コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

宮城千賀子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
みやぎ ちかこ
宮城 千賀子
宮城 千賀子
1940年代
本名 佐藤ユキ
別名義 東風うらゝ
生年月日 (1922-11-26) 1922年11月26日
没年月日 (1996-08-07) 1996年8月7日(73歳没)
出生地 岩手県盛岡市
職業 女優
配偶者 マキノ真三
所属劇団 宝塚歌劇団
劇団なでしこ
テンプレートを表示

宮城 千賀子(みやぎ ちかこ、1922年(大正11年)11月26日 - 1996年(平成8年)8月7日)は、日本の女優である。第二次世界大戦前に宝塚歌劇団を退団後、映画女優に転向、戦後も「劇団なでしこ」を率いて舞台活動も行い、テレビにも多く出演した。本名佐藤 ユキ(さとう-)、宝塚歌劇団時代は東風 うらゝ(こち うらら)と名乗った。愛称は「ベコちゃん」、「ユキちゃん[1]」。

来歴・人物

[編集]

岩手県盛岡市に生まれる。熊谷尋常高等小学校[2]を卒業後に、1935年(昭和10年)に13歳で宝塚歌劇団に入団(第25期)、「東風うらゝ」の名で男役として活躍した。

1940年(昭和15年)初めに17歳で退団、日活に入社、稲垣浩監督、片岡千恵蔵主演の『宮本武蔵』の「お通」役に抜擢されて華々しくスクリーンデビュー、同作は同年3月31日に公開された。翌1941年(昭和16年)11月26日、同社京都撮影所マキノ正博辻吉郎助監督として働いていた、牧野省三の三男・マキノ真三と恋愛結婚する。1937年(昭和12年)公開の『宮本武蔵 地の巻』(監督・尾崎純)で「お通」を演じた轟夕起子が兄の正博と結婚した前例があり、「お通がふたりマキノ家に嫁いだ」と当時騒がれた[3]

1942年(昭和17年)に木村恵吾監督の大ヒット作『歌ふ狸御殿』を最期に引退して家庭に入る。翌1943年(昭和18年)、21歳で長男・省一を出産する[3]。同年末、実兄マキノ正博のプロデュースで夫のマキノ真三が恩師の辻吉郎とともに監督した『海賊旗吹っ飛ぶ』で映画に復帰するも、「劇団なでしこ」を結成して、舞台劇の地方巡業にいそしむ。

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)6月、夫の真三とともに「マキノ芸能社」を設立、「劇団なでしこ」の活動を基盤に、映画製作も行うが、1948年(昭和23年)10月には解散している[3]1952年(昭和27年)からは映画に多く出演し、翌1953年(昭和28年)の中盤に離婚することになった[3]。その後も多くの映画に出演した。

「落日の決闘」では旅まわりの娘一座の座長の役で坂東好太郎の相手役をつとめたが、これを最後の主演級の作品として、「気のすすまない主役をやるより、わずかな出演場面でもやりたい役をやるほうが自分の気がすむ」と、以後は脇役に徹することを決意[3]

55年、佐野周二らがいたまどかグループに参加し自主作品「花ひらく」などに出演[3]。 56-59年は出演本数も年間七本以内にしぼる[3]。 63年以後はフリーで日活の「波浮の港」に出演したのち、66年2月の日活「河内カルメン」で復帰するも71年東映「不良番長·手八丁口八丁」を最後に映画界を離れた[3]。 65年8月の新宿コマ劇場の村田英雄公演俺は素浪人』で十四年ぶりの舞台出演[3]。 70年代には脳軟化症のため入院するも74年1月には橋幸夫ハワイ公演に参加して再び舞台に出演[3]。 熟年となった1975年(昭和50年)10月に開始したテレビのバラエティ番組『独占!女の60分』では、松竹歌劇団第1期生の水の江瀧子らとともに司会をつとめ、同番組に1987年(昭和62年)3月まで出演をつづけた。

1996年(平成8年)8月7日に急性肺炎のため死去した。73歳没。

エピソード

[編集]

宮城の映画デビューは昭和15年の日活映画『宮本武蔵』の「お通」役からである。武蔵は片岡千恵蔵と決まったが、この「お通」は一般公募となった。600人ほどの応募者から11人ほどが選出され、原作者吉川英治、画家の石井鶴三、監督の稲垣浩が審査したがどれもお通のイメージには程遠く、稲垣はこれを宝塚乙女から選ぶことにした。しかし稲垣はその3年前に尾崎純監督で『宮本武蔵』をプロデュースした際、宝塚歌劇のプリマドンナだったトルコ(轟夕起子)を引き抜いて大事件となっており、よほどうまくことを運ばなければ失敗する恐れがあった。

そこでスパイを放った稲垣は「東風うらゝ」という研究生を知り、宮川一夫キャメラマンと宣伝部長の三人で、ひそかに歌劇を観に行ったが、うらゝを見分けるのは困難で、仕方なくファンを装って大阪のすき焼屋に誘い出し、宮川にいろんな角度から彼女の写真を撮らせた。この写真でうらゝの引き抜きは決定となった。稲垣は「柄は大きかったが、色気もなく、それがお通のイメージにぴったりだった」という。

さて引き抜きとなったが正攻法では無理だろうと、日活の製作部長を叔父に仕立て、「母が危篤だから」と退団を願い出させた。首尾よく東京に着いたところ、歌劇団と新聞記者の尾行に気づき、仕方なく上野駅から仙台行の列車に乗って逃亡。着いたところが宮城県千賀村だったため、芸名を「宮城千賀子」とした。撮影所では「ベコちゃん」の愛称で親しまれた。姉御肌の芸風で知られるが、稲垣は日活へ引き抜いたころのことがどうしても頭を離れず、「おかしくもあり、かわいくもあり・・・」とのちに心情を述べ、宮城を「ひじょうに日本的なやさしい女性である」と語っている[4]

おもなフィルモグラフィ

[編集]

テレビ番組

[編集]

マキノ家

[編集]

関連事項

[編集]

[編集]
  1. ^ 『エスエス』、東宝発行所、1939年6月号
  2. ^ 『エスエス』、東宝発行所、1939年1月号
  3. ^ a b c d e f g h i j 『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社、1980年)の「宮城千賀子」の項(p.666-669)を参照。同項執筆は滝沢一司馬叡三
  4. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

外部リンク

[編集]