利用者:Humikirinkai/sandbox
現存する日本の貨車形式一覧
[編集]現存する日本の貨車形式一覧は、現在の日本の鉄道において車籍を有し、鉄道路線において使用実態のある貨車形式の一覧である。
概要
[編集]一覧
[編集]コンテナ車
[編集]コンテナ車は、現在の日本の貨物輸送において主流となっている貨車でおり日本貨物鉄道(JR貨物)で現在運用されている貨車の大部分を占める。かつては国鉄コキ50000形貨車や国鉄コキ5500形貨車が大量製造され主流となっていたが、老朽化により後発の貨車形式により完全に置き換えられている。近年の動向として、2016年に海上コンテナ輸送用のコキ73形が登場し運用が開始された。
形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
コキ73形 | 日本貨物鉄道 | ||
コキ100系 | 日本貨物鉄道 | コキ100形からコキ107形とコキ110形がある。 | |
コキ200形 | 日本貨物鉄道 |
有蓋車
[編集]有蓋車は戦前から1990年代まで貨物輸送の中心的な役割を担っており、国鉄ワラ1形貨車や国鉄ワム80000形貨車を代表とする有蓋車が大量に製造された。しかし物流の合理化に伴いコンテナに置き換える動きが強まったことで、かつてJR各社が大量に所有していた有蓋車は2010年代までに大半が廃車となった。最後まで残った東日本旅客鉄道(JR東日本)所有のワム287336も2020年に廃車となり、JR各社から有蓋車の車籍は完全に消滅した。現在は一部の私鉄や臨海鉄道の事業用車として僅かに存続するのみである。
形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
スム4000形 | 秩父鉄道 | 救援車。 | |
テム1形 | 上信電鉄 | ||
ワ形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
ワ1形 | 名古屋臨海鉄道 | 救援車。車籍を有する貨車では現存最古。 | |
ワフ1形 | 小湊鉄道 | ||
cワフ0形 | 大井川鐵道 |
無蓋車
[編集]無蓋車は有蓋車とともに近年までよく見られた形態の貨車であったが、物流の合理化により大半の形式が現在までに消滅している。JR貨物では自衛隊の機材輸送や車軸輸送用に近年までトラ45000形を所有していたがコンテナ化により廃車となった。また2021年まで亜鉛鉱石輸送用にJR貨物トキ25000形貨車が使用されていたが、需要が減少したため廃車となった。現在のJR各社の中ではトラ45000形が四国旅客鉄道(JR四国)でトロッコ用に使用されているのみである。一部の私鉄では事業用に車籍が僅かながら残っている。
形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
オト形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
ト形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
トキ500形 | 秩父鉄道 | 土砂運搬用。 | |
トム1形 | 津軽鉄道・小湊鉄道 | ||
トラ45000形 | 四国旅客鉄道 | トロッコ車両用に改造。 | |
cト100形 | 中部電力 | ||
cトキ200形 | 中部電力 | ||
(形式名不明) | 神戸住環境整備公社 | 摩耶ケーブル線で使用。無蓋貨物車として正式に車籍がある。 |
長物車
[編集]長物車は、現在の日本では大半がレール輸送用車として使用されおりJR各社や一部私鉄が所有している。近年のJR旅客各社の一部では長物車を廃車しキヤ97形などの自走可能な気動車へ置き換える動きが進み、東海旅客鉄道(JR東海)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)では長物車が完全に消滅している。一方で、JR貨物では長物車を用いた新幹線向けのロングレール輸送が積極的に行われており、近年でもチキ5500形が新造されている。
形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
オチ形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
チ形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
チ10形 | 近江鉄道 | レール輸送用。 | |
チ1000形 | 小湊鉄道 | レール輸送用。 | |
チキ10形 | 名古屋鉄道 | レール輸送用。 | |
チキ5200形 | 西日本旅客鉄道・小湊鉄道 | レール輸送用。 | |
チキ5400形 | 日鉄物流八幡 | レール輸送用。 | |
チキ5450形 | 日鉄物流八幡 | レール輸送用。 | |
チキ5500形(国鉄) | 西日本旅客鉄道・九州旅客鉄道 | レール輸送用。 | |
チキ5500形(JR貨物) | 日鉄物流八幡 | レール輸送用。 | |
チキ6000形 | 西日本旅客鉄道・四国旅客鉄道・九州旅客鉄道・日本貨物鉄道 | レール輸送用。 | |
チキ7000形 | 西日本旅客鉄道・九州旅客鉄道・日本貨物鉄道 | レール輸送用。 | |
チサ9000形 | 日本貨物鉄道 | 広島車両所で保管。 | |
ナチ形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
ムチ形 | 黒部峡谷鉄道 |
タンク車
[編集]タンク車は、現在の日本ではガソリンに代表される石油類の輸送に専ら用いられており、そのほとんどが日本石油輸送および日本オイルターミナルの所有である。この他、太平洋セメントが三重県内でセメント輸送用に、東邦亜鉛が福島県から群馬県で亜鉛焼鉱輸送用にそれぞれタンク車を所有し現在も運用がなされている。
形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
タキ1000形 | 日本石油輸送・日本オイルターミナル | 石油類専用。 | |
タキ1200形 | 東邦亜鉛 | 亜鉛焼鉱専用。 | |
タキ1300形 | 太平洋セメント | セメント専用。 | |
タキ1900形 | 太平洋セメント | セメント専用。 | |
タキ43000形 | 日本石油輸送・日本オイルターミナル | 石油類専用。 | |
タキ44000形 | 日本石油輸送・日本オイルターミナル | 石油類専用。 | |
タム500形 | 津軽鉄道 | 軽油専用。 |
ホッパ車
[編集]形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
ホキ1形 | 秩父鉄道 | バラスト散布用。 | |
ホキ10形 | 近江鉄道 | バラスト散布用。 | |
ホキ80形 | 名古屋鉄道・富山地方鉄道 | バラスト散布用。 | |
ホキ100形 | 岩手開発鉄道 | 石灰石輸送用。 | |
ホキ800形 | 東日本旅客鉄道・西日本旅客鉄道・弘南鉄道・八戸臨海鉄道・上信電鉄・小湊鉄道・大井川鐡道・遠州鉄道 | バラスト散布用。 | |
ホキ1000形 | 太平洋セメント | フライアッシュ及び炭酸カルシウム専用。 | |
ホキ1100形 | 太平洋セメント | フライアッシュ及び炭酸カルシウム専用。 | |
ホキ2000形 | 矢作工業 | 石灰石専用。 | |
ホキ9500形 | 矢作工業 | 石灰石専用。 | |
ヲキ100形 | 太平洋セメント | 石灰石輸送用。 | |
GV-E196形 | 東日本旅客鉄道 | バラスト散布用。 |
大物車
[編集]形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
オシ形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
シ形 | 黒部峡谷鉄道 | ||
シキ610形 | 日本貨物鉄道 | 変圧器輸送用。 | |
シキ800形 | 日本通運 | 変圧器輸送用。 | |
シキ850形 | 日本貨物鉄道 | ||
シム1形 | 日本車輌製造 | 日本車輌製造豊川工場内で保管。 |
車掌車
[編集]車掌車はかつて多くの鉄道会社で運用されていたが、現在はその用途が限られるようになったためJR旅客各社では全車消滅し、JR貨物が甲種輸送などで使用するのみである。
形式 | 所有者 | 画像 | 備考 |
---|---|---|---|
ヨ8000形 | 日本貨物鉄道・東武博物館 | 東武博物館所有分は東武鉄道「SL大樹」の保安機器積載用。 |
その他
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
脚注
[編集]関連項目
[編集][[Category:日本の鉄道関連一覧 [[Category:鉄道車両の形式称号
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無車籍の状態で使用されている貨車
[編集]千竈郷
[編集]千竈郷(ちがまのさと)は、古代から中世にかけて尾張国愛智郡に存在した郷。現在の愛知県名古屋市内に比定されるが、詳細な比定地については諸説あり不明である。
概要
[編集][[[平安時代]]中期に書かれた『倭名類聚抄』には尾張国愛智郡の郷の一つとして「千竈」を挙げる。一部写本には「千電」との記載もみられるが、これは誤記であるとするのが定説である。
比定地
[編集]古代における千竈郷の比定地は諸説あり、正確な位置である。
脚注
[編集]概要
[編集]杁(いり)は、田畑に水を引く木製の樋の一種。「杁」という漢字はいわゆる国字で、専ら愛知県でこの漢字が用いられる。愛知県は丘陵地が多く地域によっては田畑に川の水を直接引くのが困難であったため、農業に支障をきたした。そこでため池などに雨水を溜め、必要の都度農地に水を流す樋を設置する形態が見られた。池などから水を取り入れる樋が尾張地方の方言で「いり」と呼ばれており、木製であったことから木偏に入を書く字が当てられたと考えられている。地域によっても表記や読みに若干の違いが見られ、三河地方では土偏に入を書く「圦」の字が用いられた。
現在ではため池や水路の姿が一変したため、「杁」という字は専ら地名や姓といった用法に限られる。
地名との関係
[編集]脚注
[編集]港区
[編集]新田の開発
[編集]江戸時代、区域のすべてが尾張藩の領地であり、区の北部から南部は江戸時代初期に、湾岸部は名古屋港の開発により明治末期から昭和中期までに埋め立てによってできた土地である。
明治・大正期
[編集]昭和期
[編集]平成以降
[編集]行政区画の変遷
[編集]年表
[編集]- 1907年 - 愛知郡小碓村(千年・熱田新田東組・稲永新田・熱田前新田)を名古屋市域へ編入する
- 1908年 - 4区制施行時に、南区として発足する
- 1922年 - 愛知郡小碓村を南区に編入する
- 1927年 - 名古屋港跳上橋(山本卯太郎設計)が竣工される
- 1930年 - 中川運河が竣工される
- 1937年 - 10区制施行時に、港区として発足する
- 1946年7月20日 - 第1回名古屋みなと祭を開催する
- 1955年 - 海部郡南陽町を編入する
- 1959年 - 伊勢湾台風により区の全域が大規模な被害を受ける
- 1964年 - 区内在住の橋元幸吉の所有馬シンザン号が日本ダービーを制覇する(後に五冠馬になる)
- 1989年 - ガーデンふ頭(名古屋港)で世界デザイン博覧会(サテライト名古屋港会場)が開催される
- 1992年 - 名古屋港水族館が開館する
- 2000年 - 藤前干潟がラムサール条約に登録される
- 2004年 - 名古屋港がスーパー中枢港湾に指定される
- 2005年
- 2017年4月1日 - レゴランド・ジャパンオープン
愛知郡
[編集]郡域
[編集]尾張国東部、現在の愛知県東部に該当する[1]。戦国時代に山田郡の一部を編入しており、郡域は古代から現在にかけて大きく変化している[1]。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、下記の区域にあたる[注釈 1]。
- 名古屋市の大部分(守山区[注釈 2]・東区[注釈 3]の全域、中区[注釈 4]・北区[注釈 5]の大部分、および、千種区[注釈 6]・西区[注釈 7]・中村区[注釈 8]・中川区[注釈 9]・港区[注釈 9]・緑区[注釈 10]・名東区[注釈 11]の各一部を除く)
- 瀬戸市の一部(概ね西原町、高根町、東本地町、菱野町、赤重町、幡野町、原山台、菱野台、萩山台、宝ヶ丘町、若宮町、屋戸町、広久手町以南)
- 豊明市の一部(栄町・新栄町・阿野町および三崎町の一部を除く)
- 日進市・長久手市の全域
近代以前
[編集]伊勢湾東岸の丘陵地(尾張丘陵)と沖積平野からなる地域で、古くから漁労や農耕が盛んに行われてきた。熱田神宮そばの断夫山古墳は尾張最大の前方後円墳で、周囲の古墳群とともに尾張氏の陵墓だと考えられている。
郡名の由来
[編集]愛知に関連する地名は少なくとも奈良時代には見られ、『日本書紀』に「尾張国吾湯市村」と見えるのが古い[1]。古くは「あゆち」と読まれていたとされる[2]。語源については諸説あり、「あゆ」とは湧き出ることを表し湧水が多い地を表すとする説、東風を「あゆ」と呼びめでたい海上の風が吹く地とする説などがある[2]。
古代
[編集]古代、名古屋市南部すなわち熱田台地付近は半島を成しており、周囲は干潟を成した湾が入り込んでいた[3]。この干潟が「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれていた[3]。万葉集では高市黒人の歌として「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟 潮干にけらし鶴鳴き渡る」と詠まれている。また前述のように『日本書紀』には熱田神宮付近に「吾湯市村(あゆちのむら)」が存在したとの記述がみられる。
古墳時代以来の大豪族であった尾張国造(尾張氏)の系図には「年魚市評」の表記が見え、大宝律令制定以前は評として年魚市評(あゆちのこおり)が置かれていたことが分かる。「阿由知県」という県が存在したという説もある[4]。
大宝律令制定により評や県といった行政区画は郡となった。愛知郡の表記は複数あり、出土した木簡には「阿由市郡」と[5] 、712年に書かれた「神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳」には「鮎市郡」と[6]、日本書紀には「年魚市郡」と表記されている[4]。713年以降、好字二字令により表記が「愛智」あるいは「愛知」に改められたと推測され[4]、10世紀以降に編纂された延喜式[7]や和名抄には「愛智郡」と、平城京出土木簡では「愛知郡」と記載されている。なお和名抄で「愛智」は阿伊知(あいち)と訓読されている[8]。
江戸時代末期編纂の『尾張志』では、「愛知」を「あいち」と読むのは誤りであって「あゆち」が正しいという説を唱えている。
郷
[編集]938年頃に成立した和名類聚抄に「愛智郡」の郷として掲載されているのは以下の通り[8]。ただし読みが特定できるものについては括弧内に記載した。
- 中村(なかむら)
- 千竃(ちがま)
- 日部(くさかべ)
- 太毛(おおけ)
- 物部(もののべ)
- 厚田(あつた)
- 作倉(さくら)
- 成海(なるみ)
- 驛家(うまや)
- 神戸(かんべ)
式内社
[編集]神名帳 | 比定社 | 集成 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
社名 | 読み | 格 | 付記 | 社名 | 所在地 | 備考 | |
尾張国愛知郡 4座(大)13座(小) | |||||||
日置神社 | ヒオキノ | 小 | 日置神社 | 愛知県名古屋市中区橘 | |||
上知我麻神社 | カムツチカマノ カミチカマノ |
小 | 上知我麻神社 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 熱田神宮境内摂社 | ||
(論)上知我麻社 | 愛知県名古屋市南区本星崎町 | 星宮社境内社 | |||||
下知我麻神社 | シモツチカマノ シモチカマノ |
小 | 下知我麻神社 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 熱田神宮境内摂社 | ||
(論)下知我麻社 | 愛知県名古屋市南区本星崎町 | 星宮社境内社 | |||||
熱田神社 | アツタノ | 名神大 | 熱田神宮 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 尾張国三宮 | ||
御田神社 | ミタノ | 小 | (論)七所社 | 愛知県名古屋市中村区岩塚町上小路 | |||
(論)御田神社 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 熱田神宮境内摂社 | |||||
高牟神社 | タカムノ タカムクノ |
小 | (論)高牟神社 | 愛知県名古屋市千種区今池 | |||
(論)御器所八幡宮 | 愛知県名古屋市昭和区御器所四丁目4-25 | ||||||
(論)天神社 | 尾張国愛知郡八事村(江戸期当時) | 現存しない。山田郡の可能性あり | |||||
川原神社 | カハラノ カンハラノ |
小 | (論)川原神社 | 愛知県名古屋市昭和区川名本町 | |||
(論)鳴海八幡宮 | 愛知県名古屋市緑区鳴海町字前之輪49 | ||||||
針名神社 | ハリナノ | 小 | (論)針名神社 | 愛知県名古屋市天白区天白町大字平針字大根ケ越175 | 山田郡の可能性あり | ||
(論)天神社 | 名古屋市中村区烏森町字村内下66 | ||||||
伊副神社 | イフキノ イフクノ イフクリノ |
小 | (論)伊勝八幡宮 | 愛知県名古屋市昭和区伊勝町2丁目 | |||
(論)熊野社 | 愛知県名古屋市緑区熊の前2丁目 | ||||||
(論)富士浅間神社 | 愛知県愛知郡東郷町春木 | 山田郡の可能性あり | |||||
成海神社 | ナルミノ | 小 | 成海神社 | 愛知県名古屋市緑区鳴海町字乙子山85 | |||
物部神社 | モノノヘノ | 小 | (論)物部神社 | 愛知県名古屋市東区筒井 | 山田郡の可能性あり | ||
(論)御器所八幡宮 | 愛知県名古屋市昭和区御器所四丁目4-25 | ||||||
(論)天神社旧地 | 愛知県名古屋市昭和区天神町 | 御器所天満宮として御器所八幡宮境内に移転 | |||||
日割御子神社 | ヒサキミコノ ヒワリミコノ |
名神大 | 日割御子神社 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 熱田神宮境内摂社 | ||
孫若御子神社 | ヒコワカミコノ | 名神大 | (論)孫若御子神社 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 熱田神宮境内摂社 | ||
(論)若宮八幡社 | 愛知県名古屋市中区栄3丁目35-30 | ||||||
高座結御子神社 | タカクラムスヒミコノ | 名神大 | 高座結御子神社 | 愛知県名古屋市熱田区高蔵町 | 熱田神宮境外摂社 | ||
八剣神社 | ヤツルキノ ハッケンノ |
小 | 八剣宮 | 愛知県名古屋市熱田区神宮 | 熱田神宮境内別宮 | ||
火上姉子神社 | ホノカミアネコノ ヒカミアネコノ |
小 | 氷上姉子神社 | 愛知県名古屋市緑区大高町字火上山1-3 | 熱田神宮境外摂社 | ||
青衾神社 | アヲフスマノ | 小 | 青衾神社 | 愛知県名古屋市熱田区白鳥 | 熱田神宮境外摂社 | ||
凡例を表示 |
中世
[編集]尾張源氏は多くが承久の乱で京都方に加わり衰退し、室町時代には管領斯波氏の領国となっていく。さらに応仁の乱の後に守護代の織田氏一族が勢力を固め、今川氏との勢力争いの末に織田信秀が那古野城はじめ一帯を手中に収めた。織田信長は信秀の子で那古野城生まれ、豊臣秀吉も愛知郡中村生まれだと考えられている。この頃山田郡南部が併合され愛知郡の範囲が大きく拡大した。江戸時代に入ると名古屋城が築城されて城下が整備され、近郊の村々も次第に発展していく。
行政
[編集]- 歴代郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 高橋正蔵[9] | 明治11年(1878年)12月26日[9] | 明治12年(1879年)8月6日[9] | |
2 | 今宿信一[10] | 明治12年(1879年)8月6日[10] | 明治12年(1879年)11月22日[10] | |
3 | 加藤勝寿[10] | 明治12年(1879年)11月22日[10] | 明治13年(1880年)11月10日[10] | |
4 | 高木延世[10] | 明治13年(1880年)11月10日[10] | 明治14年(1881年)9月26日[10] | |
5 | 山崎徳左衛門[10] | 明治14年(1881年)9月26日[10] | 明治16年(1883年)9月26日[10] | |
6 | 高木延世[10] | 明治16年(1883年)9月26日[10] | 明治33年(1900年)9月26日[10] | 4代の再任 |
7 | 脇屋義純[10] | 明治33年(1900年)9月27日[10] | 明治35年(1902年)6月4日[10] | 碧海郡長へ転任[10]。 |
8 | 津田顕孝[10] | 明治35年(1902年)6月4日[10] | 明治41年(1908年)4月12日[10][11] | 死去に伴い辞任[10]。 |
9 | 笹原辰太郎[12] | 明治41年(1908年)5月19日[12] | 大正2年(1913年)2月26日[12] | |
10 | 井沢真民[12] | 大正2年(1913年)2月26日[12] | 大正3年(1914年)7月22日[12] | 大阪府警警視へ転任[12]。 |
11 | 内藤兼雄[12] | 大正3年(1914年)8月15日[12] | 大正5年(1916年)6月14日[12] | 知多郡長へ転任[12]。 |
12 | 保々隆矣[12] | 大正5年(1916年)6月14日[12] | 大正7年(1918年)3月31日[12] | 愛知県理事官へ転任[12]。 |
13 | 古橋卓四郎[12] | 大正7年(1918年)3月31日[12] | 大正8年(1919年)3月31日[12] | 愛知県理事官へ転任[12]。 |
14 | 伊藤喜平[12] | 大正8年(1919年)3月31日[12] | 大正10年(1921年)8月24日[12] | |
15 | 松本伊織[12] | 大正10年(1921年)8月24日[12] | 大正11年(1922年)2月27日[13] | 朝鮮総督府理事官へ転任[13]。 |
16 | 安藤戻太郎[13] | 大正11年(1922年)2月27日[13] | 大正13年(1924年)10月4日[13] | 幡豆郡長へ転任[13]。 |
17 | 安藤二郎[13] | 大正13年(1924年)10月4日[13] | 大正15年(1926年)6月30日[13] | 郡役所廃止により廃官[13]。 |
参考文献
[編集]- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年 。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 23 愛知県、角川書店、1989年3月8日。ISBN 4040012305。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 『愛知郡誌』愛知郡、1923年。NDLJP:978638。
海部郡
[編集]郡名の由来
[編集]「あま」は、古来より漁業や航海などの職業に携わった海人部(あまのべ)に由来するとされる[14]。海人部は潜水を得意とする海洋民族で、九州から当地に渡って来たとも言われる[15]。この他に単に海辺を表すとの説もある。
恵那郡
[編集]郡名の由来
[編集]一説に「恵那(えな)」とは「えあな(彫穴)」の意でえぐり取られた谷間を表すという[16]。
葉栗郡
[編集]郡名の由来
[編集]郡名は字画のとおり栗の木が多数自生しており栗の産地であったとの説があるほか[17]、「ハグ(剥ぐ)・リ(古代の接尾語)」で「浸食されやすい自然堤防」を意味したという説などがある[18]。
古代
[編集]藤原京からは「尾治国羽栗評 ・人椋椅部刀良」と書かれた木簡が出土しており、701年の大宝律令制定以前は葉栗郡の前身である羽栗評という評が置かれていたことが分かる[19]。701年の大宝律令の制定により評は郡となり、延喜式が成立した平安時代中期頃には既に「葉栗(はくり)郡」との記載がみられる[20]。
郷
[編集]938年頃に成立した和名類聚抄に「葉栗郡」の郷として掲載されているのは以下の通り[21]。ただし読みが特定できるものについては括弧内に記載した。
- 葉栗(はくり)- 現在の岐阜県羽島郡北部一帯を指すとの説がある[22]。また、7世紀代の古墳が集中するする愛知県一宮市浅井町尾関と比定する説もある[22]。葉栗郡の主郷であり、葉栗郡家が置かれていたと推測されている[22]。
- 河沼(かわぬ)- 現在の岐阜県羽島郡川島町や愛知県江南市後飛保町を中心とした地域と比定されている[22]。江南市には「河沼」(宮田町の小字)や「河野町」という地名が残り、これらの領域も含むと考えられている[22]。河沼郷も参照。
- 大毛(おおけ)
- 村國(むらくに)
- 若栗(わかくり)
阿久比町
[編集]町名の由来
[編集]一説に「あぐい」とは「あくい(畔杭)」のことで田の境界に杭を打つ意という[23]。
八田町
[編集]字一覧
[編集]八田町とその前身である愛知郡八田村の小字は以下の通り[24][25][WEB 1]。以下の表において、
- 消滅した字については背景色 で示す。
- 現存する小字のうち中村区に所在するものには★を、中川区に存在するものには■を付した。
- 括弧内には読みを示す。
字 | 字 |
---|---|
江戸免(えどめん) | 上長草(かみながくさ) |
五反田(ごたんだ) | 下長草(しもながくさ)■ |
僉議(せぎ) | 長田(ちょうだ)★ |
屋敷添(やしきぞえ)★ |
町名の由来
[編集]愛知郡八田村を前身とする。『尾張国地名考』では、正しい表記は「治田(はりた)」であり、高畑の北に位置するので開拓の時に「治田」「高畑」と対にして名付けられたとしている[26]。また湿地を意味する「やだ」に「八田」を当てたとの説もある[27]。
古代から中世
[編集]平安時代中期に書かれた『倭名類聚抄』には「海部郡八田(やた)郷」と見え、これが当地を指すとの説もあるが確証はない。
八田村
[編集]行政区画の変遷
[編集]- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行・合併に伴い、愛知郡柳森村大字八田となる[28]。
- 1906年(明治39年)5月10日 - 合併に伴い、常磐村大字八田となる[28]。
- 1921年(大正10年)8月22日 - 名古屋市中区へ編入し、同区八田町となる[28]。
- 1930年(昭和5年)6月20日 - 中区八田町字江戸免の一部を同区花池町3丁目・柳瀬町1丁目から3丁目に、字上長草の一部を花池町1丁目および2丁目に、字五反田の一部を花池町1丁目から3丁目・柳瀬町1丁目および2丁目に、字下長草の一部を花池町1丁目から3丁目・八田本町・柳瀬町1丁目および2丁目にそれぞれ編入[29]。同時に中区八田町字僉議・長田・屋敷添の各一部で小字を廃止し同区八田町とする[29]。八田区画整理組合の換地処分による(愛知県告示842号)。
- 1931年(昭和6年)11月15日 - 一部を柳瀬町へ編入[28]。
- 1932年(昭和7年)4月1日 - 一部を花池町・柳瀬町へ編入[28]。
- 1937年(昭和12年)10月1日 - 行政区変更に伴い、中川区所属となる[28]。
- 1944年(昭和19年)2月11日 - 一部が中村区へ編入され、同区八田町が成立[28][30]。
- 1977年(昭和52年)5月15日 - 中村区八田町字長田の一部を同区並木二丁目・烏森町6丁目へ編入[31]。
- 1980年(昭和55年)
- 1982年(昭和57年)8月29日 - 中川区高畑町の一部を同区八田町へ編入[28]。
徳重
[編集]町名の由来
[編集]鳴海町の小字名「徳重」による。字名は、14世紀頃に「得重保」と呼ばれる保が存在したことに由来する。
近代以前
[編集]古くは相原と呼ばれる領域の一部であった[34]。当地には愛知郡の豪族と言われる花井氏が室町時代頃に移住しており、花井氏が古くから居住している[34]。戦後に開発されるまでは当地は雑木林に覆われた地であったという。
船方新田
[編集]船方新田(ふなかたしんでん)は、1675年(延宝3年)に船奉行あった横井作左衛門の申請により舟役人らが堤築した新田である。「船方」という名称は船大工や船方とも呼ばれた船頭が多く住んでいたことに由来するという。10町ほどの大きさであり、「熱田三ヶ浦船方新田」とも呼ばれた。
鳴海町 (名古屋市)
[編集]鳴海町は、愛知県名古屋市緑区の地名。現在は106の小字を持つ。
地理
[編集]字一覧
[編集]字 | 読み | 備考 |
---|---|---|
相原郷 | かみのうはく | |
相原町 | こしろ | |
赤塚 | じぞうまえ | |
赤松 | しもきろう | |
有松裏 | だいもんにし/たいもんにし | |
雷 | だいもんひがし/たいもんひがし | |
池上 | たかまつ | |
石田 | ていほうにし | |
石上 | とうどうやしき/とうとうやしき | |
石堀山 | ねんぶついけ/そうふついけ | |
上中町 | みやまど/みやまと | |
上ノ山 | やまとがいけ/やまとかいけ | |
姥子山 | ろくたいけ | |
会下 | ろくたいけ | |
大清水 | ろくたいけ | |
大根 | ろくたいけ | |
尾崎山 | ろくたいけ | |
御茶屋 | ろくたいけ | |
猫池 | そこいけ | |
七女子 | しちにょし |
歴史
[編集]脚注
[編集]=
一社
[編集]一社 | |
---|---|
北緯35度10分0.83秒 東経136度59分55.45秒 / 北緯35.1668972度 東経136.9987361度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県 |
市町村 | 名古屋市 |
区 | 名東区 |
町名制定 | 1974年(昭和49年)11月15日 |
面積 | |
• 合計 | 0.52588743 km2 |
人口 | |
• 合計 | 6,461人 |
• 密度 | 12,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
465-0093[WEB 4] |
市外局番 | 052(名古屋MA)[WEB 5] |
ナンバープレート | 名古屋 |
猪高町大字一社 | |
---|---|
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県 |
市町村 | 名古屋市 |
区 | 名東区 |
町名制定 | 1889年(明治22年)10月1日 |
面積 | |
• 合計 | (統計なし) km2 |
人口 (2020年(令和2年)11月1日現在)[WEB 3] | |
• 合計 | (統計なし)人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
465-0000 |
市外局番 | 052(名古屋MA)[WEB 5] |
ナンバープレート | 名古屋 |
一社(いっしゃ)は、愛知県名古屋市名東区の地名。現行行政地名は一社一丁目から一社四丁目および猪高町大字一社[WEB 6]。住居表示未実施[WEB 6]。
地理
[編集]名古屋市名東区西部に位置する[35]。東は上社四丁目・貴船一丁目、西は千種区、南は亀の井、北は高社・社台三丁目に接する[35]。
猪高町大字一社は、字兼原が猪高緑地のアーチェリー場のごく僅かな区画に残存するのみである[WEB 1]。東は猪高町大字上社、西は社が丘に接する[WEB 1]。
字一覧
[編集]猪高町大字一社とその前身である愛知郡一社村の小字は以下の通り[36][37][WEB 1]。消滅した字については背景色 で示す。
字 | 字 |
---|---|
赤穂出(あかほで) | 足狭間(あしばさま) |
荒幡(あらはた) | 杁田(いりた) |
後田上(うしろだかみ) | 後田下(うしろだしも) |
落田(おちだ) | 片塚(かたつか) |
兼原(かねはら) | 上打越(かみうちこし) |
下打越(しもうちこし) | 瓶ノ井(かめのい) |
越前(こしまえ) | 中打越(なかうちこし) |
中根通上(なかねどおりかみ) | 中根通下(なかねどおりしも) |
向田(むかいだ) | 下田(しもだ) |
西浦(にしうら) | 藤塚(ふじつか) |
前山(まえやま) | 町田(まちだ) |
松下(まつした) | 的場(まとば) |
明見前(みょうけんまえ) | 山ノ田(やまのた) |
陸之前(りくのまえ) |
字ごとの概説
[編集]ここでは猪高町大字一社(旧領域も含む)の地域について主な字ごとに解説する。
- 足狭間
- 1882年(明治15年)当時は「足挟間(あしばさま)」とある。
- 荒幡
- 1882年当時は「荒幡(あらばた)」とある。字名は新しく開墾された畑であることに由来するという。
- 杁田
- 名に水田を引く樋の一種である杁があったのだという。
- 後田
- 字としては「後田上」「後田下」があった。字名は、集落の北側に存在したことに由来する。
- 打越
- 字としては「上打越」「中打越」「下打越」があった。「打越」とは峠を越すという意味であるという。
- 瓶ノ井
- 1882年当時は「瓶之井(かめのい)」とある。字名の由来については、瓶が出土したとする説もあるが、「上の池」の転訛とする説が有力である。現行地名の亀の井は当字に由来する。1974年(昭和49年)に一社二・四丁目、亀の井一~三丁目、神里一丁目、高間町に編入された。
字 | 読み | 備考 |
---|---|---|
兼原 | かねはら/かねわら | |
赤穂出 | あかほで | |
足狭間/足挟間 | あしばさま | |
荒幡 | あらはた/あらばた | 新しく開墾された畑であることに由来する。 |
杁田 | いりた | 水田に水を引く樋「杁」があったことに由来する。 |
後田上 | うしろだかみ | 集落の北側に存在したことに由来する。 |
後田下 | うしろだしも | |
落田 | おちだ | |
片塚 | かたつか/かたづか | |
上打越 | かみうちこし | 打越は峠を越すという意味であるという。 |
中打越 | なかうちこし | |
下打越 | しもうちこし | |
瓶ノ井/瓶之井 | かめのい | 亀の井も参照。 |
越前 | こしまえ | |
中根通上 | なかねどおりかみ/ なかねとおりかみ |
道が尾根の中心を走っていることに由来する。 |
中根通下 | なかねどおりしも/ なかねとおりしも |
|
向田 | むかいだ/むこうだ | 植田川を越えた向こう側にあった田であることに由来する。 |
下田 | しもだ | |
西浦 | にしうら | |
藤塚 | ふじつか | 富士浅間社という祠を祭ったことに由来する。 |
前山 | まえやま | |
町田 | まちだ/ちょうだ/ ちょうのだ |
|
松下 | まつした | |
的場 | まとば | 弓を射る的場が存在したことに由来する。 |
明見前 | みょうけんまえ | 明見寺という寺があったという。 |
山ノ田/山之田 | やまのた | |
陸之前 | りくのまえ | 陸前町も参照。 |
歴史
[編集]町名の由来
[編集]後述のとおり、愛知郡一色村と下社村が合併した際に、両村の名称を組み合わせた村名をつけたことによる[38]。ただし、このときの読みは「いちやしろ」であり、のち「いっしゃ」と読みが変わった。
沿革
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 1878年(明治11年)12月28日 - 愛知郡一色村と同郡下社村の合併により、一社村が成立[39]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 合併に伴い、愛知郡高社村大字一社となる[39]。
- 1906年(明治39年)5月10日 - 合併に伴い、愛知郡猪高村大字一社となる[39]。
- 1955年(昭和30年)4月5日 - 合併に伴い、名古屋市千種区猪高町大字一社となる[39]。
- 1974年(昭和49年)11月15日 - 千種区猪高町高針・猪高町一社の各一部により一社二丁目が、猪高町一社の一部により一社四丁目が成立する[39]。瓶ノ井土地区画整理組合の換地処分に伴う[40]。
- 1975年(昭和50年)2月1日 - 名東区編入に伴い、同区一社二丁目と一社四丁目となる[39]。
- 1976年(昭和51年)10月3日 - 名東区猪高町一社および猪高町高針の各一部により一社一丁目が、猪高町一社および猪高町上社の各一部により一社三丁目がそれぞれ成立する[39]。また、既存の二丁目および四丁目にそれぞれ猪高町一社の一部が編入される[39]。西一社土地区画整理組合の換地処分に伴う[40]。
- 1984年(昭和59年)2月11日 - 三丁目に猪高町上社の一部が編入される[39]。上社土地区画整理組合の換地処分に伴う[40]。
- 1986年(昭和61年)8月31日 - 四丁目に猪高町一社の一部が編入される[39]。東一社土地区画整理組合の換地処分に伴う[40]。
猪子石
[編集]猪子石 | |
---|---|
北緯35度11分8.3秒 東経137度0分8.7秒 / 北緯35.185639度 東経137.002417度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県 |
市町村 | 名古屋市 |
区 | 名東区 |
町名制定[41] | 1986年(昭和61年)5月3日 |
面積 | |
• 合計 | 0.373962179 km2 |
人口 | |
• 合計 | 3,598人 |
• 密度 | 9,600人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
465-0021[WEB 8] |
市外局番 | 052(名古屋MA)[WEB 5] |
ナンバープレート | 名古屋 |
猪高町大字猪子石 | |
---|---|
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県 |
市町村 | 名古屋市 |
区 | 名東区・千種区 |
面積 | |
• 合計 | 0.093427407 km2 |
人口 | |
• 合計 | 174人 |
• 密度 | 1,900人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
464-0012(千種区)[WEB 10] |
市外局番 | 052(名古屋MA)[WEB 5] |
ナンバープレート | 名古屋 |
猪子石(いのこいし、いのこし)は、愛知県名古屋市名東区および千種区の地名。町名としては名東区猪高町大字猪子石および猪子石一丁目から猪子石三丁目、千種区猪高町大字猪子石が存在する。
地理
[編集]猪子石一〜三丁目は名古屋市名東区北部に位置し、西は山の手三丁目、東は猪高町大字猪子石、南は文教台一丁目・猪高台一丁目、北は香流三丁目・香南一〜二丁目に接する[35]。
名東区猪高町大字猪子石は字鱣廻間が明徳公園の西半分(東半分は猪高町大字藤森)に残るほか、香流川沿いの僅かな区画にも残存する[WEB 1]。千種区猪高町大字猪子石は出来町通の南側、千代田橋と汁谷町に挟まれた区域に残存している[WEB 1]。
名古屋市北東部の良好な住宅地を形成している。
字 | 読み | 区 | 備考 |
---|---|---|---|
油田 | あぶらでん/あぶらだ | 名東区 | |
猪尻 | いのしり | ||
鱣廻間[注釈 12] | うなぎばさま/うなぎはさま | タウナギが多くいたことに由来するという。 | |
延珠 | えんじゅ/えんしゅ | 延珠町も参照。 | |
香流 | かなれ | 香流も参照。 | |
上垣外 | かみがいと | ||
神ノ木 | かみのき | ||
上八反田 | かみはったんだ | ||
下八反田 | しもはったんだ | ||
九合田 | くごうた/くごた | ||
下坪 | しもつぼ/しものつぼ | ||
土久尻 | つちくじり | ||
中島 | なかじま/なかしま | ||
如来道 | にょらいどう/にょらいと | 「如来堂」存在したという。 | |
引山 | ひきやま | 引山も参照。 | |
広田 | ひろた | ||
水汲坂 | みずくみさか/みずくみざか | ||
猪々道 | ししみち/ししのみち | 千種区 | |
山之端/山ノ端 | やまのはし/やまのはな | ||
北比良 | きたひら/きたひろう | ||
丸根 | まるね | ||
社口 | しゃぐち | 社口も参照。 | |
姥ヶ谷 | うばがたに/うばがた | ||
上菅廻間 | かみすげばさま/かみすげはざま/ かみすげのさま/かみすげはさま |
上菅 (名古屋市)も参照。 | |
下菅廻間 | しもすげばさま/しもすげはざま/ しもすげのさま/しもすげはさま |
||
東島 | ひがしじま | ||
化者業 | かしゃご | ||
名流 | ななれ/ながれ | ||
上道池/上道地 | かみどうち/かみどうじ/ かみとうじ |
||
下道池/下道地 | しもどうち/しもどうじ/ しもとうじ |
||
山ノ手 | やまのて | 山の手 (名古屋市)も参照。 | |
赤坂 | あかさか | ||
赤松 | あかまつ | 赤松台 (名古屋市)も参照。 | |
山ノ田 | やまのた | ||
地アミ/地網 | じあみ | ||
亀鳥 | かめどり/かめとり | ||
蓬来洞 | よもぎほら | よもぎ台も参照。 | |
八畝町 | やせまち/はせまち | ||
濁池 | にごりいけ | ||
高根 | たかね | ||
西洞 | にしほら | ||
小坂 | こさか | ||
深場 | ふかば | ||
打越 | うちこし | ||
前山 | まえやま | ||
京命 | きょうめい/きょうめ | 京命も参照。 | |
八前 | はちまえ | 八前も参照。 | |
栂廻間/栅廻間 | とばさま/とがさま/ とかさま/とがはざま |
||
南久留里/南久留利 | みなみくるり | ||
北久留里/北久留利 | きたくるり | ||
大畑田 | おおはただ | ||
八幡 | はちまん | ||
大林 | おおばやし/おはやし | ||
竹越/竹ノ越 | たけこし/たけのこし | 竹越も参照。 | |
上竹越/上竹ノ腰 | かみたけこし/かみたけのこし | ||
下竹越/下竹ノ腰 | しもたけこし/しもたけのこし | ||
梶田 | かじた | ||
野田 | のだ | ||
榎ノ木 | えのき | ||
下田 | しもだ/しもた | ||
西山 | にしやま | 新西も参照。 | |
新屋敷 | しんやしき | 新西も参照。 | |
宮根 | みやね | 宮根台も参照。 | |
交換 | こうかん | 猪子石原村字新引山と交換した土地であることに由来する。 | |
東浦 | ひがしうら | ||
福寿洞 | ふくじゅほら |
主な評
[編集]木簡や文献において存在が確認できる主な評を以下にまとめる。
国名 | 評名 | 郡制施行後の郡名 | 備考 | 典拠 |
---|---|---|---|---|
大和国(倭国) | 所布評 | 添上郡、添下郡 | [1] | |
忍海評 | 忍海郡 | [2] | ||
山城国 | 弟国評 | 乙訓郡 | [3] | |
河内国 | 川内評 | 河内郡 | [4] | |
高安評 | 高安郡 | [5] | ||
丹比評 | 丹比郡 | [6] | ||
伊賀国 | 奈波利評 | 名張郡 | [7] | |
伊勢国 | 朝明評 | 朝明郡 | [8] | |
安怒評 | 安濃郡 | [9] | ||
飯高評 | 飯高郡 | [10] | ||
猪名部評 | 員弁郡 | [11] | ||
河曲評 | 河曲郡 | [12] | ||
三重評 | 三重郡 | [13] | ||
参河国(三川国) | 青見評 | 碧海郡 | [14] | |
飽海評 | 渥美郡 | [15] | ||
鴨評 | 賀茂郡 | [16] | ||
各田評 | 額田郡 | [17] | ||
波豆評 | 幡豆郡 | [18] | ||
穂評 | 宝飯郡 | [19] | ||
尾張国(尾治国) | 海評 | 海部郡 | [20] | |
年魚市評 | 愛智郡 | 尾張氏系図 | ||
春部評 | 春部郡 | [21] | ||
尓破評 | 丹羽郡 | 「尓皮評」との表記も見られる。 | [22][23] | |
知多評 | 智多郡 | 「知田評」との表記も見られる。 | [24][25] | |
羽栗評 | 葉栗郡 | [26] | ||
山田評 | 山田郡 | [27] | ||
遠江国(遠水海国) | 荒玉評 | 麁玉郡 | [28] | |
渕評 | 敷智郡 | [29] | ||
長田評 | 長上郡 | [30] | ||
駿河国 | 珠流河評 | 駿河郡 | [31] | |
伊豆国 | 鴨評 | 賀茂郡 | [32] | |
売羅評 | [33] | |||
武蔵国(无耶志国) | 仲評 | 那珂郡 | [34] | |
横見評 | 横見郡 | [35] | ||
安房国(上捄国) | 阿波評 | 安房郡 | [36] | |
上総国 | 馬来田評 | 望陀郡 | [37] | |
近江国 | 阿佐為評 | 浅井郡 | 「浅井評」との表記も見られる。 | [38][39] |
伊香評 | 伊香郡 | [40] | ||
衣知評 | 愛智郡 | [41] | ||
坂田評 | 坂田郡 | [42] | ||
安評 | 野洲郡 | [43] | ||
美濃国(三野国) | 厚見評 | 厚見郡 | [44] | |
安八麻評 | 安八郡 | [45] | ||
刀支評 | 土岐郡 | [46] | ||
大野評 | 大野郡 | [47] | ||
各牟評 | 各務郡 | [48] | ||
加尓評 | 可児郡 | [49] | ||
加毛評 | 賀茂郡 | [50] | ||
不破評 | 不破郡 | [51] | ||
ム下評 | 武芸郡 | 「ム」は「牟」の異体字 | [52] | |
山方評 | 山県郡 | [53] | ||
信濃国(科野国) | 伊奈評 | 伊那郡 | 「伊那評」との表記も見られる。 | [54][55] |
上野国(上毛野国) | 車評 | 群馬郡 | [56] | |
大荒城評 | 邑楽郡 | 飛騨国荒城郡との説もある。 | [57] | |
碓日評 | 碓氷郡 | [58] | ||
佐為評 | 佐位郡 | [59] | ||
下野国(下毛野国) | 芳宜評 | 芳賀郡 | [60] | |
奈須評 | 那須郡 | [61] |
ダウケミカル
[編集]種類 | 子会社 |
---|---|
市場情報 | (2016年12月8日上場廃止) |
本社所在地 |
アメリカ合衆国 ミシガン州ミッドランド |
設立 | 1897年 |
業種 | 化学 |
代表者 | |
資本金 |
22,281 Million US$ (2011年12月31日時点)[42] |
発行済株式総数 |
1,185,372,310 株 (2012年1月31日時点)[43] |
売上高 | 連結:$55.58 billion(2017年12月) |
営業利益 | 連結:$5.918 billion(2018年12月) |
純利益 | 連結:$4.499 billion(2018年12月) |
純資産 | 連結:$27.969 billion(2018年12月) |
総資産 | 連結:$77.378 billion(2018年12月) |
従業員数 | 54000 人(2018年12月) |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 | ダウ(100%) |
関係する人物 | ハーバート・ヘンリー・ダウ (創業者) |
ザ・ダウ・ケミカル・カンパニー(The Dow Chemical Company)は、アメリカ合衆国ミシガン州ミッドランドに本拠を置く世界最大級の化学メーカーである。
1897年に漂白剤と臭化カリウムの製造メーカーとして誕生した。1999年にはユニオンカーバイドを930億ドルで買収し、デュポンに代わり世界最大の化学メーカーとなった。2008年にはイオン交換樹脂の製造で世界トップの無機化学メーカー、ローム・アンド・ハースを188億ドルで買収した。
歴史
[編集]黎明期
[編集]ダウ・ケミカルは、ハーバート・ヘンリー・ダウによって1897年に設立された。ハーバート・ヘンリー・ダウは、ミシガン州ミッドランド[注釈 13]の地下に存在した鹹水を電気分解し臭素を効率的に抽出する方法を発明した。これにより1890年に「ミッドランドケミカル」を 1895年に「ダウプロセス」を設立し、ミッドランドに工場を建設[注釈 14]。臭素の販売を開始した。ダウが開発した臭素の抽出方法は、それまでの鹹水を二酸化マンガンで処理する方法に比べて効率的で画期的なものであった。この際に出る廃液からマグネシウムや塩素を抽出するために設立されたのが「ダウ・ケミカル」である。1900年に3社は合併し「ダウ・ケミカル」となった。ダウは当初、漂白剤や臭化カリウムのみを販売しており、1902年には1日あたり72 トンの漂白剤の生産能力を保有した。設立当初、あるイギリスの企業がダウを漂白剤製造の業界から追放するため漂白剤の値下げを行った。それに対抗してダウも値下げや90000 ドルもの代償をかけた取り扱い品目を多様化を行い存続を図った。1905年には、ドイツの臭素の生産会社がダウのヨーロッパでの市場拡大を防ぐためアメリカに低価格で臭素を投げ売りし始めた。このときダウはドイツ企業との直接的な競争はせず、かわりにドイツ企業が販売する格安の臭素を買い取りヨーロッパに再輸出した。この行為はドイツ企業にとって不利に働いた。こうしてダウは市場拡大・取り扱い品目の多様化を図り、設立からわずか20年もの間に農業関連薬品やフェノール、塩素、染料、マグネシウムなどの大手メーカーとなった。
第一次世界大戦中、ダウはそれまアメリカがドイツから輸入していた多くの軍事物資を代わりに供給した。例えば、焼夷弾用のマグネシウム、爆薬用のクロロベンゼンやフェノール、薬剤や催涙ガス用の臭素といったものである。1918年までダウの製品のうち90 %が戦争努力に当てられた。この頃、ダウは現在まで用いられているダイヤモンド型のロゴを使用し始めた。戦後もマグネシウムやより燃費が良く高速である自動車用ピストンの開発を進めた。ダウのピストンは自動車レースで広く採用され、1921年のインディアナポリス500の優勝車にはダウのピストンが用いられていた。
1930年代、後にダウのピストン主力商品となるプラスチック用樹脂の製造が始まった。最初のプラスチック製品は、1935年製造のエチルセルロースで、1937年にはポリスチレンも製造された。
拡大期
[編集]1940年から1941年、これまで鹹水から抽出してたマグネシウムを海水から抽出するプラントをテキサス州フリーポートに建設した。フリーポートに建設したプラントはダウグループや国内でも最大級のものであった。フリーポートでは、すぐに苛性ソーダ、エチレン、塩素なども製造し始め発展した。第二次世界大戦中、ジュラルミンが航空機に用いられたことからマグネシウムの製品産業は大いに成長した。2002年から2003年の統計ではフリーポートで製造された製品はダウグループ全体の21 %にあたる270億ポンドにのぼるという。1942年、スチレンブタジエンゴムに用いられるスチレンを製造するためカナダのオンタリオ州サーニアに海外拠点を開設。戦時中、ダウ・ケミカルはコーニング社と合弁会社「ダウコーニング」を設立し、軍事用のシリコン(後に一般販売向け)の製造を開始した。
1942年、アメリカ東海岸で唯一海水から臭素を製造するエチルダウ社(Ethyl-Dow Chemical Co.)のプラント(ノースカロライナ州キュアビーチに所在)がドイツのUボートによって攻撃された。
戦後、ダウ・ケミカルは海外進出を図り、1952年に日本に初の子会社を設立した。以後すぐに他国にも子会社を設立していった。1953年、プラスチック事業の成長を基にサランラップを皮切りに消費者向け製品の部門を開設した。化学製品及びプラスチック製品の売上増大により、1964年には10億ドル、1972年には20億ドルの売上高を越えた。
核兵器
[編集]1951年から1975年にかけて、コロラド州デンバー近郊にロッキーフラッツを操業した。ロッキーフラッツは核兵器の製造施設であり、プルトニウム誘発の水素爆弾を製造した。ダウ・ケミカル操業下のロッキーフラッツは、汚染と核廃棄物の漏洩に悩まされた。1957年、施設内で火災がプルトニウム粉塵を焼き、放射線物質が大気に放出された。1975年、アメリカ合衆国エネルギー省が施設の運営をロックウェル・インターナショナルに移管した。
1990年、周辺住民が周辺地域が汚染を受けたとしてダウ・ケミカル及びロックウェル・インターナショナルに対し集団訴訟を起こした。この訴訟は2017年に和解が成立し、3億7500万ドルの和解金が支払われた。上級裁判所によれば、集団訴訟が起こされた地域の所有物に対する被害や身体的影響は確認されてないという。
ベトナム戦争
[編集]アメリカ軍はベトナム戦争中、北ベトナムにナパーム弾を投下した。ダウ・ケミカルは1965年からアメリカ政府と契約しナパームBを製造をした企業の一つであった。反対や否定的な意見により他の企業は製造を中止したため、ダウが唯一の製造企業となった。反戦団体によるボイコットやリクルーターの大学構内での嫌がらせにあったが、ダウは1969年までナパームBの製造を続けた。アメリカは1973年までナパーム弾の投下を続けた。
ダイオキシンを含む枯葉剤であるオレンジ剤の製造を行ったのもダウであった。オレンジ剤は、ニュージーランドのニュープリマス、ミシガン州ミッドランドで製造され、マラヤ危機中イギリス軍やベトナム戦争中のアメリカ軍で使用された。2005年、ベトナムの枯葉剤による被害者がダウ・ケミカル及びモンサントに対し訴訟を起こしたが、退けられた。2012年、モンサントは、ウェストバージニア州ニトロの元モンサント社の社員や市民による訴訟に対して9300万ドルの和解金を支払った。ニトロでは1949年にオレンジ剤の生成過程で使用される2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸のタンクが破裂していた。ミシガン州ミッドランド本社による被害に対しては賠償はされておらず、本社側は証拠の提出を拒否している。
ダウコーニングに対する訴訟
[編集]豊胸手術に用いられるシリコンの主要メーカーであるダウコーニングは、インプラトの破裂により被害を受けたとして提訴された。2005年10月6日、同社に対する未解決の訴訟はすべて退けられた。全米医学アカデミーなどの多くの科学的な文献によれば乳房インプラトが乳がんやその他の疾患を引き起こすことはないと示している。
ボパール化学工場事故
[編集]2001年、ユニオンカーバイドはダウ・ケミカルの子会社となった。ダウ・ケミカルがユニオンカーバイドを吸収合併する17年前の1984年、ユニオンカーバイドの子会社「ユニオンカーバイドインディア」の殺虫剤製造プラント(インドボパール)でボパール化学工場事故が発生した。イソシアン酸メチルを含んだ気体がプラントの周辺地域に噴霧され、およそ50万人に曝された。現在でも、正確な死者数は分かっていない。公式の発売によれば死者数は2259人で、マディヤ・プラデーシュの行政府は3787人がガス噴霧に関連して死亡したことを確認している。ユニオンカーバイドはインド政府から訴訟を受け、1989年に4億7000万ドルの和解金を支払うことで合意した。2010年、ユニオンカーバイドインディアの8人の重役の過失が認められ、有罪となった。活動家はダウ・ケミカルに対して、現在マディヤ・プラデーシュ行政府の管理下にある工場の継続的な洗浄の責任があるとしている。
DBCP
[編集]1970年代後半まで、ダウ・ケミカルは1,2-ジブロモ-3-クロロプロパン(通称:DBCP)を燻蒸剤や殺線虫剤として販売していた[注釈 15]。1970年代後半からDBCPの危険性について認知され、アメリカ合衆国内での使用は禁止となり販売した製品も回収された。しかしドール・フード・カンパニーがDBCPを供給するようダウに要求したため、結果的に供給することとなった。ドール社は、南アメリカのバナナ農園でDBCPを使用し続けた。
プランテーションの労働者は、これらの商品が不妊や深刻な病気を引き起こしていると主張し、ダウ・ケミカルとドール社を南アメリカの裁判所に提訴した。
その後ニカラグアの裁判所は原告に6億ドルの賠償を認めたが、会社から賠償金は支払われなかった。さらに2007年11月5日、原告はアメリカロサンゼルスの裁判所に訴訟を起こし320万ドルの賠償の判決が出たが、ダウとドールは上訴した。しかし2009年4月23日、ニカラグアの弁護士が不正に原告を雇い、詐欺や強要を行ったことが判明し、これら二つの判決は棄却された。また実験データに実際にはドール社で働いてない人物が含まれるなど改竄が見られた。このような詐欺事件が判明したため、DBCPの被害に関する裁判は損なわれることとなってしまった。
合併と分割
[編集]2015年12月11日、全額株式交換でデュポンと合併することを発表した。合併により誕生した企業は「ダウ・デュポン」となり、推定価値は1300億ドルとなった。新会社の株式は両社の株主に等しく保有され、両社の本社(ミッドランド、デラウェア)でそれぞれ運営された。ダウ・ケミカルのCEOアンドリュー・N・リバリスは会長に、デュポンCEOのエドワード・D・ブリーンはCEOにそれぞれ就任した。2017年1月まで規制当局の承認を待ち、合併は二度に渡り延期された。
また同時にダウは、ダウコーニングを48億ドルとヘムロック半導体社(Hemlock Semiconductor Corporation)の株式約40 %で合併することを発表した。
しかし合併が完了して二年以内にダウ・デゥポンは、農業・化学・特殊化学製品に焦点を当てた三社に分割されることとなった。2019年、ダウ・デュポンは合併を解消し、スピンオフする形でダウ(Dow Inc.)が設立された。 ダウはその時点から上場企業となり、ダウ・ケミカルの直接の親会社となった。
関連会社
[編集]- ダウ・ケミカル日本(分割後) - 同社(以下、米国本社)の日本法人で、法人格は株式会社(法人番号:7010703003275)。分割前のダウ・ケミカル日本(現・ダウ・アグロサイエンス日本)の組織分割に伴い2016年9月20日、「CHPM日本合同会社」として設立。2017年、分割前のダウ・ケミカル日本(現・ダウ・アグロサイエンス日本)の化学品等事業を継承。2018年6月6日、株式会社に改組[44]。2019年2月1日、現行社名に変更[44]。本社は、東京都品川区東品川2丁目2番24号[44]。資本金4億円。ダウ・ジャパン・ホールディングスの完全子会社。化学製品の製造、輸入、販売などを行う。
- ダウ・アグロサイエンス日本 - 法人格は株式会社(法人番号:2010701005443)。1974年設立で、旧社名は「ダウ・ケミカル日本」。ダウ・ケミカルの日本法人として中心的な役割を果たしてきた。2017年8月1日に組織が分割され、農業関連事業のみを引き継ぎいで現行社名となり、その他の事業をCHPM日本(現・ダウ・ケミカル日本、上記)に継承した。なお本社は2018年10月2日に東京都品川区東品川2丁目2番24号から東京都千代田区永田町2丁目11番1号に変更している。
- ダウ・ジャパン・ホールディングス - 法人格は、株式会社(法人番号:7010703003309)。2016年10月19日「TULP日本合同会社」として設立。2018年、CHPM日本(現・ダウ・ケミカル日本、上記)の管理事業をローム・アンド・ハース電子材料から継承。同年6月6日に現社名に変更。ダウ・ケミカル日本の持株会社。本社は、東京都品川区東品川2丁目2番24号。
- 日本アクリル化学 - ダウ・ケミカル日本の完全子会社で[45]、法人格は株式会社(法人番号:2010701024410)。本社はダウ・ケミカル日本と同じく東京都品川区東品川2丁目2番24号[46]。1962年12月設立[47]。旧社名は「日本アクリル化学工業」。もとはローム・アンド・ハース・ジャパン(現・DDPスペシャルティ・プロダクツ・ジャパン)の関連法人であったが、2008年にローム・アンド・ハースがダウケミカル傘下に入ったため、ダウケミカル日本の子会社となった。自動車の車体や建築物の塗装材(アクリルエマルション、アクリル樹脂)などの化学製品を製造[48]。愛知県名古屋市港区船見町に唯一の生産拠点である名古屋工場を保有していた[45]。しかし国内需要の落ち込みから工場閉鎖が計画され、労働組合による反対があったが2020年9月に名古屋工場を閉鎖した[45]。
- ダウ・東レ - 東レとダウ・シリコーン・ホールディング・ジャパンとの合弁会社。シリコーンを中心とする素材の研究開発、製造、販売を行う。2018年6月22日設立。
- ダウ・シリコーン・ホールディング・ジャパン - 法人格は、合同会社(法人番号:6010703003284)。2016年9月28日、「ピーク・スペシャルティ・ポリマーズ日本」として設立。2018年6月12日、現行社名に変更。ダウ・東レの株式の65%を保有。本社は、東京都品川区東品川2丁目2番24号。
- ローム・アンド・ハース電子材料 - 法人格は、株式会社(法人番号:9010701024412)。旧ローム・アンド・ハースの完全子会社。プリント基板用のめっき薬品の製造・販売などの特殊化学品事業を行っている。1976年1月設立、本社は東京都千代田区永田町2丁目11番1号。資本金4億6000万円。新潟県阿賀野市に笹神工場を保有する。2016年8月1日に日本リーロナール有限会社[注釈 16]を吸収合併。
- DDPスペシャルティ・プロダクツ・ジャパン - 法人格は株式会社(法人番号:1010701024411)[注釈 17]。旧ローム・アンド・ハースの日本法人。イオン交換樹脂や接着剤などの製造を福島県相馬市など日本国内三箇所の工場で行っている。1956年に「東京有機化学工業」の名称でローム・アンド・ハースと日本企業の合弁会社として東京都北区に設立[49]。1991年、ローム・アンド・ハースの完全子会社化[49]。1993年東京工場を閉鎖、同年相馬工場を操業開始[49]。1995年に社名を「ローム・アンド・ハース・ジャパン」に変更[49]。2009年、ダウ・ケミカル傘下[49]。2017年8月1日、社名を一時的に「ダウ・ケミカル日本」に変更。2019年2月1日、現行社名に変更。同年2月5日、本社を東京都品川区東品川2丁目2番24号から東京都千代田区永田町2丁目11番1号に変更。
- ニッタ・ハース - ゴムベルトメーカーのニッタと旧ローム・アンド・ハースの合弁企業。シリコンウェハー用の研磨パッド・研磨剤の製造・販売を行っている。
- ダウコーニング - コーニングと折半出資の元合弁企業で2016年よりダウの完全子会社。シリコーンなどの製造を行う。
過去の関連会社
[編集]- デュポン・スタイロ - 法人格は、株式会社(法人番号:3010701005442)。1982年5月25日にダウ・ケミカル日本(現・ダウ・アグロサイエンス日本)と住友化学との共同出資で「ダウ化工」として設立。2019年5月1日、ダウ・デゥポンの会社分割に伴い現行社名に変更し、デゥポンと住友化学の出資会社となる。同時に、本社を東京都品川区東品川2丁目2番24号から東京都千代田区永田町2丁目11番1号に移転。米国本社独自の技術が採用されている建築資材・スタイロシリーズの製造・販売を行う。
- 旭ダウ - 旭化成工業(現・旭化成)との合弁企業で、サランラップなどの製造発売元だったが、1982年に合弁を解消し、法人としては旭化成工業に吸収合併された。
- 住友ダウ - 住友化学との折半出資。2010年9月末にダウ・ケミカル保有の同社株式をスタイロンホールディングB.V.へ譲渡、2011年4月に住化スタイロン ポリカーボネート株式会社へ商号変更。なお旧会社(旧住友ダウ)については日本A&L(住友化学と三井化学の合弁(出資比率 - 17:3))も参照。
- NUC - 東燃化学とユニオンカーバイド(のちに同社が買収し子会社となる)の共同出資。2013年7月に東燃ゼネラル石油(現:JXTGエネルギー)の完全子会社。旧「日本ユニカー」。
- ニチゴー・モートン - 日本合成化学工業と旧ローム・アンド・ハースの合弁企業。プリント基板用の保護フィルム・樹脂の製造販売を行っている。
- 東洋モートン - 東洋インキ製造と旧ローム・アンド・ハースの合弁企業。包装資材用接着剤の製造・販売を行っている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 町名変更区域の境界は不詳。
- ^ 全域が東春日井郡。
- ^ 全域が名古屋区・西春日井郡。
- ^ 大部分が名古屋区。
- ^ 大部分が西春日井郡。ごく一部が東春日井郡
- ^ 一部が東春日井郡・西春日井郡。
- ^ 一部が名古屋区・西春日井郡。
- ^ ごく一部が西春日井郡
- ^ a b 一部(庄内川の西岸)が海東郡。
- ^ 一部が知多郡。
- ^ 一部が東春日井郡。
- ^ 「鱣」が環境依存文字であるため「鰻廻間」「うなぎ廻間」「ウナギ廻間」とも表記される。また1882年時点では「鱣」が魚偏に「覀」+「旦」で表される外字で記載されていた。
- ^ ミッドランドでは鹹水を用いた産業が1880年代に既に始まっていたという。
- ^ 現在でもミッドランドにはダウ・ケミカルの拠点工場がある。
- ^ 商品名は「Nemagon」「Fumazone」。
- ^ 法人番号:9010702015385。本社は東京都品川区東品川二丁目2番21号。1970年6月にリーロナール社とメルテックスとの合弁で設立された企業。プリント基盤、半導体などに用いられるめっき薬品の研究を行っていた。
- ^ 国税庁法人番号公表サイトにおいて類似した名称の「ローム・アンド・ハース・ジャパン・ホールディングス有限会社」(法人番号:8010702015386)という企業が存在する。
出典
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