大中臣親隆
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 長治2年(1105年) |
死没 | 文治3年9月29日(1187年11月1日) |
改名 | 親忠 |
別名 | 号:岩出、山幡 |
官位 | 正三位・神祇大副、伊勢神宮祭主 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 大中臣氏(二門) |
父母 | 父:大中臣親仲、母:橘季宗娘 |
兄弟 | 親隆、親章、親通、親範、源仲、宗親 |
妻 | 卜部兼友娘[1]、荒木田経仲娘 |
子 | 定隆、宣隆、能隆、隆盛 |
大中臣 親隆(おおなかとみ の ちかたか)は、平安時代後期の公卿・伊勢神宮祭主。神祇権大副・大中臣親仲の三男。官位は正三位・神祇大副、伊勢神宮祭主。
経歴
[編集]保延2年(1136年)神祇少祐に任ぜられる。保延5年(1139年)従五位下に叙され、永治2年(1142年)神祇権大祐に転じる。
永暦2年(1161年)従五位上・神祇少副に叙任される。長寛元年(1163年)正五位下、長寛2年(1164年)従四位下と昇進し、長寛3年(1165年)叔父・師親の解却によって伊勢神宮祭主に補任される。仁安元年(1166年)従四位上に進み、仁安3年(1168年)正四位下・神祇権大副に叙任。嘉応3年(1171年)には従三位に叙され公卿に列した。
治承4年(1180年)神祇大副に転じる。治承5年(1181年)正三位に進むが、俄かに中風を発症して翌治承6年(1182年)祭主・大副を辞退して寿永3年(1184年)出家。文治3年(1187年)9月29日薨去。享年83。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 保延2年(1136年)正月22日:神祇少祐に任ず。
- 保延5年(1139年)10月7日:従五位下に叙す(皇后宮御給)。
- 永治2年(1142年)正月27日:神祇権大祐に転ず。
- 保元元年11月28日(1157年1月10日):神祇権少副に転ず。
- 永暦2年(1161年)正月25日:従五位上に叙す(度々の御祈の賞)。正月30日:神祇少副に転ず。
- 長寛元年(1163年)7月7日:正五位下に叙す(御祈の賞)。
- 長寛2年(1164年)正月29日[2]:従四位下に叙す(御祈十社奉幣次)。
- 長寛3年(1165年)5月6日:伊勢神宮祭主に補す(師親解却の替わり)。
- 仁安元年(1166年)11月18日:従四位上に叙す(大嘗會祝申賞)。
- 仁安2年12月16日(1168年1月27日):神祇権大副に転ず。
- 仁安3年(1168年)11月20日[3]:正四位下に叙す(大嘗會祝申賞)。
- 嘉応3年(1171年)正月18日:従三位に叙す。祭主・権大副如元。
- 治承4年(1180年)正月28日:神祇大副に転ず。
- 治承5年(1181年)3月29日:正三位に叙す。
- 治承6年(1182年)12月3日:祭主并びに大副を辞す。12月7日:得替。
- 寿永3年(1184年)2月:出家。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『藤波家譜』(東京大学史料編纂所所蔵)
- 『大中臣氏系図』(群書類従)