伊達斉村
伊達斉村像(仙台市博物館蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永3年12月5日(1775年1月6日) |
死没 |
寛政8年7月27日(1796年8月29日) 公式では寛政8年8月12日(1796年9月13日) |
改名 | 式三郎(幼名)、祝村、斉村 |
別名 | 通称:式三郎→総次郎、号:桂山 |
戒名 | 永慶院殿桂山蘭榮大居士 |
官位 | 従四位下侍従、美作守、陸奥守、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 陸奥仙台藩主 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達重村、母:喜多山美哲(藤蔵)の娘・正操院 |
兄弟 | 総三郎、斉村、仙三郎、順姫、満姫、生姫、祥姫、窕姫ら |
妻 |
正室:信證院 側室:信光院 |
子 | 周宗、斉宗 |
伊達 斉村(だて なりむら)は、江戸時代後期の大名。仙台藩8代藩主。伊達氏24代当主。官位は従四位下・陸奥守、左近衛権少将。
経歴
[編集]安永3年12月5日(1775年1月6日)、7代藩主・伊達重村の次男として誕生。母は喜多山美哲(藤蔵)の娘、正操院。天明3年(1783年)に嗣子となり(兄は早世していたものと思われる)、祝村(ときむら)と名乗る。
父の正室・観心院の養いとなる。守役は古田良智(舎人)、付役は平賀義雅(蔵人)が勤める。
天明7年(1787年)に元服して11代将軍・徳川家斉の偏諱を受けて斉村と改名し、従四位下、侍従、美作守となる。寛政2年(1790年)、父・重村の隠居を受けて家督を相続し、陸奥守、左近衛少将となる。寛政5年(1793年)に関白・鷹司輔平の娘、興姫(後に誠子と改名、光格天皇の従姉)と結婚する。
寛政8年(1796年)には伊達家に不幸が連続する。同年3月2日に正室の誠子を母として長男・周宗が出生したが、産後の肥立ちが悪く、同年4月16日に誠子が死去する。同年4月21日に江戸で父が死去する。斉村も帰国の途中に白河駅で病にかかり、帰国後に仙台城にて同年7月27日(1796年8月29日)に病没した。享年23。
死亡当時、長男の周宗は乳児、次男の斉宗は出生前といった状況に加え、正式に後継者も決めていなかった。故に斉村の死去は幕府はおろか藩内にも機密扱いとした上で、同年8月1日に斉村の病気回復が遅れている旨が幕府に報告され、藩内には同年8月12日(1796年9月13日)に死去したと公表の上で3日後、幕府に斉村の病気による長男・周宗の末期養子としての相続願いが出され、認可された。法諡は永慶院殿桂山蘭榮大居士。
人物
[編集]武芸よりも詩文を好む教養人であった。寛政8年(1796年)、岩松壽隆(喜惣治)が深山幽谷の中に埋もれている作並の湯(現在の作並温泉・岩松旅館)を開き、世の多くの人々を助けたいと願い出てきたため、それを許可したとの逸話がある。
系譜
[編集]- 父:伊達重村(1742-1796)
- 母:郷子 - 於定の方、正操院、喜多山美啓の娘
- 兄弟姉妹
- 正室:信證院(1775?-1796) - 興姫、誠子、鷹司輔平の娘
- 長男:伊達周宗(1796-1812) - 9代藩主
- 側室:信光院(1779-1800) - 信子、阿信、喜多山美昭(藤蔵)の娘
- 次男:伊達斉宗(1796-1819) - 10代藩主
偏諱を受けた人物
[編集]斉村時代
在任期間が1790年から1796年(6年間)と大変短いため、歴代藩主に比べると少ない。
参考文献
[編集]- 『三百藩藩主人名事典1』新人物往来社。
- 仙台市史編さん委員会『仙台市史・通史5・近世3』2004年。