西河克己
にしかわ かつみ 西河 克己 | |
---|---|
本名 | 同じ |
生年月日 | 1918年7月1日 |
没年月日 | 2010年4月6日(91歳没) |
出生地 | 日本、鳥取県八頭郡智頭町 |
死没地 | 日本、東京都 |
職業 | 映画監督 |
活動期間 | 1952年 - 2010年 |
配偶者 | あり(1956年 - 2010年死去) |
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督[1]。鳥取県出身[1]。
経歴
[編集]西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。
大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。2本立て映画の1本、いわゆるシスター映画であった。典型的な「大船映画」を数本撮ったあと、1954年(昭和29年)の日活映画製作再開と同時に、日活と監督契約した。山本有三原作による社会派メロドラマ『生きとし生けるもの』(主演:山村聰)を第1作に、日活での初期作としては『東京の人』(主演:月丘夢路)、『美しい庵主さん』(主演:小林旭)などがあるが、当然のように「大船色」が濃く、「日活っぽい」『俺の故郷は大西部』(主演:和田浩治、1960年)は西河作品としては逆に異色である。
「西河克己といえば吉永小百合もの」といわれるくらい、1960年代に入ると『若い人』(主演:石原裕次郎、吉永小百合)、『青い山脈』(主演:吉永小百合)、『伊豆の踊子』(主演:吉永小百合)、『エデンの海』(主演:高橋英樹、和泉雅子)、『帰郷』(主演:吉永小百合)などの作品でその才能を遺憾なく発揮し、日本映画の全盛期を飾った。中でも『伊豆の踊子』、『絶唱』(主演:舟木一夫)はいずれもリメイク作品であるが、ともに前作を大きく上回ってヒットし、西河監督の地位を揺るぎのないものにした、まさに代表作といえる。
日活がロマンポルノ路線に転換する以前、1969年(昭和44年)の『夜の牝 年上の女』(主演:野川由美子)を最後にテレビ界に籍を移す。その後、1974年(昭和49年)の『伊豆の踊子』(主演:山口百恵)のリメイクで映画界に復帰し、山口百恵・三浦友和の共演で『潮騒』(1975年)、『絶唱』(1975年)、『エデンの海』(1976年)のリメイク作品や、『春琴抄』(1976年)、『どんぐりッ子』(主演:森昌子、1976年)を監督した。
しかし、1983年(昭和58年)製作の『スパルタの海』(主演:伊東四朗)は公開直前に、映画の舞台となった戸塚ヨットスクールが暴力事件で死亡事故が起こり、クランクアップ後にお蔵入り。その後、戸塚ヨットスクールを支援する団体が著作権を購入し、2005年(平成17年)9月にビデオ、DVDとして発売される。1984年(昭和59年)の劇画原作『生徒諸君!』(主演:小泉今日子)は動員割れ、1985年(昭和60年)の『ばあじんロード』(主演:松永麗子)は諸処の事情で劇場公開されなかった(後年TBSでテレビ放送。ビデオソフト化もされた)。
松竹から日活に移って、プログラムピクチャーを多く監督した1950年代 - 1960年代は、文芸・アクション・青春ドラマ・歌謡映画・メロドラマと多種多様のジャンルの広さで活躍。テレビ界に進出した1970年代前半を経た後、東宝映画にて映画界に戻り(ただし、東宝配給ではあるが実際の製作は日活)、ホリプロ(元会長:堀威夫)に吉永小百合作品を監督した経験から、山口百恵・三浦友和のゴールデンコンビで『伊豆の踊子』をリメイクする事になる。その後、『潮騒』『絶唱』『エデンの海』のリメイク作品や『春琴抄』を監督。その新鮮さと斬新な監督技法は、日本映画界の中でも歴史に残る作品であり、代表作にリメイク作品が多いというのも特色である。また、60歳を過ぎてからも森昌子、秋吉久美子、小泉今日子、松永麗子、富田靖子らの主演作を製作し、西河作品のスクリーンに「アイドル」を追いかける観客は2つの世代にわたることになった。
幼年時代を過ごした故郷への思い入れは深く、西河作品には鳥取県に関連したものが幾つか含まれる。『絶唱』は原作は松江だが、映画では鳥取砂丘と賀露港、そして智頭町が舞台に脚色されている。また『悲しき別れの歌』(1965年)、『夕笛』(1967年)、『残雪』(1968年)、『ザ・スパイダースのバリ島珍道中』(1968年)などの作品では智頭好夫の名前で脚本を書いている[2][3]。
逸話
[編集]宍戸錠は、2011年に鈴木清順とトークショーを行った際に、「日活に鈴木清順、中平康、齋藤武市を呼んだのは西河さんだった」ことを明らかにしている[4]。
年譜
[編集]- 1918年(大正7年) - 鳥取県八頭郡土師村に生まれる
- 1922年(大正11年) - 上京(東京都大森へ)
- 1936年(昭和11年) - 私立高輪中学校 卒業
- 1939年(昭和14年) - 日本大学藝術学部 卒業。同年12月、松竹大船撮影所 入社
- 1940年(昭和15年)9月 - 出征(東南アジア・中国)
- 1946年(昭和21年)7月 - 復員後、松竹に復職
- 1952年(昭和27年) - 『伊豆の艶歌師』で初監督
- 1954年(昭和29年) - 日活に移籍
- 1956年(昭和31年)3月 - 結婚(1女あり)
- 1969年(昭和44年) - 日活を退社
- 1979年(昭和54年) - 日本大学芸術学部講師
- 1988年(昭和63年) - 日本大学大学院講師
- 1991年(平成3年) - 勲四等瑞宝章受章
- 2010年(平成22年)4月6日 - 肺炎で死去[5]。91歳没
作品
[編集]監督
[編集]- 征戦愛馬譜 暁に祈る(監督補助)
- 天使も夢を見る(助監督)
- 夏子の冒険(助監督)
- 嫁の立場
- 松竹歌劇団「七彩の花吹雪」
- 近江源氏盛綱陣屋の段
- 愉快な仲間 赤ちゃん特急
- 東京の人 前後篇
- しあわせはどこに
- 伊豆の踊子- 自作のリメイク
- ばあじんロード(劇場未公開。テレビで放送)
※「リメイク」とあっても前作映画をリメイクしているとは限らず、2度目、3度目の作品という意味
脚本
[編集]- 牛乳屋フランキー(1956年)
テレビ
[編集]- お嫁さん 第1シリーズ(1966年、フジテレビ)
- 妻と女の間(1969年、毎日放送)
- 愛と死の砂漠(1971年、関西テレビ)
- 女人平家(1971年 - 1972年、朝日放送)
- 水滸伝 第11・12・23回(1973年 - 1974年、日本テレビ開局20周年記念)
- 天下のおやじ(1974年、日本テレビ)
- 野菊の墓(1977年、テレビ朝日「土曜ワイド劇場」)
- この山河に愛ありて(1978年、フジテレビ「ライオン奥様劇場」)
- 下町探偵局 お手伝い志願(1978年、テレビ朝日「土曜ワイド劇場」)
- 続・生きてん母ちゃん(1982年、読売テレビ「木曜ゴールデンドラマ」)
- ばあじんロード(TBS、劇場未公開作品)
著書
[編集]- 『西河克己映画修業』権藤晋共著、ワイズ出版、1993年
- 『「伊豆の踊子」物語』フィルムアート社、1994年
- 『白いカラス 生き残った兵士の記録』光人社、1997年
出典
[編集]- ^ a b 西河克己 allcinema
- ^ "思い出語る関係者 西河克己監督死去 いつまでも愛した、ふるさと智頭" 朝日新聞鳥取版(2010年4月9日付け)
- ^ "青春映画の巨匠 西河克己記念館 鳥取県智頭 「絶唱」の甘い涙を思い出す 宿場町にロケの面影" 中国新聞(2001年12月4日朝刊)
- ^ “「鈴木清順 再起動!」 トークショーは立ち見ファンでいっぱい!”. イベントレポート (2011年11月22日). 2020年1月23日閲覧。
- ^ “「伊豆の踊子」「潮騒」 映画監督・西河克己さん死去”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年4月7日) 2010年4月24日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 西河克己映画記念館 鳥取県智頭町観光協会