坊城俊良
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坊城 俊良(ぼうじょう としなが、1893年〈明治26年〉8月15日[1] - 1966年〈昭和41年〉5月30日[1])は、日本の宮内官、神職、華族(伯爵)、皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司。
人物・来歴
[編集]1893年、東京市で、伯爵・坊城俊章の四男として生まれる[1]。学習院で学んだ[2]。
兄・坊城俊徳の死去に伴い、明治44年(1911年)2月3日、伯爵を襲爵した[1][3]。
1902年、侍従職出仕となり明治天皇に仕えた[2][4]。その後、大正天皇付となるがチフスに罹患して休職し、回復後、1914年9月17日[5]、主猟官に転じた[6]。式部官主猟課長、式部職儀式課長、式部次長などを歴任[1][2]。
昭和20年(1945年)9月29日、宮内事務官に転任した飛鳥井雅信に代わって、掌典次長を兼任する[7]。11月10日、掌典長三条公輝の薨去に伴い、掌典長事務取扱を命じられ[8]、11月17日に賀陽宮恒憲王が掌典長に就任すると事務取扱を免ぜられて本職に戻った[9]。11月24日、掌典次長の兼任を免ぜられ、式部次長に専任した[10]。
昭和21年(1946年)3月29日、皇太后宮大夫に就任し貞明皇后に仕え、1951年12月31日まで在任[11]。その後、東京大神宮宮司、伊勢神宮大宮司を務めた[12]。
著作
[編集]親族
[編集]『平成新修旧華族家系大成』下巻, pp. 470–471
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[14]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』下巻, pp. 470–471.
- ^ a b c 『人事興信録』下、第14版, p. ホ6.
- ^ 『官報』第8284号、明治44年2月4日。
- ^ 『宮中五十年』11頁。
- ^ 『官報』第641号、大正3年9月18日。
- ^ 『宮中五十年』70-71頁。
- ^ 『官報』第5618号、昭和20年10月2日、p.2、「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第5654号、昭和20年11月15日、p.4、「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第5658号、昭和20年11月17日、p.3、「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第5665号、昭和20年11月29日、p.6、「叙任及辞令」。
- ^ 秦郁彦 2007, p. 69.
- ^ 『宮中五十年』著者略歴。
- ^ 井上角五郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 『人事興信録』下、人事興信所編(14版)、1943年。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典1868-2000』(2版)東京大学出版会、2007年。
関連項目
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 坊城俊徳 |
伯爵 坊城家第3代 1911年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |