コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

勝見庸太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かつみ ようたろう
勝見 庸太郎
勝見 庸太郎
1923年頃の写真
本名 勝見 國一(かつみ くにかず)
別名義 勝見 黙笑かつみ もくしょう
生年月日 (1893-09-11) 1893年9月11日
没年月日 (1962-09-01) 1962年9月1日(68歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷
死没地 日本の旗 日本 東京都杉並区馬橋(現在の同区阿佐谷南
職業 俳優映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンル 新派新劇劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1910年代 - 1958年
活動内容 1910年代 新派から新劇
1920年 松竹蒲田撮影所設立に参加
1922年 脚本家デビュー
1925年 監督デビュー
1926年 独立、マキノと提携
1930年 解散
1938年 東京発声へ出演
配偶者 花川環
テンプレートを表示

勝見 庸太郎(かつみ ようたろう、1893年9月11日 - 1962年9月1日[1])は、日本の俳優映画監督脚本家映画プロデューサーである。本名は勝見 國一(かつみ くにかず)[2]、号の黙笑(もくしょう)[1] は、脚本・原作執筆時に使用した。松竹蒲田撮影所から独立して勝見庸太郎プロダクションを設立、京都の牧野省三マキノ・プロダクションと配給提携した[2]。妻は元女優花川環

人物・来歴

[編集]

1893年(明治26年)9月11日[2]東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷[1] に「勝見国一」として生まれた[2]

新派の俳優・藤沢浅二郎の主宰する「東京俳優養成所」で新派劇を学び[1][3]、その後新劇に転向、伊庭孝の主宰する「新劇社」、あるいは「黒猫社」、島村抱月松井須磨子の「芸術座」等を転々として新劇俳優として活動した[1]。新劇俳優として、1920年(大正9年)、松竹キネマ松竹蒲田撮影所を開設、その創立に参加した[2][3]。同年、田中欽之監督の『鉱山の秘密』に出演して、映画界にデビューした[2]。蒲田草創期の「男優三羽烏」の一人と呼ばれた[2]。1922年(大正11年)の主演作、島津保次郎監督の『屑七の家』で脚本家としてもデビュー、1925年(大正14年)の主演作、『夜明け前』では監督としてもデビューしている。この頃、同じ松竹蒲田に所属する女優の花川環と結婚する。

1926年(大正15年)、自らの監督主演作『』を最後に蒲田を退社、「勝見庸太郎プロダクション」を設立、京都のマキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始した[2][3]。1930年(昭和5年)には解散した。

1938年(昭和13年)には東京発声映画製作所[2]、1939年(昭和14年)には東宝映画東京撮影所(のちの東宝スタジオ)、のちに松竹大船撮影所の作品にも出演した。

1962年(昭和37年)9月1日夜、肺結核のため、東京都杉並区馬橋(現在の同区阿佐谷南)の清川病院で死去した[1]。満68歳没。

おもなフィルモグラフィ

[編集]

[編集]
  1. ^ a b c d e f 『CD 人物レファレンス事典 日本編』、日外アソシエーツ、2002年。
  2. ^ a b c d e f g h i 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.138。
  3. ^ a b c 『日本俳優名鑑 - 映画俳優の部』、「芝居とキネマ」昭和4年1月号新春付録、1929年、「勝見庸太郎」の項。

外部リンク

[編集]