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松平信清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平信清
時代 江戸時代中期
生誕 元禄2年10月18日1689年11月29日[1]
死没 享保9年5月19日1724年7月9日
改名 仁十郎(幼名)→信清
戒名 玄徳院殿性山道崇大居士
墓所 東京都新宿区富久町の自証院
官位 従四位下、侍従越前
幕府 江戸幕府
上野吉井藩
氏族 鷹司松平家
父母 父:松平信政、母:森長継娘・大姫
津軽信寿の娘
信友、潔姫ら
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松平 信清(まつだいら のぶきよ)は、上野吉井藩の初代藩主。鷹司松平家3代。

生涯

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旗本松平信政の長男。元禄4年12月5日(1692年1月22日)、7000石の家督を継ぐ。元禄12年(1699年)3月28日、将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄16年12月21日(1704年1月27日)、従四位下・侍従・越前守に叙任する。宝永6年(1709年)、多胡郡など3000石を加増されて合計1万石を領する大名となる。1万石の小大名でありながら、徳川将軍家御台所の縁者であり[2]鷹司家紀州徳川家の血筋を引く家であることから、徳川家一門ならびに国主格の待遇を受けた。さらに江戸城内では御三家加賀前田家と同格の大廊下(下之間)の格式を幕末まで受けることになる。享保9年(1724年)5月19日に36歳で死去し、跡を長男の信友が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

脚注

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  1. ^ 「明治二十六年正月 吉井藩主系図」(『群馬県史 資料編9(近世1 西毛地域1)』(群馬県、1977年)p.173)
  2. ^ 加増の年に死去した綱吉の御台所鷹司信子、また綱吉の父徳川家光の御台所鷹司孝子が鷹司家の出身であった。