東園基文
東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1月28日[1] - 2007年〈平成19年〉4月12日)は、日本の華族、宮内官僚。東園家14代当主。初名は伊達 宗文[2]。
東園基光子爵の相続人となる[1]。1934年(昭和9年)9月19日、家督を継承し[1]、子爵を襲爵した[3]。戦後は、宮内庁掌典長[4]や神社本庁統理などを務めた。
生涯
[編集]伊達邦宗伯爵三男として宮城県仙台市に生まれる[1]。学習院を経て北海道帝国大学農学部に進学した[* 1]。同大学では馬術部に所属し、1931年に出場した第3回全日本学生馬術選手権大会で優勝したほか[* 2]、第2代主将を務めた[* 1][* 3]。
1934年大学を卒業し、東宮傅育官任官。同年大日本帝国陸軍騎兵少尉。1940年皇后宮事務官。日本の降伏後、1947年宮内府事務官兼侍従兼東宮侍従。1977年からは掌典長を務め、即位の礼や大嘗祭にあたった。そのほか、明仁上皇や常陸宮正仁親王へ馬術の指導も行った[* 1]。1982年従三位勲二等瑞宝章。1998年神社本庁統理、伊勢神宮崇敬会会長。2001年神社本庁顧問。
2007年(平成19年)4月12日、肺炎のため目黒区内の病院で死去。同年5月18日に青山葬儀所で葬儀が行われ、常陸宮正仁親王、正仁親王妃華子、島津久永、島津貴子らが参列した[* 3][* 4]。
2008年(平成20年)1月19日、日本馬術連盟より同連盟功労者に選出され、功労者賞が追贈された[* 1]。同賞は同年2月26日に長男の東園基政より北海道大学馬術部へ寄贈された[* 5]。
系譜
[編集]出典がないものは霞会館 1996b, pp. 388–389を参照している。
妻・佐和子の母が明治天皇の第七皇女・房子内親王であるため[5]、基文の子供たちは明治天皇の曾孫にあたる。
長男の東園基政(1938年生)は1961年に学習院大学理学部物理学科卒業後いすゞ自動車入社、いすゞセラミックス研究所社長を経て、学校法人学習院常務理事、学習院桜友会会長[* 6][* 7]。その妻・登志子は朝吹四郎(朝吹常吉四男)の娘。次男の東園基宏(1942年生)は学習院大学経済学部卒業後全日本空輸入社、全日空商事代表取締役副社長を経て、2005年ハウステンボス社長就任[6]。三男の東園基治(1944年生)はいすゞ海外商品企画部長を経て2005年に医薬品開発ベンチャーのワイズセラピューティクスのCOOに就任[7]。長女・陽子は三越常務・岩瀬敬一朗の妻。敬一朗は、戦後の三越を再建し中興の祖と言われた辣腕社長・岩瀬英一郎の長男で、三越事件、坂倉芳明大型損失事件の渦中にあった人物[* 8][* 9][* 10]。
脚注
[編集]書籍出典
[編集]サイト出典
[編集]- ^ a b c d 東園基文氏に日本馬術連盟から「功労者賞」 - 北海道大学馬術部後援会、2018年9月24日閲覧。
- ^ 全日本学生馬術選手権大会(貸与馬)成績 1930 - 1960年 - ウェイバックマシン(2018年9月24日アーカイブ分)
- ^ a b 東園基文氏を偲んで - ウェイバックマシン(2008年12月26日アーカイブ分)
- ^ 東園基文氏死去/元宮内庁掌典長 - ウェイバックマシン(2023年1月15日アーカイブ分)
- ^ 東園基文氏「功労者賞」を北大馬術部へ寄贈 - 北海道大学馬術部後援会、2018年9月24日閲覧。
- ^ 東園基政学習院大学史料館、ミュージアムレター第24号、2014年2月
- ^ 会長からのご挨拶 ~秋の行事に向けて学習院桜友会、2015/9/1
- ^ 歴戦の百貨店人と歩く日本橋 生き残りの決め手は「お客さま目線」サンケイビズ、2018.12.7
- ^ 東京地方裁判所 昭和57年(特わ)3871号 判決大判例
- ^ 『時代を変えた「同級生」たち 週刊文春 シリーズ昭和(5)世代論篇』文藝春秋, 2017/12/18 , p108-110
参考文献
[編集]- 『平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 『平成新修旧華族家系大成:下巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。
官報
[編集]- 『官報』第2318号、1934年9月20日。
日本の爵位 | ||
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先代 東園基光 |
子爵 東園家第3代 1934年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
その他の役職 | ||
先代 細川護貞 |
伊勢神宮崇敬会会長 第6代:1998年 - 2006年 |
次代 豊田章一郎 |