「中山晋平」の版間の差分
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[[1918年]](大正7年)、島村抱月の死去により「芸術座」が解散。[[1919年]](大正8年)[[斎藤佐次郎]]による児童雑誌『[[金の船]]』に[[童謡]]を発表するが、当時はまだ童謡の認知度が低く、教員として唱歌を教えるべき立場を憚って「萱間三平」との変名による発表だった。その後暫く童謡の作曲からは遠ざかるが、代わりに斎藤佐次郎に恩師の[[本居長世]]を紹介している。[[1920年]](大正9年)からは[[野口雨情]]と組んで『金の船』から多くの童謡を発表した。他方、「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、野口雨情や[[西條八十]]、[[北原白秋]]等の作詞による多くの曲を作った。その数は全国で141曲にのぼる<ref>[[信濃教育会]]『信濃教育』947号</ref>。 |
[[1918年]](大正7年)、島村抱月の死去により「芸術座」が解散。[[1919年]](大正8年)[[斎藤佐次郎]]による児童雑誌『[[金の船]]』に[[童謡]]を発表するが、当時はまだ童謡の認知度が低く、教員として唱歌を教えるべき立場を憚って「萱間三平」との変名による発表だった。その後暫く童謡の作曲からは遠ざかるが、代わりに斎藤佐次郎に恩師の[[本居長世]]を紹介している。[[1920年]](大正9年)からは[[野口雨情]]と組んで『金の船』から多くの童謡を発表した。他方、「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、野口雨情や[[西條八十]]、[[北原白秋]]等の作詞による多くの曲を作った。その数は全国で141曲にのぼる<ref>[[信濃教育会]]『信濃教育』947号</ref>。 |
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[[1922年]](大正11年)、千束小学校を退職。[[1928年]](昭和3年)からは[[日本ビクター]]の専属となり、世界的なオペラ歌手[[藤原義江]]、[[佐藤千夜子]]の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。[[1929年]](昭和4年)、西條八十とコンビで作った『[[東京行進曲]]』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録した。この頃(昭和4-5年)ラジオ文化の発展に伴い、作曲した流行歌の楽譜集が「中山晋平作曲全集」として銀座・[[山野楽器]]店から順次発刊され、[[竹久夢二]]の表紙画の人気も手伝い大いに売れる。その後、アルト歌手[[四家文子]]、バリトン歌手[[ |
[[1922年]](大正11年)、千束小学校を退職。[[1928年]](昭和3年)からは[[日本ビクター]]の専属となり、世界的なオペラ歌手[[藤原義江]]、[[佐藤千夜子]]の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。[[1929年]](昭和4年)、西條八十とコンビで作った『[[東京行進曲]]』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録した。この頃(昭和4-5年)ラジオ文化の発展に伴い、作曲した流行歌の楽譜集が「中山晋平作曲全集」として銀座・[[山野楽器]]店から順次発刊され、[[竹久夢二]]の表紙画の人気も手伝い大いに売れる。その後、アルト歌手[[四家文子]]、バリトン歌手[[徳山璉]]、[[藤山一郎]](バリトン歌手・増永丈夫)ら[[東京音楽学校]]の出身の声楽家らがビクターに入社し、中山晋平の作品を歌った。洋楽の手法で日本人の情緒感と原始的郷愁を踏まえた作品を残した。 |
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[[1937年]](昭和12年)、前妻敏子夫人存命中から愛人関係にあった鹿児島出身の元芸妓で歌手の[[新橋喜代三]]と再婚。1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。[[1944年]](昭和19年)、戦局の悪化に伴い[[熱海市|熱海]]の西山町に疎開。同年、[[日本音楽著作権協会]]理事長、[[1948年]](昭和23年)同会長となる。戦後はほとんど曲を作ることが無かった。[[1952年]](昭和27年)1月3日、[[第2回NHK紅白歌合戦]]の審査委員長を務める。 |
[[1937年]](昭和12年)、前妻敏子夫人存命中から愛人関係にあった鹿児島出身の元芸妓で歌手の[[新橋喜代三]]と再婚。1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。[[1944年]](昭和19年)、戦局の悪化に伴い[[熱海市|熱海]]の西山町に疎開。同年、[[日本音楽著作権協会]]理事長、[[1948年]](昭和23年)同会長となる。戦後はほとんど曲を作ることが無かった。[[1952年]](昭和27年)1月3日、[[第2回NHK紅白歌合戦]]の審査委員長を務める。 |
2020年8月25日 (火) 05:11時点における版
中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在する。
一部の作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれている。長調の曲はほとんどが日本固有のヨナ抜き音階で書かれている。また、童謡には「兎のダンス」や「蛙(かはづ)の夜回り」のようなピョンコ節がかなりある。その作品群は独特の曲調から俗に「晋平節」とよばれ親しまれている。
経歴
長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了後、1903年(明治36年)尋常高等小学校の代用教員となる。唱歌が好きで生徒からも唱歌先生と呼ばれた。1905年(明治38年)、故郷での代用教員の職を辞し上京。島村抱月の弟の縁により抱月の書生となる。1908年(明治41年)、東京音楽学校予科入学。1909年(明治42年)、本科のピアノ科に入る。1912年(明治45年)、梁田貞らと東京音楽学校本科卒業。東京都浅草の千束小学校音楽専科教員を務める傍ら作曲を行う。
島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」に参加。1914年(大正3年)トルストイ『復活』公演の劇中歌『カチューシャの唄』を作曲。『カチューシャの唄』は松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。翌年公演したツルゲーネフ『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』も大人気であった。
1917年(大正6年)には北原白秋の詞を得て、トルストイの『贖罪』を戯曲化した『生ける屍』の劇中歌として『さすらいの唄』、『今度生まれたら』(日本における出版法でのレコードの発禁第1号。歌手は松井須磨子。歌詞中の「かわい女子と寢て暮らそ。」の部分が猥褻とみなされた[1])を発表した。
1918年(大正7年)、島村抱月の死去により「芸術座」が解散。1919年(大正8年)斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』に童謡を発表するが、当時はまだ童謡の認知度が低く、教員として唱歌を教えるべき立場を憚って「萱間三平」との変名による発表だった。その後暫く童謡の作曲からは遠ざかるが、代わりに斎藤佐次郎に恩師の本居長世を紹介している。1920年(大正9年)からは野口雨情と組んで『金の船』から多くの童謡を発表した。他方、「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、野口雨情や西條八十、北原白秋等の作詞による多くの曲を作った。その数は全国で141曲にのぼる[2]。
1922年(大正11年)、千束小学校を退職。1928年(昭和3年)からは日本ビクターの専属となり、世界的なオペラ歌手藤原義江、佐藤千夜子の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。1929年(昭和4年)、西條八十とコンビで作った『東京行進曲』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録した。この頃(昭和4-5年)ラジオ文化の発展に伴い、作曲した流行歌の楽譜集が「中山晋平作曲全集」として銀座・山野楽器店から順次発刊され、竹久夢二の表紙画の人気も手伝い大いに売れる。その後、アルト歌手四家文子、バリトン歌手徳山璉、藤山一郎(バリトン歌手・増永丈夫)ら東京音楽学校の出身の声楽家らがビクターに入社し、中山晋平の作品を歌った。洋楽の手法で日本人の情緒感と原始的郷愁を踏まえた作品を残した。
1937年(昭和12年)、前妻敏子夫人存命中から愛人関係にあった鹿児島出身の元芸妓で歌手の新橋喜代三と再婚。1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。1944年(昭和19年)、戦局の悪化に伴い熱海の西山町に疎開。同年、日本音楽著作権協会理事長、1948年(昭和23年)同会長となる。戦後はほとんど曲を作ることが無かった。1952年(昭和27年)1月3日、第2回NHK紅白歌合戦の審査委員長を務める。
同年12月2日に自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で観たが、その翌日に倒れ、30日3時30分、入院先の熱海国立病院で死去。死因は膵臓炎だった。65歳没。死去の際、自ら作曲した「あの町この町」を口ずさんでいたという[3]。
告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、児童合唱団による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。
「鹿児島小原良節」や「酋長の娘」のヒットで知られる芸者歌手、新橋喜代三(中山嘉子)は後妻。
2007年(平成19年)7月、生誕120年を記念して出身地である長野県内の有志が中心となり晋平の数奇な人生を忠実に再現した映画「ララ、歌は流れる-中山晋平物語」(長野映研製作)が作られ、長野市権堂町の映画館「長野松竹相生座」にて約2週間一般公開され、同月、文部科学省選定作品に選定された。
作品
童謡
- 『シャボン玉』
- 『てるてる坊主』
- 『あめふり』
- 『雨降りお月』
- 『証城寺の狸囃子』
- 『こがね虫』
- 『あの町この町』
- 『背くらべ』
- 『鞠と殿様』
- 『砂山』
- 『肩たたき』
- 『赤ちゃん』
- 『あがり目さがり目』
- 『あひるのせんたく』
- 『うぐいすの夢』
- 『兎のダンス』
- 『おみやげ三つ』
- 『蛙の夜廻り』
- 『かくれんぼ』
- 『かじかみ坊主』
- 『かっこどり』
- 『からくり』
- 『蛙の夜まわり』
- 『キューピー・ピーちゃん』
- 『雲のかげ』
- 『げんげ草』
- 『恋の鳥』
- 『木の葉のお舟』
- 『すずめ』
- 『田植』
- 『茶の樹』
- 『手の鳴る方ヘ』
- 『遠眼鏡』
- 『鳥かご』
- 『猫の嫁入り』
- 『ねむの木』
- 『風鈴』
- 『迷い子の小猿』
- 『鞠と殿さま』
- 『夕立』
- 『路地の細路』
流行歌
- 『カチューシャの唄』
- 『ゴンドラの唄』
- 『さすらいの唄』
- 『にくいあん畜生』
- 『船頭小唄』
- 『波浮の港』
- 『酒場の唄』
- 『出船の港』
- 『当世銀座節』
- 『この太陽』
- 『東京行進曲』
- 『銀座の柳』
- 『燃える御神火』
- 『神風だから』
- 『建国音頭』
- 『瑞穂踊り』
- 『紅屋の娘』
- 『鉾をおさめて』
- 『煙草のめのめ』
- 『流れ星』
- 『花園の恋』
新民謡
- 『須坂小唄』
- 『野沢温泉小唄』
- 『望月小唄』
- 『千曲小唄』
- 『大町小唄』
- 『三朝小唄』
- 『東京音頭』
- 『山の唄 守れ権現』
- 『大島おけさ』
- 『天龍下れば』
- 『龍峡小唄』
- 『浅間節』
- 『お諏訪節』
- 『さくら音頭』
- 『下館音頭』
など。およそ3000曲。
記念施設
同名の「中山晋平記念館」が2箇所に存在する。
演じた俳優
脚注
- ^ 永岡書店刊「おもしろ雑学百科」(ISBN 4-5220-1507-0)。レコードの発禁が出版法の対象とされるまでは治安警察法第16条によって禁止していた。
- ^ 信濃教育会『信濃教育』947号
- ^ 小島延介『詩人・野口雨情 ここにて眠る』宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会、2016年1月、7頁。
- ^ 施設案内 中山晋平記念館 - 熱海市
参考文献
- 小林弘忠「金の船」ものがたり ISBN 4-620-10656-9
- 「郷土歴史人物事典 長野」第一法規 1978年