コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「石原慎太郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
59行目: 59行目:
|退任理由6 = [[第33回衆議院議員総選挙]]に立候補したため自動失職
|退任理由6 = [[第33回衆議院議員総選挙]]に立候補したため自動失職
}}
}}
'''石原 慎太郎'''(いしはら しんたろう、[[字体#旧字体|旧字体]]:'''石原 愼太郎'''、[[1932年]][[930日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]、[[小説家]]。[[東京都知事]](第14・15・16代)。[[政党]]「[[たちあがれ日本]]」応援者。
'''石原 慎太郎'''(いしはら しんたろう、[[字体#旧字体|旧字体]]:'''石原 愼太郎'''、{{Jdate|1932|9|30}} - )は、[[日本]]の[[政治家]]、[[小説家]]。[[東京都知事]](第14・15・16代)。[[政党]]「[[たちあがれ日本]]」応援者。


[[参議院議員]](1期)、[[衆議院議員]](8期)、[[環境大臣|環境庁長官]]([[福田赳夫内閣|第8代]])、[[運輸大臣]]([[竹下内閣|第59代]])を歴任。
[[参議院議員]](1期)、[[衆議院議員]](8期)、[[環境大臣|環境庁長官]]([[福田赳夫内閣|第8代]])、[[運輸大臣]]([[竹下内閣|第59代]])を歴任。

2011年4月6日 (水) 17:49時点における版

石原慎太郎
いしはら しんたろう
石原 慎太郎(2006年)
生年月日 (1932-09-30) 1932年9月30日(92歳)
出生地 日本の旗 日本兵庫県神戸市須磨区
出身校 一橋大学
所属政党自由民主党→)
無所属→)
(自由民主党→)
無所属
配偶者 妻・石原典子
親族 長男・石原伸晃
次男・石原良純
三男・石原宏高
四男・石原延啓
公式サイト 宣戦布告

東京都の旗 第14・15・16代東京都知事
当選回数 3回
在任期間 1999年4月23日 - 現職

日本の旗 第59代運輸大臣
内閣 竹下内閣
在任期間 1987年11月6日 - 1988年12月27日

内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年11月28日

選挙区 東京都第2区
当選回数 8回
在任期間 1972年12月 - 1995年4月

その他の職歴
日本の旗 参議院議員
1968年7月8日 - 1972年11月25日
テンプレートを表示

石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎1932年昭和7年)9月30日 - )とは、日本政治家小説家東京都知事(第14・15・16代)。政党たちあがれ日本」応援者。

参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、環境庁長官第8代)、運輸大臣第59代)を歴任。

俳優石原裕次郎は実弟。家族は妻と息子4人(この他に愛人との間に産まれた子がおり認知している[1])。政治家の石原伸晃は長男、タレント石原良純は次男、政治家の石原宏高は三男、画家石原延啓は四男。

概要

三島由紀夫と。奥にいるのが石原。1956年千代田区紀尾井町文春ビルにて

兵庫県神戸市須磨区生まれ[2]湘南高等学校一橋大学法学部卒業[3]

敗戦を迎え、学制改革により新制湘南高校へ進学[4]。教師は民主主義を説き、東大に進み「国の役人」になることを強要し始めた。その際、校長は生徒を集めて得意気に当時の大蔵省理財局長を紹介した。石原はその現実を目の当たりにして、それをきっかけに学校離れも進んでいった。そして高校を1年間休学。その頃石原をとらえて離さなかったものは、サンボリズムの詩やシュールレアリズムの絵であった。石原は絵を描き、芝居やオペラを観、真昼間から映画鑑賞に耽り、フランス文学が好きという理由からフランス語の勉強をした。[5]

一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。

ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年参議院議員選挙全国区から出馬し初当選。1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選し、以後連続8回当選。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬し落選。その後1976年福田赳夫内閣環境庁長官を、1987年竹下内閣運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如辞職を表明して衆議院議員を辞職。

1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一鳩山邦夫明石康柿澤弘治といった有力候補がひしめく中、当選する。2003年東京都知事選挙では、樋口恵子若林義春らを破り、史上最高の得票率で再選された。2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。

都知事就任以降、毎年8月15日靖国神社へ参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞エッセイ『日本よ』を連載している。

2006年(平成18年)5月27日、東大生が選ぶ平成日本の教養人ランキングにて5位であった[6]

趣味ヨットテニススキューバダイビング射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座

略年譜

9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県長浜町に生まれ、旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校)を中退し山下汽船に入社した。店童(てんどう)あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社重役にまで出世した[7]。母・光子は広島県厳島の出身[8][9]。なお石原自身は神奈川県を出身地としている[10]
12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
6月 - 父が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。
2月 - 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸[11]
4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間休学[12]。休学中は文学美術演劇音楽映画に耽溺し、フランス語を学習。
10月 - 父が脳溢血で急死。山下近海汽船社長二神範蔵から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる[13]
4月 - 一橋大学法学部に入学[14]。柔道部、サッカー部に入部する。簿記会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する[15]
12月 - 当時18歳だった石田由美子(後に典子と改名)と結婚
1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部卒業学位法学士。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会(通称、映倫)が作られる契機となった[16]
4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 東宝で映画「若い獣」の監督を務める。また、大江健三郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
1月15日 - 二男・良純が誕生。
3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 四男・延啓が誕生。
- 読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。取材時に南ベトナム軍に勧められ、迫撃砲を敵地に向けて撃ちこむ。不明ではあるが死傷者が出た可能性もあり。同時期にジャーナリストが北ベトナム側に取材に入っていた。
7月 - 第8回参議院議員通常選挙自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
11月25日 - 参議院議員を辞職。
12月10日 - 衆議院選挙旧東京2区から無所属で出馬して当選。後に自民党に復党。
7月 - 渡辺美智雄中川一郎浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
3月18日 - 衆議院議員を辞職。
4月13日 - 現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
12月5日- 衆院選で国政に復帰。同月24日発足の福田赳夫内閣環境庁長官に就任。
- 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 自由民主党の派閥自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ。黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。
7月17日 - 弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去(52歳)。
11月6日 - 竹下内閣運輸大臣に就任。
4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる[17]
8月8日 - 亀井静香らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す河本派海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
4月14日 - 国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
- 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫舛添要一明石康柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
11月17~21日 - 「弟」テレビドラマ化。
4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎吉田万三黒川紀章らを破り3選。

学生時代

太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」と題し、9ページもの大特集を組んだ『サンデー毎日』(1956年9月9日号)もその一つだった。この記事の中に、湘南高校時代の慎太郎の左翼活動に関する一節がある。

慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた1948年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている[18]

慎太郎は後にこの点について、『芸術生活』編集長の御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている[19]

石原 慎太郎
(いしはら しんたろう)
職業 作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1955年 -
ジャンル 小説評論エッセイ
主題 不可知なもの、暴力、生と死
文学活動 怒れる若者たち
代表作 『太陽の季節』(1955年)
『化石の森』(1970年)
『弟』(1996年)
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1956年)
芸術選奨(1971年)
平林たい子文学賞(1988年)
毎日出版文化賞特別賞(1996年)
デビュー作 太陽の季節(1955年)
芥川賞選考委員
テンプレートを表示

作家として

一橋大学在学中、弟・裕次郎の放蕩生活に着想を得た『太陽の季節』を発表し、第34回芥川賞を受賞。その後『処刑の部屋』(映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。

政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。1970年に書下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外でも『スパルタ教育』(1969年、70万部)『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)『老いてこそ人生』(2002年、82万部)などのベストセラーを刊行している。

1995年より芥川賞選考委員を務めているが、辛口の批評が多い。石原が推して受賞した者に町田康青来有一中村文則青山七恵などがいる。また1995年から2000年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。

映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。

東京都知事として

石原慎太郎(2009年8月28日)

財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉教育及び学術研究予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京(石原銀行とも)の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とし、オリンピック誘致をテコにした大型開発拡大の姿勢を強めている。

特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。

また、日本の警察官の増員、警察官僚竹花豊副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した[20]

2007年には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想(山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す)を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。

主要な政策

新銀行東京

2003年、東京都が石原の発案で「東京発金融改革」と銘打ち、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を理念として設立した。“石原銀行”とも呼ばれている。

2008年3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している事から、「消えた1000億円問題」と言われている[21]。さらに、2005年4月から2008年1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が回収見込みの立たない不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針を示したが、石原に好意的な『産経新聞』や『読売新聞』も社説で銀行廃止を求めたほか、与党自民党も含め都議会も増資に反対した。石原は2008年1月11日の都議会で「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」との追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張した。

世論調査では都民の7割以上が反対していたが、石原は「都民が議会以上のことを知っているわけないんでね」として400億円の税金投入による銀行再建を都議会で自民、公明両党の賛成多数で可決させた。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した 855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが2009年6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣への賠償請求を都に求める住民訴訟を起こしている。

石原は、新銀行東京が2009年5月に発表した2009年3月期決算において同行の赤字が再建計画より少ない金額に留まったことについて、「いい成り行きをみせており、とてもうれしい。早く単黒(単年度黒字)を出すようになってもらいたい」と述べている[22]

都立高校改革

1967年の学校群制度導入以来、東京大学を始めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでいた都立高等学校に対して、2001年に横山洋吉教育長(のち東京都副知事)により「進学指導重点校」が設けられた。第一号に日比谷西戸山八王子東が指定される。これにより「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校の特色化を打ち出す中で、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年には第二号として国立立川青山が追加された。2003年には学区制度を完全撤廃、2005年には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年には10校まで増える予定である(桜修館小石川白鴎両国富士大泉南多摩北多摩武蔵三鷹)。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿駒場小山台国分寺町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校ごとの特色化を推進。また、需要の少なくなった定時制や職業科の廃統合も行った。

福祉改革

「何が贅沢かといえば、まず福祉」[23]の主張に基づき、石原都知事主導で「福祉改革」(社会保障費の削減・合理化)が行われた。1999年から2004年までに以下の政策により福祉予算を661億円削減した[24]

  • シルバーパス(敬老パス)の全面有料化
  • 寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
  • 障害者医療費助成の対象を縮小
  • 特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円(85%)削減
  • 難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
  • 盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止

石原の主導で、「利用者指向の『開かれた福祉』」を目的として下記のとおり「東京都福祉改革推進プラン」が行なわれている[25]

  1. 利用者が「選択」するために必要なサービスの質と量の確保
  2. 安心して「選択」できるためのしくみづくり
  3. 利用者指向のサービス実現のための「競い合い」の促進
  4. 「地域」の力と特性を活かした身近なサービスの提供
  5. 社会の変化に合わせた一歩先の福祉を構想

平成18年度の東京都の福祉保険局予算は7,114億5,200万円となり、東京都予算(一般会計総額6兆1,720億円)全体に占める割合は11.5%となっている[26]

米軍基地返還

米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地(赤坂プレスセンター、ハーディバラックス)が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求している。

外形標準課税

一定規模以上(資金量の残高が5兆円以上)の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した(いわゆる銀行税)。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1~4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。

敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829 億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。

カジノ構想

税収を増やすためにお台場カジノ構想を提案していたが、現行の法律ではそれができず、実施には国会による法改正を必要とするので実現見通しが立たず2003年に正式に断念を発表(現在の日本においては、公営競技宝くじスポーツ振興くじ等別途法令で指定された以外の賭け事は全て、賭博開帳図利罪に問われるギャンブルである)。このお台場カジノ構想に関しては、2003年に公開された映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』にてそれらしきものが描写されている。また「千里眼/マジシャンの少女」 (小学館文庫) [文庫]ISBN:978-4094032604松岡圭祐 (著) でもお台場カジノ構想をテーマにした物語が描かれている。

「後楽園競輪」復活構想

上述のカジノ構想断念を受け新たな税収源を求めるべく、2003年6月、東京ドームの地下に現在未使用である競輪用走路が収納されており、また同地の前身が後楽園競輪場であった背景も踏まえ、「後楽園競輪」復活構想を掲げた[27]。その後、三宅島災害復興支援を名目に、都議会にも議案を諮ったが、同地の所在地である文京区の住民の反対運動に後押しされた、当時の同区区長・煙山力が早速反対の姿勢を表明したばかりか、都議会議員の多くが消極的な姿勢に終始したこともあって難航。加えて、競輪復活計画のまとめ役を務めていた当時の副知事・浜渦武生問責決議により、同職を辞することになったため、この時点で事実上頓挫した。

首都大学東京

「全く新しい大学をつくる」と公約、東京都立大学の改編により2005年に設立された大学である。

一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった[28]。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が他の大学へ移籍した。また、都立大法科大学院の入試が延期され、近代経済学グループ16名中15名が大学を去り経済学コースが設置できなくなり、採択された21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上するなど問題が発生した[29]

石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して(COEの)金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している[30]

ディーゼル車排ガス規制

青島都政の政策を引き継ぎ、かねてより環境研究者に指摘されてきた、国の自動車排出ガス規制での対応では不足となっていた東京都の自動車排ガス公害の深刻さに対応するため、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行い、2000年には、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例(通称: 環境確保条例)を制定し、粒子状物質排出基準を超えるディーゼル車の、新車登録7年経過後の走行を禁止した(条例第37条、第38条)。この条例については、違法な上乗せ条例であるとの見解や、地域的な特殊性を考慮した適法な条例であるとの見解がある[31]。東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が、1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せたパフォーマンスは、環境省始め国による環境規制の強化を促したとされる[32]。しかし、国は自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法などで窒素酸化物の排出量がガソリン車の10倍であるディーゼル車からガソリン車への転換を図る政策をとっているが[33]、それに乗じCO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは地球温暖化対策に逆行するという見方もある[34]

関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅にも注力している。

羽田空港再拡張事業

2010年10月に完成・供用が開始された東京国際空港の四本目の滑走路(D滑走路)は、親友の亀井静香政調会長時代に、石原と亀井とで計り、当時の運輸省をほとんど脅して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだもの[35][36]

臨海副都心開発

鈴木都政下で開始されたお台場臨海副都心開発計画は多額の負債を出して赤字となっているが、石原は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター3 社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらに都によるビルの借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円 (2006年まで)を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。

2006年5月12日には第三セクター3社(東京テレポートセンター東京臨海副都心建設竹芝地域開発)が財政破綻し、最終的な負債総額は3668億円と確定した。

首都機能移転に反対

首都機能移転には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している[37]。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には、石原の意向により首都という言葉が組み込んだ「首都大学東京」が採用された。2001年11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は(同決議の際に)起立していた」と指摘された[38]。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した[39]

東京オリンピック構想

2016年夏季オリンピック東京都での開催を目指し、招致活動を進めた。2006年8月30日には国内候補地選定委員会において福岡市を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、その後3年間でさらに3000億円積み立てると表明した。

「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げた[40]

開催都市が決定する2009年10月2日に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任を取らなきゃいかんでしょうね」と発言している[41]

2008年6月には皇太子徳仁親王に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。宮内庁東宮職から「招致活動の段階からというのは…」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた[42]。この発言は都議会民主党に7月、「64年東京、72年札幌、98年長野、いずれの招致にも皇族は関与していない。“一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、“皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない”なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている[43]

また、瑞穂町議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言した[44]

なお、2016年夏季オリンピックは、2009年10月のIOC総会でリオデジャネイロにて開催される事が決定した。この結果に対して6日、「ブラジルの大統領が、聞くところ、アフリカの人にかなり思い切った約束をしたというようです。 サルコジ大統領もフランスの戦闘機を買ってくれるなら、ブラジルを支持するとか」と裏工作の存在を臭わせる発言を行ない[45]、ブラジルの国内委員会から“聞き捨てならない。ルール違反でありIOCに通知する”とクレームを表明された[46]が、石原は「本当の事を言ったまでのことだけ」と反論している[47]

石原は2009年11月9日2020年夏季オリンピックにも東京都を再度立候補させる意向を表明した[48]

三宅島オートバイレース大会

石原は2000年に発生した三宅島火山噴火による観光客減少への対策として、イギリスマン島で行われているマン島TTレースを参考に、日本初となる一般道路を使用した本格的なオートバイレースを三宅島で開催することを提唱した。レースは東京都三宅村が主催し、2007年11月9日から11月11日に開催が予定されていたが、「公道でスピードを競うのは危険すぎる」との意見が本田技研工業など二輪大手4社から続出し、中止が決定した。都は、専門家による検討経費などに4000万円、都道改修に3億円を2007年度予算に計上していた。結局、三宅村では代替イベントとしてチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルを開催することを発表している。

東京都が2006年に三宅島で実施したテスト走行に参加したプロレーサー3人のうち2人が報告書で危険性を指摘し、公道レースの開催に反対を表明していることが2007年2月23日の都議会で明らかになっており、バイクレースの専門家からも「殺人レースだ。絶対にやめるべし」と批判されていることに対し、石原は「レースは危険があるからエキサイトする。ある程度ライダーの自己責任もある」として同レースを強行する姿勢を示していた[49]。また、『朝日新聞』は「三宅島は現在も火山ガスが噴出しており航空路は再開していないため、観光客誘致の起爆剤となるのかは未知数」と報じた[50]。石原は観光客や機材の輸送には海路を用いる考えを示していた[51]

築地市場移転計画

石原は、中央区築地にある築地市場を、施設の老朽化やアスベスト問題のため、2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしているが、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物(ヒ素六価クロムシアン水銀ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である)が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。一部の関係者は「生鮮食品を扱う市場の移転先としては論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって移転反対運動を行っている。

石原は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」と述べて、移転計画に変更は無いとし、移転後の跡地には「2016年東京オリンピック」のメディアセンターを建設する構想を明らかにしている[52]

また、石原は2006年9月8日の定例記者会見において築地市場跡地に「NHKが移転する」と発言したが、NHKは「そんな計画はない」と否定している[53]

2007年10月6日には、東京都は移転予定の豊洲において調査した56カ所のうち14カ所で有害物質のベンゼンが基準値の1000倍の値で検出されたと発表した[54]

参議院議員宿舎建て替えに反対表明

都心部である千代田区紀尾井町に残るわずかな緑の空間を候補地にした、参議院による新清水谷議員宿舎建て替えに反対を表明した。宿舎立て替えは2010年現在まで着工には至っていない。

都立霊園再開発

谷中霊園青山霊園など、使用料の払われていない無縁墓地を整理・除去し、空いたスペースを2003年より新たな貸付スペースとしている。併せて、霊園内の再開発の理由も相まって、舗道の敷石の撤去、前述の新たな貸付スペース確保の理由と合わせて大木など木々の伐採が進み、さらに側溝板の設置などにより、そこを寝床等にしている周辺の小動物などに影響が出ている。また、無縁墓地の改葬には外人墓地は含まれないことになり、日本人墓地だけが対象となっている。

都立児童養護施設廃止

病弱児の児童養護施設・成東児童保健院をはじめ、都外に設置されていた3か所の都立児童養護施設を廃止した。 これらの施設に入っていた子どもたちは、「ぼくたちの安心の居場所をなくさないで」と訴えたが願いは聞き入れられなかった。[55]

「非実在青少年」規制

東京都議会の平成22年第1回定例会で「児童ポルノや子供への強姦等を描いた漫画の蔓延を、見て楽しむだけなら個人の自由である、いかなる内容であっても表現の自由である、と許容することは、これは自由の履き違えであり、青少年を守り育てる大人としての責任と自覚を欠いた、未成熟な人間の自己保身に他ならない」と述べて成人向け漫画愛好家達を糾弾し、「青少年健全育成条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)を改正し、児童ポルノの根絶とこの種の図書類の蔓延の防止に向けて都が、都民、事業者と一体となって取り組み、現在のおぞましい状況にこの東京から決別していきたい」と宣言した[56]。3月19日の定例会見では「私は残念ながらね、(規制の)対象となっているものは読んでもいないし、見てもいないのでね」と言う一方で、漫画やアニメが青少年に害悪を与えることがあるのかどうかについては「ありますよ、そりゃ。(記者に向かって)ないと思うのか君」と根拠を示さずに断言し侮辱した[57]。 同条例改正案は2010年6月14日都議会総務委員会において民主共産両党と生活者ネットワーク・みらいの反対票によって否決、同16日に本会議でも否決された。都議会で知事提出の条例案が否決されるのは12年ぶり。修正の上で再提出した結果、2010年12月15日に可決され成立した。

なお、石原本人の著作には18歳未満の児童に対する強姦輪姦や、障害者女性に対する輪姦などを扱った物が相当数あり(『太陽の季節』『完全な遊戯』等。前者の映画化で内容が問題となり設置されたのが映倫である)、特に『処刑の部屋』については、それに影響を受けた強姦事件・暴行事件等が実際に複数起きているが、これらに関して本人は全く触れていない。また上記の通り、本人の「実物を見ていない」というように市場調査、実地検分を行わずにいながら、「漫画やアニメが青少年に害悪を与えていないはずがない」と断じ、先述の通りに自作もまたアモラルな表現が少なくないことを意図的に黙殺しているという、ある種文化的差別を強い姿勢には疑問の声[誰?]もある。そもそも具体的な線引きはいかになされるのか、どんな表現をもって反社会的行動(近親相姦など)を「賛美」しているとみるのか、といった基準の不透明さも指摘されており、反発も多い。以下はその一例。

ちばてつやは「知事が小説家としてどういう作品を書いてデビューしたかは皆さんご存じだと思う、表現は自由であり若者の支持を得てデビューした原点は忘れないで欲しい、文化が滅びる」と批判している[58]

過去に行った「創作物にはいかなる規制も許されない」と言う自分の発言を撤回した。その際、発言当時には現代のような変態的な作品は存在しなかったと釈明したが、集団強姦殺人を基調とする一連の自著に関する自己批判は一切行っていない。

選挙公約

選挙公約(1期目)
  1. 都が主導の債券市場にYES
  2. 踏切のない東京にYES
  3. 健康を損なう排ガスにNO
  4. 福祉に立ちはだかる規制にNO
  5. 借金漬けの財政にNO
  6. 横田返還にYES
  7. 首都移転にNO
  8. 住みやすい東京にYES
  9. 命が守れない危機管理にNO
  10. 新しい道徳教育にYES
選挙公約(2期目)
  1. 安心・安全の確保、都市の再生から始める「都民福祉の充実」
  2. 中小企業の能力を引き出す「新しい銀行を創設」
  3. 都民、国民の健康を損なう「大気汚染を解消」
  4. 利用者から高い評価を受けている「認証保育所を大増設」
  5. これまでの日本にない「まったく新しい大学を実現」
  6. 千客万来の「観光都市を実現」
  7. 雇用促進のため、利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
  8. 都庁の一層の合理化と「第二次財政再建に着手」
選挙公約(3期目)
  1. 環境革命の続行
  2. 子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
  3. 都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
  4. 神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
  5. 2016年に東京オリンピックを招致(2009年に招致失敗)
  6. 高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
  7. 都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
  8. 公立小中高校グラウンドの芝生

浜渦副知事の重用と辞任

石原は衆議院議員時代の公設秘書青嵐会の裏方も務めた浜渦武生副知事に就任させた。石原自身の登庁が週2~3日程度であるため、実質的な政務は浜渦がトップダウンでおこなった。意に沿わない幹部を早期勧退させるなど、浜渦の威圧的な姿勢は「知事の威光を背に絶大な権力を振るう“側近政治”」「恐怖独裁」として共産党などから批判された[59]。特に、東京都交響楽団の予算削減問題では、音楽関係者からの反発に加えて、サンデー・プロジェクトに生出演した石原自身に疑問が投げかけられ、石原が弁明する場面などもあり、同交響楽団に対する浜渦による予算削減は、トーンダウンしている。 2005年3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、2005年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦の偽証を認定した。6月2日の都議会では浜渦の問責決議が可決され、浜渦は7月に副知事を辞職した。

石原は浜渦が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた[60]。石原は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの?」と肯定的な見解を示している[60]

石原は定例記者会見で浜渦を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げ、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した[61]。 また、浜渦が度々暴力事件を起し、問題になっていたことについては「(殴り合いなど)男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね」と発言している[62]

浜渦の天下りと再雇用

浜渦は副知事辞任直後の2005年9月から、東京都が出資している外郭団体である第3セクターのビル会社東京交通会館の副社長に就任した。

石原は「その後の就職の世話を都としてするのは当然じゃないですか」「あの人材を埋もらせるわけにいかないでしょう、それっきりにして。東京都のためにこれからも働いてもらいますよ」との見解を示し[63]、2006年7月22日に浜渦を年度末まで都の参与(都政の課題について知事に助言する非常勤の特別職)に迎えたことを明らかにした。

政党との関係

東京都議会では自民党公明党が一貫して与党である。民主党生活者ネット社民党(ただし、社民党は現在は都議会に議席を有しない)なども、都知事選挙では対立候補を立てるものの、都議会での議案に対する姿勢などから通常はいわゆるオール与党であるという意見があり、日本共産党からは選挙前の批判はポーズに過ぎないと批判されている。2007年の知事選以降、民主党などは距離を取ることが増えていたが、政権交代後は築地市場の移転関連予算計上に一転賛成したりなど再接近の機会も増えている。共産党は初期には「是々非々」の立場を取っていたが、次第に対決姿勢を強めている。

石原は自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っていたが、3 期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。石原は同年2月22日の都議会において、「手打ち」として都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした[64]

また、石原は2007年3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった[65]

2010年4月10日、「たちあがれ日本」の命名者として、平沼新党の結党の発起人に名を連ねた。

情報公開

全国市民オンブズマン連絡会議による2006年の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった(他の失格自治体は香川県のみ)。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている[66]。東京都のこの調査における失格評価は石原都政以前も含み2007年まで10年連続である。石原は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのはとんちんかん」と反論している[67]

不透明な政策・私物化疑惑

トーキョーワンダーサイトと四男

東京都の若手芸術家支援事業トーキョーワンダーサイトを2002年に設立。石原都政下では既成の都文化施設に対する予算の減額とは対照的に、ワンダーサイトのみが別格として増額されているが、芸術家としては無名の四男・石原延啓を重用したり、家族や知人を運営に参画させるなど、事業計画・予算決算の不透明な点について公私混同の疑いを指摘されている[68]

日本国外出張旅費

2006 年11月、資料が入手できた15回の石原の日本国外出張旅費の総経費が2億4000万円を超えることが明らかになった。日本国外出張の回数は1999年の就任から 2006年までに19回と多く、その目的のほとんどが、オリンピック、マラソン、観光などで、石原の個人的関心にもとづき計画されたものだった。

  • 南米エクアドルガラパゴス諸島への出張(2001年6月)では、206万円もかけて最高級の宿泊施設を備えた大型クルーザーで諸島を見物し、その際石原だけで、約450万円の経費がかかった。ロンドン及びマン島出張(2006年5-6月)に関してはオリンピックに関する調査は実質約1時間半で、マン島でのオートバイレース見物を含め、3600万円の費用がかかった。
  • 2009 年10月の第121回IOC総会の出席に至っては119,244,691円もの出費となった。
  • 石原の日本国外出張は東京近県の知事の日本国外出張と比べても桁違いに高額となっており、他県では一回あたり200万円余から800万円程であるのに対し、東京都は平均2000万円に上った。

これらはしんぶん赤旗2006年11月16日号の調査によって暴露され、各種メディアでも都政の私物化として批判された。

石原は「僕は(視察先の)宿舎について注文を付けたことはない。特にワシントンはホテル代が高い。規定を上回る場合、事前に人事委員会で許可をもらっている」と説明し、各党からの代表質問で「国内外問わずこれからもどんどん出て行く」との姿勢を明らかにした。

訪問地 日数 費用(万円)
99 中華民国(台北市以外) 3 不明
00 中華民国(台北) 4 不明
00 マレーシア 5 不明
01 スイス 6 不明
01 エクアドル 11 1444
01 アメリカ 7 2161
02 シンガポール 4 564
02 アメリカ 7 1701
02 インド 9 2267
03 アメリカ(ハワイ) 5 978
04 スイス・フランス 9 2815
04 中華民国(台北市) 4 226
04 アメリカ 10 2136
04 中華民国(台北市など) 5 123
04 インドネシア・ベトナム 8 2202
05 中華民国(台北市) 4 398
05 アメリカ 8 2263
05 中華民国(台北市) 5 1504
06 イギリス 7 3574

1999年~2001年の4件については情報が保存されておらず、不明。

新銀行東京

新銀行東京は本来の目的である中小企業向け融資が1225億円で貸出金全体の約52%にとどまるなど、設立目的が揺らいでいる。また、融資の大半が三男・石原宏高の地盤である品川区大田区の企業に集中していたことから、身内の選挙対策との疑いも持たれている[69]。石原は設立当時の記者会見(2003年5月)では、貸し倒れが多くなった場合の都税投入の可能性について「公私混同であり幼稚・粗雑・週刊誌的発想」と否定していたが、2008年には都税400億円が経営再建のために出資された。

官官接待

私的な飲食に公費を流用したとして、2000年6月から2003年12月まで78件の飲食費支出は違法だとして計1,194万円の返還を求め、葛飾区の市民団体が知事を提訴していた。

判決が違法支出として認定したのは、2003年6月、東京都中央区築地の高級料亭で石原、棚橋都参与ら8人の会食計341,992円、2003年3月石原、特別秘書・高井英樹、民放テレビプロデューサーの3人が中央区銀座の割烹料理店で行った会食計58,065円の計約34万1000円の飲食費を支出した2件である。78件中67件は住民監査請求の期限が過ぎているとしたり、残りの9件については棄却した。2007年1月30日東京地方裁判所鶴岡稔彦裁判長は2件分の計約40万円については「社会通念を逸脱する違法な支出にあたる」と認定し、石原と特別秘書に対し同額を都に返還するよう命じた[70]。原告側は請求が容認されなかった残件について控訴したが東京高等裁判所は1件のみを認める判決に変更。また最高裁判所(中川了滋裁判長)も2009年5月20日、原告の上告を不受理とした[71]

現金2000万円受け取り疑惑

石原が元衆院議員や支援者ら計3人(糸山英太郎水谷建設元会長の水谷功、埼玉県の石材業者T)が用意した現金2000万円を受け取りながら、政治団体の政治資金収支報告書に記載していなかったとして、都内の男性らが、石原と資金管理団体の会計責任者を務める特別秘書の2人について、政治資金規正法違反の疑いで東京地検に告発状を提出している。

石原は料亭で元衆院議員らと会食したことを認めているが、現金については「疑惑は一切ない」と全面的に否定し[72]、宴席に同席した糸山も「作り話」としている。

一方、同じく同席した水谷は『週刊朝日』(2006年12月29日号)のインタビュー取材で金銭授受について「直接はやってない。Aさん(=女性経営者)が用意してた」と、女性経営者が500万円を立て替えたことを認め、2000万円の金銭授受についても「その話は聞いた」「(石原は)そりゃ、感謝してたわな!」「(宴席後は)みんな上機嫌だった」と、疑惑をほぼ肯定するような証言をおこなっている。

東京マラソン

石原の主導で2007年から始まった東京マラソンに関して、次男・石原良純フジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。良純は今回の出演を依頼される以前に石原から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている[73]。石原が良純に協力を依頼した後にフジテレビ出演が決まったことから、石原とフジテレビの関係に疑問を呈する見方があった[74]

選挙対策と見做された花粉症対策ポスター

2007年に入ってから、"STOP花粉"という文字と石原の写真が大きく写った花粉症対策のポスター5万2000枚が、都内23区と全ての市町村に配布された。東京都森林課により製作され、デザイン、印刷等に要した費用は227万円である。石原は都庁における花粉対策会議の席上「自分ができることをしたい」と積極的な姿勢を示し、15の図案から自身の顔が一番大きく写っている図の採用を決めた。

この「顔写真ポスター」に対し、中央区など7つの区や町内会が、選挙運動期間中の候補者や政治団体による文書図画の頒布を禁じた公職選挙法第146条に抵触する恐れがあるとして、掲示板への掲載を拒否していたが、残りの16区や町内会は問題がないとして掲載していた[75]

政治姿勢・発言

政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、他の民族・文化に対する否認や揶揄と受け取られる発言などが批判され、訴訟に発展するケースもある。しかしながら批判にたいしては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、結果的にこれまで発言によって公職を辞任に追い込まれたことはない。

石原は右派新保守主義的政治家、あるいは国粋主義者・新保守主義者の代表的存在と呼ばれる事がある。

右翼政治家として認識されている。例えば、オーストラリアABCからはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン[76]と呼ばれている。韓国の中央日報からは「極右勢力の代表」[77]、また、日本共産党の機関紙・『しんぶん赤旗』によれば、フランスの報道機関からは「国家主義的思想の持ち主」「右翼ポピュリスト」と呼ばれている[78]

天皇・君が代に対する姿勢

天皇に関しては、「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」[79]と過去に発言したことがある。また、オリンピック誘致活動において皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある[80]。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した[81]

また、2008年2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の地対空誘導弾ペトリオットPAC-3皇居前広場で展開すべきとの見解を示した。

毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。しかし、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った[82]

天皇の靖国神社親拝を期待する発言を行なう一方、A級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えており[83]、「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした東条英機より、潔く自決した大西滝治郎中将や阿南惟幾陸相を靖国へ合祀しない事に異議を唱え、さらに東條を嘲笑した文章を述べ、これにチャンネル桜東條由布子も抗議した。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。

障害者に対する発言

1999年9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。

上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している[84]

東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。

石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。

老人に対する発言

1975年の東京都知事選挙での演説にて対立候補の美濃部亮吉に関して「…もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言した[85]。しかしながら、彼自身は78歳になってもなお、自らの東京都知事4期目当選を狙って、2011年都知事選への出馬を表明している。

在日外国人・諸文化への態度

在日コリアンをはじめとする在日外国人、及び外国文化を否定・揶揄する発言を頻繁に行い、政治問題化することがよくあるが、一方賛同する意見もある。

1983年の衆議院議員総選挙に際して、東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書である栗原俊記が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、現行犯逮捕された(黒シール事件)[86]。この件に対して民族派右翼野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行っている。

2000年4月9日の陸自記念式典において「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾(そうじょう)すら想定される」[87]と発言し、三国人という言葉が取り上げられ問題とされた[88]。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり朝日新聞や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している[89]。また「謝罪の必要はない」とも述べた[90]

2001年5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した[91]

2003年11月2日、TBSサンデーモーニング』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが[92]、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。

2004年10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」などと発言。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した[93]。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した[94]。 韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている[95]。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と非難した[96]。この発言を受けてジャーナリストの斎藤貴男は「最低最悪の差別主義者にはそもそも在日コリアンの存在自体が許せないのだろう」「チンピラ小学生以下の精神年齢をさらけ出して恥じない老人の存在は、これはこれで珍しい見せ物だ」との考えを示した[97]

移民「賛成」

移民の受け入れについては大賛成との立場をとり「アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである」と主張している[98]

外国人参政権

民主党や公明党などが成立を目指す外国人地方参政権については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている[99][100][101][102]

2010年(平成22年)3月3日、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした[103]

「ニート」・フリーターに対する見解

ニート・フリーターについて、「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです」[104]「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」[105]フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」[106]との見解を示している。田中良都議から、石原が(働いている)フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と発言[107]。 また「ニート」「フリーター」が当事者達の自称によって広まった言葉であるかの如く発言しているが、日本においては実態把握の為に総務省・厚生労働省・内閣府によって定義されたものであり、そう定義付けされることにおいて当事者達の意志は介入していない。

ネットカフェ難民についても否定的な意見を持っており、2008年10月3日の定例会見では、「山谷に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんて言うのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているとするのはマスコミの偏向だと主張した[108]。この発言は台東区長から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている[109]

年越し派遣村問題については、2009年1月5日、年頭の挨拶において厚生労働省の対応を批判した[110]

ジェンダー・性について

ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。「女性生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です [111]」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」[112]という発言をし、裁判に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。

性の問題については『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、『国家なる幻影』で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行うなど、自由な性行為を行っている。都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない[113]

同性愛者に対する発言

2010年12月3日、都青少年健全育成条例改正に関して、「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」 とホモフォビアを伺わせる発言[114]。 2010年12月7日にこの発言の真意を記者から尋ねられ、「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と答えた。さらに過去に米・サンフランシスコを視察した際の感想を振り返り、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演についても、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した[115]。この発言は日本国外でも日系メディアが問題として取り上げない人権問題の失言として注目を浴び[116]、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは発言を撤回すべき声明文を発表した[117]

同性愛者コミュニティや一般社会の橋渡し役となった個人や団体を表彰する目的で開催されるTokyo SuperStar Awards(TSSA)の「ラズベリー賞」(ゴールデンラズベリー賞オマージュ)を受賞した。TSSA公式サイトよると、反同性愛的な独自の主張を展開しながらも、同性愛者が市長や市議会議長であるパリ市・ベルリン市及びニューヨーク市との姉妹友好都市を提携し、また、都民サービスの一環として東京都庁をTSSAの授賞式に利用させるなど、「私利私欲・主張を傍らに、真摯に東京都民の公益のみに邁進」している点が評価されての受賞となった。副賞として、苺のミルフィーユ味のアイスクリームが送られた[118][119]

震災の被害者に対する暴言

2007年4月8日の都知事選で当選が決まった直後、会見で「阪神大震災では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・貝原俊民が「見当違い」と反論を行った。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「佐々さんの受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言[120]。また、選挙中の3月26日には、能登半島地震について、「震度6の地震がきた。ああいう田舎ならいいんです」「東京ならかなりの被害が出ただろう」と発言したという[121]

2011年3月14日には、東北地方太平洋沖地震により日本の東北地方で広範囲が津波の被害を受けたことに関して、「被災者の方々はかわいそう」としながらも、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」とコメントした[122]。同日、記者会見で「天罰」発言について「意味がどうあれ、被災された方にとっては非常に不謹慎な発言だと思いますが、撤回されるお考えはありませんでしょうか」と追及されると、「『被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが』と言葉を添えた」と釈明して撤回をしなかったが、実際にはそのような言葉は添えていなかった[123]。この発言に対し、津波被害を受けた宮城県の村井嘉浩知事が不快感を示したほか、メールや電話による批判が東京都庁に多数殺到したため、石原は翌3月15日の会見で「天罰」発言を撤回して謝罪をするに至った[124]

この石原の「天罰」発言は、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げられた。韓国メディアは、「日本の韓国併合は韓国人が望んだことだ」とする石原の過去の問題発言にも触れつつ、「韓国人が望んで日本人が韓国を併合したとの妄言で悪名高い石原知事が今度は自国民に大きな傷を負わせた」「石原知事が自国民にまで毒舌」などと批判的な報道を繰り広げた。さらに、石原が折しも自らの4期目当選を狙って都知事選への出馬表明をした直後に「天罰」発言を行ったことについて、韓国メディアは「苦しみや悲しみに耐えながら頑張っている国民に慰めるどころか大きな傷を与えた石原知事に対し、東京の有権者が(今回の都知事選で)どのような判断を下すのか注目される」とコメントしている[125]

原子力発電所事故の問題に対する発言

石原は自らを「原発推進論者」であると公言している。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で福島県の原子力発電所(原発)が爆発事故を起こし、大規模な放射能汚染が福島県のみならず東京都民の生活にも深刻な悪影響を及ぼしている状況の中、石原は2011年3月25日に福島県災害対策本部を訪問した際、報道陣の前で「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」と発言した[126]2011年東京都知事選挙において、東国原英夫渡邉美樹小池晃など他の立候補者が原発の危険性を強く指摘し、原発の廃止や見直しを訴えている中、原発の増設・推進に賛成の意を表している立候補者は石原だけである。

東京中央郵便局建替問題に関して

鳩山邦夫総務大臣東京中央郵便局建物の文化財的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないことだとして、建物の一部を保存した現行の建替え案を容認する考えを示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める都市計画決定を行った[127]

諸外国に対する見解

国際連合

国際連合に対して、「国際連合憲章の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ」「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿いませんよ」。[128]

台湾

中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、同国と対立関係にある議会制民主主義国家である台湾に対しては非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている(但しその台湾も1987年までは中国国民党戒厳を布告していた独裁だった)。都知事就任後も数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加している。また、中華人民共和国との間に国交を樹立し中華民国との国交を断絶した日本政府の姿勢(「一つの中国」論)に対しても批判的である。

なお、2008年中華民国総統選挙において国民党の馬英九は台北市長時代の性風俗の取り締まりの厳しさやパフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と民進党支持者から揶揄された[129]

中華人民共和国

2005年の中国における反日活動では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「支那」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。北京オリンピックについては「ヒトラーの非常に政治的なベルリンオリンピックに、ある意味似ているような気がする」[130]と発言していた。その反中の姿勢が東京でのオリンピック開催の実現を困難にする可能性が高かったが(中華人民共和国は、ODAを元にアジアアフリカの一部の発展途上国に影響力を持つ)という指摘もあったが[131]、 2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請して、中華人民共和国の招待に応じて開会式に出席した。「大国の度量を見せるもの」として中国のネットも支持した。感想として「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね。」「一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね、みんな。とってもね、いいね。アメリカのボディーチェックするような空港の役人なんかと違ってね、本当に横柄で何様だっていう感じだけど、 (大学生は)とっても親切で礼儀正しくてね。」「やっぱり、それはね、いろいろ(政治)体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね。」「(中国の若者と比較して)日本の若者はある意味でかわいそうだな。青春にある者としてアイデンティティーがないから。やっぱり『2ちゃんねる』の書き込みとかそんなもんで本当のコミュニケーションができるもんじゃないし。全部現実から逃避しているし。[132]」さらには「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べ、高評価した。2009年に北京副市長の黄衛が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べ、黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた。日中間の領土問題において、東京都の沖ノ鳥島は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の経済水域であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して日章旗を掲げる等のパフォーマンスを行っている。在日中国人による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した[133]。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件:毒入り餃子事件に関して、「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した[134]。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、五星紅旗の“六番目の星”になるだろう」と発言している[135]

北朝鮮

北朝鮮による日本人拉致問題が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの草薙厚子によれば、1998年に「朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという[136]2002年には『ニューズウィーク』のインタビューに応じ、映画『風とライオン』の内容(モロッコのリフ族に拉致されたアメリカ人教師をセオドア・ルーズベルト大統領が軍艦を送って取り戻したエピソード)について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「アメリカがそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる」と述べている[98]。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を泉田裕彦新潟県知事上田清司埼玉県知事らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち達増拓也岩手県知事ただ一人が参加しなかったため、会見では「民主党代表小沢一郎さんの出身地である岩手の知事を除いて……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った(後に達増知事は一転、参加を表明)。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した[137]。これに対して韓国の政治家や北朝鮮政府は反発を見せた[138][139]

米国

日米安保に反対する「若い日本の会」に大江健三郎江藤淳らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした[140]。 政治家となって以降は、日米安保は支持するものの、日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『「NO」と言える日本』を出版するなど、常に第二次世界大戦以降のアメリカの覇権主義的な態度には疑問を呈し続けている。1989年代のジャパンバッシングの際には「何の努力もせずに文句だけつけて来る」として批判した。

南アフリカ共和国

1984年6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった[141]。同議連には40人が参加し、南アフリカ共和国で実施されていたアパルトヘイト政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、レアメタルなどの希少金属の確保を目的とした活動をおこなっていた。アパルトヘイト政策の撤廃後にBBCが行ったインタビュー内で、BBCの女性インタビュアーから日本南ア友好議員連盟に所属していた理由を尋ねられた際、手元の水を彼女に浴びせてインタビュー会場から立ち去っている。

諸団体との関係

全国犯罪被害者の会(あすの会)の支援活動

2000年犯罪被害者の権利確立を目指す全国犯罪被害者の会代表幹事の岡村勲弁護士が文藝春秋に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた石原のほか、瀬戸内寂聴(作家)、奥田碩(経団連会長、如水会理事長)、樋口廣太郎(アサヒビール名誉会長)が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された。事務局長には石原と大学同期の高橋宏(首都大学東京理事長、如水会副理事長)と、山本千里(如水会理事兼事務局長)が就任した[142]

同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年犯罪被害者等基本法の成立、2007年の刑事訴訟法改正による被害者参加制度創設、2008年の犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律改正の実現などに尽力した[143][144]

岡村は2007年4月に開かれた如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に出席、来賓祝辞を述べ、2007年東京都知事選挙で再選を目指す石原を激励した。2010年には全国犯罪被害者の会創立10周年記念シンポジウムが有楽町で開催され、代表幹事の岡村の開会あいさつの後、石原の祝辞があった。

霊友会への入信

石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する。[145]自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」に連載を持っている[146]。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている[147]。また、2002年には霊友会の新年会で挨拶を行っている[148]

創価学会批判と公明党支持

公明党自由民主党と並んで事実上石原都政の与党である。[149]2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。2007年参院選では公明党による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する公明党公認の山口那津男の応援で街頭演説するなどしている[150]

1999年の都知事選の直前の週刊文春誌における「あなたの池田大作氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた[151]。かつては創価学会に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険なカルト集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる[152]

戸塚ヨットスクールを支援

戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に、戸塚ヨットスクール主宰者である戸塚宏の教育方針の支柱をなす「脳幹論」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する[153])に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは脳幹が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」という主張を産経新聞のコラム(『日本よ』)や、自らの公式サイト上で公開している(実際は医学的な証明がされた事実はない。cf.疑似科学)。

冒険家堀江謙一に対する中傷

堀江謙一の277日間単独無寄港世界一周に対して、『週刊プレイボーイ 1975年11月25日号』において、 「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。」 と全否定した。 本多勝一は、『貧困なる精神(121) 』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。

崇教真光の代表との家族ぐるみの付き合い

石原と同じく日本会議代表委員である「崇教真光」代表者・岡田恵珠と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において、対談を行っている30ページの記事がある[154]

長男の石原伸晃が少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露するなど、家族ぐるみの付き合いが明らかになっている[155]。また、伸晃は45周年秋季大祭(2004年)にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている[156]

新党構想

中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが保守系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰され、国民的な知名度の高さも手伝って、一時は中央政界のキーマンと目されていたこともあった。しかし1982年の自民党総裁選で、自由革新同友会(中川派)の領袖であり総裁立候補者でもあった中川一郎が自ら票集めに奔走する一方、中川派に所属し総裁選では参謀役となっていた石原は裏で安倍晋太郎を擁立していた清和政策研究会(福田)との連携を模索するなど、しばしば反派閥的ともとられる行動があり、自民党内をはじめとした中央政界での影響力は議会外での評価ほど高くなかった。石原は中川の没後に派閥を継承したが派をまとめきれず、石原派は福田派に吸収され、石原は永年勤続表彰の場での議員辞職表明という形で中央政界を去った。結局、「石原新党」は「たちあがれ日本」への発起人参加という形で現実のものとなった。

オリンピック選手について

バンクーバーオリンピック高橋大輔が日本男子フィギュア史上初の銅メダルを獲得したことについて「金メダルじゃないんだろ?まあ、銅から始めようだな、まさに。別にそれは、わたし否定もしませんよ。しかし快挙かね、それは」「慶賀に耐えないとまでは言わないけどな」と感想を述べた[157]。さらに2月25日の会見では「銅を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」と語り、金メダル以外は喜ぶに値しないとの見解を示した[158]

首相への暴行呼びかけ

2010年6月19日札幌市内で開かれたたちあがれ日本の集会で、菅直人内閣総理大臣について、「もし、自衛隊の観閲式の国旗入場で立たなかったら、構わないから殴れ。殴られてもしょうがない」と首相への暴行を呼びかける発言をした[159]

交流

大学同期の高橋宏(後の日本郵政副社長)、高原須美子(元経済企画庁長官)、鳥海巌(元丸紅社長)と親しく、4家族で毎年旅行にいく仲であった[160]。のちに石原都政で、高原は都営地下鉄12号線路線名称選考委員会委員長、鳥海は東京都の外郭団体から民営化された東京国際フォーラムの初代社長、高橋は都立大学を統合して設立された首都大学東京の初代理事長などをそれぞれ務めた。

慎太郎は大学2年の終わり頃から、小金井の下宿を出て小平の一橋寮で暮らすようになった。これを機に高橋との交流は深まり、3年になると高橋のいる柔道部に入部した[161]

日本青年社への賞賛

2010年10月4日、石原が産経新聞で執筆しているコラム「日本よ」で、尖閣諸島魚釣島に指定暴力団住吉会傘下の右翼団体である「日本青年社」が本格的な灯台を造ったことを「造ってくれた」と賞賛した[162]。石原は2003年2月3日付の「日本よ」でも、日本青年社による灯台の建造を賞賛する文章を書いている。

家族 親族

実家
父・潔(山下汽船社員)
小樽にて家族写真
(左から父・潔、弟・裕次郎、母・光子、慎太郎)
明治32年(1899年)12月生~昭和26年(1951年)10月没
愛媛県長浜町に生まれ、警察官だった父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の派出所を随分転々とさせられた[163]大正11年(1922年)父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという[164]
旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校)中退[165]。14歳で山下汽船に店童(てんどう)として入社した。店童(てんどう)[166]あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社重役にまで出世した。
妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという。[167]
先妻は元大同海運社長崎山好春の妻のにあたる[168]
佐野眞一によれば、「山下汽船OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々とあがった。その評価のなかに仕事に関するものはほとんどなく、や人とのつきあいに関するものばかりだった。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである。」という[169]
吉田司によれば、「石原潔は、その経歴を見ると、プロレタリア的な徒手空拳からたたき上げた中産階級の先駆的な例ですよね。だとすると、そのマイホーム主義のプチブル的な生活から転落しないように会社に忠誠を誓い一生懸命家族を守った。小樽の『蟹工船』的な、蜂起するぞ!みたいな都市下層民がいっぱいいる中で、おそらく慎太郎と裕次郎の兄弟は、冬になれば暖炉の前でぽかぽかという生活だったと思うんだけど。さらに言えば、潔は、もう一段階上の、エスタブリッシュメントへと移行しようとしたのではないか。」という[170]
晩年には今まで家になかった仏壇をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌してお経を上げるようになったという[171]
佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』32-33頁によれば、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ“洗い”という最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」という。
母・光子(加藤三之助の娘)
母・光子
(神戸第二高女時代)
明治42年(1909年)9月生~平成4年(1992年)6月没。
2002年2月24日にテレビ朝日系で放送された『グレートマザー物語』では、光子は広島県の生まれと紹介しているが[8]佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』62-65頁では、光子は大阪に生まれ、すぐに広島県厳島に移ったと書かれている。実家は厳島神社参道土産物屋であった。継母と折り合いが悪くなって厳島を出た[172]。昭和2年(1927年)3月に神戸市立第二高等女学校(現神戸市立須磨高校)を卒業した[173]
『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』68頁によれば「潔は光子と見合いだったにもかかわらず、慎太郎は結婚から二ヶ月足らずで誕生している。男女の間に何があっても不思議はないが、それにしてもちょうど十歳年の離れた潔と光子の組み合わせは、奇妙といえば奇妙である。一方は、没落した一家から中学も出ぬまま、大正バブルそのものともいえる海運会社に入った店童(てんどう)あがりのサラリーマン。一方は、複雑な家庭環境で育ち、絵描きになることを夢みた、やや自己演出するところのある高女出の女性。この夫婦は明治の村落共同体が崩壊し、都市プチブル層が澎湃(ほうはい)として誕生してきた大正という時代の典型的カップルだったともいえる。」という。
弟・裕次郎(俳優、歌手)
昭和9年(1934年)12月生~昭和62年(1987年)7月没。
同妻・まき子
自家
妻・典子(石田光治の娘)
昭和13年(1938年)1月生~
典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという[174]。典子の父親石田光治は落下傘のなどを製造する東洋麻糸という紡績会社に勤めていた。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島市己斐町(現・西区己斐)で生まれた。光治は典子が生まれて十ヵ月後の昭和13年(1938年)秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した[175]
結婚について慎太郎は阿川佐和子との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった(笑)。それで、呼びつけられて“切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから“結婚します”って決心しちゃったのよ(笑)」とのべている[176]
長男・伸晃(政治家)
昭和32年(1957年)4月生~
同妻・里紗
次男・良純(タレント気象予報士)
昭和37年(1962年)1月生~
三男・宏高(銀行員、政治家)
昭和39年(1964年)6月生~
四男・延啓(画家)
昭和41年(1966年)生~
他家
末弟
昭和15年(1940年)3月生~
『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』147-148頁によれば、「潔の故郷の八幡浜周辺を取材中、潔に関する思わぬ話を耳にした。潔には前妻との間にもうけた小河氏、慎太郎、裕次郎兄弟のほかにもう一人子どもがいるという。(中略)町起こしの起爆剤として、八幡浜にも小樽の裕次郎記念館のようなものをつくれないか。そう考えた町の有力者が、石原家が間違いなく八幡浜にルーツをもつかどうかを確認するため、戸籍をとったところ、潔にもうひとりの息子がいるという事実が判明したという。この有力者に会うと、驚いたことに、その場で戸籍をそっくり見せた。そこには確かに、噂を裏付ける事実が記載されていた。父の欄には潔、母の欄には光子とあり、昭和十五年三月七日出生の三男と書かれている。出生地は小樽の松ヶ枝町となっている。」とある。155-156 頁に「潔はよその女との間に生まれた子どもを、死んだ真砂(まさご)の妻の実家の戸籍に因果を含めて入れたのか。それとも、これとはまったく逆に、道ならぬ関係となった女性との間に子をなしながら、顔も見ずに他界した弟の真砂(まさご)と、その真砂に先立たれた女性、そして二人の間に生まれた一粒種の境遇を不憫に思い、男気を出して自らの戸籍に入れたのか。単に自分本位の勝手なふるまいだったともとれるし、意外に繊細な心遣いだったともとれる。そのどちらだったかは、もはや誰にもわからない。ただここではっきり言えるのは、潔につながるもう一人の血族が、慎太郎、裕次郎とはまったく別の影のような人生をおくり、いまひっそりと老境に入ろうとしていることだけである。」という。
異母兄(小河姓)
父・潔が先妻との間にもうけた子。潔の壽万(すま)夫婦に子供がなかったため養子に行った。昭和27年(1952年)神戸商大を卒業して山下汽船と同じ資本系列にある第一汽船に入社した。[177]
認知した子(男、元ホステスとの間に出生、1994年認知)
1996年3月慎太郎の愛人問題が発覚。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は銀座の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる。母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた。[178]

系譜

石原家
  • 石原家の先祖について佐野眞一の著書『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』によると、
〔石原家は潔(慎太郎の父)の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった(理由は不明)。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った。石原家再興の当主となった文久2年(1862年)生まれの信直と、慶応3年(1867年)生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた。長男の克己、長女の壽万(すま)、二男の静夫、三男の潔(慎太郎の父)、二女の美壽(みす)、四男の真砂(まさご)の6人である。信直の職業は警察官だった。石原本家の菩提寺は愛媛県八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺である。
佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄(らくはく)[179]した士族です。先祖は武田残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。の名人だったらしく、戦(いくさ)で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが(笑)、それで七つ矢車の家紋を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った。」と述べている。
佐野によると、「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった。龍潭(りょうたん)寺[180]住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだった」という。[181]〕。
  • 『石原慎太郎よ、退場せよ!』190頁によると、AERA誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の吉田司に慎太郎は「うちは士族の出でね。カッコいいんだ。武田武士でね、弓矢の名人でね、家紋が7つ矢の矢車なんですよ。武田軍団って、戦強かったでしょ。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ。つまり死ぬだろうと……。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で飲み続けて、仕事で死んでいった。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね(笑)」と述べている。
  • 山下家と石原家の縁戚説について佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁によれば
亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている。それは、店童(てんどう)あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である。
…(中略)…慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係があるのですか”という質問に(亀三郎さんとは)“縁戚だと聞きました。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります。”といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった。これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません。聞いたこともないし、系図にも出てきません。”と血のつながりをきっぱり否定した」という。
  • 妻典子の従兄弟の子にあたる美枝子が政治家の小泉純一郎(元首相)の実弟・正也と結婚した。[182]


             小泉又次郎━━芳江
                     ┃
                     ┣━━━━━┳小泉純一郎━━┳小泉孝太郎
                     ┃     ┃       ┃
                   小泉純也    ┗小泉正也   ┗小泉進次郎
                  (鮫島)       ┃
                             ┃
             ┏石田重蔵━━石田吉之輔━━━美枝子
             ┃
             ┃
             ┗石田光治━━典子
                     ┃
                     ┣━━━━━━┳石原伸晃
       (服部)              ┃      ┃
石原安太夫・・石原信直━━石原潔━┳石原慎太郎     ┣石原良純
        ┃        ┃   ┃      ┃
        ┃        ┃   ┃      ┣石原宏高
服部信義━━━━┛        ┣男  ┃      ┃
                 ┃   ┃      ┗石原延啓
                 ┃   ┃
                 ┃   ┣━━━━━━━━男
                 ┃   ┃
                 ┃   ┃
                 ┃   ┃
                 ┣男  ┃
                 ┃   女
                 ┃
                 ┗石原裕次郎
                      ┃
                         まき子

著書

  • 太陽の季節 新潮社、(1956年芥川賞受賞・1955年文学界新人賞受賞)のち新潮文庫 ISBN 4-10-111901-5
  • 北壁 三笠書房 1956
  • 狂った果実 新潮社、1956 のち角川文庫
  • 日蝕の夏 三笠書房 1956
  • 理由なき復讐 三笠書房 1956
  • 青春にあるものとして 河出書房 1956
  • 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫
  • 完全な遊戯 新潮社、1958 のち角川文庫
    • (完全な遊戯、若い獣、乾いた花、鱶女、ファンキー・ジャンプ、狂った果実)
  • 海の地図 角川書店 1958 のち文庫
  • 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958
  • 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4-10-111902-3
  • 月蝕 角川書店、1959 のち文庫
  • 夜を探がせ 光文社 1959 のち角川文庫
  • 男の掟 角川書店 1959
  • 乾いた花 文藝春秋新社 1959
  • 殺人教室 新潮社 1959 のち角川文庫
  • 青年の樹 1-2 角川書店 1959-1960 のち文庫
  • これが恋愛だ 講談社 1960
  • 南米横断一万キロ 講談社 1960
  • 挑戦 新潮社 1960 のち文庫
  • 見知らぬ顔 新潮社 1960
  • 青い糧 講談社 1961
  • 汚れた夜 新潮社 1961 のち集英社文庫
  • 死んでいく男の肖像 角川書店 1961
  • 雲に向かって起つ 第1-2 集英社 1962
  • 禁断 角川書店 1962 のち文庫
  • 断崖 新潮社 1962
  • 狼生きろ豚は死ね・幻影の城 新潮社 1963
  • 日本零年 文藝春秋新社 1963 のち角川文庫
  • 密航 新潮社 1963
  • てっぺん野郎 青雲編 集英社 1963
  • 死の博物誌 新潮社 1963
  • 石原慎太郎文庫 全8巻 河出書房新社 1964-1965
  • 行為と死 河出書房新社 1964 のち新潮文庫
  • てっぺん野郎 昇竜編 集英社 1964
  • 銀色の牙 講談社 1964 のち角川文庫
  • 傷のある羽根 文藝春秋新社 1964
  • 終幕 集英社 1964 のち文庫
  • 青春とはなんだ 講談社 1965 のち角川文庫
  • 命の森 読売新聞社 1965 のち角川文庫
  • 星と舵 河出書房新社 1965 のち新潮文庫
  • おゝい、雲! サンケイ新聞出版局 1965 のち角川文庫
  • 砂の花 新潮社 1965
  • 人魚と野郎 集英社 1965 のち角川文庫
  • 大いなる海へ 集英社 1965
  • 還らぬ海 講談社 1966
  • 飛べ、狼 講談社 1966
  • 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫
  • 青い殺人者 集英社 1966 のち文庫
  • 野性の庭 河出書房 1967
  • 黒い環 河出書房新社 1967
  • 青春との対話(人生のことば)番町書房 1967
  • 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967
  • 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫
  • 祖国のための白書 集英社 1968
  • 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫
  • プレイボーイ哲学 集英社(プレイボーイ・ブックス)1968
  • 鎖のついた椅子 新潮社 1969
  • スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969(カッパ・ホームス)
  • 慎太郎の政治調書 講談社 1970
  • 化石の森(芸術選奨文部大臣賞受賞)新潮社 1970 のち文庫
  • 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971
  • 男の世界 集英社 1971
  • 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫
  • 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972(カッパ・ホームス)
  • 信長記 河出書房新社 1972
  • 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973
  • 石原慎太郎短編全集 新潮社 1973
  • 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973
  • 男の海 集英社 1973
  • 対極の河へ 河出書房新社 1974
  • 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975(カッパ・ホームス)
  • 風の神との黙約 北洋社 1975
  • 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976
  • 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976
  • 大いなる手との黙約 文藝春秋 1976
  • 情熱のための航海 大和出版 1976(わが人生観)
  • 光より速きわれら 新潮社 1976
  • 刃鋼 文藝春秋 1976 のち角川文庫
  • 暗闇の声 光文社 1977
  • 嫌悪の狙撃者 中央公論社 1978 のち文庫
  • 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979
  • 一点鐘 集英社 1979
  • 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫
  • 大いなる海へ 舵社 1983(海洋文庫)
  • 秘祭 新潮社 1984 のち文庫
  • バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984
  • 暗殺の壁画 河出書房新社 1984
  • 流砂の世紀に 新潮社 1985
  • 現代史の分水嶺 文藝春秋 1987 のち文庫
  • 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987(カッパ・ホームス)
  • 生還(平林たい子賞受賞)新潮社 1988 ISBN 4-10-301505-5
  • 不思議な不思議な航海 白泉社 1990
  • わが人生の時の時 新潮社 1990 のち文庫
  • 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫
  • 光速の時代に PHP研究所 1991
  • 十代のエスキース 成瀬書房 1991
  • 来世紀の余韻 中央公論社 1991
  • 三島由紀夫の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4-10-301507-1
  • 禁断の島へ 加納典明、大津善彦写真 集英社 1992
  • 遭難者 新潮社 1992
  • かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994
  • 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774059-5
  • わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774163-X
  • 亡国の徒に問う 文藝春秋 1996 のち文庫
  • 肉体の天使 新潮社 1996
  • 弟(毎日出版文化賞特別賞受賞)幻冬舎 1996 のち文庫 ISBN 4-87728-119-3
  • “父”なくして国立たず 光文社 1997 ISBN 4-334-97150-4
  • 法華経を生きる 幻冬舎 1998 のち文庫 ISBN 4-87728-271-8
  • 国家なる幻影 わが政治への反回想 文藝春秋 1999 のち文庫
  • 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4-87728-306-4
  • この日本をどうする 再生のための10の対話 文藝春秋 2001 のち文庫
  • いま魂の教育 光文社 2001 ISBN 4-334-97225-X
  • 生きるという航海 海竜社 2001 のち幻冬舎文庫
  • 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 4-16-320380-X
  • 東京の窓から日本を 1-3 文春ネスコ 2001-2003
  • わが人生の時の人々 文藝春秋 2002 のち文庫 ISBN 4-16-712809-8
  • 老いてこそ人生 幻冬舎 2002 のち文庫 ISBN 4-344-40382-7
  • 日本よ 扶桑社 2002 のち文庫
  • 惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦 扶桑社 2004
  • 息子たちと私-子供あっての親 幻冬舎 2005 のち文庫 ISBN 4-344-01064-7
  • 日本よ、再び 産経新聞出版 2006
  • 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007(以下が収録作品。括弧の数字は収録巻)
    • 刀鋼(はがね)(1)ISBN 4-16-641580-8
    • 化石の森(2)
    • 亀裂(3)
    • 死の博物誌(3)
    • 星と蛇(4)
    • 風についての記憶(4)
    • 行為と死(5)
    • 暗殺の壁画(5)
    • 光より速きわれら(6)
    • 秘祭(6)
    • 生還(7)
    • 弟(7)
    • わが人生の時の時(8)
    • 短編集I『太陽の季節』『完全な遊戯』(9)
    • 短編集II『遭難者』(10)
  • 東京の窓から世界を 対談集 PHP研究所 2007 ISBN 4-569-64656-5
  • オンリー・イエスタディ 幻冬舎 2008
  • 私の好きな日本人 幻冬舎 2008 のち新書
  • 火の島 文藝春秋、2008
  • 生死刻々 文藝春秋、2009
  • 再生 文藝春秋、2010

共著

  • 新旧の対決か調和か 賀屋興宣 経済往来社 1969
  • 人間の原点 対話 小谷喜美 サンケイ新聞社出版局 1969
  • いかに国を守るか 羽仁進藤原弘達 日新報道 1970
  • エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 三浦雄一郎共著 文藝春秋 1970
  • 闘論 君は日本をどうするか 野坂昭如 文藝春秋 1975
  • 「NO」と言える日本(共著:盛田昭夫)光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8
  • それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題-(共著:渡部昇一小川和久)光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X
  • 断固「NO」と言える日本(共著:江藤淳)光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7
  • 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 マハティール 光文社 1994
  • 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 一橋総合研究所共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3
  • 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
  • 勝つ日本 田原総一朗 文藝春秋 2000 のち文庫
  • 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い 中曽根康弘 PHP研究所 2001 のち文庫
  • 人生への恋文-往復随筆 瀬戸内寂聴 世界文化社 2003 文春文庫 2008
  • 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
  • 生きる自信 健康の秘密、石原結實対談 海竜社 2008

翻訳

  • 型破りで勝つ! ロバート・J.リンガー 三笠書房 1978.12

論文

関連作品

映画

テレビドラマ

演じた俳優

その他

  • Ustreamでの放送にて田原総一郎が献金をしている事が明らかになる

[183]

脚注

  1. ^ 佐野眞一著『誰も書けなかった石原慎太郎』503頁によれば「1996年3月慎太郎の愛人問題が発覚した。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌の三年後の続報には慎太郎は議員辞職する前年の1994年、“この息子を認知した”、と書かれている」という
  2. ^ 園田学園女子大学名誉教授田辺眞人によれば、「私の祖母が、そのあたり一帯のかつての地主につながる家柄だったんですが、その祖母が、石原慎太郎さんが作家デビューして有名になった頃、こんなふうにいっていたのを記憶しています。“あの人は昔、大手に住んでいたんや。大手で慎太郎も裕次郎も生まれたんよ。あのへんは明治くらいまで一本松という大きな立派な松の木があって、石原一家はその松の木の南側の家に住んでいたんよ。山陽電鉄の東須磨駅と板宿駅の間に、昔は大手という駅があって、そのすぐそばやった。”(父親の潔さんは)そこから電車で会社に行ってはったようですよ。家は山下汽船の社員寮で、一見長屋風だったらしい。あの辺は比較的階層が高い人が住んでいて、いわゆる中産階級より少し上のクラスの人が住むところでした。だから社員寮もかなり立派で、造りは長屋風といっても、それぞれ独立した一軒家だったようです。もうその家はとっくにとりこわされていますし、当時のことを知る人もまずいないでしょうね」という(佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』45-46頁)
  3. ^ 知事の部屋/知事のプロフィール|東京都によると、最終学歴は「一橋大学法学部卒業」となっている
  4. ^ 「中学高校時代、私は業苦に近い俗物秀才教育の檻の中にいた」。慎太郎は昭和四十九年に出版された『対極の河へ』のなかで、そう言い放っている
  5. ^ 鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞
  6. ^ NHK「爆笑問題×東大 東大の教養」2006年5月27日深夜放送、読売新聞調査研究本部調べ
    爆笑問題のニッポンの教養 | 書籍・DVD
    ETV特集 爆笑問題×東大 ~東大の教養 決定版~
  7. ^ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁
  8. ^ a b 石原慎太郎・裕次郎の母 グレートマザー物語 2002年2月24日
  9. ^ 母・光子が広島県人であるのは古くから知られていた。1971年に出版された『日本人研究 〈第2巻〉』(板坂康弘著、流動)広島県人の項、259-260頁に「石原慎太郎は父の勤務につれてあちこちで育ったが、血脈は広島である。石原も躁鬱気質の典型的な広島県人」と論じている。
  10. ^ 『人事興信録』
  11. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』180頁
  12. ^ 石原慎太郎公式ウェブサイト 宣戦布告 鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞
  13. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』217頁
  14. ^ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』218頁に「ちなみに一橋大には商学部、経済学部、法学部、社会学部の四学部があり、入学試験は第二志望まで希望することができた。慎太郎は公認会計士を目指していたので、おそらく商学部を志望していたはずである。だが入学試験の成績が第一志望の商学部の水準に達しなかったのか、実際に入ったのは法学部だった。」とある。なお新制大学への移行当時は、商学部・経済学部・法学社会学部の3学部であったが、慎太郎が入学する前年の昭和26年(1951年)に学部改組が行われ、法学社会学部が法学部と社会学部に分離した。(一橋大学/キャンパスガイド|大学受験パスナビ:旺文社)
  15. ^ >『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』218-219頁
  16. ^ 「太陽族映画に反発 各地で観覧を禁止」『朝日新聞』1956年8月3日付朝刊。
  17. ^ 業田良家『シアターアッパレー現代政治家体系』100頁
  18. ^ 『サンデー毎日』 1956年9月9日号」
  19. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』195-196頁
  20. ^ ただし、政策推進の動機である「犯罪の増加」については、「メディア報道が増えたことによる印象に過ぎず、統計的に否定される」との批判がある(久保大『治安は本当に悪化しているのか』公人社 ISBN 978-4-344-00795-6 著者は元都治安対策担当部長)。
  21. ^ 新銀行東京:累積赤字1016億円毎日.jp2008年3月7日
  22. ^ 新銀行東京、開業以来初の黒字計上へ MSN産経ニュース 2009年7月6日
  23. ^ 『文藝春秋』 1999年7月号
  24. ^ [リンク切れ] 東京都議会本会議議事録 2004.2 d5224214.htm
  25. ^ 利用者指向の「開かれた福祉」を目指して (H12.12 福祉保険局)
  26. ^ [リンク切れ]東京都の福祉保健予算
  27. ^ http://www1.dnet.gr.jp/~bod303/425.htm
  28. ^ ちなみに、大阪府立大学など3つの大学を統合して設立した大学の名称は「大阪府立大学」である。
  29. ^ 東京都立大学21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」について(H16.10 東京都立大学)
  30. ^ 『毎日新聞』2004年10月20日
  31. ^ 大塚直『環境法』
  32. ^ TDK テクの雑学 第56回「クリーン・ディーゼルエンジン」(2006.10)
  33. ^ 大塚直『環境法』
  34. ^ 「ディーゼル車に復権の兆し 技術革新で『環境に優しく』」‐『産経新聞』2006年8月21日
  35. ^ 『産経新聞』2009年3月2日朝刊 1面
  36. ^ 【日本よ】石原慎太郎 果断な措置なくして再生はない - MSN産経ニュース(2009.03.02)
  37. ^ 「首都移転にNO!」 (東京都知事本局地方分権推進室国政広域連携・首都調査担当)
  38. ^ 第153回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第7号(平成13年12月7日(金曜日))
  39. ^ 『日本経済新聞』2001年12月22日朝刊 29面
  40. ^ 8年ぶり公開討論会、五輪で石原氏袋叩き日刊スポーツ2007年3月16日
  41. ^ 石原都知事、五輪招致失敗なら“辞任”もスポーツ報知 2007年3月16日
  42. ^ 「皇太子さまの五輪招致、宮内庁『難しい』石原知事反発」アサヒコム2008年7月4日
  43. ^ オリンピック招致に皇室の関与を求める石原知事に申し入れ都議会民主党
  44. ^ 『毎日新聞』2006年6月24日付朝刊
  45. ^ リオのクレーム、矛先は裏取引におわした石原会見 読売新聞 2009年10月6日
  46. ^ 「リオ、五輪で石原知事発言にクレーム…中身は不明」 読売新聞 2009年10月6日
  47. ^ “石原知事「本当のこと言った」 リオ反発にも修正せず”. 47NEWS. (2009年10月9日). http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100901000640.html 2009年12月3日閲覧。 
  48. ^ “2020年夏季五輪「私の責任で立候補する」石原都知事、招致に意欲”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2009年11月9日). http://sankei.jp.msn.com/politics/local/091109/lcl0911091442000-n1.htm 2009年11月10日閲覧。 
  49. ^ 慎太郎にダメ出し…三宅島公道でオートバイレース構想 www.iza.ne.jp 2月21日
  50. ^ 三宅島のオートバイレース、都が3億4千万円計上へ asahi.com 2006年12月14日
  51. ^ 石原知事定例記者会見録 2006年9月29日
  52. ^ 『毎日新聞』 2007年3月10日
  53. ^ 慎太郎ポロリ「築地にNHK」で大波紋 ZAKZAK 2006年9月11日
  54. ^ 『日本農業新聞』 2007年10月7日
  55. ^ 児童虐待ゼロの東京をめざして―日本共産党都議団の提言
  56. ^ “平成22年第1回定例会録画映像”. 東京都議会. (2010年3月2日). http://www.gikai.metro.tokyo.jp/live/video2010-t1.html 2010年3月20日閲覧。 
  57. ^ “【石原知事会見詳報】2次元児童ポルノ「僕の目で判断したい。君(記者)が提供して」(3/3ページ)”. 産経新聞. (2010年3月19日). http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100319/lcl1003191717004-n3.htm 2010年3月20日閲覧。 
  58. ^ 漫画規制、再び 愛媛新聞連載「地軸」2010年12月3日
  59. ^ 「君側の奸・浜渦副知事を切れ!」‐『週刊新潮』2003年4月24日
  60. ^ a b 石原知事定例記者会見2006年6月3日
  61. ^ 『日本経済新聞』2006年6月5日
  62. ^ 石原知事定例記者会見2000年10月27日
  63. ^ 【石原知事発言から】懐刀失い非常に残念 asahi.com 2006年7月26日
  64. ^ 『読売新聞』2007年2月22日
  65. ^ [リンク切れ] http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007032200471
  66. ^ 第11回全国情報公開度ランキング 都道府県 総合ランキング
  67. ^ 「情報公開が争点に浮上」毎日インタラクティブ (2007.3.10)
  68. ^ 石原都知事に都政の私物化批判、四男関わる事業に…-政治もニュース:イザ!(2006.11.25)
  69. ^ 『週刊現代』2007年1月6日・1月13日号、『FACTA』2007年2月号、『朝日新聞』2008年2月16日社説([リンク切れ] 「新銀行東京―石原知事は失敗を認めよ」)
  70. ^ 『毎日新聞』2007年1月30日
  71. ^ 「飲食費公費支出 石原都知事ら一部敗訴が確定」産経新聞
  72. ^ 『毎日新聞』2007年3月12日
  73. ^ 「東京マラソン2007」のスペシャルサポーターが決定(2007 年2月8日発行 フジテレビ広報部のリリース) また、良純は『週刊新潮』の自身の連載『石原良純の楽屋の窓』の中でも「お前もメディアで働く人間ならば、大会が大勢の人に認知され、成功するように協力してくれ」として生まれて初めて親父に頭を下げられたと語っている。
  74. ^ 『週刊朝日』2007年3月9日号 同記事には疑惑を否定するフジテレビと石原良純事務所の見解もあわせて掲載された。
  75. ^ 『週刊ポスト』2007年3月2日号
  76. ^ The World Today Archive - Japan's Le Pen (2002.5.2)(英語)
  77. ^ 中央日報 - 「中国が北朝鮮と合併するのがいちばん楽」 (2009.1)
  78. ^ 石原都知事が「現代美術は無」-仏メディアが批判(2006.4.28 しんぶん赤旗)
  79. ^ 『文藝春秋』1959年8月号
  80. ^ 『産経新聞』2002年10月21日
  81. ^ はてなブックマーク - 「宮内庁ごときが決める問題ではない」石原知事が反発 五輪招致 皇太子さまご協力問題 - MSN産経ニュース(2008.7.4)
  82. ^ この処分に対し東京都立学校の教職員173人が、都に処分の取り消しと1人あたり55万円の賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしている(asahi.com:君が代不起立で処分は違法 173人が提訴 東京地裁 - 石原都政特集(2007年2月9日)
  83. ^ 『産経新聞』2005年9月5日
  84. ^ 朝日新聞』1999年9月18日
  85. ^ 沢木耕太郎著 沢木耕太郎ノンフィクションIII 時の廃墟(ISBN 4163648704) p.222『シジフォスの四十日』
  86. ^ 『読売新聞』1987年11月20日付夕刊。いわゆる石原本人の関与の有無は明らかとなっておらず、秘書の責任ということになっている。
  87. ^ 『朝日新聞』2000年4月12日
  88. ^ LARIMER, TIM; Sakamaki, Sachiko (April 24), “Rabble Rouser”, TIMEasia (Tokyo) 155 (16), http://www.time.com/time/asia/magazine/2000/0424/cover1.html 
  89. ^ 「あきれたメディア事情」石原慎太郎エッセイ『日本よ』(2003.06.02 産経新聞)
  90. ^ “'There's No Need For an Apology'”, TIMEasia (Tokyo) 155 (16), (April 24), http://www.time.com/time/asia/magazine/2000/0424/int.ishihara.html 
  91. ^ 産經新聞2001年5月8日
  92. ^ [ http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_12/g2004121501.html 慎太郎「当然だ!」…日韓発言誤報TBS社員が送検](2004.12.15 ZAKZAK)
  93. ^ 東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員一同「石原東京都知事に発言の撤回を求める」 2004年10月31日、2004年11月01日更新、2010年2月21日取得。なお、同声明の中で、「相手国の言語と文化をいたずらに貶めて恥じないような人物を、東京都の長の座に、そして大学設置主体の最高責任者の座に戴いてしまったことの不幸を、良識ある東京都民、現・東京都立大学の教職員、学生諸君とともに心より嘆く」と述べ、また、「フランス語の講師が8人云々」の発言に対し、「現・東京都立大学において、フランス語を学ぶ学生は、毎年、数百人の規模で存在しており、また、人文学部フランス文学専攻に在籍する学生の数(昼間部・夜間部の上限定数、各学年それぞれ9名・3名)がゼロであった年度など、いまだかつて一度もなかった」とも述べている。
  94. ^ 東奥日報』2007年3月19日
  95. ^ 『朝日新聞』2000年4月26日
  96. ^ 「姜尚中氏の福岡応援に石原知事反発 『怪しげな外国人』」『朝日新聞』2006年08月30日。
  97. ^ 斎藤貴男「二極化・格差社会の真相:もはやチンピラ小学生以下の石原暴言」『日刊ゲンダイ』9月5日号、2006年9月4日。
  98. ^ a b ニューズウィーク』日本版 2002年6月19日 第17巻23号 通巻812号 P.27
  99. ^ “【石原知事会見詳報(1)】外国人参政権「危ない試み。発想おかしい」(1/3ページ)”. 産経新聞. (2010年1月15日). http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100115/lcl1001152329003-n1.htm 2010年1月15日閲覧。 
  100. ^ “石原都知事、「絶対反対」 永住外国人への地方参政権付与に”. 日本経済新聞. (2010年1月15日). http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100115AT3B1501B15012010.html 2010年1月15日閲覧。 
  101. ^ “外国人参政権「絶対反対」=永住するなら国籍取得を-石原都知事”. 時事通信. (2010年1月15日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010011500801 2010年1月15日閲覧。 
  102. ^ “石原都知事 永住外国人の地方選挙権「絶対反対」”. スポーツニッポン. (2010年1月15日). http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20100115150.html 2010年1月15日閲覧。 
  103. ^ “外国人参政権 都議会で答弁 知事「絶対反対だ」(1/2ページ)”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2010年3月4日). http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100304/tky1003041204000-n1.htm 2010年3月10日閲覧。 
  104. ^ 「次代の日本と世界を担う若者とは…」平成17年度第1回「~東京ビッグトーク~石原知事と議論する会」議事概要(H17.8.5)
  105. ^ 石原知事臨時記者会見録 平成18(2006)年1月18日(水)
  106. ^ [リンク切れ]都議会ネットリポートno_4/04.htm
  107. ^ [リンク切れ] 東京都議会本会議議事録 2007-1/d5117211.htm
  108. ^ {カフェ難民の報道おかしい 石原都知事 東奥日報 2008年10月3日[リンク切れ]
  109. ^ [リンク切れ] 石原都知事:「山谷は200~300円」発言を撤回 毎日新聞 2008年10月11日
  110. ^ [リンク切れ] 石原知事、派遣村問題で国に苦言「大事な現場を知らない」 MSN産経ニュース 2009年1月5日
  111. ^ NPO法人JKSK「異議あり-偉そうな男たちの言葉の暴力-(松信章子)
  112. ^ 週刊女性』2001年11月6日号
  113. ^ 『朝日新聞』(東京版)2004年9月25日付「中学生の性交渉条例で禁止せず 知事が表明」
  114. ^ 都青少年健全育成条例改正案:PTA団体など、都に成立求め要望書 /東京 毎日新聞 2010年12月4日 地方版
  115. ^ 石原都知事:同性愛者「やっぱり足りない感じ」毎日jp  2010年12月7日
  116. ^ 【肥田美佐子のNYリポート】米人権団体が石原都知事の同性愛差別発言に「ノー」 ウォールストリートジャーナル日本版
  117. ^ 日本:東京都知事は同性愛者差別発言を撤回すべき | Human Rights Watch
  118. ^ TSSA2010 ラズベリー賞の発表!!” (日本語). PRESS. Tokyo SuperStar Awards (2010年12月8日). 2010年12月10日閲覧。
  119. ^ “石原都知事、TSSAラスベリー賞を受賞” (日本語). GAY LIFE JAPAN (東京都: コチ株式会社). (2010年12月9日). http://www.gaylife.co.jp/?p=1286 2010年12月10日閲覧。 
  120. ^ 『毎日新聞』2007年4月28日
  121. ^ しんぶん赤旗』2007年3月28日
  122. ^ 「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」石原都知事(Asahi.com、2011年3月14日)
  123. ^ 大震災は「天罰」と石原知事 「津波で我欲洗い落とせ」2011/03/14 21:00 共同通信
  124. ^ 石原知事、天罰発言撤回・謝罪「深く傷つけた」(YOMIURI ONLINE、2011年3月15日)
  125. ^ 「自国民にまで毒舌」…石原都知事の「天罰」発言を非難=韓国
  126. ^ 石原慎太郎知事、「原発推進論者」と発言
  127. ^ 東京中央郵便局:都が建て替え認める都市計画決定 毎日新聞 2009年3月6日
  128. ^ 2005年9月27日、都議会本会議にて、靖国神社参拝をやめるよう追及した吉田信夫に対しての発言。
  129. ^ 2008年3月20日新聞台新聞夜視界
  130. ^ 『朝日新聞』2006年7月4日
  131. ^ 『FACTA』2007年3月号
  132. ^ 『朝日新聞』2008年8月12日
  133. ^ 『産經新聞』2001年5月8日
  134. ^ 「「独裁国家なんだからしっかりしろ」石原知事、毒餃子で苦言」政治も‐地方自治ニュース:イザ!(2008年1月31日産経新聞)
  135. ^ 中央日報 - 石原都知事「日本が第2次大戦起こして植民地が独立」(2008年2月15日中央日報)
  136. ^ 石原慎太郎都知事のふざけた「差別感覚」 - Web現代 MouRa BIGLOBE edition
  137. ^ 石原都知事、「中国が北朝鮮を合併するのが一番楽」 AFP・BBニュース2009年1月13日付
  138. ^ 韓国、石原都知事発言に反発 沈黙の政府にも批判 茨城新聞2009年1月14日
  139. ^ 石原都知事発言に北朝鮮「容赦しない」 スポニチ・アネックスニュース・2009年1月17日
  140. ^ 『芸能人別帳』ちくま文庫
  141. ^ アパルトヘイトへの加担の罪 2008年9月20日閲覧
  142. ^ l 祝辞全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会:シンポジウム】、全国犯罪被害者の会を支援するフォーラム代表/首都大学東京理事長高橋宏氏全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会:シンポジウム】。
  143. ^ 松村恒夫「犯罪被害者の現状と必要な支援」内閣府,2008年
  144. ^ 「犯罪被害者週間」国民のつどい」内閣府,2006年
  145. ^ 「てっぺん野郎本人も知らなかった石原慎太郎」佐野眞一 ISBN 4062119064
  146. ^ あした21 (2002年)11月号のご案内
  147. ^ あした21 (2005年)1月号のご案内
  148. ^ 霊友会 新年会
  149. ^ 東京都知事選 共産党が推す吉田万三氏 自公民が支える石原都政変える確かな力(2007.3.1 しんぶん赤旗)
  150. ^ [リンク切れ]http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/69566/
  151. ^ 『週刊文春』2007年3月29日号
  152. ^ 石原慎太郎『法華経を生きる』 ISBN 4344400011
  153. ^ 教育改革に関する意見(戸塚ヨットスクール)
  154. ^ THE DEMON IN THE PROTOCOLS(Garry Greenwood,英語)
  155. ^ 『崇教真光』誌平成13年12月号
  156. ^ 『崇教真光』誌平成16年12月号
  157. ^ “【石原知事会見詳報(2)】高橋大輔選手の銅メダル「まあ、銅から始めようだな」(3/3ページ)”. 産経新聞. (2010年2月19日). http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100219/lcl1002192319007-n3.htm 2010年3月20日閲覧。 
  158. ^ “石原都知事「銅メダルで狂喜する、こんな馬鹿な国ない」”. 朝日新聞. (2010年2月26日). http://www.asahi.com/national/update/0226/TKY201002250536.html 2010年3月20日閲覧。 
  159. ^ “「構わず首相を殴れ」 観閲式めぐり石原都知事が発言”. 北海道新聞. (2010年6月20日). http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/237582.html 2010年6月20日閲覧。 
  160. ^ 1999/05/31, 日本経済新聞
  161. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』219頁
  162. ^ “【日本よ】石原慎太郎 尖閣、国家としての試練”. 産経新聞. (2010年10月4日). http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101004/plc1010040339002-n3.htm 2010年10月4日閲覧。 
  163. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 30頁
  164. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 47頁
  165. ^ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁によれば「入学から一年もしないうちに同校を中退している。中退の理由はわからない」という
  166. ^ 店童(てんどう)とは、海運会社独特の制度で、商店でいえば丁稚に相当し、宿舎と食事は確保してくれる代わりに、給料は一切なかった。便所掃除、社員の磨き、使い走り。店童(てんどう)は上司から命じられれば何でもやらなければならなかった。時には、入れや、なじみの遊郭女郎菓子を届けることまでやらされた(『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31-32頁)
  167. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 57-58頁
  168. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 49頁
  169. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』53頁
  170. ^ 『石原慎太郎よ、退場せよ!』42頁
  171. ^ 石原慎太郎『法華経を生きる』99頁
  172. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』64頁
  173. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』62頁
  174. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』255頁
  175. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』259頁
  176. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』262-263頁
  177. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』48-54頁
  178. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』404頁
  179. ^ 落ちぶれること。
  180. ^ 愛媛県八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺は石原本家の菩提寺である(『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28頁)。
  181. ^ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』29頁。
  182. ^ 慎太郎は小泉が首相に就任する以前のインタビューで「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、親戚筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど(笑)」と述べている(系図でみる近現代より)
  183. ^ “田原総一郎のタブーに挑戦!(10.07.06)”. JFN. (2010年7月6日). http://www.ustream.tv/recorded/8105327 

参考文献

増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』 講談社文庫、2009年
  • 斎藤貴男『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』(岩波書店 2003年、ちくま文庫 2006年)
  • 江藤淳『石原慎太郎論』(作品社 2004年)
  • 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』(菁柿堂 2008年)
  • 前野徹『救世主石原慎太郎』(扶桑社文庫、2004年)
  • 別冊宝島編集部『石原慎太郎の値打ち』(宝島社文庫 2003年)
  • 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』(講談社文庫 2003年)
  • 浅野史郎ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』(人物文庫・学陽書房、2002年)
  • 上杉隆『石原慎太郎「5人の参謀」』(小学館文庫、2000年)
  • 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊>(旬報社 2004年)

関連項目

外部リンク


公職
先代
青島幸男
東京都知事 東京都の旗
民選第14・15・16代:1999年 -
次代
現職
先代
橋本龍太郎
日本の旗 運輸大臣
第59代:1987年 - 1988年
次代
佐藤信二
先代
丸茂重貞
日本の旗 環境庁長官
第8代:1976年 - 1977年
次代
山田久就

Template:石原慎太郎の家族