松平義方
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 貞享3年10月9日(1686年11月24日) |
死没 | 享保6年3月16日(1721年4月12日)[1] |
改名 | 久太郎/求馬(幼名)、義賢(初名)、義方 |
戒名 | 晴寥院殿[1] |
墓所 | 東京都の傅通院 |
官位 | 従五位下右近将監、右近大夫、従四位下出雲守、侍従、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家継→吉宗 |
藩 | 陸奥梁川藩主 |
氏族 | 大窪松平家 |
父母 |
父:松平義昌、母:副田氏 養母:丹羽光重の娘・久勝院 |
兄弟 | 茂林院、徳雲院、稲姫、春林院、沖姫、友太郎、和姫、萬次郎、義方、義武、法智院、富姫、理體院、春梢院 |
妻 | 正室:浅野綱長の娘・於三 |
子 | 義真、近姫 |
松平 義方(まつだいら よしかた)は、江戸時代中期の大名。陸奥国梁川藩の第2代藩主。官位は従四位下・出雲守、侍従、左近衛権少将。
経歴
[編集]貞享3年(1686年)、初代藩主・松平義昌の5男として誕生。貞享4年12月9日(1688年)、誕生お披露目。尾張藩2代藩主・徳川光友と御簾中・千代姫に初対面する。元禄元年(1688年)11月15日、御髪置。同3年(1690年)1月25日、御着袴。同4年(1691年)10月14日、疱瘡を患う。同6年(1693年)4月15日、求馬義賢と改名する。同年7月1日、第5代将軍・徳川綱吉に初御目見する。同13年12月12日(1701年)、前髮執。同月21日、従五位下・侍従・右近大夫に叙任される。同14年(1701年)2月16日、右近将監に転任する[2]。
宝永4年(1707年)4月21日、浅野綱長の娘・於三と婚礼、4月28日に婚姻御礼に登城する。正徳3年(1713年)7月6日、父の死去で家督を継ぐ。同年12月3日、出雲守に転任する。同4年(1714年)12月18日に従四位下・左近衛権少将に昇叙・出雲守はそのまま。義方と改名する[1]。藩財政の窮乏から、父の代以上に年貢率を引き上げ、新税を設置して重税を強いるなど、農民からの収奪を強化した[3]。
享保6年(1721年)3月16日、死去。享年36。跡を長男・義真が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『名古屋叢書三編』第一巻 尾張徳川家系譜
- 『徳川実紀』
- 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』(東京堂出版、2009年)