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就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、[[治安維持法]]違反の共産党員や[[二・二六事件]]の逮捕・服役者を[[大赦]]しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、[[荒木貞夫]]が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、[[真崎甚三郎]]の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え出した頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。
就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、[[治安維持法]]違反の共産党員や[[二・二六事件]]の逮捕・服役者を[[大赦]]しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、[[荒木貞夫]]が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、[[真崎甚三郎]]の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え出した頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。


[[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]をきっかけに[[日中戦争]](支那事変)が勃発した。[[7月9日]]に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍司令官・[[香月清司]]に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、[[今井武夫]]らの奔走により[[7月11日]]に現地の[[松井太久郎]]大佐(北平特務機関長)と[[秦徳純]](第二十九軍副軍長)との間で[[停戦協定]]が締結された。しかし近衞は[[介石]]が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け<ref>実際には介石は日記に倭寇の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。</ref>、同11日午後に総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、[[立憲民政党]]総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている<ref>秦郁彦『盧溝橋事件』</ref>。
[[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]をきっかけに[[日中戦争]](支那事変)が勃発した。[[7月9日]]に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍司令官・[[香月清司]]に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、[[今井武夫]]らの奔走により[[7月11日]]に現地の[[松井太久郎]]大佐(北平特務機関長)と[[秦徳純]](第二十九軍副軍長)との間で[[停戦協定]]が締結された。しかし近衞は[[介石]]が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け<ref>実際には介石は日記に倭寇の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。</ref>、同11日午後に総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、[[立憲民政党]]総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている<ref>秦郁彦『盧溝橋事件』</ref>。


その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし[[7月17日]]には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。[[7月26日]]には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、[[7月31日]]には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。陸軍参謀本部作戦部長の[[石原莞爾]]は風見章を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸軍次官・[[梅津美治郎]]は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、[[南京市|南京]]行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。
その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし[[7月17日]]には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。[[7月26日]]には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、[[7月31日]]には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。陸軍参謀本部作戦部長の[[石原莞爾]]は風見章を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸軍次官・[[梅津美治郎]]は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、[[南京市|南京]]行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。


[[8月2日]]には増税案を発表。この間に[[宋子文]]を通じて和平工作を行い、近衞と介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元に確認を取り、[[宮崎龍介]]を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。
[[8月2日]]には増税案を発表。この間に[[宋子文]]を通じて和平工作を行い、近衞と介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元に確認を取り、[[宮崎龍介]]を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。


この件に関して<!-- 杉山陸相の真意がどこにあったかが不明で、宮崎派遣を了承したにもかかわらず部下には工作の妨害を命じたとも、確認のつもりで部下に言ったため一部の強硬論者が勝手に動いたとも言われているが、-->杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。
この件に関して<!-- 杉山陸相の真意がどこにあったかが不明で、宮崎派遣を了承したにもかかわらず部下には工作の妨害を命じたとも、確認のつもりで部下に言ったため一部の強硬論者が勝手に動いたとも言われているが、-->杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。

2020年9月15日 (火) 13:10時点における版

近衞 文麿
このえ ふみまろ
大礼服勲一等瑞宝章を佩用した近衞
生年月日 1891年10月12日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区
没年月日 (1945-12-16) 1945年12月16日(54歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都杉並区
出身校 京都帝国大学法科大学卒業
所属政党 研究会火曜会
称号 従二位
勲一等旭日大綬章
公爵
法学士(京都帝国大学)
配偶者 近衛千代子
子女 近衛文隆(長男)
野口昭子(長女)
細川温子(次女)
近衛通隆(次男)
親族
近衞篤麿(父)
大山武子(異母妹)
近衞秀麿(異母弟)
近衛直麿(異母弟)
水谷川忠麿(異母弟)
サイン

内閣 第2次近衛内閣
第3次近衛内閣
在任期間 1940年7月22日 - 1941年10月18日
天皇 昭和天皇

日本の旗 日本
第34代 内閣総理大臣
内閣 第1次近衛内閣
在任期間 1937年6月4日 - 1939年1月5日
天皇 昭和天皇

内閣 東久邇宮内閣
在任期間 1945年8月17日 - 1945年10月9日

日本の旗 第43代 司法大臣(兼任)
内閣 第3次近衛内閣
在任期間 1941年7月18日 - 1941年7月25日

日本の旗 農林大臣臨時代理
内閣 第2次近衛内閣
在任期間 1940年7月22日 - 1940年7月24日

その他の職歴
日本の旗 第18代 枢密院議長
1939年1月5日 - 1940年6月24日
日本の旗 第13代 拓務大臣
第57代 外務大臣(兼任)

1938年9月30日 - 1938年10月29日
日本の旗 第9代 貴族院議長
1933年6月9日 - 1937年6月7日
日本の旗 貴族院議員
1916年10月11日 - 1945年12月16日
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近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年明治24年〉10月12日 - 1945年昭和20年〉12月16日)は、日本政治家栄典従二位勲一等公爵

貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長(第18代)、内閣総理大臣(第343839代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣麝香間祗候大政翼賛会総裁(初代)、日本放送協会総裁(第2代)[1]などを歴任した。

概要

五摂家近衞家の第30代当主。後陽成天皇の12世孫に当たる。父である近衞篤麿は第7代学習院院長や第3代貴族院議長を務める傍らアジア主義の盟主であり、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行うも、文麿が成人する前に病没した。父の没後、近衞家を継承し公爵を襲爵、のちに貴族院議員、東亜同文会会長となる。当初は研究会に所属するが火曜会を結成し、貴族院副議長、貴族院議長などの要職を歴任した。

3度にわたり内閣総理大臣に任命され、第1次近衞内閣第2次近衞内閣第3次近衞内閣を組織した。その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。また、平沼内閣では、班列として入閣した。第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明、近衛声明東亜新秩序などで対応、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職した。その後も国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では八紘一宇大東亜共栄圏建設を掲げて日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約を締結した。

太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。

指揮者作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、大山柏は妹婿、徳川家正は従弟にあたる。また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務めた近衞忠煇島津家第32代当主・島津修久は外孫に当たる。

生涯

生い立ち

若かりし頃

1891年明治24年)10月12日公爵近衛篤麿と旧加賀藩主侯爵前田慶寧の五女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。その名は、長命であった曽祖父の忠煕による命名で、読みは「あやまろ」では語呂が悪いので「ふみまろ」とされた。文麿は皇別摂家の生まれであり、後陽成天皇の男系子孫にあたる。母の衍子は加賀前田家の出身であり、文麿が幼いときに病没、父の篤麿は衍子の異母妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。一方の文麿は貞を長年実母と思っており、成人して事実を知った後の衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」[2]。このことが文麿の人格形成に与えた影響は大きかった。1904年(明治37年)に父の篤麿は41歳で死去し、文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衞の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。

泰明尋常小学校を経て学習院中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる木戸幸一原田熊雄などがいる。当時華族の子弟は学習院高等科に進学するのが通例だったが、近衞は一高校長であった新渡戸稲造に感化され一高に進学した。1912年に卒業[3]。続いて哲学者になろうと思い東京帝国大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者共産主義者であった河上肇や被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学した[注釈 1]

河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。ジョン・スパルゴー英語版の『カール・マルクスの生涯』とトリノ大学教授ロリア (Achille Loria) の『コンテンポラリー・ソーシャル・プロブレムズ』[注釈 2]の2著をもらっている[4]

京都では木戸幸一、原田熊雄、織田信恒赤松小寅などと友人になった。大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。下鴨で一年間を過ごしたのち、毛利高範の娘・千代子と結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。首相を辞職した西園寺公望1913年大正2年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。近衛家と西園寺家は共に堂上家であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしている[5]

在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発禁処分となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する[6]

政界へ

1936年貴族院本会議にて勅語を朗読

1916年大正5年)10月11日、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる[7]

1918年(大正7年)に、雑誌『日本及日本人』で論文「英米本位の平和主義を排す」を発表した。

1919年(大正8年)のパリ講和会議では全権・西園寺公望に随行するも、自らも提案に加わった人種的差別撤廃提案が否決されたことで白人への強い恨みを抱くようになったとされる[8]

1926年(大正15年)には華族や有位者の資格審査をする宮内省宗秩寮審議会の審議員も兼ねた[9]

1927年昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。

また五摂家筆頭という家柄に加えて、一高から二つの帝大に入った高学歴や、180cmを超す当時では高い身の丈で貴公子然とした端正な風貌と、対英米協調外交に反対する既成政治打破的な主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。

1933年(昭和8年)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。この研究会には暉峻義等三木清平貞蔵笠信太郎東畑精一矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三勝間田清一正木千冬和田耕作らが参加している。後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった[10]

1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。

1936年(昭和11年)3月4日、宮内省で西園寺公望[注釈 3]と会談した際、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として西園寺から推薦され大命降下もあったが、表向きは健康問題を理由に辞退した。真因は、近衞が親近感をもっていた皇道派陸軍内において粛清されることに不安と不満があったからである[11]一木喜徳郎広田弘毅を推薦すると西園寺はすぐに賛成し、近衞を介して吉田茂に広田の説得を任せ、3月5日に広田に組閣の大命が下ったが、吉田ら自由主義者を外務大臣にする広田の組閣案に対して寺内寿一大将などの陸軍首脳部の干渉があり、粛軍と引き替えに大幅に軍に譲歩した形で3月9日に広田内閣が成立した[11][12]

第一次内閣

1937年6月第1次近衛内閣の閣僚らと
1937年6月4日海軍大臣米内光政(後方左)らと
日独伊三国防共協定締結を宣伝する絵葉書「仲よし三國」(1938年)。上段の丸枠の写真はドイツ総統アドルフ・ヒトラー(左)、近衞(中央)、イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(右)

1937年(昭和12年)

対中国政策が行き詰まった広田内閣は、1937年(昭和12年)1月の腹切り問答を機に総辞職した。宇垣一成内閣は陸軍の反対で組閣流産し、首相となった林銑十郎も5月31日に在職わずか3ヶ月で辞任した。

元老・西園寺公望の推薦により近衞は再び大命降下を受け、6月4日第1次近衛内閣を組織した。首相就任時の年齢は45歳7ヶ月で、初代首相・伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さである。軍部大臣には杉山元(陸軍)と米内光政(海軍)が留任し、外務大臣は広田弘毅、さらに民政党政友会からも大臣を迎えた。昭和研究会からは有馬頼寧が農林大臣に、風見章内閣書記官長に加わった。陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からは支持を受け、国民の間の期待度は非常に高かった。

就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え出した頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。

7月7日盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発した。7月9日に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍司令官・香月清司に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、今井武夫らの奔走により7月11日に現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結された。しかし近衞は蔣介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け[13]、同11日午後に総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、立憲民政党総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている[14]

その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は風見章を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び蔣介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし蔣介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。

8月2日には増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蔣介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。

この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。

8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日上海大山事件が発生し日中両軍による戦闘が開始された。8月13日に、近衞は二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日に海軍は南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、近衞は「今や断乎たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表。8月17日には不拡大方針を放棄すると閣議決定した。

第2次上海事変が全面戦争へと発展したことを受け、9月2日に「北支事変」を「支那事変」と変更する閣議決定がなされた。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、不拡大派の石原莞爾が失脚した。

また、国内では、10月に国民精神総動員中央連盟を設立。内閣資源局企画庁が合体した企画院を誕生させ、計画経済体制の確立に向けて動き出した。11月には、1936年(昭和11年)に日本とドイツの間で締結された日独防共協定イタリアを加えた日独伊防共協定を締結。その後に大本営を設置する。12月5日付の夕刊では、国民の一致団結を謳った「全国民に告ぐ」という宣言文を出させている。これは、近衞の意を受けて秋山定輔がまとめたもので、資金は風見章が出している。こうして、近衞は日本の全体主義体制確立へと突き進む。そんな中、12月13日南京攻略により、日中戦争は第1段階を終える。

1938年(昭和13年)

1938年(昭和13年)1月11日には、御前会議陸軍参謀本部の主導により「支那事変処理根本方針」が決定された。これはドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし、近衞は1月14日に和平交渉の打ち切りを閣議決定し、1月16日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。5月には現地日本軍が徐州を占領しており、7月には尾崎秀実・松本重治犬養健西園寺公一影佐禎昭らの工作により、中国国民党左派の有力者である汪兆銘に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。その後、日本軍は広東と武漢三鎮を占領している。

この間、国内では2月17日には防共護国団の約600名が立憲民政党と立憲政友会の本部を襲撃しているが(政党本部推参事件)、これに先立ち中溝多摩吉は政党本部襲撃計画案を近衞に見せ、近衞はこれに若干の修正を加えている[注釈 4]。さらに近衞は、支那事変のためとして、4月に国家総動員法や電力国家管理法を公布、5月5日に施行し、経済の戦時体制を導入、日本の国家社会主義化が開始された。なお、国家総動員法や電力国家管理法は、ソ連第一次五カ年計画の模倣である。ちなみに3年後の1941年(昭和16年)に制定された国民学校令は、ナチス率いる当時のドイツのフォルクスシューレを模倣した教育制度である。また戦争継続の戦費調達のために大量の赤字国債である「支那事変公債」が発行され、国債の強制割当が行われた。

この頃に近衞は、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王らに根回しをすることで杉山元の更迭を成功させた。後任の陸相には小畑敏四郎を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣、古野は爆弾輸送のトラックに乗り山東省の最前線に乗り込んだ。この時期の内閣改造で主に入閣したのは、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚への起用を考えていた人々であった。この人事により軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。近衞は広田弘毅に代えて宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作(宇垣工作)を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衞が興亜院を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。

8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、「大日本党」の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る独裁政党への第一歩である。

11月3日に「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)を発表。12月22日には日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を発表した。しかし、汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった。

1939年(昭和14年)1月5日内閣総辞職する。

新体制の模索

1939年1月5日内閣総理大臣平沼騏一郎(最前列中央)ら平沼内閣の閣僚らと
1940年7月19日荻外荘にて右から陸軍大臣東條英機海軍大臣吉田善吾外務大臣松岡洋右

近衞の後を承けたのは前枢密院議長の平沼騏一郎だったが、平沼内閣には近衞内閣から司法兼逓・文部・内務・外務・商工兼拓務・海軍・陸軍の七大臣が留任した上、枢密院に転じた近衞自身も班列としてこれに名を連ねた[注釈 5]

しかし同時に、末次信正・有馬頼寧・風見章らのような近衛内閣の熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、1937年に締結した日独伊防共協定をさらに進めた防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職した。その一週間後にはドイツがポーランドに侵攻、これを受けてイギリスフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始まる。平沼の後は陸軍出身の阿部信行と海軍出身の米内光政がそれぞれ短期間政権を担当した。

この間の近衞は新党構想の肉付けに専念した。1940年(昭和15年)3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衞が木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。再度、ソ連共産党ナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指した。6月24日に「新体制声明」を発表している。これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散する。

欧州でドイツが破竹の進撃を続ける中、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。これを憂慮した昭和天皇内大臣湯浅倉平が「海軍の良識派」として知られる米内光政を特に推して組閣させたという経緯があったのだが、陸軍がそれを好感する道理がなかった。半年も経たない頃から、陸軍は政府に日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。替わって大命が降下したのは、近衞だった。この際、「最後の元老」であった西園寺公望は近衞を首班として推薦することを断っている。

新党構想などの準備を着々と整え、満を持しての再登板に臨むことになった近衞は、閣僚名簿奉呈直前の7月19日、荻窪の私邸・荻外荘でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意している。

第二次内閣

1940年(昭和15年)7月22日に、第2次近衛内閣を組織した。7月26日に「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、「大正デモクラシー」などを経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えた。

しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。

また、新体制運動の核の一つであった経済新体制確立要綱が財界から反発を受け、近衛が当初商工大臣に据えようとした革新官僚の商工次官・岸信介は辞退したために代わりに任じた小林一三は経済新体制要綱の推進者である岸と対立、小林は岸を「アカ」と批判した。内務大臣となった平沼騏一郎は経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らはさらに経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた。

9月23日に北部仏印進駐9月27日日独伊三国軍事同盟を締結。第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。

11月10日には神武天皇の即位から2600年目に当たるとして紀元二千六百年記念式典を執り行って国威を発揚した。

1941年(昭和16年)1月11日、任期満了に伴う4月の衆議院選挙を1年延期し、対米戦決意を明らかにし、国防国家建設に全力を挙げる態勢をとることで、近衛首相と風見章有馬頼寧の意見が一致した。さらに近衛首相らは、1月20日、声明を発して対米戦気運を醸成するとともに大政翼賛会にて対米戦に備える国民運動を組織化することを決定したが、声明自体は取り止めになった[17]

1941年(昭和16年)4月13日日ソ中立条約を締結。近衞らは日米諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案がアメリカに送られたが、アメリカは修正案を黙殺した。

6月22日独ソ戦が勃発、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。一方海軍も、この機に資源が豊富な南方へ進出しようと考えた。大本営政府連絡会議では松岡洋右は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴えた。

7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。この決定を受けてソビエトに対しては7月7日いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対して南部仏印への進駐を決定した。

7月18日に内閣総辞職した。足枷でしかなかった松岡洋右を更迭するためであった(大日本帝国憲法では内閣総理大臣が閣僚を罷免できる権限が無かったため)。

第三次内閣

1941年秋ごろ

1941年(昭和16年)7月18日に、第3次近衛内閣を組織。外相には、南進論者の海軍大将・豊田貞次郎を任命した。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスヴィシー政権からインドシナの権益を移管され、それを受けて7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日サイゴンへ入城。しかしこれに対するアメリカの対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本は窮地に立たされることとなった。

9月6日の御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。イギリス、アメリカに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アジアに植民地を持つイギリス、アメリカ、オランダに対する開戦方針が定められた。

御前会議の終わった9月6日の夜、近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。そこで近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。近衞と東條は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの運動で実現せず、東條が次期首相となった。

近衞は東條を首相に推薦した重臣会議を病気を理由に欠席しているが、当時91歳の清浦奎吾が出席していたのと対比されて後世の近衞批判の一因となった。ただ、近衞の娘婿で秘書官を務めていた細川護貞は「当時の近衞はに悩んでおり、昭和16年の10月頃は椅子にも深く座れず腰を少しだけ載せていたほど症状がひどかった」と保阪正康のインタビューに語っており、近衞の健康状態悪化が政権投げ出しや重臣会議欠席につながったのは事実の可能性がある(保阪著『続昭和の怪物七つの謎』講談社、2019年)。

ゾルゲ事件

なお、いわゆるゾルゲ事件に連座していた内閣嘱託の尾崎秀実西園寺公一が10月14日に検挙され、近衛が内閣総辞職した10月18日には、リヒャルト・ゾルゲマックス・クラウゼンブランコ・ド・ヴーケリッチなど外国人メンバーが一斉に逮捕された。なお当然ながら近衛の内閣嘱託2名の任命責任と事件への関与も疑われたが、総辞職とその後の英米開戦で不問となった。

終戦工作

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争大東亜戦争)開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。1942年(昭和17年)のイギリス領シンガポール占領ミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国のスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。

戦局が不利になり始めた1943年(昭和18年)、近衞が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・佐藤賢了を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した[18]

1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した上で、天皇に戦争責任が及びにくくするように考えていた。

1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺門跡岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた[19]。ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。

戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられることになった。平沼騏一郎、広田弘毅、近衞文麿、若槻禮次郎牧野伸顕、岡田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。近衞は1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論も主張している。近衛上奏文の作文には吉田茂と殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進については理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している[18]。近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。

6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衞自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だった細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている[20]。だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と琉球諸島小笠原諸島北千島を放棄、「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する事になっていた[21]。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった[21]

終戦後

1945年(昭和20年)8月17日内閣総理大臣東久邇宮稔彦王(最前列中央)ら東久邇宮内閣の閣僚と
1945年(昭和20年)12月17日、近衞の遺体を検死する連合国軍最高司令官総司令部憲兵

1945年(昭和20年)8月15日日本軍無条件降伏し(日本の降伏)、第二次世界大戦の停戦が発効し(終結は同年9月2日)、鈴木貫太郎内閣は総辞職して東久邇宮稔彦王が後任の内閣総理大臣(史上唯一の皇族首相)となった。近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、緒方竹虎と共に組閣作業にあたった。イギリスアメリカを中心とした連合国による日本占領が開始された後の10月4日、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問し、持論の軍部右翼赤化論と共に開戦時において天皇を中心とした封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、ドイツのような社会民主主義者や自由党が育たない間に、皇室財閥を除けば日本はたちまち共産化すると説いた。これに対しマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性と自由主義的分子の糾合を指示し、近衞を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。8月18日国務大臣の近衛文麿は警視総監を呼んで、国体護持のため慰安所設置の指揮を要請した。この要請から警視庁は東京料理飲食業組合に命じた結果マッカーサー元帥の執務室間近の400室からの互楽荘で国家によるアメリカ軍将兵への性的慰安所が運用開始した。

その後治安維持法の廃止を巡って10月5日に東久邇宮内閣が総辞職したことにより近衞は私人となった。

近衞は10月8日にGHQ政治顧問ジョージ・アチソンを訪問し、マッカーサーから言われた帝国憲法改正について意見を求めたところ、アチソンは十項目にわたる改憲原則を示した。これを受け近衞は天皇から内大臣府御用掛に任じられ、東大の高木八尺と京大の佐々木惣一の助言を受けながら熱心に帝国憲法改正作業を進めた[注釈 6]

10月23日の朝日新聞は、天皇退位の条項を付け加えるため皇室典範の改正が近く行われるだろうとの近衞の話を伝えた。首相・幣原喜重郎はこれに抗議し、翌24日に近衞は軌道修正する会見を行っている[18]

近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていた。また池田成彬に対して「あなたは戦犯になるおそれがある」と語るなど、戦犯裁判にかけられるとはみていなかった[18]。しかし国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始める。10月26日の『ニューヨーク・タイムズ』では、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。

白洲次郎たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった[22]。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切り捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について米国戦略爆撃調査団による尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。GHQ参謀部第2部の対敵情報部調査分析課長のエドガートン・ハーバート・ノーマンは、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衞が関与したことおよびアジア侵略・対米開戦に責任があることを指摘するレポート「戦争責任に関する覚書」を11月5日にアチソンに提出した。11月17日、アチソンはこれをバーンズ国務長官に送付した[23]

12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衞が唯一でもある[注釈 7]

自殺の前日に近衞は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。

なお、近衛の出頭について吉田茂外相が近衛の自殺の直前にマッカーサーとの面会で「近衛は自宅監察とする」との見通しを聞いており、また病気を理由に出頭を延期できる見込みもあった。吉田は近衛の自殺を知り、「自分が近衛に逢って伝えていたら」と悔やんでいたという[24]

葬儀は12月21日に行われた。京都市北区大徳寺に「近衛家廟所」が在り、文麿の墓所はその地に在る。

人物

近衞

戦争責任について

近衞は兼ねて1921年(大正10年)の演説で、統帥権によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、後にそれが現実となった形だった。しかし当時連合国軍総司令部の中心となっていたアメリカ側にはこのような状況は理解し難い内容であった。

近衞は『世界文化』に、「手記~平和への努力」を発表し、「支那事変の泥沼化と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかった」と主張した。併せて自身が軍部の独走を阻止できなかったことは遺憾である、と釈明した。

しかし近衞の戦争責任に対する態度は、近衞自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして当時から今日に至るまで、厳しく批判されている。親交のあった重光葵からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。

また福田和也は、伊藤博文から小泉純一郎までの明治・大正・昭和・平成の総理大臣を点数方式で論じた著書の中で、そのあまりの無責任さがゆえに近衞に歴代総理の中での最低の評価点を与えている[25]

政治学者の猪木正道も、近衛と広田弘毅の無責任振りを批判しており、著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している[26]

朝日新聞において12月20日から『近衛公手記』が11回に渡り掲載された。開戦前の日米交渉に自身が果たした役割が語られている。これを読んだ昭和天皇は「近衞は自分にだけ都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に語っている[27]

元陸軍少尉の山本七平は、「近衛の言い訳」を次のように完全否定した。

「しばしば、言われるのが、旧憲法では『第十一条 天皇は陸海軍を統帥す 第十二条 天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む』しかなく、政府はこれにタッチできない、という前提で『統帥権の問題は政府には全然発言権がなく』と近衛は言っている。果たしてそうだろうか

明治憲法には『統帥権』という言葉はない。統帥とは、元来は軍の指揮権であり、いずれの国であれ、これは独立した一機関が持っている。簡単に言えば、首相は勝手に軍を動かすことは出来ない。しかし軍も勝手に動くことは出来ない。というのは少なくとも近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないからである。

具体的に言えば、参謀本部が作戦を立案するのに政府は介入できない。しかしその作戦を実施に移そうとするなら、政府が軍事費を支出しないかぎり不可能である。動員するにも、兵員を輸送するにも、軍需品を調達するにも、すべて予算を内閣が承認し、これを議会が審議して可決しない以上、不可能である。

日華事変で近衛は『不拡大方針』を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。このことを彼自身、どう考えていたのか。政府は予算を通じて統帥部を制御できるし、そうする権限と義務があるとは考えなかったのであろうか

チャーチルは『戦争責任は戦費を支出した者にある』という意味のことを言ったそうだが、卓見であろう。もちろんこのことは、この権限を持つ政府と議会の責任ということである(中略)。

近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう。」[28]

ゾルゲ事件との関わり

1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締と国際共産主義運動の調査研究に従事した後、衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、1941年(昭和16年)10月15日に検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は尾崎の検挙に反対であり、特に新聞記者として駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、第3次近衛内閣の総辞職後に首相に就任した東条英機は、尾崎の取り調べによって彼と近衞との密接な関係が浮かび出てきたことを知り、この事件によって一挙に近衞を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じた。

しかしその時点は日英米開戦直後で、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衞及びその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることがいかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという[注釈 8]

1942年(昭和17年)11月18日、近衞は予審判事・中村光三から僅かな形式的訊問を受け、「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽したが[29]、元アメリカ共産党員の宮城与徳は検事訊問(1942年3月17日)に対して、「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」と証言した[30]。国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。

逸話

第1次近衛内閣のとき、拡大する日中戦争に不安を感じた近衞が、拓務大臣の大谷尊由に「次の閣議で杉山元に、陸軍はどこで作戦をやめるつもりなのか聞いてくれないか」と依頼した。気の弱い近衞は自分で杉山に質問できなかったのである。近衞に言われた通り、大谷は閣議で「陸軍はどこで作戦をやめるつもりなのか」と杉山に質問した。しかし杉山は大谷の質問を無視した。たまりかねた海相・米内光政が「だいたい、永定河保定の間あたりで作戦を中止することになっているようである」と口をはさんだ。すると杉山が米内に向かって「なんだ君は!こんなところでそんな重要なことを言っていいのか!」と怒鳴りつけた。米内は杉山の理不尽な激怒に対して「そうかなあ」と言って黙りこみ、座はすっかり白けてしまった。

弟の近衛秀麿は、兄と違って気の強い人物であった。秀麿は1936年以降、終戦まで政府音楽大使としてヨーロッパで指揮者として活動した。当時ナチスが政権を握っていたが、秀麿はナチスを嫌っており、たびたび彼らの意向を無視したことで嫌がらせを受けながら公演を続けていた。ある日、総理となった文麿から国際電話があり「ドイツ大使館からお前のことで文句いわれている。総理の面子を保つため、お前ナチスの言うことを聞いてくれないか」と言ってきた。秀麿は兄の弱気ぶりに憤慨して「弟が自分の信念を貫くために苦しんでいるのに、そんな言い方はないだろう!」と言い返し、以後、終戦になるまで文麿と秀麿は音信不通になってしまった。

秀麿は終戦後、ドイツでアメリカ軍にいったん拘束されたのち帰国した。秀麿が帰国した時は文麿の戦犯指定がすでに内定しており、彼はすっかり意気消沈していた。兄弟で再会の杯を酌み交わす席で文麿は「お前は自分の気持ちを貫いて立派だったよ。お前に比べたら自分は何も残せなかったなあ」とかつてのことを繰り返し詫びた。文麿の悟りきったような態度に、秀麿は兄の死を予感したという。出頭予定日の前日、秀麿は文麿夫人とともに自殺を防ごうと、文麿邸の中で毒物を探しまわった。「弱気な兄が自殺するんだったら、苦しまずに即死できる青酸カリしかない」と秀麿は考えていた。しかし、自宅のどこにも青酸カリはなく、文麿が入浴している時も脱衣服を探したがなかった。「もしかしたら自殺しないで裁判を受ける気になったのかもしれない」と一安心した秀麿と文麿夫人は、文麿の寝室の隣で眠ってしまった。しかし午前3時くらいになって様子を見に行ったとき、すでに文麿は息絶えていた。彼は青酸カリを肌身離さず、入浴中も風呂に持ち込んでいた。

そんな弱気な文麿だったが、秀麿は「小さい時、自分は兄の話を聞くのがとても楽しみだった。博識な兄は外国のことや宇宙のことにとてもよく通じていて、世界の秘密を話してくれるように兄は自分にいろいろなことを教えてくれたものである。今考えれば兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最期を迎えることはなかったのに」と語っている。

人物評

  • 作家の今東光が若き日に近衞公の宴会に陪席したときの目撃談。
宴席で、一流の芸者達が公爵のところに酌をしにくると、「こっちへ注いであげて」「あっちへ注いであげて」と彼女達を他の客に回して捌きながら、自分のところには名もない不美人の芸者を呼んで酌をさせた。まず自分が飲んでからはこんどは「君に一杯ご返杯」と自ら酌をする。これがわざとこれ見よがしではなく、他の客が気が付かないくらいにスッとやる、実にな仕草であり、天性の政治家であった。 — 今東光『続極道辻説法』(集英社)
  • 海軍大将・井上成美は、近衞文麿については終始辛口だった。
あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った。言うことがあっちにいったりこっちにいったり、味のよくわからない五目飯のような政治家だった。
近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった。
  • 木戸幸一は近衞のことを「激動期をなんでも相談した仲」とした上で、晩年次にように回想している。
柔軟で包容力があるというか、まことに「聞き上手」だったね。また開放的性格のためか、国民の間になんとも言えない人気があった。しかも陛下のおぼえもよかったから、あれに一本筋金が入っていたら、まったくかんぺきと言っていいのだが……。ところがいざというときのふんばりがたりない。そこでいつも困ったんだ。 — 大平進一「木戸幸一、天皇を語る」、『文藝春秋』昭和50年10月号[31]

一方、ノーマンは近衛を尋問した際の覚書の中で、近衛について「淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」と述べている。ノーマンの近衛に対する心証は、家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた風見章と、ハーバード大学時代の共産主義同志で義理の伯父に木戸幸一内大臣をもつ都留重人からの詳細な情報提供によって形成されたのではないかと指摘されている。なお、ノーマンはこの時が近衛と初対面であった[32]

家族・親族

1930年代荻外荘にて近衞千代子(左)と

妻の千代子とは、公爵という身分には珍しい恋愛結婚だった。しかし相手も華族で、釣り合いが取れないわけではなかった。華族女学校で一番の美女だったという千代子を一高の学生だった文麿が電車の中で見初めた一方的な一目惚れだったという。挙式は京都・宗忠神社。結婚当時は京都帝大在学中だったが、その生活は「学生結婚」という言葉にはそぐわないほど豪勢なものだった[注釈 9]

結婚生活は円満だったが、弟の秀麿と同様に当時の大身の例にもれず数人のを囲い、隠し子もいた[33]。流行歌手だった市丸が近衞の愛人だったことは有名である。千代子は気丈な女性で、文麿の服毒自殺に際しても、決して取り乱すことはなかった。

次女の温子(よしこ)は1937年(昭和12年) 4月、当時まだ京都帝大在学中だった細川護貞と結婚した。その直後の同年6月に父は総理となり、夫は総理秘書官となる。3年後の1940年(昭和15年)8月、父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった。この温子と護貞の短い結婚生活の中で恵まれたのが、後の1993年に総理となる長男の護熙と、近衛家の養子となった次男の忠煇である。

不仲だった継母の貞は戦時中京都の別邸(現・陽明文庫所在地)に単独で疎開。1945年(昭和20年)8月15日に同地で死去した。

実家
  • 父:篤麿(貴族院議長)
  • 母:衍子(旧加賀藩前田慶寧侯爵の五女)
    • 嫡子:文麿
  • 継母:貞子(前田慶寧の六女、実の叔母に当たる)
    • 異母妹:武子(大山巌公爵の次男 大山柏に嫁ぐ)
    • 異母弟:秀麿(指揮者 作曲家)
    • 異母弟:直麿(雅楽研究者)
    • 異母弟:忠麿(→水谷川家を継ぐ、春日大社宮司)
自家
妾家
  • 愛人:山本ヌイ(別名、縫子。新橋の芸者)
  • 愛人:市丸[35](芸者、歌手)

系譜

近衞家

藤原忠通の子基実を始祖とする五摂家の一つ。江戸時代初期に嗣子を欠いたため、後陽成天皇の第四皇子が母方の叔父・信尹の養子となり信尋として近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫に当たり、その血統は当時は大勢いた皇族よりもずっと皇室に近かった[注釈 10]

皇室との関係

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後陽成天皇
 
後水尾天皇
 
明正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後光明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後西天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
霊元天皇
 
東山天皇
 
中御門天皇
 
桜町天皇
 
桃園天皇
 
後桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
典仁親王
 
光格天皇
 
仁孝天皇
 
孝明天皇
 
明治天皇
 
大正天皇
 
昭和天皇
 
明仁上皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近衞信尋
 
近衞尚嗣
 
近衞基熈
 
近衞家熈
 
近衞家久
 
近衞内前
 
近衞経熈
 
近衞基前
 
近衞忠煕
 
近衞忠房
 
近衞篤麿
 
近衞文麿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  • 係累縁者が多数に上るため、後陽成天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
  • 遠祖の近衞信尋は、後陽成天皇の第四皇子として生まれ、近衞信尹の養子となり、近衞家を継承した。

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

文献

近衛が開設した陽明文庫には近衛の関連資料が所蔵されている。

自著

富士山頂富士山本宮浅間大社奥宮の石燈籠に刻まれた近衛文麿書による讃紀元二千六百年歌。
  • 『戰後歐米見聞録 : 全』外交時報社、1920年。 NCID BN15654017 
    • 『戦後欧米見聞録』中央公論社、1981年。 
  • 今井時郎、日本社會學院調査部[編輯]「革命及宣傳」『現代社會問題研究』第10巻、冬夏社、1921年、NCID BN10670446 
  • 佐久間秀雄 [編輯]「上院と政治」『日本読書協会会報』臨時號、日本讀書協會、1924年、NCID BA60872010 
  • 『國際平和の根本問題』([増補])近衞文麿、1930s。 NCID BB06448836 
  • 『國際平和の根本問題』[出版者不明]、1935年。 NCID BA45750878 
  • 伊藤武 [編]『近衛文麿清談録』千倉書房、1936年。 NCID BN03251057 
  • 馬場鍈一、安井英二、有馬頼寧、松井春生『日本に呼びかける』今日の問題社、1937年。 NCID BA54609553 
  • 岡部長景『日支両国の識者に望む ― 遍く東亜の同志に愬ふ』東亜同文会、1937年。 NCID BB02825167 
  • 『農業増産報國推進隊員諸君に愬ふ』[第39輯]、農林省 : 農業報國聯盟〈農業増産報國推進隊訓練講演要旨〉、1940年。 NCID BA76794233 
  • 新政治研究会『戦時下の国民におくる近衛首相演説集』東晃社、1940年。 NCID BA67610613 
  • 迫水久常、孫識齊『日本投降内幕』[私製]、1947年。 NCID BB14338855 
  • 昭和戦争文学全集編集委員会 [編]『知られざる記録』別巻、集英社〈昭和戦争文学全集〉、1965年。 NCID BN10352495 
  • 亀井俊介、福沢諭吉、久米邦武、内村鑑三、井上円了、片山潜、永井荷風、近衛文麿『日本人のアメリカ論』23号、新渡戸稲造; 厨川白村; 池崎忠孝; 鶴見祐輔; 島崎藤村; 和辻哲郎; 高木八尺、研究社出版〈アメリカ古典文庫〉、1977年。 NCID BN00390115 

手記・日記

  • 『近衛公の手記 : 日米開戦の実相』第一東光社、1946年。 NCID BA90599045 
  • 朝日新聞社 [編]『失はれし政治 : 近衞文麿公の手記』朝日新聞社、1946年。 NCID BN03251319 
  • Konoye, Fumimaro ([1940s]). The memoirs of Prince Fumimaro Konoye : translated from the Arahi Shimbun, Dec. 20-30, 1945. Tokyo: Okuyama Service. OCLC 493810968  ― 朝日新聞社刊の英訳。
  • 『最後の御前会議 : 近衛文麿公手記』 19巻、2号、時局月報社〈自由國民〉、1946年。 NCID BN14832812 
  • 『平和への努力 : 近衞文麿手記』日本電報通信社、1946年。 NCID BN0603167X 
  • 共同通信社「近衛日記」編集委員会『近衛日記』共同通信社開発局、1968年。 NCID BN01951499 
  • 松田道雄、橋川文三『近衛上奏文』35-36号、筑摩書房〈近代日本思想大系〉、1974年。 NCID BN01195374 
  • 『大統領への証言 手記「日米開戦の真実」』毎日ワンズ、2008年。 ― 『近衛手記』『近衛日記』を底本とし、『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』を大幅に改訂、改題。
  • 『最後の御前会議 戦後欧米見聞録 近衛文麿手記集成』こ-19-2、中央公論新社〈中公文庫〉、2015年。ISBN 9784122061460NCID BB19205291  ― 手記6篇(『最後の御前会議』[48]、『平和への努力』[49]、『近衛上奏文』[50]『世界の現状を改善せよ』『戦後欧米見聞録』[51]『英米本位の平和主義を排す』[52][53])を集成。

翻訳

  • Wilde, Oscar『Thew soul of man under socialism』新思潮社、1914年。 NCID BA88951215 

評伝

  • 矢部貞治『近衛文麿』上・下、近衛文麿伝記編纂刊行会 [編]、弘文堂、1952年。 
  • 復刻版 『近衛文麿』 25巻、ゆまに書房〈歴代総理大臣伝記叢書〉、2006年。 
  • 新版1986年/光人社NF文庫(1993年)- 上記の縮約版。
  • 岡義武『近衛文麿 -「運命」の政治家』(岩波新書』1972年。  - 「著作集」(岩波書店)に収録
  • 杉森久英『近衛文麿』河出書房新社、1986年。 

その他

  • 林茂『太平洋戦争』(改版2刷)中央公論新社、2006年。ISBN 4122047420 
  • 道越治 [編著]、松橋暉男/松橋雅平 [監修]『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』毎日ワンズ、2006年。ISBN 4901622153NCID BA76700116 
  • 林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ!ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿そしてフーバーは』 WAC ISBN 978-4-89831-481-4 (2019/2/27)
  • 升味準之輔『戦後政治 上』東京大学出版会、1983年5月10日。 

関連作品

映画
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 近衛は政界に身を投じて以降は、日本は自国と同じ「もたざる国」であるドイツ・イタリアと同一歩調をとるべきと考え、天然資源を各国は平等に持つべきという社会主義的ないし唯物論的平等を持論として展開した。その一方で、西園寺や昭和天皇の主張する英米との協調外交に反対し、これらのスタンスが戦後A級戦犯として起訴される最大の要因になったとされている。
  2. ^ "Contemporary Social Problems - A Course of Lectures delivered at the University of Padua" by Loria, Achille,; Garner, John Leslie (1911)
  3. ^ 当時の元老
  4. ^ 事前に近衞に計画案を見せ、その一部について近衞が手を入れたという話は、中溝多摩吉配下の青木保三が書いた回想録(『七十年を顧みて』1970年)の中で中溝から聞いた話として載せられている[15]。近衞が手を入れたというのは、1国1党制度に反対の議員は議員1人につき、防共護国団2名、警察官1名、憲兵1名をつけて一時監禁し、大島へ島流しにする、という部分である[15]。回想録には、これはやりすぎではないかと言ってこの部分を消した、と書かれている[16]。それ以外の部分については「中溝君、なかなか面白い計画ですね」と近衞は言ったと書かれている[16]。ただし、伊藤隆によれば、青木の回想録の内容をすべて信用することはできないという[16]
  5. ^ 週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。「交流」とは、今で言う「合流」「合体」といった意味。
  6. ^ この辺りの詳細については、矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)、児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫)等を参照。
  7. ^ 東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている
  8. ^ 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義』自由選書、1987年復刊(1950年GHQ発禁処分)137~138頁。
  9. ^ 以上、参考文献『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』九毎日新聞社編。京都の新居には女中もいれば書生も抱えており、一般サラリーマンの平均月収100円の時代に、一月当たり150円の生活費をかけていた。ちなみにこの時の新居は宗忠神社の社務所として現存している。
  10. ^ 明治維新後に創設された宮家はほとんどが伏見宮家の系統で、その伏見宮は遠く南北朝時代崇光天皇の第一皇子・榮仁親王 (1351−1416) を祖としている。

出典

  1. ^ “死ぬまでNHK総裁だった近衛文麿”. 文芸春秋. (2009年1月26日). https://books.bunshun.jp/articles/-/3392 2019年9月8日閲覧。 
  2. ^ 『近衛文麿公清談録』
  3. ^ 第一高等学校一覧 自大正元年至大正2年』第一高等学校、1912年、303頁。 
  4. ^ 『清談録』千倉書房。
  5. ^ 勝田龍夫『重臣たちの昭和史(上)』文藝春秋、1981年。ISBN 4163626603 
  6. ^ 中西寛「近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」論文の背景-普遍主義への対応」(『法學論叢』第132巻・第4-6号)
  7. ^ 『官報』第1261号、大正5年10月12日。
  8. ^ Macmillan, Margaret Paris 1919: Six Months That Changed the World, New York: Random House, 2007 page 317-487
  9. ^ 『宮内省職員録(大正15年1月1日現在)』、1926年。NDL
  10. ^ 近衛と昭和研究会の関係についてはMilitarismus des Zivilen in Japan 1937–1940: Diskurse und ihre Auswirkungen auf politische Entscheidungsprozesse, (Reihe zur Geschichte Asiens; Bd. 19), München: Iudicium Verlag 2019, S. 277-279参照
  11. ^ a b 林茂 2006, p. 18.
  12. ^ 林茂 2006, pp. 23–25.
  13. ^ 実際には蔣介石は日記に倭寇の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。
  14. ^ 秦郁彦『盧溝橋事件』
  15. ^ a b 伊藤隆『近衛新体制 大政翼賛会への道』中公新書、1983年、72-73頁。ISBN 4-12-100709-3 
  16. ^ a b c 伊藤「新体制」p.73.
  17. ^ 林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.74-87
  18. ^ a b c d 吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波書店、1992年。ISBN 4004302579 
  19. ^ 高橋紘鈴木邦彦『天皇家の密使たち―占領と皇室』文藝春秋、1989年、8-11頁。ISBN 4167472023 
  20. ^ NHK取材班『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川書店《角川文庫》、1995年、p225(「ドキュメント太平洋戦争」の書籍化)
  21. ^ a b 『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』pp.226 - 228
  22. ^ 矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)738-739頁
  23. ^ 林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85
  24. ^ 升味, p. 105.
  25. ^ 『総理大臣の採点表』文藝春秋
  26. ^ 服部、194-195p(『猪木正道著作集』第四巻、岩見隆夫『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』よりの引用)
  27. ^ 藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社、1987年。ISBN 4122014239 
  28. ^ 裕仁天皇の昭和史(山本七平著、祥伝社、2004年初版発行)161~163頁
  29. ^ 『現代史資料 ゾルゲ事件2巻』みすず書房、1971年、402頁
  30. ^ 『現代史資料 ゾルゲ事件3巻』みすず書房、1971年、263頁
  31. ^ 引用は『昭和天皇の時代』(文藝春秋社、1989年)pp.74-75に拠る。
  32. ^ 林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85
  33. ^ 『宰相近衛文麿の生涯』有馬頼義 著。
  34. ^ 大野芳『近衛秀麿』p.281
  35. ^ 大野、p.286
  36. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 近衛文麿」 アジア歴史資料センター Ref.A06051180400 
  37. ^ 『官報』第379号「叙任及辞令」1913年11月3日。
  38. ^ 『官報』第1292号「叙任及辞令」1916年11月21日。
  39. ^ 『官報』第3697号「叙任及辞令」1939年5月6日。
  40. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  41. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  42. ^ 『官報』第3711号「叙任及辞令」1939年5月23日。
  43. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  44. ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。
  45. ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
  46. ^ 『官報』第3899号「叙任及辞令」1940年1月9日。
  47. ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。
  48. ^ 近衛文麿 (1946). “最後の御前会議 : 近衛文麿公手記”. 自由國民 (時局月報社) 19 (2). NCID BN14832812. 
  49. ^ 近衛文麿 (1946). 平和への努力 : 近衞文麿手記. 日本電報通信社. NCID BN0603167X 
  50. ^ 『近衛上奏文』全文収載。近衛上奏文(全文)--昭和20年2月14日」『論争』第4巻7 (16)、1962年8月、148-150頁。 
  51. ^ 近衛文麿 (1920). 戰後歐米見聞録 全. 外交時報社出版部 
  52. ^ 近衛文麿 [述]; 伊藤武 (1937). 近衛公清談録. 千倉書房. pp. 231-241 
  53. ^ 『英米本位の平和主義を排す』収載。伊藤武 [編]、筒井清忠 [編]『近衛文麿清談録』("新版)千倉書房、2015年。 NCID BB19184850 

関連項目

外部リンク

議会
先代
徳川家達
日本の旗 貴族院議長
第9代:1933年 - 1937年
次代
松平頼寿
公職
先代
林銑十郎
米内光政
日本の旗 内閣総理大臣
第34代:1937年 - 1939年
第38・39代:1940年 - 1941年
次代
平沼騏一郎
東條英機
先代
平沼騏一郎
日本の旗 枢密院議長
第18代:1939年 - 1940年
次代
原嘉道
先代
宇垣一成
日本の旗 外務大臣
第57代:1938年(兼任)
次代
有田八郎
先代
宇垣一成
日本の旗 拓務大臣
第13代:1938年(兼任)
次代
八田嘉明
先代
柳川平助
日本の旗 司法大臣
第43代:1941年(兼任)
次代
岩村通世
日本の爵位
先代
近衛篤麿
公爵
近衛家第2代
1904年 - 1945年
次代
華族制度廃止