河辺定長
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永11年(1634年) |
死没 | 万治3年12月2日(1661年1月2日) |
官位 | 神祇権大副 |
主君 | 明正天皇→後光明天皇→後西天皇 |
氏族 | 大中臣氏一門河辺家 |
父母 | 父:河辺徳長 |
子 | 養子:河辺兼長 |
生涯
[編集]大中臣氏一門の河辺徳長の子として生まれる。
正保3年(1647年)、13歳のとき、実の祖父・河辺辰長の跡を継いで大宮司に就任する。その後、承応2年(1653年)、二十歳のとき、出自について大中臣氏二門であることが条件となっていた祭主に、一門出身でありながら就任した。翌年には、出口延佳の『陽復記』を後光明天皇の叡覧に入れたことがきっかけとなって、定長は神祇権大副に任じられた[1]。
明暦元年(1655年)、定長は罹病し、祭主としての職務を行えなくなった。嗣子の無い定長は、北小路俊臣の次男を改姓させ、祭主後継として養子に迎え入れた[2]。これに対して大宮司河辺精長が反発したことにより、後継を何年も決めることができず、その最中に27歳で卒去した[3]。
官歴
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 神宮司庁 編『神宮要綱』神宮皇学館館友会。
- 平井誠二 著「近世における祭主職の継承」、國學院大學日本文化研究所 編『大中臣祭主藤波家の研究』続群書類従完成会、2000年、183-204頁。
- 音羽悟「大宮司大中臣精長の時代と遷宮―近世前期の神宮における古儀復興の精神―」『明治聖徳記念学会紀要』復刊50、2013年、46-61頁 。