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私小説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

私小説(わたくししょうせつ、ししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。

概論

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1907年明治40年)の田山花袋蒲団」を私小説の始まりとする説が有力であるが、平野謙は、1913年大正2年)の近松秋江の「疑惑」と木村荘太の「牽引」を、私小説が確立した時期だとする[1]。これらが多く自己暴露的性質を持っていたのに対し、志賀直哉の『和解』のような作風を「心境小説」と呼ぶ。客観描写ではなく、対象を見た著者の内面を描く事を主眼とした。

実際には白樺派の作品に対する揶揄として1920年代に用いられたのが始まりである。

文学史上では、絵空事のストーリーを楽しむロマン主義を否定する形で生じたリアリズム写実主義)の極北に位置する。空想・虚構(フィクション)の要素を排して、事実を示すことで「真実を描く」という芸術の目的に達しようとした。多くの場合、作者の実体験のみに範囲を限定し、身辺や自分自身のことを語り、客観描写よりも内面描写を主としている。

その呼称から、「私」と一人称で語られるものとする解釈もあるが、三人称のものも多い。私小説の「私(わたくし)」とは「公(おおやけ)」の対語、つまり「プライベートなこと」と解することもできる。小説においては作者と作品の主人公は同一視出来ないとするのが一般的だが、私小説ではしばしば作者本人と同一視され、作者の年譜との比較検討がなされる事もある。破滅型私小説として、花袋、秋江に続く葛西善蔵嘉村礒多太宰治の初期作品、また調和型私小説としては、志賀の弟子筋の瀧井孝作尾崎一雄藤枝静男網野菊などが挙げられる。

批評

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小林秀雄は「私小説論」(1935年刊)で、西洋の「私」は社会化されているが、日本の「私」は社会化されていないとし「私小説は死んだ」と説いた。小林の批評は、戦後も長く影響力を保った。他方、19世紀の西洋における本格小説は通俗的であるという観点から、久米正雄は、私小説のみが純文学であると主張し、この通念も長く文壇を支配した。

私小説批判を展開したのは、戦後の中村光夫[2]福永武彦中村真一郎らであり、彼らはフランスのギュスターヴ・フローベールバルザックなどの“客観小説”を模範とした[3]。しかし、中村光夫は後年私小説を書き、文芸批評でもそれを評価した。

伊藤整は、近代小説の根源に作家本人の告白性があると主張した[4]。一方、平野謙は私小説には調和型と破滅型があるという考えを推し進め、実生活と芸術の二律背反による2つのタイプに分けて論じた[5]

  1. 白樺派に基づいた、自己を掘り下げることと自分の生活を調和させる代わりに制作意欲を減退させた調和型心境小説
  2. 自然主義を範とする、芸術のために私生活を破壊せざるを得なかった破滅型私小説

1960年代以降は、丸谷才一篠田一士らの私小説批判が長く続いたため、1980年前後に村上春樹村上龍が登場してからは、ファンタジー・SF風の純文学が隆盛を迎え、私小説は低調となったが、車谷長吉佐伯一麦、21世紀に至り西村賢太などが現れた。一方、批評家の秋山駿は『私小説という人生』で、小谷野敦は『私小説のすすめ』で、それぞれ再評価ののろしを上げている。

海外においても、イルメラ=日地谷・キルシュネライトは、小林の「私小説論」は論理的に読めないと批判し[6]鈴木登美『語られた自己』は、日本には「私小説言説」があるだけで、私小説がきちんと定義されたことはないと指摘した。実際、夏目漱石の『道草』などは明らかに私小説でありながら、自然主義派ではないという理由で慣例的に否定されてきた。大江健三郎の『個人的な体験』に始まる諸作についても同じことが言える。

「自伝的小説」との区別は曖昧だが、私小説ではない自伝的小説は海外にも見られる。小谷野は鈴木の論を受けて、西洋にもゲーテの『若きウェルテルの悩み』、トルストイの『幼年時代』『少年時代』『青年時代』、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』、マルセル・プルーストアンドレ・ジッドの『一粒の麦もし死なずば』、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』、ヘンリー・ミラーハンス・カロッサのほぼ全作品など、自身の経験に基づいた小説が多いことを挙げて、「私小説は日本独自のもの」との通説に疑問を投げかけている[7]

実際には、自身の体験に基づいた小説を書かない作家は、安部公房や倉橋由美子などごく少数であり[8]、それ以外は大衆小説になっている(『小説「私小説」』の中で、私小説しか認めない老大家を諷刺した筒井康隆にも『騒春』など自身の体験に基づく小説がある)。また三島由紀夫の『仮面の告白[9]やラディゲの『肉体の悪魔』など、のちの研究で自伝的小説と判明した作品もある。

さらに、トーマス・マンブッデンブローク家の人々』や、島崎藤村夜明け前』、北杜夫楡家の人びと』のように自身の家系を描いたものがある。ほかに、村上春樹『風の歌を聴け』を例にとると、この作品は村上の実体験に基づいているとする分析ができて、推理小説、歴史小説、ファンタジー、SFなどを除いていくと、自伝的でない純文学を見出すのはかなり困難になる。

日本の主な作家・作品

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[注]ここでは、単に「自伝的要素が主柱となっているもの」という基準で選別している。表現方法は本来の私小説とはかなり違うものが多い。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『独楽』は随筆と短編小説の境界的な作品[10]

出典

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  1. ^ 平野謙『芸術と実生活』大日本雄弁会講談社、1958年
  2. ^ 『風俗小説論』河出書房、1950年
  3. ^ 小谷野敦『私小説のすすめ』平凡社新書
  4. ^ 『小説の方法』
  5. ^ 『芸術と実生活』
  6. ^ 『私小説-自己暴露の儀式』
  7. ^ 『リアリズムの擁護』『私小説のすすめ』
  8. ^ 小谷野敦『私小説のすすめ』平凡社新書による。ただし、これは小谷野の持論であり、安部や倉橋が体験や経験を素材にしなかったかどうかは、本人に確認するしかない。
  9. ^ 式場隆三郎宛の書簡による
  10. ^ 青海健異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」(愛知女子短期大学 国語国文 1997年3月に掲載)。『三島由紀夫の帰還――青海健評論集』(小沢書店、2000年1月)pp.58-83に所収。