]]、2010年)</ref>。 |
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[[1945年]](昭和20年)、[[群馬県]]の[[中島飛行機]]小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ『中世』を書き続ける。 |
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なお、三島自身は、「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」<ref>三島由紀夫『社会料理三島亭』([[婦人倶楽部]] 1960年1月号 - 12月号まで連載)</ref>と書いている。これに対し、高校受験のとき[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の入試に<ref>三島の母・[[平岡倭文重|倭文重]]と、自身の母親が幼い頃からの知り合いで、平岡家と家族ぐるみの交際があった[[村松剛]]は、「倭文重さんはいくつかの愚痴をぼくにいった。(中略)『学習院の中等科を終るときに、一高を受験させたのですよ。でも学習院程度の学校では、一高は無理だったのね。一高の[[バンカラ]]生活を経験していたら、公威もあんなことしなかったと思うの』 『あんなこと』が自衛隊入りいらいの彼の生活をさすことは、いうまでもない。学習院から一高にはいった例は、[[近衛文麿]]がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく、それに一高の生活も外見ほどにはバンカラではない。そう思ったのだが、このときはだまってきいていた。『学習院に入れると決めてしまったのは、義母ですからね』 (中略)つまり息子を死に向かって突走らせた責任の大本は姑にあると、倭文重さんはいいたかったのである」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で書いている。この著書と同種の内容は筑波論文([http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M17/M175582/2.pdf])参照のこと。</ref>、就職のとき(健康上の理由で面接の)[[日本勧業銀行]]の採用試験に失敗しているという反論もあるが、そもそも{{要検証範囲|学習院在学中には他校の受験はできなかった|date=2012-3}}ため受験にいたらなかったという説もある<ref name="nenpu">『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)に記載。</ref><ref>ただし[[近衛文麿]]や[[児島喜久雄]]、[[松平恒雄]]は学習院中等科から一高を出ており、一高出身の村松剛も、「学習院から一高にはいった例は、[[近衛文麿]]がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で書いている。しかし、本当に三島が一高を受験したという客観的事実関係は今のところなく、どちらか不明である。また、三島が中等科5年の時の1941年(昭和16年)9月25日付の[[東文彦]]宛の書簡には、(学習院)高等科は文科乙類(独語)にすることを東に伝えている記述があり、三島本人はそのまま学習院高等科へ進む意思であった。そのため、『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)の記載にも、「学習院在学者には他校の受験はできなかったという説もある」と、保留の形となっている。また、村松剛も、「文学上の師や仲間が、三島のまわりには形成されていた。(中略)中等科五年の九月からは、師の[[清水文雄]]氏の推挽によって『花ざかりの森』を、彼は“[[文芸文化|文藝文化]]”に連載しはじめる。(中略)三島にとっては一高よりも学校外の雑誌に発表の舞台をあたえられたことの方が魅力的であり」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で述べ、小説の書き直しなどに夢中になっていた三島が、もし受験していたとしても、及第している方が不思議だという見解を示している。</ref>。また[[日本勧業銀行]]の採用試験についても筆記試験には合格しており、面接で不採用となっている<ref name="nenpu"/>。三島と[[開成学園]]については、母方の祖父・([[橋健三]])が[[開成中学校・高等学校|開成中学]]の校長を務めた他に、三島の父・([[平岡梓]])と、祖母・夏子の実弟・([[大屋敦]])が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男・[[平岡威一郎|威一郎]]は[[お茶の水女子大学附属小学校]]卒業後、中学から開成に学んでいる<ref>[[原武史]]『滝山コミューン一九七四』p.262([[講談社]]、2007年)</ref>。 |
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2月に入営通知を受け取り、[[遺書]]を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降、[[アメリカ軍]]の[[爆撃機]]による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅、多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた[[気管支炎]]を[[軍医]]が[[胸膜炎]]と誤診し、[[即日帰郷]]となる。偶然が重なったとはいえ、「[[兵役逃れ|徴兵逃れ]]」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な[[死生観]])を抱かせることになる。 |
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[[ファイル:Kakogawa-City-Library-1.jpg|thumb|三島が徴兵検査を受けた加古川公会堂]] |
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この頃『[[和泉式部日記]]』や[[上田秋成]]などの古典、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェーツ]]などを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。「[[エスガイの狩]]」などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「[[岬にての物語]]」を起稿する。 |
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[[1944年]](昭和19年)4月、公威は[[本籍地]]・[[兵庫県]][[印南郡]][[志方村]]村長発信の[[徴兵検査]]通達書を受け取り、同年5月16日、兵庫県[[加古郡]]加古川町(現・[[加古川市]])の[[加古川公会堂]](現・[[加古川市立加古川図書館]])で[[徴兵検査]]を受け、第2[[乙]]種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの[[米俵]]を持ち上げるなどの検査もあった。自著の『[[仮面の告白]]』によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」であったが、結果は合格した。級友の[[三谷信]]など同級生の大半が[[特別幹部候補生]]として志願していたが、三島は一[[兵卒]]として応召するつもりであった。徴兵検査合格の帰途の5月17日、遺作となるであろう『[[花ざかりの森]]』の序文依頼のため、大阪の[[伊東静雄]]を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。しかし、伊東は、のち『[[花ざかりの森]]』進呈の返礼で、「会う機会が少なすぎた感じがする」と公威に言っている。 |
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[[1944年]](昭和19年)9月9日、学習院高等科を[[首席]]で卒業。卒業生総代となる。卒業式に臨席した[[昭和天皇]]に初めて接し、[[恩賜の銀時計]]を拝受。ドイツ[[大使]]よりドイツ文学の原書3冊、[[華族会館]]から図書数冊を贈られた。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・[[平岡梓|梓]]の勧めにより、同年10月1日、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ[[法学]]の厳格な論理性、とりわけ助教授であった[[団藤重光]](三島没後の定年後に[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]])から叩き込まれた[[刑事訴訟法]]理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨を自ら回顧している<ref>三島由紀夫『法律と文学』([[東大]][[緑会]]大会プログラム、1961年12月)、三島由紀夫『私の小説作法』([[毎日新聞]] 1964年5月10日に掲載)</ref>。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは[[平岡梓]]唯一の文学的貢献であるとして、後年、このことを三島は父に感謝するようになった。この頃、出版統制の中、「この世の形見」として『[[花ざかりの森]]』刊行に奔走。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・[[徳川義恭]]が担当)が七丈書院から出版された。三谷信ら友人、知人に本を渡す。 |
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[[1945年]](昭和20年)1月10日から、[[東京大学|東京帝国大学]]勤労報国隊として、[[群馬県]]の[[中島飛行機]]小泉製作所に勤労動員される。総務部配属で事務作業しつつ、『中世』を書き続ける。[[中河与一]]の好意により、『中世』第一回と第二回の途中までを「文芸世紀」に発表する。同年2月4日に入営通知の電報を受け取り、[[遺書]]を書き、遺髪と遺爪を用意する(なお、中島飛行機小泉製作所は1945年(昭和20年)2月25日以降、[[アメリカ軍]]の[[爆撃機]]による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅。多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。同年2月6日、父・梓と一緒に[[兵庫県]][[富合村]]へ出立し、入隊検査を受けるが、折からひいていた[[気管支炎]]を[[軍医]]が[[肺結核|肺浸潤]]と誤診し、[[即日帰郷]]となる。偶然が重なったとはいえ、「[[兵役逃れ|徴兵逃れ]]」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な[[死生観]]や「戦後は余生」という感覚)を抱かせることになる。 |
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1945年(昭和20年)5月5日から、[[神奈川県]][[高座郡]]大和の[[海軍]]高座[[工廠]]に勤労動員される。この頃、『[[和泉式部日記]]』、『[[上田秋成]]全集』、『[[古事記]]』、『日本[[歌謡]]集成』、『[[室町時代]]小説集』などの古典、[[泉鏡花]]、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェーツ]]などを濫読した。また、[[保田與重郎]]に謡曲の文体について質問した際、期待した[[浪漫主義]]的答えを得られなかった思いを、『中世』を書くことで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦した。そして、戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した『[[岬にての物語]]』を起稿する。戦時下でただひとつ残った文芸誌「[[文藝]]」(編集長は[[野田宇太郎]])に寄稿した『[[エスガイの狩]]』の発表は終戦後に遅れた。このとき初めて原稿科を貰う。処女短編集『[[花ざかりの森』]]は野田を通じ、[[川端康成]]にも献呈されていた。 |
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[[8月15日]][[日本の降伏|終戦]]、[[第二次世界大戦]]が終わった。「感情教育の師」として私淑していた[[蓮田善明]]は[[マレー半島]]で[[中尉|陸軍中尉]]として終戦を迎えたが、[[8月19日]]に軍用拳銃で自決。 |
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1945年(昭和20年)8月15日、[[日本の降伏|終戦]]、[[第二次世界大戦]]が終わった。「感情教育の師」として私淑していた[[蓮田善明]]は[[マレー半島]]で[[中尉|陸軍中尉]]として終戦を迎えたが、同年8月19日に駐屯地の[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]で、天皇を愚弄した連隊長・[[中条豊馬]][[大佐]]を軍用[[拳銃]]で射殺し、自決。享年41であった。翌年の1946年(昭和21年)11月17日に行われた「蓮田善明を偲ぶ会」に出席した三島は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」という詩を、亡き蓮田に献じた。 |
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[[10月23日]]には妹・美津子が[[チフス]](菌を含んだ[[水道水]]を誤飲したのが原因)により、17歳の若さで急逝する。 |
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同年 |
1945年(昭和20年)10月23日には、妹・[[平岡美津子|美津子]]が[[腸チフス]](菌を含んだなま水を飲んだのが原因)により、17歳の若さで急逝。三島は号泣する。同年11月末か12月頃、公威は[[三谷邦子]](のちに『[[仮面の告白]]』に描かれる初恋の女性。親友・[[三谷信]]の妹。父親はのちに[[侍従長]]となる[[三谷隆信]]。<ref>なお、[[三谷隆信]]の三女・正子は[[鮎川義介]]の息子・[[鮎川弥一]]に嫁いだため、[[三谷邦子]]は、のち[[鮎川純太]]の義理の伯母の立場となった</ref>)が、銀行員・[[永井邦夫]](父は[[永井松三]])と婚約したことを知る。翌年の1946年(昭和21年)5月5日に両者は結婚。三島はこの日、泥酔する。恋人を横取りされる形になった三島は、「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」<ref>三島由紀夫『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』(文芸誌・[[新潮]] 1955年8月号に掲載)</ref>と書いている。邦子の結婚後の同年9月16日、三島は偶然、邦子と道で会う。このときのことを三島は、「偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、『[[ゲーテ|ゲエテ]]との対話』のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?」<ref>『決定版 三島由紀夫全集第1巻・長編小説』(新潮社、2000年)に収む。</ref>と、ノートに記している。この頃、三島は初の長編小説『盗賊』を執筆中であった。 |
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=== 文壇デビューと『仮面の告白』=== |
=== 文壇デビューと『仮面の告白』=== |
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[[1946年]](昭和21年 |
[[1946年]](昭和21年)1月27日、[[鎌倉]]に在住していた[[川端康成]]のもとを三島は始めて訪問し、短編『中世』、『煙草』の原稿を渡す。当時、[[鎌倉文庫]]の幹部であった川端は、雑誌「人間」(編集長:[[木村徳三]])に『煙草』の掲載を推薦した。これが[[文壇]]への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。敗戦後、川端が、「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」と言った言葉は、三島の心に、「一管の笛のなげきのやうに聴かれて胸を搏つた」<ref>三島由紀夫『永遠の旅人―[[川端康成]]氏の人と作品』(別冊[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 51号、1956年4月に掲載)</ref>という。同年6月、『煙草』は「人間」に発表されたが、三島は大学の勉強と執筆活動をする中、[[高等文官試験]]を受けるか文筆で立つか悩む。同年11月、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』が文芸雑誌「[[群像]]」に、12月には『中世』全編が「人間」に掲載される。ある日、[[木村徳三]]は、三島と[[帝国大学|帝大]]図書館前で待ち合わせ一時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から、あとをつけて教室を覗いたという。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」<ref>[[木村徳三]]『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)(底本『文芸編集者 その跫音』([[TBSブリタニカ]]、1982年)</ref>と述べている。 |
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1946年 |
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺[[絣]]の着物に[[袴]]を身につけ、[[矢代静一]]と一緒に、[[太宰治]]、[[亀井勝一郎]]を囲む集いに参加した。この時、三島は太宰に対して面と向かって、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身のエッセイ『私の遍歴時代』([[東京新聞]] 1963年1月10日 - 5月23日に連載)<ref name="henreki">三島由紀夫『私の遍歴時代』(講談社、1964年。ちくま文庫で1995年再刊)</ref>によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の[[野原一夫]]によれば、酒を飲めない三島が、[[森鴎外]]の文学について太宰治に質問したが、太宰はまともに答えず、なにかはぐらかすように、「鴎外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ」と顔を横に向けて呟いた。すると、三島は、「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」とまっすぐ太宰の顔を見て、にこりともせずに言ったという。そして一瞬、座が静かになり、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように太宰は言って、顔をそむけたのだという<ref>[[野原一夫]]『回想 [[太宰治]]』([[新潮社]]、1980年)</ref>。しかし、他のその場に居合わせた詩人の[[中村稔 (詩人)|中村稔]]によると、太宰はそう言ったあとで、それがきっかけで場がしらけてしまったのをまずいと思ったのか、「そんなこといったって、ここに来ているんだからやっぱり好きなんだよなあ」と、誰へ言うともなく、あわてて言ったという。また、宴会が終わったあとで、「あの三島という学生はいろんな雑誌で作品を出していますよ」というのを太宰は聞いて、「彼の小説を読んでいたら俺も話もできていたのになあ」と、事前に三島を紹介されていれば応対も違い、文学の話もできたと残念がっていたという<ref name="andou"/><ref name="nichiroku"/>。この挿話のように、三島は太宰嫌いを公言し、そのことは夙に有名だが、その一方、翌年の1947年(昭和22年)10月の[[川端康成]]宛の書簡の中では、「太宰治氏『[[斜陽]]』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます」 とも述べていた。 |
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[[1947年]](昭和22年)6月27日、「[[新夕刊]]」で[[林房雄]]と出会う。三島は林に好感を持ち、以後、親交を持つようになる。林への書簡で自身の文学論や、[[高見順]]ら左翼的文壇への憤慨などを吐露する(後年、三島は『林房雄論』(1963年)を書き、また林との対談『対話・日本人論』(1966年)、『現代における右翼と左翼』(1969年)も実現する)。同年7月、[[日本勧業銀行]]の入行試験を受験する。論文や英語などの筆記試験には合格したが、健康上の理由により面接で不採用となった。この頃、[[加藤周一]]、[[福永武彦]]、[[中村真一郎]]、[[窪田啓作]]らの[[マチネ・ポエティク|マチネ・ポエティック]]の人々と交流を持つ。しかし、その批評活動のあからさまな[[フランス]]臭に、「フランスはフランス、日本は日本じゃないか」<ref name="henreki"/>と反感をおぼえる。 |
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[[1947年]](昭和22年)11月、東京大学法学部(旧制)卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、先述の通りの健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時[[宮内省]]入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより大蔵省[[事務官]]に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に[[橋口収]]、入省同期に[[長岡實]]がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(銀行局長に[[愛知揆一]]、[[主計局]]長に[[福田赳夫]]がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・[[林房雄]]と出会う。 |
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[[1947年]](昭和22年)11月28日、[[東京大学]][[法学部]]法律学科卒業(同年9月に[[東京帝国大学]]から名称変更)。同年12月13日、[[高等文官試験]]に合格する(成績は合格者167人中138位)。一時[[宮内省]]入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより同月24日、[[大蔵省]][[事務官]]に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務する(銀行局長に[[愛知揆一]]、[[主計局]]長に[[福田赳夫]]がいた)。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に[[橋口収]]、入省同期に[[長岡實]]がいる。同月、初の長編『盗賊』が発表される。入省以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。一方、この頃の心境を、三島は『私の遍歴時代』の中で、「せつせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。(中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた」<ref name="henreki"/>と記している。 |
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[[1948年]](昭和23年)、雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の第二次同人拡大に際し参加(この件りは『私の遍歴時代』に詳しい)。[[河出書房新社|河出書房]]の編集者[[坂本一亀]]から書き下しの長編を依頼され、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟り[[渋谷駅]]ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを、ようやく父梓が許可した)。 |
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[[1948年]](昭和23年)6月、雑誌「[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]」の第2次同人拡大の際し参加。この第2次参加の顔ぶれは、[[椎名麟三]]、[[梅崎春生]]、[[武田泰淳]]、[[安部公房]]、[[原民喜]]、[[高橋義孝]]、[[寺田透]]、[[船山馨]]、[[日高六郎]]、[[中田耕治]]らがいた。(この件りは『私の遍歴時代』<ref name="henreki"/>に詳しい)。同年の7月か8月、出勤途中の朝、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労のため、[[渋谷駅]]のホームから線路に落ちる。事なきをえたが、この事故をきっかけに職業作家になることを、父・[[平岡梓]]が許す。同年8月下旬、[[河出書房新社|河出書房]]の編集者[[坂本一亀]]([[坂本龍一]]の父)と[[志邨孝夫]]が、書き下ろし長篇小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この作品に作家的生命を賭ける」と宣言する。そして、同年9月2日、創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日、辞令を受け依願退職した。同年11月25日に、三島は『[[仮面の告白]]』を起筆する。 |
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[[1949年]](昭和24年)7月、自伝的な書き下ろし長編小説『[[仮面の告白]]』を出版。[[同性愛]]を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『[[愛の渇き]]』、光クラブの[[山崎晃嗣]]をモデルとした『青の時代』を[[1950年]](昭和25年)に、[[男色]][[小説]]『[[禁色]]』を[[1951年]](昭和26年)にそれぞれ発表。[[日本の近現代文学史#戦後|戦後文学]]の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。 |
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[[1949年]](昭和24年)7月5日、書き下ろし長編小説『[[仮面の告白]]』(河出書房)が出版される。[[同性愛]]を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、1950年6月30日に書き下ろし長編『[[愛の渇き]]』(新潮社)を発表。同年7月 - 12月に、[[光クラブ事件]]の[[山崎晃嗣]]をモデルとした『青の時代』を連載。1951年(昭和26年)1月 - 1953年(昭和28)8月にかけて、『[[禁色 (小説)|禁色]]』を[[1951年]](昭和26年)を連載するなど、[[日本の近現代文学史#戦後|戦後文学]]の旗手として脚光を浴びた。また、その間も数々の短編や、『邯鄲』・ 『綾の鼓』・『卒塔婆小町』<ref name="kinndai"/>などの戯曲も発表するなど旺盛な活動を見せた。また、1952年(昭和27年)に発表された短編小説『真夏の死』は、のちの1967年(昭和42年)に[[フォルメントール国際文学賞]]第2位を受賞することとなる。 |
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[[1951年]]12月には、[[朝日新聞]]特別通信員として世界一周旅行へ、[[旅客船]]で出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である朝日新聞重役の[[嘉治隆一]]が尽力した)。[[北米]]・[[南米]]・[[欧州]]を経て、翌年8月に帰国。 |
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[[1951年]]12月25日には、[[朝日新聞]]特別通信員として約半年間の世界一周旅行へ[[旅客船]]で出発した(この世界一周旅行の実現には、父・[[平岡梓|梓]]の[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代の同期である朝日新聞重役の[[嘉治隆一]]が尽力した)。[[ハワイ]]、[[サンフランシスコ]]、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]、[[フロリダ]]、[[マイアミ]]、[[サンフアン (プエルトリコ)|サン・フアン]]、[[リオ・デ・ジャネイロ]]、[[サン・パウロ]]、[[ジュネーブ]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[アテネ]]、[[ローマ]]を経て、翌年の1952年(昭和27)5月10日、[[東京国際空港|羽田]]に帰国。このときの世界旅行記は、同年10月5日に紀行文集『アポロの杯』としてまとめられ、[[朝日新聞社]]から刊行された。 |
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1953年(昭和28年)3月と、8月 - 9月に、三島は[[三重県]][[鳥羽港]]から[[神島 (三重県)|神島]](かみしま)に行く。八代神社、[[神島灯台]]、島民の生活、[[例祭]][[神事]]、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の[[1954年]](昭和29年)6月10日、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(新潮社)を発表する。[[ギリシャ]]の古典『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一[[パチンコ]]店がない島だったから」と、大蔵省同期の[[長岡實]]に語ったという。『潮騒』は第1回[[新潮社文学賞]]を受賞した<ref>三島は『潮騒』の名を、[[万葉集]]の歌、「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」からとった([[万葉仮名]]では『潮左為』)。この歌は、[[持統天皇]]が[[伊勢国|伊勢]]に旅された時に、都に残った[[柿本人麻呂]]が[[伊良湖岬]]を歌ったもので、意味は、「さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを」である</ref>。 |
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=== 自己改造と『金閣寺』 === |
=== 自己改造と『金閣寺』 === |
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[[画像:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|三島由紀夫と[[石原慎太郎]]([[1956年]])]] |
[[画像:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|三島由紀夫と[[石原慎太郎]]([[1956年]])]] |
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世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」、「肉体」、「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。世界一周旅行後の翌年1953年(昭和28年)、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』の取材で滞在した[[神島 (三重県)|神島]]の島民に、初め三島は、病気療養のために島に来ている人と勘違いされ、「あの青[[ヒョウタン|びょうたん]]みたいな顔の男は誰やろ?体が悪くて養生しに来とるのか」と噂された。島民たちに島の話を聞きながら、熱心にメモをとる痩せた白い肌の三島の姿は、屈強な島の逞しい男達を見慣れている島の女性たちにはかなり珍しかったという。そんな経験や、胃弱や虚弱体質に悩んでいたこともきっかけとなり、[[1955年]](昭和30年)9月、三島は、[[週刊読売]]のグラビアに取り上げられていた[[玉利齊]](当時、[[早大]][[バーベル]]クラブ主将。現在は社団法人日本[[ボディビル]]協会会長)の写真と、「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速、編集部に電話をかけ、玉利を紹介してもらい、週3回の[[ボディビル]]を始めるなど、「肉体改造」に取り組み始める。 |
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世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。帰国後の[[1955年]](昭和30年)頃から、三島は[[ボディビル]]を始めるなど「肉体改造」に取り組み始める。元々痩身で先述の通りの虚弱体質であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった<ref>ボディビルを始めるきっかけとして、細身な上に身長が低いこと、さらに胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた[[玉利齊]](当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした[[美輪明宏]]から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた(この時三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた[[仲代達矢]]がボディビルについて尋ねた時、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。ボクシングのスパーリングパートナーは[[石原慎太郎]]が主であった。</ref>。[[1948年]]からの友人[[中井英夫]]が[[小学館]]で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった<ref>中井英夫『LA BATEE』p.149([[学研ホールディングス|立風書房]]、[[1981年]])</ref>。三島の同世代の作家には、[[星新一]]や[[遠藤周作]]など比較的長身の者もいたが、三島は身長163cmと、当時としては平均的であった<ref>1945年の20歳日本人男性の平均身長は165センチ([http://www.pure-supplement.com/shintyo/002.html])。1948年の17歳日本人男性の平均身長は158.2cmという統計もあるが、「昔の日本人は今日と違って18歳以降も20代前半まで身長は伸びたようなので、単純な比較はできない」と言われている([http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/sintyou.htm])。</ref>。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173cmです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173cmだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。 |
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最初は自宅の庭に[[玉利齊]]を招いて指導を受けていたが、[[1956年]](昭和31年)1月、[[後楽園]]ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄に会い、弟子入りする。同年3月頃、鈴木が[[自由ヶ丘]]にボディビルジムを開き、三島のジム通いが始まった。また、自由ヶ丘で知り合った町内会の人に誘われ、同年8月、自由ヶ丘の[[熊野神社 (目黒区)|熊野神社]]の夏祭りで、生まれて初めて[[神輿]]をかつぐ。元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。最初は10キロしか挙げられなかった[[ベンチプレス]]も、鍛錬の結果、晩年は90キロを挙上したという<ref>昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした[[美輪明宏]]から、「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたこともあったという(この時三島は顔色を変え、部屋から出て行ったとされる)。後年、映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』(1969年)で共演し、撮影現場の京都に向かう飛行機で乗り合わせた[[仲代達矢]]が、「作家なのにどうしてボディービルを?」と尋ねた時、「僕は[[切腹]]をして死ぬからだよ」、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えたという。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって、「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。</ref>。同年9月には、鈴木の紹介で、[[日大]][[拳闘]]部の好意により、小島智雄監督の下、[[ボクシング]]の練習も始め、1年ほど続けた(1953年(昭和28年)頃も、三島は[[安部譲二]]の紹介でボクシングに挑戦したが、その時はいつも[[シャドーボクシング]]だった)。[[1957年]](昭和32年)5月、小島智雄を[[スパーリング]]相手に練習を行っている三島を、[[石原慎太郎]]が訪ね、[[8ミリ映画|8ミリ]]に撮影する。これを観た三島は、「石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに[[主観]]と[[客観]]には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります」<ref>三島由紀夫『私のすぽーつ・セカンドウインド』([[毎日新聞]] 1957年6月16日に掲載)</ref>と記し、以後はもっぱらボクシング観戦の方に回り、何人かの選手の[[スポンサー]]になった。 |
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古典的文学、特に[[森鴎外]]に注目するなどして、「文体改造」も行った。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による[[金閣寺放火事件]]を題材にした長編小説『[[金閣寺_(小説)|金閣寺]]』([[1956年]])である。この作品は三島文学の代表作となった。 |
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1948年(昭和23年)頃からの友人で、小説家の[[中井英夫]]が[[小学館]]で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして、「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった<ref>[[中井英夫]]『LA BATEE』p.149([[学研ホールディングス|立風書房]]、1981年)</ref>。 |
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この時期の三島は、[[三重県]][[神島 (三重県)|神島]]を舞台とし、[[ギリシャ]]の古典『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』から着想した『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』([[1954年]])をはじめ、『[[永すぎた春]]』([[1956年]])、『[[美徳のよろめき]]』([[1957年]])などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。同時期には『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』、『近代能楽集』(ともに[[1956年]])などの戯曲の発表も旺盛に行い、[[文学座]]をはじめとする劇団で自ら演出、出演も行った。[[銀座]]6丁目の小料理屋「井上」の2階で独身時代の[[皇后美智子]]と[[見合い]]を行ったのもこの時期のことであると考えられている<ref>[[徳岡孝夫]]『五衰の人─三島由紀夫私記』([[文藝春秋]]、[[1997年]]、のち文庫化)、および『[[週刊新潮]]』[[2009年]][[4月2日]]「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」</ref>。 |
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三島の同世代の作家には、[[星新一]]や[[遠藤周作]]など比較的長身の者もいたが、三島は身長163センチと、当時としては平均的であった。ちなみに三島の1941年(昭和16年)4月22日付の[[身体検査]]記録表には、「平岡公威 身長162.2センチ、体重44.0キロ」と記録され(このときの成績通知表に記された[[文部省]]による全国の同年齢平均標準値は158.8センチ、体重50.0キロとなっている)、1942年(昭和17年)4月13日付の身体検査記録表は、「平岡公威 身長163.1センチ、45.4キロ」と記録され、こちらも同年・同学年の平均値よりは高い数値である<ref>1945年(昭和20年)の20歳日本人男性の平均身長は165センチ([http://www.pure-supplement.com/shintyo/002.html])。1948年(昭和23年)の17歳日本人男性の平均身長は158.2センチという統計もあるが、「昔の日本人は今日と違って18歳以降も20代前半まで身長は伸びたようなので、単純な比較はできない」と言われている{{要出典|date=2012年3月}}<!--([http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/sintyou.htm])個人サイト-->。しかし三島が当時として極端に低身長であったというわけでもない</ref>。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173センチです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173センチだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。しかし現在残っている質問形式の雑誌記事には三島が正直に身長を答えている記載がある<ref>三島由紀夫『三島氏のプライバシー―なんでも相談 なんでも解答』(PocketパンチOh! 1968年7月号に掲載)</ref>。 |
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[[1954年]]「[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えている。また[[アーサー・C・クラーク|クラーク]]の「[[幼年期の終り]]」を絶賛し、SF同人誌「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」に序文を書き、自らもSF性の強い作品である「美しい星」を執筆するなど、当時の文化人には珍しく[[サイエンス・フィクション|SF]]やSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。 |
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ボディビルを始めた同年の1955年(昭和30年)11月には、[[京都]]に取材に行き、1950年(昭和25年)に起こった、青年僧による[[金閣寺放火事件]]を題材にした次回作の執筆にとりかかる。『[[仮面の告白]]』から取り入れていた[[森鴎外]]的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず「文体改造」も行った。その双方を磨き上げ昇華した独特の壮麗な文体を確立し、広く高い評価を得たのが長編小説『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』である。この作品は[[1956年]](昭和31年)1月から10月まで「[[新潮]]」に連載され、三島文学の代表作となった。第8回[[読売文学賞]]も受賞した。 |
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この時期の三島は、1956年(昭和31年)に『[[永すぎた春]]』、1957年(昭和32年)に『[[美徳のよろめき]]』などの[[ベストセラー]]小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。また同時期には、1955年(昭和30年)に第2回[[岸田演劇賞]]を受賞した『白蟻の巣』、1956年(昭和31年)に『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』など戯曲発表も旺盛に行い、同年、国際的にも評価の高い戯曲集『[[近代能楽集]]』(「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」から成る<ref>のち1968年の文庫版には「道成寺」、「熊野」、「弱法師」が加わる</ref>)も刊行された。戯曲上演には、[[文学座]]をはじめとする劇団で自ら演出、端役出演なども行った。 |
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また、この時期、花嫁候補を探していた三島が、[[銀座]]6丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の[[皇后美智子]]と見合いを行ったのもこの頃の1957年(昭和32年)頃であると考えられている<ref>[[徳岡孝夫]]『五衰の人─三島由紀夫私記』([[文藝春秋]]、1997年。文春文庫、1999年)、および、[[週刊新潮]] 2009年4月2日号掲載記事・「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」</ref>。同年の3月15日、三島は母・[[平岡倭文重|倭文重]]とともに、皇后美智子が首席で卒業した[[聖心女子大学]]卒業式を参観している。 |
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三島は文学以外の評論や批評を行うことも多く、映画や劇画、時事、風俗などへの多岐にわたる評論もした。1954年(昭和29年)の「[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えていた。次第にその審美眼は、プロの映画評論家にも一目置かれるようになり、[[荻昌弘]]や[[小森和子]]らと対談などもした。[[淀川長治]]は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について「[[平凡パンチ]]」のインタビューで述べていた<ref>[[椎根和]]『[[平凡パンチ]]の三島由紀夫』(新潮社、2007年。新潮文庫、2009年)</ref>。また、当時の文学者には珍しく[[サイエンス・フィクション|SF]]やSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。[[日本空飛ぶ円盤研究会]]にも所属し、1957年(昭和32年)6月8日には、日活国際会館屋上での[[空飛ぶ円盤]]観測会に初参加した。のちの1962年(昭和37年)には、自らもSF性の強い作品である『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』を執筆し、1963年(昭和38年)9月には、SF同人誌「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」に寄稿するなどした。また、[[アーサー・C・クラーク|クラーク]]の「[[幼年期の終り]]」を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評した。劇画については、「[[平田弘史]]の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い[[紙芝居]]の[[ノスタルジア|ノスタルジヤ]]と“[[弘瀬金蔵|絵金]]”的[[幕末]]趣味を発見してゐた」と三島は述べている<ref name="gekiga">三島由紀夫『劇画における若者論』([[サンデー毎日]] 1970年2月1日号に掲載)、『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論』(新潮社、2003年)にも収む。</ref>。 |
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=== 世界的評価と『鏡子の家』 === |
=== 世界的評価と『鏡子の家』 === |
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[[1959年]](昭和34年 |
[[1959年]](昭和34年)9月、三島は書き下ろし長篇小説『[[鏡子の家]]』を発表する。起稿から約1年半をかけ、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。三島は『鏡子の家』について、「この小説は、いはゆる戦後文学ではなく、『戦後は終つた』文学だとも云へるだらう。『戦後は終つた』と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうと思つたのである。(中略)四人の青年が、鏡子といふ[[巫女]]的な女性の媒(なかだ)ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と紐青(ニューヨーク)に集中する」と述べた。[[奥野健男]]はこの小説を「最高傑作」と評価し、[[橋川文三]]も高評価を与えた。だが、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]や[[江藤淳]]は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている<ref>三島は後年、大島渚との対談『ファシストと革命家か』(映画芸術 1968年1月号に掲載)の中で、「『鏡子の家』でね、僕そんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめないのかというんで橋の上に立ってるんですよ。誰もとめに来てくれなかった。(中略)その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。僕が赤ん坊捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった」と語っている</ref>。同年1月には『[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]』を「[[婦人公論]]」に発表。『鏡子の家』執筆中の1958年(昭和33年)7月 - 1959年(昭和34年)11月には、エッセイ『[[不道徳教育講座]]』を「[[週刊明星]]」に連載する。また同時期には、公開日記・随筆『[[裸体と衣裳]]』も「[[新潮]]」に連載された。[[1958年]](昭和33年)に発表された戯曲『[[薔薇と海賊]]』は、[[週刊読売]]新劇賞を受賞した。 |
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その後、文壇の寵児として、1960年(昭和35年)に『[[#『宴のあと』裁判|宴のあと]]』([[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞)、『百万円煎餅』、『熱帯樹』、『弱法師』、1961年(昭和36年)に『[[獣の戯れ]]』、『[[憂国]]』、『[[十日の菊]]』(第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞)、『[[黒蜥蜴]]』、1962年(昭和37年)に『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』、1963年(昭和38年)に『[[午後の曳航]]』(フォルメントール国際文学賞候補作品)、『雨のなかの噴水』、『剣』、『[[喜びの琴]]』、1964年(昭和39年)に『[[絹と明察]]』など、長編、短編、戯曲を旺盛に発表した。 |
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私生活では、[[1958年]](昭和33年)6月1日に、日本画家・[[杉山寧]]の長女・[[平岡瑤子|瑤子]]と結婚。[[大田区]][[南馬込]]に[[ヴィクトリア朝|ビクトリア]]風[[コロニアル]]様式の新居を建築し(設計・施工は[[清水建設]])、同年11月からは、[[ボディビル]]に加えて、本格的に[[剣道]]を始める。この頃には、70キロの[[バーベル]]を持ち上げられるようになっていた。翌年の1959年(昭和34年)6月2日には長女・[[平岡紀子|紀子]]が誕生し、1962年(昭和37年)5月2日には長男・[[平岡威一郎|威一郎]]が誕生した。また、[[舩坂弘]]と剣道を通じて交友を持つようになる。 |
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文学活動以外でも、[[1960年]](昭和35年)に、[[永田雅一]]の[[肝煎|肝煎り]]で[[大映]][[映画]]『[[からっ風野郎]]』([[増村保造]]監督)に[[チンピラ]][[やくざ]]役で主演した。1961年(昭和36年)9月には、写真家・[[細江英公]]の写真集『[[薔薇刑]]』の[[モデル (職業)|モデル]]となり、自宅で撮影が行われた。写真発表は翌年1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。写真集『[[薔薇刑]]』は、1963年(昭和38年)3月に限定版で刊行された。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後[[マスメディア]]勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「[[マルチタレント|マスコミ文化人の先駆]]」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4ヶ月前に[[産経新聞|サンケイ新聞]]夕刊で発表した『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』において、「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」<ref>三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年)に再録。『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論』([[新潮社]]、2003年)にも収む。</ref>と告白している。 |
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私生活や多方面の活躍で、その充実ぶりを見せる一方、1961年(昭和36年)2月には、[[深沢七郎]]の『[[風流夢譚]]』をめぐるいわゆる[[嶋中事件]]に関連して[[右翼]]から脅迫状を送付され、2ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる。[[ジョン・ネイスン]]によると、この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟・[[平岡千之]]の推測があるとされたが、弟の千之はそのようなことは言っていないと、これを否定した<ref name="muramatu">[[村松剛]]『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)</ref>。三島は嶋中事件の起こる2年以上前から剣道を本格的に習い、事件以前に『[[憂国]]』も書き上げているので、ジョン・ネイスンの見解は見当違いである。同年3月には、『[[#『宴のあと』裁判|宴のあと]]』をめぐり[[有田八郎]]から告訴され、同年4月から[[プライバシー]]裁判が始まった。三島は1964年(昭和39年)9月に敗訴し、80万円の賠償を求められた(三島側は10月に[[控訴]]するが、翌年3月の原告・有田八郎の死去に伴い、のちに遺族と和解成立)。この事件で有田側についた[[吉田健一]]と三島は疎遠となった。 |
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劇団「[[文学座]]」をめぐっても、様々なトラブルにも見舞われた。1963年(昭和38年)1月、反[[杉村春子]]であった[[福田恆存]]の裏工作により、[[芥川比呂志]]、[[岸田今日子]]ら29人の劇団員が文学座を脱退し、福田が中心となる「[[劇団雲]]」が結成された。三島は新聞に載る直前まで何も知らされていなかった。岸田今日子は、「福田さんに誘われたわたしは 『三島さんが一緒なら』と言った。『もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように』と念を押された。(中略)新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、『新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?』と言われた。福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。」<ref>[[岸田今日子]]「わたしの中の三島さん」(『決定版 三島由紀夫全集第22巻・戯曲』付録・月報)(新潮社、2002年)</ref>と回顧している。[[吉田健一]]の件と、この一件で、1951年(昭和26年)から続いた「[[鉢の木会]]」も自然消滅する。残された三島は[[文学座]]の再建に力を注ぐが、同年11月には、『[[喜びの琴]]』をめぐり、三島と[[杉村春子]]らが対立する文学座公演中止事件([[喜びの琴事件]])が起こり、再びトラブルが相次いだ。このように、この時期には、[[安保闘争]]を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与した。このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかったが、同年8月には、三島はすでに晩年の自死に通じるような『剣』を書き上げている。翌年の1964年(昭和39年)初めには、『[[浜松中納言物語]]』を読み、のちの『[[豊饒の海]]』の構想が始まる。 |
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その後、文壇の寵児として、『[[#『宴のあと』裁判|宴のあと]]』([[1960年]])、『[[獣の戯れ]]』([[1961年]])、『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』([[1962年]])、『[[午後の曳航]]』([[1963年]])、『絹と明察』([[1964年]])などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『[[憂国]]』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』([[1958年]])、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。 |
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1963年(昭和38年)10月、三島は『[[絹と明察]]』を起筆する。この小説は、『[[鏡子の家]]』で描いた「時代」の「青年」から、日本の「家長」というものへテーマを変えた作品だった。三島は『絹と明察』について、「書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。(中略)父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」<ref>三島由紀夫『著者と一時間(「絹と明察」)』([[朝日新聞]] 1964年11月23日に掲載)</ref>と述べている。三島は[[近江]]絹糸の労働争議([[近江絹糸争議]])を背景に、伝統的な日本(駒沢)と、西洋かぶれの日本(大槻、岡野)との対立を描くことで、日本の究極の家長とは何かを探ろうとした。この小説の翻訳は当初、[[ジョン・ネイスン]]が担当したが、ネイスンは翻訳途中状態でこれを放置し、[[大江健三郎]]の翻訳担当に移った。のちネイスンは『絹と明察』の翻訳を三島に断ったが、この非礼に怒った三島とネイスンの関係は感情的もつれを生んだ。三島はネイスンのことを、「[[左翼]]に誘惑された与太者」と呼び、ネイスンも米誌に三島の酷評を書いた。『絹と明察』は第6回[[毎日芸術賞]]文学部門賞を受賞した。 |
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私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・[[杉山寧]]の長女[[平岡瑤子|瑤子]]と結婚。[[大田区]][[南馬込]]に[[ヴィクトリア朝|ビクトリア]]風[[コロニアル]]様式の新居を建築し(設計・施工は[[清水建設]])、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐる[[プライバシー]]裁判(1961年より)での敗訴(後、原告[[有田八郎]]の死去に伴い和解)や、[[深沢七郎]]『[[風流夢譚]]』をめぐるいわゆる[[嶋中事件]]に関連して右翼から脅迫状を送付され、数か月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の[[平岡千之]]の推測がある。 |
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この時期には、三島文学が翻訳を介し[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、[[アイヴァン・モリス]]、[[ドナルド・キーン]]、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]などが著名である)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。[[国連事務総長]]だった[[ダグ・ハマーショルド]]は1961年(昭和36年)に亡くなる直前、三島の『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』を読み、[[ノーベル財団]]の、ある委員に宛てた手紙で大絶賛したという。また、『[[真夏の死]]』、『[[#『宴のあと』裁判|宴のあと]]』は、[[フォルメントール国際文学賞]]第2位を受賞した。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『[[サド侯爵夫人]]』は古典劇にも近いために、[[フランス]]では地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。<ref>http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html</ref> |
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『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件([[喜びの琴事件]]、1963年)など、[[安保闘争]]を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかった。1962年(昭和37年)にはすでに後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。 |
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日本国外での評価が高さを示すこととして、監督・[[ポール・シュレイダー]]、制作総指揮・[[ジョージ・ルーカス]]、[[フランシス・フォード・コッポラ]]により、映画『[[Mishima: A Life In Four Chapters]]』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『[[地獄の黙示録]]』の撮影時には、三島の『[[豊饒の海]]』も手に取り、構想を膨らませていたと述べている。また、三島原作で海外で映画化されたものは、『[[午後の曳航]]』がある。『[[The Sailor Who Fell from Grace with the Sea]]』という題で、1976年(昭和51年)に日米合作で映画化された([[サラ・マイルズ]]、[[クリス・クリストファーソン]]出演)。フランスでは、1998年(平成10年)に『[[肉体の学校]]』が、『[[L'Ecole de la Chair]]』(英題:『[[The School of Flesh]]』)という題で映画化された([[ブノワ・ジャコ]]監督、[[イサベル・ユベール]]、[[ヴァンサン・マルチネス]]出演)。 |
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この頃からボディビルに加えて[[剣道]]・[[居合道|居合]]を始める。[[舩坂弘]]と剣道を通じて交友。[[永田雅一]]の肝煎りで[[大映]][[映画]]『[[からっ風野郎]]』([[増村保造]]監督)に主演したり(1960年)、写真家[[細江英公]]の写真集『[[薔薇刑]]』の[[モデル (職業)|モデル]]になる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後[[マスメディア]]勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「[[マルチタレント|マスコミ文化人の先駆]]」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4か月前に[[産経新聞|サンケイ新聞]]夕刊で発表した「果たし得ていない約束」において、「(戦後)二十五年…私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と告白している。 |
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[[イギリス]]のロックバンド・[[ストラングラーズ]]も、三島の生き方、作品に着想を得た『[[Death & Night & Blood (Yukio)]]』(『死と夜と血』)という楽曲を発表している。『Ice』という楽曲にも、「[[葉隠|ハガクレ]]という言葉が使われている。ベースの[[ジャン=ジャック・バーネル]]は、三島の愛読者であるという。映画『[[戦場のメリークリスマス]]』のテーマ曲は[[坂本龍一]]が作曲したが、この楽曲に[[デヴィッド・シルヴィアン]]が詞をつけた『禁じられた色彩』は、三島の『[[禁色 (小説)|禁色]]』から着想されたもので、デヴィッド・シルヴィアンは三島の大ファンだという。なお、[[YMO]]の『[[ビハインド・ザ・マスク (曲)|BEHIND THE MASK]]』は、『[[仮面の告白]]』のタイトルをヒントに坂本龍一が作曲した楽曲だが、これは[[ビハインド・ザ・マスク (曲)#マイケル・ジャクソンによるカバー|マイケル・ジャクソンにカバー]]されている。 |
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この時期には、三島文学が[[翻訳]]を介し[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、[[ドナルド・キーン]]や[[エドワード・G・サイデンステッカー]]などが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。日本国外外での評価が高さを示すこととして、監督:[[ポール・シュレイダー]] 制作総指揮:[[ジョージ・ルーカス]] [[フランシス・フォード・コッポラ]]により映画『[[Mishima: A Life In Four Chapters]]』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『[[地獄の黙示録]]』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『[[サド侯爵夫人]]』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。<ref>http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html</ref>イギリスのロックバンド・[[ストラングラーズ]]も、三島の生き方、作品に着想を得た「Death,Night & Blood (Mishima)」という楽曲を発表している。 |
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=== 楯の会と『豊饒の海』 === |
=== 楯の会と『豊饒の海』 === |
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自ら[[ライフワーク]]とした四部作の長編『[[豊饒の海]] |
自ら[[ライフワーク]]とした四部作の長編『[[豊饒の海]] 第一部 春の雪』が、[[1965年]](昭和40年)より『[[新潮]]』で連載開始された(1967年まで)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。[[ノーベル文学賞]]候補として報じられ、以降も引き続き候補として名が挙がった。三島は1966年(昭和41年)に[[ノーベル文学賞]]受賞を期待され予定談話まで受けたが、受賞者は別人だった。三島はこのバツの悪い思いの教訓で、翌1967年(昭和42年)は記者の追跡を避けバンコクへ滞留する。川端康成がノーベル文学賞を受賞するのはこの翌年の1968年(昭和43年)である。 |
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同時期には自ら主演・監督した映画作品『憂国』<ref>後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、[[2005年]](平成17年)にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の[[1996年]](平成8年)に発見されたという。</ref>の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海 第二部 奔馬』(1967 - 68年)と、[[美意識]]と政治的行動が深く交錯し、[[英雄]]的な死を描いた作品を多く発表するようになる。 |
同時期には自ら主演・監督した映画作品『憂国』<ref>後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、[[2005年]](平成17年)にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の[[1996年]](平成8年)に発見されたという。</ref>の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海 第二部 奔馬』(1967 - 68年)と、[[美意識]]と政治的行動が深く交錯し、[[英雄]]的な死を描いた作品を多く発表するようになる。 |
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[[1969年]](昭和44年)、[[曲亭馬琴]]原作の[[歌舞伎]]台本『[[椿説弓張月]]』(主演は[[松本白鸚 (初代)|8代目松本幸四郎]])、戯曲『癲王のテラス』(主演は[[北大路欣也]])を発表し上演。 |
[[1969年]](昭和44年)、[[曲亭馬琴]]原作の[[歌舞伎]]台本『[[椿説弓張月]]』(主演は[[松本白鸚 (初代)|8代目松本幸四郎]])、戯曲『癲王のテラス』(主演は[[北大路欣也]])を発表し上演。 |
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1969年[[2月11日]]([[建国記念の日]])に[[国会議事堂]]前で決行された[[国士|憂国烈士]]・[[江藤小三郎]]青年の壮絶な自決に大きな衝撃を受け、その心情を『若きサムラヒのための精神講話』に記す。5月に[[東京大学|東大]]教養学部で、[[全学共闘会議|全共闘]]主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった[[芥正彦]]、[[小阪修平]]らと[[国家]]・[[天皇]]などについて激論を交わした<ref>その時のやり取りは『討論・三島由紀夫VS.東大全共闘-美と共同体と東大闘争』、新潮社、1969年、新版は角川文庫刊)にある</ref>。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年に、映画『人斬り』([[五社英雄]]監督)に出演([[薩摩藩]]士[[田中新兵衛]]役)。[[勝新太郎]]、[[石原裕次郎]]、[[仲代達矢]]らと共演した。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った[[日本学生同盟]]の[[森田必勝]]らは、三島事件の中心メンバーとなった。 |
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[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]、[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]内[[東部方面総監部]]の総監室を[[森田必勝]]ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如[[益田兼利]]総監を、[[人質]]にして[[籠城]]。[[バルコニー]]から檄文を撒き、自衛隊の決起・[[クーデター]]を促す[[演説]]をした直後に[[切腹|割腹]][[自決]]した([[三島事件]])、{{没年齢|1925|1|14|1970|11|25}}。決起当日の朝に、間接的に担当編集者([[小島千加子]])へ渡された『豊饒の海 第四部 [[天人五衰]]』最終回が[[遺作]]<ref>1970年夏の時点で既に、結末部は脱稿していたが、巻末日付は11月25日と記載した。</ref>となった。介錯に使われた自慢の名刀「[[孫六兼元|関孫六]]」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の[[軍刀]]拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の[[舩坂弘]]は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。友人で葬儀で弔辞を読んだ[[武田泰淳]]は、自決する時期は、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった[[村松友視]]は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。<ref>[[村松友視]]『夢の始末書』角川書店</ref>。 |
[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]、[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]内[[東部方面総監部]]の総監室を[[森田必勝]]ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如[[益田兼利]]総監を、[[人質]]にして[[籠城]]。[[バルコニー]]から檄文を撒き、自衛隊の決起・[[クーデター]]を促す[[演説]]をした直後に[[切腹|割腹]][[自決]]した([[三島事件]])、{{没年齢|1925|1|14|1970|11|25}}。決起当日の朝に、間接的に担当編集者([[小島千加子]])へ渡された『豊饒の海 第四部 [[天人五衰]]』最終回が[[遺作]]<ref>1970年夏の時点で既に、結末部は脱稿していたが、巻末日付は11月25日と記載した。</ref>となった。介錯に使われた自慢の名刀「[[孫六兼元|関孫六]]」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の[[軍刀]]拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の[[舩坂弘]]は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。友人で葬儀で弔辞を読んだ[[武田泰淳]]は、自決する時期は、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった[[村松友視]]は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。<ref>[[村松友視]]『夢の始末書』角川書店</ref>。 |
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== 略年譜 == |
== 略年譜 == |
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* [[1925年]]([[大正]]14年) |
* [[1925年]]([[大正]]14年) |
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:1月14日 - 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市)。 |
:1月14日 - [[東京市]][[四谷区]]永住町(現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]])に生まれる。[[本籍|本籍地]]は[[兵庫県]][[印南郡]][[志方村]](現・兵庫県[[加古川市]])。 |
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* [[1930年]]([[昭和]]5年) |
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:1月 - [[自家中毒]]に罹り、死の一歩手前までいく。 |
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* [[1931年]](昭和6年) |
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:4月 - [[学習院]]初等科に入学。 |
:4月 - [[学習院]]初等科に入学。 |
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* [[1934年]](昭和9年) |
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:12月 - [[肺門リンパ線]]を患う。 |
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* [[1937年]](昭和12年) |
* [[1937年]](昭和12年) |
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:4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。 |
:4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。 |
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* [[1938年]](昭和13年) |
* [[1938年]](昭和13年) |
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:3月 - 『酸模-秋彦の幼き思い出。座禅物語。中一句(短歌四首)。詩-金鈴、光は普く漲り、雨、海、墓場ほか三篇』(『輔仁會雑誌』一六一号)。 |
:3月 - 『酸模-秋彦の幼き思い出。座禅物語。中一句(短歌四首)。詩-金鈴、光は普く漲り、雨、海、墓場ほか三篇』(『輔仁會雑誌』一六一号)。 |
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:4月 - 成城高校から清水文雄先生就任。 |
:4月 - 成城高校から[[清水文雄]]先生就任。 |
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* [[1940年]](昭和15年) |
* [[1940年]](昭和15年) |
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:1月 - 川路柳虹宅を母と訪問。俳句・詩を川路に師事し、平岡青城名で「山梔」に発表。詩作『凶ごと』。 |
:1月 - [[川路柳虹]]宅を母と訪問。俳句・詩を川路に師事し、平岡青城名で「山梔」に発表。詩作『凶ごと』。 |
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:12月 - 東文彦、徳川義恭と交友を持つ。 |
:12月 - [[東文彦]]、[[徳川義恭]]と交友を持つ。 |
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* [[1941年]](昭和16年) |
* [[1941年]](昭和16年) |
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:4月 - 『輔仁會雑誌』編集長に選任される。 |
:4月 - 『輔仁會雑誌』編集長に選任される。 |
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:7月 - 川路柳虹の紹介で[[萩原朔太郎]]を訪問。 |
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:9月 - 『花ざかりの森』(同人誌『文藝文化』四巻九号から十二号まで四回連載)。 |
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:9月 - [[ペンネーム]]を三島由紀夫とし、『[[花ざかりの森]]』(同人誌『[[文藝文化]]』四巻九号から十二号まで四回連載)。[[蓮田善明]]に激賞される。 |
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* [[1942年]](昭和17年) |
* [[1942年]](昭和17年) |
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:3月 - 学習院中等科卒業(席次は2番) |
:3月 - 学習院中等科卒業(席次は2番)。 |
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:4月 - [[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類(ドイツ語)に入学。 |
:4月 - [[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類(ドイツ語)に入学。 |
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:7月 - 東文彦、徳川義恭の三人で、同人誌『赤繪』を創刊。 |
:5月 - 文芸部委員長に選任される。 |
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:7月 - 東文彦、徳川義恭の三人で、同人誌『[[赤繪]]』を創刊。 |
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:11月 - 清水文雄と共に、初めて[[保田與重郎]]を訪問。 |
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* [[1943年]](昭和18年) |
* [[1943年]](昭和18年) |
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:1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。 |
:1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。 |
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:2月 - 『輔仁會』の総務部総務幹事となる。 |
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:6月 - [[富士正晴]]に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人[[林富士馬]]に電話をして三島を連れて行く。その後林と文学的文通、交際が深まる。 |
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:6月 - [[富士正晴]]に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人[[林富士馬]]に電話をして三島を連れて行く。その後林と文学的文通、交際が深まる。このころ蓮田善明とも顔を会わせる。 |
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:夏 - 伊東静雄を訪ねる。 |
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:7月 - 徳川義恭と共に、[[志賀直哉]]を訪問。 |
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* [[1944年]](昭和19年) |
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:10月 - 富士、林と共に、[[佐藤春夫]]を訪問。 |
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:5月 - [[本籍|本籍地]]兵庫県印南郡志方村(現加古川市)で徴兵検査を受け、第二乙種に合格。 |
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* [[1944年]](昭和19年) |
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:9月 - 学習院高等科を首席で卒業し、宮中に参内し、天皇陛下より恩賜の銀時計を拝受。 |
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:4月 - [[徴兵検査]]通達書を受け取る。発信者は、本籍地兵庫県印南郡志方村村長・[[陰山憲二]]。 |
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:10月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)に推薦入学。『花ざかりの森』(処女小説集)七丈書院刊。 |
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:5月 - 本籍地兵庫県印南郡志方村(現加古川市)で徴兵検査を受け、[[第二乙種]]に合格。その足で[[伊東静雄]]を訪問。 |
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:9月 - 学習院高等科を首席で卒業し、宮中に参内し、天皇陛下より[[恩賜]]の銀時計を拝受。 |
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:10月 - [[東京帝国大学]][[法学]]法律学科(独法)に推薦入学。『花ざかりの森』(処女小説集)七丈書院刊。 |
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* [[1945年]](昭和20年) |
* [[1945年]](昭和20年) |
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:1月 - [[学徒動員]]に伴い、東京帝国大学勤労報国隊として[[群馬県]]新田郡太田町東矢島寮、11寮、35号室に入る。 |
:1月 - [[学徒動員]]に伴い、東京帝国大学勤労報国隊として[[群馬県]][[新田郡]][[太田市|太田町]]東矢島寮、11寮、35号室に入る。 |
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:2月 - 『中世』第一回、第二回(未完)(雑誌「文藝世紀」二月号) |
:2月 - 『中世』第一回、第二回(未完)(雑誌「文藝世紀」二月号)。[[入営通知]]の電報が来る。出立までに[[遺書]]を書き、[[遺髪]]と[[遺爪]]を用意する。兵庫県富合村で[[入隊検査]]を受け、右[[肺浸潤]]の診断が下され、即日帰郷となる。 |
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:5月 - [[学徒動員]]に伴い、[[神奈川県]]高座郡大和の[[海軍]]高座[[工廠]]に配置され第五[[工員寄宿舎]]に入る。 |
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:8月 - 『エスガイの狩』(雑誌「文藝」五六月合併号)。 |
:8月 - 『エスガイの狩』(雑誌「文藝」五六月合併号)。 |
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* [[1946年]](昭和21年) |
* [[1946年]](昭和21年) |
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:1月 - [[川端康成]]を初めて訪問。 |
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:6月 - 『煙草』(雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』六月号)。 |
:6月 - 『煙草』(雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』六月号)。 |
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:11月 - 『岬にての物語』(新人選書)。 |
:11月 - 『岬にての物語』(新人選書)。 |
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:12月 - [[太宰治]]に会う。 |
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* [[1947年]](昭和22年) |
* [[1947年]](昭和22年) |
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:11月 - 東京大学法学部法律学科卒業。 |
:11月 - 東京大学法学部法律学科卒業。 |
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:12月 - 高等文官試験合格。大蔵省大蔵事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務。 |
:12月 - [[高等文官]]試験合格。[[大蔵省]]大蔵事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務。 |
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* [[1948年]](昭和23年) |
* [[1948年]](昭和23年) |
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:3月 - 『盗賊・第五、第六章』完結=擱筆。 |
:3月 - 『盗賊・第五、第六章』完結=擱筆。 |
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:9月 - 願に依って大蔵省本官を |
:9月 - 願に依って大蔵省本官を退職。 |
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:10月 - 河出書房の同人誌『序曲』の創刊に参加 |
:10月 - 河出書房の同人誌『序曲』の創刊に参加 |
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* [[1949年]](昭和24年) |
* [[1949年]](昭和24年) |
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* [[1956年]](昭和31年) |
* [[1956年]](昭和31年) |
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:4月 - 『近代能楽集』 |
:4月 - 『近代能楽集』 |
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:9月 - [[ボクシング]]を始める(1957年6月ごろまで)。 |
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:11月 - 『[[鹿鳴館 (戯曲)]]』文学座にて初演。[[文学座]]に入団。 |
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:12月 -『鹿鳴館』、毎日演劇賞。『永すぎた春』。 |
:12月 -『鹿鳴館』、毎日演劇賞。『永すぎた春』。 |
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* [[1957年]](昭和32年) |
* [[1957年]](昭和32年) |
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:3月 - 『美徳のよろめき』(雑誌『群像』四月号から六月号まで連載)。 |
:3月 - 『美徳のよろめき』(雑誌『群像』四月号から六月号まで連載)。 |
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* [[1958年]](昭和33年) |
* [[1958年]](昭和33年) |
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:6月 - 画家[[杉山寧]]の娘、瑤子と結婚。その後 |
:6月 - 画家[[杉山寧]]の娘、瑤子と結婚。その後本籍を兵庫県印南郡志方町上富木から[[東京都]][[目黒区]][[緑が丘 (目黒区)|緑が丘]]に移す。 |
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:11月 - 本格的に剣道を始める。 |
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* [[1959年]](昭和34年) |
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* [[1959年]](昭和34年) |
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:6月 - [[文章読本]] |
:6月 - [[文章読本]] |
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:9月 - 『鏡子の家』書き下ろし長編小説第一部(上巻)第二部(下巻) |
:9月 - 『鏡子の家』書き下ろし長編小説第一部(上巻)第二部(下巻) |
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* [[1961年]](昭和36年) |
* [[1961年]](昭和36年) |
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:3月 - 『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。 |
:3月 - 『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。 |
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:4月 - 剣道初段に合格。 |
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:6月 - 『獣の戯れ』(『週刊新潮』6月20日から9月4日号まで連載)。 |
:6月 - 『獣の戯れ』(『週刊新潮』6月20日から9月4日号まで連載)。 |
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* [[1962年]](昭和37年) |
* [[1962年]](昭和37年) |
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:10月 - 『美しい星』。 |
:10月 - 『美しい星』。 |
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* [[1963年]](昭和38年) |
* [[1963年]](昭和38年) |
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:3月 - 剣道2段に合格。 |
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:9月 - 『午後の曳航』書き下ろし長編。『剣』(雑誌『新潮』十月号)。 |
:9月 - 『午後の曳航』書き下ろし長編。『剣』(雑誌『新潮』十月号)。 |
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:11月 - 『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団([[喜びの琴事件]])。[[朝日新聞]]紙上にて『文学座の諸君への公開状〜「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。 |
:11月 - 『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団([[喜びの琴事件]])。[[朝日新聞]]紙上にて『文学座の諸君への公開状〜「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。 |
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* [[1964年]](昭和39年) |
* [[1964年]](昭和39年) |
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:3月 - 剣道3段に合格。 |
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:11月 - 『絹と明察』第6回[[毎日芸術賞]]受賞。 |
:11月 - 『絹と明察』第6回[[毎日芸術賞]]受賞。 |
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* [[1965年]](昭和40年) |
* [[1965年]](昭和40年) |
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:8月 - 『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。 |
:8月 - 『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。 |
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:11月 - 『サド侯爵夫人』。 |
:11月 - 『サド侯爵夫人』。 |
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* [[1966年]](昭和41年) |
* [[1966年]](昭和41年) |
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:5月 - 居合を始める。 |
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:6月 - 『英霊の聲』。剣道4段に合格。 |
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* [[1967年]](昭和42年) |
* [[1967年]](昭和42年) |
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:1月 - 第二部『奔馬』連載開始。 |
:1月 - 第二部『奔馬』連載開始。 |
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:2月 - 居合初段に合格。 |
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:4月 - 自衛隊に体験入隊する。 |
:4月 - 自衛隊に体験入隊する。 |
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:10月 - 「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。 |
:10月 - 「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。 |
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* [[1968年]](昭和43年) |
* [[1968年]](昭和43年) |
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:8月 - 第三部『暁の寺』連載開始。 |
:8月 - 第三部『暁の寺』連載開始。剣道5段に合格。 |
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:10月 - 「楯の会」結成。 |
:10月 - 「楯の会」結成。 |
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* [[1969年]](昭和44年) |
* [[1969年]](昭和44年) |
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: 『文化防衛論』発表。東大[[全学共闘会議|全共闘]]主催の討論会に出席。映画『人斬り』([[五社英雄]]監督)に出演。 |
: 『文化防衛論』発表。東大[[全学共闘会議|全共闘]]主催の討論会に出席。映画『人斬り』([[五社英雄]]監督)に出演。 |
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* [[1970年]](昭和45年) |
* [[1970年]](昭和45年) |
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:6月 - 第四巻『天人五衰』連載開始。 |
:6月 - 第四巻『天人五衰』連載開始。空手初段に合格。 |
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:11月25日 - 陸上自衛隊東部方面総監部に乱入([[三島事件]])。[[森田必勝]]と共に割腹自決する。 |
:11月25日 - 陸上自衛隊東部方面総監部に乱入([[三島事件]])。[[森田必勝]]と共に割腹自決する。 |
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== 作風・評価 == |
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三島文学の文体は、終始[[修辞技法|レトリック]]を多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ[[余韻]]のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と[[分析]]している。<ref>http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html</ref> |
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三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった[[二元論]]的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『[[太陽と鉄]]』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている<ref>虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集Ⅰ』序文[[講談社文芸文庫]]、2006年 ISBN 406198439X </ref>)。 |
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近代日本文学史の傾向においては、ロマン主義、耽美主義に分類されている。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者を[[イロニー|アイロニカル]]に接合している事が指摘される。[[ジョルジュ・バタイユ]]的な生と死の合一といった[[エロティシズム]]観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。また作品の人工性も指摘される。十歳の時に書いたという小品『世界の驚異』から、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『[[鏡子の家]]』、最晩年の『[[豊饒の海]]』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品には[[ニヒリズム]]的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった<ref>井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年</ref>。 |
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三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、[[私小説]]的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海3巻 暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう<ref>[[青海健]]『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』 [[小沢書店]]、2000年</ref>。 |
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これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前に[[ギリシア]]旅行で得た、明朗な「[[アポロン]]的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。 |
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== 三島の持論 == |
== 三島の持論 == |
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=== 改憲論 === |
=== 改憲論 === |
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三島が楯の会での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起(日本國憲法)』<ref>『決定版 |
三島が楯の会での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起(日本國憲法)』<ref>『決定版 三島由紀夫全集』([[新潮社]])第36巻に収録されている</ref>では、[[日本国憲法第9条]]は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして同条第2項では自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「国家として死ぬ」しかない。それではいけないから、政府はいわゆる解釈改憲という「牽強付会の説」を立て、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づ」いて自衛隊を創設したと三島は考えた。なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」と距離を置いている。 |
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さらに、改憲に当たっては同条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」はずなのに日本国憲法だけがそれを謳うのは「不公平不調和」であり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、第9条すべての削除を主張した。また同書では、改憲にあたっては第9条のみならず[[日本国憲法第1章|第1章]]「天皇」の問題と、[[日本国憲法第20条|第20条]]に関する[[神道]]の問題と関連させて考えなければ日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。その上で、日本の体面回復のためには憲法9条を改正し、日米安保を双務条約に改正するだけでは足りず、日本国軍を設立して憲法に「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定するべきであると主張している。 |
さらに、改憲に当たっては同条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」はずなのに日本国憲法だけがそれを謳うのは「不公平不調和」であり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、第9条すべての削除を主張した。また同書では、改憲にあたっては第9条のみならず[[日本国憲法第1章|第1章]]「天皇」の問題と、[[日本国憲法第20条|第20条]]に関する[[神道]]の問題と関連させて考えなければ日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。その上で、日本の体面回復のためには憲法9条を改正し、日米安保を双務条約に改正するだけでは足りず、日本国軍を設立して憲法に「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定するべきであると主張している。 |
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# 忠臣たるべき[[二・二六事件|2・26事件]]の反乱将校らを厳重に処罰させたこと |
# 忠臣たるべき[[二・二六事件|2・26事件]]の反乱将校らを厳重に処罰させたこと |
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# いわゆる『[[人間宣言]]』により、「神としての天皇のために死んだ」[[特別攻撃隊|特攻隊]]隊員らを裏切ったこと |
# いわゆる『[[人間宣言]]』により、「神としての天皇のために死んだ」[[特別攻撃隊|特攻隊]]隊員らを裏切ったこと |
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であり、三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の[[霊]]に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。 |
であり、三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の[[霊]]に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。また同時に、昭和天皇の側近だった[[幣原喜重郎]]も批判している。 |
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[[高橋睦郎]]によると、三島は昭和天皇について「彼には[[エロティシズム]]を感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「[[三田明]]が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという<ref>[[中条省平]]編『続・三島由紀夫が死んだ日』p.185、[[実業之日本社]]、[[2005年]]</ref>。 |
[[高橋睦郎]]によると、三島は昭和天皇について「彼には[[エロティシズム]]を感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「[[三田明]]が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという<ref>[[中条省平]]編『続・三島由紀夫が死んだ日』p.185、[[実業之日本社]]、[[2005年]]</ref>。 |
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三島は[[福田恆存]]との対談<ref>「文武両道と死の哲学」(『論争ジャーナル』1967年11月号)、のち「若きサムライのために」(文春文庫、1996年)で再版。</ref>において、[[井上光晴]]の「三島さんは、おれよりも天皇に過酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。 |
三島は[[福田恆存]]との対談<ref>「文武両道と死の哲学」(『論争ジャーナル』1967年11月号)、のち「若きサムライのために」(文春文庫、1996年)で再版。</ref>において、[[井上光晴]]の「三島さんは、おれよりも天皇に過酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。 |
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なお、鈴木邦男によると、楯の会の憲法研究会において、{{要出典範囲|三島は自身の持論をメモに残しているという。その中では、天皇は国体であり、「神勅を奉じて祭祀を司り」、「国軍の栄誉の源」であるという原則とともに「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」と書かれており、三島が女系天皇を容認していたことが分かるという<!--と記述できる出典・資料を明記して下さい-->|date=2012年3月}}。また、当時この持論はほとんど賛同を得られなかったが、近年皇位継承問題が表面化したことから注目を集めているという見解を、鈴木邦男は示し、戦後昭和天皇が側室制度を廃止し、11宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来皇統問題が必ず起こることを三島は予見していたのではないか、と推測している<ref> 「『女帝』を認めた三島の真意」(『遺魂 三島由紀夫と野村秋介の軌跡』、無双舎、2010年 ISBN 4864084394)</ref>。つまり、この見解も昭和天皇への批判ということになるという。 |
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しかし実際には、鈴木邦男が主張している「三島が女系天皇を容認していたことを示すメモ」なるものは存在していない。鈴木の見解の元としている出典の[[松藤竹二郎]]の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は「新憲法に於ける<日本>の欠落」と「『戦争の放棄』について」と「『[[非常事態法]]』について」の3章から成る『問題提起』<ref>決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論にも収められている</ref>という論文だけである。そこには、天皇の皇位継承の男系・女系については一切触れられていない。松藤の著書を仔細に読むと、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」というものは、三島の死後に、楯の会の憲法研究会で話し合われた案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の憲法研究会の総意ですらない。よって憲法研究会の話し合いの結論も、「<継承は男系子孫に限ることはない>という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、憲法研究会のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた楯の会会員・[[阿部勉]]の提案でもあった「[[女帝]]を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている<ref>松藤竹二郎『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』(毎日ワンズ 2005年)</ref>。 |
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その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『[[風流夢譚]]』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に[[毛呂清輝]]らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。 |
その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『[[風流夢譚]]』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に[[毛呂清輝]]らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。 |
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長く昭和天皇に側近として仕えた[[入江相政]]の日記(『[[入江相政日記]]』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある。<ref>[[松本健一]]『三島由紀夫の二・二六事件』([[文春新書]]、2006年)、『畏るべき昭和天皇』([[毎日新聞社]]、2007年 |
長く昭和天皇に側近として仕えた[[入江相政]]の日記(『[[入江相政日記]]』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある。<ref>[[松本健一]]『三島由紀夫の二・二六事件』([[文春新書]]、2006年)、『畏るべき昭和天皇』([[毎日新聞社]]、2007年 / 新潮文庫、2011年)、[[原武史]]『昭和天皇』([[岩波新書]]、2008年)など。</ref> |
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=== 漫画に対して === |
=== 漫画に対して === |
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327行目: | 377行目: | ||
===『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判=== |
===『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判=== |
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[[1998年]]([[平成]]10年)、[[福島次郎]]が[[文藝春秋]]社から小説『[[三島由紀夫-剣と寒紅]]』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであ |
[[1998年]]([[平成]]10年)、[[福島次郎]]が[[文藝春秋]]社から小説『[[三島由紀夫-剣と寒紅]]』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであった。しかし[[板坂剛]]によると福島は三島のストーカーであったという。三島から福島に送られた15通の手紙の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ところが、「この手紙を原文のまま著書に掲載したのは著作権侵害」であるとして、三島由紀夫の相続人2人は「著者の福島と出版元である文藝春秋社に出版差し止め、著作権侵害による損害賠償を求めて[[民事裁判]]を起こした。 |
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一審、二審ともに「事務的な内容(文藝春秋社側の手紙は実用的な通信文であり著作物にあたらないとの主張)の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」と三島の自筆の手紙であることが認められ、原告が勝訴した。 |
一審、二審ともに「事務的な内容(文藝春秋社側の手紙は実用的な通信文であり著作物にあたらないとの主張)の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」と三島の自筆の手紙であることが認められ、原告が勝訴した。 |
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[[2000年]](平成12年)、[[最高裁判所]]は「著者側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらない」と、福島と文藝春秋側の上告を棄却し、これにより、手紙も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は内容に関しての真偽についてではなかった。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通した。 |
[[2000年]](平成12年)、[[最高裁判所]]は「著者側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらない」と、福島と文藝春秋側の上告を棄却し、これにより、手紙も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は内容に関しての真偽についてではなかった。というのは、あらかじめこの著書にはアリバイ的に本のなかで『小説』と銘うっていたからである。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通した。 |
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== 家族 親族 == |
== 家族 親族 == |
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; 実家 |
; 実家 |
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;; 祖父・[[平岡定太郎|定太郎]](官僚) |
;; 祖父・[[平岡定太郎|定太郎]](官僚) |
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:[[1863年]]([[文久]]3年)[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]生 - [[1942年]]([[昭和]]17年)[[8月26日]]没(享年79) |
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:1892年(明治25年)、[[帝国大学]]法科大学(現・[[東京大学法学部]])卒業。[[内務省]]に入省。その後、[[徳島県]][[参事官]]、[[栃木県]][[警部]]長、[[衆議院]][[書記官]]、衆議院書記官兼内務省参事官、内務省参事官兼内務[[事務官]]、[[高等文官試験]]官、[[広島]]・[[宮城]]・[[大阪府]]内務部長を歴任。1906年(明治39年)7月、[[福島県知事]]に就任。1908年(明治41年)6月11日、[[樺太]]庁長官に就任。1914年(大正3年)6月、反[[政友会]]の[[農商務大臣]]・[[大浦兼武]]の策謀による公金流用疑惑のため樺太庁長官を辞任(のちに無罪判決)。1930年(昭和5年)8月、定太郎を顕彰する[[銅像]]が[[樺太神社]]に建立される。1942年(昭和17年)8月26日、死去。[[菩提寺]]は[[愛宕]]の[[青松寺]]。 |
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[[File:Hiraoka Teitarou and Natu.jpg|thumb|200px|right|<center>平岡定太郎と妻ナツ<br /></center>]] |
[[File:Hiraoka Teitarou and Natu.jpg|thumb|200px|right|<center>平岡定太郎と妻ナツ<br /></center>]] |
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:「三島由紀夫の無視された家系」(『[[月刊噂]]』1972年8月号)59-60頁によれば、「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは[[1893年|明治二六年]]、大学を卒業した翌年のことである。何と言っても[[帝国大学|帝大]]出の“[[学士 (法学)|学士]]さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”と言われた時代だから、奈徒も不自然なく嫁いできたものと思われる。奈徒は、父は[[永井尚志|永井玄番頭]]の嗣子、その母は[[宍戸藩]]の[[松平頼位]]の娘、[[松平頼徳|松平大炊守]]の妹というれっきとした名流の[[士族]]であった。[[百姓]]の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、この時はじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性も激しかった。[[徳川氏|徳川家]]重臣の[[嫡流]]という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである…」という<ref name="uwasa"/>。 |
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;; 祖母・奈徒(夏・なつ、東京府[[士族]]・元[[大審院]]判事[[永井岩之丞]]の娘、幕臣[[永井尚志]]の孫) |
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;; 祖母・[[平岡なつ|夏子]](戸籍名・なつ)(東京府[[士族]]・元[[大審院]]判事[[永井岩之丞]]の娘、幕臣[[永井尚志]]の孫) |
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:[[明治]]9年([[1876年]])[[6月]]生 - [[昭和]]14([[1939年]])[[1月]]没 |
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:[[1876年]]([[明治]]9年)[[6月27日]]生 - [[1939年]](昭和14年)[[1月18日]]没(享年62) |
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:[[野坂昭如]]の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「[[1893年|明治二六年]]、なつは満十七で定太郎の[[妻]]となった。ほんの二十年前までは、[[名門]]の武家の娘と[[町人]]、ましてや[[百姓]]の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、[[江戸時代]]なら直参と[[陪臣]]、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。[[士分]]以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その[[養女]]として後、嫁がせた。[[鹿鳴館]]時代を過ぎ、[[教育勅語]]も発布された。[[文明開化]]の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府[[若年寄]]である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている[[百姓]]の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、[[卒業]]は八年おくれているのだ、まことに不自然。」という。 |
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:なつの母・高は、[[水戸]]の[[支藩]]・[[宍戸藩]]の[[藩主]][[松平頼位]]とその[[側室]]・糸との間に生まれた。なつは1888年(明治21年)の12歳から1893年(明治26年)11月27日、17歳で平岡定太郎と結婚するまでの期間、[[有栖川宮熾仁]][[親王]]の屋敷に行儀見習いとして仕える。定太郎との間に一人息子の梓を儲ける。1939年(昭和14年)1月18日、[[潰瘍]]出血のため死去。 |
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:[[野坂昭如]]の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「[[1893年|明治二六年]]、なつは満十七で定太郎の[[妻]]となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と[[町人]]、ましてや[[百姓]]の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、[[江戸時代]]なら直参と[[陪臣]]、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。[[士分]]以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その[[養女]]として後、嫁がせた。[[鹿鳴館]]時代を過ぎ、[[教育勅語]]も発布された。[[文明開化]]の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は[[徳川氏|徳川]]の枝に連なり、父方のそれは幕府[[若年寄]]である娘と、[[播州]]の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」という<ref name="nosaka"/>。 |
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:[[平岡梓|梓]]によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいは[[性病|トリッペル]]にとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な[[坐骨神経痛]]にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの[[医者]]のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、[[家柄]]を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどい[[ヒステリー]]になる。この大型[[台風]]はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」(『倅・三島由紀夫』)という。 |
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:[[平岡梓|梓]]によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいは[[淋病|トリッペル]]にとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な[[坐骨神経痛]]にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどい[[ヒステリー]]になる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」という<ref name="azusa"/>。 |
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;; 父・[[平岡梓|梓]](官僚) |
;; 父・[[平岡梓|梓]](官僚) |
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:[[明治 |
:[[1894年]](明治27年)[[10月12日]]生 - [[1976年]](昭和51年)[[12月16日]]没(享年82) |
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:1920年(大正9年)、[[東京帝国大学]]法学部法律学科(独法)卒業。[[農商務省]](現・[[農林水産省]])に入る。1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、終戦で会社は機能停止、政府命令で閉鎖される。1976年(昭和51年)12月16日、肺に溜まった膿漿による呼吸困難のため死去。 |
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:農林省で梓の7年後輩の[[楠見義男]]によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。…入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”といわれた、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の[[岸信介|岸さん]]も“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という<ref>猪瀬直樹『ペルソナ <small>三島由紀夫伝</small>』</ref>。 |
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:農林省で梓の7年後輩の[[楠見義男]]によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。(中略)入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”と言われた」、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の[[岸信介|岸さん]]も“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という<ref name="inose"/>。一方、[[増村保造]](三島が主演した映画『[[からっ風野郎]]』の監督)は映画完成後、三島邸に招待された際、梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われ驚いたという。増村は三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道に、「明治生まれの男は偉い」と梓をほめていたという<ref name="fujii">[[藤井浩明]]「座談会 映画製作の現場から」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)</ref>。 |
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;; 母・[[平岡倭文重|倭文重]](漢学者[[橋健三]](開成中学の5代目校長)の娘) |
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:[[明治]]38年([[1905年]])[[2月]]生 - 昭和62年([[1987年]])[[10月]]没 |
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;; 祖父・[[橋健三]]([[漢学者]]) |
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:[[1861年]]([[万延]]2年)[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]生 - [[1944年]](昭和19年)[[12月5日]]没(享年84) |
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:[[加賀藩士]]の父・[[瀬川朝治]]と母・ソトの間に二男として生まれ、[[武士]]の血をひく。健三は幼少より漢学者・[[橋健堂]]に学んだ。1873年(明治6年)、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの[[婿養子]]となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり、藩主・[[前田直行]]に講義を行うほどの秀才だったという。やがて健三は妻子を連れて上京し、[[小石川]]に学塾を開く。1888年(明治21年)、[[共立学校]]に招かれて漢文と倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミ(を後妻とした。1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わる。1910年(明治43年)、第二開成中学校(神奈川県[[逗子町]])の分離独立に際して、健三は[[開成中学校]]の第5代[[校長]]に就任した。校長を辞職後は、[[昌平高等学校 (1948-1969)|昌平中学]](夜間学校)の校長として、勤労青少年の教育に尽力した。1944年(昭和19年)12月5日、故郷の金沢で永眠<ref name="hashike">[[岡山典弘]]「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)</ref>。 |
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;; 伯父・[[橋健行]]([[精神科医]])(漢学者・橋健三の長男、倭文重の兄) |
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:[[1884年]](明治17年)[[2月6日]]生 - [[1936年]](昭和11年)[[4月18日]]没(享年52) |
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:健行は、開成中学、一高、東大医科精神病学部と進むが、常に首席であったという<ref>斎藤茂吉は『回顧』のなかで、「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、[[解剖学]]の[[西成甫]]君、[[生理学]]の[[橋田邦彦]]君、[[精神学]]の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた」と記している</ref>。1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の[[松沢病院]](東京府巣鴨病院)の副院長に就任。その後、1927年(昭和2年)、[[千葉医科大学]](現在の[[千葉大学]]医学部)[[助教授]]に就任した。歌人の[[斎藤茂吉]]とは親友同士であった。1936年(昭和11年)4月18日、[[肺炎]]をこじらせ急逝する<ref name="hashike"/>。 |
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;; 母・[[平岡倭文重|倭文重]](漢学者・橋健三の次女、加賀藩学問所、「壮猶館」教授・橋健堂の孫) |
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:[[1905年]](明治38年)[[2月18日]]生 - [[1987年]](昭和62年)[[10月21日]]没(享年82) |
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:倭文重の母・トミは、加賀藩学問所、「壮猶館」教授・[[橋健堂]]の五女。橋家は[[加賀藩主]]・[[前田家]]に代々仕えた。倭文重は1922年(大正11年)、三輪田高等女学校を卒業後、1924年(大正13年)4月19日、平岡梓と結婚。梓との間に、公威、美津子、千之の二男一女を儲ける。1987年(昭和62年)10月21日、心不全のため死去。 |
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;; 妹・[[平岡美津子|美津子]] |
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:[[1928年]](昭和3年)[[2月23日]]生 - [[1945年]](昭和20年)[[10月23日]]没(享年17) |
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:[[聖心女学院]]在学中の1945年(昭和20年)10月10日、[[学徒動員]]で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で[[腸チフス]]を発病する。母・倭文重と三島が交代で看病するが、同月23日、大久保の避病院で死去。三島は号泣したという。 |
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:三輪田高等女学校時代の同級生に板谷諒子([[湯浅あつ子]]の妹)、聖心女学院の同級生に[[紀平悌子|佐々悌子]]がいた。美津子の死後、三島は佐々悌子と1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)頃<ref>[[紀平悌子]]「三島由紀夫の手紙」(『[[週刊朝日]]』1974年12月13日号連載手記)</ref>、板谷諒子とは1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)頃、親交を持つ<ref>解題・[[岸田今日子]]との対話「25周年 最後の秘話」([[猪瀬直樹]]『ペルソナ 三島由紀夫伝』)(小学館、2001年)</ref>。 |
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;; 弟・[[平岡千之|千之]](外交官) |
;; 弟・[[平岡千之|千之]](外交官) |
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:[[1930年]](昭和5年)[[1月19日]]生 - [[1996年]]([[平成]]8年)[[1月9日]]没(享年65) |
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:1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業。同年、[[外務省]]に入省。[[フランス]]や[[セネガル]]など各国に駐在。1987年(昭和62年)3月31日、4月2日付で駐[[モロッコ]]大使に任命される。駐[[ポルトガル]]大使などを歴任した。引退後、1996年(平成8年)1月9日、肺炎のため死去。 |
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;; 妹・美津子 |
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:昭和3年([[1928年]])[[2月]]生 - [[昭和]]20年([[1945年]])[[10月]]没 |
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; 自家 |
; 自家 |
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;; 妻・[[平岡瑤子|瑤子]](画家[[杉山寧]]の娘) |
;; 妻・[[平岡瑤子|瑤子]](画家・[[杉山寧]]の娘) |
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:[[1937年]](昭和12年)[[2月13日]]生 - [[1995年]](平成7年)[[7月31日]]没(享年58) |
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:[[日本女子大学]]英文科2年在学中の1958年(昭和33年)6月1日、三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。1995年(平成7年)7月31日、急性心不全のため死去。 |
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;; 長女・[[平岡紀子|紀子]](演出家) |
;; 長女・[[平岡紀子|紀子]](演出家) |
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:[[昭和 |
:[[1959年]](昭和34年)[[6月2日]]生 - |
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:1990年(平成2年)9月24日、冨田浩司([[外交官]])と結婚。富田との間に二女一男がいる。 |
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;; 長男・[[平岡威一郎|威一郎]](元実業家) |
;; 長男・[[平岡威一郎|威一郎]](元実業家) |
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:[[1962年]](昭和37年)[[5月2日]]生 - |
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:映画の助監督を経て、[[1988年]][[9月9日]]、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店した。 |
:映画の助監督を経て、[[1988年]][[9月9日]]、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店した。映画「[[春の雪]]」、「三島由紀夫映画論集成」(ワイズ出版、1999年)の監修、編集に携わる。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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; 平岡家(兵庫県[[加古川市]]、[[東京都]]) |
; 平岡家(兵庫県[[加古川市]]、[[東京都]]) |
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:祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]の[[本籍]]は、兵庫県[[印南郡]][[志方町|志方村]]上富木(現在の[[加古川市]]志方町上富木)で、その昔、まだ村と呼ばれていた頃、ここは[[農業]]、[[漁業]]、[[塩田]]が盛んであった。附近には[[景行天皇]]の皇后・[[播磨稲日大郎姫]]の[[御陵]]があり、その皇子・[[日本武尊]]の誕生の地という古代史上、意義のある地でもある。この地は古代において港であったので、[[三韓征伐]]の折、[[神功皇后]]が龍船を泊めた。皇后は野鹿の群が多いのを見て、この地を「鹿多」と呼んだ。のちに、この「鹿多」を「志方」と改めたというのが地名の由来である。1573年 - 1591年頃([[天正]]の頃)[[櫛端左京亮]]が観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となる。[[豊臣秀吉|秀吉]]の[[中国征伐]]にあたり、城主・櫛橋は、[[播磨国|東播]]の[[三木城]]主・[[別所長治]]と共に抗戦し落城した。このため多くの武士、学者は土着化し、城下町志方の様子は著しく変化したという<ref name="etugu">越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)</ref>。またこの地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、[[関東大震災]]のあとに登場した[[遷都]]論で候補地の一つに挙がった<ref>[[今村均]]『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、新版1993年)</ref>。[[阪神大震災]]のときも加古川流域はほとんど被害がなかったという。 |
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: 三代目利兵衛(五代)のとき、[[農業]]のかたわら[[商売]]を始め<ref>[[猪瀬直樹]]『ペルソナ <small>三島由紀夫伝</small>』 、113頁 文藝春秋、1995年</ref>、[[塩]]をまぶした魚介類などを売り歩いた<ref>『極説・三島由紀夫』 87頁「住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは[[酒屋]]一軒だけであり、その家は[[庄屋]]だった。平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく[[塩]]をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、[[塩]]そのものを[[販売]]していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」とある</ref>。[[屋号]]は〈しおや〉<ref>『月刊 噂 八月号 <small>三島由紀夫の無視された家系</small>』 52頁には「[[菩提寺]]真福寺の[[過去帳]]によると、平岡家初代“孫左衛門”の肩には〈しおや〉という屋号のようなものが記されている」とある。しかし猪瀬直樹『ペルソナ <small>三島由紀夫伝</small>』、112頁、文藝春秋、1995年によれば、「屋号は孫左衛門ではなく、三代目利兵衛のところに付いており、しかも塩屋ではなく塩物屋である」という。</ref>。 |
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:平岡家先祖の[[菩提寺]]、真福寺は1652年([[承応]]元年)の建立である。[[過去帳]]によれば、初代は1688年 - 1703年([[元禄]]時代)の孫左衛門である。二代目は孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次は太左衛門(六代)、[[平岡太吉|太吉]](七代)、[[平岡萬次郎|萬次郎]](八代)となり、三島の祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]は太吉(七代)の二男である。初代の孫左衛門には[[屋号]]として「しおや」([[塩屋]])と付いているという。志方は同じ兵庫県の[[赤穂市|赤穂]]に次いで塩田が盛んであった<ref name="kakochou">小野繁『平岡家系図解説』(1971年)</ref>。この屋号については、「三島由紀夫の無視された家系」(『[[月刊噂]]』1972年8月号)でも初代に屋号が付いているとされているが、 [[猪瀬直樹]]によれば、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いており、塩屋ではなく塩物屋であるという。これは三代目利兵衛(五代)のとき、農業のかたわら商売を始めたということだという<ref name="inose">[[猪瀬直樹]]『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)</ref>。さらに、[[板坂剛]]によると、平岡家は当初、真福寺の近くの西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)に住んでいて、家はほとんど[[バラック|あばらや]]と呼んでいいくらいの粗末なものであったという。板坂剛は、「住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは酒屋一軒だけであり、その家は[[庄屋]]だった。平岡家の先祖がやっていたことは<塩屋>ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」と述べている<ref name="itasaka">[[板坂剛]]『極説・三島由紀夫』(夏目書房、1997年)</ref>。 |
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: 西神吉村宮前(現在の加古川市[[西神吉町]]宮前)の[[バラック|あばらや]]のような粗末な家に住む[[水呑百姓|貧農]]だった<ref>『極説・三島由紀夫』 86頁</ref>が、[[平岡太吉|太吉]]が[[領主]]から禁じられていた[[鶴]](一説には[[雉子]])を射ったため〈所払い〉を命じられ、志方村上富木(現在の加古川市[[志方町]]上富木)の横山部落に移った。[[平岡太吉|太吉]]は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらした<ref>『極説・三島由紀夫』 (夏目書房)、104-107頁</ref>。[[野坂昭如]]著『赫奕たる逆光』、125-126頁によれば、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、[[平岡太吉|太吉]]に継がれた。…(中略)…農作業は妻にゆだね、[[平岡太吉|太吉]]は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く[[金融業]]を営み、[[安政]]四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間[[バラック|掘立小屋]]につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる[[豪邸]]に建て直した。」という。 |
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:[[平岡太吉|太吉]](七代)の子は、[[平岡萬次郎|萬次郎]]、[[平岡定太郎|定太郎]]、[[平岡久太郎|久太郎]]の3人の息子と、娘・むめである。過去帳による太吉(七代)の人物像は、「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には[[矢立]]を帯び[[短冊]]を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を[[明石]]の[[橋本関雪]]の兵父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで[[東京|東都]]へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」とある<ref name="kakochou"/>。太吉の孫の嫁(久太郎の二男・平岡義一の妻)である平岡りきによると、太吉は幼少(5、6歳)の頃に、[[領主]]から禁じられていた[[鶴]](一説には[[雉子]])を射ったため、一家に“[[所払い]]”が命じられ、志方村上富木へ移り住んだという<ref name="uwasa">「三島由紀夫の無視された家系」([[梶山季之]]責任編集『[[月刊噂]]』1972年8月号所載)</ref>。また、板坂剛によると、成長した太吉は[[金融業|金貸し業]]で成功し、さらには畑仕事を一手に引き受けていた妻・つるの農業的な才覚やアイデア(果実の栽培の成功)により、平岡家に莫大な利益がもたらしたという<ref name="itasaka"/>。[[野坂昭如]]は太吉について、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。(中略)農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、[[安政]]四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間[[バラック|掘立小屋]]につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる[[豪邸]]に建て直した」と述べている<ref name="nosaka">[[野坂昭如]]『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)</ref>。 |
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: “平岡”姓について、安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房)、15頁によれば、「平岡姓は平岡[[連]]、[[河内国]][[讃良郡]]枚岡郷(ひらおかごう)か、[[河内郡 (大阪府)|河内郡]]枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の[[名田]]の名から[[姓]]をつけたが[[明治維新]]後は[[農民]]もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『[[大和物語]]』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。[[農民]]の平岡家も[[明治時代|明治]]になってから[[土地]]の名をとって、平岡姓を太左衛門(たざえもん)から名乗った」という。 |
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:”平岡”姓について、[[安藤武]]は、「平岡姓は平岡[[連]]、[[河内国]][[讃良郡]]枚岡郷(ひらおかごう)か、[[河内郡 (大阪府)|河内郡]]枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の[[名田]]の名から[[姓]]をつけたが[[明治維新]]後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『[[大和物語]]』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も[[明治時代|明治]]になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(たざえもん)から名乗った」と述べている<ref name="andou">[[安藤武]]『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397</ref>。 |
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孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門 |
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━平岡利兵衛━利兵衛━太左衛門━┓ |
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┃ |
┃ |
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┃ (三島由紀夫) |
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┃ |
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┣定太郎━梓┳公威━━━威一郎 |
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┗━太吉━━━┓ |
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┃ ┃ |
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┣━┳━萬次郎━━┓ |
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寺岡つる━┛ ┃ ┣┳こと |
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┃ 桜井ひさ━┛┗萬壽彦 |
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┃ |
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┣━定太郎━━┓ |
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┃ ┣━梓━┳━公威(三島由紀夫)━┓ |
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┃ 永井なつ━┛ ┃ ┣┳━紀子 |
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┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━┛┃ |
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┃ ┃ ┗━威一郎 |
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┃ ┣━美津子 |
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┣━久太郎━━┓ ┗━千之 |
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┃ ┣┳義夫 |
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┃ (?)━━┛┗義一 |
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┃ |
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┗━むめ━━━┓ |
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┣┳義之 |
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田中豊蔵━┛┣義顕 |
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┣繁 |
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┗儀一 |
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杉山寧 |
杉山寧━━━━━━瑤子━━━━━━━━━━┓ |
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┃ |
平岡定太郎━┓ ┃ |
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┣━平岡梓━┓ ┣┳━紀子 |
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永井岩之丞━━夏(なつ)━┛ ┃ ┃┃ |
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┣━┳━平岡公威(三島由紀夫)━┛┗━平岡威一郎 |
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┃ ┃ |
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橋健三━━━倭文重━┛ ┣━美津子 |
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永井岩之丞━━━夏子 ┣━━┫ |
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┃ |
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┗━平岡千之━┓ |
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橋健三━━━倭文重 ┃ |
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近藤三郎━━近藤晋一━┓ ┃ |
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┣━┳━夏美━━━┛ |
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竹中藤右衛門(14代)━┳寿美━━━┛ ┗━久美 |
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近藤三郎━━近藤晋一 ┃ |
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┃ |
┃ |
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┣竹中宏平━━━竹中祐二━┓ |
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┃ ┃ |
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┗竹中錬一━┓ ┃ |
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竹中藤右衛門━━┳寿美 |
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┃ |
┃ ┃ |
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米内光政(元首相)━━和子━━━┛ ┃ |
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┃ |
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竹下登(元首相)━━┳公子━━━┛ |
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┣一子 |
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┗まる子━┳内藤栄子(影木栄貴) |
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米内光政━━━━和子 ┃ |
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┗内藤大湖(DAIGO) |
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(元首相) ┃ |
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竹下登━━━━公子 |
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; ''永井家''([http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html 永井氏系譜(武家家伝)]) |
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; 永井家([http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html 永井氏系譜(武家家伝)]) |
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[[安藤武]]『三島由紀夫「日録」』(夏目書房)、7-8頁によると、 |
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:[[安藤武]]『三島由紀夫「日録」』(未知谷)、7-8頁によると、「(三島は『[[花ざかりの森]]』で)祖母[[平岡なつ]]の祖父[[永井尚志]]を武家の血縁とし、なつの行儀見習先の[[有栖川宮熾仁]]親王宅を[[公家]]と表現している」<ref name="nichiroku">安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)</ref>という。ちなみに『花ざかりの森』では、「わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものはけふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ、そして祖先たちのそれも。 珍しいことにわたしは武家と公家の祖先をもつてゐる。そのどちらのふるさとへ赴くときも、わたしたちの列車にそうて、美くしい河がみえかくれする」と、表現されているが、この作品は自伝小説というわけではない。 |
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:「(三島は)祖母平岡なつの祖父[[永井尚志]]を武家の血縁とし、なつの行儀見習先の有栖川宮熾仁親王宅を[[公家]]と表現している。 |
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[[File:Nagai naoyuki.jpg|thumb|200px|right|<center>[[永井尚志]]</center>]] |
[[File:Nagai naoyuki.jpg|thumb|200px|right|<center>[[永井尚志]]</center>]] |
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:[[永井尚志]]は、[[松平乗真]]([[奥殿藩]]初代城主)から五代[[松平乗尹|乗尹]]の子として |
:[[永井尚志]]は、[[松平乗真]]([[奥殿藩]]初代城主)から五代[[松平乗尹|乗尹]]の子として[[1806年]](文化3年)11月3日に誕生。すでに六代を養子[[松平乗羨|乗羨]]に[[家督]]を定めた後に二男として生まれた。25歳の時、[[旗本]]の永井尚徳の養子となった。[[1855年]]([[安政]]2年)玄蕃頭。徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなし、[[1860年]](安政5年)7月[[外国奉行]]、[[1861年]](安政6年)2月軍艦奉行、[[1862年]]([[文久]]2年)8月[[京都町奉行]]。京摂の間、[[坂本龍馬]]等志士とも交渉を持った。[[1864年]]([[元治]]元年)[[大目付]]。[[1867年]](慶応3年)[[若年寄]]、[[1868年]](慶応4年)8月[[榎本武揚]]と共に[[函館]]に走り、[[函館]]奉行となる。維新後は、[[1875年]](明治8年)に[[元老院 (日本)|元老院]]権大書記官。1891年(明治24年)7月1日没、享年76歳。 |
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:なつの父[[永井岩之丞]]は、[[ |
:なつの父[[永井岩之丞]]は、[[1846年]]([[弘化]]3年)[[幕臣]]三好山城守幽雙の二男として生まれ、[[永井尚志]]の[[養子]]となる。[[函館]][[五稜郭]]で父と共に戦う。維新後、[[1873年]](明治6年)[[司法省]]十等出仕を命ぜられ、[[1880年]](明治13年)5月[[判事]]。[[1883年]](明治16年)1月[[控訴院]][[判事]]。[[1894年]](明治27年)4月[[大審院]][[判事]]。1907年(明治40年)5月25日没、享年62歳。」 |
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┏良将 |
┏良将━将門 |
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桓武天皇━葛原親王━高見王━平高望┫ |
桓武天皇━葛原親王━高見王━平高望┫ |
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┗将兼━公雅━致頼━致經━致房━行致(長田の祖)━政俊┓ |
┗将兼━公雅━致頼━致經━致房━行致(長田の祖)━政俊┓ |
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┃ |
┃ |
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┃ 後醍醐天皇━宗良親王━興良親王━良王━大橋信重━┓ |
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┃ 由利姫 |
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┃ |
┃ ┏━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┃ |
┃ ┗定広━広正白次(四男)*と同一人物 |
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┃ |
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┃ ┃ ┃ |
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┗(六代略)━直重━白広━重広 |
┗(六代略)━直重━白広━重広━広正*(養子、尾張国津嶋奴野城主大橋中務少輔定弘)━┓ |
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┃ |
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┃ (永井荷風祖父) |
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┃ 由利姫━┓ |
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┣尚政━(三男)尚庸━直敬┓ |
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┃ ┣正直━直隆━正似━正治━正次━(五代略)━匡威(養子)━匡温━━┓ |
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┃ ┃ |
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┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━┛ |
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┗長田重元━直勝━┫ ┗━壮吉(永井荷風) |
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┃ |
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┣尚政━尚庸(三男)━直敬━尚方(五男)━尚恕━━┓ |
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阿部正勝息女━┛ ┃ |
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┗(五男)尚方━尚恕━尚友━尚徳━(養子)尚志━(養子)岩之丞 |
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┣━━━なつ |
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┃ |
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高 ┣━平岡梓━━平岡公威 |
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┗━尚友━尚徳━尚志(養子、実父は松平主水正)━━┓ |
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平岡定太郎 (三島由紀夫) |
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┃ |
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ |
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┃ |
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┗岩之丞(養子、実父は永井一族の三好長済)━┓ |
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┣┳壮吉 |
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高(松平頼位の長女)━┛┃ |
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┣夏(なつ)━┓ |
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┃ ┣平岡梓━平岡公威(三島) |
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┃平岡定太郎━┛ |
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┃ |
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┣亨 |
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┣啓 |
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┣繁 |
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┣大屋敦 |
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┣鐘 |
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┣愛 |
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┣千恵 |
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┣清子 |
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┗文子 |
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; 橋家(石川県[[金沢市]]) |
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: 母方の祖父・[[橋健三]]、曽祖父・[[橋健堂]]、高祖父・[[橋一巴]]は、[[加賀藩]]主・[[前田家]]に代々仕えた[[漢学者]]、[[書家]]であった。[[名字帯刀]]を許され、学塾においては藩主・前田家の人々に講義をしていた。橋一巴は「鵠山」と号した。一巴の長男で、健堂の兄・往来も漢学者、書家で、「石甫」「対蘭軒」と号した。 |
|||
:高祖父・一巴以前の橋家は、[[近江八幡市|近江八幡]](滋賀県にある[[琵琶湖]]畔、[[日野川 (滋賀県)|日野川]]の近く)の広大な山林の持主である[[賀茂氏|賀茂]](橋)一族である。1970年(昭和45年)、滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴 - 橋健堂 - 橋健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。近江八幡に移り居城していた賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元であり、島根県の[[出雲]]の出身だという<ref name="etugu"/>。 |
|||
:曽祖父・健堂は、[[夜学]]や[[女子教育]]の充実など、教育者として先駆的であった。また、「[[橋健堂#学問所「壮猶館」|壮猶館]]」「[[集学所]]」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動し、健堂が出仕した「壮猶館」は、単なる[[儒学]]を修める[[藩校]]ではなく、1853年([[嘉永]]6年)の[[ペリー]]率いる[[黒船来航|黒船の来航]]に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した[[軍事機関]]であった。健堂は市井の漢学者ではなく、軍事拠点の中枢にあって、海防論を戦わせ、[[佐野鼎]]から洋式[[兵学]]を吸収する立場にあった人物であったという<ref name="hashike"/>。 |
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橋一巴┳━往来━━船次郎 |
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┃ |
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┃ |
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┗━健堂┳━つね |
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┣━ふさ |
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┃ |
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┣━こう━━┓ |
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┃ ┣━━橋健行 |
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┃ 瀬川健三┛ |
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┃ |
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┣━より |
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┃ |
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┣━トミ━━┓ |
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┃ ┣┳━雪子 |
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┃ 瀬川健三┛┣━橋正男 |
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┃ ┣━橋健雄 |
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┗━ひな ┣━橋行蔵 |
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┃ |
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┣━倭文重┓ |
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┃ ┣┳━平岡公威(三島由紀夫)┓ |
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┃ 平岡梓┛┃ ┣┳━紀子 |
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┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━━┛┃ |
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┗━重子 ┃ ┗━平岡威一郎 |
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┣━美津子 |
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┃ |
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┗━平岡千之 |
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=== 兵庫県と三島由紀夫 === |
=== 兵庫県と三島由紀夫 === |
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「三島由紀夫の無視された家系」(『[[月刊噂]]』1972年8月号)によると、兵庫県の平岡家([[平岡定太郎|定太郎]]の弟・久太郎の家)とは、父・[[平岡梓]]の代からほとんど絶縁状態で、三島は兵庫県[[加古川市]]にある平岡家の墓には生涯一度も参らなかったという。多くの作品でも三島は故郷をとりあげていない。このため、地元民の一部からは批判の声もあり、現地の三島に対する評価も高いものでないという<ref name="uwasa"/>。兵庫の墓参りをしていなかったことについては、三島の祖父・定太郎の墓が東京にあったから足が遠のいたことも考慮されるが、[[猪瀬直樹]]は、三島が[[本籍]]での徴兵検査の際も、故郷の平岡家に立ち寄っていないことの理由については、梓のいとこにあたる平岡義一(久太郎の二男)が変わり者で奇行癖のあった(上半身裸、褌ひとつで歩き回ったり、暗い土蔵で[[春画]]を描くことに没頭していた)人物であったことに触れ、梓の配慮で三島と義一を会わせないようにしていたと述べている<ref name="inose"/> |
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三島は兵庫県加古川市にある平岡家の[[墓]]には生涯一度も参らず、多くの作品でも敢えて故郷をとりあげず無視している。三島自身、[[近畿方言]]が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいた。[[中村光夫]]宛ての[[1963年]][[9月2日]]の書簡では「[[上方]]へ久々に来てみると、上方言葉は全くいただけず、世態人情、すべて上方風は性に合はず、[[外国]]へ来たやうです」と語っている。このため、一部からは批判の声もあり、地元民の三島に対する評価は高いものでない。 |
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三島は、[[近畿方言]]が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいたいう。[[中村光夫]]宛ての1963年(昭和38年)9月2日の書簡では「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西風は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子でなく、祖父が[[播州]]ですから、同属嫌悪の気味があるのかもしれません」と語っている。しかし、そうは言いつつも実際は、近畿地方が舞台で主人公が方言で話している芝居や小説は、『鰯売恋曳網』、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『絹と明察』など、いくつか書いている。 |
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かつて作家の[[杉森久英]]が編集者だった時に「われわれの仲間では三島由紀夫は[[貴族]]の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき“あなたは[[三島通庸|三島子爵]]の子孫ですか?”と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた」と述懐しているのはよく知られている<ref>『月刊 噂 八月号 <small>三島由紀夫の無視された家系</small>』 50頁</ref>。 |
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かつて作家の[[杉森久英]]が編集者だった時に、「われわれの仲間では三島由紀夫は[[貴族]]の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき『あなたは[[三島通庸|三島子爵]]の子孫ですか?』と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた」と述懐しているという<ref name="uwasa"/>。 |
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『農民文学』の仲野羞々子は「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡家の分家三代目の彼は[[貴族]]であっても、初代の祖父 [[平岡定太郎|定太郎]]は[[水呑百姓|貧農]]出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通し、優雅な[[家系]]のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農[[コンプレックス]]を、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」とのべている(『農民文学』第九十三号所載)。 |
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[[仲野羞々子]](元[[産経新聞]]四国支社の記者で男性。仲野羞々子はペンネームであるという<ref name="itasaka"/>)は、雑誌『[[農民文学]]』のなかで、「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父定太郎は[[水呑百姓|貧農]]出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通して、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農[[コンプレックス]]を、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」と述べている。このように仲野羞々子は、三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視していると主張し、それは、夫の定太郎を忌み嫌っていた三島の祖母・[[永井なつ|夏子]]の影響が関係していると述べている<ref name="noumin">[[仲野羞々子]]「農民の劣等感 三島由紀夫の虚勢」(『[[農民文学]]』第九十三号、1971年2月号所載)</ref>。しかしその一方、仲野羞々子は、「三島の作品なんてほとんど読んでいない<ref name="noumin"/>」とも述べている。三島は実際にはインタビューなどで「私は血すぢでは[[百姓]]と[[サムライ|サムラヒ]]の末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である」と、はっきり述べており、祖先に百姓がいたことを隠してはいない<ref>三島由紀夫『フランスのテレビに初主演 文壇の[[若大将]]三島由紀夫氏』([[毎日新聞]]、1966年3月10日)</ref>。また、主な作品の主人公も、[[同性愛者]]、漁師、放火犯、殺人者、事務所の老小使、元芸者、料亭の女将、殉教者、魚の[[行商人]]、宝石泥棒、少年犯罪者、[[テロリスト]]などで、その作風も特に[[貴族階級]]賛美の傾向でもなく、三島自身が貴族のポーズで貧農コンプレックスを克服していたというような単純な作家傾向とは言えない。 |
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三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視しようとした背景には、夫(平岡定太郎、兵庫県出身)を忌み嫌っていた祖母夏子の影響も考えられているが、[[差別|差別問題]]が関係しているとする説もある<ref>仲野羞々子「農民の劣等感──三島由紀夫の虚勢」(『農民文学』1971年2月号)</ref><ref>[[梶山季之]]責任編集『月刊噂』[[1972年]]8月号所載「三島由紀夫の無視された[[家系]]」</ref>。 |
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それによると平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、西神吉村だった。そして、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父[[平岡太吉|太吉]]が[[領主]]から禁じられている[[鶴]]を射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだというのである。 |
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平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、平岡太左衛門(六代)までは西神吉村だったが、「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)によると、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・[[平岡太吉]]が幼少の頃、[[領主]]から禁じられている[[鶴]]を射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだという。また52頁では、「岡住職は[[過去帳]]から平岡家の祖をたどった結果、およそ二百五十年間つづいた家だと判明したという。真福寺で明らかにされた平岡家の先代はまず[[元禄]]時代の“孫左衛門”から始まっている。しばらくは[[姓]]がなく(中略)以後はじめて平岡太左衛門、平岡太吉とつづくのである。過去帳には名前のそばに“[[非人]]”、“非人の子”、“番人”、“水番”という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは”しおや”という[[屋号]]のようなものである。(中略)初代の“孫左衛門”の俗名に“しおや”の肩書きが付されている以外は、太左衛門にいたるまでの戒名はすべて一般の農民と同程度の身分を示している。“ごくふつうの百姓だったのですよ”と岡住職はきっぱりと断言している」と、主張している<ref name="uwasa"/>。しかし、この屋号に関して猪瀬直樹は、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いていると述べている<ref name="inose"/>。 |
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三島の |
三島の父・平岡梓は、自著『倅・三島由紀夫』において、「僕の家は、[[家系図]]を開けば、なるほど父方は百姓風情で[[御守殿|赤門]]事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べている<ref name="azusa">平岡梓『倅・三島由紀夫』』(文藝春秋、1972年)</ref>。志方町中央[[農業協同組合|農協組合]]の元組合長の好田光伊によると、赤門事件とは、[[加賀藩|加賀]]の[[前田家]]が[[徳川将軍家|徳川将軍]]から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門はこれを真似て、[[菩提寺]]の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が“お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない”として[[所払い]]になったという昔からのいい伝えの話だという<ref name="jyuurou">[[福島鋳郎|福島鑄郎]]『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)</ref>。 |
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しかし、『月刊噂』は、「この梓の発言はいささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻(こうふん)が感じられるが、これを事実だと信じることはできない。梓のいとこ・平岡義一の妻りきの記憶によれば、赤門事件など聞いたおぼえもなく、『太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって“所払い”を命じられた』というものだった。また梓は『平岡家も田舎の[[豪農]]“塩屋”としての誇りを堅持していた<ref name="azusa"/>』と書いているがこれも事実ではない。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない」という主張している<ref name="uwasa"/>。また、[[野坂昭如]]は、「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から[[印南郡]]の南は、一帯が[[塩田]]だった。(中略)[[播磨国|播磨]]の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂(い)い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと述べている<ref name="nosaka"/>。 |
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平岡家[[部落民]]説は三島が杉山瑤子と[[結婚]]した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるが、父・梓はこの風説を断固として否定。結局、梓が志方村に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都[[目黒区]]に[[本籍]]を移すことで決着がついている<ref name="ando">[[安藤武]]『三島由紀夫の生涯』p.193([[夏目書房]]、[[1998年]])ISBN 4931391397</ref>。 |
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『月刊噂』の赤門事件否定に対し、平岡梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという[[越次倶子]]は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため事実であるかは真偽不明だが、「三島も幼い時からそういった伝承話を耳にしていたにちがいない」、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた、と三島の意識に刻まれていたと思われる」という見解を示している。また、「今の時代、昔[[平民]]であっても[[士族]]であっても、それを問題にすることはどんな場合でもなかろう。家系を追求することを仕事にしたり、研究対象にしている一握の人々にとっては大問題であろうが。“豪農塩屋”と“反骨精神の太左衛門”は平岡家に語り伝えられた事柄かもしれないが、三島が父方の高祖父をそう理解していたことは事実のようである」と述べている<ref name="etugu"/>。また、[[板坂剛]]は、この赤門事件は祖父・定太郎の創作で、それが梓に信じられ、またその子の三島にも伝えられたと推測している<ref name="itasaka"/>。 |
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これを裏付けるように、[[村松剛]]は次のように述べている。「三島研究家[[越次倶子]]は平岡家の[[菩提寺]]である[[曹洞宗]]真福寺の過去帳を写真に撮影しており、さらに[[1964年]]ごろ平岡家の[[壬申戸籍]]の写しも入手しているが、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかった」<ref>村松剛『三島由紀夫の世界』、35頁([[新潮社]]、[[1990年]])</ref>。 |
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[[安藤武]]によると、平岡家[[部落民]]説は、三島が[[杉山瑤子]]と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるとされ、父・梓がこの風説を断固として否定し、結局、梓が志方町に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都[[目黒区]]に本籍を移すことで決着がついているという<ref name="andou"/>。しかし一方、見合いの仲人をした[[湯浅あつ子]]によると、杉山瑤子との結婚の際、特に名門の家柄ではない杉山家が平岡家の家系のことで結婚解消を申し出たことも、家系調査を依頼した事実もなく、実際には、見合い後に縁談を断っていたのは三島の方であったとという<ref>[[岩下尚史]]『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)</ref>。 |
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一方で、[[福島鋳郎|福島鑄郎]]『資料三島由紀夫』([[朝文社]]、新版・2005年)によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」と言われる。また、[[板坂剛]]は村松を批判して「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の<写真>の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、<さしさわりのある>部分を残した過去帳とは別の<さしさわりのない>ように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それが<さしさわりのある>ものであったはずがないのだ」と述べている<ref>板坂剛『極説三島由紀夫』([[夏目書房]]、1997年)p.91</ref>。 |
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また後に安藤武は、[[曹洞宗]]青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままとなっている。 |
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[[福島鋳郎|福島鑄郎]]の『資料・三島由紀夫』(1982年版)によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」、「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」と、推測されていた<ref>[[福島鋳郎|福島鑄郎]]『資料・三島由紀夫』(双柿舎、1982年増補改訂版)</ref>が、この福島鑄郎の見解に対して[[村松剛]]は、平岡梓の言い分を裏付ける次のような反論を述べている。「問題の平岡家の過去帳は、三島研究家の越次倶子が真福寺(平岡家の菩提寺である[[曹洞宗]]真福寺)に行って調べ、写真にもとって来ている。これで見るかぎり、“文字にして書き表せないような”ことばなどどこにも出て来ない。(中略)福島鑄郎は実際には過去帳を見たことがなく、何かの思いちがいからこんな断定的な文章を書いてしまったらしい。越次倶子は平岡家の[[壬申戸籍]]の写しも昭和三十九年(1964年)ころに入手していて、これによっても格別変わった箇所は見あたらない。もしも定太郎の出目に何らかの問題があったら、差別意識がきわめてつよかった明治の中期に、夏子との結婚は成立しなかったろう。(中略)いまとちがって身許の調査はきびしく行われた」と述べ、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかったという見解を示している<ref>[[村松剛]]『三島由紀夫の世界』、35頁(新潮社、1990年)</ref>。後に安藤武は曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままだという。 |
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しかし、板坂剛は村松を批判し、「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の写真の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、''さしさわりのある''部分を残した過去帳とは別の''さしさわりのない''ように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それが''さしさわりのある''ものであったはずがないのだ」と述べている。また板坂剛は、地元の噂に平岡家の祖先が“[[刑場]]の役人の下働き”をしていたというものがあることに触れているが、「平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていた、といってもそれが即、“被差別部落民だった”ということに繋がるわけではない」という意見も同時に述べている。真福寺の住職夫人も、「どうして差別が生まれたのか、私らには理解できんですね。その地域の出身の人の方が、優秀な人が多いみたいですしね」と語っているという。また、この件についての様々な憶測に対して、住職夫人は、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている<ref name="itasaka"/>。 |
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近年、過去帳を見ることができた福島鑄郎は、新版の『再訂資料・三島由紀夫』(2005年版)の中で、平岡姓は四代目利兵衛から名のっているとし、「仲野羞々子が言うような情報は見つからなかった」、「刑場の役人の下働きをしていたという地元の噂であるが、根拠については定かでない。ただ、事件と何かを結びつけたいという心理がそうさせたとも伺える。いずれにしても平岡家の代になってからは何事もない」と述べている。また、「(赤門事件が本当なのか、鶴を射った話の方が本当なのかは判らないが)いずれにせよ、“おかみをおそれぬ行為”は、三島由紀夫の血の中に受けつがれていった」という見解を示している。なお板坂剛は、福島鑄郎が唯一、仲野羞々子に直接取材したことのある三島研究者だと著書で書いていたが、福島鑄郎は仲野羞々子からは直接事情を聞くことができなかったと書いている。福島鑄郎が直接取材できたのは、『農民文学』に登場する志方町農協組合の元組合長である<ref name="jyuurou"/>。 |
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== 主な作品 == |
== 主な作品 == |
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=== 長編小説 === |
=== 長編小説 === |
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* [[盗賊 (小説)|盗賊]]( |
* 『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』1947年(昭和22年) - 1948年(昭和23年) |
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* [[仮面の告白]] |
* 『[[仮面の告白]]』1949年(昭和24年) |
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* [[ |
* 『[[純白の夜]]』1950年(昭和25年) |
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* [[ |
* 『[[愛の渇き]]』1950年(昭和25年) |
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* [[ |
* 『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』1950年(昭和25年) |
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* [[禁色 (小説)|禁色]] |
* 『[[禁色 (小説)|禁色]]』1951年(昭和26年) - 1953年(昭和28年) |
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* [[ |
* 『[[夏子の冒険]]』1951年(昭和26年) |
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* 『[[にっぽん製|につぽん製]]』1952年(昭和27年) |
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* [[潮騒 (小説)|潮騒]](1953年 - [[1954年]]) - 第1回[[新潮社文学賞]] |
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* [[ |
* 『[[恋の都]]』1953年(昭和28年) |
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* [[ |
* 『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』1954年(昭和29年) |
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*: 第1回[[新潮社文学賞]]受賞。 |
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* [[美徳のよろめき]]([[1957年]]) |
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* 『[[沈める滝]]』1955年(昭和30年) |
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*: 「よろめき」という言葉は男女の[[不倫]]を指す[[流行語]]となった |
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* [[ |
* 『[[幸福号出帆]]』1955年(昭和30年) |
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* 『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』(1956年)(昭和31年) |
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* [[お嬢さん]](1960年) |
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*: 第8回[[読売文学賞]]小説部門賞受賞。 |
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* [[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]([[1962年]]) |
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* [[ |
* 『[[永すぎた春]]』1956年(昭和31年) |
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* 『[[美徳のよろめき]]』1957年(昭和32年) |
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* [[午後の曳航]](1963年) - [[フォルメントール国際文学賞]]第2位 |
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*: 「よろめき」という言葉は男女の[[不倫]]を指す[[流行語]]となった。 |
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* [[肉体の学校]](1963年) |
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* 『[[鏡子の家]]』1959年(昭和34年) |
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* [[絹と明察]]([[1964年]]) - 第6回[[毎日芸術賞]]文学部門 |
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* [[ |
* 『[[宴のあと]]』1960年(昭和35年) |
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*: [[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞。 |
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* [[夜会服]](1966年) |
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* [[ |
* 『[[お嬢さん]]』1960年(昭和35年) |
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* 『[[獣の戯れ]]』1961年(昭和36年) |
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* 『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』1962年(昭和37年) |
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* 『[[愛の疾走]]』1962年(昭和37年) |
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* 『[[肉体の学校]]』1963年(昭和38年) |
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* 『[[午後の曳航]]』1963年(昭和38年) |
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*: [[フォルメントール国際文学賞]]候補作品。 |
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* 『[[絹と明察]]』1964年(昭和39年) |
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*: 第6回[[毎日芸術賞]]文学部門賞受賞。 |
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* 『[[音楽 (小説)|音楽]]』1964年(昭和39年) |
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* 『[[春の雪]]』(『[[豊饒の海]]・第一巻』)1965年(昭和40年) - 1966年(昭和41年) |
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* 『[[複雑な彼]]』1966年(昭和41年) |
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* 『[[三島由紀夫のレター教室]]』1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年) |
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*: 出来事をすべて手紙形式で表現した異色の小説。 |
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* 『[[夜会服]]』1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年) |
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* 『[[奔馬]]』(『豊饒の海・第二巻』)1967年(昭和42年) - 1968年(昭和43年) |
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* 『[[命売ります]]』1968年(昭和43年) |
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* 『[[暁の寺]]』(『豊饒の海・第三巻』)1968年(昭和43年) -1970年(昭和45年) |
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* 『[[天人五衰]]』(『豊饒の海・第四巻』)1970年(昭和45年) |
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=== 短編小説 === |
=== 短編小説 === |
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* 酸模([[スカンポ|すかんぽう]] |
* 『酸模([[スカンポ|すかんぽう]])―秋彦の幼き思ひ出』1938年(昭和13年) |
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* 彩絵硝子(だみえ |
* 『彩絵硝子(だみえガラス)』1940年(昭和15年) |
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* [[花ざかりの森]] |
* 『[[花ざかりの森]]』1941年(昭和16年) |
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* 苧菟(おっと |
* 『[[苧菟と瑪耶]](おっとお と まや)』1942年(昭和17年) |
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* |
* 『世々に残さん』1943年(昭和18年) |
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* |
* 『夜の車』1944年(昭和19年) |
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*: のち |
*: のち『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』と改題。 |
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* |
* 『中世』1945年(昭和20年) |
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* |
* 『エスガイの狩』1945年(昭和20年) |
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* |
* 『菖蒲前』1945年(昭和20年) |
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* |
* 『煙草』1946年(昭和21年) |
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* [[ |
* 『[[岬にての物語]]』1946年(昭和21年) |
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* 『[[軽王子と衣通姫]](かるのみこ と そとおりひめ)』1947年(昭和22年) |
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* [[憂国]]([[1961年]]) |
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* |
* 『夜の仕度』1947年(昭和22年) |
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* |
* 『春子』1947年(昭和22年) |
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* |
* 『サーカス』1948年(昭和23年) |
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* 『白鳥』1948年(昭和23年) |
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* 『殉教』1948年(昭和23年) |
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* 『家族合せ』1948年(昭和23年) |
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* 『人間喜劇』1948年(昭和23年) |
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* 『頭文字』1948年(昭和23年) |
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* 『[[宝石売買]]』1948年(昭和23年) |
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* 『不実な洋傘』1948年(昭和23年) |
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* 『山羊の首』1948年(昭和23年) |
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* 『獅子』1948年(昭和23年) |
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* 『[[魔群の通過]]』1949年(昭和24年) |
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* 『侍童』1949年(昭和24年) |
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* 『親切な機械』1949年(昭和24年) |
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* 『火山の休暇』1949年(昭和24年) |
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* 『怪物』1949年(昭和24年) |
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* 『果実』1950年(昭和25年) |
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* 『日曜日』1950年(昭和25年) |
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* 『遠乗会』1950年(昭和25年) |
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* 『孤閨悶々』1950年(昭和25年) |
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* 『牝犬』1950年(昭和25年) |
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* 『家庭裁判』1951年(昭和26年) |
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* 『偉大な姉妹』1951年(昭和26年) |
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* 『箱根細工』1951年(昭和26年) |
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* 『椅子』1951年(昭和26年) |
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* 『死の島』1951年(昭和26年) |
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* 『翼』1951年(昭和26年) |
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* 『手長姫』1951年(昭和26年) |
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* 『朝顔』1951年(昭和26年) |
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* 『[[真夏の死]]』1952年(昭和27年) |
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*: [[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞。 |
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* 『二人の老嬢』1952年(昭和27年) |
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* 『美神』1952年(昭和27年) |
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* 『雛の宿』1953年(昭和28年) |
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* 『旅の墓碑銘』1953年(昭和28年) |
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* 『急停車』1953年(昭和28年) |
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* 『卵』1953年(昭和28年) |
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* 『花火』1953年(昭和28年) |
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* 『[[ラディゲの死]]』1953年(昭和28年) |
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* 『[[鍵のかかる部屋]]』1954年(昭和29年) |
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* 『復讐』1954年(昭和29年) |
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* 『女神』1954年(昭和29年) |
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* 『[[詩を書く少年]]』1954年(昭和29年) |
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* 『志賀寺上人の恋』1954年(昭和29年) |
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* 『水音』1954年(昭和29年) |
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* 『海と夕焼』1955年(昭和30年) |
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* 『新聞紙』1955年(昭和30年) |
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* 『牡丹』1955年(昭和30年) |
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* 『十九歳』1956年(昭和31年) |
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* 『[[橋づくし]]』1956年(昭和31年) |
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* 『施餓鬼舟』1956年(昭和31年) |
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* 『女方』1957年(昭和32年) |
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* 『貴顕』1957年(昭和32年) |
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* 『百万円煎餅』1960年(昭和35年) |
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* 『愛の処刑』1960年(昭和35年) |
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* 『スタア』1960年(昭和35年) |
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* 『[[憂国]]』1961年(昭和36年) |
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* 『帽子の花』1962年(昭和37年) |
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* 『魔法瓶』1962年(昭和37年) |
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* 『葡萄パン』1963年(昭和38年) |
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* 『真珠』1963年(昭和38年) |
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* 『雨のなかの噴水』1963年(昭和38年) |
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* 『剣』1963年(昭和38年) |
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* 『月澹荘奇譚』1965年(昭和40年) |
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* 『三熊野詣』1965年(昭和40年) |
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* 『孔雀』1965年(昭和40年) |
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* 『仲間』1966年(昭和41年) |
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* 『悪臣の歌』1966年(昭和41年) |
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* 『[[英霊の声|英霊の聲]]』1966年(昭和41年) |
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* 『荒野より』1966年(昭和41年) |
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* 『[[蘭陵王]]』1969年(昭和44年) |
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=== 戯曲 === |
=== 戯曲・歌舞伎 === |
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* |
* 『あやめ』1948年(昭和23年) |
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* 『火宅』1948年(昭和23年) |
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* [[近代能楽集]]([[1956年]]) - 一幕戯曲集 |
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* 『灯台』1949年(昭和24年) |
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* [[薔薇と海賊]]([[1958年]]) - 週刊読売新劇賞 |
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* |
* 『聖女』1949年(昭和24年) |
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* 『邯鄲(かんたん)』1950年(昭和25年) |
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* [[十日の菊]]([[1961年]]) - 第13回[[読売文学賞]]戯曲部門) |
|||
*: [[能楽]] 『[[邯鄲の枕#能『邯鄲』|邯鄲]]』をもとにした戯曲。 <ref name="kinndai">のち戯曲集『[[近代能楽集]]』1956年(昭和31年)に収む。</ref> |
|||
* [[サド侯爵夫人]]([[1965年]]) - [[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭]]演劇部門芸術祭賞) |
|||
* 『綾の鼓(あやのつづみ)』1951年(昭和26年) |
|||
* [[聖セバスティアンの殉教|聖セバスチァンの殉教]]([[1966年]]、翻訳) |
|||
*: 能楽『[[綾鼓]]』をもとにした戯曲。 <ref name="kinndai"/> |
|||
*: 原作:[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ガブリエレ・ダヌンツィオ]]、[[池田弘太郎]]共訳 |
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* |
* 『艶競近松娘』1951年(昭和26年) |
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*: [[柳橋 (神田川)|柳橋]]みどり会のために書いた[[舞踊]]劇台本。 |
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* [[わが友ヒットラー]]([[1968年]]) |
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* 『卒塔婆小町(そとばこまち)』1952年(昭和27年) |
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* [[癩王のテラス]] 3幕7場([[1969年]]) |
|||
*: 能楽『[[卒塔婆小町]]』をもとにした戯曲。<ref name="kinndai"/> |
|||
* [[椿説弓張月]] 3幕8場( [[1969年]]) |
|||
* 『只ほど高いものはない』1952年(昭和27年) |
|||
*: [[曲亭馬琴|馬琴]]作品の[[歌舞伎]]台本 |
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* 『夜の向日葵』1953年(昭和28年) |
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=== 評論 === |
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* 『室町反魂香』1953年(昭和28年) |
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* [[小説家の休暇]]([[1955年]])-公開日記 |
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*: 柳橋みどり会のために書いた舞踊劇台本。 |
|||
* [[不道徳教育講座]]([[1958年]] - [[1959年]]) |
|||
* 『地獄変』1953年(昭和28年) |
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* [[裸体と衣装]]([[1960年]])-公開日記・評論集 |
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*: [[芥川龍之介]]作の短編『[[地獄変]]』をもとにした[[歌舞伎]]台本。 |
|||
* [[私の遍歴時代]]([[1964年]]) - 自伝・評論集 |
|||
* 『葵上(あおいのうえ)』1954年(昭和29年) |
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* [[太陽と鉄]]([[1967年]]) |
|||
*: 能楽『[[葵上]]』をもとにした戯曲。 <ref name="kinndai"/> |
|||
* [[葉隠]]入門([[1967年]]) |
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* |
* 『若人よ蘇れ』1954年(昭和29年) |
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* 『[[鰯売恋曳網]]』1954年(昭和29年) |
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=== その他 === |
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* 『ボクシング』1954年(昭和29年) |
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* 詩「九官鳥〜森たち、第五の喇叭、独白、星座、九官鳥」([[1939年]]) |
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*: ラジオドラマ脚本。芸術祭放送部門参加。 |
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* 海外紀行「[[アポロの杯]]」([[1952年]]) |
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* 『班女(はんじょ)』1955年(昭和30年) |
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* 随筆「[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]」([[1959年]]) |
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*: 能楽『[[班女]]』をもとにした戯曲。 <ref name="kinndai"/> |
|||
* 写真集 「[[薔薇刑]]」([[1963年]]) |
|||
* 『熊野(ゆや)』1955年(昭和30年) |
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* 小品「[[F104]]」([[1968年]]) |
|||
*: 能楽『[[熊野 (能)|熊野]]』をもとにした歌舞伎台本。 |
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* 対談集「源泉の感情」、「尚武のこころ」([[1970年]]) |
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* 『三原色』1955年(昭和30年) |
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* 『船の挨拶』1955年(昭和30年) |
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* 『白蟻の巣』1955年(昭和30年) |
|||
*: [[岸田演劇賞]]受賞。 |
|||
* 『芙容露大内実記』1955年(昭和30年) |
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*: [[エウリピデス]]作の『[[ヒッポリュトス]]』と、[[ジャン・ラシーヌ]]作の『[[フェードル]]』をもとにした歌舞伎台本。 |
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* 『大障碍』1956年(昭和31年) |
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* 『[[近代能楽集]]』1956年(昭和31年) |
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*: 戯曲「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」を収む。 |
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* 『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』1956年(昭和31年) |
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* 『道成寺(どうじょうじ)』1957年(昭和32年) |
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*: 能楽『[[道成寺]]』をもとにした戯曲。 <ref name="nougaku">のち戯曲集『近代能楽集』文庫版1968年(昭和43年)に収む。</ref> |
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* 『朝の躑躅』1957年(昭和32年) |
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* 『LONG AFTER LOVE』1957年(昭和32年) |
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*: 『卒塔婆小町』、『葵上』、『班女』の3つの戯曲を繋ぐ場面を新たに創作し、統一的な芝居にした3幕物。 |
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* 『[[薔薇と海賊]]』1958年(昭和33年) |
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*: [[週刊読売]]新劇賞受賞。 |
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* 『むすめごのみ帯取池』1958年(昭和33年) |
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*: [[山東京伝]]作の『[[桜姫全伝曙草紙]]』をもとにした歌舞伎台本。 |
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* 『熊野』1959年(昭和34年) |
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*: 能楽『[[熊野 (能)|熊野]]』をもとにした戯曲。 <ref name="nougaku"/> |
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* 『女は占領されない』1959年(昭和34年) |
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* 『熱帯樹』1960年(昭和35年) |
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* 『弱法師(よろぼし)』1960年(昭和35年) |
|||
*: 能楽『[[弱法師]]』をもとにした戯曲。 <ref name="nougaku"/> |
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* 『[[十日の菊]]』1961年(昭和36年) |
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*: 第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞。 |
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* 『黒蜥蜴』1961年(昭和36年) |
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*: [[江戸川乱歩]]作の長編『[[黒蜥蜴]]』をもとにした戯曲。 |
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* 『源氏供養』1962年(昭和37年) |
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*: 能楽『[[源氏供養]]』をもとにした戯曲。近代能楽集の9曲目。のちに廃曲とした。 |
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* 『[[喜びの琴]]』1964年(昭和39年) |
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*: この戯曲が原因で[[文学座]]分裂騒動([[喜びの琴事件]])が起きる。 |
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* 『美濃子』1964年(昭和39年) |
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*: オペラ劇台本。[[黛敏郎]]の作曲が間に合わず、未上演。 |
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* 『恋の帆影』1964年(昭和39年) |
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* 『[[サド侯爵夫人]]』1965年(昭和40年) |
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*: [[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭]]演劇部門芸術祭賞受賞。 |
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* 『[[聖セバスティアンの殉教|聖セバスチァンの殉教]]』1966年(昭和41年) |
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*: [[池田弘太郎]]との共訳で翻訳。原作:[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ガブリエレ・ダンヌンツィオ]]。 |
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* 『[[朱雀家の滅亡]]』([[1967年]])(昭和42年) |
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*: [[エウリピデス]]作の『[[ヘラクレス]]』をもとにした戯曲。 |
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* 『ミランダ』1968年(昭和43年) |
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*: [[バレエ]]劇台本。 |
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* 『[[わが友ヒットラー]]』1968年(昭和43年) |
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* 『[[癩王のテラス]]』1969年(昭和44年) 3幕7場 |
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* 『椿説弓張月』1969年(昭和44年) 3幕8場 |
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*: [[曲亭馬琴|馬琴]]作の『[[椿説弓張月]]』をもとにした歌舞伎台本。 |
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=== エッセイ・日誌・紀行・随筆 === |
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=== 作風 === |
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* 『芝居日記』1942年(昭和17年) - 1947年(昭和22年) |
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三島文学の文体は、終始[[修辞技法|レトリック]]を多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ[[余韻]]のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と[[分析]]している。<ref>http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html</ref> |
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*: 没後21年の1991年(平成3年)に初刊行された。 |
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* 『[[平岡公威]]伝』1944年(昭和19年) |
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* 『重症者の兇器』1948年(昭和23年) |
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* 『反時代的な芸術家』1948年(昭和23年) |
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* 『[[アポロの杯]]』1952年(昭和27年) |
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*: 「航海日記」、「北米紀行」、「南米紀行」、「欧州紀行」、「旅の思ひ出」から成る。 |
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* 『遠視眼の旅人』1952年(昭和27年) |
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* 『女ぎらひの弁』1954年(昭和29年) |
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* 『好きな女性』1954年(昭和29年) |
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* 『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』1955年(昭和30年) |
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* 『[[小説家の休暇]]』1955年(昭和30年) 公開日記・随筆。 |
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* 『[[新恋愛講座]]』1955年(昭和30年) - 1956年(昭和31年) 「[[Myojo|明星]]」に連載。 |
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* 『わが漫画』1956年(昭和31年) |
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* 『わが魅せられたるもの』1956年(昭和31年) |
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* 『[[ボディビル|ボディ・ビル]]哲学』1956年(昭和31年) |
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* 『わが思春期』1957年(昭和32年) 「明星」に連載。 |
|||
* 『きのふけふ』1957年(昭和32年) 「[[朝日新聞]]」[[コラム]]に連載。 |
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* 『旅の絵本』1958年(昭和33年) ニューヨーク紀行。 |
|||
* 『[[裸体と衣裳]]』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 公開日記・随筆。 |
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* 『[[不道徳教育講座]]』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 「[[週刊明星]]」に連載。 |
|||
* 『同人雑記』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 季刊雑誌「声」に連載。 |
|||
* 『憂楽帳』1959年(昭和34年) 「[[毎日新聞]]」コラムに連載。 |
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* 『十八歳と三十四歳の肖像画』1959年(昭和34年) |
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* 『巻頭言』1960年(昭和35年) 「[[婦人公論]]」に連載。 |
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* 『社会料理三島亭』1960年(昭和35年) 「[[婦人倶楽部]]」に連載。 |
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* 『発射塔』1960年(昭和35年) 「[[読売新聞]]」コラムに連載。 |
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* 『[[ピラミッド]]と麻薬』1961年(昭和36年) |
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* 『美に逆らふもの』1961年(昭和36年) 香港・[[タイガーバームガーデン (香港)|タイガーバームガーデン]]紀行。 |
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* 『第一の性』1962年(昭和37年) - 1963年(昭和38年) 「[[女性明星]]」に連載。 |
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* 『私の遍歴時代』1963年(昭和38年) 「[[東京新聞]]」に連載。 |
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* 『踊り』1963年(昭和38年) |
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* 『小説家の息子』1963年(昭和38年) |
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* 『芸術断想』1963年(昭和38年) - 1964年(昭和39年) 「芸術生活」に連載。 |
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* 『[[熊野]]路―新日本名所案内』1964年(昭和39年) |
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* 『秋冬随筆』1964年(昭和39年) - 1965年(昭和40年) 「こうさい」に連載。 |
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* 『実感的スポーツ論』1964年(昭和39年) 「読売新聞」に連載。 |
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* 『男のおしやれ』1964年(昭和39年) |
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* 『[[反貞女大学]]』1965年(昭和40年) 「[[産経新聞]]」に連載。 |
|||
* 『英国紀行』1965年(昭和40年) |
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* 『[[おわりの美学|をはりの美学]]』1966年(昭和41年) 「[[女性自身]]」に連載。 |
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* 『闘牛士の美』1966年(昭和41年) |
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* 『私の遺書』1966年(昭和41年) |
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* 『私のきらひな人』1966年(昭和41年) |
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* 『[[ビートルズ]]見物記』1966年(昭和41年) |
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* 『男の美学』1967年(昭和42年) |
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* 『紫陽花の母』1967年(昭和42年) |
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* 『インドの印象』1967年(昭和42年) 「毎日新聞」インタビュー。 |
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* 『「[[仙洞御所]]」序文』1968年(昭和43年) |
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* 『電灯のイデア―わが文学の揺籃期』1968年(昭和43年) |
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* 『軍服を着る男の条件』1968年(昭和43年) |
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* 『怪獣の私生活』1968年(昭和43年) |
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* 『「[[人斬り (映画)|人斬り]]」出演の記』1969年(昭和44年) |
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* 『劇画における若者論』1970年(昭和45年) |
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* 『愛するといふこと』1970年(昭和45年) |
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=== 評論・批評 === |
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三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった[[二元論]]的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『[[太陽と鉄]]』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている<ref>虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集Ⅰ』序文[[講談社文芸文庫]]、2006年 ISBN 406198439X </ref>)。 |
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* 『[[王朝]]心理文学小史』1942年(昭和17年) |
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近代日本文学史の傾向においては、ロマン主義、耽美主義に分類されている。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者を[[イロニー|アイロニカル]]に接合している事が指摘される。[[ジョルジュ・バタイユ]]的な生と死の合一といった[[エロティシズム]]観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。また作品の人工性も指摘される。十歳の時に書いたという小品『世界の驚異』から、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『[[鏡子の家]]』、最晩年の『[[豊饒の海]]』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品には[[ニヒリズム]]的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった<ref>井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年</ref>。 |
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*: [[学習院]]図書館の第4回懸賞論文に入選。 |
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* 『[[檀一雄]]「花筐」―覚書』1944年(昭和19年) |
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* 『詩論その他』1945年(昭和20年) |
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* 『戦後語録』1945年(昭和20年) |
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* 『わが世代の革命』1946年(昭和21年) |
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* 『招かれざる客』1947年(昭和22年) |
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* 『[[澤村宗十郎 (7代目)|宗十郎]]覚書』1947年(昭和22年) |
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* 『[[川端康成]]論の一方法―「作品」について』1949年(昭和24年) |
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* 『[[中村歌右衛門 (6代目)|中村芝翫]]論』1949年(昭和24年) |
|||
* 『[[オスカー・ワイルド|オスカア・ワイルド]]論』1950年(昭和25年) |
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* 『批評家に小説がわかるか』1951年(昭和26年) |
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* 『死の分量』1953年(昭和28年) |
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* 『新[[ファシズム|ファッシズム]]論』1954年(昭和29年) |
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* 『[[横光利一]]と川端康成』1955年(昭和30年) |
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* 『欲望の充足について―幸福の心理学』1955年(昭和30年) |
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* 『空白の役割』1955年(昭和30年) |
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* 『電気洗濯機の問題』1956年(昭和31年) |
|||
* 『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』1956年(昭和31年) |
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* 『亀は兎に追ひつくか?―いはゆる後進国の諸問題』1956年(昭和31年) |
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* 『楽屋で書かれた演劇論』1957年(昭和32年) |
|||
* 『川端康成の東洋と西洋』1957年(昭和32年) |
|||
* 『現代小説は古典なり得るか』1957年(昭和32年) |
|||
* 『[[心中]]論』1958年(昭和33年) |
|||
* 「[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]」1959年(昭和34年) |
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* 『川端康成氏再説』1959年(昭和34年) |
|||
* 『[[中村歌右衛門 (6代目)|六世中村歌右衛門]]序説』1959年(昭和34年) |
|||
* 『[[春日井建]]氏の「未青年」の序文』1960年(昭和35年) |
|||
* 『アメリカ人の日本神話』1961年(昭和36年) |
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*: ”Japan: The Cherished Myths” と英訳され、米誌「HOLIDAY」に掲載された。 |
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* 『魔―現代的状況の象徴的構図』1961年(昭和36年) |
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* 『現代史としての小説』1962年(昭和37年) |
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* 『[[谷崎潤一郎]]論』1962年(昭和37年) |
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* 『川端康成読本序説』1962年(昭和37年) |
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* 『[[林房雄]]論』1963年(昭和38年) |
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* 『[[細江英公]]序説』1963年(昭和38年) |
|||
* 『[[市川雷蔵|雷蔵]]丈のこと』 1964年(昭和39年) |
|||
* 『解説(「日本の文学38 川端康成」)』 1964年(昭和39年) |
|||
* 『解説(「現代の文学20 [[円地文子]]集」)』 1964年(昭和39年) |
|||
* 『文学における硬派―日本文学の男性的原理』1964年(昭和39年) |
|||
* 『生徒を心服させるだけの腕力を―[[スパルタ教育]]のおすすめ』1964年(昭和39年) |
|||
* 『現代文学の三方向』1965年(昭和40年) |
|||
* 『谷崎朝時代の終焉』1965年(昭和40年) |
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* 『[[文武両道]]』1965年(昭和40年) |
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* 『[[太陽と鉄]]』1965年(昭和40年) - 1968年(昭和43年) |
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* 『日本人の誇り』1966年(昭和41年) |
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* 『危険な芸術家』1966年(昭和41年) |
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* 『お茶漬ナショナリズム』1966年(昭和41年) |
|||
* 『法律と餅焼き』1966年(昭和41年) |
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* 『わが育児論』1966年(昭和41年) |
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* 『映画的肉体論』1966年(昭和41年) |
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* 『[[ナルシシズム]]論』1966年(昭和41年) |
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* 『[[市川團蔵 (8代目)|団蔵]]・芸道・再軍備』1966年(昭和41年) |
|||
* 『谷崎潤一郎、芸術と生活』1966年(昭和41年) |
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* 『谷崎潤一郎について』1966年(昭和41年) |
|||
* 『[[伊東静雄]]の詩―わが詩歌』1966年(昭和41年) |
|||
* 『谷崎潤一郎頌』1966年(昭和41年) |
|||
* 『序([[舩坂弘]]著「英霊の絶叫」)』1966年(昭和41年) |
|||
* 『日本への信条』1967年(昭和42年) |
|||
* 『[[古今集]]と[[新古今集]]』1967年(昭和42年) |
|||
* 『「道義的革命」の論理―[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について』1967年(昭和42年) |
|||
* 『私の中のヒロシマ―[[原爆の日]]によせて』1967年(昭和42年) |
|||
* 『人生の本―[[末松太平]]著「私の昭和史」』1967年(昭和42年) |
|||
* 『[[葉隠]]入門』1967年(昭和42年) |
|||
* 『祖国防衛隊はなぜ必要か?』1968年(昭和43年) |
|||
* 『[[愛国心]]』1968年(昭和43年) |
|||
* 『[[円谷幸吉|円谷]]二尉の自刃』1968年(昭和43年) |
|||
* 『ポップコーンの心霊術―[[横尾忠則]]論』1968年(昭和43年) |
|||
* 『[[二・二六事件]]について』1968年(昭和43年) |
|||
* 『小説とは何か』1968年(昭和43年) - 1970年(昭和45年) 「[[波 (雑誌)|波]]」に連載。 |
|||
* 『若き[[サムライ|サムラヒ]]のための精神講話』1968年(昭和43年) - 1969年(昭和44年) 「[[Pocket パンチOh!]]」に連載。 |
|||
* 『[[文化防衛論]]』1968年(昭和43年) |
|||
* 『解説(「日本の文学40 林房雄・[[武田麟太郎]]・[[島木健作]]」)』1968年(昭和43年) |
|||
* 『[[日沼倫太郎|日沼]]氏と死』1968年(昭和43年) |
|||
* 『機能と美』1968年(昭和43年) |
|||
* 『栄誉の絆でつなげ菊と刀』1968年(昭和43年) |
|||
* 『[[篠山紀信]]論』1968年(昭和43年) |
|||
* 『自由と権力の状況』1968年(昭和43年) |
|||
* 『解説(「日本の文学4 [[尾崎紅葉]]・[[泉鏡花]]」)』1969年(昭和44年) |
|||
* 『「[[戦塵録]]」について』1969年(昭和44年) |
|||
* 『現代青年論』1969年(昭和44年) |
|||
* 『反革命宣言』1969年(昭和44年) |
|||
* 『[[鶴田浩二]]論―「[[博奕打ち 総長賭博|総長賭博]]」と「[[人生劇場 飛車角と吉良常|飛車角と吉良常]]」のなかの』1969年(昭和44年) |
|||
* 『自衛隊二分論』1969年(昭和44年) |
|||
* 『砂漠の住人への論理的弔辞―討論を終へて』1969年(昭和44年) |
|||
* 『[[北一輝]]論―「[[日本改造法案大綱]]」を中心として』1969年(昭和44年) |
|||
* 『日本文学小史』1969年(昭和44年) |
|||
*: 第六章で中断され未完。 |
|||
* 『日本文化の深淵について』1969年(昭和44年) |
|||
*: ”A problem of culture” と英訳され、英国紙「[[THE TIMES]]」に掲載された。 |
|||
* 『行動学入門』1969年(昭和44年) - 1970年(昭和45年) 「Pocket パンチOh!」に連載。 |
|||
* 『「[[楯の会]]」のこと』1969年(昭和44年) |
|||
* 『「国を守る」とは何か』1969年(昭和44年) |
|||
* 『解説(「日本の文学52 [[尾崎一雄]]・[[外村繁]]・[[上林暁]]」)』1969年(昭和44年) |
|||
* 『「変革の思想」とは―道理の実現』1970年(昭和45年) |
|||
* 『新知識人論』1970年(昭和45年) |
|||
* 『「[[眠れる美女]]」論』1970年(昭和45年) |
|||
* 『「[[蓮田善明]]とその死」序文』1970年(昭和45年) |
|||
* 『問題提起』1970年(昭和45年) |
|||
* 『解説(「日本の文学34 [[内田百閒]]・[[牧野信一]]・[[稲垣足穂]]」)』1970年(昭和45年) |
|||
* 『士道について―[[石原慎太郎]]への公開状』1970年(昭和45年) |
|||
* 『[[柳田国男]]「[[遠野物語]]」―名著再発見』1970年(昭和45年) |
|||
* 『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』1970年(昭和45年) |
|||
* 『[[武士道]]と[[軍国主義]]』1970年(昭和45年) |
|||
* 『正規軍と不正規軍』1970年(昭和45年) |
|||
* 『革命哲学としての[[陽明学]]』1970年(昭和45年) |
|||
* 『独楽』1970年(昭和45年) |
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* 『武士道に欠ける現代のビジネス』1970年(昭和45年) |
|||
* 『わが同志観』1970年(昭和45年) |
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=== 対談・座談・討論 === |
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三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、[[私小説]]的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海3巻 暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう<ref>[[青海健]]『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』 [[小沢書店]]、2000年</ref>。 |
|||
* 『美のかたち―「[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]」をめぐって』1957年(昭和32年) 対:[[小林秀雄]] <ref name="gensen">のち『[[源泉の感情]] 三島由紀夫対談集』([[河出書房新社]]、1970年。[[河出文庫]]で2006年再刊)に収む。</ref> |
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これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前に[[ギリシア]]旅行で得た、明朗な「[[アポロン]]的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。 |
|||
* 『劇作家のみたニッポン』1959年(昭和34年) 対:[[テネシー・ウィリアムズ]] |
|||
* 『[[捨身飼虎]]』1961年(昭和36年) 対:[[千宗興]] <ref name="gensen"/> |
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* 『七年目の対話』 1964年(昭和39年) 対:[[石原慎太郎]] <ref name="gensen"/> |
|||
* 『現代作家はかく考える』 1964年(昭和39年) 対:[[大江健三郎]] <ref name="gensen"/> |
|||
* 『戦後の日本文学』 1965年(昭和40年) 対:[[伊藤整]]、[[本多秋五]] |
|||
* 『二十世紀の文学』 1966年(昭和41年) 対:[[安部公房]] <ref name="gensen"/> |
|||
* 『[[ニーチェ]]と現代』 1966年(昭和41年) 対:[[手塚富雄]] |
|||
* 『対話・日本人論』 1966年(昭和41年) 対:[[林房雄]] |
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* 『[[エロチシズム]]と国家権力』 1966年(昭和41年) 対:[[野坂昭如]] <ref name="gensen"/> |
|||
* 『われわれはなぜ声明を出したか―芸術は政治の道具か?』1967年(昭和42年) 対:[[川端康成]]、[[石川淳]]、安部公房 |
|||
* 『[[文武両道]]と死の哲学』1967年(昭和42年) 対:[[福田恆存]] <ref name="gensen"/> |
|||
* 『[[ファシスト]]と革命家か』1968年(昭和43年) 対:[[大島渚]] <ref name="gensen"/> |
|||
* 『天皇と現代日本の風土』1968年(昭和43年) 対:石原慎太郎 |
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* 『文武の達人 国防を語る―国防対談』1968年(昭和43年) 対:[[源田実]] |
|||
* 『私の文学を語る』1968年(昭和43年) 対:[[秋山駿]] |
|||
* 『対談・人間と文学』1968年(昭和43年) 対:[[中村光夫]] |
|||
* 『[[デカダンス]]意識と生死観』1968年(昭和43年) 対:[[埴谷雄高]]、[[村松剛]] |
|||
* 『負けるが勝ち』1968年(昭和43年) 対:[[福田赳夫]] |
|||
* 『天に代わりて』1968年(昭和43年) 対:[[小汀利得]] <ref name="naotake">のち『[[尚武のこころ]] 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年。1986年再刊)に収む。</ref> |
|||
* 『戦後の[[デモクラシー]]と反抗する世代』1968年(昭和43年) 対:[[エドワード・G・サイデンステッカー]]、村松剛 |
|||
* 『肉体の運動 精神の運動―芸術におけるモラルと技術』1968年(昭和43年) 対:石川淳 |
|||
* 『原型と現代小説』1968年(昭和43年) 対:[[山本健吉]]、[[佐伯彰一]] |
|||
* 『[[安全保障|安保]]問題をどう考えたらよいか―腹の底から話そう』1969年(昭和44年) 対:[[猪木正道]] |
|||
* 『「[[葉隠]]」の魅力』1969年(昭和44年) 対:[[相良亨]] |
|||
* 『政治行為の象徴性について』1969年(昭和44年) 対:[[いいだもも]] |
|||
* 『国家革新の原理―学生とのティーチ・イン』1969年(昭和44年) |
|||
*: [[一橋大学]]、[[早稲田大学]]、[[茨城大学]]での講演、討論会。 |
|||
* 『[[サムライ]]』1969年(昭和44年) 対:[[中山正敏]] <ref name="naotake"/> |
|||
* 『三島由紀夫vs.[[東京大学|東大]][[全共闘]]―美と共同体と東大闘争』1969年(昭和44年) |
|||
*: 東京大学での討論会。 |
|||
* 『[[刺客]]と組長―男の盟約』1969年(昭和44年) 対:[[鶴田浩二]] <ref name="naotake"/> |
|||
* 『おじさまは男として魅力あるわ』1969年(昭和44年) 対:[[神津カンナ]] |
|||
* 『十年後、[[バイセクシュアル|BIセクシャル]]時代がやってくる?!』1969年(昭和44年) 対:[[美輪明宏|丸山明宏]] |
|||
* 『軍隊を語る』1969年(昭和44年) 対:[[末松太平]] |
|||
* 『日本は国家か―「権力なき国家」の幻想』1969年(昭和44年) 対:[[江藤淳]]、[[高坂正尭]]、[[山崎正和]]、[[武藤光朗]] |
|||
* 『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』1969年(昭和44年) 対:[[高橋和巳]] <ref name="naotake"/> |
|||
* 『守るべきものの価値―われわれは何を選択するか』1969年(昭和44年) 対:石原慎太郎 <ref name="naotake"/> |
|||
* 『現代における右翼と左翼』1969年(昭和44年) 対:林房雄 <ref name="naotake"/> |
|||
* 『戦争の谷間に生きて―青春を語る』1969年(昭和44年) 対:[[徳大寺公英]] <ref name="cd"/> |
|||
* 『剣か花か―70年代乱世・男の生きる道』1970年(昭和45年) 対:野坂昭如 <ref name="naotake"/> |
|||
* 『[[二・二六事件]]と[[全学連]]学生との断絶』1970年(昭和45年) 対:[[堤清二]] <ref name="naotake"/> |
|||
* 『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』1970年(昭和45年) 対:[[村上一郎]] <ref name="naotake"/> |
|||
* 『"菊と刀"と論ずる』1970年(昭和45年) 対:[[伊沢甲子麿]] |
|||
* 『三島文学の背景』1970年(昭和45年) 対:[[三好行雄]] |
|||
* 『エロスは抵抗の拠点になり得るか』1970年(昭和45年) 対:[[寺山修司]] <ref name="naotake"/> |
|||
* 『[[世阿弥]]の築いた世界』1970年(昭和45年) 対:[[ドナルド・キーン]]、[[小西甚一]] |
|||
* 『現代歌舞伎への絶縁状』1970年(昭和45年) 対:[[武智鉄二]] |
|||
* 『文学は空虚か』1970年(昭和45年) 対:[[武田泰淳]] |
|||
* 『破裂のために集中する』1970年(昭和45年) 対:石川淳 |
|||
* 『三島由紀夫 最後の言葉』1970年(昭和45年) 対:[[古林尚]] |
|||
=== 講演・声明 === |
|||
* 『私はいかにして日本の作家となつたか』1966年(昭和41年)4月18日 |
|||
*: [[日本外国特派員協会]]での英語によるスピーチ・質疑応答。<ref name="cd">『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。</ref> |
|||
* 『[[文化大革命]]に関する声明』1967年(昭和42年)3月1日 |
|||
*: [[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]と共同執筆。 |
|||
* 『私の自主防衛論』1968年(昭和43年)10月24日 |
|||
*: [[日本経済団体連合会|日経連]]臨時総会での特別講演。 |
|||
* 『日本の歴史と文化と伝統に立つて』1968年(昭和43年)12月1日 |
|||
*: 東京都学生自治体連絡協議会、関東学生自治体連絡協議会主催の講演。 |
|||
* 『日本とは何か』1969年(昭和44年)10月15日 |
|||
*: [[大蔵省]]100年記念での講演。 |
|||
* 『現代日本の思想と行動』1970年(昭和45年)4月27日 |
|||
*: [[山王経済研究会]]例会での講演。 |
|||
* 『私の聞いて欲しいこと』1970年(昭和45年)5月28日 |
|||
*: [[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]創立84周年記念講演。 |
|||
* 『悪の華―歌舞伎』1970年(昭和45年)7月3日 |
|||
*: [[国立劇場]]歌舞伎俳優養成所での特別講演。<ref name="cd"/> |
|||
* 『孤立のススメ』1970年(昭和45年)6月11日 |
|||
*: [[尚史会]]主催講演。 |
|||
* 『我が国の自主防衛について』1970年(昭和45年)9月3日 |
|||
*: 第3回[[政策科学研究所 (派閥)|新政同志会]]青年政治研修会での講演。<ref name="cd"/> |
|||
* 『檄』1970年(昭和45年)11月25日 |
|||
*: 自衛隊[[市ヶ谷駐屯地]]・[[東部方面総監部]]室のバルコニーから撒かれた声明文と、決起を呼びかける演説。 |
|||
=== 詩歌・献句・小品=== |
|||
* 『大内先生を想ふ』1934年(昭和9年) |
|||
* 『我が国旗』1936年(昭和11年) |
|||
* 『東の博士たち・九官鳥(森たち、第五の喇叭 [[黙示録]]第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥)』1939年(昭和14年) |
|||
* 『凶ごと(まがごと)』1940年(昭和15年) |
|||
* 『小曲集』1940年(昭和15年) |
|||
* 『青城詩抄』1940年(昭和15年) - 1941年(昭和16年) |
|||
* 『抒情詩抄』1941年(昭和16年) |
|||
* 『[[東文彦|東徤]]兄を哭す』1943年(昭和18年) |
|||
* 『廃墟の朝』1944年(昭和19年) |
|||
* 『別れ』1945年(昭和20年) |
|||
* 『故・[[蓮田善明]]への献詩』1946年(昭和21年) |
|||
* 『新しきコロンブス』1955年(昭和30年) |
|||
*: [[ニーチェ]]の詩の翻訳。『[[小説家の休暇]]』に収む。 |
|||
* 『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』1957年(昭和32年) |
|||
* 『狂女の恋唄』1958年(昭和33年) |
|||
* 『祝婚歌 [[カンタータ]]』1959年(昭和34年) |
|||
*: [[皇太子]]ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。 |
|||
* 『[[からっ風野郎|からつ風野郎]]』(同名映画の主題歌)1960年(昭和35年) <ref name="cd"/> |
|||
* 『お嬢さん』(同名映画の主題歌)1961年(昭和36年) |
|||
* 『黒蜥蜴の歌』、『黒とかげの恋の歌』、『用心棒の歌』1962年(昭和37年) |
|||
*: [[ミュージカル映画]]『[[黒蜥蜴]]』(監督:[[井上梅次]]、主演:[[京マチ子]])主題歌と挿入歌。 |
|||
* 『造花に殺された舟乗りの歌』1966年(昭和41年) |
|||
*: [[美輪明宏|丸山明宏]]チャリティー・リサイタルで、マドロス(船乗り)スタイルで歌唱した。作曲:丸山明宏。 |
|||
* 『[[イカロス]]』1967年(昭和42年) <ref name="taiyou">のち評論『[[太陽と鉄]]』の[[エピローグ|エピロオグ]]に収む。</ref> |
|||
* 『[[F-104 (戦闘機)|F104]]』1968年(昭和43年) |
|||
*: 自衛隊戦闘機・F104試乗体験の小品。<ref name="taiyou"/> |
|||
* 『隊歌―祖国防衛隊』1968年(昭和43年) |
|||
* 『起て! 紅の若き獅子たち―[[楯の会]]の歌』1970年(昭和45年) <ref name="cd"/> |
|||
* 『[[辞世の句]]』1970年(昭和45年) |
|||
*: 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」と、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」 の2首。 |
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=== 写真集 === |
|||
* 『[[薔薇刑]]』1963年(昭和38年) 撮影:[[細江英公]]。1500部限定版。 |
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* 『男の死』1970年(昭和45年) 撮影;[[篠山紀信]]。未発売。 |
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== 映画作品 == |
== 映画作品 == |
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!監督名 |
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!主な出演者 |
!主な出演者 |
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| [[1951年]] |
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| ''純白の夜''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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| [[松竹]]大船 |
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| [[大庭秀雄]] |
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| [[木暮実千代]] [[河津清三郎]]<br/>三島由紀夫(端役) |
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| [[1953年]] |
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| [[松竹]]大船 |
| [[松竹]]大船 |
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| [[中村登]] |
| [[中村登]] |
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| [[角梨枝子]] [[若原雅夫]]<br/>[[高橋貞二]] [[桂木洋子]]<br/>[[淡路恵子]] |
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| [[1953年]] |
| [[1953年]] |
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| ''にっぽん製'' |
| ''にっぽん製''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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| [[大映]]東京 |
| [[大映]]東京 |
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| [[島耕二]] |
| [[島耕二]] |
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| [[山本富士子]] [[ |
| [[山本富士子]] [[上原謙]]<br/>[[三田隆]] |
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| [[1954年]] |
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| ''潮騒'' |
| ''潮騒''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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| [[東宝]] |
| [[東宝]] |
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|[[谷口千吉]] |
|[[谷口千吉]] |
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| [[久保明]] [[青山京子]] |
| [[久保明]] [[青山京子]]<br/>[[三船敏郎]] |
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| ''永すぎた春'' |
| ''永すぎた春''<br/>(※[[カラー]]映画) |
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| [[大映]]東京 |
| [[大映]]東京 |
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|[[田中重雄]] |
|[[田中重雄]] |
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| [[若尾文子]] [[川口浩]] |
| [[若尾文子]] [[川口浩]]<br/>[[船越英二]] [[角梨枝子]] |
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| ''美徳のよろめき'' |
| ''美徳のよろめき''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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| [[日活]] |
| [[日活]] |
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|[[中平康]] |
|[[中平康]] |
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|[[月丘夢路]] [[葉山良二]] |
|[[月丘夢路]] [[葉山良二]]<br/>[[三國連太郎]] [[宮城千賀子]] |
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| [[1958年]] |
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| ''[[炎上 (映画)|炎上]]'' |
| ''[[炎上 (映画)|炎上]]''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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| [[大映]]京都 |
| [[大映]]京都 |
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|[[市川崑]] |
|[[市川崑]] |
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|[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]] [[ |
|[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]] [[仲代達矢]]<br/>[[中村鴈治郎]] [[新珠三千代]]<br/>[[中村玉緒]] |
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| [[1959年]] |
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| ''燈台'' |
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| [[東宝]] |
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|[[鈴木英夫]] |
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|[[津島恵子]] [[久保明]]<br/>[[河津清三郎]] |
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| ''不道徳教育講座''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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| [[日活]] |
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|[[西河克己]] |
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|[[月丘夢路]] [[大坂志郎]]<br/>[[信欣三]]<br/>三島由紀夫(ナビゲーター) |
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| [[1961年]] |
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|[[弓削太郎]] |
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|[[井上梅次]] |
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|[[京マチ子]] [[大木実]] [[叶順子 (女優)|叶順子]]<br/>[[川口浩]] |
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| ''剣''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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|[[三隅研次]] |
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|[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]] [[藤由紀子]] |
|[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]] [[長谷川明男]]<br/>[[藤由紀子]] |
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| ''獣の戯れ'' |
| ''獣の戯れ''<br/>(※[[モノクロ]]映画) |
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|[[富本壮吉]] |
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|[[若尾文子]] [[河津清三郎]] |
|[[若尾文子]] [[河津清三郎]]<br/>[[伊藤孝雄]] |
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|[[木下亮]] |
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|[[岸田今日子]] [[山崎努]] |
|[[岸田今日子]] [[山崎努]]<br/>[[山村聰]] [[東恵美子]] |
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|[[島耕二]] |
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|[[田宮二郎]] [[高月毬子|高毬子]]<br/>[[若山弦蔵]] |
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| ''愛の渇き'' |
| ''愛の渇き''<br/>(※パート[[カラー]]映画) |
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|[[蔵原惟繕]] |
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|[[浅丘ルリ子]] [[中村伸郎]] |
|[[浅丘ルリ子]] [[中村伸郎]]<br/>[[石立鉄男]] [[山内明]] |
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| ''[[黒蜥蜴]]'' |
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| [[松竹]] |
| [[松竹]]大船 |
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|[[深作欣二]] |
|[[深作欣二]] |
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|[[美輪明宏|丸山明宏]] [[木村功]] |
|[[美輪明宏|丸山明宏]] [[木村功]]<br/>[[川津祐介]]<br/>三島由紀夫(端役) |
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| [[1971年]] |
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| 行動社/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] |
| 行動社/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] |
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|[[増村保造]] |
|[[増村保造]] |
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|[[黒沢のり子]] [[細川俊之]] |
|[[黒沢のり子]] [[細川俊之]]<br/>[[森次浩司]] |
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| [[1975年]] |
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| ''[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]'' |
| ''[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]'' |
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| [[東宝]]/ |
| [[東宝]]/ホリ企画制作 |
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|[[西河克己]] |
|[[西河克己]] |
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|[[山口百恵]] [[三浦友和]] |
|[[山口百恵]] [[三浦友和]] |
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| たかばやし<br/>よういちプロ/<br/>[[映像京都]]/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] |
| たかばやし<br/>よういちプロ/<br/>[[映像京都]]/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] |
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|[[高林陽一]] |
|[[高林陽一]] |
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|[[篠田三郎]] [[柴俊夫]] |
|[[篠田三郎]] [[柴俊夫]]<br/>[[島村佳江]] |
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| [[1976年]] |
| [[1976年]] |
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| ''午後の曳航'' |
| ''午後の曳航''<br/>英題:The Sailor who<br/> fell from grace with the sea |
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| マーティン・ポール<br/> |
| マーティン・ポール+<br/>ルイス・ジョン・<br/>カルリーノ・プロ/<br/>日本ヘラルド映画 |
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|[[ルイス・ジョン |
|[[ルイス・ジョン・カルリーノ]] |
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|[[サラ・マイルズ]] |
|[[サラ・マイルズ]]<br/>[[クリス・クリストファーソン]] |
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| [[1980年]] |
| [[1980年]] |
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| [[1983年]] |
| [[1983年]] |
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| ''愛の処刑''<br/>(※榊山保名義) |
| ''愛の処刑''<br/>(※榊山保名義) |
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| ENKプロモーション |
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|[[野上正義]] |
|[[野上正義]] |
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|[[御木平介]] [[石神一]] |
|[[御木平介]] [[石神一]] |
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694行目: | 1,266行目: | ||
| [[1985年]] |
| [[1985年]] |
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| ''潮騒'' |
| ''潮騒'' |
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| [[東宝]]/ホリ企画 |
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|[[小谷承靖]] |
|[[小谷承靖]] |
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|[[堀ちえみ]] [[鶴見辰吾]] |
|[[堀ちえみ]] [[鶴見辰吾]] |
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700行目: | 1,272行目: | ||
| [[1986年]] |
| [[1986年]] |
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| ''鹿鳴館'' |
| ''鹿鳴館'' |
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| MARUGEN-<br/> |
| MARUGEN-FILM/<br/>[[東宝]] |
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|[[市川崑]] |
|[[市川崑]] |
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|[[浅丘ルリ子]] [[菅原文太]] |
|[[浅丘ルリ子]] [[菅原文太]]<br/>[[沢口靖子]] [[三橋達也]] |
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| [[2005年]] |
| [[2005年]] |
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708行目: | 1,280行目: | ||
| [[東宝]] |
| [[東宝]] |
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|[[行定勲]] |
|[[行定勲]] |
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|[[妻夫木聡]] [[竹内結子]] [[若尾文子]] |
|[[妻夫木聡]] [[竹内結子]]<br/>[[高岡蒼佑]] [[若尾文子]]<br/>[[真野響子]] |
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| [[1998年]] |
|||
| ''肉体の学校''<br/>仏題:L'Ecole de la Chair<br/>英題:The School of Flesh |
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| ORSANS プロダクション<br/>Pyramide |
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|[[ブノワ・ジャコ]] |
|||
|[[イサベル・ユベール]]<br/>[[ヴァンサン・マルチネス]] |
|||
|} |
|} |
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=== 出演 === |
=== 主演・出演 === |
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{|class="prettytable" style="margin:0 auto" |
{|class="prettytable" style="margin:0 auto" |
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726行目: | 1,304行目: | ||
| [[松竹]][[大船]] |
| [[松竹]][[大船]] |
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| 大庭秀雄 |
| 大庭秀雄 |
||
| 特別出演 |
| 端役で特別出演<br/>ダンスパーティーのシーン |
||
| [[河津清三郎]] |
| [[河津清三郎]]<br/>[[木暮実千代]] |
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| ※原作 |
| ※原作 |
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| [[1959年]] |
| [[1959年]] |
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| ''[[不道徳教育講座]]'' |
| ''[[不道徳教育講座]]'' |
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| 日活 |
| [[日活]] |
||
| [[西河克己]] |
| [[西河克己]] |
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| 特別出演 |
| 特別出演<br/>冒頭と最後のナビゲーター |
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| [[大坂志郎]] |
| [[大坂志郎]]<br/>[[信欣三]] |
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| ※原作 |
| ※原作 |
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743行目: | 1,321行目: | ||
| [[増村保造]] |
| [[増村保造]] |
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| 朝比奈武夫 |
| 朝比奈武夫 |
||
| [[若尾文子]] |
| [[若尾文子]]<br/>[[船越英二]]<br/>[[志村喬]] |
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| ※主演 |
| ※主演 |
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| [[1968年]] |
| [[1968年]] |
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| ''黒蜥 |
| ''[[黒蜥蜴]]'' |
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| [[松竹]]大船 |
| [[松竹]][[大船]] |
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| [[深作欣二]] |
| [[深作欣二]] |
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| 日本人青年の生人形 |
| 端役で特別出演<br/>日本人青年の生人形 |
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| [[美輪明宏|丸山 |
| [[美輪明宏|丸山明宏]]<br/>[[木村功]]<br/>[[川津祐介]] |
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| ※劇化・戯曲 |
| ※劇化・戯曲作 |
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| [[1969年]] |
| [[1969年]] |
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| [[五社英雄]] |
| [[五社英雄]] |
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| [[田中新兵衛]] |
| [[田中新兵衛]] |
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| [[勝新太郎]] |
| [[勝新太郎]]<br/>[[仲代達矢]]<br/>[[石原裕次郎]] |
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| ※出演 |
| ※出演 |
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=== 監督 === |
=== 監督 === |
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{|class="prettytable" style="margin:0 auto" |
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| [[東宝]]/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] |
| [[東宝]]/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] |
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| 武山信二中尉 |
| 武山信二中尉 |
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| [[鶴岡淑子]] |
| [[三島由紀夫]]<br/>[[鶴岡淑子]] |
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| ※制作は[[1965年]] |
| ※制作は[[1965年]]。※原作・製作・脚色・美術も |
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|} |
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== テレビドラマ作品 == |
== テレビドラマ作品 == |
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=== 原作 === |
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* 卒塔婆小町([[1958年]][[10月30日]]、[[日本放送協会|NHK]]) - 出演も兼ねる。 |
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* 名作劇場『永すぎた春』([[KRテレビ]])、1957年(昭和32年)8月28日 - 9月25日 |
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* 舞踊ホール『[[地獄変]]』([[1962年]][[6月2日]]、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) |
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* 文学座アワー『灯台』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、1958年(昭和33年)4月24日 |
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* [[東芝日曜劇場]]『橋づくし』(KRテレビ)、1958年(昭和33年)9月7日 |
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* 『卒塔婆小町』([[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]])、 1958年(昭和33年)10月30日 |
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** [[プロローグ]]に語り部として三島が出演。昭和33年度[[芸術祭]]参加。 |
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* 木曜観劇会『鹿鳴館』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])、1959年(昭和34年)7月9日 |
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* 『不道徳教育講座』(フジテレビ)、1959年(昭和34年)10月15日 - 1960年(昭和35年)8月4日 |
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* お母さん『大障碍』(KRテレビ)、1959年(昭和34年)12月10日 |
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* 女の四季『女神』([[日本教育テレビ]])、1960年(昭和35年)10月4日、11日 |
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* 田辺劇場『美徳のよろめき』(フジテレビ)、1961年(昭和36年)7月4日 - 9月26日 |
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* 女の劇場『純白の夜』([[朝日テレビ]])、1961年(昭和36年)7月26日 |
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* [[近鉄金曜劇場]]『鹿鳴館』([[TBSテレビ]])、1961年(昭和36年)12月1日、8日 |
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* 舞踊ホール『地獄変』([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]])、1962年(昭和37年)6月2日 |
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** 舞踏劇として放映。終了後に三島が出演、アナウンサーと対談。 |
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* 『お嬢さん』([[関西テレビ]])、1962年(昭和37年)6月20日 - 7月25日 |
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* 『鏡子の家』(TBSテレビ)、1962年(昭和37年)7月4日 - 8月29日 |
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* バラ劇場『潮騒』(TBSテレビ)、1962年(昭和37年)7月10日 - 31日 |
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* 文芸アワー『葵上』(日本テレビ)、1962年(昭和37年)8月10日 |
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* 文芸劇場『にっぽん製』(NHKテレビ)、1963年(昭和38年)1月11日 |
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* 文芸劇場『潮騒』(NHKテレビ)、1963年(昭和38年)7月5日 |
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* 近鉄金曜劇場『十九歳』(TBSテレビ)、1963年(昭和38年)11月15日 |
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* 近鉄金曜劇場『剣』(TBSテレビ)、1964年(昭和39年)5月8日 |
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* NHK劇場『真珠』(NHKテレビ)、1964年(昭和39年)6月19日 |
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* ゴールデン劇場『美しい星』([[東京12チャンネル]])、1964年(昭和39年)8月17日 - 21日 |
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* 『お嬢さん』(フジテレビ)、1967年(昭和42年)10月8日~1968年(昭和43年)3月31日 |
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* 東芝日曜劇場『橋づくし』(TBSテレビ)、1968年(昭和43年)9月8日 |
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* [[おんなの劇場]]『春の雪』(フジテレビ)、1970年(昭和45年)2月27日 - 4月3日 |
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* ドラマ『鹿鳴館』(NHKテレビ)、1970年(昭和45年)4月25日 |
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* [[銀河テレビ小説]]『永すぎた春』(NHKテレビ)、1975年(昭和50年)3月3日 - 14日 |
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* [[土曜グランド劇場]]『近眼ママ恋のかけひき』(『三島由紀夫レター教室』)(日本テレビ)、1977年(昭和52年)6月25日 - 7月23日 |
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* 青春アニメ『潮騒』(日本テレビ)、1986年(昭和61年)5月2日、9日 |
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* [[月曜・女のサスペンス]]『復讐・死者からの告発状』(『復讐』)([[テレビ東京]])、1988年(昭和63年)10月24日 |
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* 月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(『花火』)(テレビ東京)、1988年(昭和63年)12月12日 |
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* 月曜・女のサスペンス『侯爵殺人事件・呪われた別荘』(『月澹荘奇譚』)(テレビ東京)、1990年(平成2年)12月3日 |
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* 日本名作ドラマ『美徳のよろめき』(テレビ東京)、1993年(平成5年)6月28日、7月5日 |
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* [[文學ト云フ事]]『美徳のよろめき』(フジテレビ)、1994年(平成6年)8月9日 |
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* 朗読紀行 にっぽんの名作『潮騒』([[NHKハイビジョン]])、2001年(平成13年)2月4日 |
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*テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル 『鹿鳴館』(テレビ朝日)、2008年(平成20年)1月5日 |
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=== その他 === |
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* 『[[皇太子]]ご結婚祝賀演奏会』(NHKテレビ)、1959年(昭和34年)4月10日([[NHKラジオ第一放送|NHKラジオ第一]]と同時放送) |
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** 作詞-三島。作曲-[[黛敏郎]]。演奏-[[NHK交響楽団]]。指揮-[[ウィルヘルム・シュヒター]]。 |
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== ラジオドラマ作品 == |
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=== 原作 === |
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* 連続放送劇『潮騒』([[文化放送]])、1954年(昭和29年)7月11日 - 9月26日 |
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* 現代劇場『ボクシング』(文化放送)、1954年(昭和29年)11月21日 (台本構成-三島) |
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* 続[[高峰秀子]]ドラマ集『遠乗会』([[ニッポン放送]])、1956年(昭和31年)4月13日 |
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* ラジオ小説『女神』(文化放送)、1956年(昭和31年)6月25日 - 7月20日 |
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* 大映アワー『永すぎた春』([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|ラジオ東京]])、1957年(昭和32年)3月20日 - 5月22日 |
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* 国際演劇月参加特別番組『道成寺』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)6月18日 |
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* 人情夜話『橋づくし』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)7月1日 - 3日 |
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* [[淡島千景]]ドラマ集『美徳のよろめき』(ニッポン放送)、1957年(昭和32年)9月15日、22日 |
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* 現代劇場『班女』(文化放送)、1957年(昭和32年)12月27日 |
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* シネマ劇場『炎上』(『金閣寺』)(ニッポン放送)、1958年(昭和33年)7月27日 - 8月17日 |
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* 現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』([[NHKラジオ第2放送|NHKラジオ第二]])、1959年(昭和34年)6月27日 |
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** 第二部座談会「作品をめぐって」に三島が出演。 |
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* 『鏡子の家』([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]])、1959年(昭和34年)10月19日~1960年(昭和35年)3月16日 |
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* ラジオのためのオペラ『あやめ』([[CBCラジオ|中部日本放送]])、1960年(昭和35年)11月27日 |
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** 昭和35年度芸術祭賞。 |
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* 連続ラジオ小説『潮騒』([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第一]])、1961年(昭和36年)6月26日 - 7月29日 |
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* ラジオ小説『夏子の冒険』(NHKラジオ第一)、1962年(昭和37年)10月1日 - 31日 |
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* お茶の間名作集『潮騒』(ニッポン放送)、1964年(昭和39年)9月1日 - 30日 |
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* 朝のラジオ小説『肉体の学校』([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])、1964年(昭和39年)10月27日 - 11月14日 |
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* ドラマ・スタジオ8『[[モノローグ]]・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送)、1965年(昭和40年)7月20日 |
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* 東西傑作文学『美徳のよろめき』(TBSラジオ)、1968年(昭和43年)9月9日 - 10月5日 |
|||
* 日曜名作座『美しい星』(NHKラジオ第一)、1975年(昭和50年)5月25日 - 6月15日 |
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* 文芸劇場『沈める滝』(NHKラジオ第一)、1976年(昭和51年)2月28日 |
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* 名作をたずねて『潮騒』(NHKラジオ第二)、1976年(昭和51年)4月23日、30日 |
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=== 朗読 === |
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* 小説『夏子の冒険』(ラジオ東京)、1952年(昭和27年)6月2日 - 30日 |
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* 連続物語『夏子の冒険』(文化放送)、1953年(昭和28年)6月1日 - 27日 |
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* 自作朗読『美神』(ラジオ東京)、1954年(昭和29年)7月1日 (朗読-三島) |
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* [[私の本棚]]『真夏の死』(NHKラジオ第一)、1954年(昭和29年)7月15日 - 24日 |
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* 文学サロン『潮騒』(ラジオ東京)、1955年(昭和30年)5月2日 |
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* ドラマ自由席『熊野―近代能楽集のうち』(ラジオ東京)、1961年(昭和36年)11月5日 |
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* 物語り『真珠』(NHKラジオ第一)、1963年(昭和38年)5月23日 |
|||
* ラジオ劇場『卒塔婆小町』(ニッポン放送)、1963年(昭和38年)9月15日 |
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* 自作朗読『サーカス』([[NHK-FM放送|NHK-FM]])、1965年(昭和40年)5月1日 (朗読-三島) |
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* 朝の朗読『真夏の死』(中部日本放送)、1965年(昭和40年)5月4日 - 25日 |
|||
* 朗読『沈める滝』(NHK-FM)、1968年(昭和43年)11月11日 - 30日 |
|||
== 音楽作品 == |
== 音楽作品 == |
||
* からっ風野郎(同名の大映映画の主題歌) |
* 『からっ風野郎』(同名の[[大映]]映画の主題歌) |
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** キングレコード、 |
** [[キングレコード]]、1960年(昭和35年)3月20日発売。 |
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** |
** 作詞・歌唱-三島由紀夫。作曲・ギター演奏-[[深沢七郎]]。編曲-[[江口浩司]]。演奏-キングオーケストラ。 |
||
* |
* 『お嬢さん』(同名の大映映画の主題歌) |
||
** キングレコード、 |
** キングレコード、1961年(昭和36年)1月31日発売。 |
||
** 三島 |
** 作詞-三島由紀夫。作曲-[[飯田三郎]]。歌唱-[[中原美紗緒]]、キング合唱団。演奏-キングオーケストラ。 |
||
* 『ポエムジカ 天と海―英霊に捧げる七十二章』 |
|||
* 起て!紅の若き獅子たち |
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** ク |
** タクトレコード、1967年(昭和42年)5月1日発売。のちに[[日本コロンビア]]からも1970年(昭和45年)12月に発売。 |
||
** |
** 詩-[[浅野晃]]。作曲・指揮-[[山本直純]]。朗読-三島由紀夫。演奏-新室内楽協会。 |
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* 『英霊の声―三島由紀夫作「[[英霊の声]]」より』 |
|||
* 「軍艦マーチのすべて」 |
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** |
** [[クラウンレコード]]、1970年(昭和45年)4月29日発売。 |
||
** 作曲・編曲-[[越部信義]]。朗読-三島由紀夫。竜笛-[[関河真克]]。演奏-クラウン弦楽四重奏団。 |
|||
** 三島由紀夫指揮による[[読売日本交響楽団]]の[[軍艦行進曲]]の演奏が収録されている。 |
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* 『起て! 紅の若き獅子たち―[[楯の会]]の歌』 |
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** クラウンレコード、1970年(昭和45年)4月29日発売。 |
|||
** 作詞-三島由紀夫。作曲・編曲-越部信義。歌唱-三島由紀夫と楯の会。 |
|||
* 『[[軍艦行進曲|軍艦マーチ]]のすべて』 |
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** キングレコード、1998年(平成10年)4月24日発売。演奏・録音日は1968年(昭和43年)3月18日。 |
|||
** 作詞-[[鳥山啓]]。作曲-[[瀬戸口藤吉]]。指揮-三島由紀夫。演奏-[[読売日本交響楽団]]。 |
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== 関連人物 == |
== 関連人物 == |
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; [[東文彦]]:年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』([[新潮社]]、1999年。[[新潮文庫]]、2002年)の大半は東宛である、戦時中の1943年(昭和18年)10月8日に23歳で夭折。三島は、『東文彦作品集』([[講談社]]、1971年。[[講談社文芸文庫]]で2007年再刊)の出版に尽力し、自決する1ヶ月前に序文を記した。文彦の父・[[東季彦]]によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという<ref name="mochimaru"/>。なお、東文彦の母方の祖父は[[石光真清]]である。 |
|||
; [[安部譲二]]:作家。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は『複雑な彼』([[集英社]])を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部とした。 |
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; [[安部譲二]]:作家で元ボクサー、[[日本航空]][[客室乗務員]]、[[バー]]経営など。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は『複雑な彼』([[集英社]]、1968年。[[角川文庫]]で2009年再刊)を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部とした。 |
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; [[天知茂]]:生涯の持ち役だった[[明智小五郎]]を初めて演じたのは、三島本人から指名され、丸山明宏初主演でもある昭和43年の舞台『[[黒蜥蜴]]』である。 |
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; [[天知茂]]:俳優。生涯の持ち役だった[[明智小五郎]]を初めて演じたのは、三島本人から指名され、[[丸山明宏]]初主演でもある1968年(昭和43年)の舞台『[[黒蜥蜴]]』である。三島は劇場プログラムの中で、「もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。この[[ダンディ]]、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな喜びである。映画『[[四谷怪談]]』の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつてゐたのであつた」<ref>三島由紀夫『「[[黒蜥蜴]]」』([[東横劇場]]プログラム 1968年4月に掲載)</ref>と記している。 |
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; [[東文彦]]:年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社のち新潮文庫)の大半は東宛である、戦時中に23才で夭折。『東文彦作品集』(講談社、[[講談社文芸文庫]]で再刊)の序文を、自決する1か月前に記した。なお母方の祖父は[[石光真清]]。 |
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; [[伊東静雄]]:[[日本浪曼派]]の詩人。三島からは尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を嫌っており(しかし1942年(昭和17年)の三島宛の葉書では、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と、三島を励ましている)、1944年(昭和19年)5月に三島の訪問(序文の依頼)を受けた際のことを、伊東は日記で、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」と記し、リンゴを持参した自分の中学校の教え子と、手ぶらで来て夕食まで食べ、駅まで見送った三島を比べていた。また、その月末の日記では、「平岡からの手紙、面白くない。背のびした無理な文章」と記した(但し三島自身の弁にも、初期の自身の文章を同じように難じる記述がある)。[[小高根二郎]]は『詩人 伊東静雄』の中で、「魚棚の[[丁稚]]あがりの父をもった静雄は、かなり激しい階級的な反発心を秘めていた。(中略)上流の階級に属していた、その[[ボンボン]](三島)に、なぜ貧乏な俺がサービスしなければならないのか?(中略)静雄は二少年を天秤にかけた常識―自分の俗物性を、日記で由紀夫に押しつけたのである」<ref>[[小高根二郎]]『詩人 伊東静雄』(新潮社、1971年)</ref>と述べている。伊東歿後、三島は伊東を回想し、「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」<ref>三島由紀夫『伊東静雄の詩―わが詩歌』(文芸誌・[[新潮]] 1966年11月号に掲載)</ref>と述べ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛した。『伊東静雄全集推薦の辞』でも、「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。 |
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; [[遠藤周作]]:作家。憂国忌発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージにはファナティックな意図なしに一定の理解を示していた。晩年の代表作『[[深い河]]』は、『豊饒の海』の影響も多分に受けている。 |
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; [[石原慎太郎]]:作家。政治家、[[東京都知事]]。デビュー当時、三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品『[[完全な遊戯]]』が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れ、1970年(昭和45年)6月に三島が、石原の政治姿勢を批判する文章『士道について―石原慎太郎への公開状』を、[[毎日新聞]]に発表してからは事実上断絶した。また、三島は[[村上一郎]]との対談『尚武の心と憤怒の抒情―文化・[[ネーション]]・革命』([[日本読書新聞]] 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号に掲載)<ref name="naotake"/>の中で、「石原と[[小田実]]って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな」と言い、石原の[[天皇]]に対する無理解を批判していた。石原は、[[三島事件]]を「狂気の沙汰」と一言に切って棄て、[[野坂昭如]]との対談や評論『三島由紀夫の日蝕』(新潮社、1991年)でも否定的な見解を述べ続けた。しかし、三島事件直後の文章『三島由紀夫への弔辞』([[週刊現代]] 1970年12月10日号に掲載)<ref>『近代作家追悼文集成(42)三島由紀夫』([[ゆまに書房]]、1999年)に収む。</ref>の中では、「三島氏も友人に宛てた遺書の中で、たとえ他がこれを狂気といおうとも、と断っている。ということは、氏自身が社会的政治的に見て、あの行動が他から眺めれば、狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」とも述べていた。石原が三島の死後に、「自分は(三島と)友人だ」と公言していることについては、賛否両論があり、特に[[美輪明宏]]からは「政治利用」であると批判されている。三島自身は晩年のインタビューで、「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べた。また、1970年(昭和45年)11月の[[清水文雄]]宛の書簡にも三島は、「文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏([[伊沢甲子麿]])一人になりました」と記している。 |
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; [[江藤小三郎]]:三島自決の前年の[[建国記念の日|建国記念日]]に、[[国会議事堂]]前で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく自決した青年。[[明治維新]]の功労者[[江藤新平]]の曾孫。その至誠と壮絶な諫死は後の[[新右翼]]・[[民族派]]運動に多大な影響を及ぼす。三島は『若きサムラヒのための精神講話』<ref>『決定版 三島由紀夫全集〈35〉』([[新潮社]]、2003年)</ref>において「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、その自決の決意に大きな影響を与えたことを伺わせる。 |
|||
; [[伊沢甲子麿]]:教育評論家。1947年(昭和22年)3月、[[国学院大学]]生であった伊沢は、豊川登([[学習院]]教諭、[[ドイツ文学者|ドイツ文学]])と[[磯部忠正]](元学習院長、[[磯部俶]]の兄)を介して三島と知り合い、終生の友人となる。初対面の際、伊沢は三島から、「伊沢さんは[[保田與重郎]]さんが好きですか、嫌いですか?」と聞かれ、「保田さんは私の尊敬する人物です。(中略)戦後、保田さんを[[右翼]]だとか[[軍国主義]]だとか言って非難するものがありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています」と答えた。その時、三島は、「今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言ったという<ref>[[伊沢甲子麿]]「思い出の三島由紀夫」(『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談』付録・月報)(新潮社、2004年)</ref>。憂国忌の発起人でもある。 |
|||
; [[福田恆存]]:英文学者、[[劇作家]]・演出家、保守派の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が、[[文学座]]から分裂し「[[劇団雲]]」結成を発表する前夜に、三島にも参加を呼びかけたが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否し、共に以後は演劇活動はしなかったが、三島は「雲」の機関紙に寄稿し、昭和42年に対談「文武両道と死の哲学」<ref>『若きサムライのために』([[日本教文社]]のち[[文春文庫]])と、『源泉の感情 対談集』(新版は[[河出文庫]]、2006年)に所収</ref>も行うなど、関係断絶には至っていない。 |
|||
; [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]:歌舞伎出身の映画俳優。大映作品『[[炎上 (映画)|炎上]]』(『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』が原作)と『剣』で主役を演じている。撮影現場を見学した日の三島の日記『「炎上」撮影見学 日記(5)―[[裸体と衣裳]]』には、「頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない」<ref>三島由紀夫『[[裸体と衣裳]]』(文芸誌・新潮 1958年4月 - 1959年9月号に連載)</ref>と記している。また、三島からの信頼も厚く、歌舞伎公演に際して、「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい。君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、『炎上』の君には全く感心した。[[市川崑]]監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう」<ref>三島由紀夫『[[市川雷蔵 (8代目)|雷蔵]]丈のこと』([[日生劇場]]プログラム 1964年1月に掲載)</ref>と激励の文章を送られた。『獣の戯れ』の映画主演は多忙で、『[[春の雪]](『[[豊饒の海]]』第1巻)』の舞台公演は病いで実現しなかった。雷蔵は[[増村保造]]監督に、[[二・二六事件]]の青年将校の役もやりたいと相談していたという<ref>[[大西望]]「[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]の『微笑』―三島原作映画の市川雷蔵」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)</ref>。1969年(昭和44年)7月に癌で没したが、[[池上本門寺]]での葬儀には、三島も夫妻で参列している。今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が多く出されている。 |
|||
;[[藤原岩市]]:三島由紀夫を自衛隊仮入隊に誘った人物で、元陸軍将官、自衛隊調査学校学校長。三島の自衛隊体験入隊から深く関与している。 |
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; [[江藤小三郎]]:1969年(昭和44年)2月11日、三島自決の前年の[[建国記念の日|建国記念日]]に、[[国会議事堂]]前で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく[[自決]]した青年。[[明治維新]]の功労者[[江藤新平]]の[[曾孫]]。その至誠と壮絶な諫死は後の[[新右翼]]・[[民族派]]運動に多大な影響を及ぼす。三島は『若き[[サムライ|サムラヒ]]のための精神講話』<ref>三島由紀夫『若き[[サムライ|サムラヒ]]のために』([[日本教文社]]、1969年。[[文春文庫]]で1996年再刊)、『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論』(新潮社、2003年)にも収む。</ref>において、「私は、この[[焼身自殺]]をした江藤小三郎青年の『本気』といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、その自決の決意に大きな影響を与えたことを伺わせる。 |
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; [[細江英公]]:写真家。昭和30年代半ば、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が、舞踏家の土方巽を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、自身の評論集『美の襲撃』(講談社、1961年)の口絵写真を依頼する。これを契機に、[[ボディービル]]に傾倒していた、三島自身の肉体を被写体とした写真集『[[薔薇刑]]』の一連の撮影が行なわれた。『薔薇刑』は細江の代表作となり、戦後日本の写真界のみならず、英語版も数度出版された写真集となった。 |
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; [[遠藤周作]]:作家。[[憂国忌]]発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージにはファナティックな意図なしに一定の理解を示していた。晩年の代表作『[[深い河]]』は、『[[豊饒の海]]』の影響も多分に受けている。 |
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; [[林房雄]]:尊敬し交流していた作家、評論家。『林房雄論』(限定版、新潮社→『作家論』所収、中央公論社)を書き、共著『対話 日本人論』(番町書房)がある。東大法学部の先輩でもある。三島の自決後は、[[憂国忌]]の運営に積極的に参加し、『悲しみの琴』(文藝春秋)ほか多数の論考を著した。 |
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; [[川端康成]]:三島の師にして、先輩作家。三島の母・[[平岡倭文重|倭文重]]によると、1943年(昭和18年)、三島の同人誌での詩や短編を読んだ川端から突然、手紙(宛名は平岡公威)が来て、三島は、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と大喜びし、はしゃいでいたという。翌年の1944年(昭和19年)、『花ざかりの森』出版まで、2,3度手紙をやりとりし、三島は本が出来上がると、川端に贈呈した。誰の紹介状もなくとも、1946年(昭和21年)1月27日に川端宅を初訪問してもよかったが、慎重深く礼儀を重んじる三島は、[[野田宇太郎]]の紹介状を持って訪問したという<ref name="etugu"/>。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が、文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて[[太宰治]]が[[谷崎潤一郎]]令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあると言われているが、この件に関しては1951年(昭和26年)3月に、夫人の川端秀子が、「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」という<ref name="nichiroku"/>。三島は自決約1年前辺りから、[[楯の会]]に対する川端の冷淡さに失望していたとの証言がある<ref>[[村松剛]]『西欧との対決―[[夏目漱石|漱石]]から三島、[[遠藤周作|遠藤]]まで』(新潮社、1994年)</ref>。1971年(昭和46年)1月24日に[[築地本願寺]]で行なわれた三島の葬儀の委員長は川端が務めた。 |
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; [[蓮田善明]]:[[日本浪曼派]]系の国文学者で「[[文芸文化|文藝文化]]」を主宰。元陸軍中尉。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時、駐屯地の[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]で自決。『全集』(全1巻、島津書房)が刊行している。 |
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; [[北杜夫]]:作家。年齢も近く、同じ山の手生まれから交友が始まり、三島は北の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島と北は疎遠となった。ちなみに北の父親の歌人・[[斎藤茂吉]]と三島の伯父で精神科医の[[橋健行]](母・[[平岡倭文重|倭文重]]の兄)は親友同士であった<ref name="hashike"/>。 |
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; [[伊東静雄]]:日本浪曼派の詩人。三島からは尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を大変嫌っており、[[1944年]]に三島の訪問を受けた時、日記の中で三島を「俗人」と呼び、その手紙を「面白くない。背のびした無理な文章」と酷評した(但し三島自身の弁にも初期の自身の文章を同じように難じる記述がある)。伊東歿後、三島はこの日記の内容を知るに及んで「あの人は一個の小人物だつた」<ref>『[[新潮]]』[[1966年]]11月号に発表した「伊東静雄の詩」</ref>と難じた。 |
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; [[越路吹雪]]:独身時代に三島と恋愛関係にあったと言われている。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていたという。 |
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; [[石原慎太郎]]:作家、政治家、[[東京都知事]]。三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品「完全な遊戯」が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れ、昭和45年6月に三島が、石原の政治姿勢を批判する文章を発表してからは事実上断絶した。石原は、三島事件を「狂気の沙汰」と一言に切って棄て、[[野坂昭如]]との対談や評論でも否定的な見解を述べ続けた。三島の死後に「自分は(三島と)友人だ」と公言していることについては、賛否両論があり、特に美輪明宏からは「政治利用」であると批判されている。三島自身は晩年のインタビューで「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べた。 |
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; [[小島千加子]]:文芸誌「[[新潮]]」での三島担当の編集者。三島事件の当日朝10時30分に、最後の作品の原稿『[[天人五衰]]』(『[[豊饒の海]]』第4巻)を取りに自宅へ行った。その時三島は既に出立しており、お手伝いさんから受け取った。経緯は『三島由紀夫と[[檀一雄]]』(構想社、1980年。[[ちくま文庫]]で1996年再刊)に詳しい。 |
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; [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]:歌舞伎出身の映画俳優、大映作品『[[炎上 (映画)|炎上]]』(金閣寺が原作)と『剣』で主役を演じている。三島からの信頼が厚く、歌舞伎公演に際して、激励の文章を送っている。『獣たちの戯れ』の映画主演は多忙で、『春の雪 豊饒の海』の舞台公演(映画化)は病いで実現しなかった。1969年7月に癌で没したが、[[池上本門寺]]での葬儀には、三島も夫妻で参列している、今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が多く出されている。 |
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; [[佐々淳行]]:[[警察庁]]官僚でその後[[内閣官房]][[内閣安全保障室]]長。[[新左翼]]による暴動鎮圧に警察官僚として従事していたこともあり、三島と意見を交わすことも多く、さらに実姉の[[紀平悌子]]が三島と恋愛関係にあったほか、[[粕谷一希]]や[[石原慎太郎]]など共通の知人もいた。 |
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; [[越路吹雪]]:独身時代に三島と恋愛関係にあった。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていた。 |
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; [[清水文雄]]:[[日本浪曼派]]系の国文学者で、[[和泉式部]]研究で著名。学習院時代の恩師で、主宰する「[[文芸文化|文藝文化]]」で、1941年(昭和16年)に筆名「三島由紀夫」を提案し、著作活動を促した。没後に、三島が清水へ送った書簡集『師清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)が出版されている。当時は、学習院在学時の[[皇太子]](現:[[明仁|今上天皇]])の担当教師でもあったが、戦後は[[広島大学]]に赴任し終生在住した。 |
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; [[川端康成]]:三島の師にして、先輩作家。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が、文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて太宰治が谷崎潤一郎令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあるが、この件に関しては夫人の川端秀子から「さりげなく、しかし、きっぱりとお断り」された(1951年3月)。自決約一年前辺りから、楯の会に対する川端の冷淡さに失望したとの証言がある<ref>[[村松剛]]『西洋との対決』(新潮社、1994年)所収</ref>。[[築地本願寺]]で行なわれた葬儀の委員長は川端が務めた。 |
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; [[澁澤龍彦]]:作家で、[[フランス文学者]]。1956年(昭和31年)、澁澤が訳した[[マルキ・ド・サド]]の作品集序文を三島に依頼し、快諾を受けてからその没年に至るまで親交があり、公私ともに三島のよき理解者だった。澁澤は追悼文『三島由紀夫氏を悼む』(雑誌・[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1971年1月号に掲載)の中で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を賞賛し、一方、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の代表作とされる『[[サド侯爵夫人]]』は、澁澤の『サド侯爵の生涯』(桃源社、1964年。[[中公文庫]]、1983年。他)に始まる一連の著作に想を得ており、澁澤も序文を書いている。また三島に面と向かって、「近ごろ、兵隊ごっこ([[楯の会]])はいかがですか」と(半ば皮肉を交えて)言えるほど親しい間柄だった。親交と信頼の深さを伝える著書・対談『三島由紀夫おぼえがき』([[立風書房]]、1983年。中公文庫、1986年)がある。三島の死後は、憑かれたように小寺[[巡礼]]の旅に出たという。 |
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; [[北杜夫]]:作家。年齢も近く、同じ山の手生まれから交友が始まり三島は北の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島とは疎遠だった。 |
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; [[篠山紀信]]:写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』([[毎日新聞社]]、1968年)に、三島が序文『篠山紀信論』を書いている<ref name="dansou">のち『芸術断想 三島由紀夫のエッセイ(4)』([[ちくま文庫]]、1995年。復刊2010年)に収む。</ref>。また、1970年(昭和45年)9月に[[薔薇十字社]]で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影された。当初は、[[横尾忠則]]も被写体になる予定だったが、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。数点が公開されたのみで、その全容は現在にいたっても未公開となっている。なお自宅書斎・庭園ほかを、多数撮影した『三島由紀夫の家』([[美術出版社]]、1995年。普及版2000年)がある。 |
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; [[小島千加子]]:文芸誌「[[新潮]]」での三島担当の編集者。三島事件の当日朝に、最後の作品原稿(『天人五衰』最終回)を取りに自宅へ行った。ただし三島は既に出立しており、お手伝いさんから受け取った。経緯は『三島由紀夫と檀一雄』(構想社、後ちくま文庫)に詳しい。 |
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; [[高橋和巳]]:作家・[[中国文学者]]。三島とは、1969年(昭和44年)に『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』(雑誌・潮1969年11月号に掲載)<ref>高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、1970年)に収む。</ref><ref name="naotake"/>で対談している。三島自決時には、自宅の病床で[[通信社]]のインタビューに応じ、「『[[豊饒の海]]』を書き終わった三島さんはもう書くものが無くなるのでないか。作家として三島さんはどうなるのか、心配だった…」と述べた。文芸誌で、三島の自殺を主題にした談話筆記『自殺の[[形而上学]]』([[文藝]] 1971年2月号に掲載)と、[[野間宏]]・[[秋山駿]]との座談会『文学者の生きかたと死にかた』([[群像]] 1971年2月号に掲載)<ref>遺著『自立の思想』(文和書房、1971年)に収む。</ref>を発表した。なお三島による高橋の作品・人物論は無いが、高橋が訳した[[唐代]]詩人『[[李商隠]](中国詩人選集15)』([[岩波書店]]、1958年)は、[[李賀]]の訳注書と並んで三島の蔵書にある。1971年(昭和46年)5月に39歳の若さで、ガンで亡くなっている。 |
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; [[増村保造]]:映画監督。東大法学部で同窓だったが、映画『からっ風野郎』を三島主演で監督するに際しては三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、平岡梓は「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人[[ロイ・ジェームス]]に向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる<ref>湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社 1984年)を参照。また増村保造も、晩年に回想を書いている『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集三島由紀夫』(1986年5月号、[[青土社]])に収む</ref>。 |
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; [[手塚治虫]]:[[漫画家]]。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『[[ばるぼら]]』([[ビッグコミック]] 1973年 - 1974年に連載)を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前、『[[劇画]]における若者論』([[サンデー毎日]] 1970年2月1日号に掲載)の中で、「劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、[[啓蒙思想|啓蒙]]家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『[[鉄腕アトム]]』を想像した手塚治虫も、『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』では[[日教組]]の御用漫画家になり果て…」と手塚の作風的変遷を辛辣に批判した。 |
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; [[村上一郎]]:作家・批評家で右派的な作家。独自視線の戦争批判が冴える。三島由紀夫と頻繁に会談し、「尚武の心と憤怒の心情」(『尚武のこころ』[[日本教文社]]、昭和45年)に詳しい。昭和50年自宅で自刃した。 |
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; [[田宮二郎]]:俳優。田宮本人の希望で『複雑な彼』([[大映]]、1968年)に主演、学習院の後輩でもある。1978年(昭和53年)12月28日、自宅で[[猟銃自殺]]を遂げ死亡。享年43。 |
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; [[美輪明宏]]:歌手、俳優。10代の時、美輪の[[アルバイト]]先の[[シャンソン]]喫茶『[[銀巴里]]』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島由紀夫の戯曲に多く出演し、「近代能楽集」「双頭の鷲」、三島が脚本を手がけた「[[黒蜥蜴]]」は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。しかし、決して三島に媚びる様なことは無く、三島好みの、凛然として気高い「権高な麗人」像を貫いた。三島は、[[自決]]決行に先駆けて、永訣として「[[バラ|薔薇]]の花束」と共に[[楽屋]]の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。なお自伝著作『紫の履歴書』初版には、三島が序文を寄せている。 |
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; [[徳川義恭]]:[[学習院]]の先輩。 1949年(昭和24年)12月12日、若くして病没した。享年28。[[尾張徳川家]]分家の出身で、[[皇族]]との縁戚関係があり、実兄は半世紀にわたり[[昭和天皇]]の[[侍従]]・侍従長を務めた[[徳川義寛]]である。三島の短編『貴顕』は徳川義恭をモデルにしている。 |
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; [[中村伸郎]]:俳優。三島が劇団「[[文学座]]」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「NLT」「[[浪曼劇場]]」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。[[「わが友ヒットラー」]]ではクルップを演じた。 |
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; [[中村伸郎]]:俳優。三島が劇団「[[文学座]]」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「[[劇団NLT]]」「[[浪曼劇場]]」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。『[[わが友ヒットラー]]』ではクルップを演じた。 |
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; [[長沢節]]:画家。若き日の三島が、彼に興味を持ち池袋椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。彼が書いた小説を三島がほめ、[[鎌倉文庫]]発行の『人間』の臨時増刊号のために、編集長[[木村徳三]]に原稿を持ち込んだが、時を置かず鎌倉文庫がつぶれたため実現せず、その後の三島が右翼的言動を強めたので距離を置くようになる。 |
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; [[長沢節]]:画家。若き日の三島が、彼に興味を持ち池袋椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。彼が書いた小説を三島がほめ、[[鎌倉文庫]]発行の文芸誌「[[人間 (雑誌)|人間]]」の臨時増刊号のために、編集長・[[木村徳三]]に原稿を持ち込んだが、時を置かず鎌倉文庫がつぶれたため実現せず、その後の三島が右翼的言動を強めたので距離を置くようになる。 |
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; [[清水文雄]]:[[日本浪曼派]]系の国文学者で、[[和泉式部]]研究で著名。学習院時代の恩師で、主宰する『[[文芸文化|文藝文化]]』で、昭和16年に筆名「三島由紀夫」を提案、著作活動を促した。没後に『師清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)が出版している。当時は、学習院在学時の皇太子(現:[[明仁|今上天皇]])の担当教師でもあったが、戦後は[[広島大学]]に赴任し終生在住した。 |
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; [[西尾幹二]]:[[ドイツ文学者]]、[[ニーチェ]]研究家。評論家。西尾の『ヨーロッパ像の転換』(新潮社、1969年)には、[[手塚富雄]]と共に三島が推薦文を書いている。また、三島は[[三好行雄]]との対談『三島文学の背景』(雑誌・国文学 1970年5月臨時増刊号に掲載)の中で、「新潮の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私がどういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている」と、西尾の三島論『不自由への情熱―三島文学の孤独』(新潮 1970年2月号に掲載)<ref>[[西尾幹二]]『三島由紀夫の死と私』([[PHP研究所]]、2008年)に収む。</ref>に言及し評価していた。[[憂国忌]]の代表発起人でもある。 |
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; [[澁澤龍彦]]:作家で、[[フランス文学者]]。1956年に三島へ、澁澤が訳した[[マルキ・ド・サド]]の作品集序文を依頼し、快諾を受けてからその没年に至るまで親交があり、公私ともに三島のよき理解者だった。澁澤が三島を「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」(追悼文「三島由紀夫氏を悼む」)と賞賛する一方で、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の代表作とされる『サド侯爵夫人』は、澁澤の『サド侯爵の生涯』([[中公文庫]]ほか)に始まる一連の著作に想を得ており、澁澤も序文を書いている。また三島に面と向かって「近ごろ、兵隊ごっこ(楯の会)はいかがですか」と(半ば皮肉を交え)言えるほど親しい間柄だった。親交と信頼の深さを伝える著書・対談『三島由紀夫おぼえがき』(立風書房、のち中公文庫)がある。 |
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; [[林房雄]]:尊敬し交流していた作家、評論家。『林房雄論』(限定版 新潮社、1963年)<ref>のち『作家論』(中央公論社、1970年。中公文庫、1974年)に収む。</ref>を書き、共著『対話・日本人論』(番町書房、1966年)がある。東大法学部の先輩でもある。三島の自決後は、[[憂国忌]]の運営に積極的に参加し、『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』([[文藝春秋]]、1972年)ほか多数の論考を著した。 |
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; [[篠山紀信]]:写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』([[毎日新聞社]]、1968年)に、三島が序文を書いている<ref>『芸術断想 三島由紀夫のエッセイ』([[ちくま文庫]]、1995年、復刊2010年)にも、[[横尾忠則]]論らと共に所収。</ref>。自決の直前まで、三島自身の依頼で写真集『男の死』を撮影した。数点が公開されたのみで、その全容は現在にいたっても封印されている。なお自宅書斎・庭園ほかを、多数撮影した『三島由紀夫の家』([[美術出版社]]、1995年、普及版2000年)がある。 |
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; [[蓮田善明]]:[[日本浪曼派]]系の[[国文学者]]で「[[文芸文化|文藝文化]]」を主宰した。元[[陸軍中尉]]。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時の1945年(昭和20年)8月19日、駐屯地の[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]で、天皇を愚弄した上官を射殺し、自決した。『全集』(全1巻)(島津書房、1989年)が刊行されている。 |
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; [[高橋和巳]]:作家・[[中国文学者]]。三島とは、1969年に「大いなる過度期の論理」で対談している。自決時には、自宅の病床で通信社のインタビューに応じ「『豊饒の海』を書き終わった三島さんはもう書くものが無くなるのでないか。作家として三島さんはどうなるのか、心配だった…」と述べた。文芸誌で、談話筆記「自殺の形而上学」と、[[野間宏]]・[[秋山駿]]との座談会「文学者の生きかたと死にかた」を発表した<ref>二人の対談は、三島の『尚武のこころ』と、高橋の『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、昭和45年)に所収。後者2つは、遺著『自立の思想』(文和書房、初版昭和46年)に収む。なお三島による高橋の作品・人物論は無いが、高橋が訳した[[唐代]]詩人『[[李商隠]] 中国詩人選集』(岩波書店)は、[[李賀]]の訳注書と並んで蔵書にある。</ref>。翌71年5月に39歳の若さで、ガンで亡くなっている。 |
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; [[土方巽]]:[[舞踏家]]、[[振付家]]。 [[暗黒舞踏|暗黒舞踏派]]の創始者であり、三島に深く傾倒していた。1959年(昭和34年)には、三島の小説『[[禁色 (小説)|禁色]]』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」([[澁澤龍彦]]談)、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集『[[薔薇刑]]』(限定版 [[集英社]]、1963年)<ref name="bara">のち、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』(集英社、1971年)、復刻版『薔薇刑』(新版 集英社、1984年)が出版されている</ref>の製作につながっていく。『薔薇刑』の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。 |
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; [[手塚治虫]]:漫画家。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『[[ばるぼら]]』(1973年 - 74年、[[ビッグコミック]]連載)を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前「劇画や漫画の作者がどんな思想を持とうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的諷刺家になったら、その時点でもうおしまいである。かつて颯爽たる『[[鉄腕アトム]]』を創造した手塚治虫も、『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』では日教組の御用漫画家になり果て…」(「劇画における若者論」)と手塚の作風的変遷を辛辣に批判した。 |
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; [[福田恆存]]:英文学者、[[劇作家]]・[[演出家]]、保守派の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が、「[[文学座]]」から分裂し「[[劇団雲]]」結成を発表する前夜に、三島にも参加を呼びかけたが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否し、以後は共に演劇活動はしなかった。しかし、三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿し、1967年(昭和42年)に対談『文武両道と死の哲学』(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)<ref>『若きサムライのために』(日本教文社、1969年。文春文庫で1996年再刊)に収む。</ref><ref name="gensen"/>も行うなど、関係断絶には至っていなかった。 |
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; [[田宮二郎]]:俳優。田宮本人の希望で『複雑な彼』([[大映]]、1968年)に主演、学習院の後輩でもある。 |
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; [[藤原岩市]]:三島由紀夫を自衛隊体験入隊に導いた人物で、元[[陸将|陸軍将官]]、[[陸上自衛隊小平学校|自衛隊調査学校]]学校長。三島の自衛隊体験入隊から深く関与している。 |
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; [[土方巽]]:舞踏家、振付家。 [[暗黒舞踏|暗黒舞踏派]]の創始者であり、三島に深く傾倒していた。[[1959年]]には、三島の小説『禁色』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」(澁澤)、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集『薔薇刑』の製作につながっていく。「薔薇刑」の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。 |
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; [[細江英公]]:写真家。昭和30年代半ば、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が、舞踏家・[[土方巽]]を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、自身の評論集『美の襲撃』([[講談社]]、1961年)の口絵写真を依頼する。これを契機に、[[ボディービル]]に傾倒していた三島自身の肉体を被写体とした写真集『[[薔薇刑]]』』(限定版 [[集英社]]、1963年)<ref name="bara"/>の一連の撮影が行なわれた。『薔薇刑』は細江の代表作となり、戦後日本の写真界のみならず、英語版も数度出版された写真集となった。 |
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; [[徳川義恭]]:学習院の先輩、若くして病没、[[尾張徳川家]]分家の出身で、[[皇族]]との縁戚関係があり、実兄は半世紀にわたり[[昭和天皇]]の[[侍従]]・侍従長を務めた[[徳川義寛]]である。 |
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; [[増村保造]]:映画監督。東大法学部で同窓だったが、映画『[[からっ風野郎]]』を三島主演で監督するに際しては、三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して[[脳震盪]]で病院に担ぎ込まれたとき、[[平岡梓]]は、「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人[[ロイ・ジェームス]]に向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる<ref>湯浅あつ子『ロイと鏡子』([[中央公論社]]、1984年)</ref>。しかし、その一方、映画が完成し三島邸に招待された際、増村は梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われたという。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道、増村は、「明治生まれの男は偉い」と、梓をほめていたという<ref name="fujii"/>。また、[[岸田今日子]]、晩年の増村保造も、三島の回想文<ref>「[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集三島由紀夫 1986年5月号」(青土社)に掲載</ref>を書いているという。 |
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; [[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]:[[英文学者]]、作家。父は首相[[吉田茂]]で、母方の曽祖父が維新の[[志士]][[大久保利通]]。[[鉢の木会]]の同人仲間として一時期は交流があったが、のちに不和を生じ断交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期に力作『鏡子の家』を酷評したためともいわれるが、[[都知事]]選を舞台にした『宴のあと』刊行に際し、訴訟を起こした元外相[[有田八郎]]と旧知の仲だった吉田が、和解のための話し合いをめぐり三島と互いに感情的な反撥になったという説もある。 |
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; [[美輪明宏]]:歌手、俳優。10代の時、美輪の[[アルバイト]]先の[[シャンソン]]喫茶『[[銀巴里]]』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島の戯曲に多く出演し、『[[卒塔婆小町]]』<ref name="kinndai"/>、『双頭の鷲』、三島が脚本を手がけた『[[黒蜥蜴]]』は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。しかし、決して三島に媚びる様なことは無く、三島好みの、凛然として気高い「権高な麗人」像を貫いた。三島は[[自決]]決行に先駆けて、永訣として「[[バラ|薔薇]]の花束」を持って[[楽屋]]の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。なお自伝著作『紫の履歴書』初版(大光社、1968年)には、三島が序文を寄せている。 |
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; [[山本舜勝]]:三島らを自衛隊調査学校で直接指導した陸上自衛官、元陸軍少佐。「楯の会」の事実上の指導官であった。陸将補で退官後に、三島に関する著書を回想など数冊出している。 |
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; [[村上一郎]]:作家、文芸評論家。[[クリスチャン]]で右派的な思想も持ち、独自視線の戦争批判が冴える。三島と頻繁に会談した。二人の対談は『尚武の心と憤怒の抒情―文化・[[ネーション]]・革命』([[日本読書新聞]] 1969年12月29 - 1970年1月5日合併号に掲載)<ref name="naotake"/>に詳しい。村上の『[[北一輝]]論』([[三一書房]]、1970年)は三島に高く評価された。村上は、三島の決起のニュースを聞き、[[市ヶ谷駐屯地]]に駆けつけ門衛に誰何された際、「自分の官姓名は[[正七位]][[海軍]][[主計]][[大尉]]村上一郎である」と叫んだという。1975年(昭和50年)自宅で[[自刃]]した。 |
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; [[矢頭保]]:写真家。三島は、矢頭の作品集『体道〜日本のボディビルダーたち』(1966年)や『裸祭り』(1969年)に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。 |
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; [[村松英子]]:女優。三島と友人であった実兄・[[村松剛]]を介して三島と知り合う。三島の指導を受け、三島戯曲の舞台に多数出演した。1963年(昭和38年)、「[[喜びの琴事件]]」では、三島、[[中村伸郎]]らと共に「[[文学座]]」を脱退し、「[[劇団雲]]」を経て「[[劇団NLT]]」に所属。1968年(昭和43年)には、再び三島らと共に「劇団NLT」を脱退し、「劇団[[浪曼劇場]]」の旗揚げに参加した。三島との思い出を綴った『三島由紀夫 追想のうた』(阪急コミュニケーションズ、2007年)がある。[[憂国忌]]の代表発起人でもある。 |
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; [[山本舜勝]]:[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]情報教育課長。三島らを自衛隊調査学校で直接指導した陸上自衛官、元[[陸軍少佐]]。元[[陸軍中野学校]]研究部員兼教官。三島の決起に至るまでの過程に深く関与し、「[[楯の会]]」の事実上の指導官であった。[[陸将補]]で退官後に、三島に関する著書を回想<ref>山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)</ref>など数冊出している。 |
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;[[アーサー・C・クラーク]]:[[20世紀]]を代表する著名な[[SF作家]]。三島はSF好きとしても知られており<ref>「美しい星」([[1962年|62年]])・「F104」([[1968年|68年]])・「[[稲垣足穂]]論」([[澁澤龍彦|澁澤]]との対談は、[[1970年|70年]]5月に行われ、4月の[[アポロ13号]]の[[アポロ計画|月面探査]][[ミッション]]失敗も対談中に示唆されている。同対談では、映画「2001年」の持つ[[神話学|神話学的]]含意を仄めかしている、と思われる箇所も見受けられる。[[宇宙船]]「[[ディスカバリー]]号」が「[[精子]]」の形をしているのは有名な話である。エッセー「F104」にも類似の表現が見られる)などの執筆・対談もあり、[[荒井欣一]]・[[北村小松]]等が主宰する「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」にも所属していた。</ref>、クラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、晩年『[[幼年期の終り]]』などに関する感想を「不快な傑作」などとしてエッセーに残している。[[アポロ計画]]華やかなりし[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0168.html 1968年]公開の[[映画]]『[[2001年宇宙の旅]]』も鑑賞している<ref>[http://norisugi.com 『三島由紀夫会見記』(乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと)]</ref>。クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には三島の『仮面の告白』への言及がある。 |
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; [[矢頭保]]:写真家。三島は、矢頭の作品集『体道・日本のボディビルダーたち』(ウェザヒル出版社、1966年)に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。また、『[[裸祭り]]』([[美術出版社]]、1969年)にも序文を寄せている。 |
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;[[アイヴァン・モリス]]:友人の[[日本文学者]]、『[[金閣寺]]』英訳者であり、著書「光源氏の世界」がイギリスで文学賞を受賞した際(1965年)、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。 |
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; [[保田與重郎]]:[[日本浪曼派]]の作家、[[文芸評論家]]。1942年(昭和17年)11月に三島は、学習院の講演依頼のため[[清水文雄]]と共に保田を初訪問する。以後、何度か三島は保田を訪れる。三島の死後、その時の回想『天の時雨』(新潮 1971年1月臨時増刊号に掲載)<ref>『保田與重郎全集第10巻』(講談社、1986年)に収む。</ref>などを保田は綴っている。 |
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;[[ビョーク]]:[[アイスランド]]出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。 |
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; [[横尾忠則]]:[[美術家]]、[[グラフィックデザイナー]]。三島は横尾の絵を気に入り、1968年(昭和43年)に『ポップコーンの心霊術―[[横尾忠則]]論』<ref name="dansou"/>を書いている。1970年(昭和45年)9月に[[薔薇十字社]]で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影されたが、当初、[[横尾忠則]]も被写体になる予定だった。しかし、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。この写真は数点が公開されたのみである。また、横尾忠則装幀による『新輯 [[薔薇刑]]』(集英社、1971年)の装画を見た三島は、自死の直前の11月22日の夜、横尾に電話を入れ、「この絵は俺の[[涅槃]]像だろう? これは間違いなく俺の涅槃像だ」、「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」、「これで君はいつ[[インド]]へ行ってもいいだろう」と言っていたという<ref>[[横尾忠則]]「三島由紀夫氏のこと」『横尾忠則 画境の本懐(道の手帳)』(河出書房新社、2008年)</ref>。それ以前に三島は横尾に、「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的な[[カルマ]]が決定する」と言っていたという<ref>横尾忠則『インドへ』(文藝春秋、1977年)</ref>。 |
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;[[ドナルド・キーン]]:友人の日本文学者。三島の良き理解者で、高く評価していた。たびたび回想・作家論を出している。キーン宛ての三島書簡(『三島由紀夫未発表書簡』中央公論社と中公文庫、のちに『書簡 三島由紀夫全集.38巻』新潮社)が出されている。 |
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; [[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]:[[英文学者]]、作家。父は首相・[[吉田茂]]で、母方の曽祖父が維新の[[志士]][[大久保利通]]。[[鉢の木会]]の同人仲間として一時期は交流があったが、のちに不和を生じ断交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期に力作『[[鏡子の家]]』を酷評したためともいわれるが、[[都知事]]選を舞台にした『宴のあと』刊行に際し、訴訟を起こした元外相・[[有田八郎]]と旧知の仲だった吉田が、和解のための話し合いをめぐり、三島と互いに感情的な反撥になったという説もある。 |
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;[[エドワード・G・サイデンステッカー]]:日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、[[政治]]的傾向を深めて行く三島とは、徐々に疎遠になっていったようである。 |
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;[[アーサー・C・クラーク]]:[[20世紀]]を代表する著名な[[SF作家]]。三島は[[サイエンス・フィクション|SF]]好きとしても知られており、1962年(昭和37年)、SF的な小説『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』にも挑戦し、1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」第71号の中で、「私は心中、近代[[ヒューマニズム]]を完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」<ref>三島由紀夫『一S・Fファンのわがままな希望』([[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」第71号に掲載)</ref>と述べていた。また、[[荒井欣一]]・[[北村小松]]等が主宰する「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」にも所属していた。三島はクラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、[[アポロ計画]]華やかなりし[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0168.html 1968年]公開の映画『[[2001年宇宙の旅]]』も鑑賞した<ref>[http://norisugi.com 『三島由紀夫会見記』(乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと)]</ref>。晩年は、『[[幼年期の終り]]』に関する感想を、「私の読んだおよそ百篇に余るSFのうち、随一の傑作と呼んで憚らない」、「不快な傑作」として、評論『小説とは何か』の中で語っている。また、三島は、随想『[[F-104 (戦闘機)|F104]]』(1968年)<ref name="taiyou"/>や、[[澁澤龍彦]]との対談『[[稲垣足穂|タルホ]]の世界』(1970年5月)<ref>澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』([[立風書房]]、1983年。中公文庫、1986年)に収む。</ref>などで宇宙飛行に触れ、澁澤との対談では、「宇宙の深淵の中に、男性原理の根本的なものとのつながりがある」と言及し、4月の[[アポロ13号]]の[[アポロ計画|月面探査]][[ミッション]]失敗に触れている。同対談では、映画『[[2001年宇宙の旅]]』の持つ[[神話学|神話学的]]含意を仄めかしていると思われる箇所も見受けられる。[[宇宙船]]「[[ディスカバリー]]号」が「[[精子]]」の形をしているのは有名な話である。随想『F104』にも類似の表現が見られる。また、一方、クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には、三島の小説『[[仮面の告白]]』への言及がある。 |
|||
;[[フランシス・フォード・コッポラ]]:『[[ゴッドファーザー]]』『[[地獄の黙示録]]』等で知られるサンフランシスコ在住の映画監督。[[ジョージ・ルーカス]]と共に『[[Mishima: A Life In Four Chapters|MISHIMA]]』をプロデュース。『鏡子の家』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時は、三島の『豊饒の海』からも[[モチーフ]]を得ている。 |
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;[[アイヴァン・モリス]]:友人の[[日本文学者]]。三島の『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』英訳者であり、モリスの著書『[[光源氏]]の世界』が1965年(昭和40年)、イギリスで文学賞を受賞した際、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。 |
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;[[マルグリット・ユルスナール]]:フランスの女性作家。深い[[西洋古典学]]の教養を有し、[[多田智満子]]の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。[[欧米]]における三島の深い理解者の一人で作家論『三島あるいは空虚のヴィジョン』がある<ref>澁澤龍彦訳『三島あるいは空虚のビジョン』(河出書房新社 1982年、のち河出文庫)<br> 新版は、河出の「澁澤龍彦翻訳全集. 15巻」や、[[白水社]]「ユルスナール・セレクション5.空間の旅・時間の旅」に所収、ISBN 4560047154。</ref>。女性初の[[アカデミー・フランセーズ]]会員でもあった。 |
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;[[エドワード・G・サイデンステッカー]]:日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、政治的傾向を深めて行く三島とは、徐々に疎遠になっていったようである。 |
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;[[シガニー・ウィーバー]]:『[[エイリアン]]』で知られるハリウッドの女優。映画『黒蜥蜴』を鑑賞後、リメイク化権を取得。 |
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;[[ドナルド・キーン]]:友人の日本文学者。三島の良き理解者で、高く評価していた。たびたび回想・作家論を出している。キーン宛ての三島書簡を公開した『三島由紀夫未発表書簡―ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年。中公文庫、2001年)<ref>『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)にも収む。</ref>が出されている。 |
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;[[ビョーク]]:[[アイスランド]]出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。三島の初版本を集めているともいう。来日した際に、「ミシマの作品くらいは読まなくてはね」と述べた。 |
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;[[フランシス・フォード・コッポラ]]:『[[ゴッドファーザー]]』『[[地獄の黙示録]]』等で知られる[[サンフランシスコ]]在住の映画監督。[[ジョージ・ルーカス]]と共に『[[Mishima: A Life In Four Chapters|MISHIMA]]』をプロデュース。『[[鏡子の家]]』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時、各所に散りばめられた神話的[[メタファー]]、ラストの東洋的[[ニヒリズム]]など、三島の『[[豊饒の海]]』から[[モチーフ]]のヒントを得たと語っている。また、現代文明に疑問を抱き[[アメリカ陸軍特殊部隊群|グリーンベレー]]に志願した38歳の中年カーツ大佐の人物造型は三島が原型にあるともいわれている。 |
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; [[ヘンリー・スコット=ストークス]]:イギリスの[[ジャーナリスト]]。[[ロンドン]]の「[[タイムズ]]」東京支局長だった。1970年(昭和45年)9月3日に三島を食事に招いた。その時の三島の様子を、「食事の後、三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。[[近衛家]]は、九代にわたって[[嗣子]]が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が[[呪い]]にかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、[[物質主義]]がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。『日本は緑色の蛇の呪いにかかっている』 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。『日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない』 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか」とヘンリー・スコット=ストークスは述べている<ref>[[ヘンリー・スコット=ストークス]]『三島由紀夫 生と死』[[徳岡孝夫]]訳(清流出版、1998年)</ref>。 |
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;[[マルグリット・ユルスナール]]:フランスの女性作家。深い[[西洋古典学]]の教養を有し、[[多田智満子]]の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。欧米における三島の深い理解者の一人で作家論『三島あるいは空虚のヴィジョン』訳・澁澤龍彦(河出書房新社、1982年。河出文庫、1995年)がある<ref>新版は、河出の『澁澤龍彦翻訳全集15巻』(河出書房新社、2003年)や、『ユルスナール・セレクション5.空間の旅・時間の旅』([[白水社]]、2002年)に収む、ISBN 4560047154。</ref>。女性初の[[アカデミー・フランセーズ]]会員でもあった。 |
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;[[シガニー・ウィーバー]]:『[[エイリアン]]』で知られる[[ハリウッド]]の女優。映画『[[黒蜥蜴]]』を鑑賞後、[[リメイク]]化権を取得。 |
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== 脚註 == |
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==参考文献== |
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== 外部リンク == |
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{{Wikibooks|三島由紀夫}} |
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{{Commonscat|Yukio Mishima}} |
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* [http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB/ 三島由紀夫] - [[Yahoo!百科事典]] |
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* {{Yahoo!百科事典|author=[[磯田光一]]}} |
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* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_y.html 三島由紀夫墓所] |
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_y.html 三島由紀夫墓所] |
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* [http://mishima.xii.jp/ 三島由紀夫研究会] |
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* [http://www.horror-house.jp/cat4/19251970.html 三島由紀夫のお墓] |
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* [http://www.mishimayukio.jp/ 三島由紀夫文学館] |
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2012年4月21日 (土) 06:07時点における版
三島 由紀夫 (みしま ゆきお) | |
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1956年、三島由紀夫 | |
誕生 |
平岡 公威(ひらおか きみたけ) 1925年1月14日 日本・東京府東京市 |
死没 |
1970年11月25日(45歳没) 日本・東京都新宿区 |
墓地 | 日本・多磨霊園 |
職業 | 小説家、劇作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(法学) |
最終学歴 | 東京大学法学部 |
活動期間 | 1938年 - 1970年 |
ジャンル | 小説、戯曲、評論、随筆 |
主題 | 古典美、日本の美、愛国心 |
文学活動 | 戦後派、耽美派 |
代表作 |
『仮面の告白』(1949年) 『潮騒』(1953年) 『金閣寺』(1956年) 『鏡子の家』(1959年) 『サド侯爵夫人』(1965年、戯曲) 『豊饒の海』(1965年-1970年) |
主な受賞歴 |
新潮社文学賞(1954年) 岸田演劇賞(1955年) 読売文学賞(1957年・1962年) 週刊読売新劇賞(1958年) フォルメントール国際文学賞第2位(1964年・1967年) 毎日芸術賞(1964年) 文部省芸術祭賞(1965年) ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位(1966年) |
デビュー作 |
短編小説:『酸模―秋彦の幼き思ひ出』、『座禅物語』(1938年) 長編小説:『花ざかりの森』(1941年) |
配偶者 | 平岡瑤子 |
子供 | 平岡紀子、平岡威一郎 |
親族 |
松平乗尹(五世祖父) 永井尚志、松平頼位、橋一巴(高祖父) 平岡太吉、永井岩之丞、橋健堂(曾祖父) 平岡定太郎、橋健三(祖父) 平岡萬次郎(大伯父) 平岡梓(父) 平岡萬寿彦(父の従兄) 橋健行(伯父) 平岡千之(弟) |
ウィキポータル 文学 |
三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家。第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『近代能楽集』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
晩年は自衛隊に体験入学したほか、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、その後の新右翼・民族派運動に大きな影響を及ぼした。1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは三島事件を参照)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある[1]。
三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上[2]。
生涯
出自
家族 親族も参照のこと。
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者・古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。1924年(大正13年)、橋倭文重と結婚する。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し、内務省に入省、内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井なつと結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪の判決)。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていた。
作家・永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[3]。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。
幼少年期
公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母・倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという。坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。車や鉄砲などの音の出る玩具は御法度で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育を行った。また、夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母・夏子の意向が強く働いていたと言われる。学習院入学当時のことを、級友だった三谷信は、「初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 『平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!』と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている」[4]と語っている。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関紙「小ざくら」に発表し始める。読書に親しみ、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、印度童話集、及び講談社「少年倶楽部」(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)などを愛読する。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ線炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られる。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから、「アオジロ」だった。しかし初等科6年の時、校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の偉容で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという[4]。1936年(昭和11年)6月、作文『わが国旗』を書く。
1937年(昭和12年)4月、中等科に進む。両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松涛2丁目4番8号)の両親のもとより通う。文芸部に入る。同年7月、学習院校内誌「輔仁会雑誌」に随筆『春草抄―初等科時代の思ひ出』を発表。国語教師の岩田九郎に作文の才能を認められ成績も上がる。以後、輔仁会雑誌には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。同年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った。『文芸部の坊城だ』 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。『きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた』 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 『これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである』 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った」[5]と語っている。
1938年(昭和13年)3月、輔仁会雑誌に短篇小説『(酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出』と『座禅物語』が掲載された。これが三島の活字となった初めての小説らしい小説といわれている。同年10月、祖母・夏子に連れられて、初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観る。また、同月、母方の祖母・橋トミに連れられて、初めて能(『三輪』)を観る。以後、歌舞伎、能の観劇に夢中になる。
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が他界。享年62。同年4月、清水文雄が学習院に国語教師として赴任し、国文法、作文の担当教師に加わる。清水は三島の生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ドイツ対フランス・イギリスの戦争が始まった(第二次世界大戦の始まり)。
1940年(昭和15年)1月に、退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書く。同月、母・倭文重に連れられ、詩人・川路柳虹を訪問する。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人だった。何度が川路宅を訪れ師事を受ける。同年2月に俳句雑誌「山梔(くちなし)」に俳句や詩歌を発表。以後、渾名のアオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を「山梔(くちなし)」に投稿する。同年11月に短編『彩絵硝子』を輔仁会雑誌に発表。これを読んだ東文彦から始めて手紙をもらい、文通が始まる。徳川義恭とも交友を持ち始める。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠になっていく。この頃の心情は、後に短篇『詩を書く少年』に描かれ、この頃の詩歌はのち、『三島由紀夫選集1 花ざかりの森』(新潮社、1957年)に「十五歳詩集」として掲載された。この頃、レイモン・ラディゲ、オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、北原白秋、草野心平、丸山薫、芥川龍之介、谷崎潤一郎、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』、『古事記』、『枕草子』などを愛読した。
戦時下の思春期
1941年(昭和16年)4月、公威は輔仁会雑誌の編集長に選任される。同年7月に小説『花ざかりの森』を書き上げ、清水文雄に提出する。感銘を受けた清水は、自らも同人の日本浪曼派系の国文学雑誌「文藝文化」に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斎藤清衛門下生で構成されていた。このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。『花ざかりの森』は「文藝文化」昭和16年9月号から12月号に掲載された。編集後記で蓮田善明は公威について、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した[6]。
この頃から公威は、随筆『惟神之道(かんながらのみち)』などを書き、天皇制に関して深い傾倒を見せることとなり、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった(蓮田は終戦直後の1945年(昭和20年)8月19日に南方にて自決)。なお、蓮田は1943年(昭和18年)11月、戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島に遺した。1941年(昭和16年)12月8日(ハワイ時間:12月7日)に、日本はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった。公威は同年11月から書き始めていた評論『王朝心理文学小史』を、翌年の1942年(昭和17年)1月に、学習院図書館懸賞論文として提出する(この論文は、1943年(昭和18年)1月に入選し、希望賞品の豪華本『文楽』(光吉夏弥編、筑摩書房刊)を貰う)。
1942年(昭和17年)3月24日、席次2番で中等科を卒業。学習院高等科文科乙類(独語)に進む。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は新関良三、野村行一(1957年に東宮大夫在職中に死去)らがいた。なお、ドナルド・キーンが後年、ドイツで講演をした際、会場でおじいさんが立ち上がって、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったという[7]。公威は、体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。
1942年(昭和17年)4月、詩『大詔』を文藝文化に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出される。同年7月1日、公威は同人誌「赤絵」を東文彦、徳川義恭と共に創刊する。彼らとの友情を深め、特に病身の東とはさらに文通を重ねた[8][9]。同年8月26日、祖父・定太郎が他界。享年79。
1942年(昭和17年)11月、学習院講演依頼のため、清水文雄に連れられて、日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以後、何度か訪問する。公威は伊東静雄や、蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を、次々と発表する。公威が『伊勢物語のこと』を掲載した「文藝文化」昭和17年11月号には、蓮田は『神風連のこころ』と題した一文を掲載した。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評である(なお、三島は後年、1966年(昭和41年)に神風連の地、熊本を訪れた際に森本忠と会っている)。
1943年(昭和18年)2月24日、学習院輔仁会の総務部総務幹事となる。同年6月6日、輔仁会春季文化大会で、公威の作・演出の『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演される(当初は翻訳劇を企画したが、山梨勝之進]学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。同年8月、富士正晴が『花ざかりの森』の出版の話を蓮田善明に提案する。同年9月頃から、公威は富士正晴を介して、詩人で医師の林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年10月8日、東文彦が23歳の若さで急逝。公威は弔辞[8]を奉げた。東の死によって『赤絵』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[10]。
なお、三島自身は、「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」[11]と書いている。これに対し、高校受験のとき一高の入試に[12]、就職のとき(健康上の理由で面接の)日本勧業銀行の採用試験に失敗しているという反論もあるが、そもそも学習院在学中には他校の受験はできなかった[要検証 ]ため受験にいたらなかったという説もある[13][14]。また日本勧業銀行の採用試験についても筆記試験には合格しており、面接で不採用となっている[13]。三島と開成学園については、母方の祖父・(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父・(平岡梓)と、祖母・夏子の実弟・(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男・威一郎はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる[15]。
1944年(昭和19年)4月、公威は本籍地・兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、同年5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の『仮面の告白』によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」であったが、結果は合格した。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。徴兵検査合格の帰途の5月17日、遺作となるであろう『花ざかりの森』の序文依頼のため、大阪の伊東静雄を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。しかし、伊東は、のち『花ざかりの森』進呈の返礼で、「会う機会が少なすぎた感じがする」と公威に言っている。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となる。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受。ドイツ大使よりドイツ文学の原書3冊、華族会館から図書数冊を贈られた。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の勧めにより、同年10月1日、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ助教授であった団藤重光(三島没後の定年後に最高裁判所判事)から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨を自ら回顧している[16]。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年、このことを三島は父に感謝するようになった。この頃、出版統制の中、「この世の形見」として『花ざかりの森』刊行に奔走。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭が担当)が七丈書院から出版された。三谷信ら友人、知人に本を渡す。
1945年(昭和20年)1月10日から、東京帝国大学勤労報国隊として、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員される。総務部配属で事務作業しつつ、『中世』を書き続ける。中河与一の好意により、『中世』第一回と第二回の途中までを「文芸世紀」に発表する。同年2月4日に入営通知の電報を受け取り、遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する(なお、中島飛行機小泉製作所は1945年(昭和20年)2月25日以降、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅。多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。同年2月6日、父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立し、入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が肺浸潤と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観や「戦後は余生」という感覚)を抱かせることになる。
1945年(昭和20年)5月5日から、神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員される。この頃、『和泉式部日記』、『上田秋成全集』、『古事記』、『日本歌謡集成』、『室町時代小説集』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。また、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、『中世』を書くことで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦した。そして、戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した『岬にての物語』を起稿する。戦時下でただひとつ残った文芸誌「文藝」(編集長は野田宇太郎)に寄稿した『エスガイの狩』の発表は終戦後に遅れた。このとき初めて原稿科を貰う。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、川端康成にも献呈されていた。
1945年(昭和20年)8月15日、終戦、第二次世界大戦が終わった。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えたが、同年8月19日に駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自決。享年41であった。翌年の1946年(昭和21年)11月17日に行われた「蓮田善明を偲ぶ会」に出席した三島は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」という詩を、亡き蓮田に献じた。
1945年(昭和20年)10月23日には、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだなま水を飲んだのが原因)により、17歳の若さで急逝。三島は号泣する。同年11月末か12月頃、公威は三谷邦子(のちに『仮面の告白』に描かれる初恋の女性。親友・三谷信の妹。父親はのちに侍従長となる三谷隆信。[17])が、銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約したことを知る。翌年の1946年(昭和21年)5月5日に両者は結婚。三島はこの日、泥酔する。恋人を横取りされる形になった三島は、「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」[18]と書いている。邦子の結婚後の同年9月16日、三島は偶然、邦子と道で会う。このときのことを三島は、「偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、『ゲエテとの対話』のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?」[19]と、ノートに記している。この頃、三島は初の長編小説『盗賊』を執筆中であった。
文壇デビューと『仮面の告白』
1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉に在住していた川端康成のもとを三島は始めて訪問し、短編『中世』、『煙草』の原稿を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌「人間」(編集長:木村徳三)に『煙草』の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。敗戦後、川端が、「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」と言った言葉は、三島の心に、「一管の笛のなげきのやうに聴かれて胸を搏つた」[20]という。同年6月、『煙草』は「人間」に発表されたが、三島は大学の勉強と執筆活動をする中、高等文官試験を受けるか文筆で立つか悩む。同年11月、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』が文芸雑誌「群像」に、12月には『中世』全編が「人間」に掲載される。ある日、木村徳三は、三島と帝大図書館前で待ち合わせ一時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から、あとをつけて教室を覗いたという。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」[21]と述べている。
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、矢代静一と一緒に、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加した。この時、三島は太宰に対して面と向かって、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身のエッセイ『私の遍歴時代』(東京新聞 1963年1月10日 - 5月23日に連載)[22]によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、酒を飲めない三島が、森鴎外の文学について太宰治に質問したが、太宰はまともに答えず、なにかはぐらかすように、「鴎外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ」と顔を横に向けて呟いた。すると、三島は、「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」とまっすぐ太宰の顔を見て、にこりともせずに言ったという。そして一瞬、座が静かになり、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように太宰は言って、顔をそむけたのだという[23]。しかし、他のその場に居合わせた詩人の中村稔によると、太宰はそう言ったあとで、それがきっかけで場がしらけてしまったのをまずいと思ったのか、「そんなこといったって、ここに来ているんだからやっぱり好きなんだよなあ」と、誰へ言うともなく、あわてて言ったという。また、宴会が終わったあとで、「あの三島という学生はいろんな雑誌で作品を出していますよ」というのを太宰は聞いて、「彼の小説を読んでいたら俺も話もできていたのになあ」と、事前に三島を紹介されていれば応対も違い、文学の話もできたと残念がっていたという[24][25]。この挿話のように、三島は太宰嫌いを公言し、そのことは夙に有名だが、その一方、翌年の1947年(昭和22年)10月の川端康成宛の書簡の中では、「太宰治氏『斜陽』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます」 とも述べていた。
1947年(昭和22年)6月27日、「新夕刊」で林房雄と出会う。三島は林に好感を持ち、以後、親交を持つようになる。林への書簡で自身の文学論や、高見順ら左翼的文壇への憤慨などを吐露する(後年、三島は『林房雄論』(1963年)を書き、また林との対談『対話・日本人論』(1966年)、『現代における右翼と左翼』(1969年)も実現する)。同年7月、日本勧業銀行の入行試験を受験する。論文や英語などの筆記試験には合格したが、健康上の理由により面接で不採用となった。この頃、加藤周一、福永武彦、中村真一郎、窪田啓作らのマチネ・ポエティックの人々と交流を持つ。しかし、その批評活動のあからさまなフランス臭に、「フランスはフランス、日本は日本じゃないか」[22]と反感をおぼえる。
1947年(昭和22年)11月28日、東京大学法学部法律学科卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。同年12月13日、高等文官試験に合格する(成績は合格者167人中138位)。一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより同月24日、大蔵省事務官に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務する(銀行局長に愛知揆一、主計局長に福田赳夫がいた)。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。同月、初の長編『盗賊』が発表される。入省以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。一方、この頃の心境を、三島は『私の遍歴時代』の中で、「せつせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。(中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた」[22]と記している。
1948年(昭和23年)6月、雑誌「近代文学」の第2次同人拡大の際し参加。この第2次参加の顔ぶれは、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房、原民喜、高橋義孝、寺田透、船山馨、日高六郎、中田耕治らがいた。(この件りは『私の遍歴時代』[22]に詳しい)。同年の7月か8月、出勤途中の朝、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労のため、渋谷駅のホームから線路に落ちる。事なきをえたが、この事故をきっかけに職業作家になることを、父・平岡梓が許す。同年8月下旬、河出書房の編集者坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長篇小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この作品に作家的生命を賭ける」と宣言する。そして、同年9月2日、創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日、辞令を受け依願退職した。同年11月25日に、三島は『仮面の告白』を起筆する。
1949年(昭和24年)7月5日、書き下ろし長編小説『仮面の告白』(河出書房)が出版される。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、1950年6月30日に書き下ろし長編『愛の渇き』(新潮社)を発表。同年7月 - 12月に、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を連載。1951年(昭和26年)1月 - 1953年(昭和28)8月にかけて、『禁色』を1951年(昭和26年)を連載するなど、戦後文学の旗手として脚光を浴びた。また、その間も数々の短編や、『邯鄲』・ 『綾の鼓』・『卒塔婆小町』[26]などの戯曲も発表するなど旺盛な活動を見せた。また、1952年(昭和27年)に発表された短編小説『真夏の死』は、のちの1967年(昭和42年)にフォルメントール国際文学賞第2位を受賞することとなる。
1951年12月25日には、朝日新聞特別通信員として約半年間の世界一周旅行へ旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父・梓の一高時代の同期である朝日新聞重役の嘉治隆一が尽力した)。ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマを経て、翌年の1952年(昭和27)5月10日、羽田に帰国。このときの世界旅行記は、同年10月5日に紀行文集『アポロの杯』としてまとめられ、朝日新聞社から刊行された。
1953年(昭和28年)3月と、8月 - 9月に、三島は三重県鳥羽港から神島(かみしま)に行く。八代神社、神島灯台、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の1954年(昭和29年)6月10日、『潮騒』(新潮社)を発表する。ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一パチンコ店がない島だったから」と、大蔵省同期の長岡實に語ったという。『潮騒』は第1回新潮社文学賞を受賞した[27]。
自己改造と『金閣寺』
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」、「肉体」、「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。世界一周旅行後の翌年1953年(昭和28年)、『潮騒』の取材で滞在した神島の島民に、初め三島は、病気療養のために島に来ている人と勘違いされ、「あの青びょうたんみたいな顔の男は誰やろ?体が悪くて養生しに来とるのか」と噂された。島民たちに島の話を聞きながら、熱心にメモをとる痩せた白い肌の三島の姿は、屈強な島の逞しい男達を見慣れている島の女性たちにはかなり珍しかったという。そんな経験や、胃弱や虚弱体質に悩んでいたこともきっかけとなり、1955年(昭和30年)9月、三島は、週刊読売のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と、「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速、編集部に電話をかけ、玉利を紹介してもらい、週3回のボディビルを始めるなど、「肉体改造」に取り組み始める。
最初は自宅の庭に玉利齊を招いて指導を受けていたが、1956年(昭和31年)1月、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄に会い、弟子入りする。同年3月頃、鈴木が自由ヶ丘にボディビルジムを開き、三島のジム通いが始まった。また、自由ヶ丘で知り合った町内会の人に誘われ、同年8月、自由ヶ丘の熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぐ。元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90キロを挙上したという[28]。同年9月には、鈴木の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄監督の下、ボクシングの練習も始め、1年ほど続けた(1953年(昭和28年)頃も、三島は安部譲二の紹介でボクシングに挑戦したが、その時はいつもシャドーボクシングだった)。1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影する。これを観た三島は、「石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります」[29]と記し、以後はもっぱらボクシング観戦の方に回り、何人かの選手のスポンサーになった。
1948年(昭和23年)頃からの友人で、小説家の中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして、「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[30]。
三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163センチと、当時としては平均的であった。ちなみに三島の1941年(昭和16年)4月22日付の身体検査記録表には、「平岡公威 身長162.2センチ、体重44.0キロ」と記録され(このときの成績通知表に記された文部省による全国の同年齢平均標準値は158.8センチ、体重50.0キロとなっている)、1942年(昭和17年)4月13日付の身体検査記録表は、「平岡公威 身長163.1センチ、45.4キロ」と記録され、こちらも同年・同学年の平均値よりは高い数値である[31]。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173センチです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173センチだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。しかし現在残っている質問形式の雑誌記事には三島が正直に身長を答えている記載がある[32]。
ボディビルを始めた同年の1955年(昭和30年)11月には、京都に取材に行き、1950年(昭和25年)に起こった、青年僧による金閣寺放火事件を題材にした次回作の執筆にとりかかる。『仮面の告白』から取り入れていた森鴎外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず「文体改造」も行った。その双方を磨き上げ昇華した独特の壮麗な文体を確立し、広く高い評価を得たのが長編小説『金閣寺』である。この作品は1956年(昭和31年)1月から10月まで「新潮」に連載され、三島文学の代表作となった。第8回読売文学賞も受賞した。
この時期の三島は、1956年(昭和31年)に『永すぎた春』、1957年(昭和32年)に『美徳のよろめき』などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。また同時期には、1955年(昭和30年)に第2回岸田演劇賞を受賞した『白蟻の巣』、1956年(昭和31年)に『鹿鳴館』など戯曲発表も旺盛に行い、同年、国際的にも評価の高い戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」から成る[33])も刊行された。戯曲上演には、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、端役出演なども行った。
また、この時期、花嫁候補を探していた三島が、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の皇后美智子と見合いを行ったのもこの頃の1957年(昭和32年)頃であると考えられている[34]。同年の3月15日、三島は母・倭文重とともに、皇后美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を参観している。
三島は文学以外の評論や批評を行うことも多く、映画や劇画、時事、風俗などへの多岐にわたる評論もした。1954年(昭和29年)の「ゴジラ」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えていた。次第にその審美眼は、プロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らと対談などもした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について「平凡パンチ」のインタビューで述べていた[35]。また、当時の文学者には珍しくSFやSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。日本空飛ぶ円盤研究会にも所属し、1957年(昭和32年)6月8日には、日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。のちの1962年(昭和37年)には、自らもSF性の強い作品である『美しい星』を執筆し、1963年(昭和38年)9月には、SF同人誌「宇宙塵」に寄稿するなどした。また、クラークの「幼年期の終り」を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評した。劇画については、「平田弘史の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味を発見してゐた」と三島は述べている[36]。
世界的評価と『鏡子の家』
1959年(昭和34年)9月、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約1年半をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。三島は『鏡子の家』について、「この小説は、いはゆる戦後文学ではなく、『戦後は終つた』文学だとも云へるだらう。『戦後は終つた』と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうと思つたのである。(中略)四人の青年が、鏡子といふ巫女的な女性の媒(なかだ)ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と紐青(ニューヨーク)に集中する」と述べた。奥野健男はこの小説を「最高傑作」と評価し、橋川文三も高評価を与えた。だが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている[37]。同年1月には『文章読本』を「婦人公論」に発表。『鏡子の家』執筆中の1958年(昭和33年)7月 - 1959年(昭和34年)11月には、エッセイ『不道徳教育講座』を「週刊明星」に連載する。また同時期には、公開日記・随筆『裸体と衣裳』も「新潮」に連載された。1958年(昭和33年)に発表された戯曲『薔薇と海賊』は、週刊読売新劇賞を受賞した。
その後、文壇の寵児として、1960年(昭和35年)に『宴のあと』(フォルメントール国際文学賞第2位受賞)、『百万円煎餅』、『熱帯樹』、『弱法師』、1961年(昭和36年)に『獣の戯れ』、『憂国』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、1962年(昭和37年)に『美しい星』、1963年(昭和38年)に『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作品)、『雨のなかの噴水』、『剣』、『喜びの琴』、1964年(昭和39年)に『絹と明察』など、長編、短編、戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)6月1日に、日本画家・杉山寧の長女・瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、同年11月からは、ボディビルに加えて、本格的に剣道を始める。この頃には、70キロのバーベルを持ち上げられるようになっていた。翌年の1959年(昭和34年)6月2日には長女・紀子が誕生し、1962年(昭和37年)5月2日には長男・威一郎が誕生した。また、舩坂弘と剣道を通じて交友を持つようになる。
文学活動以外でも、1960年(昭和35年)に、永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)にチンピラやくざ役で主演した。1961年(昭和36年)9月には、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルとなり、自宅で撮影が行われた。写真発表は翌年1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。写真集『薔薇刑』は、1963年(昭和38年)3月に限定版で刊行された。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4ヶ月前にサンケイ新聞夕刊で発表した『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』において、「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」[38]と告白している。
私生活や多方面の活躍で、その充実ぶりを見せる一方、1961年(昭和36年)2月には、深沢七郎の『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、2ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる。ジョン・ネイスンによると、この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟・平岡千之の推測があるとされたが、弟の千之はそのようなことは言っていないと、これを否定した[39]。三島は嶋中事件の起こる2年以上前から剣道を本格的に習い、事件以前に『憂国』も書き上げているので、ジョン・ネイスンの見解は見当違いである。同年3月には、『宴のあと』をめぐり有田八郎から告訴され、同年4月からプライバシー裁判が始まった。三島は1964年(昭和39年)9月に敗訴し、80万円の賠償を求められた(三島側は10月に控訴するが、翌年3月の原告・有田八郎の死去に伴い、のちに遺族と和解成立)。この事件で有田側についた吉田健一と三島は疎遠となった。
劇団「文学座」をめぐっても、様々なトラブルにも見舞われた。1963年(昭和38年)1月、反杉村春子であった福田恆存の裏工作により、芥川比呂志、岸田今日子ら29人の劇団員が文学座を脱退し、福田が中心となる「劇団雲」が結成された。三島は新聞に載る直前まで何も知らされていなかった。岸田今日子は、「福田さんに誘われたわたしは 『三島さんが一緒なら』と言った。『もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように』と念を押された。(中略)新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、『新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?』と言われた。福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。」[40]と回顧している。吉田健一の件と、この一件で、1951年(昭和26年)から続いた「鉢の木会」も自然消滅する。残された三島は文学座の再建に力を注ぐが、同年11月には、『喜びの琴』をめぐり、三島と杉村春子らが対立する文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。このように、この時期には、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与した。このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかったが、同年8月には、三島はすでに晩年の自死に通じるような『剣』を書き上げている。翌年の1964年(昭和39年)初めには、『浜松中納言物語』を読み、のちの『豊饒の海』の構想が始まる。
1963年(昭和38年)10月、三島は『絹と明察』を起筆する。この小説は、『鏡子の家』で描いた「時代」の「青年」から、日本の「家長」というものへテーマを変えた作品だった。三島は『絹と明察』について、「書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。(中略)父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」[41]と述べている。三島は近江絹糸の労働争議(近江絹糸争議)を背景に、伝統的な日本(駒沢)と、西洋かぶれの日本(大槻、岡野)との対立を描くことで、日本の究極の家長とは何かを探ろうとした。この小説の翻訳は当初、ジョン・ネイスンが担当したが、ネイスンは翻訳途中状態でこれを放置し、大江健三郎の翻訳担当に移った。のちネイスンは『絹と明察』の翻訳を三島に断ったが、この非礼に怒った三島とネイスンの関係は感情的もつれを生んだ。三島はネイスンのことを、「左翼に誘惑された与太者」と呼び、ネイスンも米誌に三島の酷評を書いた。『絹と明察』は第6回毎日芸術賞文学部門賞を受賞した。
この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、アイヴァン・モリス、ドナルド・キーン、エドワード・G・サイデンステッカーなどが著名である)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは1961年(昭和36年)に亡くなる直前、三島の『金閣寺』を読み、ノーベル財団の、ある委員に宛てた手紙で大絶賛したという。また、『真夏の死』、『宴のあと』は、フォルメントール国際文学賞第2位を受賞した。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。[42]
日本国外での評価が高さを示すこととして、監督・ポール・シュレイダー、制作総指揮・ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラにより、映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたと述べている。また、三島原作で海外で映画化されたものは、『午後の曳航』がある。『The Sailor Who Fell from Grace with the Sea』という題で、1976年(昭和51年)に日米合作で映画化された(サラ・マイルズ、クリス・クリストファーソン出演)。フランスでは、1998年(平成10年)に『肉体の学校』が、『L'Ecole de la Chair』(英題:『The School of Flesh』)という題で映画化された(ブノワ・ジャコ監督、イサベル・ユベール、ヴァンサン・マルチネス出演)。
イギリスのロックバンド・ストラングラーズも、三島の生き方、作品に着想を得た『Death & Night & Blood (Yukio)』(『死と夜と血』)という楽曲を発表している。『Ice』という楽曲にも、「ハガクレという言葉が使われている。ベースのジャン=ジャック・バーネルは、三島の愛読者であるという。映画『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲は坂本龍一が作曲したが、この楽曲にデヴィッド・シルヴィアンが詞をつけた『禁じられた色彩』は、三島の『禁色』から着想されたもので、デヴィッド・シルヴィアンは三島の大ファンだという。なお、YMOの『BEHIND THE MASK』は、『仮面の告白』のタイトルをヒントに坂本龍一が作曲した楽曲だが、これはマイケル・ジャクソンにカバーされている。
楯の会と『豊饒の海』
自らライフワークとした四部作の長編『豊饒の海 第一部 春の雪』が、1965年(昭和40年)より『新潮』で連載開始された(1967年まで)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降も引き続き候補として名が挙がった。三島は1966年(昭和41年)にノーベル文学賞受賞を期待され予定談話まで受けたが、受賞者は別人だった。三島はこのバツの悪い思いの教訓で、翌1967年(昭和42年)は記者の追跡を避けバンコクへ滞留する。川端康成がノーベル文学賞を受賞するのはこの翌年の1968年(昭和43年)である。
同時期には自ら主演・監督した映画作品『憂国』[43]の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海 第二部 奔馬』(1967 - 68年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった[44]。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜とともに『太陽と鉄』、『葉隠入門』、『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。特に文化防衛論においては「近松も西鶴も芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした。
同年9月、インド・タイなどへ旅行。そのときの体験は後に『暁の寺』に結実した[45]。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海 第三部 暁の寺』(1970年前半まで「新潮」に連載)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。同年8月、43歳時に剣道五段を修得した。
1969年(昭和44年)、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表し上演。
1969年2月11日(建国記念の日)に国会議事堂前で決行された憂国烈士・江藤小三郎青年の壮絶な自決に大きな衝撃を受け、その心情を『若きサムラヒのための精神講話』に記す。5月に東大教養学部で、全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わした[46]。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年に、映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演(薩摩藩士田中新兵衛役)。勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演した。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは、三島事件の中心メンバーとなった。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝に、間接的に担当編集者(小島千加子)へ渡された『豊饒の海 第四部 天人五衰』最終回が遺作[47]となった。介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。友人で葬儀で弔辞を読んだ武田泰淳は、自決する時期は、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。[48]。
翌年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長川端康成、弔辞船橋聖一ほか)が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在も忌日には、「三島由紀夫研究会」による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。三島を取材した通信社の元記者の取材ノートが、松戸市内の古書店の店主宅から見つかり元記者の長女に返還された。[49]
略年譜
- 1月 - 自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。
- 1931年(昭和6年)
- 4月 - 学習院初等科に入学。
- 1934年(昭和9年)
- 12月 - 肺門リンパ線を患う。
- 1937年(昭和12年)
- 4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。
- 1938年(昭和13年)
- 3月 - 『酸模-秋彦の幼き思い出。座禅物語。中一句(短歌四首)。詩-金鈴、光は普く漲り、雨、海、墓場ほか三篇』(『輔仁會雑誌』一六一号)。
- 4月 - 成城高校から清水文雄先生就任。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 4月 - 『輔仁會雑誌』編集長に選任される。
- 7月 - 川路柳虹の紹介で萩原朔太郎を訪問。
- 9月 - ペンネームを三島由紀夫とし、『花ざかりの森』(同人誌『文藝文化』四巻九号から十二号まで四回連載)。蓮田善明に激賞される。
- 1942年(昭和17年)
- 3月 - 学習院中等科卒業(席次は2番)。
- 4月 - 学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に入学。
- 5月 - 文芸部委員長に選任される。
- 7月 - 東文彦、徳川義恭の三人で、同人誌『赤繪』を創刊。
- 11月 - 清水文雄と共に、初めて保田與重郎を訪問。
- 1943年(昭和18年)
- 1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。
- 2月 - 『輔仁會』の総務部総務幹事となる。
- 6月 - 富士正晴に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人林富士馬に電話をして三島を連れて行く。その後林と文学的文通、交際が深まる。このころ蓮田善明とも顔を会わせる。
- 7月 - 徳川義恭と共に、志賀直哉を訪問。
- 10月 - 富士、林と共に、佐藤春夫を訪問。
- 1944年(昭和19年)
- 4月 - 徴兵検査通達書を受け取る。発信者は、本籍地兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二。
- 5月 - 本籍地兵庫県印南郡志方村(現加古川市)で徴兵検査を受け、第二乙種に合格。その足で伊東静雄を訪問。
- 9月 - 学習院高等科を首席で卒業し、宮中に参内し、天皇陛下より恩賜の銀時計を拝受。
- 10月 - 東京帝国大学法学法律学科(独法)に推薦入学。『花ざかりの森』(処女小説集)七丈書院刊。
- 1945年(昭和20年)
- 1月 - 学徒動員に伴い、東京帝国大学勤労報国隊として群馬県新田郡太田町東矢島寮、11寮、35号室に入る。
- 2月 - 『中世』第一回、第二回(未完)(雑誌「文藝世紀」二月号)。入営通知の電報が来る。出立までに遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する。兵庫県富合村で入隊検査を受け、右肺浸潤の診断が下され、即日帰郷となる。
- 5月 - 学徒動員に伴い、神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に配置され第五工員寄宿舎に入る。
- 8月 - 『エスガイの狩』(雑誌「文藝」五六月合併号)。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 3月 - 『盗賊・第五、第六章』完結=擱筆。
- 9月 - 願に依って大蔵省本官を退職。
- 10月 - 河出書房の同人誌『序曲』の創刊に参加
- 1949年(昭和24年)
- 7月 - 『仮面の告白』(第五回書き下ろし長編)。
- 1950年(昭和25年)
- 6月 - 書き下ろし長編『愛の渇き』。『青の時代』(雑誌『新潮』七月号から一二月号まで連載)。
- 1951年(昭和26年)
- 11月 - 『禁色』〈第一部〉。
- 12月 - 朝日新聞特別通信員として初めての世界旅行(翌年8月帰国)。
- 1954年(昭和29年)
- 6月 - 『潮騒』長編書き下ろし叢書4、11月までに94000部刊行。
- 10月 - 『潮騒』、第1回新潮社文学賞受賞。
- 1955年(昭和30年)
- 9月 - ボディビルを始める。
- 12月 - 『金閣寺』(雑誌『新潮』一月号から十月号まで連載)。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 1月 - 『金閣寺』第8回読売文学賞受賞。
- 3月 - 『美徳のよろめき』(雑誌『群像』四月号から六月号まで連載)。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 6月 - 文章読本
- 9月 - 『鏡子の家』書き下ろし長編小説第一部(上巻)第二部(下巻)
- 1960年(昭和35年)
- 3月 - 大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)主演。
- 11月 - 『宴のあと』。
- 12月 - 『憂国』(雑誌『小説中央公論』冬季号)
- 1961年(昭和36年)
- 3月 - 『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
- 4月 - 剣道初段に合格。
- 6月 - 『獣の戯れ』(『週刊新潮』6月20日から9月4日号まで連載)。
- 1962年(昭和37年)
- 10月 - 『美しい星』。
- 1963年(昭和38年)
- 3月 - 剣道2段に合格。
- 9月 - 『午後の曳航』書き下ろし長編。『剣』(雑誌『新潮』十月号)。
- 11月 - 『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への公開状〜「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
- 1964年(昭和39年)
- 3月 - 剣道3段に合格。
- 11月 - 『絹と明察』第6回毎日芸術賞受賞。
- 1965年(昭和40年)
- 4月 - 短編映画『憂国』完成
- 8月 - 『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。
- 11月 - 『サド侯爵夫人』。
- 1966年(昭和41年)
- 5月 - 居合を始める。
- 6月 - 『英霊の聲』。剣道4段に合格。
- 1967年(昭和42年)
- 1月 - 第二部『奔馬』連載開始。
- 2月 - 居合初段に合格。
- 4月 - 自衛隊に体験入隊する。
- 10月 - 「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。
- 1968年(昭和43年)
- 8月 - 第三部『暁の寺』連載開始。剣道5段に合格。
- 10月 - 「楯の会」結成。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
作風・評価
三島文学の文体は、終始レトリックを多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ余韻のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と分析している。[50]
三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった二元論的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[51])。 近代日本文学史の傾向においては、ロマン主義、耽美主義に分類されている。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。また作品の人工性も指摘される。十歳の時に書いたという小品『世界の驚異』から、『金閣寺』、『鏡子の家』、最晩年の『豊饒の海』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品にはニヒリズム的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった[52]。
三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海3巻 暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[53]。 これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。
三島の持論
改憲論
三島が楯の会での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起(日本國憲法)』[54]では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして同条第2項では自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「国家として死ぬ」しかない。それではいけないから、政府はいわゆる解釈改憲という「牽強付会の説」を立て、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づ」いて自衛隊を創設したと三島は考えた。なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」と距離を置いている。
さらに、改憲に当たっては同条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」はずなのに日本国憲法だけがそれを謳うのは「不公平不調和」であり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、第9条すべての削除を主張した。また同書では、改憲にあたっては第9条のみならず第1章「天皇」の問題と、第20条に関する神道の問題と関連させて考えなければ日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。その上で、日本の体面回復のためには憲法9条を改正し、日米安保を双務条約に改正するだけでは足りず、日本国軍を設立して憲法に「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定するべきであると主張している。
また三島は、憲法9条について「完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす」と闇市の取締りを引き合いに出して批判し、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」と断じた(「『変革の思想』とは--道理の実現」の一節より)。
三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。
なお、三島は1969年12月から楯の会の隊員のうち13人を募って「憲法研究会」を発足し、翌1970年1月以降、三島が執筆した「新憲法における『日本』の欠落」「『戦争の放棄』について」「『非常事態法』について」を元に憲法改正案を起草し続けた。結局、三島の死後の1971年2月になって一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「維新法案序」を完成[55]、楯の会は同月解散した。この「維新法案序」は産経新聞の2003年11月2日号により初めて紹介された[4]。
自衛隊論
上記のように、三島にとって日本の再軍備は日本の存続において不可欠なものであった。『問題提起』でも、「防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。 物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」と、ロン・ノルが「赤化した」シハヌーク国家元首を追放した1970年のクーデターを引き合いに出して日米安保を批判し、日本の自主防衛を訴えている。
三島は、人生最後の日の檄文で、「自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」と訴えた(同様の趣旨は『問題提起』でも示されている)。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。
檄文では、「諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」とも警告した。
三島は、没年の1月19日、21日、22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは - 道理の実現」という文章を寄せている[56]。 そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが、余すところなく書かれている。
この中で三島は、「改憲サボタージュ」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、
- 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
- 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、
という提案をおこなっている。国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。
『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀仗を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは以下の2点に集約される。
- 自衛隊の名誉回復
- 日米安保体制からの脱却と自主防衛
天皇論
一方、三島の天皇に対する態度は複雑であった。
三島は、最期の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[57]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
特に昭和天皇に対しては、「私はむしろ(昭和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している[58]。
その昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る『英霊の聲』で端的に表されている。三島は昭和天皇が「昭和の歴史においてただ二度だけ」「人間としての義務(つとめ)において」「神であらせられるべきだった」と批判する。「二度」のケースとは、
であり、三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。また同時に、昭和天皇の側近だった幣原喜重郎も批判している。
高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[59]。
だがその一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、恩賜の銀時計を拝受し昭和天皇に謁見したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同じ討論集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発した。
三島は福田恆存との対談[60]において、井上光晴の「三島さんは、おれよりも天皇に過酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。
なお、鈴木邦男によると、楯の会の憲法研究会において、三島は自身の持論をメモに残しているという。その中では、天皇は国体であり、「神勅を奉じて祭祀を司り」、「国軍の栄誉の源」であるという原則とともに「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」と書かれており、三島が女系天皇を容認していたことが分かるという[要出典]。また、当時この持論はほとんど賛同を得られなかったが、近年皇位継承問題が表面化したことから注目を集めているという見解を、鈴木邦男は示し、戦後昭和天皇が側室制度を廃止し、11宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来皇統問題が必ず起こることを三島は予見していたのではないか、と推測している[61]。つまり、この見解も昭和天皇への批判ということになるという。
しかし実際には、鈴木邦男が主張している「三島が女系天皇を容認していたことを示すメモ」なるものは存在していない。鈴木の見解の元としている出典の松藤竹二郎の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は「新憲法に於ける<日本>の欠落」と「『戦争の放棄』について」と「『非常事態法』について」の3章から成る『問題提起』[62]という論文だけである。そこには、天皇の皇位継承の男系・女系については一切触れられていない。松藤の著書を仔細に読むと、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」というものは、三島の死後に、楯の会の憲法研究会で話し合われた案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の憲法研究会の総意ですらない。よって憲法研究会の話し合いの結論も、「<継承は男系子孫に限ることはない>という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、憲法研究会のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた楯の会会員・阿部勉の提案でもあった「女帝を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている[63]。
その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記(『入江相政日記』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある。[64]
漫画に対して
三島は水木しげる、つげ義春や好美のぼるらの漫画を複数所蔵していたことが明らかになっている[65]。水木について三島は「…『宇宙虫』ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも、『ガロ』の『こどもの国』や『武蔵』連作では、見るもむざんな政治主義に堕している」と辛辣な評を残す一方、赤塚不二夫に関しては「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」と絶賛している(晩年の評論より「劇画における若者論」より)。このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。
裁判
『宴のあと』裁判
1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年(昭和39年)9月28日に東京地方裁判所で判決[66]が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。
当初、この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判
1998年(平成10年)、福島次郎が文藝春秋社から小説『三島由紀夫-剣と寒紅』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであった。しかし板坂剛によると福島は三島のストーカーであったという。三島から福島に送られた15通の手紙の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ところが、「この手紙を原文のまま著書に掲載したのは著作権侵害」であるとして、三島由紀夫の相続人2人は「著者の福島と出版元である文藝春秋社に出版差し止め、著作権侵害による損害賠償を求めて民事裁判を起こした。
一審、二審ともに「事務的な内容(文藝春秋社側の手紙は実用的な通信文であり著作物にあたらないとの主張)の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」と三島の自筆の手紙であることが認められ、原告が勝訴した。
2000年(平成12年)、最高裁判所は「著者側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらない」と、福島と文藝春秋側の上告を棄却し、これにより、手紙も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は内容に関しての真偽についてではなかった。というのは、あらかじめこの著書にはアリバイ的に本のなかで『小説』と銘うっていたからである。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通した。
家族 親族
出自も参照のこと。
- 実家
- 祖父・定太郎(官僚)
- 1863年(文久3年)6月4日生 - 1942年(昭和17年)8月26日没(享年79)
- 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。内務省に入省。その後、徳島県参事官、栃木県警部長、衆議院書記官、衆議院書記官兼内務省参事官、内務省参事官兼内務事務官、高等文官試験官、広島・宮城・大阪府内務部長を歴任。1906年(明治39年)7月、福島県知事に就任。1908年(明治41年)6月11日、樺太庁長官に就任。1914年(大正3年)6月、反政友会の農商務大臣・大浦兼武の策謀による公金流用疑惑のため樺太庁長官を辞任(のちに無罪判決)。1930年(昭和5年)8月、定太郎を顕彰する銅像が樺太神社に建立される。1942年(昭和17年)8月26日、死去。菩提寺は愛宕の青松寺。
- 「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)59-60頁によれば、「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは明治二六年、大学を卒業した翌年のことである。何と言っても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”と言われた時代だから、奈徒も不自然なく嫁いできたものと思われる。奈徒は、父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩の松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、この時はじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性も激しかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである…」という[67]。
- 1876年(明治9年)6月27日生 - 1939年(昭和14年)1月18日没(享年62)
- なつの母・高は、水戸の支藩・宍戸藩の藩主松平頼位とその側室・糸との間に生まれた。なつは1888年(明治21年)の12歳から1893年(明治26年)11月27日、17歳で平岡定太郎と結婚するまでの期間、有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いとして仕える。定太郎との間に一人息子の梓を儲ける。1939年(昭和14年)1月18日、潰瘍出血のため死去。
- 野坂昭如の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「明治二六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」という[68]。
- 梓によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な坐骨神経痛にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどいヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」という[69]。
- 父・梓(官僚)
- 1894年(明治27年)10月12日生 - 1976年(昭和51年)12月16日没(享年82)
- 1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。農商務省(現・農林水産省)に入る。1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、終戦で会社は機能停止、政府命令で閉鎖される。1976年(昭和51年)12月16日、肺に溜まった膿漿による呼吸困難のため死去。
- 農林省で梓の7年後輩の楠見義男によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。(中略)入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”と言われた」、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という[70]。一方、増村保造(三島が主演した映画『からっ風野郎』の監督)は映画完成後、三島邸に招待された際、梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われ驚いたという。増村は三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道に、「明治生まれの男は偉い」と梓をほめていたという[71]。
- 1861年(万延2年)1月2日生 - 1944年(昭和19年)12月5日没(享年84)
- 加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に二男として生まれ、武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。1873年(明治6年)、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり、藩主・前田直行に講義を行うほどの秀才だったという。やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。1888年(明治21年)、共立学校に招かれて漢文と倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミ(を後妻とした。1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わる。1910年(明治43年)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、健三は開成中学校の第5代校長に就任した。校長を辞職後は、昌平中学(夜間学校)の校長として、勤労青少年の教育に尽力した。1944年(昭和19年)12月5日、故郷の金沢で永眠[72]。
- 1884年(明治17年)2月6日生 - 1936年(昭和11年)4月18日没(享年52)
- 健行は、開成中学、一高、東大医科精神病学部と進むが、常に首席であったという[73]。1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の松沢病院(東京府巣鴨病院)の副院長に就任。その後、1927年(昭和2年)、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)助教授に就任した。歌人の斎藤茂吉とは親友同士であった。1936年(昭和11年)4月18日、肺炎をこじらせ急逝する[72]。
- 母・倭文重(漢学者・橋健三の次女、加賀藩学問所、「壮猶館」教授・橋健堂の孫)
- 1905年(明治38年)2月18日生 - 1987年(昭和62年)10月21日没(享年82)
- 倭文重の母・トミは、加賀藩学問所、「壮猶館」教授・橋健堂の五女。橋家は加賀藩主・前田家に代々仕えた。倭文重は1922年(大正11年)、三輪田高等女学校を卒業後、1924年(大正13年)4月19日、平岡梓と結婚。梓との間に、公威、美津子、千之の二男一女を儲ける。1987年(昭和62年)10月21日、心不全のため死去。
- 妹・美津子
- 1928年(昭和3年)2月23日生 - 1945年(昭和20年)10月23日没(享年17)
- 聖心女学院在学中の1945年(昭和20年)10月10日、学徒動員で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で腸チフスを発病する。母・倭文重と三島が交代で看病するが、同月23日、大久保の避病院で死去。三島は号泣したという。
- 三輪田高等女学校時代の同級生に板谷諒子(湯浅あつ子の妹)、聖心女学院の同級生に佐々悌子がいた。美津子の死後、三島は佐々悌子と1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)頃[74]、板谷諒子とは1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)頃、親交を持つ[75]。
- 弟・千之(外交官)
- 1930年(昭和5年)1月19日生 - 1996年(平成8年)1月9日没(享年65)
- 1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業。同年、外務省に入省。フランスやセネガルなど各国に駐在。1987年(昭和62年)3月31日、4月2日付で駐モロッコ大使に任命される。駐ポルトガル大使などを歴任した。引退後、1996年(平成8年)1月9日、肺炎のため死去。
- 自家
- 1937年(昭和12年)2月13日生 - 1995年(平成7年)7月31日没(享年58)
- 日本女子大学英文科2年在学中の1958年(昭和33年)6月1日、三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。1995年(平成7年)7月31日、急性心不全のため死去。
- 長男・威一郎(元実業家)
- 1962年(昭和37年)5月2日生 -
- 映画の助監督を経て、1988年9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店した。映画「春の雪」、「三島由紀夫映画論集成」(ワイズ出版、1999年)の監修、編集に携わる。
系譜
- 平岡家(兵庫県加古川市、東京都)
- 祖父・定太郎の本籍は、兵庫県印南郡志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)で、その昔、まだ村と呼ばれていた頃、ここは農業、漁業、塩田が盛んであった。附近には景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫の御陵があり、その皇子・日本武尊の誕生の地という古代史上、意義のある地でもある。この地は古代において港であったので、三韓征伐の折、神功皇后が龍船を泊めた。皇后は野鹿の群が多いのを見て、この地を「鹿多」と呼んだ。のちに、この「鹿多」を「志方」と改めたというのが地名の由来である。1573年 - 1591年頃(天正の頃)櫛端左京亮が観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となる。秀吉の中国征伐にあたり、城主・櫛橋は、東播の三木城主・別所長治と共に抗戦し落城した。このため多くの武士、学者は土着化し、城下町志方の様子は著しく変化したという[76]。またこの地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都論で候補地の一つに挙がった[77]。阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかったという。
- 平岡家先祖の菩提寺、真福寺は1652年(承応元年)の建立である。過去帳によれば、初代は1688年 - 1703年(元禄時代)の孫左衛門である。二代目は孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次は太左衛門(六代)、太吉(七代)、萬次郎(八代)となり、三島の祖父・定太郎は太吉(七代)の二男である。初代の孫左衛門には屋号として「しおや」(塩屋)と付いているという。志方は同じ兵庫県の赤穂に次いで塩田が盛んであった[78]。この屋号については、「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)でも初代に屋号が付いているとされているが、 猪瀬直樹によれば、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いており、塩屋ではなく塩物屋であるという。これは三代目利兵衛(五代)のとき、農業のかたわら商売を始めたということだという[70]。さらに、板坂剛によると、平岡家は当初、真福寺の近くの西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)に住んでいて、家はほとんどあばらやと呼んでいいくらいの粗末なものであったという。板坂剛は、「住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは酒屋一軒だけであり、その家は庄屋だった。平岡家の先祖がやっていたことは<塩屋>ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」と述べている[79]。
- 太吉(七代)の子は、萬次郎、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめである。過去帳による太吉(七代)の人物像は、「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立を帯び短冊を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を明石の橋本関雪の兵父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」とある[78]。太吉の孫の嫁(久太郎の二男・平岡義一の妻)である平岡りきによると、太吉は幼少(5、6歳)の頃に、領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため、一家に“所払い”が命じられ、志方村上富木へ移り住んだという[67]。また、板坂剛によると、成長した太吉は金貸し業で成功し、さらには畑仕事を一手に引き受けていた妻・つるの農業的な才覚やアイデア(果実の栽培の成功)により、平岡家に莫大な利益がもたらしたという[79]。野坂昭如は太吉について、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。(中略)農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、安政四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間掘立小屋につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる豪邸に建て直した」と述べている[68]。
- ”平岡”姓について、安藤武は、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(たざえもん)から名乗った」と述べている[24]。
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━平岡利兵衛━利兵衛━太左衛門━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━太吉━━━┓ ┣━┳━萬次郎━━┓ 寺岡つる━┛ ┃ ┣┳こと ┃ 桜井ひさ━┛┗萬壽彦 ┃ ┣━定太郎━━┓ ┃ ┣━梓━┳━公威(三島由紀夫)━┓ ┃ 永井なつ━┛ ┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━┛┃ ┃ ┃ ┗━威一郎 ┃ ┣━美津子 ┣━久太郎━━┓ ┗━千之 ┃ ┣┳義夫 ┃ (?)━━┛┗義一 ┃ ┗━むめ━━━┓ ┣┳義之 田中豊蔵━┛┣義顕 ┣繁 ┗儀一
杉山寧━━━━━━瑤子━━━━━━━━━━┓ 平岡定太郎━┓ ┃ ┣━平岡梓━┓ ┣┳━紀子 永井岩之丞━━夏(なつ)━┛ ┃ ┃┃ ┣━┳━平岡公威(三島由紀夫)━┛┗━平岡威一郎 ┃ ┃ 橋健三━━━倭文重━┛ ┣━美津子 ┃ ┗━平岡千之━┓ 近藤三郎━━近藤晋一━┓ ┃ ┣━┳━夏美━━━┛ 竹中藤右衛門(14代)━┳寿美━━━┛ ┗━久美 ┃ ┣竹中宏平━━━竹中祐二━┓ ┃ ┃ ┗竹中錬一━┓ ┃ ┃ ┃ 米内光政(元首相)━━和子━━━┛ ┃ ┃ 竹下登(元首相)━━┳公子━━━┛ ┣一子 ┗まる子━┳内藤栄子(影木栄貴) ┗内藤大湖(DAIGO)
- 永井家(永井氏系譜(武家家伝))
- 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷)、7-8頁によると、「(三島は『花ざかりの森』で)祖母平岡なつの祖父永井尚志を武家の血縁とし、なつの行儀見習先の有栖川宮熾仁親王宅を公家と表現している」[25]という。ちなみに『花ざかりの森』では、「わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものはけふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ、そして祖先たちのそれも。 珍しいことにわたしは武家と公家の祖先をもつてゐる。そのどちらのふるさとへ赴くときも、わたしたちの列車にそうて、美くしい河がみえかくれする」と、表現されているが、この作品は自伝小説というわけではない。
- 永井尚志は、松平乗真(奥殿藩初代城主)から五代乗尹の子として1806年(文化3年)11月3日に誕生。すでに六代を養子乗羨に家督を定めた後に二男として生まれた。25歳の時、旗本の永井尚徳の養子となった。1855年(安政2年)玄蕃頭。徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなし、1860年(安政5年)7月外国奉行、1861年(安政6年)2月軍艦奉行、1862年(文久2年)8月京都町奉行。京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。1864年(元治元年)大目付。1867年(慶応3年)若年寄、1868年(慶応4年)8月榎本武揚と共に函館に走り、函館奉行となる。維新後は、1875年(明治8年)に元老院権大書記官。1891年(明治24年)7月1日没、享年76歳。
- なつの父永井岩之丞は、1846年(弘化3年)幕臣三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となる。函館五稜郭で父と共に戦う。維新後、1873年(明治6年)司法省十等出仕を命ぜられ、1880年(明治13年)5月判事。1883年(明治16年)1月控訴院判事。1894年(明治27年)4月大審院判事。1907年(明治40年)5月25日没、享年62歳。」
┏良将━将門 桓武天皇━葛原親王━高見王━平高望┫ ┗将兼━公雅━致頼━致經━致房━行致(長田の祖)━政俊┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 後醍醐天皇━宗良親王━興良親王━良王━大橋信重━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗定広━広正白次(四男)*と同一人物 ┃ ┗(六代略)━直重━白広━重広━広正*(養子、尾張国津嶋奴野城主大橋中務少輔定弘)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 由利姫━┓ ┃ ┣正直━直隆━正似━正治━正次━(五代略)━匡威(養子)━匡温━━┓ ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━┛ ┗長田重元━直勝━┫ ┗━壮吉(永井荷風) ┃ ┣尚政━尚庸(三男)━直敬━尚方(五男)━尚恕━━┓ 阿部正勝息女━┛ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━尚友━尚徳━尚志(養子、実父は松平主水正)━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗岩之丞(養子、実父は永井一族の三好長済)━┓ ┣┳壮吉 高(松平頼位の長女)━┛┃ ┣夏(なつ)━┓ ┃ ┣平岡梓━平岡公威(三島) ┃平岡定太郎━┛ ┃ ┣亨 ┣啓 ┣繁 ┣大屋敦 ┣鐘 ┣愛 ┣千恵 ┣清子 ┗文子
- 橋家(石川県金沢市)
- 母方の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴は、加賀藩主・前田家に代々仕えた漢学者、書家であった。名字帯刀を許され、学塾においては藩主・前田家の人々に講義をしていた。橋一巴は「鵠山」と号した。一巴の長男で、健堂の兄・往来も漢学者、書家で、「石甫」「対蘭軒」と号した。
- 高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主である賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)、滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴 - 橋健堂 - 橋健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。近江八幡に移り居城していた賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元であり、島根県の出雲の出身だという[76]。
- 曽祖父・健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。また、「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動し、健堂が出仕した「壮猶館」は、単なる儒学を修める藩校ではなく、1853年(嘉永6年)のペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関であった。健堂は市井の漢学者ではなく、軍事拠点の中枢にあって、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場にあった人物であったという[72]。
橋一巴┳━往来━━船次郎 ┃ ┃ ┗━健堂┳━つね ┣━ふさ ┃ ┣━こう━━┓ ┃ ┣━━橋健行 ┃ 瀬川健三┛ ┃ ┣━より ┃ ┣━トミ━━┓ ┃ ┣┳━雪子 ┃ 瀬川健三┛┣━橋正男 ┃ ┣━橋健雄 ┗━ひな ┣━橋行蔵 ┃ ┣━倭文重┓ ┃ ┣┳━平岡公威(三島由紀夫)┓ ┃ 平岡梓┛┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━━┛┃ ┗━重子 ┃ ┗━平岡威一郎 ┣━美津子 ┃ ┗━平岡千之
兵庫県と三島由紀夫
「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)によると、兵庫県の平岡家(定太郎の弟・久太郎の家)とは、父・平岡梓の代からほとんど絶縁状態で、三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らなかったという。多くの作品でも三島は故郷をとりあげていない。このため、地元民の一部からは批判の声もあり、現地の三島に対する評価も高いものでないという[67]。兵庫の墓参りをしていなかったことについては、三島の祖父・定太郎の墓が東京にあったから足が遠のいたことも考慮されるが、猪瀬直樹は、三島が本籍での徴兵検査の際も、故郷の平岡家に立ち寄っていないことの理由については、梓のいとこにあたる平岡義一(久太郎の二男)が変わり者で奇行癖のあった(上半身裸、褌ひとつで歩き回ったり、暗い土蔵で春画を描くことに没頭していた)人物であったことに触れ、梓の配慮で三島と義一を会わせないようにしていたと述べている[70]
三島は、近畿方言が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいたいう。中村光夫宛ての1963年(昭和38年)9月2日の書簡では「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西風は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子でなく、祖父が播州ですから、同属嫌悪の気味があるのかもしれません」と語っている。しかし、そうは言いつつも実際は、近畿地方が舞台で主人公が方言で話している芝居や小説は、『鰯売恋曳網』、『潮騒』、『金閣寺』、『絹と明察』など、いくつか書いている。
かつて作家の杉森久英が編集者だった時に、「われわれの仲間では三島由紀夫は貴族の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき『あなたは三島子爵の子孫ですか?』と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた」と述懐しているという[67]。
仲野羞々子(元産経新聞四国支社の記者で男性。仲野羞々子はペンネームであるという[79])は、雑誌『農民文学』のなかで、「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父定太郎は貧農出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通して、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」と述べている。このように仲野羞々子は、三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視していると主張し、それは、夫の定太郎を忌み嫌っていた三島の祖母・夏子の影響が関係していると述べている[80]。しかしその一方、仲野羞々子は、「三島の作品なんてほとんど読んでいない[80]」とも述べている。三島は実際にはインタビューなどで「私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である」と、はっきり述べており、祖先に百姓がいたことを隠してはいない[81]。また、主な作品の主人公も、同性愛者、漁師、放火犯、殺人者、事務所の老小使、元芸者、料亭の女将、殉教者、魚の行商人、宝石泥棒、少年犯罪者、テロリストなどで、その作風も特に貴族階級賛美の傾向でもなく、三島自身が貴族のポーズで貧農コンプレックスを克服していたというような単純な作家傾向とは言えない。
平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、平岡太左衛門(六代)までは西神吉村だったが、「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)によると、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・平岡太吉が幼少の頃、領主から禁じられている鶴を射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだという。また52頁では、「岡住職は過去帳から平岡家の祖をたどった結果、およそ二百五十年間つづいた家だと判明したという。真福寺で明らかにされた平岡家の先代はまず元禄時代の“孫左衛門”から始まっている。しばらくは姓がなく(中略)以後はじめて平岡太左衛門、平岡太吉とつづくのである。過去帳には名前のそばに“非人”、“非人の子”、“番人”、“水番”という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは”しおや”という屋号のようなものである。(中略)初代の“孫左衛門”の俗名に“しおや”の肩書きが付されている以外は、太左衛門にいたるまでの戒名はすべて一般の農民と同程度の身分を示している。“ごくふつうの百姓だったのですよ”と岡住職はきっぱりと断言している」と、主張している[67]。しかし、この屋号に関して猪瀬直樹は、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いていると述べている[70]。
三島の父・平岡梓は、自著『倅・三島由紀夫』において、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べている[69]。志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、赤門事件とは、加賀の前田家が徳川将軍から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門はこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が“お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない”として所払いになったという昔からのいい伝えの話だという[82]。
しかし、『月刊噂』は、「この梓の発言はいささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻(こうふん)が感じられるが、これを事実だと信じることはできない。梓のいとこ・平岡義一の妻りきの記憶によれば、赤門事件など聞いたおぼえもなく、『太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって“所払い”を命じられた』というものだった。また梓は『平岡家も田舎の豪農“塩屋”としての誇りを堅持していた[69]』と書いているがこれも事実ではない。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない」という主張している[67]。また、野坂昭如は、「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から印南郡の南は、一帯が塩田だった。(中略)播磨の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂(い)い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと述べている[68]。
『月刊噂』の赤門事件否定に対し、平岡梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため事実であるかは真偽不明だが、「三島も幼い時からそういった伝承話を耳にしていたにちがいない」、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた、と三島の意識に刻まれていたと思われる」という見解を示している。また、「今の時代、昔平民であっても士族であっても、それを問題にすることはどんな場合でもなかろう。家系を追求することを仕事にしたり、研究対象にしている一握の人々にとっては大問題であろうが。“豪農塩屋”と“反骨精神の太左衛門”は平岡家に語り伝えられた事柄かもしれないが、三島が父方の高祖父をそう理解していたことは事実のようである」と述べている[76]。また、板坂剛は、この赤門事件は祖父・定太郎の創作で、それが梓に信じられ、またその子の三島にも伝えられたと推測している[79]。
安藤武によると、平岡家部落民説は、三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるとされ、父・梓がこの風説を断固として否定し、結局、梓が志方町に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に本籍を移すことで決着がついているという[24]。しかし一方、見合いの仲人をした湯浅あつ子によると、杉山瑤子との結婚の際、特に名門の家柄ではない杉山家が平岡家の家系のことで結婚解消を申し出たことも、家系調査を依頼した事実もなく、実際には、見合い後に縁談を断っていたのは三島の方であったとという[83]。
福島鑄郎の『資料・三島由紀夫』(1982年版)によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」、「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」と、推測されていた[84]が、この福島鑄郎の見解に対して村松剛は、平岡梓の言い分を裏付ける次のような反論を述べている。「問題の平岡家の過去帳は、三島研究家の越次倶子が真福寺(平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺)に行って調べ、写真にもとって来ている。これで見るかぎり、“文字にして書き表せないような”ことばなどどこにも出て来ない。(中略)福島鑄郎は実際には過去帳を見たことがなく、何かの思いちがいからこんな断定的な文章を書いてしまったらしい。越次倶子は平岡家の壬申戸籍の写しも昭和三十九年(1964年)ころに入手していて、これによっても格別変わった箇所は見あたらない。もしも定太郎の出目に何らかの問題があったら、差別意識がきわめてつよかった明治の中期に、夏子との結婚は成立しなかったろう。(中略)いまとちがって身許の調査はきびしく行われた」と述べ、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかったという見解を示している[85]。後に安藤武は曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままだという。
しかし、板坂剛は村松を批判し、「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の写真の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、さしさわりのある部分を残した過去帳とは別のさしさわりのないように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それがさしさわりのあるものであったはずがないのだ」と述べている。また板坂剛は、地元の噂に平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていたというものがあることに触れているが、「平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていた、といってもそれが即、“被差別部落民だった”ということに繋がるわけではない」という意見も同時に述べている。真福寺の住職夫人も、「どうして差別が生まれたのか、私らには理解できんですね。その地域の出身の人の方が、優秀な人が多いみたいですしね」と語っているという。また、この件についての様々な憶測に対して、住職夫人は、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている[79]。
近年、過去帳を見ることができた福島鑄郎は、新版の『再訂資料・三島由紀夫』(2005年版)の中で、平岡姓は四代目利兵衛から名のっているとし、「仲野羞々子が言うような情報は見つからなかった」、「刑場の役人の下働きをしていたという地元の噂であるが、根拠については定かでない。ただ、事件と何かを結びつけたいという心理がそうさせたとも伺える。いずれにしても平岡家の代になってからは何事もない」と述べている。また、「(赤門事件が本当なのか、鶴を射った話の方が本当なのかは判らないが)いずれにせよ、“おかみをおそれぬ行為”は、三島由紀夫の血の中に受けつがれていった」という見解を示している。なお板坂剛は、福島鑄郎が唯一、仲野羞々子に直接取材したことのある三島研究者だと著書で書いていたが、福島鑄郎は仲野羞々子からは直接事情を聞くことができなかったと書いている。福島鑄郎が直接取材できたのは、『農民文学』に登場する志方町農協組合の元組合長である[82]。
主な作品
長編小説
- 『盗賊』1947年(昭和22年) - 1948年(昭和23年)
- 『仮面の告白』1949年(昭和24年)
- 『純白の夜』1950年(昭和25年)
- 『愛の渇き』1950年(昭和25年)
- 『青の時代』1950年(昭和25年)
- 『禁色』1951年(昭和26年) - 1953年(昭和28年)
- 『夏子の冒険』1951年(昭和26年)
- 『につぽん製』1952年(昭和27年)
- 『恋の都』1953年(昭和28年)
- 『潮騒』1954年(昭和29年)
- 第1回新潮社文学賞受賞。
- 『沈める滝』1955年(昭和30年)
- 『幸福号出帆』1955年(昭和30年)
- 『金閣寺』(1956年)(昭和31年)
- 第8回読売文学賞小説部門賞受賞。
- 『永すぎた春』1956年(昭和31年)
- 『美徳のよろめき』1957年(昭和32年)
- 『鏡子の家』1959年(昭和34年)
- 『宴のあと』1960年(昭和35年)
- フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- 『お嬢さん』1960年(昭和35年)
- 『獣の戯れ』1961年(昭和36年)
- 『美しい星』1962年(昭和37年)
- 『愛の疾走』1962年(昭和37年)
- 『肉体の学校』1963年(昭和38年)
- 『午後の曳航』1963年(昭和38年)
- フォルメントール国際文学賞候補作品。
- 『絹と明察』1964年(昭和39年)
- 第6回毎日芸術賞文学部門賞受賞。
- 『音楽』1964年(昭和39年)
- 『春の雪』(『豊饒の海・第一巻』)1965年(昭和40年) - 1966年(昭和41年)
- 『複雑な彼』1966年(昭和41年)
- 『三島由紀夫のレター教室』1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年)
- 出来事をすべて手紙形式で表現した異色の小説。
- 『夜会服』1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年)
- 『奔馬』(『豊饒の海・第二巻』)1967年(昭和42年) - 1968年(昭和43年)
- 『命売ります』1968年(昭和43年)
- 『暁の寺』(『豊饒の海・第三巻』)1968年(昭和43年) -1970年(昭和45年)
- 『天人五衰』(『豊饒の海・第四巻』)1970年(昭和45年)
短編小説
- 『酸模(すかんぽう)―秋彦の幼き思ひ出』1938年(昭和13年)
- 『彩絵硝子(だみえガラス)』1940年(昭和15年)
- 『花ざかりの森』1941年(昭和16年)
- 『苧菟と瑪耶(おっとお と まや)』1942年(昭和17年)
- 『世々に残さん』1943年(昭和18年)
- 『夜の車』1944年(昭和19年)
- のち『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』と改題。
- 『中世』1945年(昭和20年)
- 『エスガイの狩』1945年(昭和20年)
- 『菖蒲前』1945年(昭和20年)
- 『煙草』1946年(昭和21年)
- 『岬にての物語』1946年(昭和21年)
- 『軽王子と衣通姫(かるのみこ と そとおりひめ)』1947年(昭和22年)
- 『夜の仕度』1947年(昭和22年)
- 『春子』1947年(昭和22年)
- 『サーカス』1948年(昭和23年)
- 『白鳥』1948年(昭和23年)
- 『殉教』1948年(昭和23年)
- 『家族合せ』1948年(昭和23年)
- 『人間喜劇』1948年(昭和23年)
- 『頭文字』1948年(昭和23年)
- 『宝石売買』1948年(昭和23年)
- 『不実な洋傘』1948年(昭和23年)
- 『山羊の首』1948年(昭和23年)
- 『獅子』1948年(昭和23年)
- 『魔群の通過』1949年(昭和24年)
- 『侍童』1949年(昭和24年)
- 『親切な機械』1949年(昭和24年)
- 『火山の休暇』1949年(昭和24年)
- 『怪物』1949年(昭和24年)
- 『果実』1950年(昭和25年)
- 『日曜日』1950年(昭和25年)
- 『遠乗会』1950年(昭和25年)
- 『孤閨悶々』1950年(昭和25年)
- 『牝犬』1950年(昭和25年)
- 『家庭裁判』1951年(昭和26年)
- 『偉大な姉妹』1951年(昭和26年)
- 『箱根細工』1951年(昭和26年)
- 『椅子』1951年(昭和26年)
- 『死の島』1951年(昭和26年)
- 『翼』1951年(昭和26年)
- 『手長姫』1951年(昭和26年)
- 『朝顔』1951年(昭和26年)
- 『真夏の死』1952年(昭和27年)
- フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- 『二人の老嬢』1952年(昭和27年)
- 『美神』1952年(昭和27年)
- 『雛の宿』1953年(昭和28年)
- 『旅の墓碑銘』1953年(昭和28年)
- 『急停車』1953年(昭和28年)
- 『卵』1953年(昭和28年)
- 『花火』1953年(昭和28年)
- 『ラディゲの死』1953年(昭和28年)
- 『鍵のかかる部屋』1954年(昭和29年)
- 『復讐』1954年(昭和29年)
- 『女神』1954年(昭和29年)
- 『詩を書く少年』1954年(昭和29年)
- 『志賀寺上人の恋』1954年(昭和29年)
- 『水音』1954年(昭和29年)
- 『海と夕焼』1955年(昭和30年)
- 『新聞紙』1955年(昭和30年)
- 『牡丹』1955年(昭和30年)
- 『十九歳』1956年(昭和31年)
- 『橋づくし』1956年(昭和31年)
- 『施餓鬼舟』1956年(昭和31年)
- 『女方』1957年(昭和32年)
- 『貴顕』1957年(昭和32年)
- 『百万円煎餅』1960年(昭和35年)
- 『愛の処刑』1960年(昭和35年)
- 『スタア』1960年(昭和35年)
- 『憂国』1961年(昭和36年)
- 『帽子の花』1962年(昭和37年)
- 『魔法瓶』1962年(昭和37年)
- 『葡萄パン』1963年(昭和38年)
- 『真珠』1963年(昭和38年)
- 『雨のなかの噴水』1963年(昭和38年)
- 『剣』1963年(昭和38年)
- 『月澹荘奇譚』1965年(昭和40年)
- 『三熊野詣』1965年(昭和40年)
- 『孔雀』1965年(昭和40年)
- 『仲間』1966年(昭和41年)
- 『悪臣の歌』1966年(昭和41年)
- 『英霊の聲』1966年(昭和41年)
- 『荒野より』1966年(昭和41年)
- 『蘭陵王』1969年(昭和44年)
戯曲・歌舞伎
- 『あやめ』1948年(昭和23年)
- 『火宅』1948年(昭和23年)
- 『灯台』1949年(昭和24年)
- 『聖女』1949年(昭和24年)
- 『邯鄲(かんたん)』1950年(昭和25年)
- 『綾の鼓(あやのつづみ)』1951年(昭和26年)
- 『艶競近松娘』1951年(昭和26年)
- 『卒塔婆小町(そとばこまち)』1952年(昭和27年)
- 『只ほど高いものはない』1952年(昭和27年)
- 『夜の向日葵』1953年(昭和28年)
- 『室町反魂香』1953年(昭和28年)
- 柳橋みどり会のために書いた舞踊劇台本。
- 『地獄変』1953年(昭和28年)
- 『葵上(あおいのうえ)』1954年(昭和29年)
- 『若人よ蘇れ』1954年(昭和29年)
- 『鰯売恋曳網』1954年(昭和29年)
- 『ボクシング』1954年(昭和29年)
- ラジオドラマ脚本。芸術祭放送部門参加。
- 『班女(はんじょ)』1955年(昭和30年)
- 『熊野(ゆや)』1955年(昭和30年)
- 能楽『熊野』をもとにした歌舞伎台本。
- 『三原色』1955年(昭和30年)
- 『船の挨拶』1955年(昭和30年)
- 『白蟻の巣』1955年(昭和30年)
- 岸田演劇賞受賞。
- 『芙容露大内実記』1955年(昭和30年)
- 『大障碍』1956年(昭和31年)
- 『近代能楽集』1956年(昭和31年)
- 戯曲「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」を収む。
- 『鹿鳴館』1956年(昭和31年)
- 『道成寺(どうじょうじ)』1957年(昭和32年)
- 『朝の躑躅』1957年(昭和32年)
- 『LONG AFTER LOVE』1957年(昭和32年)
- 『卒塔婆小町』、『葵上』、『班女』の3つの戯曲を繋ぐ場面を新たに創作し、統一的な芝居にした3幕物。
- 『薔薇と海賊』1958年(昭和33年)
- 週刊読売新劇賞受賞。
- 『むすめごのみ帯取池』1958年(昭和33年)
- 『熊野』1959年(昭和34年)
- 『女は占領されない』1959年(昭和34年)
- 『熱帯樹』1960年(昭和35年)
- 『弱法師(よろぼし)』1960年(昭和35年)
- 『十日の菊』1961年(昭和36年)
- 第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞。
- 『黒蜥蜴』1961年(昭和36年)
- 『源氏供養』1962年(昭和37年)
- 能楽『源氏供養』をもとにした戯曲。近代能楽集の9曲目。のちに廃曲とした。
- 『喜びの琴』1964年(昭和39年)
- 『美濃子』1964年(昭和39年)
- オペラ劇台本。黛敏郎の作曲が間に合わず、未上演。
- 『恋の帆影』1964年(昭和39年)
- 『サド侯爵夫人』1965年(昭和40年)
- 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。
- 『聖セバスチァンの殉教』1966年(昭和41年)
- 池田弘太郎との共訳で翻訳。原作:ガブリエレ・ダンヌンツィオ。
- 『朱雀家の滅亡』(1967年)(昭和42年)
- 『ミランダ』1968年(昭和43年)
- バレエ劇台本。
- 『わが友ヒットラー』1968年(昭和43年)
- 『癩王のテラス』1969年(昭和44年) 3幕7場
- 『椿説弓張月』1969年(昭和44年) 3幕8場
エッセイ・日誌・紀行・随筆
- 『芝居日記』1942年(昭和17年) - 1947年(昭和22年)
- 没後21年の1991年(平成3年)に初刊行された。
- 『平岡公威伝』1944年(昭和19年)
- 『重症者の兇器』1948年(昭和23年)
- 『反時代的な芸術家』1948年(昭和23年)
- 『アポロの杯』1952年(昭和27年)
- 「航海日記」、「北米紀行」、「南米紀行」、「欧州紀行」、「旅の思ひ出」から成る。
- 『遠視眼の旅人』1952年(昭和27年)
- 『女ぎらひの弁』1954年(昭和29年)
- 『好きな女性』1954年(昭和29年)
- 『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』1955年(昭和30年)
- 『小説家の休暇』1955年(昭和30年) 公開日記・随筆。
- 『新恋愛講座』1955年(昭和30年) - 1956年(昭和31年) 「明星」に連載。
- 『わが漫画』1956年(昭和31年)
- 『わが魅せられたるもの』1956年(昭和31年)
- 『ボディ・ビル哲学』1956年(昭和31年)
- 『わが思春期』1957年(昭和32年) 「明星」に連載。
- 『きのふけふ』1957年(昭和32年) 「朝日新聞」コラムに連載。
- 『旅の絵本』1958年(昭和33年) ニューヨーク紀行。
- 『裸体と衣裳』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 公開日記・随筆。
- 『不道徳教育講座』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 「週刊明星」に連載。
- 『同人雑記』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 季刊雑誌「声」に連載。
- 『憂楽帳』1959年(昭和34年) 「毎日新聞」コラムに連載。
- 『十八歳と三十四歳の肖像画』1959年(昭和34年)
- 『巻頭言』1960年(昭和35年) 「婦人公論」に連載。
- 『社会料理三島亭』1960年(昭和35年) 「婦人倶楽部」に連載。
- 『発射塔』1960年(昭和35年) 「読売新聞」コラムに連載。
- 『ピラミッドと麻薬』1961年(昭和36年)
- 『美に逆らふもの』1961年(昭和36年) 香港・タイガーバームガーデン紀行。
- 『第一の性』1962年(昭和37年) - 1963年(昭和38年) 「女性明星」に連載。
- 『私の遍歴時代』1963年(昭和38年) 「東京新聞」に連載。
- 『踊り』1963年(昭和38年)
- 『小説家の息子』1963年(昭和38年)
- 『芸術断想』1963年(昭和38年) - 1964年(昭和39年) 「芸術生活」に連載。
- 『熊野路―新日本名所案内』1964年(昭和39年)
- 『秋冬随筆』1964年(昭和39年) - 1965年(昭和40年) 「こうさい」に連載。
- 『実感的スポーツ論』1964年(昭和39年) 「読売新聞」に連載。
- 『男のおしやれ』1964年(昭和39年)
- 『反貞女大学』1965年(昭和40年) 「産経新聞」に連載。
- 『英国紀行』1965年(昭和40年)
- 『をはりの美学』1966年(昭和41年) 「女性自身」に連載。
- 『闘牛士の美』1966年(昭和41年)
- 『私の遺書』1966年(昭和41年)
- 『私のきらひな人』1966年(昭和41年)
- 『ビートルズ見物記』1966年(昭和41年)
- 『男の美学』1967年(昭和42年)
- 『紫陽花の母』1967年(昭和42年)
- 『インドの印象』1967年(昭和42年) 「毎日新聞」インタビュー。
- 『「仙洞御所」序文』1968年(昭和43年)
- 『電灯のイデア―わが文学の揺籃期』1968年(昭和43年)
- 『軍服を着る男の条件』1968年(昭和43年)
- 『怪獣の私生活』1968年(昭和43年)
- 『「人斬り」出演の記』1969年(昭和44年)
- 『劇画における若者論』1970年(昭和45年)
- 『愛するといふこと』1970年(昭和45年)
評論・批評
- 『王朝心理文学小史』1942年(昭和17年)
- 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。
- 『檀一雄「花筐」―覚書』1944年(昭和19年)
- 『詩論その他』1945年(昭和20年)
- 『戦後語録』1945年(昭和20年)
- 『わが世代の革命』1946年(昭和21年)
- 『招かれざる客』1947年(昭和22年)
- 『宗十郎覚書』1947年(昭和22年)
- 『川端康成論の一方法―「作品」について』1949年(昭和24年)
- 『中村芝翫論』1949年(昭和24年)
- 『オスカア・ワイルド論』1950年(昭和25年)
- 『批評家に小説がわかるか』1951年(昭和26年)
- 『死の分量』1953年(昭和28年)
- 『新ファッシズム論』1954年(昭和29年)
- 『横光利一と川端康成』1955年(昭和30年)
- 『欲望の充足について―幸福の心理学』1955年(昭和30年)
- 『空白の役割』1955年(昭和30年)
- 『電気洗濯機の問題』1956年(昭和31年)
- 『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』1956年(昭和31年)
- 『亀は兎に追ひつくか?―いはゆる後進国の諸問題』1956年(昭和31年)
- 『楽屋で書かれた演劇論』1957年(昭和32年)
- 『川端康成の東洋と西洋』1957年(昭和32年)
- 『現代小説は古典なり得るか』1957年(昭和32年)
- 『心中論』1958年(昭和33年)
- 「文章読本」1959年(昭和34年)
- 『川端康成氏再説』1959年(昭和34年)
- 『六世中村歌右衛門序説』1959年(昭和34年)
- 『春日井建氏の「未青年」の序文』1960年(昭和35年)
- 『アメリカ人の日本神話』1961年(昭和36年)
- ”Japan: The Cherished Myths” と英訳され、米誌「HOLIDAY」に掲載された。
- 『魔―現代的状況の象徴的構図』1961年(昭和36年)
- 『現代史としての小説』1962年(昭和37年)
- 『谷崎潤一郎論』1962年(昭和37年)
- 『川端康成読本序説』1962年(昭和37年)
- 『林房雄論』1963年(昭和38年)
- 『細江英公序説』1963年(昭和38年)
- 『雷蔵丈のこと』 1964年(昭和39年)
- 『解説(「日本の文学38 川端康成」)』 1964年(昭和39年)
- 『解説(「現代の文学20 円地文子集」)』 1964年(昭和39年)
- 『文学における硬派―日本文学の男性的原理』1964年(昭和39年)
- 『生徒を心服させるだけの腕力を―スパルタ教育のおすすめ』1964年(昭和39年)
- 『現代文学の三方向』1965年(昭和40年)
- 『谷崎朝時代の終焉』1965年(昭和40年)
- 『文武両道』1965年(昭和40年)
- 『太陽と鉄』1965年(昭和40年) - 1968年(昭和43年)
- 『日本人の誇り』1966年(昭和41年)
- 『危険な芸術家』1966年(昭和41年)
- 『お茶漬ナショナリズム』1966年(昭和41年)
- 『法律と餅焼き』1966年(昭和41年)
- 『わが育児論』1966年(昭和41年)
- 『映画的肉体論』1966年(昭和41年)
- 『ナルシシズム論』1966年(昭和41年)
- 『団蔵・芸道・再軍備』1966年(昭和41年)
- 『谷崎潤一郎、芸術と生活』1966年(昭和41年)
- 『谷崎潤一郎について』1966年(昭和41年)
- 『伊東静雄の詩―わが詩歌』1966年(昭和41年)
- 『谷崎潤一郎頌』1966年(昭和41年)
- 『序(舩坂弘著「英霊の絶叫」)』1966年(昭和41年)
- 『日本への信条』1967年(昭和42年)
- 『古今集と新古今集』1967年(昭和42年)
- 『「道義的革命」の論理―磯部一等主計の遺稿について』1967年(昭和42年)
- 『私の中のヒロシマ―原爆の日によせて』1967年(昭和42年)
- 『人生の本―末松太平著「私の昭和史」』1967年(昭和42年)
- 『葉隠入門』1967年(昭和42年)
- 『祖国防衛隊はなぜ必要か?』1968年(昭和43年)
- 『愛国心』1968年(昭和43年)
- 『円谷二尉の自刃』1968年(昭和43年)
- 『ポップコーンの心霊術―横尾忠則論』1968年(昭和43年)
- 『二・二六事件について』1968年(昭和43年)
- 『小説とは何か』1968年(昭和43年) - 1970年(昭和45年) 「波」に連載。
- 『若きサムラヒのための精神講話』1968年(昭和43年) - 1969年(昭和44年) 「Pocket パンチOh!」に連載。
- 『文化防衛論』1968年(昭和43年)
- 『解説(「日本の文学40 林房雄・武田麟太郎・島木健作」)』1968年(昭和43年)
- 『日沼氏と死』1968年(昭和43年)
- 『機能と美』1968年(昭和43年)
- 『栄誉の絆でつなげ菊と刀』1968年(昭和43年)
- 『篠山紀信論』1968年(昭和43年)
- 『自由と権力の状況』1968年(昭和43年)
- 『解説(「日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花」)』1969年(昭和44年)
- 『「戦塵録」について』1969年(昭和44年)
- 『現代青年論』1969年(昭和44年)
- 『反革命宣言』1969年(昭和44年)
- 『鶴田浩二論―「総長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの』1969年(昭和44年)
- 『自衛隊二分論』1969年(昭和44年)
- 『砂漠の住人への論理的弔辞―討論を終へて』1969年(昭和44年)
- 『北一輝論―「日本改造法案大綱」を中心として』1969年(昭和44年)
- 『日本文学小史』1969年(昭和44年)
- 第六章で中断され未完。
- 『日本文化の深淵について』1969年(昭和44年)
- ”A problem of culture” と英訳され、英国紙「THE TIMES」に掲載された。
- 『行動学入門』1969年(昭和44年) - 1970年(昭和45年) 「Pocket パンチOh!」に連載。
- 『「楯の会」のこと』1969年(昭和44年)
- 『「国を守る」とは何か』1969年(昭和44年)
- 『解説(「日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁」)』1969年(昭和44年)
- 『「変革の思想」とは―道理の実現』1970年(昭和45年)
- 『新知識人論』1970年(昭和45年)
- 『「眠れる美女」論』1970年(昭和45年)
- 『「蓮田善明とその死」序文』1970年(昭和45年)
- 『問題提起』1970年(昭和45年)
- 『解説(「日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂」)』1970年(昭和45年)
- 『士道について―石原慎太郎への公開状』1970年(昭和45年)
- 『柳田国男「遠野物語」―名著再発見』1970年(昭和45年)
- 『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』1970年(昭和45年)
- 『武士道と軍国主義』1970年(昭和45年)
- 『正規軍と不正規軍』1970年(昭和45年)
- 『革命哲学としての陽明学』1970年(昭和45年)
- 『独楽』1970年(昭和45年)
- 『武士道に欠ける現代のビジネス』1970年(昭和45年)
- 『わが同志観』1970年(昭和45年)
対談・座談・討論
- 『美のかたち―「金閣寺」をめぐって』1957年(昭和32年) 対:小林秀雄 [87]
- 『劇作家のみたニッポン』1959年(昭和34年) 対:テネシー・ウィリアムズ
- 『捨身飼虎』1961年(昭和36年) 対:千宗興 [87]
- 『七年目の対話』 1964年(昭和39年) 対:石原慎太郎 [87]
- 『現代作家はかく考える』 1964年(昭和39年) 対:大江健三郎 [87]
- 『戦後の日本文学』 1965年(昭和40年) 対:伊藤整、本多秋五
- 『二十世紀の文学』 1966年(昭和41年) 対:安部公房 [87]
- 『ニーチェと現代』 1966年(昭和41年) 対:手塚富雄
- 『対話・日本人論』 1966年(昭和41年) 対:林房雄
- 『エロチシズムと国家権力』 1966年(昭和41年) 対:野坂昭如 [87]
- 『われわれはなぜ声明を出したか―芸術は政治の道具か?』1967年(昭和42年) 対:川端康成、石川淳、安部公房
- 『文武両道と死の哲学』1967年(昭和42年) 対:福田恆存 [87]
- 『ファシストと革命家か』1968年(昭和43年) 対:大島渚 [87]
- 『天皇と現代日本の風土』1968年(昭和43年) 対:石原慎太郎
- 『文武の達人 国防を語る―国防対談』1968年(昭和43年) 対:源田実
- 『私の文学を語る』1968年(昭和43年) 対:秋山駿
- 『対談・人間と文学』1968年(昭和43年) 対:中村光夫
- 『デカダンス意識と生死観』1968年(昭和43年) 対:埴谷雄高、村松剛
- 『負けるが勝ち』1968年(昭和43年) 対:福田赳夫
- 『天に代わりて』1968年(昭和43年) 対:小汀利得 [88]
- 『戦後のデモクラシーと反抗する世代』1968年(昭和43年) 対:エドワード・G・サイデンステッカー、村松剛
- 『肉体の運動 精神の運動―芸術におけるモラルと技術』1968年(昭和43年) 対:石川淳
- 『原型と現代小説』1968年(昭和43年) 対:山本健吉、佐伯彰一
- 『安保問題をどう考えたらよいか―腹の底から話そう』1969年(昭和44年) 対:猪木正道
- 『「葉隠」の魅力』1969年(昭和44年) 対:相良亨
- 『政治行為の象徴性について』1969年(昭和44年) 対:いいだもも
- 『国家革新の原理―学生とのティーチ・イン』1969年(昭和44年)
- 『サムライ』1969年(昭和44年) 対:中山正敏 [88]
- 『三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』1969年(昭和44年)
- 東京大学での討論会。
- 『刺客と組長―男の盟約』1969年(昭和44年) 対:鶴田浩二 [88]
- 『おじさまは男として魅力あるわ』1969年(昭和44年) 対:神津カンナ
- 『十年後、BIセクシャル時代がやってくる?!』1969年(昭和44年) 対:丸山明宏
- 『軍隊を語る』1969年(昭和44年) 対:末松太平
- 『日本は国家か―「権力なき国家」の幻想』1969年(昭和44年) 対:江藤淳、高坂正尭、山崎正和、武藤光朗
- 『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』1969年(昭和44年) 対:高橋和巳 [88]
- 『守るべきものの価値―われわれは何を選択するか』1969年(昭和44年) 対:石原慎太郎 [88]
- 『現代における右翼と左翼』1969年(昭和44年) 対:林房雄 [88]
- 『戦争の谷間に生きて―青春を語る』1969年(昭和44年) 対:徳大寺公英 [89]
- 『剣か花か―70年代乱世・男の生きる道』1970年(昭和45年) 対:野坂昭如 [88]
- 『二・二六事件と全学連学生との断絶』1970年(昭和45年) 対:堤清二 [88]
- 『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』1970年(昭和45年) 対:村上一郎 [88]
- 『"菊と刀"と論ずる』1970年(昭和45年) 対:伊沢甲子麿
- 『三島文学の背景』1970年(昭和45年) 対:三好行雄
- 『エロスは抵抗の拠点になり得るか』1970年(昭和45年) 対:寺山修司 [88]
- 『世阿弥の築いた世界』1970年(昭和45年) 対:ドナルド・キーン、小西甚一
- 『現代歌舞伎への絶縁状』1970年(昭和45年) 対:武智鉄二
- 『文学は空虚か』1970年(昭和45年) 対:武田泰淳
- 『破裂のために集中する』1970年(昭和45年) 対:石川淳
- 『三島由紀夫 最後の言葉』1970年(昭和45年) 対:古林尚
講演・声明
- 『私はいかにして日本の作家となつたか』1966年(昭和41年)4月18日
- 『文化大革命に関する声明』1967年(昭和42年)3月1日
- 『私の自主防衛論』1968年(昭和43年)10月24日
- 日経連臨時総会での特別講演。
- 『日本の歴史と文化と伝統に立つて』1968年(昭和43年)12月1日
- 東京都学生自治体連絡協議会、関東学生自治体連絡協議会主催の講演。
- 『日本とは何か』1969年(昭和44年)10月15日
- 大蔵省100年記念での講演。
- 『現代日本の思想と行動』1970年(昭和45年)4月27日
- 山王経済研究会例会での講演。
- 『私の聞いて欲しいこと』1970年(昭和45年)5月28日
- 皇宮警察創立84周年記念講演。
- 『悪の華―歌舞伎』1970年(昭和45年)7月3日
- 『孤立のススメ』1970年(昭和45年)6月11日
- 尚史会主催講演。
- 『我が国の自主防衛について』1970年(昭和45年)9月3日
- 『檄』1970年(昭和45年)11月25日
詩歌・献句・小品
- 『大内先生を想ふ』1934年(昭和9年)
- 『我が国旗』1936年(昭和11年)
- 『東の博士たち・九官鳥(森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥)』1939年(昭和14年)
- 『凶ごと(まがごと)』1940年(昭和15年)
- 『小曲集』1940年(昭和15年)
- 『青城詩抄』1940年(昭和15年) - 1941年(昭和16年)
- 『抒情詩抄』1941年(昭和16年)
- 『東徤兄を哭す』1943年(昭和18年)
- 『廃墟の朝』1944年(昭和19年)
- 『別れ』1945年(昭和20年)
- 『故・蓮田善明への献詩』1946年(昭和21年)
- 『新しきコロンブス』1955年(昭和30年)
- 『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』1957年(昭和32年)
- 『狂女の恋唄』1958年(昭和33年)
- 『祝婚歌 カンタータ』1959年(昭和34年)
- 皇太子ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。
- 『からつ風野郎』(同名映画の主題歌)1960年(昭和35年) [89]
- 『お嬢さん』(同名映画の主題歌)1961年(昭和36年)
- 『黒蜥蜴の歌』、『黒とかげの恋の歌』、『用心棒の歌』1962年(昭和37年)
- 『造花に殺された舟乗りの歌』1966年(昭和41年)
- 丸山明宏チャリティー・リサイタルで、マドロス(船乗り)スタイルで歌唱した。作曲:丸山明宏。
- 『イカロス』1967年(昭和42年) [90]
- 『F104』1968年(昭和43年)
- 自衛隊戦闘機・F104試乗体験の小品。[90]
- 『隊歌―祖国防衛隊』1968年(昭和43年)
- 『起て! 紅の若き獅子たち―楯の会の歌』1970年(昭和45年) [89]
- 『辞世の句』1970年(昭和45年)
- 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」と、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」 の2首。
写真集
映画作品
原作
主演・出演
制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 監督名 | 三島の役柄 | 主な出演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1951年 | 純白の夜 | 松竹大船 | 大庭秀雄 | 端役で特別出演 ダンスパーティーのシーン |
河津清三郎 木暮実千代 |
※原作 |
1959年 | 不道徳教育講座 | 日活 | 西河克己 | 特別出演 冒頭と最後のナビゲーター |
大坂志郎 信欣三 |
※原作 |
1960年 | からっ風野郎 | 大映東京 | 増村保造 | 朝比奈武夫 | 若尾文子 船越英二 志村喬 |
※主演 |
1968年 | 黒蜥蜴 | 松竹大船 | 深作欣二 | 端役で特別出演 日本人青年の生人形 |
丸山明宏 木村功 川津祐介 |
※劇化・戯曲作 |
1969年 | 人斬り | フジテレビ /勝プロ |
五社英雄 | 田中新兵衛 | 勝新太郎 仲代達矢 石原裕次郎 |
※出演 |
監督
制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 三島の役柄 | 主な出演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1966年 | 憂国 | 東宝/ATG | 武山信二中尉 | 三島由紀夫 鶴岡淑子 |
※制作は1965年。※原作・製作・脚色・美術も |
テレビドラマ作品
原作
- 名作劇場『永すぎた春』(KRテレビ)、1957年(昭和32年)8月28日 - 9月25日
- 文学座アワー『灯台』(日本テレビ)、1958年(昭和33年)4月24日
- 東芝日曜劇場『橋づくし』(KRテレビ)、1958年(昭和33年)9月7日
- 『卒塔婆小町』(NHKテレビ)、 1958年(昭和33年)10月30日
- 木曜観劇会『鹿鳴館』(フジテレビ)、1959年(昭和34年)7月9日
- 『不道徳教育講座』(フジテレビ)、1959年(昭和34年)10月15日 - 1960年(昭和35年)8月4日
- お母さん『大障碍』(KRテレビ)、1959年(昭和34年)12月10日
- 女の四季『女神』(日本教育テレビ)、1960年(昭和35年)10月4日、11日
- 田辺劇場『美徳のよろめき』(フジテレビ)、1961年(昭和36年)7月4日 - 9月26日
- 女の劇場『純白の夜』(朝日テレビ)、1961年(昭和36年)7月26日
- 近鉄金曜劇場『鹿鳴館』(TBSテレビ)、1961年(昭和36年)12月1日、8日
- 舞踊ホール『地獄変』(NHK教育テレビ)、1962年(昭和37年)6月2日
- 舞踏劇として放映。終了後に三島が出演、アナウンサーと対談。
- 『お嬢さん』(関西テレビ)、1962年(昭和37年)6月20日 - 7月25日
- 『鏡子の家』(TBSテレビ)、1962年(昭和37年)7月4日 - 8月29日
- バラ劇場『潮騒』(TBSテレビ)、1962年(昭和37年)7月10日 - 31日
- 文芸アワー『葵上』(日本テレビ)、1962年(昭和37年)8月10日
- 文芸劇場『にっぽん製』(NHKテレビ)、1963年(昭和38年)1月11日
- 文芸劇場『潮騒』(NHKテレビ)、1963年(昭和38年)7月5日
- 近鉄金曜劇場『十九歳』(TBSテレビ)、1963年(昭和38年)11月15日
- 近鉄金曜劇場『剣』(TBSテレビ)、1964年(昭和39年)5月8日
- NHK劇場『真珠』(NHKテレビ)、1964年(昭和39年)6月19日
- ゴールデン劇場『美しい星』(東京12チャンネル)、1964年(昭和39年)8月17日 - 21日
- 『お嬢さん』(フジテレビ)、1967年(昭和42年)10月8日~1968年(昭和43年)3月31日
- 東芝日曜劇場『橋づくし』(TBSテレビ)、1968年(昭和43年)9月8日
- おんなの劇場『春の雪』(フジテレビ)、1970年(昭和45年)2月27日 - 4月3日
- ドラマ『鹿鳴館』(NHKテレビ)、1970年(昭和45年)4月25日
- 銀河テレビ小説『永すぎた春』(NHKテレビ)、1975年(昭和50年)3月3日 - 14日
- 土曜グランド劇場『近眼ママ恋のかけひき』(『三島由紀夫レター教室』)(日本テレビ)、1977年(昭和52年)6月25日 - 7月23日
- 青春アニメ『潮騒』(日本テレビ)、1986年(昭和61年)5月2日、9日
- 月曜・女のサスペンス『復讐・死者からの告発状』(『復讐』)(テレビ東京)、1988年(昭和63年)10月24日
- 月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(『花火』)(テレビ東京)、1988年(昭和63年)12月12日
- 月曜・女のサスペンス『侯爵殺人事件・呪われた別荘』(『月澹荘奇譚』)(テレビ東京)、1990年(平成2年)12月3日
- 日本名作ドラマ『美徳のよろめき』(テレビ東京)、1993年(平成5年)6月28日、7月5日
- 文學ト云フ事『美徳のよろめき』(フジテレビ)、1994年(平成6年)8月9日
- 朗読紀行 にっぽんの名作『潮騒』(NHKハイビジョン)、2001年(平成13年)2月4日
- テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル 『鹿鳴館』(テレビ朝日)、2008年(平成20年)1月5日
その他
- 『皇太子ご結婚祝賀演奏会』(NHKテレビ)、1959年(昭和34年)4月10日(NHKラジオ第一と同時放送)
- 作詞-三島。作曲-黛敏郎。演奏-NHK交響楽団。指揮-ウィルヘルム・シュヒター。
ラジオドラマ作品
原作
- 連続放送劇『潮騒』(文化放送)、1954年(昭和29年)7月11日 - 9月26日
- 現代劇場『ボクシング』(文化放送)、1954年(昭和29年)11月21日 (台本構成-三島)
- 続高峰秀子ドラマ集『遠乗会』(ニッポン放送)、1956年(昭和31年)4月13日
- ラジオ小説『女神』(文化放送)、1956年(昭和31年)6月25日 - 7月20日
- 大映アワー『永すぎた春』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)3月20日 - 5月22日
- 国際演劇月参加特別番組『道成寺』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)6月18日
- 人情夜話『橋づくし』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)7月1日 - 3日
- 淡島千景ドラマ集『美徳のよろめき』(ニッポン放送)、1957年(昭和32年)9月15日、22日
- 現代劇場『班女』(文化放送)、1957年(昭和32年)12月27日
- シネマ劇場『炎上』(『金閣寺』)(ニッポン放送)、1958年(昭和33年)7月27日 - 8月17日
- 現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』(NHKラジオ第二)、1959年(昭和34年)6月27日
- 第二部座談会「作品をめぐって」に三島が出演。
- 『鏡子の家』(ラジオ関東)、1959年(昭和34年)10月19日~1960年(昭和35年)3月16日
- ラジオのためのオペラ『あやめ』(中部日本放送)、1960年(昭和35年)11月27日
- 昭和35年度芸術祭賞。
- 連続ラジオ小説『潮騒』(NHKラジオ第一)、1961年(昭和36年)6月26日 - 7月29日
- ラジオ小説『夏子の冒険』(NHKラジオ第一)、1962年(昭和37年)10月1日 - 31日
- お茶の間名作集『潮騒』(ニッポン放送)、1964年(昭和39年)9月1日 - 30日
- 朝のラジオ小説『肉体の学校』(TBSラジオ)、1964年(昭和39年)10月27日 - 11月14日
- ドラマ・スタジオ8『モノローグ・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送)、1965年(昭和40年)7月20日
- 東西傑作文学『美徳のよろめき』(TBSラジオ)、1968年(昭和43年)9月9日 - 10月5日
- 日曜名作座『美しい星』(NHKラジオ第一)、1975年(昭和50年)5月25日 - 6月15日
- 文芸劇場『沈める滝』(NHKラジオ第一)、1976年(昭和51年)2月28日
- 名作をたずねて『潮騒』(NHKラジオ第二)、1976年(昭和51年)4月23日、30日
朗読
- 小説『夏子の冒険』(ラジオ東京)、1952年(昭和27年)6月2日 - 30日
- 連続物語『夏子の冒険』(文化放送)、1953年(昭和28年)6月1日 - 27日
- 自作朗読『美神』(ラジオ東京)、1954年(昭和29年)7月1日 (朗読-三島)
- 私の本棚『真夏の死』(NHKラジオ第一)、1954年(昭和29年)7月15日 - 24日
- 文学サロン『潮騒』(ラジオ東京)、1955年(昭和30年)5月2日
- ドラマ自由席『熊野―近代能楽集のうち』(ラジオ東京)、1961年(昭和36年)11月5日
- 物語り『真珠』(NHKラジオ第一)、1963年(昭和38年)5月23日
- ラジオ劇場『卒塔婆小町』(ニッポン放送)、1963年(昭和38年)9月15日
- 自作朗読『サーカス』(NHK-FM)、1965年(昭和40年)5月1日 (朗読-三島)
- 朝の朗読『真夏の死』(中部日本放送)、1965年(昭和40年)5月4日 - 25日
- 朗読『沈める滝』(NHK-FM)、1968年(昭和43年)11月11日 - 30日
音楽作品
- 『からっ風野郎』(同名の大映映画の主題歌)
- 『お嬢さん』(同名の大映映画の主題歌)
- 『ポエムジカ 天と海―英霊に捧げる七十二章』
- 『英霊の声―三島由紀夫作「英霊の声」より』
- 『起て! 紅の若き獅子たち―楯の会の歌』
- クラウンレコード、1970年(昭和45年)4月29日発売。
- 作詞-三島由紀夫。作曲・編曲-越部信義。歌唱-三島由紀夫と楯の会。
- 『軍艦マーチのすべて』
関連人物
- 東文彦
- 年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)の大半は東宛である、戦時中の1943年(昭和18年)10月8日に23歳で夭折。三島は、『東文彦作品集』(講談社、1971年。講談社文芸文庫で2007年再刊)の出版に尽力し、自決する1ヶ月前に序文を記した。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[10]。なお、東文彦の母方の祖父は石光真清である。
- 安部譲二
- 作家で元ボクサー、日本航空客室乗務員、バー経営など。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は『複雑な彼』(集英社、1968年。角川文庫で2009年再刊)を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部とした。
- 天知茂
- 俳優。生涯の持ち役だった明智小五郎を初めて演じたのは、三島本人から指名され、丸山明宏初主演でもある1968年(昭和43年)の舞台『黒蜥蜴』である。三島は劇場プログラムの中で、「もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな喜びである。映画『四谷怪談』の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつてゐたのであつた」[91]と記している。
- 伊東静雄
- 日本浪曼派の詩人。三島からは尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を嫌っており(しかし1942年(昭和17年)の三島宛の葉書では、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と、三島を励ましている)、1944年(昭和19年)5月に三島の訪問(序文の依頼)を受けた際のことを、伊東は日記で、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」と記し、リンゴを持参した自分の中学校の教え子と、手ぶらで来て夕食まで食べ、駅まで見送った三島を比べていた。また、その月末の日記では、「平岡からの手紙、面白くない。背のびした無理な文章」と記した(但し三島自身の弁にも、初期の自身の文章を同じように難じる記述がある)。小高根二郎は『詩人 伊東静雄』の中で、「魚棚の丁稚あがりの父をもった静雄は、かなり激しい階級的な反発心を秘めていた。(中略)上流の階級に属していた、そのボンボン(三島)に、なぜ貧乏な俺がサービスしなければならないのか?(中略)静雄は二少年を天秤にかけた常識―自分の俗物性を、日記で由紀夫に押しつけたのである」[92]と述べている。伊東歿後、三島は伊東を回想し、「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」[93]と述べ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛した。『伊東静雄全集推薦の辞』でも、「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。
- 石原慎太郎
- 作家。政治家、東京都知事。デビュー当時、三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品『完全な遊戯』が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れ、1970年(昭和45年)6月に三島が、石原の政治姿勢を批判する文章『士道について―石原慎太郎への公開状』を、毎日新聞に発表してからは事実上断絶した。また、三島は村上一郎との対談『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号に掲載)[88]の中で、「石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな」と言い、石原の天皇に対する無理解を批判していた。石原は、三島事件を「狂気の沙汰」と一言に切って棄て、野坂昭如との対談や評論『三島由紀夫の日蝕』(新潮社、1991年)でも否定的な見解を述べ続けた。しかし、三島事件直後の文章『三島由紀夫への弔辞』(週刊現代 1970年12月10日号に掲載)[94]の中では、「三島氏も友人に宛てた遺書の中で、たとえ他がこれを狂気といおうとも、と断っている。ということは、氏自身が社会的政治的に見て、あの行動が他から眺めれば、狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」とも述べていた。石原が三島の死後に、「自分は(三島と)友人だ」と公言していることについては、賛否両論があり、特に美輪明宏からは「政治利用」であると批判されている。三島自身は晩年のインタビューで、「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べた。また、1970年(昭和45年)11月の清水文雄宛の書簡にも三島は、「文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏(伊沢甲子麿)一人になりました」と記している。
- 伊沢甲子麿
- 教育評論家。1947年(昭和22年)3月、国学院大学生であった伊沢は、豊川登(学習院教諭、ドイツ文学)と磯部忠正(元学習院長、磯部俶の兄)を介して三島と知り合い、終生の友人となる。初対面の際、伊沢は三島から、「伊沢さんは保田與重郎さんが好きですか、嫌いですか?」と聞かれ、「保田さんは私の尊敬する人物です。(中略)戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものがありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています」と答えた。その時、三島は、「今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言ったという[95]。憂国忌の発起人でもある。
- 市川雷蔵
- 歌舞伎出身の映画俳優。大映作品『炎上』(『金閣寺』が原作)と『剣』で主役を演じている。撮影現場を見学した日の三島の日記『「炎上」撮影見学 日記(5)―裸体と衣裳』には、「頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない」[96]と記している。また、三島からの信頼も厚く、歌舞伎公演に際して、「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい。君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、『炎上』の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう」[97]と激励の文章を送られた。『獣の戯れ』の映画主演は多忙で、『春の雪(『豊饒の海』第1巻)』の舞台公演は病いで実現しなかった。雷蔵は増村保造監督に、二・二六事件の青年将校の役もやりたいと相談していたという[98]。1969年(昭和44年)7月に癌で没したが、池上本門寺での葬儀には、三島も夫妻で参列している。今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が多く出されている。
- 江藤小三郎
- 1969年(昭和44年)2月11日、三島自決の前年の建国記念日に、国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく自決した青年。明治維新の功労者江藤新平の曾孫。その至誠と壮絶な諫死は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼす。三島は『若きサムラヒのための精神講話』[99]において、「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の『本気』といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、その自決の決意に大きな影響を与えたことを伺わせる。
- 遠藤周作
- 作家。憂国忌発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージにはファナティックな意図なしに一定の理解を示していた。晩年の代表作『深い河』は、『豊饒の海』の影響も多分に受けている。
- 川端康成
- 三島の師にして、先輩作家。三島の母・倭文重によると、1943年(昭和18年)、三島の同人誌での詩や短編を読んだ川端から突然、手紙(宛名は平岡公威)が来て、三島は、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と大喜びし、はしゃいでいたという。翌年の1944年(昭和19年)、『花ざかりの森』出版まで、2,3度手紙をやりとりし、三島は本が出来上がると、川端に贈呈した。誰の紹介状もなくとも、1946年(昭和21年)1月27日に川端宅を初訪問してもよかったが、慎重深く礼儀を重んじる三島は、野田宇太郎の紹介状を持って訪問したという[76]。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が、文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて太宰治が谷崎潤一郎令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあると言われているが、この件に関しては1951年(昭和26年)3月に、夫人の川端秀子が、「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」という[25]。三島は自決約1年前辺りから、楯の会に対する川端の冷淡さに失望していたとの証言がある[100]。1971年(昭和46年)1月24日に築地本願寺で行なわれた三島の葬儀の委員長は川端が務めた。
- 北杜夫
- 作家。年齢も近く、同じ山の手生まれから交友が始まり、三島は北の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島と北は疎遠となった。ちなみに北の父親の歌人・斎藤茂吉と三島の伯父で精神科医の橋健行(母・倭文重の兄)は親友同士であった[72]。
- 越路吹雪
- 独身時代に三島と恋愛関係にあったと言われている。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていたという。
- 小島千加子
- 文芸誌「新潮」での三島担当の編集者。三島事件の当日朝10時30分に、最後の作品の原稿『天人五衰』(『豊饒の海』第4巻)を取りに自宅へ行った。その時三島は既に出立しており、お手伝いさんから受け取った。経緯は『三島由紀夫と檀一雄』(構想社、1980年。ちくま文庫で1996年再刊)に詳しい。
- 佐々淳行
- 警察庁官僚でその後内閣官房内閣安全保障室長。新左翼による暴動鎮圧に警察官僚として従事していたこともあり、三島と意見を交わすことも多く、さらに実姉の紀平悌子が三島と恋愛関係にあったほか、粕谷一希や石原慎太郎など共通の知人もいた。
- 清水文雄
- 日本浪曼派系の国文学者で、和泉式部研究で著名。学習院時代の恩師で、主宰する「文藝文化」で、1941年(昭和16年)に筆名「三島由紀夫」を提案し、著作活動を促した。没後に、三島が清水へ送った書簡集『師清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)が出版されている。当時は、学習院在学時の皇太子(現:今上天皇)の担当教師でもあったが、戦後は広島大学に赴任し終生在住した。
- 澁澤龍彦
- 作家で、フランス文学者。1956年(昭和31年)、澁澤が訳したマルキ・ド・サドの作品集序文を三島に依頼し、快諾を受けてからその没年に至るまで親交があり、公私ともに三島のよき理解者だった。澁澤は追悼文『三島由紀夫氏を悼む』(雑誌・ユリイカ 1971年1月号に掲載)の中で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を賞賛し、一方、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の代表作とされる『サド侯爵夫人』は、澁澤の『サド侯爵の生涯』(桃源社、1964年。中公文庫、1983年。他)に始まる一連の著作に想を得ており、澁澤も序文を書いている。また三島に面と向かって、「近ごろ、兵隊ごっこ(楯の会)はいかがですか」と(半ば皮肉を交えて)言えるほど親しい間柄だった。親交と信頼の深さを伝える著書・対談『三島由紀夫おぼえがき』(立風書房、1983年。中公文庫、1986年)がある。三島の死後は、憑かれたように小寺巡礼の旅に出たという。
- 篠山紀信
- 写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(毎日新聞社、1968年)に、三島が序文『篠山紀信論』を書いている[101]。また、1970年(昭和45年)9月に薔薇十字社で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影された。当初は、横尾忠則も被写体になる予定だったが、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。数点が公開されたのみで、その全容は現在にいたっても未公開となっている。なお自宅書斎・庭園ほかを、多数撮影した『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年。普及版2000年)がある。
- 高橋和巳
- 作家・中国文学者。三島とは、1969年(昭和44年)に『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』(雑誌・潮1969年11月号に掲載)[102][88]で対談している。三島自決時には、自宅の病床で通信社のインタビューに応じ、「『豊饒の海』を書き終わった三島さんはもう書くものが無くなるのでないか。作家として三島さんはどうなるのか、心配だった…」と述べた。文芸誌で、三島の自殺を主題にした談話筆記『自殺の形而上学』(文藝 1971年2月号に掲載)と、野間宏・秋山駿との座談会『文学者の生きかたと死にかた』(群像 1971年2月号に掲載)[103]を発表した。なお三島による高橋の作品・人物論は無いが、高橋が訳した唐代詩人『李商隠(中国詩人選集15)』(岩波書店、1958年)は、李賀の訳注書と並んで三島の蔵書にある。1971年(昭和46年)5月に39歳の若さで、ガンで亡くなっている。
- 手塚治虫
- 漫画家。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『ばるぼら』(ビッグコミック 1973年 - 1974年に連載)を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前、『劇画における若者論』(サンデー毎日 1970年2月1日号に掲載)の中で、「劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を想像した手塚治虫も、『火の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て…」と手塚の作風的変遷を辛辣に批判した。
- 田宮二郎
- 俳優。田宮本人の希望で『複雑な彼』(大映、1968年)に主演、学習院の後輩でもある。1978年(昭和53年)12月28日、自宅で猟銃自殺を遂げ死亡。享年43。
- 徳川義恭
- 学習院の先輩。 1949年(昭和24年)12月12日、若くして病没した。享年28。尾張徳川家分家の出身で、皇族との縁戚関係があり、実兄は半世紀にわたり昭和天皇の侍従・侍従長を務めた徳川義寛である。三島の短編『貴顕』は徳川義恭をモデルにしている。
- 中村伸郎
- 俳優。三島が劇団「文学座」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「劇団NLT」「浪曼劇場」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。『わが友ヒットラー』ではクルップを演じた。
- 長沢節
- 画家。若き日の三島が、彼に興味を持ち池袋椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。彼が書いた小説を三島がほめ、鎌倉文庫発行の文芸誌「人間」の臨時増刊号のために、編集長・木村徳三に原稿を持ち込んだが、時を置かず鎌倉文庫がつぶれたため実現せず、その後の三島が右翼的言動を強めたので距離を置くようになる。
- 西尾幹二
- ドイツ文学者、ニーチェ研究家。評論家。西尾の『ヨーロッパ像の転換』(新潮社、1969年)には、手塚富雄と共に三島が推薦文を書いている。また、三島は三好行雄との対談『三島文学の背景』(雑誌・国文学 1970年5月臨時増刊号に掲載)の中で、「新潮の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私がどういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている」と、西尾の三島論『不自由への情熱―三島文学の孤独』(新潮 1970年2月号に掲載)[104]に言及し評価していた。憂国忌の代表発起人でもある。
- 林房雄
- 尊敬し交流していた作家、評論家。『林房雄論』(限定版 新潮社、1963年)[105]を書き、共著『対話・日本人論』(番町書房、1966年)がある。東大法学部の先輩でもある。三島の自決後は、憂国忌の運営に積極的に参加し、『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)ほか多数の論考を著した。
- 蓮田善明
- 日本浪曼派系の国文学者で「文藝文化」を主宰した。元陸軍中尉。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時の1945年(昭和20年)8月19日、駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、天皇を愚弄した上官を射殺し、自決した。『全集』(全1巻)(島津書房、1989年)が刊行されている。
- 土方巽
- 舞踏家、振付家。 暗黒舞踏派の創始者であり、三島に深く傾倒していた。1959年(昭和34年)には、三島の小説『禁色』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」(澁澤龍彦談)、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集『薔薇刑』(限定版 集英社、1963年)[106]の製作につながっていく。『薔薇刑』の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。
- 福田恆存
- 英文学者、劇作家・演出家、保守派の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が、「文学座」から分裂し「劇団雲」結成を発表する前夜に、三島にも参加を呼びかけたが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否し、以後は共に演劇活動はしなかった。しかし、三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿し、1967年(昭和42年)に対談『文武両道と死の哲学』(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)[107][87]も行うなど、関係断絶には至っていなかった。
- 藤原岩市
- 三島由紀夫を自衛隊体験入隊に導いた人物で、元陸軍将官、自衛隊調査学校学校長。三島の自衛隊体験入隊から深く関与している。
- 細江英公
- 写真家。昭和30年代半ば、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が、舞踏家・土方巽を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、自身の評論集『美の襲撃』(講談社、1961年)の口絵写真を依頼する。これを契機に、ボディービルに傾倒していた三島自身の肉体を被写体とした写真集『薔薇刑』』(限定版 集英社、1963年)[106]の一連の撮影が行なわれた。『薔薇刑』は細江の代表作となり、戦後日本の写真界のみならず、英語版も数度出版された写真集となった。
- 増村保造
- 映画監督。東大法学部で同窓だったが、映画『からっ風野郎』を三島主演で監督するに際しては、三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、平岡梓は、「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人ロイ・ジェームスに向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる[108]。しかし、その一方、映画が完成し三島邸に招待された際、増村は梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われたという。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道、増村は、「明治生まれの男は偉い」と、梓をほめていたという[71]。また、岸田今日子、晩年の増村保造も、三島の回想文[109]を書いているという。
- 美輪明宏
- 歌手、俳優。10代の時、美輪のアルバイト先のシャンソン喫茶『銀巴里』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島の戯曲に多く出演し、『卒塔婆小町』[26]、『双頭の鷲』、三島が脚本を手がけた『黒蜥蜴』は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。しかし、決して三島に媚びる様なことは無く、三島好みの、凛然として気高い「権高な麗人」像を貫いた。三島は自決決行に先駆けて、永訣として「薔薇の花束」を持って楽屋の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。なお自伝著作『紫の履歴書』初版(大光社、1968年)には、三島が序文を寄せている。
- 村上一郎
- 作家、文芸評論家。クリスチャンで右派的な思想も持ち、独自視線の戦争批判が冴える。三島と頻繁に会談した。二人の対談は『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』(日本読書新聞 1969年12月29 - 1970年1月5日合併号に掲載)[88]に詳しい。村上の『北一輝論』(三一書房、1970年)は三島に高く評価された。村上は、三島の決起のニュースを聞き、市ヶ谷駐屯地に駆けつけ門衛に誰何された際、「自分の官姓名は正七位海軍主計大尉村上一郎である」と叫んだという。1975年(昭和50年)自宅で自刃した。
- 村松英子
- 女優。三島と友人であった実兄・村松剛を介して三島と知り合う。三島の指導を受け、三島戯曲の舞台に多数出演した。1963年(昭和38年)、「喜びの琴事件」では、三島、中村伸郎らと共に「文学座」を脱退し、「劇団雲」を経て「劇団NLT」に所属。1968年(昭和43年)には、再び三島らと共に「劇団NLT」を脱退し、「劇団浪曼劇場」の旗揚げに参加した。三島との思い出を綴った『三島由紀夫 追想のうた』(阪急コミュニケーションズ、2007年)がある。憂国忌の代表発起人でもある。
- 山本舜勝
- 陸上自衛隊調査学校情報教育課長。三島らを自衛隊調査学校で直接指導した陸上自衛官、元陸軍少佐。元陸軍中野学校研究部員兼教官。三島の決起に至るまでの過程に深く関与し、「楯の会」の事実上の指導官であった。陸将補で退官後に、三島に関する著書を回想[110]など数冊出している。
- 矢頭保
- 写真家。三島は、矢頭の作品集『体道・日本のボディビルダーたち』(ウェザヒル出版社、1966年)に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。また、『裸祭り』(美術出版社、1969年)にも序文を寄せている。
- 保田與重郎
- 日本浪曼派の作家、文芸評論家。1942年(昭和17年)11月に三島は、学習院の講演依頼のため清水文雄と共に保田を初訪問する。以後、何度か三島は保田を訪れる。三島の死後、その時の回想『天の時雨』(新潮 1971年1月臨時増刊号に掲載)[111]などを保田は綴っている。
- 横尾忠則
- 美術家、グラフィックデザイナー。三島は横尾の絵を気に入り、1968年(昭和43年)に『ポップコーンの心霊術―横尾忠則論』[101]を書いている。1970年(昭和45年)9月に薔薇十字社で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影されたが、当初、横尾忠則も被写体になる予定だった。しかし、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。この写真は数点が公開されたのみである。また、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』(集英社、1971年)の装画を見た三島は、自死の直前の11月22日の夜、横尾に電話を入れ、「この絵は俺の涅槃像だろう? これは間違いなく俺の涅槃像だ」、「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」、「これで君はいつインドへ行ってもいいだろう」と言っていたという[112]。それ以前に三島は横尾に、「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する」と言っていたという[113]。
- 吉田健一
- 英文学者、作家。父は首相・吉田茂で、母方の曽祖父が維新の志士大久保利通。鉢の木会の同人仲間として一時期は交流があったが、のちに不和を生じ断交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期に力作『鏡子の家』を酷評したためともいわれるが、都知事選を舞台にした『宴のあと』刊行に際し、訴訟を起こした元外相・有田八郎と旧知の仲だった吉田が、和解のための話し合いをめぐり、三島と互いに感情的な反撥になったという説もある。
- アーサー・C・クラーク
- 20世紀を代表する著名なSF作家。三島はSF好きとしても知られており、1962年(昭和37年)、SF的な小説『美しい星』にも挑戦し、1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌「宇宙塵」第71号の中で、「私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」[114]と述べていた。また、荒井欣一・北村小松等が主宰する「日本空飛ぶ円盤研究会」にも所属していた。三島はクラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、アポロ計画華やかなりし1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』も鑑賞した[115]。晩年は、『幼年期の終り』に関する感想を、「私の読んだおよそ百篇に余るSFのうち、随一の傑作と呼んで憚らない」、「不快な傑作」として、評論『小説とは何か』の中で語っている。また、三島は、随想『F104』(1968年)[90]や、澁澤龍彦との対談『タルホの世界』(1970年5月)[116]などで宇宙飛行に触れ、澁澤との対談では、「宇宙の深淵の中に、男性原理の根本的なものとのつながりがある」と言及し、4月のアポロ13号の月面探査ミッション失敗に触れている。同対談では、映画『2001年宇宙の旅』の持つ神話学的含意を仄めかしていると思われる箇所も見受けられる。宇宙船「ディスカバリー号」が「精子」の形をしているのは有名な話である。随想『F104』にも類似の表現が見られる。また、一方、クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には、三島の小説『仮面の告白』への言及がある。
- アイヴァン・モリス
- 友人の日本文学者。三島の『金閣寺』英訳者であり、モリスの著書『光源氏の世界』が1965年(昭和40年)、イギリスで文学賞を受賞した際、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。
- エドワード・G・サイデンステッカー
- 日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、政治的傾向を深めて行く三島とは、徐々に疎遠になっていったようである。
- ドナルド・キーン
- 友人の日本文学者。三島の良き理解者で、高く評価していた。たびたび回想・作家論を出している。キーン宛ての三島書簡を公開した『三島由紀夫未発表書簡―ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年。中公文庫、2001年)[117]が出されている。
- ビョーク
- アイスランド出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。三島の初版本を集めているともいう。来日した際に、「ミシマの作品くらいは読まなくてはね」と述べた。
- フランシス・フォード・コッポラ
- 『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』等で知られるサンフランシスコ在住の映画監督。ジョージ・ルーカスと共に『MISHIMA』をプロデュース。『鏡子の家』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時、各所に散りばめられた神話的メタファー、ラストの東洋的ニヒリズムなど、三島の『豊饒の海』からモチーフのヒントを得たと語っている。また、現代文明に疑問を抱きグリーンベレーに志願した38歳の中年カーツ大佐の人物造型は三島が原型にあるともいわれている。
- ヘンリー・スコット=ストークス
- イギリスのジャーナリスト。ロンドンの「タイムズ」東京支局長だった。1970年(昭和45年)9月3日に三島を食事に招いた。その時の三島の様子を、「食事の後、三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。近衛家は、九代にわたって嗣子が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が呪いにかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、物質主義がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。『日本は緑色の蛇の呪いにかかっている』 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。『日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない』 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか」とヘンリー・スコット=ストークスは述べている[118]。
- マルグリット・ユルスナール
- フランスの女性作家。深い西洋古典学の教養を有し、多田智満子の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。欧米における三島の深い理解者の一人で作家論『三島あるいは空虚のヴィジョン』訳・澁澤龍彦(河出書房新社、1982年。河出文庫、1995年)がある[119]。女性初のアカデミー・フランセーズ会員でもあった。
- シガニー・ウィーバー
- 『エイリアン』で知られるハリウッドの女優。映画『黒蜥蜴』を鑑賞後、リメイク化権を取得。
脚註
- ^ 佐伯彰一「評伝三島由紀夫」によると、学習院の学生であった平岡公威の本名での作品発表を憂慮した『文芸文化』同人たちが修善寺での合宿時に「三島-富士の白雪」の連想から考案、恩師清水文雄が本人に提案し、受け入れられたものと言う。
- ^ 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)(ウェブ魚拓)
- ^ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』(夏目書房、2000年)p.442
- ^ a b 三谷信『級友 三島由紀夫』(中公文庫、1999年)
- ^ 坊城俊民『焔の幻影 回想三島由紀夫』(角川書店、1971年)
- ^ 全文は、「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」(蓮田善明『文藝文化 昭和16年9月号 編集後記』)
- ^ 対談『平野啓一郎が聞くドナルド・キーンの世界』(読売新聞 2007年7月31日、8月1日に掲載)
- ^ a b 『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)に収む。
- ^ 『東文彦作品集』(講談社、1971年。講談社文芸文庫で2007年再刊)の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を、「文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代」であったと自ら回顧している。
- ^ a b 持丸博と佐藤松男との共著『証言三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋、2010年)
- ^ 三島由紀夫『社会料理三島亭』(婦人倶楽部 1960年1月号 - 12月号まで連載)
- ^ 三島の母・倭文重と、自身の母親が幼い頃からの知り合いで、平岡家と家族ぐるみの交際があった村松剛は、「倭文重さんはいくつかの愚痴をぼくにいった。(中略)『学習院の中等科を終るときに、一高を受験させたのですよ。でも学習院程度の学校では、一高は無理だったのね。一高のバンカラ生活を経験していたら、公威もあんなことしなかったと思うの』 『あんなこと』が自衛隊入りいらいの彼の生活をさすことは、いうまでもない。学習院から一高にはいった例は、近衛文麿がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく、それに一高の生活も外見ほどにはバンカラではない。そう思ったのだが、このときはだまってきいていた。『学習院に入れると決めてしまったのは、義母ですからね』 (中略)つまり息子を死に向かって突走らせた責任の大本は姑にあると、倭文重さんはいいたかったのである」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で書いている。この著書と同種の内容は筑波論文([1])参照のこと。
- ^ a b 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)に記載。
- ^ ただし近衛文麿や児島喜久雄、松平恒雄は学習院中等科から一高を出ており、一高出身の村松剛も、「学習院から一高にはいった例は、近衛文麿がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で書いている。しかし、本当に三島が一高を受験したという客観的事実関係は今のところなく、どちらか不明である。また、三島が中等科5年の時の1941年(昭和16年)9月25日付の東文彦宛の書簡には、(学習院)高等科は文科乙類(独語)にすることを東に伝えている記述があり、三島本人はそのまま学習院高等科へ進む意思であった。そのため、『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)の記載にも、「学習院在学者には他校の受験はできなかったという説もある」と、保留の形となっている。また、村松剛も、「文学上の師や仲間が、三島のまわりには形成されていた。(中略)中等科五年の九月からは、師の清水文雄氏の推挽によって『花ざかりの森』を、彼は“文藝文化”に連載しはじめる。(中略)三島にとっては一高よりも学校外の雑誌に発表の舞台をあたえられたことの方が魅力的であり」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で述べ、小説の書き直しなどに夢中になっていた三島が、もし受験していたとしても、及第している方が不思議だという見解を示している。
- ^ 原武史『滝山コミューン一九七四』p.262(講談社、2007年)
- ^ 三島由紀夫『法律と文学』(東大緑会大会プログラム、1961年12月)、三島由紀夫『私の小説作法』(毎日新聞 1964年5月10日に掲載)
- ^ なお、三谷隆信の三女・正子は鮎川義介の息子・鮎川弥一に嫁いだため、三谷邦子は、のち鮎川純太の義理の伯母の立場となった
- ^ 三島由紀夫『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』(文芸誌・新潮 1955年8月号に掲載)
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集第1巻・長編小説』(新潮社、2000年)に収む。
- ^ 三島由紀夫『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』(別冊文藝春秋 51号、1956年4月に掲載)
- ^ 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)(底本『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ、1982年)
- ^ a b c d 三島由紀夫『私の遍歴時代』(講談社、1964年。ちくま文庫で1995年再刊)
- ^ 野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)
- ^ a b c 安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
- ^ a b c 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
- ^ a b c d e f g のち戯曲集『近代能楽集』1956年(昭和31年)に収む。
- ^ 三島は『潮騒』の名を、万葉集の歌、「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」からとった(万葉仮名では『潮左為』)。この歌は、持統天皇が伊勢に旅された時に、都に残った柿本人麻呂が伊良湖岬を歌ったもので、意味は、「さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを」である
- ^ 昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から、「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたこともあったという(この時三島は顔色を変え、部屋から出て行ったとされる)。後年、映画『人斬り』(1969年)で共演し、撮影現場の京都に向かう飛行機で乗り合わせた仲代達矢が、「作家なのにどうしてボディービルを?」と尋ねた時、「僕は切腹をして死ぬからだよ」、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えたという。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって、「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。
- ^ 三島由紀夫『私のすぽーつ・セカンドウインド』(毎日新聞 1957年6月16日に掲載)
- ^ 中井英夫『LA BATEE』p.149(立風書房、1981年)
- ^ 1945年(昭和20年)の20歳日本人男性の平均身長は165センチ([2])。1948年(昭和23年)の17歳日本人男性の平均身長は158.2センチという統計もあるが、「昔の日本人は今日と違って18歳以降も20代前半まで身長は伸びたようなので、単純な比較はできない」と言われている[要出典]。しかし三島が当時として極端に低身長であったというわけでもない
- ^ 三島由紀夫『三島氏のプライバシー―なんでも相談 なんでも解答』(PocketパンチOh! 1968年7月号に掲載)
- ^ のち1968年の文庫版には「道成寺」、「熊野」、「弱法師」が加わる
- ^ 徳岡孝夫『五衰の人─三島由紀夫私記』(文藝春秋、1997年。文春文庫、1999年)、および、週刊新潮 2009年4月2日号掲載記事・「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」
- ^ 椎根和『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社、2007年。新潮文庫、2009年)
- ^ 三島由紀夫『劇画における若者論』(サンデー毎日 1970年2月1日号に掲載)、『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論』(新潮社、2003年)にも収む。
- ^ 三島は後年、大島渚との対談『ファシストと革命家か』(映画芸術 1968年1月号に掲載)の中で、「『鏡子の家』でね、僕そんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめないのかというんで橋の上に立ってるんですよ。誰もとめに来てくれなかった。(中略)その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。僕が赤ん坊捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった」と語っている
- ^ 三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年)に再録。『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論』(新潮社、2003年)にも収む。
- ^ 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
- ^ 岸田今日子「わたしの中の三島さん」(『決定版 三島由紀夫全集第22巻・戯曲』付録・月報)(新潮社、2002年)
- ^ 三島由紀夫『著者と一時間(「絹と明察」)』(朝日新聞 1964年11月23日に掲載)
- ^ http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html
- ^ 後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年(平成17年)にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年(平成8年)に発見されたという。
- ^ 安藤武『三島由紀夫の生涯』p.241(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
- ^ 新潮文庫版『暁の寺』森川達也の解説より、p.431
- ^ その時のやり取りは『討論・三島由紀夫VS.東大全共闘-美と共同体と東大闘争』、新潮社、1969年、新版は角川文庫刊)にある
- ^ 1970年夏の時点で既に、結末部は脱稿していたが、巻末日付は11月25日と記載した。
- ^ 村松友視『夢の始末書』角川書店
- ^ 2010年12月30日 読売新聞
- ^ http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html
- ^ 虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集Ⅰ』序文講談社文芸文庫、2006年 ISBN 406198439X
- ^ 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年
- ^ 青海健『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』 小沢書店、2000年
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)第36巻に収録されている
- ^ 詳細は松藤竹二郎著『血滾ル三島由紀夫「憲法改正」』(毎日ワンズ、2006年ISBN 4901622048)で紹介されている
- ^ 『三島由紀夫 - 没後35年・生誕80年 』(河出書房新社、2005年)に再録されている
- ^ 林房雄との対談『対話・日本人論』(新版・夏目書房、2002年)
- ^ 1970年11月17日夕刻の古林尚との対話。のち「新潮CD 三島由紀夫最後の言葉」で再版。
- ^ 中条省平編『続・三島由紀夫が死んだ日』p.185、実業之日本社、2005年
- ^ 「文武両道と死の哲学」(『論争ジャーナル』1967年11月号)、のち「若きサムライのために」(文春文庫、1996年)で再版。
- ^ 「『女帝』を認めた三島の真意」(『遺魂 三島由紀夫と野村秋介の軌跡』、無双舎、2010年 ISBN 4864084394)
- ^ 決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論にも収められている
- ^ 松藤竹二郎『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』(毎日ワンズ 2005年)
- ^ 松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』(文春新書、2006年)、『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社、2007年 / 新潮文庫、2011年)、原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)など。
- ^ 島崎博・三島瑤子『定本三島由紀夫書誌』(薔薇十字社、1971年)
- ^ [3]「宴のあと」事件(損害賠償請求事件)判決(1964年(昭和39年)9月28日)
- ^ a b c d e f 「三島由紀夫の無視された家系」(梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載)
- ^ a b c 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)
- ^ a b c 平岡梓『倅・三島由紀夫』』(文藝春秋、1972年)
- ^ a b c d 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
- ^ a b 藤井浩明「座談会 映画製作の現場から」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)
- ^ a b c d 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- ^ 斎藤茂吉は『回顧』のなかで、「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた」と記している
- ^ 紀平悌子「三島由紀夫の手紙」(『週刊朝日』1974年12月13日号連載手記)
- ^ 解題・岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』)(小学館、2001年)
- ^ a b c d 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
- ^ 今村均『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、新版1993年)
- ^ a b 小野繁『平岡家系図解説』(1971年)
- ^ a b c d e 板坂剛『極説・三島由紀夫』(夏目書房、1997年)
- ^ a b 仲野羞々子「農民の劣等感 三島由紀夫の虚勢」(『農民文学』第九十三号、1971年2月号所載)
- ^ 三島由紀夫『フランスのテレビに初主演 文壇の若大将三島由紀夫氏』(毎日新聞、1966年3月10日)
- ^ a b 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
- ^ 岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)
- ^ 福島鑄郎『資料・三島由紀夫』(双柿舎、1982年増補改訂版)
- ^ 村松剛『三島由紀夫の世界』、35頁(新潮社、1990年)
- ^ a b c のち戯曲集『近代能楽集』文庫版1968年(昭和43年)に収む。
- ^ a b c d e f g h i のち『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(河出書房新社、1970年。河出文庫で2006年再刊)に収む。
- ^ a b c d e f g h i j k l m のち『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年。1986年再刊)に収む。
- ^ a b c d e f 『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。
- ^ a b c のち評論『太陽と鉄』のエピロオグに収む。
- ^ 三島由紀夫『「黒蜥蜴」』(東横劇場プログラム 1968年4月に掲載)
- ^ 小高根二郎『詩人 伊東静雄』(新潮社、1971年)
- ^ 三島由紀夫『伊東静雄の詩―わが詩歌』(文芸誌・新潮 1966年11月号に掲載)
- ^ 『近代作家追悼文集成(42)三島由紀夫』(ゆまに書房、1999年)に収む。
- ^ 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」(『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談』付録・月報)(新潮社、2004年)
- ^ 三島由紀夫『裸体と衣裳』(文芸誌・新潮 1958年4月 - 1959年9月号に連載)
- ^ 三島由紀夫『雷蔵丈のこと』(日生劇場プログラム 1964年1月に掲載)
- ^ 大西望「市川雷蔵の『微笑』―三島原作映画の市川雷蔵」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)
- ^ 三島由紀夫『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年。文春文庫で1996年再刊)、『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論』(新潮社、2003年)にも収む。
- ^ 村松剛『西欧との対決―漱石から三島、遠藤まで』(新潮社、1994年)
- ^ a b のち『芸術断想 三島由紀夫のエッセイ(4)』(ちくま文庫、1995年。復刊2010年)に収む。
- ^ 高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、1970年)に収む。
- ^ 遺著『自立の思想』(文和書房、1971年)に収む。
- ^ 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所、2008年)に収む。
- ^ のち『作家論』(中央公論社、1970年。中公文庫、1974年)に収む。
- ^ a b のち、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』(集英社、1971年)、復刻版『薔薇刑』(新版 集英社、1984年)が出版されている
- ^ 『若きサムライのために』(日本教文社、1969年。文春文庫で1996年再刊)に収む。
- ^ 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)
- ^ 「ユリイカ 詩と批評 特集三島由紀夫 1986年5月号」(青土社)に掲載
- ^ 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
- ^ 『保田與重郎全集第10巻』(講談社、1986年)に収む。
- ^ 横尾忠則「三島由紀夫氏のこと」『横尾忠則 画境の本懐(道の手帳)』(河出書房新社、2008年)
- ^ 横尾忠則『インドへ』(文藝春秋、1977年)
- ^ 三島由紀夫『一S・Fファンのわがままな希望』(宇宙塵」第71号に掲載)
- ^ 『三島由紀夫会見記』(乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと)
- ^ 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』(立風書房、1983年。中公文庫、1986年)に収む。
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)にも収む。
- ^ ヘンリー・スコット=ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(清流出版、1998年)
- ^ 新版は、河出の『澁澤龍彦翻訳全集15巻』(河出書房新社、2003年)や、『ユルスナール・セレクション5.空間の旅・時間の旅』(白水社、2002年)に収む、ISBN 4560047154。
参考文献
- 『三島由紀夫 没後35年・生誕80年』河出書房新社〈KAWADE夢ムック 文藝別冊〉、2005年11月。ISBN 4-309-97697-2。
- 荒木精之『初霜の記 三島由紀夫と神風連』日本談義社、1971年11月。
- 磯田光一『三島由紀夫全論考・比較転向論序説』小沢書店〈磯田光一著作集1〉、1990年6月。
- 井上豊夫『果し得ていない約束--三島由紀夫が遺せしもの』コスモの本、2006年10月。ISBN 4-906380-80-8。 - 学生時代に楯の会に所属し、三島由紀夫の薫陶を間近で受けた著者が、誤解されがちな三島の素顔をありのままに語る。
- 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年。 ISBN 978-4903122069
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』文藝春秋、1995年11月。ISBN 4-16-350810-4。
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』文藝春秋〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 4-16-743109-2。
- 改訂版 『日本の近代 猪瀬直樹著作集2.ペルソナ 三島由紀夫伝』(小学館、2001年11月)
- 川島勝『三島由紀夫』文藝春秋、1996年2月。ISBN 4-16-351280-2。 - 著者は三島担当の講談社編集者。
- 小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年4月。ISBN 4-480-03182-0。(元版は構想社、1980年5月)
- 佐伯彰一『評伝三島由紀夫』新潮社、1978年。
- 佐伯彰一『評伝三島由紀夫』中央公論社〈中公文庫〉、1988年11月。ISBN 4-12-201567-7。
- 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』立風書房、1983年12月。
- 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』中央公論社〈中公文庫〉、1986年11月。ISBN 4-12-201377-1。
- 青海健『三島由紀夫とニーチェ 悲劇的文化とイロニー』青弓社、1992年9月。ISBN 4-7872-9066-5。 - 三島文学を日本ポストモダン文学の先駆と位置付け、「物語の死」からの再生を試みる。
- 青海健『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』小沢書店、2000年1月。ISBN 4-7551-0393-2。 - 島田雅彦、吉本ばなな、村上龍、村上春樹、中上健次の作品評論を含む。
- 中条省平編・監修 編『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り何が始まったのか』実業之日本社、2005年4月。ISBN 4-408-53472-2。
- 中条省平編・監修 編『続・三島由紀夫が死んだ日 あの日は、どうしていまも生々しいのか』実業之日本社、2005年11月。ISBN 4-408-53482-X。
- 徳岡孝夫『五衰の人 三島由紀夫私記』文藝春秋、1996年11月。ISBN 4-16-352230-1。
- 徳岡孝夫『五衰の人 三島由紀夫私記』文藝春秋〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 4-16-744903-X。
- 平岡梓『伜・三島由紀夫』文藝春秋、1972年。-続編 『伜・三島由紀夫 没後』 (同、1974年)も出版した。
- 平岡梓『伜・三島由紀夫』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 4-16-716204-0。
- ヘンリー・スコット=ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1985年。
- ヘンリー・ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(改訂新版)、清流出版、1998年11月。ISBN 4-916028-52-X。
- 坊城俊民『焔の幻影』角川書店、1972年。 - 若き日の友人の回想。
- 村松剛『三島由紀夫の世界』新潮社、1990年9月。ISBN 4-10-321402-3。
- 村松剛『三島由紀夫の世界』新潮社〈新潮文庫〉、1996年10月。ISBN 4-10-149711-7。
- 梶山季之責任編集「三島由紀夫の無視された家系」『月刊 噂 八月号』第2巻第8号、噂発行所、1972年8月、48-62頁。
- 吉田和明『三島由紀夫』現代書館〈フォー・ビギナーズ・シリーズ 35〉、1985年。ISBN 4-7684-0035-3。
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、pp. 214, 297頁。
主な研究目録・書誌文献
- 『定本三島由紀夫書誌』 島崎博・三島瑶子共編、薔薇十字社、1972年-序文は瑤子夫人
自決直前の三島自身に依頼を受け編まれた。生前までの書誌目録の他に、一部の蔵書目録がある。 - 『資料三島由紀夫』 福島鑄郎 編・著、朝文社、2005年-再訂本、編者は1975年以来、5度改訂刊行した。
- 『三島由紀夫 古本屋の書誌学』 大場啓志、ワイズ出版、1998年-編者は古書店「龍生書林」店主。
- 『三島由紀夫全文献目録』 安藤武編、夏目書房、2000年、※同書房は2007年に倒産
編者は大部の伝記『三島由紀夫の生涯』(夏目書房)、『三島由紀夫「日録」』(未知谷)他がある。 - 『決定版 三島由紀夫全集42.年譜・書誌』 佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、新潮社、2005年
- 編者らは、『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)を始め多数の関連著作を出版。
- 『三島由紀夫研究文献総覧』 山口基編、出版ニュース社、2009年
編者は三島と親しかった古書店「山口書店」店主で、私家版で数度刊行した。
関連項目
- 三島由紀夫賞 - 三島を記念した文学賞
- Mishima: A Life In Four Chapters - 三島を描いた米国映画
- 三嶋大社 - 三嶋大社に因んだペンネームであるという説がある
- 加古川市 - 三島の本籍がしばらく置かれていた市である
- 保守革命
- 二・二六事件
- 志士 - 三島は晩年自らの行動を幕末の志士にならぞえた
- 三島事件
- 磯崎叡 - 日本国有鉄道総裁で三島の従兄