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二条尹房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
二条尹房
二条尹房像(同志社大学歴史資料館蔵)
時代 戦国時代
生誕 明応5年10月12日1496年11月16日
死没 天文20年8月29日1551年9月29日
戒名 後大染金剛院
墓所 山口県長門市大寧寺
官位 従一位関白准三宮左大臣
主君 後柏原天皇後奈良天皇
氏族 二条家
父母 父:二条尚基、母:家女房
九条経子(九条尚経の娘)
晴良良豊、尋憲、女子[1]
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二条 尹房(にじょう ただふさ)は、戦国時代公家二条家13代当主。父は関白二条尚基。母は家女房。

生涯

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明応6年(1497年)父の死去に伴い2歳で家督を継いだため、祖母の水無瀬兼子細川教春の女、水無瀬季兼猶子)の手で育てられた。永正5年(1508年)に13歳で元服し、家の慣例により室町幕府将軍足利義尹(のちの義稙)から偏諱を賜い尹房と名乗った。

同8年(1511年)3月従三位に叙されて公卿に列し、権中納言権大納言右近衛大将を経て、同12年(1515年従二位内大臣に叙任。同15年(1518年関白右大臣に昇った後、大永元年(1521年)7月左大臣に転じ、同2年(1522年)1月従一位に叙された。同5年(1525年)4月関白を辞職。同8年(1528年備前国への一時下向を皮切りに、これ以降、家領回復のため地方にたびたび在国した。天文2年(1533年)2月准三宮宣下を受け、同3年(1534年)12月関白に還補されたが、これは後奈良天皇即位礼での印明伝授のためだった。

天文5年(1536年勧修寺家と争っていた加賀国井家荘(現石川県津幡町)の領家職について本願寺証如に還付を要請。関白を辞して井家荘に下向し、同10年(1541年)まで直務を行って上洛を果たした。同13年(1544年)4月、尼子氏大内氏との抗争調停のために一旦出雲国(一説に備後国)へ下向したが、大内義隆の招きもあり、翌14年(1545年)以降は次男良豊とともに周防国山口に滞在した。

同20年(1551年)8月、義隆の重臣陶晴賢の謀反事件(大寧寺の変)に遭遇。内藤興盛に使者を送って和睦斡旋を懇願するも聞き入れられず、良豊や三条公頼持明院基規大宮伊治とともに陶軍の手で殺害された。享年56。墓所は山口県長門市大寧寺にある。

系譜

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脚注

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  1. ^ ほかに花山院家輔猶子となり正親町天皇尚侍となった娘もいる。

参考文献

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関連項目

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