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徳川斉温

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
徳川 斉温
時代 江戸時代後期
生誕 文政2年5月29日1819年7月20日
死没 天保10年3月20日1839年5月3日
改名 直七郎(幼名)→斉温
諡号 僖公
戒名 良恭院殿譲譽盛徳源僖大居士
墓所 名古屋市東区筒井の徳興山建中寺
官位 従二位権大納言
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
尾張藩
氏族 尾張徳川家
父母 父:徳川家斉、母:戸田政方娘・青蓮院
養父:徳川斉朝
兄弟 清湛院家慶敦之助峰姫斉順浅姫虎千代、元姫、斉明、文姫、斉荘、盛姫、池田斉衆溶姫、和姫、松平斉民末姫喜代姫斉温松平斉良永姫斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉省松平斉宣泰姫ら26男27女
正室:徳川斉匡十四女・琮樹院
継室:近衛基前養女・俊恭院
養子:斉荘
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徳川 斉温(とくがわ なりはる)は、江戸時代後期の大名尾張藩11代藩主。官位従二位権大納言。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。

生涯

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11代将軍・徳川家斉の十九男として誕生した。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。幼名は直七郎。

文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、斉朝の隠居を受け、9歳で家督を相続した。

倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾を献上したことなどにより、財政が更に悪化した[1]。また、無類の好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣と共に講義を聞くほど学問好きであった[2]

病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。

死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。

官職および位階等の履歴

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※日付=旧暦

系譜

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脚注

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  1. ^ 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年
  2. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X