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大中臣親隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大中臣親隆
時代 平安時代後期
生誕 長治2年(1105年
死没 文治3年9月29日1187年11月1日
改名 親忠
別名 号:岩出、山幡
官位 正三位神祇大副伊勢神宮祭主
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 大中臣氏(二門)
父母 父:大中臣親仲、母:橘季宗
兄弟 親隆親章親通親範、源仲、宗親
卜部兼友[1]荒木田経仲
定隆宣隆能隆隆盛
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大中臣 親隆(おおなかとみ の ちかたか)は、平安時代後期の公卿伊勢神宮祭主神祇権大副大中臣親仲の三男。官位正三位・神祇大副、伊勢神宮祭主。

経歴

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保延2年(1136年神祇少祐に任ぜられる。保延5年(1139年従五位下に叙され、永治2年(1142年)神祇権大祐に転じる。

永暦2年(1161年)従五位上・神祇少副に叙任される。長寛元年(1163年正五位下、長寛2年(1164年従四位下と昇進し、長寛3年(1165年)叔父・師親の解却によって伊勢神宮祭主に補任される。仁安元年(1166年)従四位上に進み、仁安3年(1168年正四位下・神祇権大副に叙任。嘉応3年(1171年)には従三位に叙され公卿に列した。

治承4年(1180年)神祇大副に転じる。治承5年(1181年)正三位に進むが、俄かに中風を発症して翌治承6年(1182年)祭主・大副を辞退して寿永3年(1184年)出家。文治3年(1187年)9月29日薨去。享年83。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 保延2年(1136年)正月22日:神祇少祐に任ず。
  • 保延5年(1139年)10月7日:従五位下に叙す(皇后宮御給)。
  • 永治2年(1142年)正月27日:神祇権大祐に転ず。
  • 保元元年11月28日(1157年1月10日):神祇権少副に転ず。
  • 永暦2年(1161年)正月25日:従五位上に叙す(度々の御祈の賞)。正月30日:神祇少副に転ず。
  • 長寛元年(1163年)7月7日:正五位下に叙す(御祈の賞)。
  • 長寛2年(1164年)正月29日[2]:従四位下に叙す(御祈十社奉幣次)。
  • 長寛3年(1165年)5月6日:伊勢神宮祭主に補す(師親解却の替わり)。
  • 仁安元年(1166年)11月18日:従四位上に叙す(大嘗會祝申賞)。
  • 仁安2年12月16日(1168年1月27日):神祇権大副に転ず。
  • 仁安3年(1168年)11月20日[3]:正四位下に叙す(大嘗會祝申賞)。
  • 嘉応3年(1171年)正月18日:従三位に叙す。祭主・権大副如元。
  • 治承4年(1180年)正月28日:神祇大副に転ず。
  • 治承5年(1181年)3月29日:正三位に叙す。
  • 治承6年(1182年)12月3日:祭主并びに大副を辞す。12月7日:得替。
  • 寿永3年(1184年)2月:出家。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 名は兼支兼文兼時とも表記される。
  2. ^ または、5月29日。
  3. ^ または、11月22日。
  4. ^ または次男(『公卿補任』)。

参考文献

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  • 『藤波家譜』(東京大学史料編纂所所蔵)
  • 『大中臣氏系図』(群書類従)