「棋士 (将棋)」の版間の差分
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2020年7月16日 (木) 23:01時点における版
将棋 |
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各年度の将棋界 |
2022 - 2023 - 2024 - 2025 |
棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」・「プロ棋士」ともいい、本将棋を職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟に所属し、棋戦に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「女流棋士」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は(狭義の)棋士ではない。
また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。
沿革
新聞棋戦と日本将棋連盟の誕生
江戸時代以前から素人玄人を問わず一般に将棋を指す者のことを「将棋指し」と言った。その後、大橋家・大橋分家・伊藤家の家元三家が将棋指衆として江戸幕府から扶持を与えられるようになり、将棋で収入を得るプロが確立された。これら家元三家に所属する者を「将棋師」と呼んだ。家元とは独立して在野で賭け将棋(真剣)をして収入を得ていた者もいたが、これらはただの将棋指しとして将棋師とは区別された。
江戸幕府の崩壊により将棋師は後ろ盾を失い、将棋師の系譜に属する者たち(家元の弟子筋の者たち)は、財界の支援者の援助を得たり、他の生業と並行して将棋を指したり、あるいは賭け将棋で生計を立てる真剣師となるなどして活動を続けた。この時代にはこれらの実力者たちを「棋客」などと呼んだ。
明治の中頃から新聞に将棋が掲載されるようになり、新聞社との契約で生計を立てる者が現れた(ほぼ全員が江戸時代の家元の弟子筋に当たる者である)。彼らは将棋団体や将棋専門紙を作り、離合集散を繰り返した。
1924年(大正13年)9月8日、ついに東京の将棋三団体が関根金次郎(十三世名人)の下で合併し、「東京将棋連盟」を結成した。1927年(昭和2年)には関西の将棋団体も合流して「日本将棋連盟」となり、1936年(昭和11年)に「将棋大成会」と改称、1947年(昭和22年)に現在の「日本将棋連盟」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになった。
「棋士」の誕生
将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに棋客に代わって、「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴(十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。
実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の「棋士」がプロの正式名称である。
昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、(囲碁と同じく)「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[2]。
棋士番号
日本将棋連盟では、棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している(将棋棋士一覧 を参照)。
棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日(四段になった日。ただし奨励会制度開始前に棋士になった場合は、初段になった時に「専門棋士開始」であったが、さかのぼって「四段になった時がプロ棋士になった時」として適用している。)が早い順番に、1番の金易二郎(名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。
なお、棋士番号制度導入後に日本将棋連盟を退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っているが、2020年4月1日現在欠番となっているのは、退会した永作芳也に付与されていた139番のみ。
棋士の称号
棋士は一般的に「氏名 段位」の形式で呼ばれる。 ただし、タイトル保持者は「氏名 タイトル名」とタイトル名を称号として用いる。 複数タイトル保持者の場合は、別格タイトルである竜王と名人が優先され(例:竜王と王位を保持する場合は単に「氏名 竜王」となる)、その他のタイトルを複数保持する者についてはその数に応じて「氏名 ○冠」となる。 この他、特別の称号として以下の永世称号・名誉称号等を持つ棋士がいる。
- 名人
- 永世名人(○世名人)…初代大橋宗桂(一世)、二代大橋宗古(二世)、初代伊藤宗看(三世)、五代大橋宗桂(四世)、二代伊藤宗印(五世)、三代大橋宗与(六世)、三代伊藤宗看(七世)、九代大橋宗桂(八世)、六代大橋宗英(九世)、六代伊藤宗看(十世)、八代伊藤宗印(十一世)、小野五平(十二世)、関根金次郎(十三世)、木村義雄(十四世)、大山康晴(十五世)、中原誠(十六世)、谷川浩司(十七世)、森内俊之(十八世)、羽生善治(十九世)
- 実力制名人(実力制第○代名人)[注釈 1]…塚田正夫(第二代)、升田幸三(第四代)
- 名誉名人…小菅剣之助[注釈 2]、土居市太郎[注釈 3]
- 大阪名人(関西名人)[注釈 4]…小林東伯斎、坂田(阪田)三吉
- 贈名人…伊藤看寿[注釈 5]、坂田(阪田)三吉[注釈 6]
- 竜王
- 永世竜王…渡辺明、羽生善治
- 王位
- 永世王位…大山康晴、中原誠、羽生善治
- 王座
- 名誉王座…中原誠、羽生善治
- 棋王
- 永世棋王…羽生善治、渡辺明
- 王将
- 永世王将…大山康晴、羽生善治
- 贈王将…坂田(阪田)三吉[注釈 7]
- 棋聖
- 十段
- 九段[注釈 11]
- その他
- 名誉NHK杯選手権者[注釈 16]…羽生善治
太字は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、現時点で名乗ることのできるもの。 斜体は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、引退後に名乗ることのできるもの。
棋士の序列
- 竜王または名人。竜王と名人が別人の場合、他に保持しているタイトル数が多い方。保持しているタイトル数が同じ場合は、より上位(契約金が多い方)のタイトルを保持している方。他にタイトルを保持していない場合、棋士番号の小さい方が上位。
- タイトル保持者。保持タイトル数の多い方。保持しているタイトル数が同じ場合、より上位のタイトルを保持している方が上位。
- 永世称号資格者。永世称号資格を先に取得した方が上位。
- 上記以外。高段者が上位。同段位の場合、より早くその段位になった者が上位。
なお、以前は「前竜王」「前名人」という称号が存在していた。2と3の間の序列であり、前竜王と前名人が別人の場合、竜王または名人を失ってからの期間が短い方が上位となっていたが、1994年に米長邦雄前名人、佐藤康光前竜王が名乗って以来四半世紀にわたって誰も名乗ることがなく、有名無実化していたため、日本将棋連盟は2019年度をもって廃止することを発表した[3]。
女流棋士と指導棋士
棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、女流棋士と指導棋士もいる(ただし、日本将棋連盟を退会して現役を続けている女流棋士もいる)。女流棋士は棋士とは異なり女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため(狭義の)棋士ではない。
棋士が全員、日本将棋連盟の正会員であるのに対し、従来、女流棋士は正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日の臨時総会で「女流四段以上またはタイトル経験者」という条件付きで女流棋士も正会員とすることが決議された[4]。
指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。かつては段位を「準棋士○段」としていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。
棋士になるための道
棋士になるための現行の制度について解説する。
通常のコース
新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。 奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、入会試験に合格しなければいけない[注釈 17]。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく[注釈 18]。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、所定の成績を収めると、四段に昇段すると同時に棋士(連盟正会員)となる。 6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そのような少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、およそ入会者全体の15%ほどである。
棋士編入試験制度
瀬川晶司のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる道筋が模索された。2014年4月に「プロ編入試験」が制度化された[5]。同試験は、2019年10月に「棋士編入試験[6]」と名称が変更された[7][8]。この制度を利用すれば、アマチュア選手や女流棋士が、奨励会を経ることなく棋士となることが可能である。ただし、奨励会未経験者の中から受験資格を得た者は未だ現れていない(後述)[注釈 19]。下記は、2019年10月30日現在の規定[9]による。受験料は50万円(消費税を含まず)である[5][10]。
- 受験資格
- アマチュアまたは女流棋士であって、棋士の公式戦にアマチュア枠や女流枠から出場し、最も良いところから見て10勝以上、かつその間の勝率が6割5分以上の成績を収めること[5]。「四段以上の連盟正会員[6](=棋士)」の推薦を要する[5]。
- 編入試験
-
- 受験希望者は、受験資格を満たした日から1か月以内に受験を申請しなければならない[5]。試験の内容はプロ棋士との対局5局で、3勝すれば合格となる。試験官となるプロ棋士は、棋士番号の大きい順、すなわち申請受理時点より直近に棋士になった順で選ばれる。申請が受理された月の2か月後から1か月に1局ずつ指され、受験者が3勝または3敗した時点で終了し、以降の対局は行われない[5]。
- 受験者が5対局の中で3勝すれば合格し、4月1日付もしくは10月1日付(いずれか近い日付)で棋士(フリークラスの四段)となる[5]。
- 持時間は3時間。第1局は振り駒で先手番・後手番を決定し、第2局以降は1局ごとに受験者が手番を交代する[5]。
2014年9月、元奨励会三段の今泉健司が7月に竜王戦・朝日杯将棋オープン戦・銀河戦で良い所からみて10勝4敗の勝率7割1分4厘で条件を満たし、第一号として受験[11]。12月8日に編入試験3勝を挙げ、通算3勝1敗で合格を果たした[12]。翌2015年4月1日より、棋士となった。次いで2019年8月に折田翔吾が銀河戦で良い所からみて10勝2敗の勝率8割3分3厘で受験資格を満たし、受験を表明した[13]。2020年2月25日に編入試験3勝を挙げ、通算3勝1敗で合格を果たした[14]。
また、2016年6月に稲葉聡と加來博洋も受験資格を満たしたが、権利を行使しなかった。これまでに編入試験受験資格を得たのは上記の4名である[15]が、全員が奨励会退会者であり、稲葉以外の3名(今泉、加來[16]、折田)、また特例扱いの瀬川についてはいずれも奨励会三段退会者である。
その他
直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。
- 三段編入試験
- 初段受験制度
引退
棋士は自己の意思で引退や日本将棋連盟からの退会ができるが、引退後も退会しなければ、依然として正会員であり、現役棋士との違いは「公式戦を対局する資格を失う」のみである(「引退棋士」「退役棋士」と呼ばれる)。なお、1977年4月1日の棋士番号制度(上述)の制定以後、棋士が連盟を退会した例は永作芳也(1988年退会、当時32歳)1名のみである。
自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。
1. フリークラス編入者の場合
- 1 : フリークラスに編入された棋士(順位戦C級2組からの降格者、もしくは、フリークラス編入試験合格によるプロ昇格者)が次に該当した場合、引退となる。
- ・編入後10年以内または満60歳の誕生日を迎えた年度が終了するまでに順位戦C級2組に上がれなかった場合
- ・または60歳を迎えた後にC級2組から降級した場合
- 2 : ただし、順位戦以外の棋戦で以下の表の成績を挙げた場合は、該当棋戦に限って翌年度も出場できる(2010年7月9日改定)[17]。
棋戦名 次期の同一棋戦参加条件 備考 竜王戦 4組以上在籍
(5組在籍でも2年間は可[注釈 20])王位戦※、王座戦、棋王戦、棋聖戦、王将戦※ 本戦ベスト4以上 ※印の棋戦のベスト4は、
リーグ残留の意。朝日杯、NHK杯戦 本戦ベスト4以上 銀河戦 準優勝以上
2. フリークラス宣言者の場合
- 自らフリークラス宣言をしてフリークラスへ転出した棋士が、転出後、順位戦在籍可能最短年数(転出の時点から仮に順位戦で全て降級・降級点ばかりを続けた場合のC級2組からの陥落までの年数)に15年を加えた年数が過ぎれば引退。または、満65歳の誕生日を迎えた年度が終了すれば引退。なお、フリークラス宣言者の場合は、上記の棋戦ごとの延長措置は適用されない[注釈 22]。
引退の日付
引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日で、テレビ棋戦の場合は対局の放映日である(2010年2月24日改定)[注釈 23][18]。
将棋史上の代表的な棋士
タイトル経験者
下記を参照。
- タイトル獲得記録 - タイトル戦の番勝負に登場した全棋士の獲得回数・登場回数ランキング。
- 将棋のタイトル在位者一覧 - 各年・各タイトルの獲得者を年表形式で記述。
- 将棋のタイトル戦結果一覧 - 上記に加え、スコアと敗者の名前も記載。
歴代の強豪棋士
- 六代大橋宗英 (1756-1809)
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- 九世名人。通称「鬼」。「宗英以前に宗英無く、宗英以後にも宗英無し」と呼ばれ、負けにくい棋風から「近代将棋の祖」とされている。江戸時代後半に活躍。
- 坂田三吉 (1870-1946)
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- 明治から昭和の初期にかけて活動した棋士。贈名人・王将。その生涯が何度も映画化された。
- 関根金次郎 (1868-1946)
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- 十三世名人。明治から昭和の初期にかけて活躍した棋士であり、坂田三吉の最大のライバル。自ら名人位を退き、実力制名人制度を確立した。
- 木村義雄 (1905-1986)
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- 初の実力制名人(通算8期)。十四世名人。通称「常勝将軍」。第二次世界大戦の前後に活躍。
- 升田幸三 (1918-1991)
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- 初の三冠独占者。通算獲得タイトル7期(うち名人2期)。独創的な序盤戦術の開発のことを、自ら「新手一生」と呼称。
- 大山康晴 (1923-1992)
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- 升田から三冠すべてを奪い独占。また、初の四冠・五冠独占者。通算獲得タイトル80期(うち名人18期)。十五世名人。昭和期に長く活躍し、一時代を築く。通算1433勝(歴代2位)。タイトル戦連続19獲得・連続50出場記録、タイトル挑戦(66歳)・順位戦A級維持(69歳)の最年長記録。
- 加藤一二三 (1940-)
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- 通算獲得タイトル8期(うち名人1期)。当時史上最年少となる14歳でのプロ棋士資格。連続昇級による18歳でのA級棋士と20歳での名人戦挑戦(最年少記録)。A級順位戦通算149勝(歴代1位)。62歳のA級在位(歴代2位)。初の1000敗達成。史上初の勤続60年。公式戦の生涯対局数は2505局(歴代1位)。通称「神武以来(じんむこのかた)の天才」。
- 米長邦雄 (1943-2012)
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- 四冠達成。通算獲得タイトル19期(うち名人1期)。永世棋聖。49歳での名人位獲得は史上最年長記録(「50歳名人」)。中原との対局数187局は同一カード対局数1位(百番指しを参照)で、中原・米長時代とも呼ばれた。終盤の粘りから「泥沼流」と名付けられる。
- 中原誠 (1947-)
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- 五冠達成(六冠独占をかけて加藤一二三棋王に挑戦するも、阻まれる)。通算獲得タイトル64期(うち名人15期)。十六世名人。大山から次々とタイトルを奪うなど昭和後期から平成初期に活躍。1967年度には年間勝率.855を記録(歴代1位)。よどみない指し回しは「自然流」と称された。
- 谷川浩司 (1962-)
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- 四冠達成。通算獲得タイトル27期(うち名人5期)。十七世名人の資格を保持。21歳での名人位獲得は史上最年少記録。終盤の鋭い攻めは「光速の寄せ」と呼ばれる。
- 羽生善治 (1970-)
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- ともに初となるタイトル七冠独占、永世七冠および名誉NHK杯選手権者資格の保持者。通算獲得タイトル99期(歴代1位、うち名人9期)。27年連続タイトル保持(歴代1位)。王座で同一タイトル獲得・連覇記録(19連覇を含む通算24期)。NHK杯で4連覇を含む11回優勝。通算勝利数歴代1位の1434勝達成(更新中)。平成期に活躍する「羽生世代」の第一人者。
- 佐藤康光 (1969-)
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- 通算獲得タイトル13期(うち名人2期)。永世棋聖資格者。読みの深さは「1秒間に1億と3手読む」と称されている。
- 森内俊之 (1970-)
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- 通算獲得タイトル12期(うち名人8期)。十八世名人資格者。名人戦で幾度となく羽生と激闘を繰り広げた。堅い指し筋から「鉄板流」と呼ばれる。
- 渡辺明 (1984-)
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- 永世竜王・永世棋王資格者。20歳で竜王を獲得し9連覇。通算獲得タイトル25期。
- 豊島将之 (1990-)
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- 史上9人目の三冠達成。史上4人目の「竜王・名人」。「序盤、中盤、終盤、隙がない」と評されるオールラウンドプレーヤー。
著名なアマチュア
- 小池重明 (1947-1992)
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- 第34・35回全日本アマチュア名人戦のアマ名人。第6回読売アマ実力日本一優勝。「新宿の殺し屋」「プロ殺し」の異名を持つ。
中学生棋士
2020年現在、中学生棋士(中学生で四段への昇段を決めた棋士[19])は以下の5人である[20][19][注釈 24]。
- 加藤一二三(1954年、14歳7ヶ月)
- 谷川浩司(1976年、14歳8ヶ月)
- 羽生善治(1985年、15歳2ヶ月)
- 渡辺明(2000年、15歳11ヶ月)
- 藤井聡太(2016年、14歳2ヶ月、史上最年少)
上記のうち、谷川と藤井は中学2年であった(加藤は早生まれのため中学3年であった)。藤井は中学在学中に公式戦歴代記録を更新する29連勝を達成。段位も六段まで昇段し、全棋士参加棋戦で優勝を果たした[21]。また、5人ともタイトル獲得を経験しており、藤井は史上最年少17歳11ヶ月でタイトルを獲得している。
上記の5人に続く記録として、16歳での四段昇段棋士を下記に挙げる。データから見ても、早熟な棋士は優秀な者が多い傾向にある。
- 6. 佐々木勇気(16歳1ヶ月)
- 7. 塚田泰明(16歳3ヶ月)(順位戦A級在籍経験・王座獲得経験あり)
- 8. 阿部光瑠(16歳5ヶ月)
- 9. 森内俊之(16歳7ヶ月)(十八世名人資格保持)
- 10. 屋敷伸之(16歳8ヶ月)(順位戦A級在籍経験・棋聖獲得経験あり。プロデビュー最速1年10ヶ月の18歳6ヶ月でタイトル獲得)
- 11. 大山康晴(16歳9ヶ月)(十五世名人)
- 12. 増田康宏(16歳10ヶ月)
- 13. 豊島将之(16歳11ヶ月)(竜王・名人)
アマチュアおよびコンピュータとの棋力差
アマチュアとプロの棋力差
日本将棋連盟は、プロ養成棋士機関の新進棋士奨励会の最下位に属する6級が、アマチュアの全国大会に県代表として出場できるアマチュア三〜四段と同程度の実力という見解を示しており[22]、これが伝統的なプロとアマの棋力差の指標となってきた。
昭和には花村元司や小池重明など、奨励会を経ずにプロ入りが認められた、また検討されたレベルのアマチュアも稀に出現したが、プロがアマチュアに負けることは大きな屈辱であると見なされていた。しかし平成に入るとアマチュアのレベルもあがり、アマ最強豪が公式棋戦でプロに勝つケースも増え、奨励会で三段まで上ったもののプロ入りが果たせなかった瀬川晶司は、アマチュアとしての活躍によりプロ公式棋戦に参加して優秀な成績をあげ、プロ編入試験受験の資格を得てプロになった。
アマチュア選手プロ編入問題
2005年2月28日、アマチュア選手強豪の瀬川晶司が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に奨励会の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、銀河戦で当時A級八段の久保利明らを破るなど、対プロ戦で勝率7割を超える戦績をあげていた。
この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。
過去にアマチュアのプロ編入は、1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験しておらず、奨励会退会者のプロ編入は前例がなかった。
2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川のフリークラス編入試験を実施することに決定した。6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった[23]。またその後、前述の通りプロ編入制度が制定された。
2014年12月8日に、今泉健司が3勝(1敗)した事で、制度制定後初の合格者が誕生した[12]。
コンピュータとプロの棋力差
コンピュータ将棋は2013年以降プロ棋士相手に9割を超える勝率を誇っている。橋本崇載は飯田弘之らが開発したTACOSと2005年に、渡辺明(当時竜王)は保木邦仁が開発したBonanzaと2007年にそれぞれ対戦し、いずれも接戦ではあったがプロ棋士側が勝利した。そして2013年にはプロ棋士5人と第22回世界コンピュータ将棋選手権において優秀な成績を残した5つのソフトが団体戦を戦う第2回将棋電王戦が開催され、その第2局に登場した佐藤慎一四段がponanzaと対戦し、現役プロ棋士としては初の敗北を喫した。そして最終第5局ではA級棋士である三浦弘行八段が選手権1位であったGPS将棋に敗北し話題となった。この第2回将棋電王戦はプロ棋士側の1勝3敗1分であった。
それ以前の対局では、厳密な意味でのプロ棋士ではないものの、広義の棋士が公式戦でコンピュータ相手に敗れた例は存在する。女流棋士の清水市代は2010年にあから2010(4つのソフトの多数決方式)に敗れている。また、プロ引退後の米長邦雄永世棋聖も2012年1月に(第1回)将棋電王戦としてボンクラーズと対戦、中盤のミスでコンピュータに敗れている。
脚注
注釈
- ^ 実力制名人3期以上(もしくは抜群の成績で2期)で永世名人以外(すなわち5期未満)の70歳以上の引退棋士に贈られる称号である。したがって、実力制名人を獲得した者全員に贈られるわけではない。
- ^ 一時名人に推挙されるも当時専業棋士でなかったため辞退。後に棋界統一に貢献したことで名誉名人を贈られた。
- ^ 関根名人在位時には関根を凌ぐ実力者であり、次期名人と目されていた。しかし、関根が実力名人制を導入したことにより、すでに全盛期を過ぎていた土居は名人になれず、名誉名人を贈られた。
- ^ 江戸時代の家元制が崩壊してから日本将棋連盟が棋界の統一を終えるまでの間、現在の将棋連盟とは独立して活動していた関西の棋士が名乗った称号である。現在の日本将棋連盟は認めていない。
- ^ 次期名人に内定し、先代の兄・三代伊藤宗看の養子となっていたが、兄より先に没したため、特例として没後に追贈された。
- ^ 大阪名人を名乗ったことが東京側から名人僭称とみなされて追放されていたが、後に和解。没後に名人が追贈された。
- ^ 北条秀司の戯曲『王将』などで親しまれ、没後に追贈された。
- ^ 圧倒的な棋力から棋聖と呼ばれた江戸時代の棋士であり、十三世名人の関根金次郎によって公式に称号が追贈された。現在の棋聖戦は天野の称号に由来する。しかし、何らかの理由により現在の日本将棋連盟では天野の称号としてこれを使用していない。
- ^ 塚田は九段戦3連覇の実績によって永世九段となり、没後に名誉十段が追贈された。
- ^ 初代大橋宗桂が徳川家康から将棋所(名人)に任ぜられて400年の節目を記念し、日本将棋連盟から追贈された。なお、段位としての十段であるとされる。
- ^ タイトルとしての九段と段位としての九段は明確に区別されてはおらず、称号も段位に準じて扱われる。
- ^ 永世九段の資格に基づいて九段を名乗ったが一般に段位として扱われている。
- ^ 永世九段の資格を得た時点で段位がすでに九段であり、両者はことさら区別されてはいなかったので、日本将棋連盟で段位とは別に永世九段として扱われたことはない。
- ^ 一般的には、タイトル戦の九段戦とは関係なく、段位としての九段の名誉称号とされている。
- ^ 金が名誉九段になった時点では段位制度が八段までしかなく、九段と言えばタイトル戦の九段戦であった。したがって、タイトル称号としての名誉九段として与えられた可能性がある。しかし、いずれにしてもタイトルとしての九段と段位としての九段はほとんど区別されていなかったため、現在では段位とみなされている。
- ^ 一般棋戦NHK杯でのみ使われる称号である。
- ^ 後に名人となった丸山忠久でも、奨励会の入会試験で2度落ちている。
- ^ 奨励会の段級位は、成績不振の場合には降級・降段することもある。
- ^ 日本将棋連盟では他に、1944年に六番勝負の編入試験で3勝3敗を挙げて編入した花村元司をアマチュアからの編入者として扱っている。花村は真剣師(賭け将棋)からの転向で、編入試験もこの時は特例で、制度化はしなかった。花村は現在の所、奨励会を経ることなくプロ入りした最後の例となっている。
- ^ フリークラスに在籍できる最終年度の時点で5組に在籍し、かつ、当期竜王戦で6組に降級しないことが、翌期以降の出場条件である。
- ^ なお、第33期竜王戦では、藤倉と同様に桐山清澄も5組在籍維持の特例で竜王戦のみの現役続行となっている。
- ^ 具体例として、2011年度以降にフリークラス宣言をして、2014年度の各棋戦の最終対局をもって引退が決まっていた淡路仁茂は、竜王戦で5組に在籍した状態で現役最終年度を終え、当年度も5組残留相当の成績を修めたものの、翌年度の竜王戦には出場できずに全公式戦を引退となった。尚、淡路はこの規定により、2014年度の最終対局(第28期竜王戦5組残留決定戦・対森雞二)が、勝敗結果にかかわらず現役最終局となり、当該対局に勝利した事で、現役最後の対局を白星で飾るという将棋界では珍しい記録を残した。
- ^ 改定前は、引退が決まった年度の末日(3月31日)とされていた。この規定改定は、引退間際に翌年度のNHK杯戦の予選を通過した有吉道夫の引退予定変更とともに発表された。小阪昇は、この改定により、引退日が2010年7月14日まで延びた。
- ^ 戦後に四段に昇段し、日本将棋連盟に確実なデータがある棋士を対象としている[20]。
出典
- ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
- ^ 加藤治郎、原田泰夫、田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220
- ^ “将棋の「前竜王」や「前名人」の肩書廃止…20年以上、誰も名乗らず : 竜王戦 : 囲碁・将棋 : ニュース”. 読売新聞オンライン (2020年2月18日). 2020年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月18日閲覧。
- ^ 臨時総会について日本将棋連盟 2010年11月12日
- ^ a b c d e f g h “プロ編入試験についてのお知らせ”. 日本将棋連盟. 2020年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月30日閲覧。
- ^ a b “アマチュアの折田翔吾さん、棋士編入試験受験へ”. 日本将棋連盟. 2020年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月30日閲覧。
- ^ 「▲将棋△」『産経新聞』(東京本社)2019年11月11日付朝刊、12版、5面、囲碁・将棋欄。
- ^ 朝日新聞将棋取材班 (2019年10月28日). “ツイート”. Twitter. 2020年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月30日閲覧。
- ^ “アマチュアの折田翔吾さん、棋士編入試験受験へ 【試験日追加決定】|将棋ニュース|日本将棋連盟”. www.shogi.or.jp. 2020年1月30日閲覧。
- ^ “アゲアゲ将棋ユーチューバー、五番勝負でプロに挑戦”. 朝日新聞. 2020年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月30日閲覧。
- ^ アマチュアの今泉健司さん、プロ編入試験受験へ日本将棋連盟 2014年7月24日
- ^ a b 今泉健司氏、プロ合格日本将棋連盟 2014年12月8日
- ^ プロ編入試験の資格獲得=大阪の折田翔吾アマ-将棋 - 時事通信社 2019年8月30日
- ^ “将棋ユーチューバー折田さんプロ入り「信じられない」 ”. www.asahi.com. 朝日新聞. 2020年2月25日閲覧。
- ^ 将棋の折田翔吾アマ、プロ編入受験へ - 2019年9月7日閲覧。「日本将棋連盟によると受験資格を得たのは4人目」(斜体は引用者)
- ^ 「第67回全日本アマチュア将棋名人戦」全国大会【開催報告】 - 2019年9月7日閲覧。「第67代アマ名人となった加來博洋さん。奨励会の元三段で、(後略)」(斜体、省略は引用者)
- ^ フリークラス棋士の引退について日本将棋連盟 2010年07月14日
- ^ 引退規定の変更について日本将棋連盟 2010年02月25日
- ^ a b “将棋:14歳のプロ棋士誕生 最年少記録62年ぶり更新 - 毎日新聞” (日本語). 毎日新聞. (2016年9月3日). オリジナルの2018年1月27日時点におけるアーカイブ。 2018年4月11日閲覧。
- ^ a b 「新四段誕生のお知らせ *藤井聡太(史上最年少四段)・大橋貴洸」『日本将棋連盟』2016年9月3日。オリジナルの2017年3月12日時点におけるアーカイブ。2018年4月11日閲覧。
- ^ “【将棋】藤井聡太五段が中学生初の棋戦優勝 朝日杯オープン、六段に昇段” (日本語). 産経新聞. (2018年2月17日). オリジナルの2018年2月19日時点におけるアーカイブ。 2018年4月11日閲覧。
- ^ 段・級に関するご質問日本将棋連盟
- ^ 瀬川晶司氏のプロ入りについて日本将棋連盟