コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤田尚徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤田ふじた 尚徳ひさのり
生誕 1880年10月30日
日本の旗 日本東京府
死没 (1970-07-23) 1970年7月23日(89歳没)
日本の旗 日本愛知県
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1903年 - 1939年
最終階級 海軍大将
除隊後 侍従長
明治神宮宮司
テンプレートを表示

藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年明治13年〉10月30日 - 1970年昭和45年〉7月23日)は、日本海軍軍人神職侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将

人物

[編集]

父は旧津軽藩士・藤田潜。幼少期は兄・貞固[注釈 1]と共に、父が学校長を務めることになる攻玉社幼翆科(現在の小学校課程)で学び、旧制東京府立一中を経て、海軍兵学校へ進む。後年内閣総理大臣を務めた米内光政は、海軍兵学校の同期生(29期)である。席次は115名中15番。

藤田は砲術学校高等科を修了した砲術専攻の士官であった。海軍省軍務局、人事局勤務を経て、戦艦・霧島艦長。1928年(昭和3年)12月には人事局長就任。以後、艦政本部長、海軍次官呉鎮守府司令長官、軍事参議官など要職を歴任。

1939年(昭和14年)、海軍兵学校同期の高橋三吉と語らい、米内を現役の海軍大将で残すため[1]、自ら予備役を願い出て編入の後、明治神宮宮司を経て、1944年(昭和19年)9月から1946年(昭和21年)5月まで昭和天皇侍従長を務めた。終戦後の1945年(昭和20年)9月27日、昭和天皇に付き従い、虎ノ門の米国大使館でのマッカーサーとの会見に同行。会見後の予定になかったマッカーサーの御見送りや、帰りの車中で天皇のご機嫌が良かったことから、その後の皇室の安寧を確信した。

侍従長退任後は愛知県安城市に隠遁し、また天皇より鳩杖を賜る。

略歴

[編集]

栄典

[編集]
位階
勲章

著作

[編集]

評伝

[編集]
  • 外崎克久『終戦の侍従長 海軍大将藤田尚徳』 清水弘文堂、1988年(昭和63年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 東京府立第一中学校第一高等学校千葉医専を経て淀橋で外科医院を開業。

出典

[編集]
  1. ^ 半藤一利 et al. 2005, p. 233.
  2. ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1943年8月28日。
  3. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、7頁。NDLJP:1276156 
  4. ^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
  5. ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
  6. ^ 『官報』第2509号「叙任及辞令」1920年12月11日。
  7. ^ 『官報』第4066号「叙任及辞令」1926年3月17日。
  8. ^ 『官報』第2228号「叙任及辞令」1934年6月7日。
  9. ^ 『官報』第3689号「叙任及辞令」1939年4月26日。
  10. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
  11. ^ 『官報』第478号「叙任及辞令」1928年7月31日。

参考文献

[編集]
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史 第9巻』第一法規出版
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 『海軍兵学校沿革』原書房「明治百年史叢書 第74巻」
  • 半藤一利横山恵一秦郁彦戸高一成『歴代海軍大将全覧』中央公論新社〈中公新書ラクレ177〉、2005年。ISBN 978-4121501776