徳川治行
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦10年9月19日(1760年10月27日) |
死没 | 寛政5年9月5日(1793年10月9日) |
改名 | 源次郎(幼名)→松平義柄→徳川治行 |
戒名 | 憲聡院殿源白世子 |
官位 | 従四位下侍従、摂津守、従三位左近衛中将、参議 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 美濃高須藩主→尾張尾張藩世嗣 |
氏族 | 高須松平家→尾張徳川家 |
父母 |
父:松平義敏、母:松平頼寛娘・幾 養父:徳川宗睦 |
兄弟 | 治行、松平義裕、松平裕民、純姫 |
妻 | 正室:徳川宗将五女・従姫 |
子 |
五郎太、俊姫 養子:松平義裕 |
徳川 治行(とくがわ はるゆき)は、江戸時代中期の大名。美濃国高須藩5代藩主。後に尾張徳川家世子となる。官位は従三位・左近衛中将、参議。
生涯
[編集]高須藩4代藩主・松平義敏の長男として誕生。母は陸奥国守山藩主・松平頼寛の娘。
明和8年(1771年)6月13日、義敏の死去により家督を相続する。高須藩時代の名乗りは松平 義柄(まつだいら よしえ)。安永3年(1774年)8月15日、10代将軍・徳川家治に御目見する。同年12月18日、従四位下・侍従・摂津守に叙任する。
安永6年(1777年)1月25日、2人の息子(治休・治興)に先立たれていた本家の尾張藩主・徳川宗睦の養嗣子となり、将軍・家治の偏諱を受けて徳川治行と改名、従三位・左中将に昇進し、後に参議に任官した(代わって弟の松平義裕が高須藩主を継いだ)。しかし、寛政5年(1793年)8月晦日、養父・宗睦に先立ち死亡した。同年9月5日、死亡が公表された。法名は憲聡院殿。号は源白世子。
尾張藩嫡子には、一橋家から斉朝(第11代将軍徳川家斉の甥)が迎えられた。
系譜
[編集]子女は1男1女。