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2020年12月1日 (火) 11:44時点における版
江田 五月 えだ さつき | |
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2008年4月、参議院議長公邸にて | |
生年月日 | 1941年5月22日(83歳) |
出生地 | 日本 岡山県 上道郡財田村(現、 岡山市中区) |
出身校 |
東京大学法学部第3類卒業 オックスフォード大学大学院 法学部法律証書科修士課程修了 |
前職 |
裁判官 衆議院議員 参議院議員 民進党最高顧問 民進党岡山県総支部連合会顧問 |
現職 |
弁護士(岡山弁護士会登録) 岡山市水泳連盟顧問 日本鳥類保護連盟顧問 日中友好会館会長 |
所属政党 |
(社会市民連合→) (社会民主連合→) (日本新党→) (新進党→) (無所属→) (民主党→) (民進党→) 立憲民主党 |
称号 |
桐花大綬章 法学修士(オックスフォード大学・1971年) |
親族 | 父、江田三郎 |
公式サイト | 江田五月 新たな出発 |
第27代 参議院議長 | |
在任期間 | 2007年8月7日 - 2010年7月25日 |
天皇 | 上皇(平成の天皇) |
第87代 法務大臣 | |
内閣 | 菅第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年1月14日 - 2011年9月2日 |
第16代 環境大臣 | |
内閣 | 菅第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年6月27日 - 2011年9月2日 |
第50代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
選挙区 |
(全国区→) 岡山県選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1977年7月10日 - 1983年7月10日 1998年7月26日 - 2016年7月25日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (1983年12月19日 - 1996年9月27日) | |
第2代 社会民主連合代表 (1985年2月10日 - 1994年5月22日) |
江田 五月(えだ さつき、1941年5月22日 - )は、日本の弁護士(登録番号:15935)、政治家、元裁判官。立憲民主党岡山県連合顧問。
概要
衆議院議員(4期)、参議院議員(4期)、科学技術庁長官(第50代)、法務大臣(第87代)、環境大臣(第16代)、参議院議長(第27代)、社会市民連合代表、社会民主連合代表、民主党参議院議員会長、民主党・民進党最高顧問などを歴任。
菅直人首相による要請を引き受けた2011年の法務大臣就任により、議長経験者が退任後に大臣に就任という初めてのケースになった。以降に環境大臣にも同時に担当することで初の大臣兼任した議長経験者にもなった[1]。父は日本社会党委員長代行を務めた元衆議院議員の江田三郎。
経歴
生い立ちと裁判官時代
1941年に岡山県上道郡財田村長岡に生まれる。岡山県立岡山朝日高等学校卒業後、東京大学文科一類に入学。
東京大学教養学部自治会委員長時代、大学管理制度改革に反発し、全学ストを決行。このストを指揮したため、責任を取る形で退学処分が下った[2]。
法学部で丸山眞男の薫陶を受け、吉野作造の研究に従事しながら法律を勉強し、東大在学中の1965年に司法試験に合格(全受験者中席次は10番)。
東大法学部卒業後、司法研修所入所。
司法修習第20期の同期には横路孝弘、高村正彦、神崎武法、村井敏邦らがいる。
司法修習を経て、裁判官の道を選択し、東京、千葉、横浜各地方裁判所で判事補を務めた。
1969年、人事院留学制度により、黒田東彦、林康夫らと共にオックスフォード大学大学院法学部に留学し修士課程を修了[3]。
国会議員へ
1977年5月22日、自身36回目の誕生日に父・江田三郎が急逝。江田三郎は1977年3月に日本社会党を離党し、菅直人、安東仁兵衛らを誘って社会市民連合を結党したばかりだった。三郎は当時落選中で、第11回参議院議員通常選挙に立候補する腹積もりであったが、公示日直前の5月22日に急逝した。そのため五月が代わりに担ぎ出され、社会市民連合公認で全国区から立候補し、参議院議員に初当選する。
社民連時代
1978年、社会党を離党し社会クラブを結成していた田英夫、楢崎弥之助、秦豊らが加わり、社会民主連合(以下、社民連)を結党。社民連の代表には田が就任し、江田は副代表に就任。
1983年6月26日の第13回参議院議員通常選挙には出馬せず、同年12月の第37回衆議院議員総選挙に旧岡山県第1区から社民連公認で出馬し、衆院に鞍替えした。
1985年には社民連代表に就任した。代表を務めた社民連では自由民主党一党の保守政権に代わる野党連合政権の樹立を志向し、社民連を結節点にした社会・民社3党での「ブリッジ会派」構想や、公明党を加えた「社公民連合政権」構想を唱えた。
しかし、1986年の衆参同日選挙で自民党が304議席を獲得して圧勝したため、連合政権構想は遂に陽の目を見ないまま終わった。
1992年、自民党内では羽田孜、小沢一郎らを中心に改革フォーラム21が結成されたほか、大前研一の平成維新の会、細川護煕の日本新党が相次いで誕生。
江田は政策集団シリウスを結成し、社会党右派も巻き込んだ改革派勢力の結集を図る(社会党内でも赤松広隆ら、若手改革派の台頭の兆しが見え始めていた)[4]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙では、自民党を離党した羽田孜・小沢一郎らの新生党、武村正義・田中秀征・鳩山由紀夫ら新党さきがけ、細川護煕・小池百合子ら日本新党が大きく議席数を伸ばし、「新党ブーム」が巻き起こる。
その結果、自民党の議席は過半数を割り込み、宮澤喜一首相は退陣に追い込まれた。宮澤内閣の退陣により、非自民・非共産8党派による細川内閣が誕生し、江田は科学技術庁長官に就任した。
日本新党→新進党→知事選挙落選
1994年、社民連が解党し、江田・阿部昭吾は日本新党に入党。同党副代表に就任する。しかし、同年4月に細川首相は8ヶ月で辞意を表明し、続く羽田内閣も社会党の連立離脱によって少数与党に転落し、6月に64日で退陣に追い込まれた。同年末、新進党結党に参加する。
1996年、岡山県知事選挙立候補準備のため、衆議院議員を辞職、新進党を離党。知事選では同じ岡山選出の加藤六月元農林水産大臣や、新進党を支持する創価学会からも支援を受けたものの、東大の後輩である自民党推薦の元建設官僚の石井正弘に敗れた。
民主党時代
民主党入党
知事選挙の後は新進党に復党せず、弁護士を経て民主党に入党。
1998年、第18回参議院議員通常選挙に岡山県選挙区から民主党公認で立候補し、2年ぶりに国政に復帰した。
2003年の衆議院東京都第6区補欠選挙では、元NHKアナウンサーで、参議院議員からの鞍替えを目指す小宮山洋子の選挙対策副本部長を務める(選対本部長は羽田孜)。なおこの補欠選挙は、かつて江田の公設秘書であった石井紘基が殺害されたことに伴うものであった。
2004年、改選議席数が2から1に改められた岡山県選挙区で再選。
参議院議長として
2007年の第21回参議院議員通常選挙で民主党が大幅に議席を増やし、与党は参議院では過半数を割り込んだ。そのため、8月の臨時国会で全会一致で参議院議長に選出される(副議長は山東昭子)。野党から参議院議長が選出されるのは1955年の自民党結党以来初めての出来事であった。
2007年8月30日に日本記者クラブで行った講演で、衆議院議決法案を参議院が修正か否決(または60日間未議決)しても衆議院で再議決できるとする日本国憲法第59条第4項について、「例外中の例外の規定だ」と述べた[5]。
2007年11月30日、額賀福志郎の山田洋行事件に関して民主党が野党単独で証人喚問を議決したことについて「円満にできるように取り計らってもらえないか」と慎重な対応を呼びかけた[6]。
2010年7月の第22回参議院議員通常選挙では、参議院議長ながら民主党公認で岡山県選挙区から立候補し、当選。通常、中立性を守るために衆参両院の正副議長は所属する会派から離脱するのが1971年以降からの慣例であり、会派を離脱している議長が政党の公認を受けて参議院議員選挙の選挙区(旧地方区)に立候補するのは1971年以降では初の出来事であった[7]。
第22回参議院議員通常選挙後、参議院議長を退任(後任は西岡武夫)。
参議院議長退任後
参議院議長を退任後、民主党最高顧問、倫理委員長に就任した。
2011年1月14日、菅再改造内閣で法務大臣に就任し、18年ぶりに2度目の入閣。三権の長である国会の議長経験者の入閣は、第2次田中角栄改造内閣で法務大臣に就任した元衆議院議長の中村梅吉以来、実に38年ぶりの出来事であった[9]。
同日の法相就任時の記者会見において「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はする」などと述べたが[10][リンク切れ][11]、同年1月26日のインタビューで「欠陥というとちょっと言葉がきつすぎるので訂正したい」と撤回。その上で「どんな命も大切にということが世の中になければ、温かい人間社会はできない。そういう意味で、取り返しのつかない死刑にどう向き合うかは本当に悩ましい」と述べた[12]。なお、江田は在任中、一度も死刑執行の署名はしなかった[13]。
法相就任まもない2011年1月18日、2009年の第45回衆議院議員総選挙で掲げたマニフェストの見直しを民主党が表明したことに関し、江田は記者会見で「(あのマニフェストは)われわれが政権にいないときに、霞が関(の官僚)が民主党には十分な情報を提供しない中で、『心眼で見るとこうじゃないか』ということで作った部分がある」と発言した[14][15]。またそれに続けて「実現するには、いろんな隠れた障害があった。実際に政権を担当して、いろんなことが分かってきている。世の中の状況の変化もあり、マニフェストについて一度きっちりと点検をし、より成熟させる部分があればそうしていく」と発言した[15]。マニフェスト見直しの背景として、政権交代前に民主党は「天下りの斡旋を全面禁止して特別会計・独立行政法人・公益法人の仕事を徹底的に見直す[16]」「国家公務員の総人件費2割削減[16]」「ひもつき補助金廃止[16]」「衆議院の比例代表定数を80削減[16]」などの行政改革と予算の組み換えによって16.8兆円の新しい財源を生み出すとしていたが[16]、そのあてが外れ、このままあのマニフェストを掲げていたのでは2012年度の予算が組めなくなるという事情があった[14]。そのような状況でなされたこの「心眼マニフェスト発言」に対し、産経新聞の阿比留瑠比は、江田の発言を「釈明」とし[14]、「官僚が手取り足取り教えてくれないからテキトーにつくったでは、政治主導の看板が泣く[14]」「御都合主義ここに極まれり[14]」と批判した。
大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件の反省に立って作られた法相の諮問機関である「検察の在り方検討会議」は、警察・検察官による被疑者取り調べの可視化(録画・録音)[17]について「直ちに充分な検討を行う場を設け、検討を開始するべきである」との表現にとどめていたが、江田は2011年4月8日、地検特捜部による被疑者取り調べ時の可視化試行を検事総長の笠間治雄に指示した[18]。指示を受けた笠間は、録音・録画の試行を実施した。8月8日、江田は可視化の範囲を裁判員裁判のすべての対象事件に拡大するよう指示した[17][19]。
2011年6月27日より環境大臣の松本龍が同内閣において東日本大震災復興対策担当大臣に専任大臣として就任したため、後任の環境大臣を兼務した。同年9月、野田内閣発足に伴い退任。民主党最高顧問に再び就任した。10月21日に行われた参議院憲法審査会の会長選挙では22票を獲得したが、23票を獲得した自民党の小坂憲次に敗れた[20]。
2013年12月18日から20日に戦後補償を考える議員連盟の団長として訪韓した。
2016年の第24回参議院議員通常選挙には立候補せず、政界を引退した。
議員引退後
2016年11月3日に発令された秋の叙勲では、「参院議長などとして国会の円滑な運営に寄与した」として、桐花大綬章を受章[21]。
発言
- 2002年に鈴木宗男事件が発覚した時は「利権政治の代表的存在[22]」「金にまつわる黒いうわさの人[23]」と鈴木宗男に批判的なコメントを発表した。一方で、2010年9月に民主党が告発に賛成した偽証罪を含めた4つの罪で鈴木の実刑が確定した時は「魅力的なキャラクターで北の大地の輿望を担い、民主党会派に所属して活動しており、(実刑確定による国会議員失職は)残念な結果[24]」と鈴木の議員失職を惜しむコメントを発表した。
政策・主張
- 1999年、国旗及び国歌に関する法律案の参議院本会議における採決で反対票を投じた[25]。
- 2006年4月26日に東京・永田町の参議院議員会館で行われた「共謀罪に反対する超党派国会議員と市民の緊急院内集会」で呼びかけ人を務めた[26]。
- 2008年1月、ガソリン国会で暫定税率問題で与党の2ヶ月延長法案(ブリッジ法案)を巡って国会が空転した際、河野洋平衆議院議長と連名で斡旋案を提示。斡旋案には年度内に予算及び歳入法案の徹底した審議を行い年度内に一定の結論を得ることで与党と野党が合意すること、それにより与党はブリッジ法案を取り下げることが規定されていた。これに与野党が合意したため、与党はブリッジ法案は取り下げた。
- 2013年4月18日、憲法改正に反対する超党派議員連盟立憲フォーラムの顧問に就任。
- 選択的夫婦別姓の導入に賛成。「非常に多様な生き方をすべて認め、その上で新しい形の地域社会やコミュニティーというものを創造していく、それが二十一世紀の課題になるのではないか。選択的夫婦別姓というものはこのような多様な家族の形態に適切な法的枠組みを提供する、その一つに使えるものであり、むしろ婚姻を増加させる、あるいは少子化問題への新しいアプローチを開いていく、多様な家庭形態の中での一つの中心的な形態として二十一世紀の地域社会の有効な担い手となっていくものである」と述べている[27]。
- 国立追悼施設を考える会発起人を務める。
- 辛光洙釈放署名問題 1989年、在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名した。この中には当時から拉致事件容疑者として韓国で逮捕され、日本でもすでに大手新聞等で報道されていた北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者が含まれていた(辛光洙の項目参照)。田英夫の求めで、菅直人(後の第94代内閣総理大臣)・千葉景子(後の第83・84代法務大臣)らもこの釈放署名要望書に署名した。
慰安婦問題
- 2007年2月21日、マイク・ホンダがアメリカ合衆国下院121号決議を成立させる動きに連動し、米議会の公聴会で慰安婦を名乗り証言した李容洙を招いて開催した集会に、民主党の郡和子(衆)、岡崎トミ子(参)、円より子(参)、千葉景子(参)、那谷屋正義。社民党の福島みずほ(参)、日本共産党の吉川春子(参)とともに参加した[28]。
- 2008年1月8日に訪日したアメリカ合衆国下院議員のマイク・ホンダに、神本美恵子・水岡俊一・紙智子・仁比聡平らとともに面会。ホンダが慰安婦問題に関して日本政府に公式な謝罪を要求するアメリカ合衆国下院121号決議の提出を主導し、下院で議決させたことに対し、謝意を表明した。これに対しホンダは「従軍慰安婦の問題で日本人に罪を認めさせるのは、とても難しい課題だが、みなさんとセイムなハート(同じ気持ち)だ」と応じた[29]。
- 戦後補償を考える議員連盟の第三回訪韓団(2013年12月18日〜20日)の団長だった。全員で11名の団員には議連事務局長の神本美恵子参議院議員、議連の顧問(初代会長)の岡崎トミ子前参議院議員、議連顧問(前会長)の藤谷光信前参議院議員、議連副事務局長の石毛鍈子前衆議院議員、議連幹事の大河原雅子前参議院議員、議連幹事の小林千代美元衆議院議員らと議連アドバイザーで戦後補償ネットワーク世話人代表である有光健、江田の秘書の江田洋一、神本美恵子の秘書の大塚照代、大河原雅子の秘書の塩田三恵子の計11名であった[30]。韓国女性家族部の趙允旋長官と面談し趙長官は、「日本国内の前後の問題への関心を持って活動をしていただく日本の議員の方がいて、日本軍慰安婦問題など過去の問題の解決に期待感を持つことができそうだ」と明らかにした。江田は「慰安婦問題が悪化されるのに対し、心痛く思います。橋下徹大阪市長は、河野談話が根拠が無いとしたが、河野談話や村山談話は、その根拠があると思う」との見方を示した。神本美恵子は「慰安婦問題は、過去ではなく、現在の問題と長官の認識に共感する。日本国内での紛争であり、性暴力の解決行動課題に慰安婦問題を含んでいうと努力している」ことを強調した[31][32][33]。
人物
- 趣味は古式泳法、書道。号は水月。日中国会議員書画展へ書画を提供している。[34]
- 公益財団法人日中友好会館の会長を務めている[35]。
- 愛媛県今治市に獣医学部を新設するための活動をしていた。民主党の愛媛県・岡山県選出議員で特区をつくるために『獣医学勉強会』を開催している[36]。『「愛媛県今治市へ獣医学部を新設する件について」文科省・農水省ヒアリング』[37]として愛媛県と岡山県選出の民主党国会議員で『教育特区』を県内に設置するために役所職員と意見交換などもしている[38]。
- 社会市民連合時代からの菅直人の盟友であり、現在も菅グループの世話人を務めている。2010年の鳩山由紀夫の次を決める民主党代表選挙で自身がトップである民主党岡山県連所属の選出議員が菅直人ではなく小沢一郎に入れた時には激怒しポスターを剥がしたり看板を撤去し最後に公認外しをするなどしたほど菅直人のことを大切に思っている[39]。
- 菅第2次改造内閣にて、参議院議長経験者が退任後に大臣に就任した初めての国会議員になったが、2011年3月9日に法務委員会にて就任前には悩んだことを明かして菅直人による『議長経験者が必要』という要請と思いを共有したいとして就任受諾したと答弁している[40]。
- 立憲民主党の岡山県選出の高井崇志は元議員秘書であり、2002年に江田と出会って政治のイロハを教わったことで政治家を目指した弟子である。高井には自身の結婚記念日に表敬訪問され、岡山が生んだ偉大な政治家だと評されているほど尊敬されている[41][42]。
政治資金
- 2009年9月30日、秘書と後援者のクラブでの会食の際の支払いを政治資金から支出していたと指摘された[43][44][45]。これについて、事務所は秘書が後援者たちとともに飲食を共にしたものの江田自身の関与はなかったとしている[43][44]。
著書
所属していた議員連盟
- 戦後補償を考える議員連盟(会長)
- NPO議員連盟(共同代表)[46]
- 東京オリンピック・パラリンピックに向けて受動喫煙防止法を実現する議員連盟(顧問)[47]
脚注
- ^ [1]「第177回 衆議院 法務委員会 平成23年3月9日 第2号|国会会議録検索システム」
- ^ 全学自治会中央委員会議長だった今井澄(のち民主党参院議員)も退学処分、副委員長の中島義雄は一年間の停学処分を受けた。
- ^ 江田五月 活動日誌 2015年9月29日
- ^ グループの名称は父・三郎が第2次人民戦線事件に関与して服役中、面会に訪れた妻・光子にかけた言葉「シリウスは見えるか」に由来する。シリウスは夜明けの訪れを意味する。
- ^ 日本記者クラブでの講演公式サイト 2007年8月30日
- ^ 額賀財務相の証人喚問、中止が決定日テレNEWS24 2007年11月30日
- ^ 1971年の議長会派離脱慣例化以降で現職参議院議長が参院選の選挙区(旧地方区)に立候補した例は1977年の河野謙三(神奈川県)、1980年の安井謙(東京都)、1989年の土屋義彦(埼玉県)、1998年の斎藤十朗(三重県)があるが、いずれも無所属候補として立候補し当選をしている。なお、比例区(旧全国区)では1983年の徳永正利が自由民主党の名簿第1位に搭載され、当選している。
- ^ 中国建国記念レセプション 日本の議員50人出席もあいさつなし - MSN産経ニュース
- ^ 日本国憲法下における衆議院議長経験者の閣僚就任は大野伴睦(1953年3月14日議長退任・1954年1月14日北海道開発庁長官就任)、松永東(1955年1月24日議長退任・1957年7月10日文部大臣就任)、益谷秀次(1958年4月25日議長退任・1959年6月18日副総理就任)、中村梅吉(1973年5月29日議長退任・1973年11月25日法務大臣就任)の4例がある。
- ^ 死刑「欠陥抱えた刑罰」=世論踏まえ執行判断-江田法相時事ドットコム 2011年1月15日
- ^ YOMIURIONLINE2011年1月14日
- ^ asahi.com2011年1月26日
- ^ “「死刑、問題提起した」 江田法相、執行せず辞任”. 日本経済新聞 電子版 (2011年8月30日). 2018年12月21日閲覧。
- ^ a b c d e 阿比留瑠比 (2011年1月22日). “【菅政権考】「マニフェスト詐欺」の反省を示せ(1/3ページ)”. 産経新聞. オリジナルの2011年1月24日時点におけるアーカイブ。 2012年6月14日閲覧。
- ^ a b “江田法相「マニフェストは(野党時に)心眼で作った」見直しへ”. 産経新聞(ウェブ魚拓). (2011年1月18日) 2012年6月14日閲覧。
- ^ a b c d e 民主党 (2009年07月27日(2011年06月28日)). “民主党の政権政策Manifesto2009”. 2012年6月14日閲覧。
- ^ a b 中日新聞2011年9月25日
- ^ 東洋経済オンライン2011年4月11日
- ^ 共同通信2011年8月8日
- ^ 時事ドットコム2011年10月21日
- ^ 秋の叙勲4055人 江田元参院議長に桐花大綬章 - 日本経済新聞 2016年11月3日(同日閲覧)
- ^ 鈴木宗男議員逮捕について(談話)
- ^ 参議院本会議2002年7月31日
- ^ 江田五月 メールマガジン第995号
- ^ 第145回国会 1999年8月9日 投票結果 2015年1月11日閲覧。
- ^ 「共謀罪」反対で、超党派国会議員と市民の緊急集会
- ^ 第147回国会 法務委員会 第17号
- ^ 朝鮮新報 国会議員、市民団体ら 参院議員会館で集会 「慰安婦」解決促進法、早期制定を [2]
- ^ [3]
- ^ 第3回 韓国訪問報告書 [4]
- ^ 聯合ニュース日本語電子版「韓国女性家族部長官が日本議員と面談=慰安婦問題で」
- ^ 女性家族部長官、日本政府に日本軍慰安婦被害者問題解決要求
- ^ 第3回 韓国訪問報告書 [5]
- ^ [6]NPO法人日中国会議員書画展実行委員会
- ^ 会長あいさつ公益財団法人日中友好会館
- ^ [7]『6月29日(水) 勉強会、伝達式、那佐さんら、枝野長官、本田さん、法制審特別部会、ブルガリア、中国研修団、今井議員通夜』
- ^ [8]『江田五月 日程表 2011年6月』
- ^ [9]『6月30日(木) 就任挨拶まわり、中国青年、新聞協会、特区、取材、レセプション』
- ^ [10]『「民主党でいじめられた」~敗軍の将、兵を語るDigital版:日経ビジネスDigital』
- ^ [11]「第177回 衆議院 法務委員会 平成23年3月9日 第2号|国会会議録検索システム」
- ^ [12]『江田五月会の解散式に出席いたしました。 江田五月さんの最後の...』
- ^ [13]『元参議院議長の江田五月さん、京子さんご夫妻を我が家にお招きし...』
- ^ a b 民主5議員団体:「行きたいという後援者がいて…」 毎日新聞 2009年9月30日 [リンク切れ]
- ^ a b 民主5議員団体:クラブ、キャバクラ…政治活動費で飲食 毎日新聞 2009年9月30日 [リンク切れ]
- ^ “政治活動でキャバクラ利用 江田議長ら民主5議員団体”. 47NEWS/共同通信. (2009年9月30日) 2012年6月14日閲覧。
- ^ https://www.eda-jp.com/katudo/2014/04/24.html
- ^ “役員人事”. 東京オリンピック・パラリンピックに向けて 受動喫煙防止法を実現する議員連盟. 2019年6月6日閲覧。
関連項目
外部リンク
議会 | ||
---|---|---|
先代 扇千景 |
参議院議長 第27代:2007年 - 2010年 |
次代 西岡武夫 |
先代 朝日俊弘 |
参議院懲罰委員長 2006年 - 2007年 |
次代 中曽根弘文 |
先代 広中和歌子 |
参議院国家基本政策委員長 第4代:2002年- 2003年 |
次代 角田義一 |
公職 | ||
先代 松本龍 |
環境大臣 第16代:2011年 |
次代 細野豪志 |
先代 仙谷由人 |
法務大臣 第87代:2011年 |
次代 平岡秀夫 |
先代 渡辺省一 |
科学技術庁長官 第50代:1993年 - 1994年 |
次代 近江巳記夫 |
党職 | ||
先代 藁科満治 |
民主党参議院議員会長 第6代:2004年 - 2006年 |
次代 輿石東 |
先代 田英夫 |
社会民主連合代表 第2代:1985年 - 1994年 |
次代 解散 |
先代 江田三郎 |
社会市民連合代表 第2代:1977年 - 1978年 |
次代 解散 |