鷹司政煕
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦11年4月10日(1761年5月14日) |
死没 | 天保12年2月7日(1841年3月29日) |
改名 | 政煕→楽山(法名) |
墓所 | 右京区二尊院 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇→仁孝天皇 |
氏族 | 鷹司家 |
父母 |
父:鷹司輔平、母:家女房 嫡母:毛利文子 |
兄弟 | 鷹司政煕、徳大寺実堅、隆範、高演、覚尊、円祥、達子、富子、誠子、致子 |
妻 |
正室:蜂須賀儀子(蜂須賀重喜の娘) 豊岡斐子、井上梅 |
子 | 政通、依子、隆子、吉子、繋子、今出川賀丸、景子、祺子、定子、并子、任子、皐子、道子、辰子、祥子、定演、備子、松平信充室 |
鷹司 政煕(たかつかさ まさひろ)は、江戸時代中期の公家。藤氏長者。従一位、関白。
概要
[編集]父は閑院宮直仁親王(東山天皇皇子)の第四王子で、鷹司基輝の養子となって藤原姓鷹司家を継承した鷹司輔平。母は家女房。
兄妹に徳大寺実堅、昌子(伏見宮邦頼親王妃)、富子(有栖川宮織仁親王妃)、興姫(仙台藩主伊達斉村室)。正室は徳島藩主・蜂須賀重喜の娘・儀子。側室に豊岡斐子と井上梅。
光格天皇(現在の皇室の祖)は従兄にあたり、寛政7年(1795年)から19年にわたって関白を務めた。政煕自身は文化2年(1805年)から関白在任の長期化による人事停滞を危惧して辞意を示すが、光格天皇も江戸幕府も政煕の能力を評価し、朝廷の運営や朝幕関係の安定になくてはならない人物であるとして度々慰留された。また、この慰留には天皇や幕府から関白として「非器」とされていた左大臣の二条治孝の関白就任を阻止する意図もあった。その結果、治孝の後ろ盾であった後桜町院が崩御するまで政煕は関白に留まることになった[1]。
家族・親族
[編集]- 子女
ほか
系譜
[編集]東山天皇の男系三世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の子。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
略歴
[編集]- 明和5年(1768年)昇殿
- 明和7年(1770年)権大納言、正三位
- 寛政3年(1791年)左大臣
- 寛政7年(1795年)藤氏長者、関白
- 寛政8年(1796年)従一位
- 寛政12年(1800年)准三宮
- 文化11年(1814年)辞関白
- 文政6年(1823年)出家(法名楽山)
脚注
[編集]- ^ 長坂良宏 (2018年2月20日). 近世の摂家と朝幕関係. 吉川弘文館. pp. 144-155