時代劇
時代劇(じだいげき)は、日本の演劇や映画・テレビドラマなどで現代劇と大別されるジャンルとして、主に明治維新以前の時代の日本を舞台とした作品の総称である[1][2]。
概要
[編集]時代劇の定義
[編集]時代劇というジャンルは、その作品の数から、主に平安時代から明治維新までを扱った作品が「時代劇」とも解釈されている。しかしあくまで解釈であって、厳密に定義があるわけではない。奈良時代以前の古代も含まれるという解釈も存在する[注釈 1]。キネマ旬報社2012年発行の『現代映画用語事典』では「明治維新以前の時代を扱う日本映画で、特に戦国時代から江戸末期までを題材とした剣戟映画(チャンバラを含む映画)が時代劇映画の主軸として捉えられ、一般に"時代劇"とのみ称される」と説明され[3]、日本図書センター2008年発行の『世界映画大事典』では「明治維新の頃より以前の時代を扱った劇映画の呼称で、現代劇に対するジャンルとして多様な広がりを持っている」[4]と書かれており、また「髷(マゲ)を結んだ人物が主な登場人物であれば全て時代劇映画と定義する」[5]とするもの、など解釈は多様である。英米では「period drama」もしくは「costume drama」と訳されたが、近年はそのまま「Jidaigeki」と呼ぶ例も増えている[3]。時代劇で数多く製作されているのは、江戸時代を舞台にした作品である。
チャンバラ
[編集]時代劇は一方でチャンバラとも呼ばれ、その部分や作品についてチャンバラシーンやチャンバラスタイル、チャンバラ映画と呼ばれ、殺陣という言い方もされる。これはクライマックスに剣戟シーンがある時代劇を指し、時代劇の中のサブジャンルでもあり、時代劇が即チャンバラではない。語源は新国劇からの剣劇[6]の影響を受けた剣戟映画で、立ち回り(殺陣)で両者の刀がぶつかった時に、刀の発する音を擬音で「ちゃんちゃんばらばら」と表現したことからそれを略して使われた言葉である[7]。
またこれとは別に時代劇は俗に髷物(まげもの)、丁髷物(ちょんまげもの)とも言われ[2]、英語では「Samurai cinema」「Samurai film」あるいは「Samurai drama」[注釈 2]と表記されている[注釈 3]。
歴史劇
[編集]時代劇に対して「歴史劇(史劇)」というものも存在するが、フィクションに近いかノンフィクションに近いかで区別する時代小説と歴史小説とは違い、日本国内のものを「時代劇」、日本以外のものを「歴史劇」或いは「史劇」と呼び分けている。
フィクションとしての時代劇
[編集]時代劇は、実際にあった歴史上の事件や歴史に残る人物を登場させることも多いが、登場する人物像を始め、その時代の慣習、風俗、効果音、台詞などが大胆にフィクション化され、その時代劇が制作された年代の大衆に受け入れやすいようになっている。
一般論として、時代劇で描かれる歴史はあくまでフィクションであり、同じ題材を扱っていても全く解釈の異なる作品が生み出されている[注釈 4]。
時代劇の誕生
[編集]「時代劇」という用語はもともと活動写真から誕生した言葉であり、映画の歴史と共に歩んできたジャンルである。そして映画が活動写真と呼ばれていた最初の頃には、厳密に時代劇と呼ばれるジャンルは無かった。
旧劇映画
[編集]1899年(明治32年)に当時の歌舞伎の九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の「紅葉狩」の演目を撮影した「紅葉狩」が現存する日本最古の映画として一部フィルムが残っているが、これは映画興行を目的としたものではなく、あくまで記録として残されたものである[8][注釈 5]。そして映画興行の目的で撮影された最初の時代劇映画は1908年(明治41年)に牧野省三(後のマキノ省三)が製作した『本能寺合戦』をもって嚆矢とするものである。ただしこの初の時代劇は、当時は旧劇と呼ばれていた[9]。
明治から大正時代の半ば過ぎまでの時代物全般は旧劇であった。講談・歌舞伎からの題材が多く、人物造形・衣装・化粧・演技・立ち回り・女形など、舞台の名残を強く留め、声色弁士と邦楽器による鳴り物・囃子の伴奏が多かったと言われる[10]。
時代劇映画以前の呼称
[編集]1920年代に入った頃に当時「映画劇」と呼ばれる日本映画の革新運動が起こり、欧米を模範にシナリオの重視、映画技法の活用と表現の工夫、弁士に依存しない字幕の利用、そして女優の採用などこの時期までの活動写真とは違う、撮影や編集までの映画全般に及ぶ内容の新しさを求めた運動が起こった。それに刺激を受けた形で、旧劇映画についても「旧劇の映画劇化」「旧劇映画改造論」「映画劇的な旧劇」といった言葉が活動写真の論評に使われていた[11]。
『本能寺合戦』以降に映画の題名と共に宣伝に使われた呼称を列挙すると、旧劇、革新旧派映画、純映画劇、新映画劇、旧派純映画劇、新時代劇および新時代映画、時代劇および時代映画となる[12]。革新旧派映画は旧劇様式ではあるがロケ撮影を生かした自然描写、細かいカット割りがあり、しかし女形を採用していた。映画劇は欧米風の映画様式に近づけたもので、脚本と撮影技法を重視し字幕を使い、そして女優を採用した。純映画劇も新映画劇も同じで、マキノ省三監督の『実録忠臣蔵』は新映画劇と呼ばれたが女形の採用は残っていた。旧劇をいくらかでも映画劇に近づけたものだが、女優を採用したのは旧派純映画劇であった。そして旧劇の映画劇化をさらに進めたのが新時代劇および新時代映画と呼ばれたもので、新しい解釈、新しい視点を入れて、演技も新劇系を導入し、女優を採用している[12]。
旧劇映画の芝居臭さ、荒唐無稽の非現実性、女優不在の不自然さに対して、やがてそれらに対して作られていったのが「新時代劇」という呼称の新しい時代劇であった[13]。
最初の時代劇映画
[編集]初めて時代劇と呼ばれた映画は、『本能寺合戦』から14年後の1922年(大正11年)に松竹蒲田撮影所で製作された『清水の次郎長』[注釈 6]の宣伝文句に「新時代劇」と名称がつけられていたことから、この映画が「時代劇」と称する映画の始まりであるとされている[注釈 7]。監督は野村芳亭(野村芳太郎監督の父)でこの映画の脚本を書いた伊藤大輔がそれまで「旧劇」と呼称されていた髷物映画を、宣伝に「新時代劇」と名付けて公開した。ゆえに「時代劇という呼称は松竹蒲田撮影所で製作された映画に冠されたものである」[9]、とされている。
ただ岩本憲児は著書『「時代映画」の誕生』の中で、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて松竹キネマが「新時代劇」「新時代映画」と呼び、同時期のマキノ映画は「時代劇」「時代映画」と呼んでいたとして混在していたとしている。そして簡略化して「時代劇」が定着していったという[14]。
歌舞伎の時代物
[編集]歌舞伎の分野では、江戸時代よりも過去の時代を扱った演目を「時代物」(武士・貴族や僧侶など上層社会を題材としたもの)と呼び、江戸時代当時の現代劇を「世話物」と呼んでいた[15]。そして鶴屋南北らの「生世話」は庶民の暮らしを描いた江戸時代のものであるが、江戸時代の武士などの上層社会を題材とすることは不可能であったので、過去の時代に遡って武士・貴族・僧侶を描いて当代の現実を投影させていた。また過去の時代の庶民の姿を題材としたものを「時代世話」とも呼んでいた。もともと「時代物」という呼称は人形浄瑠璃から始まって歌舞伎へ移り、そこでの「時代」は江戸時代以前の奈良・平安・鎌倉・室町時代など7世紀から15世紀までが時代背景となっていた[16]。そして実は江戸時代の世相や世論が強く反映されて、人物造形も同時代的であり、故に今日でも時代劇は現代劇の裏返しという一面が大きい[17]。
演劇での旧派劇
[編集]明治維新以降の日本の演劇は、1888年(明治21年)、自由党の壮士角藤定憲らが大阪で創始、川上音二郎らが発展させた壮士芝居を、1890年代後半(明治30年代)の日本のジャーナリズムが、歌舞伎との差別化を図るため、便宜的に歌舞伎を「旧派劇」、壮士芝居を「新派劇」[18]と呼び、さらに、1906年(明治39年)に坪内逍遥・島村抱月らの文芸協会、1909年(明治42年)に小山内薫・二代目市川左團次らの自由劇場のヨーロッパ近代劇の影響下にある演劇を、歌舞伎(旧派)、新派との差別化を図り、「新劇」と名乗った[19]。
新国劇と剣劇
[編集]そして坪内逍遥の門下生で新劇出身であった澤田正二郎が1917年(大正6年)に劇団「新国劇」[20]を結成し、歌舞伎から導入した「剣劇」[6]を発展させて、旧派でも新派でも新劇でもない大衆演劇を目指し人気を博した[注釈 8]。新国劇の主な演目である『月形半平太』と『国定忠治』は、好まれて映画化された。
このようにして、現在の「時代劇」と「現代劇」の二分法は、江戸時代の「時代物」と「世話物」を源流にもち、明治時代に演劇の発展とともに「旧劇」「新劇」とされ、大正時代に活動写真から「時代劇」「現代劇」と呼ばれたもので、このジャンルは、「明治維新以前の時代」を扱ったものである。ただしこの「時代劇」という呼び方は映画が発祥であり、そもそも多くの影響を受けていた歌舞伎では使われていない。そして新国劇や大衆演劇の世界でも芝居やチャンバラ劇という言葉が使われており、「時代劇」の歴史は主に映画とテレビの中で歩んだことになる。
活動写真の時代劇
[編集]最初の時代劇は、前述の通り1908年(明治41年)に牧野省三(マキノ省三)が撮った京都の横田商会での当時「旧劇」と呼ばれた『本能寺合戦』である。この当時、横田商会を設立した横田永之助[注釈 9]が活動写真の製作に当たり、演劇関係者に協力を求めて京都西陣にあった千本座という芝居小屋を経営するマキノ省三に協力を依頼し、マキノが真如堂の境内で千本座の舞台で常打ち一座が演じていた狂言「本能寺合戦」の「森蘭丸奮戦の場」を野外で演じさせ、それをワンシーンワンカットで撮影する方法で作った活動写真が『本能寺合戦』であった[8]。マキノ省三は以後『本能寺合戦』を含めて6本ほど映画を作っているが興行成績は芳しいものでなく、ほどなくして映画から撤退を考え始めていたが、その翌年1909年(明治36年)に千本座座頭になっていた尾上松之助を主演にした映画が人気を呼んで、それ以降マキノ省三と尾上松之助は明治末から大正末まで時代劇映画の主流を歩むことになった[21]。
泥芝居
[編集]このように時代劇は歌舞伎の模倣から始まったものである[22]。この時代の活動写真はズームの技法もなく、旧派・旧劇と呼ばれた歌舞伎の演目芝居をそのまま屋外で撮ったフィルムを小屋で見せる、というのが上映形態であり、「檜舞台で芝居をする」歌舞伎役者は、活動写真の役者を「土の上で芝居をする連中」として「泥芝居」と蔑んだのであった[23]。ただし時代劇が歌舞伎の模倣から始まったのは事実だが、ここでいう歌舞伎とは「大歌舞伎」だけでなく、旅回り一座の劇や小さな小屋で上演される劇も明治期までは全て歌舞伎であった[24]。映画評論家の佐藤忠男は「京都で時代劇を作り始めていたのは、主に二流級の歌舞伎の人々であった」と述べている[25]。
時代劇スターの登場
[編集]時代劇映画の最初のスターは、尾上松之助である。1909年(明治42年)にマキノ省三と組んで『碁盤忠信 源氏礎』[注釈 10]で映画デビューを果たし、以後1926年(大正15年)の『侠骨三日月』[注釈 11]まで17年間で1003本の時代劇映画に出演した。「目玉の松ちゃん」と愛称された彼は、歌舞伎や講談、立川文庫[注釈 12]のヒーローを繰り返し演じて日活の看板スターとして活躍した。特に特撮の先駆けであるトリック撮影による「忍術映画」が十八番であり、それは歌舞伎から題材を取り、「子ども相手の荒唐無稽なもの」[26]ではあったが、17年間にわたって時代劇の歴史に足跡を刻み、尾上松之助は映画を広く一般の人に広めるうえで大きく貢献した[27]。しかし大正時代の末になると観客は松之助の殺陣[注釈 13]に飽き、よりスピーディーでリアル、激しい調子を持った殺陣を求めるようになっていった[28]。またこれとは別にほぼ同時期に澤村四郎五郎 が吉野二郎監督らの忍術映画で人気を呼び、200本を超す映画に出演している。
大正時代の時代劇
[編集]1912年(大正元年)にそれまでの横田商会、福宝堂、M・パテー商会、吉沢商会の4つの映画会社が合同して「日本活動写真(株)」(日活)が誕生した。日本で初めての本格的な映画会社であった。日活は東京向島と京都二条城に撮影所を設け、向島では新派を、京都二条では旧劇を製作することとなった[29]。そしてマキノ省三と尾上松之助は日活に所属した。これとは別に1914年(大正3年)に「天然色活動写真(株)」(天活)が設立されて吉野二郎と澤村四郎五郎らが所属した。
そして1920年(大正9年)頃までは旧派であった歌舞伎の影響下にあり、女性の役柄は女形が演じていて、後に時代劇の監督になった衣笠貞之助はこの時期は日活向島撮影所の女形であった[注釈 14]。
その一方で帰山教正が1919年(大正8年)に新劇を映画に導入した現代劇である『生の輝き』、『深山の乙女』を発表し、その翌年1920年(大正9年)にそれまで歌舞伎の興行しか手掛けてこなかった松竹が松竹キネマを興し、新劇の小山内薫が、同年松竹キネマに招かれて活動写真を撮り始めると、松竹は初めから女形を使わず、女優を映画に起用した。その中から川田芳子、柳さく子、飯塚敏子らが松竹時代劇のスターとなった[注釈 15]。
この頃に松竹が映画事業に乗り出したのは、自社が経営する劇場よりも松竹が当時日活に貸していた大阪道頓堀朝日座での客の入りが良く、白井竹次郎が映画に乗り出すべきとの提唱から大谷竹次郎が末弟の信太郎を渡米させ、アメリカの映画事業を調査させてから参入したのであるが、大谷竹次郎はその時に「日本映画の俳優は一流の舞台では用いられない落伍者の集まりであり、このままでは世界の映画界に肩を並べることはできない」として「世界に恥ずかしくないものを作り、映画を輸出する」ことを視野に置いていた。そのためには女形は最初から使わないと決めていた[30][注釈 16]。また旧劇については日活の尾上松之助の歌舞伎的な殺陣に対して新国劇を専属にしてリアリズムな殺陣を打ち立てようとしていた[31]。
1922年(大正11年)頃までは日活は現代劇でも新派の影響で女形を起用していたが、その年の暮れに女形を交えた新派役者十数人が国際活映(国活)[注釈 17]に移籍したため、それまでの女形起用を止めて女優を起用し、新劇的な現代劇を製作し始める。その時に日活における名称が、時代劇は「日活旧劇部」、現代劇が「日活新劇部」であった。その当時は東京でも、巣鴨の国際活映(国活)等で時代劇映画は盛んに製作されていたが、新劇の発展と映画への導入が東京主導で行なわれ、やがて国活が倒産し、人材が京都に流出したことでその後の「時代劇の京都」と「現代劇の東京」との棲み分けの源流となった。またマキノ省三は尾上松之助の映画で女形を使って、女優は使っていなかったが、日活は1924年(大正13年)に尾上松之助主演『渡し守と武士』で初めて女優を使っている[注釈 18]。
日活向島撮影所でも1923年(大正12年)に松竹に刺激され女優の採用を始めて「第三部」というセクションを設け、女優起用の映画を製作した。この年の現代劇『朝日さす前』がその第一作で、後に日活時代劇の大スター酒井米子を輩出している。同年9月、東京を関東大震災が襲い、日活向島撮影所は閉鎖される。女優やスタッフは日活京都に移り、以後、京都が時代劇映画の本場となった[注釈 19]。
マキノ時代劇
[編集]マキノ省三が1921年(大正10年)に日活から独立し、牧野教育映画製作所を設立した。これはマキノ省三が尾上松之助や旧劇と袂を分かつことでもあった[注釈 20]。当時忍術映画で尾上松之助が人気役者になった一方、青少年に悪影響を与えているという批判があり、それを教育映画ということでかわす狙いがあったとも、単純な勧善懲悪で「幼稚なチャンバラ映画」であった松之助映画を脱却する方向を模索していたとも言われている[32]。そして1922年(大正11年)に『実録忠臣蔵』を製作して新国劇が生んだ新しい殺陣である写実的な立ち回りを使った当時としては斬新な動きの映画を作った。この映画を見て寿々喜多呂九平[注釈 21]がマキノの下に参じ、やがて1925年(大正14年)にこの寿々喜多呂九平が脚本、二川文太郎が監督、阪東妻三郎が主演して製作されたのが『雄呂血』であった。ラストでの主人公が大勢の捕り方に囲まれて大剣戟シーンとなる場面は迫力のあるもので、阪妻の激しい立ち回りが、それまでの歌舞伎調の優雅さとは全く違うリアルな殺陣を見せて時代劇映画に新風を吹き込んだ。以後彼は剣戟映画の大スターとなった。新国劇で展開された立ち回りが映画の殺陣に取り込まれて、それまで旧劇と呼ばれていたものが時代劇と呼ばれる新しいジャンルになったのである[33]。
チャンバラスターの登場
[編集]この頃にマキノ省三は1924年(大正13年)に東亜キネマと合併して翌1925年(大正14年)に聯合映画芸術家協会を設立し、そして同年6月にマキノ・プロダクションを設立した。ここでマキノは、阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介らのスターを生み出した。彼らは時代劇に「剣戟」の見せ場を持ち込んだ「チャンバラスター」であり、以後「チャンバラ映画」は時代劇の主流を占めるようになった。またマキノが去った後の日活に新劇の小山内薫の門下でもあった伊藤大輔監督と第二新国劇から日活に来た大河内傅次郎主演のコンビが登場し、このコンビで『幕末剣史 長恨』『忠次旅日記』『下郎』『新版大岡政談』と次々と傑作を生み出し、そして『丹下左膳』シリーズが始まりヒットした[34]。この伊藤大輔監督は後に市川右太衛門主演で『一殺多生剣』、月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を製作している。それはおよそ「松之助映画」とは違った「反逆的ヒーロー」の映画であった[35]。
やがて1925年(大正14年)に設立された阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を筆頭に、彼ら「チャンバラスター」は次々と独立してスタープロダクションを設立し、チャンバラのスター映画を量産した。阪東妻三郎は、竹薮だった京都郊外の太秦村の地に初めて撮影所を建設した人物であり、この撮影所はその後東映京都撮影所となり太秦映画村となった。
そして大正時代が終わろうとしていた1926年(大正15年)9月、日本映画最初の時代劇スター尾上松之助が世を去った。寿々喜多呂九平と阪東妻三郎、伊藤大輔と大河内傅次郎のコンビが台頭し、松之助自身が自分のこれまでの映画が時代にすでに適応できていないことを感じ取っていたという[36]。全盛期であった1917年(大正6年)には月9本、3日に1本の割合で量産されて「低級な観客相手の粗製濫造品」「何等奥行も巾もない駄作ものばかり」と批評されても映画を作り続けた松之助だが、田中純一郎はその著「日本映画発達史」の中で「他の映画が舞台劇的で動作が少なく科白による内容発展に一切を委ねていたのに対して、松之助自身の軽快な動作、映画的本質の一つとして掴んだマキノ省三の演出方針を基盤として‥‥退屈感はなく視覚を満足させるだけの動きと変化を持っていた」として「他の映画よりは映画的本質に適っていた」と評価している[37]。
戦前の時代劇
[編集]1927年(昭和2年)、松竹が林長二郎(長谷川一夫)を時代劇スターとして売り出し、女形出身の林の美貌は日本全国の女性を虜とする[注釈 22]。林長二郎の登場は彼以外のスターは圧倒的に男性ファンが多い中で、時代劇映画に女性むエポックとなったのである。
この頃にマキノ省三は大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始した。しかし撮影中の度重なるトラブルで片岡千恵蔵や嵐寛寿郎が離反し、しかも精魂込めて製作した『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のフィルムを編集中に火災を起こして焼失する不運に見舞われて、1929年(昭和4年)に失意のうちに世を去った。しかし息子のマキノ正博(後のマキノ雅広)が前年に『浪人街』を監督し、その後長く戦前・戦後の時期に時代劇を作り続けて1972年(昭和47年)までに261本の映画を製作してその大半は時代劇であった。
千恵蔵プロ
[編集]一方、片岡千恵蔵はマキノプロから独立後に千恵蔵プロを設立したが、その際に伊藤大輔監督に相談に行き、「自分のところにいる若い2人を提供するから、今までとは違う時代劇を作ればいい」という趣旨のアドバイスを受けた。その若い2人とは伊丹万作(伊丹十三の父)と稲垣浩であった。そしてやがて伊丹万作は千恵蔵プロで『國士無双』[注釈 23]『戦国奇譚 気まぐれ冠者』『赤西蠣太』などの新しく知的で明るい時代劇を作り、「明朗時代劇」と呼ばれた。ユーモアもナンセンスさもあり、それまでの陰惨な大剣戟や暗い傾向のある映画に嫌気がさした観客に支持された[38]。また稲垣浩は千恵蔵プロで『瞼の母』『一本刀土俵入り』などの秀作を製作した。
鳴滝組
[編集]1934年(昭和9年)、京都の鳴滝に映画監督の滝沢英輔、稲垣浩、鈴木桃作、脚本の三村伸太郎、八尋不二、藤井滋司ら有志が集まり、さらに山中貞雄、萩原遼らが加わって合計8人が集まり共同ペンネーム「梶原金八」[注釈 24]の名前でシナリオを作り、そして製作された時代劇映画には現代語を採り入れて新風を巻き起こし、一大勢力となった。このグループは鳴滝組と呼ばれて、片岡千恵蔵の千恵蔵プロの流れを受けて、ユーモアのある明るい時代劇を製作していった。この鳴滝組が製作した映画の代表作が山中貞雄監督、大河内傅次郎主演の『丹下左膳余話 百万両の壺』である。これらの時代劇はその明るさとセリフの分かりやすさ、そのテンポの良さで「髷(マゲ)をつけた現代劇」[39]と言われた。そしてこの頃が戦前における時代劇の頂点であった[注釈 25]。
また山中貞雄はその後応召して戦病死したため、わずか5年間の活動で全26本の作品であったが、『丹下左膳余話 百万両の壺』の他に『河内山宗俊』『人情紙風船』のたった3本のフィルムしか現存していない。しかし現在でも山中作品は高い評価を受けている。
1930年代半ばからは、トーキーが導入され、時代劇にも、映画館ごとの活動弁士と生演奏ではない、俳優のセリフと音楽がもたらされ、当時唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉が現れ、そこで製作された映画が大曾根辰夫監督『大江戸出世小唄』[注釈 26]で、これが最初の時代劇ミュージカルであり、その後マキノ正博監督の『鴛鴦歌合戦』[注釈 27]が製作された[注釈 28]。
各映画製作会社
[編集]この昭和初期の映画製作会社は、日活、帝国キネマ(後の新興キネマ)、松竹、東亜キネマ、PCL(後の東宝)、右太衛門プロ、千恵蔵プロ、阪妻プロ、マキノプロ、大都映画[注釈 29]などで、年間で各社10本前後から100本前後の製作本数を記録して、時代劇も大きなジャンルとして人気があった[40][注釈 30]。
またトーキー以後もサイレント映画による剣戟にこだわる俳優やスタッフ、観客は存在し、1935年(昭和10年)に西宮の東亜キネマ跡地に設立された極東映画、翌1936年(昭和11年)に奈良の市川右太衛門プロダクション跡地に設立された全勝キネマは、それぞれが解散するまでサイレントの剣戟映画を量産しつづけた[41]。
1930年代、時代劇の製作本数が現代劇を上回る年もあり、時代劇は質量ともに戦前の黄金期を支えていた[42]。
歴史映画と国策映画
[編集]松之助の忍者映画から始まって、やがて『雄呂血』のようなニヒルな反逆的ヒーローが出たり、その後は『一殺多生剣』『斬人斬馬剣』のような反体制的な傾向を持つ映画が出て、世の中が暗くなっていくと千恵蔵プロや鳴滝組などから明朗時代劇と呼ばれる『國士無双』『赤西蠣太』『丹下左膳余話 百万両の壺』のような明るい時代劇が生まれ、「髷をつけた現代劇」と揶揄され、この鳴滝組的な映画に対抗する形で今度は真面目に歴史ものを描くべきとの声があがり、昭和10年代に入ると『阿部一族』『海援隊』『元禄忠臣蔵』『江戸最後の日』など歴史映画と呼ばれる作品が製作された。やがて国策映画として『海賊旗吹っ飛ぶ』『狼火は上海に揚る』『かくて神風が吹く』などが作られ、映画人が自由に映画が作れない時代となった[43]。そして国策として映画会社の統合が進められて日活の製作部門と新興キネマ・大都映画が合併して大日本映画(大映)が設立され、その第1回作品として阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎が揃っての初共演で『維新の曲』が製作された。
検閲
[編集]敗戦までの日本映画では流血や博打、接吻などの場面は当局によって禁止された。時代劇も例外ではなく、チャンバラでいくら人が斬られても、また切腹の場面でも流血があると検閲でカットされた[注釈 31]。阪東妻三郎は相手を斬る際に、刃を当てた後もう一回引く「二段引き」という殺陣を使ったが、これも「骨まで斬った感じが出るから」とカットされたことがある。全般に「リアルな殺陣」はすべて検閲でカットされたのである。
また、剣戟で人を斬る際の効果音を初めて使ったのは1935年(昭和10年)の『大菩薩峠』で、稲垣浩監督のアイディアで、カチンコの音を逆回転した効果音が使われた。しかしこの効果音も「検閲保留」扱いにされている [44]。
終戦直後
[編集]GHQの検閲と時代劇製作の制限
[編集]1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結後、日本が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ))の占領統治下に置かれると、GHQは教育文化政策を担当する民間情報教育局(CIE)を設置し、さらに民間検閲支隊(CCD)を置いて、日本映画は二重の検閲を受けることとなった[45]。その政策により、CIEから日本映画に対して13の規制項目が出されて(これが俗にチャンバラ禁止令と呼ばれている)、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義的として、敵討ちなど復讐の賛美はアメリカ合衆国に対する敵対心を喚起するとして、こうした要素がある映画は一時製作が制限された。チャンバラ場面が禁止されたため、阪東妻三郎や片岡千恵蔵などの時代劇スターは現代劇に主演[注釈 32]し、戦前『鞍馬天狗』をヒットさせた嵐寛寿郎の場合は剣戟のない推理物の時代劇『右門捕物帳』でしか、舞台も映画もできなかったと語っている[46]。しかしそんな時代でも時代劇は製作されていた。戦後最初に作られた時代劇は丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』で終戦の年の10月に公開されている。
この数々の制約を受けた特定の時期に撮影が出来た時代劇の傾向として次の4つが挙げられる。1番目は俗に「戦争反省映画」と言われているもので、例として嵐寛寿郎主演で稲垣弘監督『最後の攘夷党』が挙げられる。これは、幕末の攘夷運動に加わった浪士が西洋人に助けられて排外主義の愚かさに気づくストーリーであった。2番目は「既成のヒーロー像の破壊」であり、あるいはそれまでの任侠のイメージを変えるものとして松田定次監督『国定忠治』や吉村公三郎監督『森の石松』があり、特に『国定忠治』は正義感の強い民主主義的な人物として描かれていた。3番目は「剣戟や立ち回りシーンの無いもの」で市川右太衛門主演『お夏清十郎』などの恋愛ものがその例であり、4番目はその「剣戟や立ち回りシーンを回避した映画」で前述の『右門捕物帳』や伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演『素浪人罷通る』などであった。しかし戦前からの時代劇を見慣れた観客にとっては「肝心なところが欠けている」と見なされていた[47]。
1948年(昭和23年)1月15日、松竹、東横、大映の京都撮影所は「剣で事件を解決する時代劇は、民主主義建設途上の大衆に誤解を与える」として、今後、時代劇を作らないことを発表した[48]。
講和条約以後
[編集]そして1951年(昭和26年)9月の講和条約成立で自由に時代劇が作れる時代に入ると、それまで蓄積されていたエネルギーが爆発したようにどっと時代劇映画が溢れ、時代劇映画の歴史で最も輝く時代の始まりであった。
それは占領時代に作られた黒澤明監督『羅生門』の受賞からスタートした。そしてこの『羅生門』はベネチア映画祭でグランプリを獲得した。1952年(昭和27年)に占領体制が終わると、どっと時代劇映画の量産が始まった。溝口健二の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』、黒澤明の『七人の侍』、衣笠貞之助の『地獄門』が製作されて時代劇映画の黄金時代の幕開けであった。嵐寛寿郎は再び『鞍馬天狗』に出演していった。
各社時代劇の興亡
[編集]戦後の時代劇映画の製作会社は、松竹、東宝、大映、東映、新東宝、日活、宝塚映画[注釈 33](東宝の傍系会社)などである。
終戦直後に東宝が内紛と労働争議で分裂して1947年3月に新東宝ができ、しばらくは製作は新東宝、配給は東宝の形態がとられたが、やがて新東宝は東宝に配給を断られたことから自主配給に踏み切った。
その一方で戦前の1938年に設立され興行会社としてスタートした東横映画が、戦後1947年から映画製作に進出して当時大映が所有していた京都太秦の大映第二撮影所(後の東映京都撮影所)を借りて製作活動に入った。東横映画は自前の配給網を持たないので当初大映に配給する関係であったが、しかし大映の傘下では経営が成り立たないとして、大映に配給を頼る下請け会社から脱却するため、東急グループの支援を受けて自前の配給会社東京映画配給を1949年10月に作った。しかし赤字が増大し、そこで東急グループは同じ赤字の太泉映画[注釈 34]と東横映画と東京映画配給[注釈 35]を合併させて1951年(昭和26年)4月に東映と改称して、配給を東宝に委ねた。この当時東宝は分裂騒動の余波で自前での製作能力が無かったので、宝塚映画や東京映画の作品を配給し、そこへ東映作品も配給して、1951年頃は東映製作で東宝配給という提携関係であった[49]。しかしわずか1年で東映と東宝の提携は終了した。東宝が東映を傘下に収めようとしたことで東映が反発したとされている[50]。そして1950年の朝鮮戦争の勃発とともにGHQの方針が大きく転換して時代劇の製作が可能となり、やがて東映は自前の配給網を確保し拡大するために、二本立て興行を打ち立て、そこに東映娯楽版として中村錦之助や東千代之介をデビューさせて大人気となったことで一気に業界トップに躍り出ることになった。
それは時代劇を中心としたプログラムピクチャーによって、映画の中心が時代劇になった時代でもあった。
東映
[編集]東横映画は大映との提携を解消する頃に、当時大映に所属していて永田雅一社長と衝突していた片岡千恵蔵と市川右太衛門を引き抜き、やがて千恵蔵と右太衛門は東映となった後に取締役に就任した。全くスターがいなかった東横映画にとってはそれこそ観客を呼べる看板スターを持ったことになり、その後の東映においてスター中心のシステムを作るきっかけとなった。
戦後のそれまで千恵蔵は『多羅尾伴内』や『金田一耕助』などの現代劇シリーズに出演し、右太衛門は時代劇だが『お夏清十郎』『お艶殺し』などのいわゆる艶ものに出演していた。1950年に千恵蔵はいち早く従来の時代劇を復活させて渡辺邦男監督で初めて『いれずみ判官』の『桜花乱舞の巻』『落花対決の巻』を出し、翌1951年にはマキノ雅弘監督で『女賊と判官』を出した[51]。右太衛門は松田定次・萩原遼監督で『旗本退屈男』の『旗本退屈男捕物控七人の花嫁』『旗本退屈男捕物控毒殺魔殿』を出し、それぞれが後の東映のドル箱シリーズとなった。1954年に二本立て興行に移り、毎週新作二本の製作体制になり、長編と東映娯楽版と言われる中編の連続物を組み合わせて、それに日舞出身の東千代之介、歌舞伎出身の中村錦之助をデビューさせて『笛吹童子』が大ヒットし、翌年には同じ歌舞伎から大川橋蔵がデビューした。
そして1956年(昭和31年)に松田定次監督『赤穂浪士』が大ヒットして、この年から業界トップに躍り出た東映は、マキノ雅弘監督が『次郎長三国志』[注釈 36]『仇討崇禅寺馬場』、伊藤大輔監督が中村錦之助主演『反逆児』および『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』、内田吐夢監督が片岡千恵蔵主演『血槍富士』および『大菩薩峠』三部作、そして中村錦之助主演『宮本武蔵』五部作、松田定次監督はオールスターで『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』などが製作されて、時代劇スター中心のプログラムを組んで多数の時代劇映画を量産した。
東映は片岡千恵蔵、市川右太衛門の両者を重役にして、ベテランの月形龍之介、大友柳太朗、そして若手の中村錦之助(のち萬屋錦之介)、東千代之介、大川橋蔵らが育ち、きらびやかで豪快な東映時代劇を築いていく。片岡千恵蔵と市川右太衛門は御大[注釈 37]と呼ばれ、千恵蔵が『いれずみ判官』(遠山の金さん)を、右太衛門が『旗本退屈男』といったそれぞれシリーズを持ち、月形龍之介は『水戸黄門』、大友柳太朗は『快傑黒頭巾』『丹下左膳』『右門捕物帖』、中村錦之助は『一心太助』『殿様弥次喜多』『宮本武蔵』、東千代之介は『鞍馬天狗』『雪之丞変化』、大川橋蔵は『若さま侍捕物手帖』『新吾十番勝負』の各シリーズを持ち、加えて正月には『忠臣蔵』や『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』、お盆には『旗本退屈男』(1958年)、『水戸黄門』(1960年)など歌舞伎の顔見世のようにオールスターキャストの時代劇を製作して、1950年代後半(昭和30年代前半)は東映時代劇の黄金期であった。時代劇王国を謳歌し[52]、"東映城"の名をほしいままにした[52]。この量産時代の東映にあって作品を作り続けた監督には伊藤大輔、マキノ雅弘、松田定次[注釈 38]、内田吐夢以外には田坂具隆[注釈 39]、佐々木康[注釈 40]、沢島忠[注釈 41]、加藤泰[注釈 42]、河野寿一[注釈 43]、工藤栄一[注釈 44]、などがいた[53]。
大映
[編集]戦争中の1942年(昭和17年)に当時の日活の製作部門と新興キネマと大都映画が合併して設立された大映は、戦後も溝口健二監督『雨月物語』『山椒大夫』を製作して、その後同じ溝口健二監督『近松物語』[注釈 45]、衣笠貞之助監督『地獄門』で主演した戦前からの大スター長谷川一夫の『銭形平次捕物控』シリーズを中心にして時代劇を量産し、やがて若い市川雷蔵、勝新太郎が育って、雷蔵は『新・平家物語』から『大菩薩峠』三部作、そして『眠狂四郎』シリーズを自身の代表作とし、勝新は『座頭市』シリーズでその後長く日本映画界を牽引することとなった。東映時代劇の華やかさと優雅さに全く無縁で全く異質な『眠狂四郎』『座頭市』というダーティーなヒーローを二人が演じて独自の大映時代劇を築いていく。監督には最初の時期には黒澤明[注釈 46]、伊藤大輔[注釈 47]、渡辺邦男[注釈 48]もいたが、溝口健二、衣笠貞之助、森一生[注釈 49]、三隅研次[注釈 50]、安田公義、田中徳三、池広一夫らがいた[54]。
新東宝
[編集]戦後の東宝争議の後に設立した新東宝は、1950年3月から自主配給で大手会社となり、初期には佐伯清監督で嵐寛寿郎主演『中山安兵衛』[注釈 51]、溝口健二監督『西鶴一代女』、伊藤大輔監督『下郎の首』[注釈 52]、山田達雄監督で嵐寛寿郎主演『危し 伊達六十二万石』[注釈 53]、渡辺邦男監督で美空ひばり主演『ひばり三役 競艶雪之丞変化』などの秀作があるが、後期に入って大蔵貢[55]が社長に就任すると怪談ものを作り始めて、渡辺邦男監督[注釈 54]『怨霊佐倉大騒動』、中川信夫監督『怪談累が淵』『東海道四谷怪談』などを製作し、1961年に経営不振から映画製作を中止した[56]。
しかし新東宝から丹波哲郎、天知茂などがデビューして、新東宝倒産後に五社協定に拘束されずにテレビに移っていった。
日活
[編集]日活は1942年に製作部門が大映に吸収されて、戦後はずっと映画興行会社であったが1954年に製作部門を再開し、それと同時に時代劇で、鳴滝組であった滝沢英輔監督で新国劇の辰巳柳太郎主演『国定忠治』『地獄の剣豪 平手造酒』を製作し、また同じ滝沢英輔監督で島田正吾主演『六人の暗殺者』、三國連太郎主演『江戸一寸の虫』[注釈 55]を出したが、その後石原裕次郎の人気沸騰で現代劇の活劇路線を中心としたプログラムピクチャーを組み、やがて時代劇は製作しなくなった。しかし1957年(昭和32年)に当時の自社のスターを総出演させた川島雄三監督『幕末太陽伝』[注釈 56]という異色時代劇を製作している[57]。
松竹
[編集]文藝路線の松竹は時代劇が少なく、大船での現代劇が主で京都の撮影所では思うようには時代劇の製作は出来なかった。1951年に創立30周年記念映画でオールスターキャストの『大江戸五人男』(伊藤大輔監督)を、また1953年に八代目松本幸四郎(後の松本白鸚)の井伊大老役で大作『花の生涯』(大曾根辰夫監督)を、1954年も同じ八代目松本幸四郎が大石内蔵助を演じた『忠臣蔵花の巻・雪の巻』(大曾根辰夫監督)を、そして3年後の1957年に再び大曾根辰夫監督で『大忠臣蔵』[注釈 57]を製作したりしたが、シリーズものとしては唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉主演の『伝七捕物帳』シリーズぐらいで、松竹が抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優で脇を固め、これに近衛十四郎と高田浩吉を絡めてそこへ新人の森美樹を次代の時代劇スターに育てる予定であった。しかし1960年から61年にかけて森美樹が事故死し、高田浩吉と近衛十四郎は東映に移籍し、また歌舞伎界の八代目松本幸四郎ら多数が東宝へ移籍する事態となり、この時期から急速に松竹時代劇は衰退していった。1962年には忠臣蔵を製作しようにもキャストが組めず旧作の『大忠臣蔵』を再編集した『仮名手本忠臣蔵』とその後日談の『義士始末記』を新国劇の島田正吾を起用して製作する始末であった[58]。
この他に歌舞伎座製作で松竹が配給した山本薩夫監督『赤い陣羽織』[注釈 58]、木下恵介監督『笛吹川』[注釈 59]、『楢山節考』、今井正監督で三國連太郎主演『夜の鼓』、小林正樹監督で仲代逹矢主演『切腹』など異色作を出しているが、やがて京都では時代劇を撮らないことを決めて、1964年に篠田正浩監督で丹波哲郎主演『暗殺』を最後に1965年に京都太秦撮影所は閉鎖された[59]。
東宝
[編集]戦後に新東宝や東映との提携関係が消滅して以後、宝塚映画や東京映画製作の作品を配給していた東宝は自前の製作体制を整えることに力を注ぎ、やがて1954年に特撮で『ゴジラ』がヒットした同じ年に黒澤明監督『七人の侍』、稲垣浩監督『宮本武蔵』もヒットしたことで成果があがった[60]。
その後特撮と喜劇路線の東宝にとって時代劇に黒澤明監督がいて『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』を作り、やがて『用心棒』[注釈 60]『椿三十郎』を製作した。この2つの映画で、東映時代劇のように様式美にこだわり、あくまでスター俳優を中心にカッコ良く決めるスタイルで、その美しさを前面に出す殺陣とは違って、黒澤明はリアルで迫力のある、そして残酷な描写を厭わない斬り合いを表現して話題となった。しかし黒澤明は1965年の『赤ひげ』を最後に東宝を去った。鳴滝組であった稲垣弘は1950年に東宝に加わり、『佐々木小次郎』三部作、そして三船敏郎主演『宮本武蔵』[注釈 61]三部作を作り、後に『柳生武芸帳』『大坂城物語』そして1962年に東宝創立30周年記念映画として『忠臣蔵 花の巻 雪の巻』を撮っている。なお戦後の初期には後に東映に移ったマキノ雅弘監督が『次郎長三国志』全九部作[注釈 62]を製作している[61]。
東映時代劇の衰退
[編集]1962年の正月映画で東宝『椿三十郎』が東映『東海道のつむじ風』[注釈 63]を圧倒して、東映の華麗な様式美の世界から時代劇は生々しい迫力の世界へと変わっていった[注釈 64]。そのリアルな殺陣が、東映時代劇の華やかさと所作の優雅さとが次第に観客に飽きられていき、またこの直前に「第二東映」の出現で多数の時代劇を粗製乱造したことも加えて、東映時代劇の衰退を招くこととなった[注釈 65]。
これ以降東映は時代劇の不振に悩まされて、その後に集団抗争時代劇として『十七人の忍者』『十三人の刺客』『大殺陣』などを製作したが時代劇の退潮を食い止められず、やがて任侠路線に転換してヤクザ映画が主流を占め、東映の本来の時代劇は消えて、セクシー路線の時代劇へ移っていった。任侠路線転換を実施した岡田茂東映企画本部長は[62]、『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの取材に対して「時代劇の客はテレビに吸い取られた」と断言し[52]、「お客の減ったものに大金をかけることは出来ない」と[52]、東映で正統時代劇を作らなくなった理由を明言した[52]。また「私は、時代劇は、必ず映画館にお客をこさせうる素材だと思う。但し、映画館用の時代劇は、テレビでは出来ないもの、つまり"不良性感度"の高いものでないとお客は呼び込めないと思う」等と話した[52]。従来、映画の時代劇のヒーローは"きれいで腕が立って女にもてて"という男性だったが、そっくりブラウン管に取られた[52]。岡田は先を見越してこのとき、時代劇は全てテレビに移していた[63]。
独立系の頑張りとテレビ局の進出
[編集]こうした風潮に対して「大型時代劇こそ日本映画復興のエネルギーだ」と意気上がったのが独立プロ・三船プロダクションを主宰する三船敏郎と勝プロダクションを主宰する勝新太郎で[52]、三船プロの自主作品として[52]、1960年代後半の『侍』以降、『上意討ち 拝領妻始末』『風林火山』と、2年ペースで時代劇映画を作り、特に1969年3月1日封切りの『風林火山』は大当たりを取った[52][64]。日本映画界にはそれまで「ヨロイものは当たらない」というジンクスがあったが[64]、それは吹き飛ばされ、映画関係者からは「洋画のアクションものに対抗出来るのは、やっぱり"時代劇"」などという声も飛び起こった[64][65]。勝新太郎は「"座頭市"の大型化を狙う」と表明した[52]。また大手映画会社に頼らず製作した『祇園祭』も1968年11月に封切られ大ヒットした。『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの記事で興味深いのが、フジテレビが劇場用映画第一作として『御用金』の製作を伝えていることである[52]。フジは第2作として『人斬り』も製作しヒットはしたが[65]、劇場を持たないテレビ局や独立プロは、よっぽど大当たりを取らないと儲からないと判断し、映画製作から撤退した[66][67]。1980年代に入り、鹿内春雄体制になって、再び映画製作を活発化させ、日本映画の歴史を塗り替えたが[66][67]、時代劇映画はほとんど作らなかった[66]。
時代劇映画の消滅
[編集]1955年(昭和30年)には当時の大手映画会社6社で年間174本の時代劇が製作され、1960年(昭和35年)で合計168本の製作本数を数えたが、わずか2年後の1962年(昭和37年)には77本に半減し、中村錦之助が東映を退社した1966年(昭和41年)の翌年には15本となり、1973年以降は年間5本程度を製作する状況となった[68]。時代劇の軸は映画界からテレビに移行、この時期からテレビ時代劇が急増する。
映画の世界では、時代劇王国と言われた東映が1964年頃から任侠路線に切り替えて1966年(昭和41年)で時代劇を打ち切り、時代劇の中心は大映に移った[64]。しかし勝新太郎との二枚看板で『眠狂四郎』シリーズをヒットさせた市川雷蔵が1969年(昭和44年)に若くして死去して、急速に精彩を失った大映も1971年(昭和46年)に倒産してしまった[69]。その後は1970年代に入って勝プロが製作した若山富三郎主演の『子連れ狼』シリーズがヒットして、松竹が高橋英樹主演で『宮本武蔵』さらにオールスターキャストで『狼よ落日を斬れ』『雲霧仁左衛門』『闇の狩人』を出し、東映が1978年(昭和53年)に12年ぶりに時代劇を復活させて『柳生一族の陰謀』が大ヒットして以後『赤穂城断絶』『真田幸村の謀略』『徳川一族の崩壊』『影の軍団服部半蔵』を出し、1980年代に入ると『魔界転生』『里見八犬伝』を角川春樹と提携して深作欣二監督で製作している[70]。しかし、その後は特に話題となるような時代劇はなく、もはや映画のジャンルとしては過去のものになりつつある。時代劇映画は50年近く長期低迷であり[71]、そして時代劇の主な舞台はすでにテレビに変わり、これ以降、テレビが時代劇を産業として支えていった[72]。
テレビ時代劇
[編集]1950年代から1970年代
[編集]1953年(昭和28年)2月、NHKテレビが開局してTV放送スタートと同時にテレビ時代劇の歴史も始まった。ただし当時はテレビカメラによる30分のスタジオドラマで生放送であり、同年7月に放送された笈川武夫主演『半七捕物帳』がテレビ初の時代劇であり、翌年1954年6月に日本テレビが放送した『エノケンの水戸黄門漫遊記』が民放初の時代劇とされている[注釈 66]。また初期には子ども向け時代劇として夕方に『赤胴鈴之助』[注釈 67]『猿飛佐助』『孫悟空』などの番組が放送された。
テレビ創成期の最初の時代劇スターは中村竹弥で最初の『江戸の影法師』(1955年)で認められて当時のラジオ東京テレビ(現在のTBS)と専属契約を結び、『半七捕物帳』(1956年)、『右門捕物帳』(1957年)、『又四郎行状記』(1958年)、そして『旗本退屈男』(1959年)から『新選組始末記』[注釈 68]などに出演した。この他に大人にも楽しめる時代劇として『鞍馬天狗』[注釈 69]『快傑黒頭巾』[注釈 70]『丹下左膳』[注釈 71]『銭形平次捕物控』[注釈 72]『眠狂四郎』[注釈 73]『鳴門秘帖』[注釈 74]『新吾十番勝負』[注釈 75]などが放送された。
また民放テレビ局の開局と同時にそのテレビ局に資本参加している映画会社が独自に製作した時代劇を放映している。代表作が『風小僧』『白馬童子』[注釈 76]『源義経』[注釈 77]『若さま侍捕物帳』[注釈 78]である。そして国産テレビ映画が増加した1962年秋から4年前に『月光仮面』をヒットさせた宣弘社が、同じ船床定男監督で主演も同じ大瀬康一で『隠密剣士』が放映を開始してヒットした。この番組で初めて忍者の世界を描き、その忍者の殺陣は以後の時代劇作品の忍者の描写の元になっている[注釈 79]。
そして1963年4月から、NHKが現在まで続く長寿時代劇シリーズとなる大河ドラマの放送を開始した。その第1作『花の生涯』は井伊大老役に歌舞伎界から尾上松緑、長野主膳役に映画界から佐田啓二(中井貴一の父)を起用し、2作目の『赤穂浪士』には映画界から長谷川一夫、民芸から滝沢修、宇野重吉、歌舞伎界から尾上梅幸など当時豪華な顔ぶれが揃い、テレビ時代劇の1つのエポックとなった。3作目は『太閤記』で新国劇から緒形拳が主演、文学座から高橋幸治、俳優座から佐藤慶など若い人材が出演して、4作目が『源義経』で歌舞伎界から尾上菊之助(現尾上菊五郎)が主演。毎年1作ずつ膨大な時代劇が制作されている[注釈 80]。
その後も映画の世界では時代劇が衰退していく中で、テレビ界では各局とも時代劇を制作して、『三匹の侍』[注釈 81]『新選組血風録』[注釈 82]『素浪人月影兵庫』[注釈 83]『銭形平次』[注釈 84]『水戸黄門』[注釈 85]『大岡越前』[注釈 86]『遠山の金さん』[注釈 87]『木枯らし紋次郎』[注釈 88]『必殺仕掛人』『必殺仕置人』『必殺仕事人』『子連れ狼』『影の軍団』『鬼平犯科帳』などのシリーズを生んだ。
時代劇制作を映画からテレビに移した先鞭をつけたのは、やはり東映である。もともとテレビ局の開局時から子ども向けテレビ映画を製作して他社に比べてテレビに対して積極的であった東映は、映画での時代劇衰退で早くに見切り、1964年(昭和39年)に東映京都テレビプロダクションを設立すると時代劇のスタッフを移してそこから数々のヒット作を生み出すこととなった。そしてかつての銀幕スターがテレビ時代劇に主演し、大川橋蔵『銭形平次』、片岡千恵蔵『軍兵衛目安箱』、市川右太衛門『旗本退屈男』、萬屋錦之介『子連れ狼』など番組が並び1970年代半ばのゴールデンタイムの人気ジャンルであった[73]。また、三船敏郎『荒野の素浪人』、勝新太郎『座頭市物語』のように銀幕スターが独立プロダクションを設立して制作に携わったり、『大江戸捜査網』のようにテレビ時代劇制作のノウハウに乏しかった日活が制作に携わったりした。
そして東映時代劇で育った松方弘樹は1965年にNHK時代劇『人形佐七捕物帳』でテレビに出演し、北大路欣也は1968年に大河ドラマ『竜馬がゆく』で主役に抜擢され、里見浩太朗は1971年に『水戸黄門』で助さん役を演じてから時代劇スターの座を確保し、1973年からは竹脇無我や西郷輝彦や里見浩太朗などが主演のTBSナショナル劇場の『江戸を斬る』が始まった。 また日活の現代劇で育った高橋英樹は大河ドラマ『竜馬がゆく』からテレビ時代劇で頭角を現わし、1967年のNHK時代劇『文五捕物絵図』で時代劇にデビューした杉良太郎、1978年にテレビ朝日『暴れん坊将軍』から人気俳優となった松平健などテレビから時代劇スターが生まれていった。
1980年代から1990年代
[編集]1980年代に入ると、トレンディドラマが出現。当時テレビの主たるターゲットであった若者層の視聴率が時代劇では取りにくいこと、時代考証や資料引用に関する許諾および大道具・小道具等の制作や調達並びに化粧・鬘・衣装等に製作費用や手間がかかること、都市化が進み国内では自然のままのロケ地の確保が難しくなってきたこと[注釈 89]、製作関係者の後継者不足や人材育成の不足、勧善懲悪の作風が多くマンネリ化し、視聴者に受け入れられなくなったなどの理由により、テレビ向けに製作・放映されることが大幅に減少した[注釈 90]。
若者向け文化を重視する風潮が時代劇にも及び、若手俳優を起用した時代劇を製作したが軒並み視聴率が不振で、やがて時代劇の不人気が浮き彫りとなり、テレビ局は時代劇番組を減らしていった。そして長期シリーズであった『影の軍団』や『必殺』シリーズの放送終了によって、テレビの世界でも時代劇の退潮が言われるようになったものの[74]、1980年代後半になると、日本テレビが大晦日に紅白歌合戦に対抗して制作した1985年(昭和60年)の『忠臣蔵』、翌1986年(昭和61年)の『白虎隊』が高視聴率を上げ、1987年(昭和62年)にNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が高視聴率を記録し、1989年(平成元年)にはフジテレビの『女ねずみ小僧』『鬼平犯科帳』が始まり、そしてテレビ東京の新春ワイド時代劇が1981年以来続いていて、1991年の1月2日のゴールデンタイムには4番組が並んで、時代劇復活の雰囲気となり、1986年の日光を皮切りに4ヶ所に開設の時代村のように時代劇制作ノウハウが取り入れられたテーマパークも建設された。
しかしバブル崩壊を迎え、1990年代後半になると、再び状況は一変して1996年(平成8年)以降に少しずつレギュラー枠が減らされていった[75]。
2000年代以降の状況
[編集]新作テレビ時代劇の制作は減少傾向が続き(現状については#主なテレビ時代劇放送枠の各項目などを参照)、2011年12月19日、長らく月曜夜8時の時代劇として親しまれてきた『水戸黄門』(TBS系)が最終回スペシャルを迎え、42年の歴史に幕を閉じるという出来事があった。時代劇存亡の危機が囁かれる中、デジタル放送の普及が本格化した2010年代からは、地上波よりもシニア層の視聴者が多いとされるBSデジタル・CS放送などで時代劇の放送が増加。既存作品の再放送が多いものの、後述するように新作の放送数も増えている。
地上波民放では、翌年(2012年)3月にテレビ東京で深夜帯に1クール放送された『逃亡者おりん2』が終了すると、2012年10月にTBS系の『金曜ドラマ・大奥〜誕生[有功・家光篇]』が放送されるまでの半年間、新作テレビ時代劇のレギュラー放送が途絶えた[76][注釈 91]。2014年には、フジテレビが開局55周年プロジェクトの一つとして、月9枠で初の時代劇作品『信長協奏曲』を放送し、2016年には映画化された[77]。地上波民放でレギュラー放送された新作テレビ時代劇は2018年現在、2016年10-12月にテレビ東京が金曜日20時枠に『石川五右衛門』を放送したのが最後である。また、2010年代中盤以降はHuluやNetflixに代表される動画ストリーミングサービスが多数登場しているが、過去作品の配信は少なく、サイトオリジナルの時代劇は現時点で制作されていない。
一方、衛星放送では、1997年に、東映の岡田茂とC.A.Lの加地隆雄を中心に「時代劇コンテンツ推進協議会」が立ち上がり、時代劇専門チャンネルでの放送などで時代劇の維持と再発展を目指してきたCS放送では、スカパー!で日本映画衛星放送(現・日本映画放送)と共同で、2011年の正月にCS初の完全新作時代劇・『鬼平外伝 夜兎の角右衛門』を放送、これが好評を博したことにより、2012年2月には企画第2弾となる『鬼平外伝 熊五郎の顔』を放映した。以降も年に1~2作ペースで新作を制作・放送している。
BSデジタル放送では当初NHKでの新作放送が中心だったが、2015年中盤以降、WOWOWを除くBS民放でも単発やレギュラー放送の新作時代劇が制作・放送されており、前述の水戸黄門も2017年にBS-TBSでキャスティングを改めた新シリーズが放送された。
また、2000年代中期から2010年代以降、往年とは及ぶべくもないが時代劇映画の製作・公開が微増傾向にあり、新作時代劇はテレビから映画へと再びシフトしつつある。2010年には映画会社5社による共同企画“サムライ・シネマ キャンペーン”が行われ、同年同時期に公開される5作品(『十三人の刺客』『桜田門外ノ変』『雷桜』『武士の家計簿』『最後の忠臣蔵』)が連携してプロモーションキャンペーンを実施した。
製作関係者からは日本独自の映像文化や技術が途絶えるとの危機感や現場における製作技術の維持継承の観点から、東映京都撮影所の契約社員組合などで作られた「時代劇復興委員会」が立ち上げられ、有名ではない時代劇俳優(いわゆる大部屋俳優)たちは太秦映画村で殺陣アトラクションを行ったりするなど、様々な方法で時代劇生存の道を探っている。
2020年代から、グリーンバックステージで人物を撮影しリアルタイムで人物とCG背景・美術をVFX合成する「バーチャルプロダクション」技術が発達しているが、東映太秦・松竹京都が京都府の支援で、時代劇のバーチャルプロダクション化の研究を始めている[78]。歴史建造物や風景を3Dデータ化してVFX撮影に生かすことで建物の経年劣化消滅や撮影プロセスの問題を克服するための試みとなっている。
なお、本稿ではもっぱら実写時代劇を扱っているが、日本では古くから時代劇アニメも多数制作されている。若年層への訴求力が期待でき、映像表現やロケ地等の制約がなく、考証もさほど重視されないとあって、21世紀にはアニメによる時代劇の制作がむしろ盛んである。また『鬼平犯科帳』『仕掛人 藤枝梅安』の漫画版を看板とした時代劇漫画専門誌(『コミック乱』・『コミック乱ツインズ』)がリイド社の軸となるなど2000年代に入ってからは安定した人気を保っている。
その他
[編集]時代考証
[編集]時代考証については、多くの時代劇作品で専門のスタッフが配置されるものの、年を経る毎に様々な事情から省略されたり、本来のものと異なる部分が増えており、それは文学的要素の色濃い作品であっても例外ではない。
1960年代までは相当する役柄にお歯黒や引眉を行う場合が多かったが、すでに明治時代に廃れた遠い過去の習慣であり、また、お歯黒、引眉が不気味と思われる、等、現代人に受け入れられにくいことから、現在ではお歯黒、引眉に該当する役柄でもお歯黒、引眉をすることは一部の役を除きないといって良い。また、本来ならふんどしであるべき男性の下着が猿股になったり、元禄年間の物語なのに服装や髪型が幕末仕様だったりするなど、雑な部分も多い。その一方で、女性の日本髪の鬘は以前は全鬘が一般的だったがハイビジョン収録の一般化に伴い生え際が自然に見える部分鬘を使うようになった。また代官・目明し・同心・小者などの端役の服飾や、屋台・建築物などの部分については、撮影現場で使い回しがなされたりセット・道具類にまつわる事情から厳密な考証が省略されているものが多い。
人物像においては、伊達政宗の刀鍔型の眼帯は時代劇による創作であるが、眼帯が無いと「誰だか分からない」として白い包帯などの妥協案を採用する例もある[79]。
日本刀の打刀では斬撃、抜刀、納刀など元来ほとんど音がしないため、当初のそれは無音であったものが、60年代に『用心棒』と『三匹の侍』の登場により徐々に様々な効果音が入れられるようになった。
馬については、実際には江戸期以前の日本では皆無に等しかったはずのサラブレッドやクォーターホースなど西洋で品種改良がなされた体高160cm以上の現代日本で主流の乗用馬で代用されている。時代考証を厳密に行うならば体高(肩までの高さ)130-135cm程度の日本在来馬を使用するべきところであるが、大型化した現代の日本人俳優の体格に日本在来馬では釣り合いが取れず映像的な見栄えに劣ること、そして、乗用馬に比べ頭数が少なくまとまった数を確保することが困難を極めることなどが要因となっている。時代考証の厳格さで定評のある黒沢明監督でさえ、馬に関しては西洋馬を用いている[80][81]。
陶器・漆器類を始めとする日用品や調度品も、当時の実物やかつての技法のまま現代の職人が創りだした工芸品的な物を使うことや、その撮影のために当時の技法で現在に必要量だけ製造することは予算面などから難しいことが多く、江戸時代のそれに近い表現技法を再現した現代の製品などを限られた時間と予算の中で探してきて代用した結果として、技巧・表現・流行などの面において時代設定と合わないことが多々起きている。
テレビ時代劇におけるフィルム撮影
[編集]テレビ用時代劇は他のテレビ番組が急速にビデオ撮影による収録に切り替わっていく中、1990年代後半までは映画用フィルムによる撮影を主流とし、「ドラマ」というよりは「映画」的なコンテンツとして特異な地位を確立していた。これは時代劇と刑事ドラマと特撮ヒーロー番組に言える特徴であった。当時時代劇ドラマにおいては、ビデオ映像にあえて映画フィルム風の映像補正をかけることが良く行われていた。これはVTR撮影が常識となった時代においても、フィルム画像ならではの“味”を愛好する人が製作者にも視聴者にも多いためであるといわれているが、これは役者のカツラと素肌の境目がくっきりと見えたり、室内のセットが明瞭すぎて現実感が乏しくなることを避けるためとされている。また、下級武士や農民の生活などその時代の雰囲気を出すために最近でもハイビジョン映像で撮影したものをあえて画像を落として放送する場合がある。
フィルム撮影はVTR撮影よりも多額の費用が発生することから1990年代以降減ってきたが、フジテレビは1998年以降のフィルム作品において「スーパー16」規格で撮影している。スタンダードサイズの画角ではなくビスタサイズの画角で撮影し、劇場公開やHDTV放送などの「ワンソフト・マルチユース」に対応することで長期的な費用回収を可能にし、フィルム撮影の存続の可能性を確保している。
時代劇の分類
[編集]メディアによる分類
[編集]- 演劇 - 歌舞伎、剣劇、女剣劇
- 時代劇映画 - Category:時代劇映画
- テレビ時代劇 - Category:テレビ時代劇
内容・定型による分類
[編集]- 剣劇[注釈 92](チャンバラ時代劇)
- 歴史もの
- 歴史上の人物
- 蒙古襲来
- 戦国乱世
- 伊達騒動
- 赤穂事件
- 「忠臣蔵」「実録忠臣蔵(日活・牧野)」「忠魂義烈 実録忠臣蔵(マキノ)」「元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻(日活)」「忠臣蔵 赤穂京の巻・江戸の巻(松竹)」「忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇(日活)」「忠臣蔵 天の巻 地の巻(日活)」「元禄忠臣蔵(松竹)」「赤穂城(東映)」[注釈 98]「赤穂義士(大映・東映)」[注釈 99]「忠臣蔵 花の巻・雪の巻(松竹)」[注釈 100]「赤穂浪士 天の巻 地の巻(東映)」「大忠臣蔵(松竹)」「忠臣蔵(大映)」「忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻(東映)」 「赤穂浪士(東映)」「仮名手本忠臣蔵(松竹)」[注釈 101]「義士始末記(松竹)」[注釈 102]「忠臣蔵 花の巻・雪の巻(東宝)」「赤穂城断絶(東映)」「四十七人の刺客(東宝)」「忠臣蔵外伝 四谷怪談(松竹)」「最後の忠臣蔵」「峠の群像」「元禄太平記」「元禄繚乱」「堀田隼人」など
- 桜田門外の変
- 新選組
- 幕末
- 文芸もの:小説などの文学作品を脚色したもの。
- 江戸時代の文学
- 江戸庶民もの
- 明治以降の文学
- 戦国および江戸時代以外を舞台とするもの
- 女性を主役としたもの
- その他
監督や時代による分類
[編集]- マキノ時代劇:初期には尾上松之助を主人公に歌舞伎調の殺陣を中心にケレン味を加えた松之助独特の立ち回りが特色の時代劇であったが荒唐無稽な子ども向けの内容とされた。やがて尾上松之助と袂を分かち、新国劇の澤田正二郎の影響を受けて「実録忠臣蔵」のように写実的な立ち回りを描いた。
- 明朗時代劇:千恵蔵プロの作品からそれまでの陰惨で暗いイメージを払拭するために、ユーモラスな明るいストーリーとして、後の鳴滝組にも影響を与えた。荒唐無稽さを売り物にしたナンセンス時代劇もこの範疇に入る。
- 東映時代劇:昭和戦後を一世風靡した東映の時代劇群。明るさと煌びやかさを持ち、徹底したスター主演の映画作りであった。
- 大映時代劇:初期は剣劇だけでなく文芸作品や江戸時代以外を舞台とするものも多い。お歯黒、引眉、等、時代考証を重視した。しかし後期には「眠狂四郎」「座頭市」などのアウトロー主体の時代劇が中心となった。
- 黒澤時代劇:黒澤明監督の作品群。リアルな殺陣とヒューマニズム溢れる物語が特徴。
スタッフ
[編集]映画監督
[編集]テレビ・プロデューサー(製作)
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テレビ・ディレクター(演出)
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脚本
[編集]殺陣
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時代劇俳優・女優
[編集]大正時代のスター
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時代劇六大スタア
[編集]明治以降の主演俳優
[編集]明治生まれ
[編集]大正生まれ
[編集]昭和生まれ
[編集]長年活躍した俳優
[編集]明治生まれ
[編集]大正生まれ
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昭和生まれ
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長年活躍した女優
[編集]明治生まれ
[編集]大正生まれ
[編集]昭和生まれ
[編集]主なテレビ時代劇
[編集]テレビドラマ 参考資料:『実録テレビ時代劇史』(能村庸一著) 巻末の時代劇放送記録
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その他多数(TVシリーズのみ。特別編、スペシャル版などは除く) ※単発ドラマ、一話完結のドラマは除く。 |
漫画・アニメ作品
漫画には上記の映画やテレビドラマ作品の原作となり、実写化された作品が多いが、ここではそうした形で実写映像化していないものを主に挙げる。実写映画化やドラマ化された作品でも、主となる読者・視聴者が低年齢層となる作品はここに含む。
- 赤胴鈴之助
- アフロサムライ(岡崎能士)[注釈 127]
- あんみつ姫(倉金章介)
- 一休さん(テレビ朝日・東映アニメーション)
- 伊賀の影丸(横山光輝)
- お〜い!竜馬
- 影狩りシリーズ
- カムイ伝(白土三平)
- カムイの剣
- 鴉天狗カブト(寺沢武一)[注釈 128]
- 古代幻想ロマンシリーズ(長岡良子)
- サスケ(白土三平)
- 佐武と市捕物控 (石ノ森章太郎)
- サムライチャンプルー(フジテレビ・マングローブ)
- さらい屋 五葉(オノ・ナツメ)
- 獣兵衛忍風帖(川尻善昭監督・マッドハウス制作によるアニメ映画)
- 修羅雪姫 (小池一夫)
- シグルイ(山口貴由)[注釈 129]
- 少年徳川家康(テレビ朝日・東映アニメーション)
- 少年忍者風のフジ丸
- ストレンヂア 無皇刃譚(ボンズ製作の劇場アニメ作品)
- 血だるま剣法/おのれらに告ぐ(平田弘史)
- どろろ (手塚治虫)
- 虹色とうがらし(あだち充)
- 信長協奏曲(石井あゆみ)
- 浮浪雲(ジョージ秋山)
- 花の慶次(原哲夫)[注釈 130]
- バジリスク 〜甲賀忍法帖〜[注釈 131]
- バガボンド(井上雄彦)
- まんが水戸黄門[注釈 132]
- 陸奥圓明流外伝 修羅の刻(川原正敏)
- 夢語りシリーズ(湯口聖子)
- るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-(和月伸宏)
- ワタリ(白土三平)
主なテレビ時代劇放送枠
[編集]通年で本放送
[編集]例年単発で放送
[編集]主な再放送枠
[編集]過去の本放送
[編集]NHK
日本テレビ系
- 日本テレビ火曜時代劇
- 日本テレビ日曜時代劇
- 年末時代劇スペシャル(日本テレビ)[注釈 134]
- 時代劇シリーズ(再放送枠)
テレビ朝日系
TBS系
- ナショナル劇場→パナソニック ドラマシアター [注釈 138]
- 毎日放送制作土曜時代劇(毎日放送)
- TBS平日16時台枠(再放送枠)
- TBS大型時代劇スペシャル
テレビ東京系
フジテレビ系
時代劇スタジオ
[編集]現行
[編集]時代劇の撮影が可能なパーマネントセットを有するスタジオ、その他の場所。
かつて存在したスタジオ
[編集]- 戦前
- 戦後
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「明治維新以前の江戸時代、あるいはそれ以前の時代」といっても、神代や卑弥呼を扱った弥生時代など、遠い時代を遡ったテーマであると、衣装・大道具・小道具の様式やストーリーにおいて、一般的な「時代劇」の様式とは大きく異なる内容が含まれてくる。しかしCS放送の時代劇専門チャンネルではこうした時代を扱った作品も放送している。
- ^ 英字新聞のテレビ欄における表示に基づく。
- ^ 英語圏では、自国の歴史劇を period piece または period drama と呼ばれ、日本の時代劇は「Samurai drama」と呼んで区別している。
- ^ 伊達騒動の原田甲斐の描き方は、歌舞伎の世界では逆臣で戦前の映画も逆臣の悪役だが、戦後の『樅の木は残った』では正反対に忠臣として主役となった。また忠臣蔵や赤穂浪士は史実としての元禄赤穂事件とは「刃傷」「討ち入り」は同じでも、それ以外のエピソードは後世の創作であり、肝心の四十七士の個人の名前さえも「徳利の別れ」の「赤垣源蔵」は実在しているのは「赤埴源蔵」の名である。
- ^ この活動写真は当時の歌舞伎座の裏の野天で撮影され、の歌舞伎興行で團十郎休演に際し上映され、團十郎と菊五郎が死去した翌年の1909年に歌舞伎座で公開されている。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」182P参照
- ^ 1922年7月31日封切り。野村芳亭監督。伊藤大輔脚本。勝見庸太郎、川田芳子、柳さく子出演。サイレント映画。
- ^ これより1年後の1923年(大正12年)に同じ松竹蒲田撮影所で製作された『女と海賊』(1923年7月1日封切り。野村芳亭監督。伊藤大輔脚本。勝見庸太郎、川田芳子、柳さく子出演。サイレント映画)を最初に時代劇映画と名付けられた映画とする資料は多い(稲垣浩 著『ひげとちょんまげ』毎日新聞社 など多数)が、早稲田大学文学学術院の小松弘教授はその前年1922年(大正11年)製作の『清水の次郎長』の宣伝文句に「新時代劇」と名称がつけられていた、としている(小松弘 著「旧劇革新と歴史的意義」170P参照 これは「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」の注釈より引用)。そして最近出版された『「時代映画」の誕生』(岩本憲児 著 吉川弘文館 2016年7月発行)では、明らかに1922年(大正11年)の雑誌に載せられた「新時代劇」「純映画劇」として『清水の次郎長』の広告を写真付きで説明しており、1923年(大正12年)に製作された『女と海賊』とする説は誤りである。一方で岩本憲児は、時代劇および時代映画という言葉が広がるのは大正末期頃(1920年代半ばあたり)として、この呼称を意図的に使ったのは『女と海賊』である、としている。
- ^ 歌舞伎にも立ち回り、すなわち殺陣があって、さまざまな工夫が行われてきたが、その本質は写実ではなく、様式美、形式美、舞踊美である。澤田正二郎はこの剣戟を刷新して大衆の人気を得た。それには当時アメリカで大人気であったダグラス・フェアバンクスの剣戟映画「三銃士」を見て、そのスピード感と躍動感が日本の時代劇にも殺陣の革新を呼び起こしたと言われている。「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」14-15P 参照
- ^ 映画を発明したのはエジソンで、それをスクリーンに投射して映す方法を考案しその機械であるシネマトグラフを発明したのがフランスのリュミエール兄弟で、そのシネマトグラフを日本に持ち帰ったのが稲畑勝太郎で、その稲畑勝太郎から映画興行の事業を託されたのが横田永之助であった。
- ^ 京都千本座に近い大超寺の境内で、歌舞伎の「千歳曽我源氏礎」から「吉野山雪中」と「小柴入道宅」の二場を舞台そのままに撮影されたものである。「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」63P 参照
- ^ この映画の撮影中に松之助は倒れて死去した。
- ^ 1911年(明治44年)から出版された小型の講談本で、文庫の主人公は英雄や豪傑あるいは忍者で当時の大衆文化を代表するものであり、それが松之助映画のヒーローであった。「時代劇映画の思想」15-16P
- ^ 尾上松之助の立ち回りは基本的に歌舞伎の型を踏襲したもので要所要所で見得を切るものであった。ただし松之助はそれにケレン味を加えて、それを生かした動きの軽快さやテンポの良さを持っていた。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」163P 参照
- ^ 当時日活向島撮影所だけで東猛夫、小栗武雄、衣笠貞之助、立花貞二郎、木藤茂、土方勝三郎、五月操、大井吉弥といった女形がいたが、日活向島撮影所は現代劇を撮影しており、これらの女形役者は当時の旧劇(時代劇)には出演していない。しかし衣笠貞之助と同じく木藤茂も後に新興キネマで時代劇の監督となった。
- ^ この松竹発足時の最初に登場した女優にはこのほか、主に現代劇に出演した栗島すみ子、五月信子、松井千枝子、筑波雪子、東栄子、英百合子、沢村春子などがいた。
- ^ しかしこの当初の理想はすぐに崩れて、思うように国内での上映ができず、いわゆるブロックブッキングで他社製作を受けつけない興行者と妥協して低俗な内容で国内市場を確保する必要に迫られることになった。そして国内市場開拓のために設立して1年も経たずに経営合理化をして、そのためせっかく招いた新劇の小山内薫の怒りをかった。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 210-211P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
- ^ 「天活」の流れを継承している会社である。
- ^ 松之助は愛人の芸者を女優に仕立てて相手役にしようとしたことがあったが、まだ歌舞伎の影響の強かった時代であり、映画館主の反対でとりやめている。『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
- ^ 時代劇の撮影所が戦前のマキノ、戦後の東映のイメージから京都が主であるのは確かではあるが、昭和に入ってからも大都映画の巣鴨、PCL(東宝)の砧、日活の調布でも時代劇の撮影が行われており、特に東宝の黒澤明は東京で時代劇を撮影しており、必ずしも京都だけで行われていたわけではない。
- ^ 横田永之助は、これを自分に対する反抗と見なしていた。「日本映画史」第1巻 202P 参照。また増長した松之助との不和もあるがこの頃に横田永之助とのトラブルがあったという説もある。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 222-224P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
- ^ 当時アメリカ映画の活劇の手法を時代劇に取り入れて革新的な作品を次々と生み出し、この彼を境に映画は旧劇から時代劇と呼ばれる段階に入ったという説がある。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」166P 参照
- ^ 翌年には林長二郎の人気は社会現象となり、1928年(昭和3年)正月、林が挨拶のため上京すると、東京駅では一万人余りの女性ファンが詰めかけ、雪崩を打ってもみ合い黄色い声援を送った。この過熱ぶりに、「ミーハー」(女性の好きなみつまめとはやしをかけた言葉)という用語までが生まれることとなった『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
- ^ サイレント映画ではあるが、有名な剣豪の名を語った贋者が本物の剣豪に出会ってしまい、勝負する羽目に陥ったが、そこで「偽者が本物に勝ってしまう」物語である。「権威というものはそれほど大したものではない」というメッセージが込められている。「時代劇映画の思想」30P参照。なお当時旧制中学生で後に映画監督となった市川崑がこの映画を映画館で見て、映画を志すきっかけになった映画でもある。
- ^ この名前は当時の六大学野球の有名選手からとったと言われている。『時代劇映画の思想』31P参照
- ^ 「日本映画で最も好まれたジャンルの時代劇は、大正末・昭和初期に一つの頂点を迎え、昭和10年代に様々なヴァリエーションを見せながら発展していった」『時代劇映画の思想』55P参照
- ^ 1935年、松竹製作。
- ^ 1939年、マキノ製作。片岡千恵蔵の急病から急遽製作されたものでほとんど数日で完成させたと言われている。
- ^ 「大江戸出世小唄」は時代劇ミュージカルの始原であり、「鴛鴦歌合戦」はその一つの頂点であった。「時代劇映画の思想」46P参照
- ^ 1927年に河合徳三郎が設立した河合商会が後に河合映画となり、1933年に大都映画に発展改称し、その後1942年に日活、新興キネマ(帝国キネマの後進)と合併して大映となり、大都映画は消滅した。15年間に1,294本の映画を製作した会社(1,325本製作したという資料もある)でいわゆるB級の三流映画を専門に製作した会社であった。後にプログラムピクチャーと呼ばれた週2本立てで年間100本の製作体制を取ったが、今日そのフィルムは戦災で焼失してほとんど残っていない。1937年には年間110本製作した記録が残っている。所属していた俳優は、阿部九洲夫、松山宗三郎、杉山昌三九、大乗寺八郎、そして後に戦後時代劇スターとなった近衛十四郎、また伴淳三郎も一時所属していた。『幻のB級 大都映画がゆく』65P・77Pおよび151P参照
- ^ 嵐寛寿郎もこの時期に二度プロダクションを興しているが、いずれも短期間に終わっている。
- ^ ただし、少なくとも1920年代以降の映画には血糊を使った流血の描写があることは確認されており、戦意高揚が叫ばれ始めた1938年の稲垣浩監督の作品で「晒しの上に血が滲む描写が検閲に引っかかった」と言われている。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」 171P 参照
- ^ この時期には、阪東妻三郎には『王将』、片岡千恵蔵には『多羅尾伴内』シリーズが製作された。
- ^ 戦前から存在した会社で戦後には東宝に作品を供給して、1968年まで続き、その間に製作した作品は177本にのぼる。嵐寛寿郎の鞍馬天狗シリーズや「右門捕物帖」シリーズも戦後の最初の時期には宝塚映画で製作されて東宝が配給していた。この時に共演した女優には宝塚歌劇の鳳八千代、寿美花代、扇千景らがいた。
- ^ 戦前の新興キネマ撮影所を戦後買収して貸しスタジオとして「大泉スタジオ」として設立されて、その後映画製作に乗り出したが赤字であった。後の東映東京撮影所である。
- ^ 後発の「東京映画配給」を存続会社として他の2社を吸収合併させる形となったため、「東映」の設立月日は「東京映画配給」の設立日の1949年10月1日となっている。
- ^ 1950年代に東宝で全9作、1960年代に東映で同じ監督で全4作が製作された。
- ^ 千恵蔵は京都太秦の高台に自宅があったので≪お山の御大≫と呼ばれ、右太衛門は同じ京都の北大路に住んでいたので≪北大路の御大≫と呼ばれた。「千恵蔵一代」154P参照
- ^ あらゆる意味で東映を代表する監督。戦後すぐに東横映画で片岡千恵蔵と金田一耕介シリーズと多羅尾伴内シリーズを手掛け、その後『退屈男』『左膳』『黄門』『右門』『新吾』シリーズの何作かメガホンをとり、『忠臣蔵』も3回監督している。父はマキノ省三でマキノ雅弘の異母兄にあたる。
- ^ 代表作は『ちいさこべ』『親鸞』『冷飯とおさんとちゃん』
- ^ 代表作は『修羅八荒』
- ^ 代表作は『一心太助天下の一大事』『暴れん坊兄弟』
- ^ 代表作は『瞼の母』『沓掛時次郎遊侠一匹』
- ^ 代表作は『白扇みだれ黒髪』
- ^ 代表作は『十三人の刺客』
- ^ この溝口監督の三作品とも撮影が宮川一夫であった。
- ^ 戦後すぐに起きた東宝争議で一旦東宝を離れて大映で製作したただ一作の作品。それがベネチア映画祭グランプリ受賞の『羅生門』だった。この後に東宝に復帰している。
- ^ 伊藤大輔は大正時代から各社でメガホンを取っていたが、大映では市川雷蔵主演『切られ与三郎』が代表作。後に東映に移る。
- ^ 戦前から長い期間にわたって各社でメガホンを取っている。大映では1958年に長谷川一夫主演オールスターキャストの『忠臣蔵』を作っている。
- ^ 雷蔵と勝新の共演『薄桜記』、勝新の『不知火検校』、雷蔵の『大菩薩峠・第三部』が代表作である。
- ^ 山本富士子主演『千姫御殿』、雷蔵主演『斬る』および『大菩薩峠』第一部と第二部、勝新主演『座頭市物語』が代表作である。
- ^ 嵐寛寿郎と花柳小菊が共演して佐藤忠男はこの映画を「戦前戦後を通じて中山安兵衛の作品のうち最高の作品である」と述べている。「嵐寛寿郎と100人のスター〜女優編〜」142P 荷村寛夫 著
- ^ 1955年製作。新東宝。伊藤大輔監督。田崎潤、嵯峨美智子主演。愚かな主人に忠義を尽くす家来の悲劇を描いている。
- ^ 1957年製作。新東宝。山田達雄監督。嵐寛寿郎主演。アラカンの原田甲斐が悪役で最後は大立ち回りとなる。
- ^ 早撮りの名人としても有名で各社を渡り歩いた監督だが、この新東宝では時代劇ではないが新東宝唯一の大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』を作っている。
- ^ この両作品とも脚本は菊島隆三である。
- ^ 日活製作再開3周年記念映画として製作。フランキー堺主演。しかし石原裕次郎、小林旭、二谷英明など当時の日活スターが脇役で総出演してオールスターキャストである。古典落語の「居残り佐平次」「品川心中」を原案にした品川遊郭での人間模様を描いている。今ではコメディ時代劇としても評価が高い作品である。
- ^ 1957年製作。松竹。大石内蔵助役に歌舞伎界から二代目市川猿之助(初代市川猿翁)、大石主税に市川団子(後の三代目市川猿之助、二代目初代市川猿翁)、早野勘平に高田浩吉、他に坂東蓑助、先代松本幸四郎、市川染五郎(現松本幸四郎)など歌舞伎界と映画界のスターを集めた。脚本は井手雅人。
- ^ 木下順二が書いた戯曲を高岩肇が脚本化したもので、もとはスペインの作家が書いた「三角帽子」を翻案したもの。1958年製作。歌舞伎座製作、松竹配給。中村勘三郎、伊藤雄之助、有馬稲子、香川京子出演。村祭りの夜の夜這いを滑稽に描いたもので、この原作はその後に歌舞伎、テレビドラマ、オペラにも使われている。
- ^ 1960年製作。松竹。甲斐の武田三代(信虎・信玄・勝頼)の武将に仕えた足軽一家の悲劇を描いている。田村高広、市川染五郎(現松本幸四郎)、高峰秀子、岩下志麻らが出演。木下監督の数少ない時代劇作品。
- ^ この当時東映では殺陣師の扱いは大きく、立ち回りシーンの演出を任されることが多かったが、東宝では専門職としては認められていなかった。黒澤明は『用心棒』の撮影に当って久世竜を東宝としては初めて殺陣師として起用して、東映時代劇に対抗する新しい殺陣を模索していた。東映流の形をカッコ良く決めることにこだわるのではなく、あくまで斬ることのリアルなアクションを求め、主役の三船敏郎が並みでない体力と身体能力で斬りかかり、斬られ役がこれにどう攻め込むかまで考えて斬りかかり、結果は殺陣にリアルな迫力が生まれ、ラストの三船の「十二人斬り」は話題となった。東映時代劇のエースである松田定次監督は後に「自分の撮った『赤穂浪士』が作品密度の点で『用心棒』に及ばない」と語っていた。「仁義なき日本沈没」80-84Pおよび97P 参照
- ^ 稲垣浩監督は宮本武蔵を戦前に5本、戦後は東宝で三船敏郎主演で3本、計8本メガホンを取っている。
- ^ マキノ監督は後に《僕にとってこの『次郎長三国志』は楽しい仕事でした。今日の東宝の基礎を作ったのはこの『次郎長三国志』です。これを撮らなかったら会社は潰れてましたよ。》と語っている。
- ^ 中村錦之助主演で清水次郎長を主人公の東海道シリーズの1作。この時に『椿三十郎』は配給収入18億円、対するこの錦之助主演のオールスター時代劇は11億円で倍近くの差がついた。「仁義なき日本沈没」95P参照
- ^ 「椿三十郎」を見て、ある東映関係者は「これは敵わん」と言い、鈴木則文は「ラストの仲代の身体から血がパーッと噴き出た時に東映の時代劇の様式美が音を立てて崩れていった。」と語っている。「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」153P参照
- ^ それまで1系統だけで年間80本は製作されていたが、本来現代劇路線のはずの第二東映も映画館側からの強い要請で時代劇を作らざるを得なくなり、年間に直すと2系統で100本は遥かに超えて時代劇を製作していた。そのためにスター不足となり、松竹から高田浩吉と近衛十四郎を呼んでいた。近衛十四郎は戦前の大都、戦後の松竹、そして東映と移り、その後テレビ時代劇『素浪人 月影兵庫』で人気スターの座を不動にした。
- ^ しかし内容はミュージカル調講談でバラエティー番組でもあった。
- ^ 1957年にKRラジオからラジオ番組として始まり、その後ラジオ東京テレビよりテレビ番組となった。主演は尾上緑也。共演者にはラジオで吉永さゆり、藤田弓子、山東昭子(ナレーション)、テレビでは同じ役で吉永さゆり、他に五月みどりが出演していた。また当時ほぼ同時に大阪の大阪テレビ(後に朝日放送と毎日放送に分かれる)が同じ番組を別に製作している。
- ^ 1961年10月から1962年12月まで、毎週火曜日夜に放送され、近藤勇を中村竹弥、土方歳三を戸浦六宏が演じた。スタジオドラマで、池田屋襲撃を当時としては珍しくフィルム撮影ではなく、テレビカメラによる屋外中継を入れた、テレビ時代劇の歴史に残る番組であった。
- ^ ラジオ東京テレビ・TBS系で何度か主演を変えて放送されており、1956年11月から始まった最初の放送には市川高麗蔵、その後市川団子(後の市川猿之助)、そして中村竹弥が1963年に主演している。
- ^ 1958年に日本テレビ系で放送され、当初は若柳敏三郎、途中から外山高士主演。共演で松島トモ子。映画で大友柳太郎のシリーズがある。
- ^ 1958年日本テレビ系で丹波哲郎が主演。
- ^ 1958年にラジオ東京テレビ系で(若山富三郎主演)、その後1962年に同じTBS系で(安井昌二主演)、後にフジテレビ系で(大川橋蔵主演)、それぞれ放送された長期シリーズとなった。
- ^ 1957年、日本テレビ系で江見俊太郎主演。池内淳子共演。柴田錬三郎原作の初のテレビドラマ化であった。
- ^ 1959年、ラジオ東京テレビ系で水島道太郎主演。
- ^ 1958年、日本テレビ系で細川俊夫主演。その後『新吾二十番勝負』がフジテレビ系で夏目俊二主演で放送された。
- ^ 風小僧は1959年、白馬童子は1960年で両作とも東映製作で当時資本参加していたNET(現テレビ朝日)系。主演は山城新吾。
- ^ 『風小僧』と同じ1959年に製作された東映作品。南郷京之助主演。その少年時代の牛若丸を演じたのが当時13歳だった北大路欣也である。
- ^ 1959年、関西テレビ系で夏目俊二主演。製作は関西テレビに資本参加していた東宝系の宝塚映画。劇場用映画では大川橋蔵主演のシリーズがある。
- ^ 元来は隠密もののジャンルに入るが、第2部でテコ入れして忍者路線に切り替えたことが成功につながった。そしてここでの忍者の行動や所作はプロデューサーのオリジナルであり、忍者が刀を逆手に持つポーズや卍型の手裏剣などは、その後の忍者ものに影響を与えた。樋口尚文「月光仮面を創った男たち」165P参照。平凡社新書、2008年9月
- ^ 1993年と1994年は1年間ではなく『琉球の風』『炎立つ』『花の乱』の3作品が半年と9か月間の放送であった。
- ^ 1963年から1969年にかけてフジテレビ系で放送。五社英雄演出、丹波哲郎・平幹二朗・長門勇の3人の浪人が主人公で、凄まじい殺陣の演出、また刀で人を斬るシーンでは音を発していたのが当時話題となった。なお第2部以降は丹波哲郎に代わり加藤剛が出演していた。
- ^ 1965年、NET系。栗塚旭主演(土方歳三役)。近藤勇役は舟橋元。
- ^ 1965年、NET系。近藤十四郎と品川隆司が繰り広げる道中記スタイルの時代劇であった。
- ^ 1966年から1984年までフジテレビ系で大川橋蔵主演。足かけ18年の長期シリーズとなった。18年間で全888話。
- ^ テレビ創成期の1954年に榎本健一主演で日本テレビ系で放送されたが、その後1957年に十朱久雄主演でラジオ東京テレビ系、1960年には花柳寛主演でフジテレビ系、市川左團次主演で日本テレビ系、古川緑波主演で毎日放送製作でNET系で放送された。その後東京五輪終了後の1964年秋に東映映画の重鎮月形龍之介主演でTBS系で翌1965年暮れまで放送されたが、代表作は東野英治郎らの主演で1969年からTBS系で始まり、2011年まで続いた超長期シリーズである。水戸黄門を演じたのは5名、全43部、全製作本数1,227話。記録的なテレビシリーズであった。
- ^ 1970年から1999年まで続いた超長期シリーズ。全15部、全製作本数402話。水戸黄門は5人が演じたが、この大岡越前は加藤剛が足かけ30年間演じ続けた。なお初回は1970年3月16日で、大阪での日本万国博の開会式の翌々日であった。
- ^ 1957年に坂東好太郎主演でNHK、1960年に夏目俊二主演でフジテレビ系、1962年に坂東鶴之助でNHK、1967年に市川新之助(後の市川團十郎)主演で日本テレビ系で放送された。しかし記憶に残るのはNETが1970年からスタートしたシリーズで、中村梅之助、市川段四郎、橋幸夫、杉良太郎、高橋英樹、松方弘樹、松平健らが歴代主演している。
- ^ 笹沢佐保原作、市川昆、森一生、池広一夫らが監督、中村敦夫主演で1972年1月からフジテレビ系で放送された。
- ^ ただし現在ではCGなどのデジタル技術により、電信柱や現代の建築物を画面上から消すことが可能であり、かつてよりはロケ地を選ぶ必要は無くなったといえる。それは大道具など一部の美術にも応用できる半面、予算がかかるという根本的な問題もまた抱えている。
- ^ しかし映像コンテンツとしての需要は高く、再放送枠やCS系有料放送、DVD・ビデオ販売の分野においては今なお重宝されている。2009年4月9日の水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)の再放送は同日放送されたTBSの番組のうち、最高視聴率を出している[1]
- ^ それ以外の時代劇ドラマは2020年現在、NHKの「大河ドラマ」と時代劇枠二つ(「土曜時代ドラマ」「BS時代劇」)の計3枠のみであり、民放では前述した通り、時代劇の放送自体が年数回 - 数年に一回・単発での放送に縮小されている。
- ^ クライマックスは剣(日本刀)による殺陣を主軸とするもの。時代劇の大多数を占めるもので、多くは興行的な観点から文学的要素よりも娯楽性が重んじられた内容になっている。テレビドラマの現代劇では刀剣類を使った殺傷場面を直接描くことは視聴者に対し犯罪を助長するとの判断から自粛されつつあるのに対し、時代劇では剣劇は非常に形式的な身体技法と、制作者と視聴者側の“暗黙の了解”たとえば黒澤明の作品などに代表される映像文学的要素や写実性などを追求した劇場作品では、斬殺の瞬間、殺害された側の衣類が裂けて肌が露出し、血液が数メートルにわたって迸ったり、腕が切り落とされ血が噴き出す場面を設定することがある。対して、娯楽性が重視されるお茶の間に向けて放送されるテレビの時代劇ではそのようなリアルで直接的な殺害描写はほとんど無く、主人公の優美かつ華麗な立ち回りの挙措と、一定のストーリー定型の元で最終的に悪者をばったばったと斬って捨てて断罪するカタルシスの昇華に重きが置かれた、ある種の様式美によって作品自体が構成されている。この暗黙の了解によって表現されており、このため短時間に多数の人間が刃物によって殺傷されている場面にもかかわらず批判の対象とされることはない。
- ^ 1965年東映製作。沢島忠監督。仲代達矢、志村喬と松方弘樹、中村錦之助の渡世人の3つの話をオムニバス形式にしてヤクザの世界を描いた秀作。中村錦之助が強そうで実は弱いヤクザを好演。
- ^ 忍者ものでヒットしたが、それは途中第2部から忍者路線にしたためで、もとのお話は徳川将軍の弟君が身を隠して各藩を探索するのが本筋のお話であった。
- ^ 忍者映画(忍者もの)を時代劇に含めるかどうかで、基本的には分けて扱うことが多いという向きがあるが、もともと時代劇が始まった時から忍者は1つのジャンルであり(歌舞伎の演目でも入っている)、尾上松之助の映画からいつの時代でも人気のあるジャンルであった。広義の解釈では入るということではなく、映画そのものの面白さを追求すれば非現実的な内容を入れることは至極当然であり、時代劇はあくまで舞台設定が日本が近代化する以前であることで成り立っている。
- ^ 1921年製作。日活。マキノ省三監督、尾上松之助主演。サイレント映画。歌舞伎から題材をとった忍術のトリックで、フィルムが現存している。
- ^ 1960年製作。大映。森一生監督。勝新太郎主演。勝新が演じる按摩で全盲のワル役が悪事を重ねながら不知火検校になるお話で、この映画のヒットが座頭市シリーズに繋がった。
- ^ 1952年製作。東映 萩原遼監督。戦後最初の本格的な忠臣蔵映画。片岡千恵蔵が浅野内匠頭・大石内蔵助の二役を演じている。ただし続編の「続赤穂城」までのお話は城明け渡しであり、吉良邸討ち入りの場面はない。
- ^ 同名で2つ作品があり、最初は1954年9月公開の大映作品。荒井良平監督。黒川弥太郎の浅野内匠頭、進藤英太郎の大石内蔵助。4つのエピソードを当時の人気浪曲師が名調子で唸る浪曲版忠臣蔵。二度目は1957年12月公開の東映作品。伊賀山正光監督。月形龍之介が演じる天野屋利兵衛を主役にした映画で、忠臣蔵の外伝物である。大石内蔵助には大河内伝次郎が扮し、またこの作品も浪曲が入っている。
- ^ 1954年10月公開。戦後初めて「忠臣蔵」のタイトルで製作された作品。公開当時の資料では第1部(花の巻)104分、第2部(雪の巻)137分の合計4時間1分の上映時間であったとされるが、現存する版は3時間8分である。これは戦後の忠臣蔵映画では最も長い作品で、単独公開としては最長尺作品と見られている。大石内蔵助には八代目松本幸四郎、浅野内匠頭には高田幸吉、吉良上野介には滝沢修が演じ、監督は大曾根辰夫。大曾根辰夫はこの3年後にも同じ松竹の「大忠臣蔵」も監督している。そして八代目松本幸四郎はこの後に東宝に移り、8年後の東宝創立30周年記念映画の「忠臣蔵」で再び大石内蔵助を演じている。
- ^ 1962年9月9日公開。5年前に製作した「大忠臣蔵」を再編集して、もともと155分の映画を108分に縮尺した作品。そして後述の「義士始末記」との二本立てで公開された。
- ^ 1962年製作。松竹、大曾根辰夫監督。その5年前に製作された「大忠臣蔵」を「仮名手本忠臣蔵」に改題してリバイバル上映し、合わせて併映作品として、討ち入り後の赤穂浪士の処分に苦慮し最後は武士の本懐として切腹させるまでを描いている。市川新之助、島田正吾、岡田茉莉子、岩下志麻が出演している。
- ^ 1954年製作。大映。溝口健二監督。長谷川一夫と香川京子主演。井原西鶴の「好色五人女」の中の「おさん茂兵衛」の実話を基にしてほぼ30年後に近松門左衛門が書いた歌舞伎の演目「大経師昔暦」をベースにした川口松太郎の戯曲「おさん茂兵衛」を映画化したものである。
- ^ 1958年製作。松竹。今井正監督。三國連太郎と有馬稲子主演。近松門左衛門の戯曲から橋本忍、新藤兼人が脚本。武士の妻の不義密通を描いている。
- ^ 1959年製作。東映。内田吐夢監督、中村錦之助と有馬稲子主演。近松門左衛門の「冥途の飛脚」などを基にした心中物。片岡千恵蔵が近松門左衛門役で出演している。
- ^ 1969年製作。表現社およびATG。篠田正浩監督。中村吉右衛門と岩下志麻主演。歌舞伎の様式を大胆に取り入れて黒子が登場する異色作。
- ^ ただし映画の原作は同じ芥川の「藪の中」である。
- ^ 1953年1月3日公開。新東宝製作。斎藤寅次郎監督。古川緑波の大石内蔵助、エンタツ・アチャコ、柳家金語楼、伴淳三郎などが出演。
- ^ 日本初のシネマスコープ作品。大友柳太朗主演。若殿さまの嫁探しをユーモラスに描いた時代劇。1957年4月2日公開。
- ^ 1957年から大阪OTVで制作された上方コメディ番組。当時漫才で一世を風靡した中田ダイマル・ラケットが目明しで、それを指導する与力が藤田まこと、その妹で武芸達者な女を森光子が演じていた。藤田まことと森光子はこの番組から全国に顔が知られるようになり、2人にとって出世作となった番組である。
- ^ 1922年製作。尾上松之助主演。全編64分のサイレント映画で「目玉の松ちゃん」の映画では唯一全編のフィルムが残っている映画と言われる。渋川伴五郎は実在の人物で江戸時代前期の柔術家。映画では力自慢のヒーローとして松之助が演じて妖怪と父の仇を討つストーリーである。監督はマキノ省三ではなく築山幸吉である。
- ^ 1962年製作。東映。内田吐夢監督、大川橋蔵主演。人形浄瑠璃の「芦屋道満大内鑑」、清元の古典「保名狂乱」をもとに宮廷陰陽師の安部保名を主人公にした平安時代のファンタジー時代劇。他の時代劇には見られない独特の映像表現の異色作である。因みに主人公は陰陽師安部清明の父であり、この映画のラストシーンは清明の誕生で終わっている。
- ^ 1964年製作。東映。加藤泰監督。大川橋蔵主演。原作は司馬遼太郎。
- ^ 1959年にラジオ東京テレビ系の「赤胴鈴之助」に対抗して日本テレビ系で放映された少年剣劇もの。主演は手塚しげお。彼はその後ボーカルグループ「スリーファンキーズ」に加入し歌手となった。その時に入れ替わりにこのグループを退団したのが高橋元太郎で彼は後に「水戸黄門」シリーズで「うっかり八兵衛」を30年間演じた。
- ^ 文化風俗・服飾をはじめとする設定について厳密な時代考証や再現性は重要視せず、西部劇・SFなど、あらゆるジャンルの要素をミックスしたアバンギャルドな内容。上記の“活劇もの”にも通じる要素の色濃い作品も含む。
- ^ 鳴滝組の影響を受けて、京都大学に入学したが太秦撮影所に入り浸り、その後大学を中退して日活京都撮影所の監督となる。「春秋一刀流」「うぐいす侍」「仇討交響楽」「狐の呉れた赤ん坊」「天狗飛脚」「蛇姫道中」などの作品を残した。因みに、名前の丸根は女優マレーネ・ディートリヒから、賛太郎は「三太郎の日記」からとったとされている。
- ^ 「忠臣蔵」を1954年と1957年、そして1962年にその続編「義士始末記」を作り、この他に嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、市川右太衛門の「旗本退屈男」、美空ひばりの「ひばり姫初雲道中」などの多彩なスター映画を松竹で撮って、松竹時代劇を代表する映画監督である。
- ^ 1949年から1953年の期間で大映と東宝で大河内傅次郎の「水戸黄門」、嵐寛十郎の「鞍馬天狗」のシリーズや「緋牡丹盗賊」「あばれ熨斗」「万花地獄」などを撮っていたが、1953年12月25日に「鞍馬天狗斬りこむ」(宝塚映画)の撮影終了後に宝塚の宿舎でガス中毒のため死去した。
- ^ 一心太助をもじった上方コメディー。大阪ミナミの南街会館での劇場公開番組で毎週日曜夜6時からの30分の劇場生中継であった。脇役に漫才のいとし・こいし、女性3人ボーカルの「トリオ・こいさんず」等が出演。なおこの劇場は普段は映画館で、当日も夕方まで映画上映であった。
- ^ 原作は「神谷玄次郎捕物控」(藤沢周平)で、尾上菊五郎が神谷玄次郎を演じている。
- ^ 第6シーズンまで制作したが、丹波哲郎は第1シーズンのみで途中降板して、第2シーズンから加藤剛が加わった。
- ^ 原作は石ノ森章太郎の漫画「佐武と市捕物控」。TBS版は題名が「十手野郎捕物控」と改題されている。1981年にフジテレビで「佐武と市捕物控」の題名でスペシャル時代劇として制作されている。またアニメ版も1968年に毎日放送制作で放送されている。
- ^ 長谷川一夫テレビ初登場。大河ドラマ史上最高視聴率53%を記録。
- ^ 「江戸を斬る」(西郷輝彦および里見浩太朗)シリーズは別掲参照。
- ^ NHK大河ドラマ第1作。
- ^ テレビドラマ史上初の時代劇。
- ^ 「アメリカ人が考えるような間違った日本観」がテーマであり、内容的には「ハイパー時代劇」の部類に入る。
- ^ 内容的には「ハイパー時代劇」の部類に入る。
- ^ 原作は南條範夫の『駿河城御前試合』だが、山口による大幅な脚色がなされている。
- ^ 隆慶一郎の時代小説の漫画化。
- ^ 山田風太郎原作の時代小説の漫画化。
- ^ テレビ東京 水戸黄門のアニメ。
- ^ 例年、1月の三箇日のいずれかに放送。
- ^ 1985年から1993年にかけて、12月30日・31日の2夜連続(1991年以降は31日のみ)で放送され、1993年をもって終了した。「忠臣蔵」・「白虎隊」・「田原坂」などを放送した。
- ^ シリーズ終了後も単発で放送されたほか、2009年に久々の連続作品として必殺仕事人2009を放送。
- ^ 2009年1月開始の必殺仕事人2009が該当。
- ^ 最近はこの枠に現代劇が割り当てられる場合がある。かつては「時代劇の殿堂」という再放送枠を名乗っていた。
- ^ 月曜20時-20時54分,1969年-2001年迄は原則時代劇、それ以降は水戸黄門と現代劇を交互に放送。
- ^ 例年1月2日に放送。
- ^ 時代劇。関西テレビ放送で1973年10月-1975年3月の1年半日曜21時で放送。終了後、「関西テレビ制作連続時代劇」へ受け継ぐ。
出典
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- ^ もとは活動弁士から映画界に入り、興行主となり、映画会社社長となった。新東宝倒産後は大蔵映画を設立してピンク映画の製作に乗り出した。
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- 『日本映画史110年』 四方田犬彦、集英社新書、2014年8月、ISBN 978-4087207521
- 『時代劇伝説 チャンバラ映画の輝き』岩本憲児編著、森話社、2005年10月、ISBN 978-4916087560
- 『映画100物語〜日本映画編〜1921-1995』岡野敏之 編、読売新聞社、1995年8月、ISBN 978-4643950694
- 『嵐寛寿郎と100人のスター〜女優編〜』荷村寛夫、ワイズ出版、1997年4月、ISBN 978-4948735644
- 『千恵蔵一代』田山力哉、社会思想社、1987年4月、ISBN 978-4390602952
- 『日本映画史 Ⅰ 1896-1940』佐藤忠男、岩波書店、1995年3月、ISBN 978-4000037853
- 『日本映画史 Ⅱ 1941-1959』佐藤忠男、岩波書店、1995年4月、ISBN 978-4000037860
- 『日本映画は生きている 第2巻』「「映画史を見直す」〜チャンバラにおける身体表現の変容〜(pp.161-184)」小川順子(中部大学人文学部准教授)、岩波書店、2010年8月、ISBN 978-4-00-028392-2
- 『NHK大河ドラマ50作パーフェクトガイド―〈花の生涯〉から〈江~姫たちの戦国~〉まで』NHKサービスセンター、2010年12月、ISBN 978-4871080972
- 『世界映画大事典』 379-380P「時代劇映画の項」
- 監修 岩本憲児 高村倉太郎/岩本憲児 奥村賢 佐崎順昭 宮澤誠一編、日本図書センター 2008年6月
- 山下慧、井上健一、松崎健夫『現代映画用語事典』キネマ旬報社、2012年5月。ISBN 978-4-87376-367-5。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 時代劇ルネサンスプロジェクト(時代劇 国際PRプロジェクト)
- 東映ニュースチャンネル(動画サイト)
- 東映太秦映画村(撮影所/イベント/扮装体験/アクション)
- 上原半兵衛道場 時代劇関連リンク
- 『時代劇』 - コトバンク