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伊達稙宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達 高宗 / 伊達 稙宗
長谷川養辰「伊達稙宗像」
仙台市博物館蔵)
時代 戦国時代
生誕 長享2年(1488年
死没 永禄8年6月19日1565年7月16日
改名 高宗(初名)、稙宗
別名 仮名:次郎、号:受天
諡号 直山公
戒名 智松院殿直山円入大居士
墓所 福島県福島市陽林寺
官位 従四位下左京大夫
幕府 室町幕府 陸奥守護
氏族 伊達氏
父母 父∶伊達尚宗、母∶積翠院[注釈 1]
兄弟 稙宗留守景宗、久松丸、最上義定継室
蘆名盛高娘・泰心院
中条定資娘、亘理宗隆娘ら
屋形御前相馬顕胤室)、蘆名盛氏正室、晴宗
大崎義宣実元二階堂照行室、
田村隆顕室、宗澄懸田俊宗室、
桑折宗貞葛西晴清梁川宗清
村田宗殖極楽院宗栄亘理綱宗
亘理元宗大有康甫越河御前相馬義胤室)
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伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国戦国大名官位従四位下左京大夫伊達氏14代当主。伊達政宗の曾祖父。

生涯

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長享2年(1488年)、13代当主・伊達尚宗の嫡男として誕生。慣例により11代将軍・足利義高(のちの義澄)から偏諱の授与を受けて高宗(たかむね、初名)と名乗った。

永正11年(1514年)、父の死去に伴い家督を相続して14代当主となる。同年、羽州探題最上義定長谷堂城にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に最上氏を支配下に置く。永正14年(1517年)、10代将軍[注釈 2]足利義稙の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、管領細川高国を通じて一字拝領を願い出て許され、偏諱を受けて名を稙宗に改めると共に、左京大夫に任官された[2][注釈 3]。左京大夫は、元来奥州探題大崎氏が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、実質的な実力が大崎氏に並んだと認めさせた(ただし家格は依然として大崎氏の方が上のままである)ことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用すると共に、葛西氏岩城氏などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功した。

永正17年(1520年)最上義定が嗣子のないまま死去すると、義定未亡人を介して伊達稙宗に影響力を行使されることを嫌った最上の諸将が反旗を翻し、伊達氏と最上氏の対立が起こる。稙宗は破竹の勢いで上山城山形城天童城高擶城(たかだま)を落とす[4][5]と翌大永元年(1521年寒河江を攻める。この時伊達軍は葛西・相馬・岩城・会津宮城国分・最上の軍勢を集結し、高瀬山(現・寒河江市高瀬山)から八幡原(現・寒河江市元町)にかけて陣を敷いた。一か月に及ぶ滞陣の間に伊達氏と寒河江氏の間で和議を結び、戦火を交えず伊達軍は引き上げた[6]。この戦いにより最上郡及び村山郡南部は伊達氏の傘下に入った。

大永2年(1522年)には室町幕府においては前例のない[注釈 4]陸奥守護に補任された[8]。大永2年12月将軍義晴より代始祝儀の返礼が届けられる[9]。翌大永3年(1523年)京都石清水八幡宮造営の奉加を命じられる[10]。ただし、稙宗が望んでいたのは大崎氏に代わる奥州探題就任であったと考えられ、これに対して室町幕府は足利氏一門ではない伊達氏の探題就任を拒否すると同時に、伊達氏が国人の格式であり続けることの不都合[注釈 5]は認めて、守護職に任命することによって「大名」の格式を与えることで稙宗を宥めようとしたと推測されている。ただし、この措置は稙宗を満足させるものでは無かったらしく、一時幕府との関係が悪化している[12]

天文元年(1532年)に居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移すと体制の強化に努め、天文2年(1533年)に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年(1533年)の『棟役日記』、天文7年(1538年)の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年(1536年)には171条に及ぶ分国法塵芥集』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。また同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、大崎義直の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動し、その代償として二男・義宣を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことに成功した。

ところが、三男・実元越後国守護上杉定実への入嗣や、婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・晴宗桑折景長中野宗時ら家臣団との対立を次第に深める、天文11年(1542年)6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして小梁川宗朝により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で天文の乱が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年(1547年)に味方であった蘆名盛氏が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年(1548年)9月、13代将軍・足利義輝の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた[13]。6年に及ぶこの乱の影響で、従属下にあった大崎・葛西・最上・相馬・蘆名の各氏は乱に介入して伊達家に対する発言力を増し、従属関係を脱した。また、実際には弘治になっても晴宗との対立は収まらなかったとする説もある[14]

永禄8年(1565年)6月19日、丸森城にて死去[15]。享年78。遺骸は自らが開基となった陽林寺に葬られた。小梁川宗朝が墓前で殉死している。

系譜

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洞(うつろ)と近親婚

  •  稙宗の築いた洞(血縁を軸にした伊達中心の政治権力構造)は、その特性上、伊達家および姻族勢力間での婚姻を促進し、政治的には対立した息子晴宗も婚姻政策を踏襲した事から、多くの近親婚が発生した。
  •  相馬家
    •  相馬顕胤 婿
    •  相馬盛胤 孫
    •  相馬義胤 曾孫 婿
    •  相馬利胤室 蘆名盛隆の娘 利胤は義胤の子
  •  蘆名家
    •  蘆名盛氏 義甥 婿
    •  蘆名盛興 孫 孫婿
  •  田村家
    •  田村隆顕 婿
    •  田村清顕 孫 孫婿
    •  田村愛 曽孫 曾孫嫁
  •  二階堂家
    •  二階堂輝行 婿
    •  二階堂盛義 孫 孫婿
    •  蘆名盛隆 曾孫×2 孫婿
    •  蘆名亀王丸 曾孫 玄孫×2
      •  高祖父母16人中、13人が伊達稙宗,岩城重隆両名およびその父と舅で占める。
  •  伊達家
    •  伊達成実 孫 曾孫
    •  伊達忠宗 高祖父8人のうち3人が稙宗

脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ 仙台藩の史料では上杉定実を積翠院の父とするが、年代的には全く整合性がとれないため、実際には、積翠院は定実の実姉(15歳以上年長か)と考えられている[1]
  2. ^ 11代義澄の将軍廃位後に将軍職に復帰した。
  3. ^ なお、この偏諱・任官の申請は将軍義稙は拒否する意向であったが、高国の判断で認められ、後日両者の関係を悪化させる一因になった[3]
  4. ^ 陸奥・出羽は守護不設置であり、探題・国人による支配だった[7]
  5. ^ 文亀3年(1503年)には越後上杉家上杉房能と伊達尚宗の間で書札礼を巡る紛争が発生している[11]
  6. ^ 寛文7年(1667年)に相馬中村藩士・中津幸政が編纂した『奥相茶話記』は、相馬顕胤室の母は先妻の上杉氏、晴宗の母は継室・蘆名盛舜の娘で両者は異母姉弟であるとしているが、『茶話記異説改選集』にて共に泰心院の子であると訂正されている。
  7. ^ 泰心院の子とも。
  8. ^ 稙宗にとっては七男。牛猿丸は盛岡藩系の系譜では葛西晴清(はるきよ)、仙台藩系の系譜では葛西晴胤を指すとしている。

出典

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  1. ^ 長谷川伸「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」『地方史研究』254号、1994年
  2. ^ 『大日本史料』9編6冊772頁。永正14年3月9日条
  3. ^ 浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年、P227
  4. ^ 『大日本史料』9編11冊95頁。永正17年6月21日条。
  5. ^ 「伊達正統世次考」
  6. ^ 『寒河江市史 上巻』pp.714「天文本大江系図」
  7. ^ 『中世出羽の領主と城館』p.90-92
  8. ^ 『大日本史料』9編13冊411頁。大永1年12月7日条
  9. ^ 『大日本史料』9編25冊補遺281頁「武家手鑑」
  10. ^ 『大日本史料』9編25冊補遺282頁
  11. ^ (文亀3年)8月9日付黒田吉忠書状(三浦和田文書『新潟県史 中世二』1318号)
  12. ^ 黒嶋敏「奥州探題考」『中世の権力と列島』(高志書院、2012年) ISBN 978-4-86215-113-1) P41-45.
  13. ^ 『史料総覧』9編910冊285頁。 天文17年9月是月 「伊達正統世次考」
  14. ^ 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号、2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-315-2) 2019年、P69・89.
  15. ^ 『史料総覧』 9編910冊614頁 。
  16. ^ 『史料総覧』9編910冊614頁「伊達家家譜」

参考文献

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  •  小林宏『伊達家塵芥集の研究』(創文社、1970年)
  •  『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) - 「伊達稙宗」「伊達晴宗」の項(伊達宗弘執筆)
  •  伊藤清郎山口博之『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』