松平忠功
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦6年5月21日(1756年6月18日) |
死没 | 文政13年8月6日(1830年9月22日) |
改名 | 頼之丞(幼名)、頼久(初名)、忠功 |
戒名 | 大乗院殿融明慈証大居士 |
墓所 | 東京都台東区谷中の天眼寺 |
官位 | 従四位下下総守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 伊勢桑名藩主 |
氏族 | 紀州徳川家→奥平松平家 |
父母 |
徳川宗将 伏見宮貞建親王養女・徳子女王[1] 松平忠啓 |
兄弟 |
直松、徳川重倫、千間姫、琴姫、門之進、致姫、内藤学文、頼興、頼謙、逸姫、 忠功、従姫、三浦為脩、忠和、安藤道紀、阿部正由 |
妻 | 松平忠啓娘・久仁姫 |
子 | 忠和 |
松平 忠功(まつだいら ただかつ)は、江戸時代中期の大名。伊勢国桑名藩4代藩主。官位は従四位下・下総守。奥平松平家6代。
生涯
[編集]紀州藩7代藩主・徳川宗将の七男として誕生。桑名藩3代藩主・松平忠啓の実子が早世していたため、天明3年(1783年)5月2日に婿養子として迎えられた。天明6年(1786年)12月10日に忠啓が死去したため、天明7年(1787年)1月21日に家督を継ぐ。
当時、江戸幕府では老中松平定信による寛政の改革が行われていたが、忠功もそれに倣い寛政3年(1791年)に「御定書」を制定して藩財政再建のために経費節減や生活の簡素化、上意下達の徹底などの藩政改革を行なった。しかし寛政5年(1793年)11月28日、病気を理由に家督を異母弟で養子の忠和に譲って隠居し、以後の藩政改革は忠和に受け継がれることとなる。
系譜
[編集]父母
正室
- 久仁姫、桃仙院 ー 松平忠啓の娘
養子
- 松平忠和 ー 実弟