溝口直亮
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溝口直亮 みぞぐち なおよし | |
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生年月日 | 1878年4月11日 |
没年月日 | 1951年12月14日(73歳没) |
出身校 | 陸軍大学校卒業 |
前職 | 陸軍少将 |
称号 |
従二位 帝都復興記念章 |
配偶者 | 溝口須美子 |
親族 |
義父・徳川達孝(貴族院議員) 叔父・五島盛光(貴族院議員) 弟・前田利男(貴族院議員) 義弟・大倉喜七郎(貴族院議員) |
在任期間 | 1924年11月29日 - 1946年5月9日 |
溝口 直亮(みぞぐち なおよし、1878年(明治11年)4月11日[1][2][3] - 1951年(昭和26年)12月14日[1][2][3])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。陸軍政務次官、貴族院議員、伯爵。
経歴
[編集]旧新発田藩主・溝口直正の長男として生れる[1]。学習院を経て、1898年11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し[1][4]、翌年6月、砲兵少尉に任官[4]し野砲兵第11連隊付となる[1]。1902年12月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。日露戦争では野砲兵第11連隊副官として出征し、遼東守備軍副官、旅順要塞副官を歴任[1]。1908年11月、陸軍大学校(20期)を優等で卒業した[1][3][5]。
陸軍省軍務局課員、ドイツ・オーストリア駐在、野砲兵第1連隊付、軍務局課員、野砲兵第20連隊付、軍務局課員、軍務局砲兵課長などを歴任[1][5]。1919年7月、父の死去に伴い伯爵を襲爵[1][2]。東久邇宮稔彦王付武官、欧州出張、野砲兵第3連隊長などを経て、1923年8月、陸軍少将に進級し待命となり、翌月、予備役に編入された[1][3][5]。
以後、陸軍参与官、陸軍政務次官、航空機製造事業委員会委員、大東亜省行政委員、翼賛政治会常任総務などを歴任した[1][6]。1924年(大正13年)11月29日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に互選され[7][8]、貴族院議員に4期在任し1946年(昭和21年)5月9日に辞職した[6][9]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[10]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、154頁。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻、683頁。
- ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』696頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』151、147頁。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』151。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』30頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』32頁。
- ^ 『官報』第3683号、大正13年12月1日。
- ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」85頁。
- ^ 『官報』第4182号「叙任及辞令」1940年12月13日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
日本の爵位 | ||
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先代 溝口直正 |
伯爵 (新発田)溝口家第2代 1919年 - 1947年 |
次代 (華族制度廃止) |