杉山義法
杉山 義法(すぎやま ぎほう、1932年1月17日[1] - 2004年8月3日)は、新潟県新発田市出身の脚本家[1]。新潟県立新発田高等学校を経て、日本大学芸術学部映画学科卒業[1]。
代表作は、日本テレビ系列の「年末時代劇スペシャル」シリーズ。本名をそのまま筆名にしているが、読み方は、筆名が「すぎやま・ぎほう」、本名が「すぎやま・よしのり」。
日本放送作家協会、脚本家連盟、各会員[2]。
来歴・人物
[編集]生家は映画館で、本人も少年時代は映画少年だったと話す[1]。映画監督を志すも、映画会社の入社試験には次々に失敗[1]。「そんなに映画が僕を嫌うなら映画の敵になってやる」として、まず映画とは違う方向へ行ってみようと、フリーでラジオ界入り[1]。野坂昭如と知り合い[1]、野坂が回してくれた伝手を頼って紹介してくれたNHKディレクターの安江泰雅との出会いが大きな転機となる[1]。1963年のNHKの浪曲ドラマ『多助江戸日記-塩原多助一代記より-』で脚本デビュー[1]。その後もNHKの大衆名作座『人形佐七捕物帳』など、安江が多く脚本の仕事を回してくれるようになる[1]。この他にもこの1960年代から、主にテレビ時代劇で活躍し、NHK大河ドラマなど、大作の脚本を務める。1985年、日本テレビ系『忠臣蔵』の脚本を担当。この作品が日本テレビ系「年末時代劇スペシャル」第1作となり、その後はほぼ毎年、このシリーズの脚本を担当。シリーズ最終作となる1993年の『鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-』まで、合計8作品の脚本を手がけて、不可欠のスタッフとしてシリーズを支えた。
また、1996年演劇制作者集団「ドラマバンク」を旗揚げ[2]、代表幹事を務めた。第1回公演は「日本つれづれ節」[2]。独り芝居「横浜ローザ」は、「ドラマバンク」の代表的演目で、現在も公演され、高い評価を得ている。
日本大学映画学科の監督コース講師も務めた[2]。
多彩な趣味を楽しんだ人物でもある。ピアノの弾き語りは相当な腕前で、ギターも弾くなど、音楽を愛した。歌声にも味があり、十八番は石原裕次郎だったという(「勇者たち」など)。自他共に認める、写真機収集家でもあった。また、NHK連続テレビ小説『風見鶏』を執筆したことから、ドラマの舞台だった神戸市の名誉市民となっている。
主なテレビ作品
[編集]- 天と地と(1969年、NHK大河ドラマ)
- 春の坂道(1971年、NHK大河ドラマ)
- みちくさ (1974年のテレビドラマ)
- 妻たちの二・二六事件(1976年、NHK、全5回)
- 風見鶏(1977年10月 - 1978年4月、NHK連続テレビ小説)
- 夏の光に・・・(1980年、-モンテカルロ国際テレビ祭金賞 最優秀脚本賞)- NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- いのち燃ゆ(1981年4月 ‐ 10月、NHK)
- 遠雷と怒涛と(1982年、NHK土曜ドラマ、全3回)
- よーいドン(1982年10月 - 1983年4月、NHK連続テレビ小説)
- 宮本武蔵(1984年4月 - 1985年3月、NHK新大型時代劇)
- 谷崎・その愛(1985年、NHK)
- 武蔵坊弁慶(1986年、NHK新大型時代劇)
- 樅ノ木は残った(1990年、日本テレビ里見浩太朗時代劇スペシャル)
- 年末時代劇スペシャル(日本テレビ)
- 山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-(2001年、NHK) - 全9話で斎藤樹実子との共同脚本。
主な舞台作品
[編集]- 孤愁の岸 遥かなり山河(帝国劇場)
- 青年、星降る里、松のや露八(宝塚劇場)
- 宮本武蔵、弧松は語らず(歌舞伎座)
- 忠臣蔵 大石内蔵助、平家物語絵巻・恋の滝口、桃太郎侍(明治座)
- 幡随院長兵衛、松平長七郎 黄金夢ぎやまん燈籠、忠臣蔵備忘録(新橋演舞場)
主な映画作品
[編集]刊行された執筆作品
[編集]- よーいドン - 日本放送出版協会
- 忠臣蔵・白虎隊(日本テレビ)- 放送脚本シリーズで他に、田原坂、五稜郭、勝海舟、源義経の計5冊が刊行
- 小説 田原坂(角川文庫)- 各・電子書籍で再刊
- 五稜郭(角川文庫)- 小説