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鷹司煕通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鷹司熙通から転送)
鷹司煕通
たかつかさ ひろみち
生年月日 1855年4月2日
安政2年2月16日
没年月日 (1918-05-17) 1918年5月17日(63歳没)
出身校 陸軍士官学校
前職 侍従武官
称号 勲一等旭日大綬章
大礼記念章
勲三等旭日中綬章
明治三十七八年従軍記章
勲六等瑞宝章
大日本帝国憲法発布記念章
正二位従一位
配偶者 鷹司順子
子女 長男・鷹司信輔
次男・鷹司信熙
親族 義父・徳大寺実則(内大臣)
兄・九条道孝(貴族院議員)
兄・鶴殿忠善(貴族院議員)
義兄・菊亭脩季(貴族院議員)
弟・二条基弘(貴族院議員)
甥・九条道実(貴族院議員)
甥・鶴殿家勝(貴族院議員)
甥・二条厚基(貴族院議員)

在任期間 1890年2月 - 1918年5月17日
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大正天皇即位の大礼使長官時の鷹司凞通(1915年)

鷹司 煕通(たかつかさ ひろみち、1855年4月2日安政2年2月16日〉 - 1918年大正7年〉5月17日)は、日本華族陸軍軍人侍従長貴族院議員。官位陸軍少将正二位勲一等公爵

経歴

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九条尚忠の子として安政2年(1855年)に生まれた。嗣子のなかった鷹司輔煕養嗣子となり、輔煕の「煕」とその父政通の「通」をとって煕通と名乗った。

1872年明治5年)、養父の隠居に伴い鷹司家を相続した。同年、ドイツに留学した。

1879年(明治12年)2月1日陸軍士官学校(旧2期)を卒業した。同期には大迫尚道陸軍大将井口省吾陸軍大将、大谷喜久蔵陸軍大将男爵がいた。

1889年(明治22年)11月5日皇太子嘉仁親王東宮武官に就任、1902年(明治35年)6月12日には侍従武官に就任する。 その間、1884年(明治17年)7月7日には公爵に叙され[1]1890年(明治23年)2月には公爵議員として貴族院議員に就任した[2]

1907年(明治40年)11月13日、陸軍歩兵大佐に進み、1910年(明治43年)2月16日、陸軍少将に昇ると共に後備役となり、侍従職幹事に就任する。1912年(大正元年)12月21日、侍従長に任命される。1915年(大正4年)4月1日、陸軍を退役[3]1916年(大正5年)、旭日大綬章を賜る。1918年(大正7年)5月17日、脳溢血のため薨去[4]。墓所は小倉山二尊院

栄典

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位階
勲章

系譜

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脚注

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  1. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』10頁。
  3. ^ 『官報』第809号、大正4年4月16日。
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
  5. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  6. ^ 『官報』第1736号「叙任及辞令」1918年5月18日。
  7. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  8. ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
  9. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  10. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  11. ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
公爵
鷹司家初代
1884年 - 1918年
次代
鷹司信輔