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徳川宗将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
徳川 宗将
時代 江戸時代中期
生誕 享保5年2月30日1720年4月7日[1]
死没 明和2年2月25日1765年4月14日
改名 直松、宗将
戒名 菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士
墓所 慶徳山長保寺
官位 従四位下常陸介従三位右近衛権中将参議権中納言
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
紀伊和歌山藩
氏族 紀伊徳川家
父母 父:徳川宗直、母:永隆院
兄弟 宗将治貞、松平頼央、松平信有、富千代、内藤貞幹
正室:伏見宮貞建親王の養女(今出川公詮の娘)・徳子
継室:一条兼香の娘・重子
直松、重倫、門之進、内藤学文松平頼興(五男)、松平頼謙松平忠功三浦為脩松平忠和安藤道紀阿部正由千間姫前田重教正室)、琴姫池田重寛婚約者)、致姫松平重富正室)、逸姫、従姫(徳川治行正室)
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徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)は、和歌山藩の第7代藩主。

生涯

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享保5年(1720年)2月30日、先代藩主・徳川宗直の長男として江戸青山御殿にて生まれる。幼名は直松宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだが、藩政に対しては消極的であった。仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃したと伝わる。

明和2年(1765年)2月25日、江戸赤坂の和歌山藩邸にて死去した。享年46(満45歳没)。長保寺に埋葬された。家督は次男の重倫が継いだ。

和歌山藩主としての治世は7年6か月であり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は6年であった[2]

官歴

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※日付=旧暦 墓所:和歌山県海南市の慶徳山長保寺

系譜

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参考文献

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脚注

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  1. ^ 367日誕生日大事典 126頁
  2. ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)