コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

香月清司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
香月 清司
かつき きよし
香月清司
生誕 1881年10月6日
日本の旗 日本 佐賀県
死没 (1950-01-29) 1950年1月29日(68歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1903年 - 1938年
最終階級 陸軍中将
指揮 第1軍司令官
支那駐屯軍司令官
近衛師団
第12師団
戦闘 盧溝橋事件
日中戦争
テンプレートを表示

香月 清司(かつき きよし、1881年明治14年〉10月6日 - 1950年昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍中将功二級[1]

佐賀県出身。陸士14期陸大24期

経歴

[編集]

佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校陸軍大学校を卒業した。

第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。

田代前支那駐屯軍司令官の方針を踏襲し、参謀本部に従って不拡大方針を採ったものの、方面軍幹部の積極策と対立、結果的に河北全体に戦線を拡大した。第1軍司令官解任後は参謀本部附を経て、1938年(昭和13年)7月29日には予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

年譜

[編集]

栄典

[編集]

家族親族[6]

[編集]

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 外山 1981, 184頁.
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  3. ^ a b c 外山 1981, 185頁.
  4. ^ 『官報』1938年2月8日 敍任及辭令
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  6. ^ 『家の光』、産業組合中央会、1937年10月1日、p86-87

参考文献

[編集]
  • 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和10年9月1日調) 18頁
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026