ホンダF1の年表
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ホンダF1の年表では、本田技研工業(ホンダ)によるフォーミュラ1(F1)参戦についての出来事を年表形式に掲載する。
- 各見出しの「年」は参戦した期間を示している。各節の内容には参戦前後の年の関連する出来事を含んでいる。
- F1全体に関する事柄や、他のエンジンサプライヤーの重要と思われる(関連して語られることのある)動向についても含めている。
前史
[編集]ホンダ創業以前
[編集]- 1924年
- 11月23日、神奈川県の鶴見埋立地で、日本自動車競走大会(第5回大会)が開催され、アート商会がカーチス号を初参戦させ、優勝する[1]。この際、当時満18歳の本田宗一郎が榊原真一のコ・ドライバー(ライディングメカニック)を務め[1][2]、この優勝に至るまでの道程は本田にとっての自動車レースの原体験となる[3][4]。本田は以降も同大会でカーチス号のライディングメカニックを務める(1934年の第9回大会まで)。
- 1936年
- 6月、多摩川スピードウェイで全日本自動車競走大会が開催され、アート商会浜松支店を当時経営していた本田宗一郎は弟の弁二郎とともに自製の「ハママツ号」(浜松号[注釈 1])で参戦する[1]。トップを独走したが、ゴールする直前に周回遅れの車と絡むアクシデントにより車外に放り出され、両名とも重傷を負う[1][5][注釈 2]。
- 1948年
- 9月24日、本田技研工業(以下「ホンダ」)が設立される。創業者の本田宗一郎が初代社長に就任。
「マン島TT参戦宣言」~マン島TT初参戦
[編集]- 1949年
- 8月、この年6月に国際水泳連盟に復帰した日本水泳連盟はロサンゼルスで開催された全米水上選手権に選手団を派遣する。古橋廣之進ら日本選手たちが世界記録を連発し、第二次世界大戦の敗戦に沈んでいた日本国民に興奮と感動を与えた。古橋らの活躍に感動した本田宗一郎は自分は技術の世界でそれを成し遂げることを決意する[7][8][注釈 3]。
- 1954年
「 | 私の幼き日よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の勝者となることであった。…吾が本田技研は此の難事業を是非完遂し、日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。※[10] | 」 |
—本田宗一郎によるマン島TT参戦宣言(1954年3月20日。起草は藤沢武夫) |
- この年は多くの二輪メーカーにとって厳しい市場環境となり、ホンダも倒産を危ぶまれるほどの危機的な状況を迎える。
- 2月、ブラジルでサンパウロ市制400周年国際ロードレースが開催され、ホンダはライダーの大村美樹雄とエンジニアの馬場利次を派遣する[W 1][W 2]。当時の海外メーカーの事情をよく知らなかったホンダは意気揚々とチームを送り出したが、レースは参加した22台中13位という結果に終わり[11]、ホンダは上位を占めたヨーロッパ勢との技術水準の差を見せつけられる[12]。
- 3月15日・20日[注釈 4]、本田宗一郎が「マン島TTレース参戦宣言」を行う[12][W 1][W 3][注釈 5]。この宣言は、四輪も含めて、その後のホンダのモータースポーツ活動の指針となる[10][注釈 6]。
- 6月、本田宗一郎がマン島TTレースを初めて現地で観戦し、ヨーロッパの二輪メーカーの技術水準もレース内容も自身の想像をはるかに超えたものであったことを目の当たりにして衝撃を受けるとともに[17][11][16]、闘志を燃やして帰国する[18][12][16][W 7][注釈 7]。その後、レース用エンジンの開発にあたり、ヨーロッパのメーカーのエンジンに大きく後れを取っていた馬力を補うため多気筒化による解決が試みられ、当時のホンダエンジンの特長となっていく[11][注釈 8]。
- 1956年
- ホンダの社内に技術部第2研究課、通称「レーサー部門」が設立され、マン島TTレースに向けた車両開発が本格的に始まる[W 1]。
- 1957年
- 1958年
- 3月、中村良夫がホンダに入社し、ほどなくして四輪研究開発部隊の責任者となる[12][11]。日本自動車工業(日本内燃機)から当時は二輪専業メーカーだったホンダに移るにあたり、中村は(ホンダが二輪レースを制覇した後に[22])将来的にF1まで視野に入れて四輪自動車レースに参戦する気があるのか問いかけ、本田宗一郎の「出来るか出来んか知らんが俺はやりたい」という返答に手応えを得て、入社を決断する[12][11][23][注釈 9]。
- 5月、白子工場近傍の荒川河川敷にホンダ専用の高速テストコース(荒川テストコース)が完成する[24][W 10][W 11][注釈 10]。
- 8月、ホンダがスーパーカブを発売[W 12]。
- 1959年
- 1月、ホンダが同社としては初の四輪自動車となる試作車A170(XA170)を完成させる[26][W 13]。
- 6月、ホンダが日本のメーカーとして初めてマン島TTレースに参戦する(監督は河島喜好)[12][11][16][W 14]。優勝したタルクィニオ・プロヴィーニ(MVアグスタ)とは大差ながら、6、7、8位に入賞し、チーム賞を獲得する[12]。
- 前年に発売したスーパーカブの爆発的ヒットにより、同車の増産に対応するため、9月に三重県鈴鹿市に工場用地を購入し、新工場の建設に着手する[W 12]。翌1960年4月に、「鈴鹿製作所」が操業を開始[W 12]。
第1期(1964年 - 1968年)
[編集]- 1960年
「 | 駆けっこだの綱引きだのはバカでもできる。オレが欲しいのはそんなもんじゃない! レース場だ。レース場を作れ! レースをしなきゃクルマはいつになっても良くならん! たくさんのお客が見ている前でレースをやってしのぎを削る。それを徹底的にやらなきゃクルマは良いものができない。[27] | 」 |
—本田宗一郎によるサーキット建設への鶴の一声(1960年)[注釈 11] |
- 春、ホンダ専務の藤沢武夫を中心とする「モータースポーツランド設立委員会」が発足し、全面舗装の国際レーシングサーキット建設計画が始まる[W 15]。
- 7月1日、藤沢武夫の発案により、ホンダから独立する形で株式会社本田技術研究所が設立される[28][29][W 10][W 16]。ホンダが株式の50%を持ち、残りは本田宗一郎と藤沢が25%ずつ持ち[W 16]、本田が研究所の社長、藤沢が副社長を兼務する[29]。
- 8月19日、レーシングサーキットの建設予定地を三重県鈴鹿市にすることを決定する[W 15][注釈 12]。
- 12月、三重県鈴鹿市にサーキットを建設するため、塩崎定夫と飯田佳孝をヨーロッパに派遣する[W 15]。現地から招聘されたジョン・フーゲンホルツにより、翌年にサーキットの詳細設計が行われる[W 15][注釈 13]。
- 1961年
- ホンダがこの年からロードレース世界選手権にフル参戦を始める[12]。ホンダ車は初年度で早くも250ccクラスと125㏄クラスを制し、世界タイトルを初めて獲得する。この年からの二輪における活躍により、レースが身近なものではなかった日本国内に先んじて、ホンダの名はヨーロッパで高い評価を得ていくことになる[11]。
- 2月1日、株式会社モータースポーツランド(後のホンダモビリティランド)が設立される[31][W 18]。
- 4月21日、乗用車製造への進出計画を発表する[9]。
- 4月23日、ロードレース世界選手権のスペインGPで、トム・フィリスが125㏄クラスを制し、ホンダにとっての世界選手権初優勝を果たす[12]。続く5月の西ドイツGPではホンダの高橋国光が250ccクラスを制して日本人ライダー初優勝を遂げ、6月のマン島TTレースはマイク・ヘイルウッドが125㏄クラスと250㏄クラスを制覇するなど[注釈 14]、この年からホンダの二輪車は一線級の実力を示すようになる[12]。初優勝の達成により、ホンダは所期の目標を達成し[16]、中村良夫らは次の目標として、四輪レースへの進出を意識することになる[15][12]。
- 9月、モンツァ・サーキットで開催されたF1の第7戦イタリアGPを本田宗一郎が観戦する[18]。これにより、ヨーロッパではホンダがF1に参戦する可能性が噂されるようになる[34]。
- 12月、本田技術研究所が埼玉県大和町(当時。後の和光市)に研究所を開設する[35]。
- 暮れ、ホンダがクーパー・T53を購入する[注釈 15]。
- 1962年
- スーパーカブが軌道に乗り、この年からホンダの二輪自動車の年間生産台数が100万台を超える[36]。
- ヨーロッパでホンダのF1進出が噂されるようになり、『モーター』誌(5月号)、イタリアの『クアトロルオーテ』誌(夏)などヨーロッパ各国のモータースポーツ誌がホンダのF1進出計画について特集を組む[37][38][注釈 16]。
- 春、ジャック・ブラバムが初めて来日し、本田技術研究所を訪れる[40][注釈 17]。この時のブラバムの協力により、前年末に入手して走行不能のまま置物と化していたクーパーの不具合が解消され、実走可能な状態となる[42]。以降、ホンダとブラバムとの間には長年に渡る友好関係が築かれることになる[42]。
- 春、ホンダにおいて、F1参戦に向けた準備が密かに始まる[43]。
- 6月、建設中の鈴鹿サーキットにおいて全国ホンダ会が開催され、ホンダ初の四輪自動車であるS360とT360の試作車が内々に公開される[9]。
- 8月、F1用エンジン(RA270E)の開発計画が始まる[44][43]。この際、本田宗一郎は出力の目標値として「270馬力」と定め[43]、これが後にエンジン名に流用される[注釈 18]。
- 9月、鈴鹿サーキットが完成する。
- 10月25日から11月7日にかけて、東京国際見本市会場で第9回東京モーターショーが開催される。ホンダは2シーターのS360、S500、軽トラックのT360の試作車を出品する[W 20]。
- 10月、東京モーターショーの取材のため来日したヨーロッパの記者からの取材に対して、本田宗一郎が「1年以内に参戦したい」と発言し、ホンダがF1に参戦予定であることがヨーロッパで周知の事実となっていく[38][34][W 21][注釈 19]。
- 11月、エンジンテスト用の車両としてRA270の開発が始まる(設計は馬場利次)[44]。
- 1963年
- 1月末頃、前年に発表したT360(AK-360)とS500(AS-500)をこの年の8月以降に発売する目途が付いたことから[注釈 20]、本田技術研究所はF1参戦に向けた準備に具体的に着手し[42][52][38]、エンジンの図面が引かれ始める[53][注釈 21]。
- 3月、試作F1エンジン(RA270E)の設計が進み、設計の終わったものから製造が始まる[42]。
- 5月、鈴鹿サーキットにおいて、第1回日本グランプリが開催される[注釈 22]。
- 5月、ベルギーのアールストに建設中だった二輪自動車の工場が完成し、9月に開所式が催される[W 23][W 24]。翌年、ホンダF1のヨーロッパにおける整備拠点がこの工場の一角に置かれることになる。
- 6月、最初の試作F1エンジンである「RA270E」のベンチテストが始まる[56][57][注釈 23]。
- 夏(中村の渡英前)、前部モノコックフレームとエンジンをストレスメンバーとする車体の設計が行われるが、設計途中で保留となる(後のRA271につながる)[58]。
- 7月末から8月にかけ[55]、エンジン供給先の開拓のため、中村良夫がイギリスに赴き、クーパー、ロータス、ブラバムを相次いで訪問する[59][54][34]。
- 8月、ホンダ初の四輪自動車(軽トラック)であるT360を発売する。
- 8月、ホンダがリエージュ~ソフィア~リエージュラリーに初参戦する(車両はS500。ドライバーは古我信生/鈴木義一のペア)[61][62][9]。この際、イギリスの石油企業であるBPとの関係が生まれ、F1参戦にあたって燃料、オイル類の供給以外でも助力を受けることになる[61][63]。
- 9月中旬、ロータスのコーリン・チャップマンが来日してホンダにエンジン供給を要望し、契約に至る。
- 11月10日、RA271(RA271Eエンジン)の開発が始まる[64]。
- 12月初め、RA271Eエンジンのモックアップをロータスに送る(車体の設計検討用)[60][45][W 21][注釈 26]。
- 12月末、エンジンテスト用のテスト車両「RA270」が完成する[60][54]。
- 1964年(参戦開始)
「 | 電見た。ホンダはホンダ自身の道を進む[65][54] |
」 |
—チャップマンの電文への返電(1964年1月) |
- 1月中旬、チャップマンがホンダからのエンジン供給を断る旨を伝える[54]。
- 1月、チャップマンからの連絡を受け、ブラバムのジャック・ブラバムに車体製造を打診するが、検討したブラバムとロン・トーラナックにより断られる[66][注釈 27]。
- 1月下旬、ホンダがフルコンストラクターとしての参戦に向けた準備を始める。
- 1月30日、ホンダがF1に参戦することを正式に表明する[43][W 26][W 21]。
- 早春[67](時期不明)、RA271の設計が始まる[W 27][注釈 28]。
- 2月6日、荒川テストコースでRA270の試走が行われる[W 28][注釈 29]。
- 2月13日、RA270Eの出力が初めて200馬力を突破し、210馬力を記録する[23][W 26][注釈 30]。
- 2月15日、社内誌『フライング』に本田宗一郎とRA270を写した写真(上掲)が掲載される[70]。
- 2月16日、鈴鹿サーキットにおいて、RA270による初の実走テストが行われる(ドライバーは島崎貞夫)[71][W 28]。
- 3月9日[W 29]、来日したジャック・ブラバムにより、鈴鹿サーキットでRA270の実走テストが行われる[72][注釈 31]。同月(ブラバムに前後した時期[74])、ロニー・バックナムもRA270を走らせる[75][注釈 32]。
- 5月初め、鈴鹿サーキットで第2回日本GPが開催される。
- 6月、中村良夫がパリの国際自動車連盟(FIA)本部の国際スポーツ委員会(CSI)でF1参戦に向けた各種手続きを行い、その中でホンダF1のカラーリングとなる日本のナショナルカラーを決める[78]。
- 6月中旬過ぎ、RA271が完成する[79]。その後、荒川テストコースで同車の試走が行われる。
- 7月12日[注釈 33]、RA271がパンアメリカン航空の貨物便に積載され、ヨーロッパに送り出される[79]。その後、ヨーロッパに到着したRA271は、ベルギー・アールストの拠点[注釈 34]で整備と再チェックを受ける[81]。
- 7月21日、ザントフォールト・サーキットでRA271のシェイクダウン走行が行われる(ドライバーはロニー・バックナム)[76][注釈 36]。
- 8月2日(日曜)、第6戦ドイツGPで、ホンダがF1にデビューする。(第1期参戦の始まり)
- 車両はRA271、ドライバーはロニー・バックナムの1カー体制で、1964年は3戦に参戦した。
- 11月初め、ジャック・ブラバムとともにグッドイヤーのレース部長フレッド・ギャンブルが来日し、F1参入を予定していたグッドイヤーのタイヤを翌年からホンダが使用するということで話が進められる[86][87][注釈 37]。同時に、ブラバムから翌年にF2用に1,000㏄のエンジン供給できないか提案を受ける[87]。
- 11月もしくは12月[88]、中村良夫が社命によってF1チームの監督の任を解かれ[89]、関口久一が翌年の監督に任命される[87][88]。
- 1月1日に開催されたF1開幕戦(南アフリカグランプリ)を欠場したホンダは、5月に開催された第2戦モナコGPからこのシーズンを開始する[90]。
- 1月、ジャック・ブラバムが自身のチームのF2の車体とともに来日する[91][88]。16日に鈴鹿サーキットにおいて、久米是志らが開発したF2用エンジンを搭載したテスト走行が行われる[91][88]。
- 3月、F2シーズンが開幕し、久米らが開発したRA300Eエンジン(排気量996cc)が投入される[88][92]。四輪用エンジンの知識不足から不出来なエンジンとなり、序盤3戦で使用されたのみで放棄され、ブラバムはコスワースに乗り換える[93][90][注釈 38]。
- 6月13日、第3戦ベルギーGPで、リッチー・ギンサーがホンダとしては初めて決勝レースを最後まで走り切ってチェッカーフラッグを受け、同時に6位入賞も果たし、F1における初ポイント(1ポイント)を記録する[89][90][注釈 39]。
- 6月末、第4戦フランスGP(27日決勝)においてまたしても2台ともリタイアに終わったことに本田宗一郎が激怒し、監督の関口久一が更迭され、ホンダの重役である河島喜好がやむなく臨時監督に就任する[90][注釈 40]。
- 7月半ば、第6戦オランダGPが開催される。このレースでギンサー車が6位入賞を果たしたものの上位との差は大きく、ホンダは次戦ドイツGPを欠場して、9月のイタリアGPに照準を合わせてRA272とRA272Eエンジンの改良作業を行うことを決断する[95][注釈 42]。
- 夏、本田技術研究所内に大気汚染研究グループが発足し、活動を始める[W 30]。1960年代後半から1970年代初めにかけ、日本と米国で自動車排出ガス規制が創設、強化されていき、四輪自動車メーカーとしては後発のホンダはこれを他社に並び追い越す好機と見て、この分野の研究と開発を重視するようになる[W 30]。
- 9月初め、RA272の車体とRA272Eエンジンの改良作業が完了する[94](車名は変更されていないが、区別のため「RA272改」としばしば通称される)。同時期に中村良夫が監督への復帰を要請されるが、中村は拒否する[94][96]。結果、次戦からは杉浦英男が臨時で監督を務める[96]。
- 9月12日、第8戦イタリアGPでホンダが復帰し、RA272改が投入されるが、投入した2台ともリタイアに終わる(ギンサー車は14位完走扱い)。
- 9月、イタリアGPの直後、入交昭一郎が翌年のF1用3リッターエンジン(RA273E)の設計を命じられる[33][注釈 43]。
- 9月26日、フランス・アルビーで開催されたF2レースで、ジャック・ブラバムが改良されたホンダエンジンの搭載に同意し、その車両で2位フィニッシュを遂げる[94][97]。これにより、ホンダF2は翌年に希望を繋ぐ[94]。
- F2シーズンの終了後、久米是志と川本信彦は大磯ロングビーチホテルに10日間ほど籠り、翌年用のF2エンジンの図面を描き上げる[33][注釈 44]。この新型エンジンは燃焼室のビッグボア・ショートストローク化や、バルブスプリングのトーションスプリング採用などの新機軸を投入したもので、同時期に入交昭一郎が設計していたF1の3リッターエンジン(RA273E)もこのF2用エンジンを手本として設計されることになる[33][97]。
- 10月3日、第9戦アメリカGPが開催され、このレースは本田宗一郎も観戦に訪れた中での参戦となったが、完走こそ果たされたものの、またしても冴えない結果に終わる[94]。
- アメリカGP後、中村良夫がF1最終戦で監督として指揮を執らせてくれるよう申し出て、承認される[94][W 31]。
「 | Veni Vidi Vici (来た、見た、勝った) |
」 |
- この年は日本における「マイカー元年」とされる。日本における自動車生産台数は年間200万台を初めて突破し、日本は米国と西ドイツに次ぐ世界第3位の自動車生産国となる[101]。ホンダにおいては、市販車の開発を望むホンダ本社からレースからの撤退の要望が強まる[102][注釈 45]。
- この年のロードレース世界選手権で、ホンダは満を持して500㏄クラスに進出し、同選手権の5クラス全てでマニュファクチャラーズタイトルを獲得するという快挙を演じる。しかし、これにより達成すべき目標を失ったことも一因となり、ホンダは二輪の世界選手権からの撤退に傾いていくことになる。
- 1月、日本において、ホンダの国内のアマチュアレーサー向けのサポートを専門に担う組織としてRSC(Honda Racing Service Club)がホンダ社内の部署として設立される[104][注釈 46]。
- F2において、ブラバムにRA302Eエンジン(排気量994cc)を供給する[92][注釈 47]。テスト走行から良好な結果を示し、前年と異なりシーズン開幕前からジャック・ブラバムから称賛される[105]。
- 4月5日から10日にかけて鈴鹿サーキットで開催されたスプリング・フェスティバルに2台のRA272が連日登場して走行し、日本において初めてホンダのF1車両が公開の場で走行を披露する(ドライバーはギンサーとバックナム)[31][106][70]。
- 6月、久米是志がF2のチームから外れることになったため、入れ替わりに川本信彦がイギリスに短期間赴任し、ブラバムと協働する[105][注釈 48]。
- 7月、3リッター規定に合わせた新型車「RA273」が完成し[107][108]、7月23日に荒川テストコースで試走が行われる[70][注釈 49]。8月2日に[70]、鈴鹿サーキットにおいて、シェイクダウン走行が行われる(ドライバーはギンサー)[108]。8月3日、鈴鹿サーキットにおいて、RA273が初めて一般にも公開された[110]。
- 8月、藤沢武夫が、ホンダのF1参戦について、経費を大幅に圧縮するか、参戦活動そのものを中止するか検討するよう要望する[111]。
- 8月22日、RA273を正式に発表する[70]。
- 8月下旬、中村良夫がジョン・サーティースから翌年のチーム加入についての打診を受け[112]、以降、10月まで電話で交渉が重ねられる[113][100]。
- 9月、開幕戦から第6戦までを欠場した後、第7戦イタリアGPにRA273を投入し、シーズン初参戦する[114][100]。
- イタリアGPに際して、ジョン・サーティースとの翌年に関する契約が合意に達する[115]。
- 10月13日、ブランズハッチでこの年のF2の最終戦が開催され、ブラバム・ホンダはジャック・ブラバムが優勝したヨッヘン・リントに0.2秒差の僅差で敗れ2位に終わり[116]、この年のF2において唯一、優勝を逃したレースとなる[102][注釈 51]。翌年からはエンジンの規定が変わるため、このレースをもってF2からは撤退した[102]。
- F2終了後、無役となった川本信彦は中村良夫によってF1エンジン開発の責任者に任命される[102]。
- 10月、最終戦メキシコGPに際して、ジョン・サーティースと翌年の契約を結んだことを発表する[115][117]。それに伴い、バックナム、ギンサーとの契約は解除する[118][102]。サーティースが出した条件により、翌シーズンから中村良夫が監督に復帰することになる[118]。
- 11月5日、ジョン・サーティースが来日し、鈴鹿サーキットにおいてRA273のテスト走行を行う[70]。
- 11月24日、ジョン・サーティースが再来日し、翌25日から鈴鹿サーキットにおいてRA273のテスト走行を行う(5日間)[119][70]。
- 11月30日、ジョン・サーティースと翌年のドライバー契約を正式に締結する[119]。
- 12月5日、ジョン・サーティースと契約したことを発表する[70]。
- チーム・サーティースとの提携を機に、ホンダは前年までの参戦体制を改め、ヨーロッパにおける本拠地をオランダ・ベルギーからイギリス(スラウ)に移し、この年からはエントリー名も「Honda Motor」から「Honda Racing」に改める[118]。
- 1月2日、開幕戦南アフリカGPが開催される。前年に引き続きRA273を投入し、1カー体制で参戦したジョン・サーティースが3位表彰台を獲得する[120]。
- 1月、ホンダ本社からの援助が乏しくなるため、中村良夫はサプライヤーのBP、グッドイヤーと交渉し、資金援助を依頼する。他社にも呼び掛け、この年からはホンダのF1車両にスポンサーのステッカーが掲出されるようになる。
- 3月、ホンダにとって初となる本格的な軽乗用車のN360を発売する[W 32]。同車は大ヒットを記録し[W 32]、ホンダはスバル・360を擁する富士重工を抜いて、軽乗用車のトップメーカーとなる[50]。空冷エンジン搭載の同車のヒットによって自信を持った本田宗一郎は、より大きな排気量の市販車の開発計画においても空冷エンジンの採用を強硬に主張するようになる[121][122]。そして、本田はF1でも空冷エンジンの搭載を主張し始めることになる[121][123]。本田の主張は本田技術研究所内で賛同を得られず、後に(1970年頃に)本田は水冷を主張する河島ら若手の技術陣と深刻な対立を来たすことになる(空冷水冷論争)[122][注釈 52]。
- 4月、5月初めの第2戦モナコGPに向けてRA273が空輸される際、羽田空港で田宮模型が同車の取材を行う[125][126]。同年11月にRA273のプラモデル「1/12 ホンダ RA273」が同社から発売される[126](完成第1号は本田宗一郎に贈られた[127])。
- 6月、第3戦オランダGPで、フォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したロータス・49が登場し、ジム・クラークの運転により同車はデビューウィンを果たす。これはホンダ(中村良夫)にとっても衝撃的な出来事となり、新型車の開発が急務であるという認識を強くする事態となる[34][128]。
- 7月初め、第5戦フランスGPは前戦ベルギーGPで大破させたレース用エンジンの代替が間に合わなかったため、欠場する[67][129]。この間に、イギリスでテスト走行が行われ、タイヤをグッドイヤーからファイアストンに変更し、スパークプラグをNGKからチャンピオンに変更する決定が下される[67][129]。
- 7月15日、第6戦イギリスGPにタイヤとスパークプラグを変更して参戦する[130][131][132]。戦闘力の向上が確認できたことで、チームの士気は向上する[131]。しかし、ロータス・フォードとの差は依然として大きく、中村良夫は車体の全面的な変更を決断する[129][注釈 53]。
- 7月、イギリスのローラ・カーズにおいて、ホンダの新型車両(RA300)の開発が始まる[128]。ホンダからは佐野彰一が派遣され、ローラで協働し、作業は急ピッチで進められる[注釈 54]。
「 | こいつ(RA273)はえらく重い車なんだ、デヴィッド(ホッブス)。すごく重い。もう200 kgも軽くなってくれれば、コーナーでぐんと加速してくれるんだがなあ。ここじゃワンラップ20秒も違うだろう。[134] | 」 |
—8月3日、ニュルブルクリンクテストに現れたホッブスにサーティースが言った言葉[注釈 55] |
- 8月1日(火曜)から3日(木曜)にかけて、第7戦西ドイツGPの開催地であるニュルブルクリンクで、RA273のテスト走行(プライベートテスト)を行う[134][135]。
- 8月、空冷のF1車両(翌年のRA302)を開発するという話が佐野彰一に伝えられる[W 33][注釈 56]。
- 8月、ホンダ・レーシング(中村良夫)は久米是志を日本から呼び[136]、デリック・ホワイトらを交え、翌年の「軽量コンパクトなV12エンジン」とRA301の構想設計がイギリスで行われる[136][137]。
- 8月末、RA300の開発に専念するため、第8戦カナダGPを欠場する[140]。
- 8月31日早朝、ローラとの共同開発による新型車「RA300」が完成する[141][121]。同日、グッドウッド・サーキットで同車のシェイクダウンを行う(ドライバーはクリス・アーウィン)[141][142][注釈 57]。
- 9月7日、第9戦イタリアGPで、RA300を駆ったジョン・サーティースがジャック・ブラバム(ブラバム)を0.2秒差で下し、同車はデビューウィンを果たす[128][W 35]。
- 10月、イギリスのチーム・サーティースでRA301の設計が始まる[143]。
- 11月、箱根湖尻のホテル花月園で、久米是志らが空冷のRA302Eエンジン、川本信彦らが水冷のRA301Eエンジンの設計を始める[123]。
- この年をもって、ホンダは二輪の世界選手権におけるワークス活動から撤退する。
- 暮れ、日本でRA302の設計が始まる[W 36]。
- 1968年(最終年)
- 2月中旬、RA301の車体が完成して日本に送られる[144][123]。
- 4月13日から15日にかけて、鈴鹿サーキットでRA300とRA301を使った走行テストが行われ、ジョン・サーティースが参加する[145][92][注釈 58]。この際、テレメトリーシステムを搭載した走行も行われ[92]、取得したデータはRA302の開発に活用される[W 36]。
- このテストに際して、クリス・アーウィンをセカンドドライバーとして起用する予定であることが正式に発表される(アーウィン本人は来日していない)[145]。
- RA302Eエンジンが完成し、ベンチテストが始まるが、その不具合を巡って本田宗一郎と対立した設計責任者の久米是志が1ヶ月ほど出社拒否する事態となる[146]。
- 5月半ば、第2戦スペインGP(ハラマ)が開催され、ホンダはRA301を初めて参戦させる。テスト走行の不足に祟られ、ブレーキにトラブルを抱えた状態ながらサーティースが3位を走行するが、ギアボックストラブルを起こしてリタイアに終わる[147]。
- 5月19日、ホンダF1のセカンドドライバーに内定していたクリス・アーウィンがニュルブルクリンク1000kmレースにおける事故により重傷を負う(車両はフォード・F3L)[148]。
- 6月9日、第4戦ベルギーGPの決勝レースでサーティースが開始早々に首位を奪って2位以下に20秒以上のリードを築くが[149]、サスペンショントラブルを起こし、12周目にリタイアする[150]。
- このレースの予選日(6月8日)、クリス・アーウィンに代わるセカンドドライバーとして、ブライアン・レッドマンと合意に至るが、決勝レースの事故でレッドマンが重傷を負い、セカンドドライバー選びは振り出しに戻る[151][注釈 59]。
- 6月29日、日本で開発された「RA302」が完成し、東京国際空港(羽田空港)からイギリスに送られる[152][153][154]。出発に先立ち、同空港に隣接する東急ホテルで記者発表が行われ、日本国内向けに同車が大々的にアピールされる[152][153][154]。
- 6月30日、RA302がイギリスに到着し、7月2日にシルバーストンサーキットでテスト走行が行われる(ドライバーはジョン・サーティース)[155][70][146]。
- 7月、第6戦フランスGP(ルーアン)にRA302が投入され、7日の決勝レースで炎上事故を起こし、ドライバーのジョー・シュレッサーが焼死する[155][156]。
「 | 戦いに挑む時に両面作戦というのは絶対に駄目ですね。1点集中で行かなきゃ勝てっこないわけです。レースをやる立場として、中村さんは正しいんですよ。だけど、『空冷の量産車をつくって空冷で商売するためには、空冷のF1が要るんだ』というオヤジさん(本田宗一郎)の論理も、会社としては全く正しいんですよ[W 38] | 」 |
—川本信彦 |
- 7月、本田宗一郎はRA302の2号車の製作を久米是志に命じ、その製作が進められる[156]。しかし、空冷F1車両の製作に反対する久米と本田の間で対立が生じ、久米が再び1ヵ月ほど出社を拒否する事態となる[156]。以降は川本信彦が水冷エンジンに加えて、RA302・2号車の開発も担当することになる[156]。
- 7月後半、第7戦イギリスGPが開催され、RA301にホンダ車としては初めてリアウィングが装着される[156]。
- 8月中旬、RA302の2号車(RA302-802)が完成し、17日に鈴鹿サーキットでジョン・サーティースによるテスト走行が行われる[157][158][70][156]。
- 9月、第9戦イタリアGPで、サーティースがホンダにとって初となるポールポジションを獲得する[159]。
- 10月21日、ホンダにとって初の小型乗用車となる1300を発表する[W 39]。以降、ホンダではそれまでの二輪車主体の企業から、世界市場に通用する本格的な小型車の開発・生産をする自動車メーカーへの脱皮が図られる[159]。日本の本田技術研究所ではほとんどの技術者が同車の開発にかかりきりになる[159]。
- 11月3日、最終戦(第12戦)メキシコGPに2台のRA301をエントリーさせる[注釈 60]。結果として、このレースが第1期の最後のレースとなった[160]。
- 11月10日[161][162]、イギリスのホンダ・レーシングが、ホンダが四輪メーカーとして成長するまでF1における活動を「一時休止」することを発表する[161][163][160][70][159][注釈 61]。(第1期参戦の終わり)
- 11月20日から21日にかけて、インディアナポリス・モーター・スピードウェイでRA301の走行テストが行われる(ドライバーはロニー・バックナム)[161][164][165][注釈 62]。このテストではウィングなどはメキシコGP仕様そのままだったにもかかわらず、当時の排気量4.2リッターのインディカーに匹敵する平均時速158マイルを記録する[164]。
- 12月14日、エンツォ・フェラーリが記者会見でホンダについて触れ、下記の発言をする[166]。フェラーリは、きっすいのレーシング・ファクトリーなのです。なぜなら、われわれのレーシング・マシンはすべてわれわれの手で開発し、実戦に参加させているからです。世界広しといえども、われわれと同じ道を歩んでいるのは、ふたつのメーカーしかありません。それはイギリスのBRMと日本のホンダです。[166] — エンツォ・フェラーリ
- 12月23日夜[161]、日本の池袋ショールームで、日本向けにグランプリ活動休止の説明会(中村良夫が説明)が行われる[161][160][70]。
参戦車両(1964年 - 1968年)
[編集]第2期(1983年 - 1992年)
[編集]- 1970年
- 4月、前年までの社内の「空冷水冷論争」を経て、ホンダは社長の本田宗一郎と副社長の藤沢武夫による指導体制から、河島喜好、川島喜八郎、西田通弘、白井孝夫の4人の専務による集団指導体制に移行する[168]。
- 4月17日、ホンダが鈴鹿製作所のメディア見学会を開催する[169]。この際、本田宗一郎がインタビューに応え、F1にはできるだけ早く復帰するつもりだが、市販車の排気規制対策や安全対策などの山積する問題を解決した後で始めたいと述べる[169]。
- 1971年
- 4月、本田宗一郎が本田技術研究所の社長を退き、河島喜好が後任となる[170]。
- 6月、ライフ(初代)を発売[170]。同車のエンジンの設計を終えた川本信彦は、若手の桜井淑敏ら少数の技術者たちが開発を進めていたCVCCエンジンの設計陣のリーダーとなり、桜井らと協働を始める[170][171][注釈 63]。
- 1972年
- 7月12日、シビック(初代)を発売[W 40]。その燃費性能は高く評価され、1970年代半ば以降、日本国内と北米でヒットを記録する[W 41][注釈 64]。
- 10月11日、CVCCエンジンの完成と翌年に搭載車を発売することを発表する[173][W 42]。12月に米国で環境保護局(EPA)によって実施された試験に合格し、CVCCエンジンはマスキー法(1975年規制)に適合した合格第1号となる[173][W 42][注釈 65]。
- 暮れ、ホンダを退職することを決意した川本信彦と木村昌夫が渡英して、コスワースへの移籍交渉を行う[172][174][注釈 66]。話はまとまり、川本は年明けに退職を願い出て2ヶ月ほど出社しなくなるが、上司の久米是志に慰留されて翻意する[172][注釈 67]。
- 1973年
- この年はホンダの創立25周年にあたる[176]。
- この年、それまでのRSC(Honda Racing Service Club)が正式に法人化され、RSC(Honda Racing Service Center)が子会社として設立される[104]。
- 3月、二輪のデイトナ200マイルレースで、RSCがCB750RACERを投入する[W 43](ライダーの隅谷守男が入賞)。ホンダはこの車両で施されたトリコロール(赤・白・青)の塗装をその後も二輪のレースにおいて用いるようになる[W 43]。後のF1の第2期参戦においても、スピリットの車体カラーリングや、ホンダスタッフのユニフォームの意匠としてトリコロールが用いられることになる。
- 3月26日、本田宗一郎の息子である本田博俊が、自動車レース関係の部品の開発や製造を手掛ける会社として、無限(後のM-TEC)を設立する[179][171]。所在地は埼玉県朝霞市。ホンダとの資本関係はないが、創業には川本信彦が関わり[注釈 69]、本田技術研究所の和光研究所の近傍に位置することから、8月に完成した無限の工場に研究所の技術者たちが出入りし、FJ1300用エンジンの開発などレース関連の作業を私的な活動(自己啓発活動)として行うようになる[172][180][注釈 70]。
- 9月24日、ホンダが創立25周年を迎える。
- 10月、本田宗一郎がホンダの社長を退任し、河島喜好がホンダの2代目社長に就任する[177]。社長を退任した本田は会長や相談役といった役職には就任せず、取締役最高顧問となる[182][W 5][注釈 71]。
- 11月、本田技術研究所の二輪車の研究・開発部門が独立し、埼玉県朝霞市において「朝霞研究所」として発足する[W 10]。これに伴い、従来の和光市(1970年に市制施行)の研究所は「和光研究所」と呼ばれるようになり、引き続き四輪の研究・開発が行われる[W 10]。
- 1974年
- F1において、ブラバムのオーナーであるバーニー・エクレストン、ロータスのコーリン・チャップマン、ティレルのケン・ティレルらによって、フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション(「F1CA」。この通称は1977年から「FOCA」に変更[184])が設立される[185]。F1CAの会長に就任したエクレストンの下、以降、F1においては急速に商業化が進んでいき[185]、ホンダが第1期参戦をしていた1960年代とは様相を異にしていく。
- 1976年
- 5月、アコード(初代。「アコードCVCC」)を発売[175]。同車はホンダの四輪車事業にとってシビックと並ぶ最大のヒット商品となり[175]、その後の同社の屋台骨を支えることになる。1970年代に他の自動車メーカーが苦境にあったのを尻目に、ホンダの売上は伸び続け、第1期最終年である1968年時点で1930億円だった同社の年間売上は、1977年には8490億円を記録し、9年で4.4倍の伸びを示した[175]。
- 1977年
- ホンダ社長の河島喜好は兼務していた本田技術研究所の社長を退任し、久米是志が後任となる[175]。
- 7月、F1の第11戦ドイツGPが開催される。このレースで100勝目を記録する予定だったグッドイヤーが、同社のF1における初優勝を記録したリッチー・ギンサーとホンダの中村良夫を開催地のホッケンハイムリンクに招待する[186][W 31]。
- 10月31日、和光研究所において、二輪と四輪の世界選手権に復帰するかを検討する会議が二輪・四輪両部門の合同で開催される[175][187]。二輪の復帰がすんなりと決まった一方、四輪(F1)については(フルワークス体制では)量産車の開発リソースの割かれる割合が大きいことなどから難色が示される[175][187][注釈 72]。
- 12月31日、川本信彦がF2用エンジンの設計図を持って久米是志の自宅を訪問し、レースエンジン設計の黙認を得る[175][189][190][W 44][注釈 73]。
- 1978年
「 | レースはホンダの企業文化です。勝ち負けではなく、ホンダ車に乗っていただいているお客さまに、最高の技術をお見せするため、そして楽しんでいただくため、レース活動を再開します。[W 45] | 」 |
—河島喜好によるレース復帰宣言(1978年1月) |
- 1月、新年の会見で、ホンダ社長の河島喜好が「グランプリ」復帰宣言を行い、二輪と四輪のレース参戦を再開することを表明する[191]。
- 時期不明、本田技術研究所で、四輪用レースエンジンの基礎研究のため、単気筒の試験用エンジン(K-0エンジン)が有志によりゲリラ的に試作される[192]。
- 夏、本田技術研究所の市田勝已が業務外にトヨタのエンジンをチューニングしてF2用エンジンの設計をしていることが露見し、それを知った川本信彦は市田に叱責を与えるとともに、自身のF2エンジン設計計画に勧誘する[175][193]。
- 10月、FIA内の組織である国際スポーツ委員会(CSI)の会長選挙が行われ、ジャン=マリー・バレストルが新会長に選出される[194][195][W 46]。バレストルの発案により、同年中にCSIは改組され、国際自動車スポーツ連盟(FISA)が発足する[W 46][注釈 74]。F1における統括団体(規則の策定を手掛ける)であるFISAとバレストルは1980年代のF1において大きな影響力を行使していくことになり、ホンダもその影響を受けることになる。
- 11月25日、敷地を国に返還し閉鎖することが決まっていた荒川テストコースで、ほぼ全てのホンダ車による走行会が行われ、F1車両ではRA272とRA302が走行を行う[196]。
- 12月初旬、川本信彦、市田勝已、北本徹の3名がF2用エンジンの設計に着手する[175][197][189][190][W 44]。川本らは本栖湖湖畔のホテルに約2週間こもり、エンジンのレイアウト設計図を作成する[198][189][注釈 75]。
- 1979年
- 6月29日、この年のF1の第7戦フランスGPで、ルノーがターボエンジン搭載車としてのF1初勝利を成し遂げる。ホンダは同時期に進めていたF1の先行検討にあたって、F1用エンジンとしてターボチャージャーの搭載を検討し始める[199]。
- 7月、F2用の試作エンジンの初号機が組みあがり、夏季休暇後に火入れ式が行われる[175]。この時期から、同エンジンの開発は研究所の正式な研究開発として扱われ始める[192]。
- 1980年
- 2月、F2用エンジンの供給先の開拓が行われ、この時点ではF3しか作っていなかったラルトに車体の製作を依頼する[201]。
- 3月、イギリス・ウェイブリッジのラルトにRA260Eエンジンのモックアップが持ち込まれ、F2用シャシー(RH-6-80)の製作が始まる[192]。
- 6月3日、グッドウッド・サーキットにおいて、ラルト・RH-6-80のシェイクダウンが行われる(ドライバーはナイジェル・マンセル)[192]。
- 6月7日 - 8日、シルバーストン・サーキットで開催されたこの年のヨーロッパF2選手権の第6戦で、ホンダエンジンを搭載したラルト・RH-6-80がデビューする(このレースではナイジェル・マンセルのみの1カーエントリー)[201][192]。ホンダは14年ぶりにヨーロッパF2への復帰を果たす[201][192]。
- 秋、マクラーレンのロン・デニスが川本信彦に手紙を出し、当時のF1チームの中では一番最初にホンダとの接触を図る[201][注釈 76]。翌年、日本で何度か接触が持たれる[201]。
- 1981年
- 1月19日、F1において最初のコンコルド協定が結ばれる。以降、レギュレーション策定やレースごとの裁定などは引き続きFISA(バレストル)が受け持ち、興行面はFOCA(バーニー・エクレストン)が受け持つ役割分担が定着する[204][205][注釈 77]。
- 2月、F2の参戦体制について、この年から2カー体制として、車体はラルトがワークス車両として製作することを発表する[206]。
- 3月、ホンダとウィリアムズの間でF1におけるエンジン供給に向けた最初の接触が行われる[207][注釈 78]。
- 3月29日、この年のヨーロッパF2の開幕戦シルバーストンで、ラルト・ホンダのマイク・サックウェルがポール・トゥ・フィニッシュで、ホンダのF2復帰初優勝を挙げる[201]。しかし、この年のエンジンは高速サーキット以外では低調という特性があり、その後のレースはサックウェル、チームメイトのジェフ・リースともに優勝に手が届かないレースが続く[201]。
- 8月9日、ヨーロッパF2の第9戦スパ・フランコルシャンで、ホンダは改良エンジンを投入する[201]。この新エンジンを得て、第9戦と第10戦(ドニントン・パーク)をリースが連勝し、ランキングトップとなる。
- 8月24日、ホンダの後ろ盾を得たジョン・ウィッカムとゴードン・コパックがF2の新チームである「スピリット・レーシング」の設立を発表する[209][210][注釈 79]。
- 9月6日、ヨーロッパF2の第11戦ミサノで2位を獲得したジェフ・リースが、最終戦を残して、その年のヨーロッパF2チャンピオンを確定させる[201]。この頃から、ヨーロッパではホンダがどのF1チームにエンジンを供給するのか話題になり始める[201]。
- 11月末、全日本F2の鈴鹿グランプリにおける会見で、久米是志が「当面はF2に専念し、F1参戦は1985年をめどにしたい」と述べる[211]。
- 1982年
- この年、和光研究所でF1参戦に向けた準備が始まる[10][注釈 81]。エンジンについて、自然吸気3.0リッター、ターボ・1.5リッター、気筒数はV型10気筒、V型6気筒などの基本骨格が様々な組み合わせで比較検討された結果、F2用の2リッターV6エンジンをベースとした1.5リッターターボエンジンを採用することが決定される[10]。
- この年のヨーロッパF2には、ラルトとスピリットの2チーム・4カー体制で参戦する[212]。強力な布陣で挑み、スピリットのティエリー・ブーツェンが最終戦までタイトル争いに踏みとどまったものの、タイトルは僅差でマーチ・BMWのものとなる[212][注釈 82]。
- 4月、栃木県芳賀町に本田技術研究所の新社屋が完成する(栃木研究所)[W 10]。四輪の研究・開発部隊は1986年にかけて徐々に新施設に移っていく[W 10]。
- 5月、スピリットにF1の車体製作を依頼する[210]。
- 7月、第9戦オランダGPに際して、FISAが翌年のレギュレーション変更案を発表し、その中で、F1車両の燃料タンクの容量(従来は無制限)を1983年から最大225リットルに制限し、レース中の再給油も禁止を明記するという案が示される[215](議論の末、1984年から最大220リットルに規制ということで決定[212])[注釈 83]。ホンダ(川本信彦)はこの時点ではF1でV型10気筒のターボエンジンを採用することを考えていたが、燃費の問題からその方針は変更を強いられ、V型6気筒のターボエンジンを採用することになる[212]。
- 夏(夏季休暇)、万座プリンスホテルに川本信彦、北元徹らがこもり、F1用のV6ターボエンジンの設計を行う[212][注釈 84]。それ以前から構想が進められていたことや、F2用エンジンの設計を流用していることから進捗は速く、秋にはエンジンが完成する[212]。
- 9月1日、既存のRSCとNRテクノロジーグループに代わって二輪のモータースポーツ活動を担う組織として、ホンダ・レーシング(HRC)が発足する(2021年までは二輪専業の組織)。
- 秋、F1用1.5リッターV型6気筒ターボエンジンの最初の試作機が完成する[212]。
- 11月24日、シルバーストンサーキットで、スピリット・ホンダのF1車両の初テストが行われる[200][216][217][218][注釈 85]。
- 1983年(エンジン供給開始)
- この年から翌年にかけては、本田技術研究所はレジェンド(初代)、インテグラ(初代)、アコード(3代目)といういずれも1985年に発売されることになる車種の開発にかかりきりとなっており、F1とF2の開発計画は少数の人員で進められる[219]。
- スピリットはF1参戦に向けたテストを行うことになり、この年のヨーロッパF2ではラルトのみにエンジンを供給する[212]。ドライバーのマイク・サックウェルとジョナサン・パーマーが中盤戦から連勝し、パーマーがこの年のF2チャンピオンとなる[212]。
- 2月4日、FISAが1983年シーズンのF1の暫定版エントリーリストを公表し、その中に「スピリット・ホンダ」の名が記載される[210]。
- 2月、米国のウィロースプリングス・レースウェイで、スピリット・ホンダのF1車両の本格的なテスト走行が行われる[212]。
- 2月、ジャック・ブラバムがF1におけるホンダのコンサルタントを引き受ける[212][注釈 86]。ブラバムの助言により、F1参戦にあたってウィリアムズに供給するという方針が固まる[212][注釈 87]。
- 3月8日、ジュネーヴ国際モーターショーで、ホンダがF1復帰を発表する[221][210]。
- 3月、ウィリアムズにF1用エンジンを供給するということで、具体的な交渉が始まる[212][注釈 88]。
- 4月、スピリット・ホンダがF1車両を用いた非選手権のひとつであるレースオブチャンピオンズに参戦する[222][218]。
- ドライバーは、ステファン・ヨハンソンの1カーエントリーで、スピリット・ホンダは最後に参戦した9月の第14戦ヨーロッパGPまで1カーエントリーとなる。
- 6月、ウィリアムズとの間でF1エンジンの独占供給契約(1984年からの3年間)が結ばれる[212][210][注釈 89]。
- 6月、ヨーロッパF2で前半戦は苦戦していたラルト・ホンダが、第7戦ハラマと第8戦ドニントンを連勝する[219]。このタイミングでF1のスピリット・ホンダも目途が立ち、F1の本選手権への参戦を始めることが決まる[219][注釈 90]。
- 7月17日、第9戦イギリスGPにスピリット・ホンダが参戦し、ホンダはF1に復帰する[218]。(第2期参戦の始まり)
- 7月、総監督代理としてイギリスに駐在してF1とF2のレースマネージメントを任されていた宮木清に健康問題が発覚し、社命で日本に強制帰国させる[219]。これにより、レースの指揮は監督の土師守のみに託されることになる[219]。
- 8月12日、第11戦オーストリアGPに際して、ホンダとウィリアムズに既に翌年に向けた提携関係があることが公表される[210][207]。
- 9月初め、ウィリアムズにホンダエンジンが初めて送られる[219]。
- 10月、河島喜好がホンダの社長を退任し、久米是志がホンダの3代目社長に就任する。
- 10月、最終戦(第15戦)南アフリカGPにおいて、翌年に向けて開発されていたウィリアムズ・FW09が前倒しで投入され[219][207]、ホンダはウィリアムズへのエンジン供給を開始する[218]。これに伴い、スピリットへのエンジン供給は終了する(スピリットは最終戦を欠場)[219][210]。
- ウィリアムズ・ホンダのドライバーはケケ・ロズベルグとジャック・ラフィットで、翌年もこのラインナップが維持される。
- 11月、イギリス・ディドコットにおいて、ウィリアムズが手狭になった旧ファクトリーの近くに新ファクトリーを建設する[224]。併せて、そのファクトリー内にホンダのエンジン作業場も設けられ、ホンダはヨーロッパにおいてもエンジンの整備、リビルド、ダイナモテストなどが段階的に可能となる[224]。
- 3月、開幕戦ブラジルGPが開催される。ウィリアムズ・ホンダはケケ・ロズベルグが2位表彰台を獲得して幸先の良いスタートを切るが、ホンダを含め、ほとんどのターボエンジンはこの年から導入された燃費制限やそれに付随するターボチャージャーのトラブルの解決に苦慮し[注釈 91]、それらをいち早く解決していたマクラーレン・TAG(ポルシェ)が序盤から選手権を独走する[219]。
- 7月8日、第9戦アメリカGP(ダラスGP)で、ウィリアムズ・ホンダが初優勝する。この勝利は、ドライバーのケケ・ロズベルグの技量、コースの特性、ライバルの脱落に助けられたことによって得られたもので、ホンダにとってはエンジンの改善が引き続き課題となる[219]。
- 7月22日、第10戦イギリスGPでウィリアムズ・ホンダはダブルリタイアに終わる[225][注釈 92]。
- 7月末もしくは8月初め、川本信彦がF1の総監督を退任する[225]。川本は桜井淑敏を後任に任命し、同時に、市田勝巳もF1用エンジンの開発に復帰させる[225][注釈 93]。桜井は市田の下に若い設計エンジニアらを入れて、RA164Eエンジンを突貫作業で改良させる体制を敷く[225]。
- 9月、桜井淑敏が正式に総監督に就任する[226]。
- 9月、第14戦イタリアGPにおいて、改良を施したRA164Eエンジンを4台投入するが、それらは金曜の予選で全て壊れる[225]。決勝もウィリアムズ・ホンダの2台はどちらもエンジントラブルにより、リタイアに終わる[225]。続く10月の第15戦ヨーロッパGP(ニュルブルクリンク)も、ウィリアムズ・ホンダはエンジントラブルによりレース開始早々にダブルリタイアとなり、現地でこれを見た桜井淑敏と市田勝巳はエンジンを抜本的に見直し、新設計のエンジンを開発することを決断し、レースチームでエンジニアを務めていた後藤治を交えて、ニュルブルクリンクのホテルにおいて新エンジンの検討が始まる[225]。
- 9月23日、この年のヨーロッパF2の最終戦(第11戦)が開催され、ラルト・ホンダはこのレースは3位(ロベルト・モレノ)に終わったものの、シーズン11戦で9勝し[225]、マイク・サックウェルとモレノでチャンピオンとランキング2位を独占する結果となる。
- 11月26日、ウィリアムズがキヤノンと翌年以降のスポンサー契約を結び、翌年からはエントリー名を「キヤノン・ウィリアムズ」に改めることを発表する[224][227][注釈 94]。しかし、ホンダはこれに難色を示し[注釈 95]、チームと交渉の末、エントリー名は「キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ」とすることに落ち着く[227]。
- このシーズンオフから、鈴鹿サーキットで、中嶋悟とウィリアムズ車両によってエンジン開発のための定期的な走行テストが行われるようになる[230][231][232]。
- 暮れ、市田勝已、北元徹、小川徹が新宿のホテルに1、2週間こもり、新型エンジン(RA165E)の設計を密かに行う[233][225][234]。
- この年からイギリスでもエンジンメンテナンスを行うことが可能となる[234]。
- この年、各メーカーのターボチャージャー搭載エンジン(予選仕様)の出力が1000馬力近くなったことを憂慮したFISAは、調査グループのモチュール・モデルン協会に「エンジンの最高出力を700馬力から800馬力に抑える手段」についての研究をするよう指示し、1986年シーズン開幕前にその調査報告書が公開されることになる[235]。
- 1月末、市田勝巳らによる新設計エンジン(RA165E)の設計が終わる[225]。しかし、川本信彦の意向には反したものであるため、川本に味方する製造部門のベテランエンジニアが組立てを拒否し、組立が終わるのは3月末まで遅れる[225][236]。
- 3月、ウィリアムズがラフィットに代えて契約したナイジェル・マンセルが来日し、中嶋悟とともに鈴鹿サーキットで公開テストを行う[237]。マンセルは中嶋とともに1年を通じてテストに熱心に貢献し、ルノーとの特性の比較も可能となったことで開発の参考となる[237][238]。
- 4月7日、開幕戦ブラジルGPが開催される。ウィリアムズ・ホンダのドライバーは、ロズベルグは残留し、マンセルとのコンビとなる[230]。桜井らは新設計エンジンの開発を密かに進めつつ、(川本信彦の命令に従い)旧設計のRA164Eエンジンの改良も行い、改良型RA164Eエンジンは信頼性が向上したことでターボチャージャーの過給圧を前年よりも上げることが可能となる[225]。これにより、開幕戦は予選で2番手と5番手というF1復帰以降で最上位を記録し、決勝でもロズベルグが一時はトップを快走した[230]。
- 4月中旬、新設計エンジン(RA165E)のベンチテストが始まる[230]。
- 5月、ナイジェル・マンセルが(川本信彦には極秘で)日本に招かれ、鈴鹿サーキットでRA165Eエンジンの実走テストを行い、同エンジンを絶賛する[230]。マンセルはイギリスに帰国した後、その話をチーム内に広め、新エンジンの存在はフランク・ウィリアムズを経由して川本の知るところとなる[230]。この段階に至って川本は新設計エンジンの投入を承認し、ヨーロッパでも実走テストが始まる[230]。
- 6月中旬、第5戦カナダGPにおいて、従来のRA164Eエンジン(Dスペックエンジン)に代わって、新設計のRA165Eエンジン(Eスペックエンジン)が投入される[10][234]。初戦から上位チームに匹敵するほどウィリアムズ・ホンダの戦闘力は向上し[230]、2週間後に開催された第6戦アメリカGP(デトロイトGP)ではレースを支配し、ウィリアムズ・ホンダとしての2勝目が達成された[239]。
- 7月、第7戦フランスGPの予選でケケ・ロズベルグがトップタイムを記録し、ウィリアムズ・ホンダにとって初となるポールポジションを獲得する[239]。しかし、チームはタイヤトラブルに悩まされ、マンセルは予選で発生したタイヤバーストによりクラッシュを喫したため決勝を欠場し、ロズベルグもタイヤの異常な摩耗により余分なピットストップを強いられ、2位に終わった[239]。以降のレースも同様の症状が続き、車体の足回りに原因があると推測したホンダはウィリアムズに改良を望むが、聞き入れられない状態が続くことになる[238][230][239]。
- 7月、第8戦イギリスGPの予選でケケ・ロズベルグが2戦連続でトップタイムを記録してポールポジションを獲得するとともに、1ラップの平均時速としてはF1史上で最速となる時速258.888 kmを記録する[239][注釈 96]。あまりの速さから何らかの違反をしていることが疑われ、予選終了後に主催者立会いの下でエンジンの分解が命じられ実行されたが、何の違反も見つからず、ホンダのエンジンの評価をさらに高める結果となる[239]。
- 8月、ホンダ青山ビルが竣工し、ホンダの本社が移転する[35][W 47][注釈 97]。1階に多目的ショールームの「ホンダウエルカムプラザ青山」が設けられ、F1関連のイベントも様々に催されることになる。
- 8月、第10戦オーストリアGPが開催される。
- ウィリアムズのタイヤトラブルを解消するため、第1期の車両を設計した佐野彰一がこのレースに招かれる[239][241]。佐野は問題がサスペンションジオメトリーのアンバランスさにあることを瞬時に見抜き、レース後に桜井、市田とともにウィリアムズファクトリーを訪問して、その点の指摘を行う[226]。車体設計の専門家でF1優勝車両(RA272)の設計者でもある佐野の指摘により、改善要望はウィリアムズにもようやく認められ、車体の足回りに改良が施されることになった[226][注釈 98]。しかし、この時のウィリアムズの一連の対応により、ホンダとウィリアムズとの間のレースに対する考え方の違いが露わになり[226]、この一件は後の離別の大きな一因となる。
- このレースに際してチーム・ロータスのピーター・ウォーが桜井淑敏に面会し、ホンダエンジンの供給を初めて要請する[226]。しかし、1986年まではウィリアムズに独占供給する契約があるため、この時は断ることを余儀なくされる[226][243][注釈 99]。
- 16日(金曜)、ウィリアムズとケケ・ロズベルグの間で続けられていた契約交渉で契約金の折り合いがつかなかったことから、業を煮やしたロズベルグがマクラーレンに移籍することをウィリアムズに最後通告する[239]。同日夜、ウィリアムズがこの年限りでブラバムとの契約が切れるネルソン・ピケとの契約交渉を緊急に行い[注釈 100]、両者の間で翌年からの契約が結ばれる[239][244][W 50][注釈 101][注釈 102]。
- 17日(土曜)、サーキットを訪れていた川本信彦がウィリアムズのトランスポーターにホンダスタッフを集め、自身のレース活動からの引退宣言を行う[239]。同時に、第2期初期から一貫して監督として前線部隊を指揮していた土師守も退任し、プロジェクトを桜井ら若い世代に全て任せることを表明する[239]。土師の退任にともない、その後任として後藤治が監督に任命される[226]。
- 8月(日付不明)、鈴鹿サーキットにおけるF1開催の誘致を目指すホンダランドが、FOCAのバーニー・エクレストンと最初の契約交渉を行うが、条件が折り合わず物別れとなる[187]。
- 9月末、ホンダ(佐野彰一)の指摘を反映した改良型FW10(FW10B)が完成し、ヨーロッパGPの前に様々なテスト走行が行われる[226]。この改良型が投入された最後の3戦はタイヤトラブルが発生しなくなる[注釈 103]。
- 10月6日、第14戦ヨーロッパGP(ブランズハッチ)で、ナイジェル・マンセルが自身のF1初優勝を挙げ、続く第15戦南アフリカGPではマンセルがロズベルグを引き連れて優勝し、ホンダにとってF1では初となる1-2フィニッシュを記録する[226][224](連勝するのも初)。
- 10月、ジャン=マリー・バレストルがFISA会長に再選するとともに、FIA会長に選出され、両職を兼務することになる[251]。
- 11月3日、最終戦(第16戦)オーストラリアGPをロズベルグが制し、ウィリアムズ・ホンダは終盤3戦を連勝してシーズンを終える[226][224]
- 12月、鈴鹿サーキットで、ネルソン・ピケがウィリアムズ・ホンダで初めてテスト走行を行う[252][注釈 104]。
- この年、日本において円高が進み、それまで1ドル=240円だったドル円レートは1年足らずの間に1ドル=160円となり(円高不況)、輸出を主力事業とするホンダは大きな打撃を受ける[253]。そのため、レース活動への影響を危惧する声が高まる[254]。
- ホンダでは、この年からエンジンマネジメントシステムが本格的に導入され、テレメトリーシステムの運用体制の構築も始まる[255]。
- この年から燃料タンクの容量の上限が220リットルから195リットルに引き下げられたが、電子制御の高度化が大きな武器となり、ホンダは決勝レースで前年の800馬力より高い900馬力をコンスタントに出力しつつ、195リットルの燃料で走り切るエンジンを開発する[256]。
- 3月10日、フランク・ウィリアムズが自動車事故により半身不随となる重傷を負う。3月21日から23日にかけて開幕戦ブラジルGPが開催されたが、フランク・ウィリアムズがチームからの長期離脱を余儀なくされたことで、ウィリアムズはチーム代表不在でシーズンを戦うことになる[注釈 105]。開幕戦は移籍初戦のネルソン・ピケがベテランらしい走りで完勝する[256]。
- 4月13日、第2戦スペインGPで、ナイジェル・マンセルがアイルトン・セナ(ロータス・ルノー)と優勝を争うが、0.014秒という僅差で2位となる[256]。敗因のひとつとなった燃料計の故障を解決するため[注釈 106]、次戦サンマリノGPまでに、走行中の車両から燃料量を無線で飛ばす近距離テレメーターが開発され、搭載される[256]。
- 4月、本田技術研究所の四輪研究開発部隊の移転が完了し、栃木研究所が始まる[W 10]。第2期のF1プロジェクトは引き続き和光研究所を中心に進められる。
- 5月10日(土曜)夕方、第4戦モナコGPに際して、アイルトン・セナが桜井淑敏と密かに面会し、ホンダエンジン搭載車で走りたい旨を初めて直接要望する[256][240][注釈 107]。
- 5月14日、ポールリカール合同テスト中にエリオ・デ・アンジェリス(ブラバム・BMW)の事故が発生し、デ・アンジェリスは翌15日に死去する[247]。この出来事を契機として、FISA、FOCA、ドライバー、エンジンサプライヤーの間で、エンジンの馬力規制についての議論が急速に進められる[259]。
- 5月、第5戦ベルギーGPが開催される。前年からテストを重ねていたテレメトリーシステムはこのレースで実戦で使えるものとしてほぼ確立する[260]。
- 6月13日(金曜)、第6戦カナダGPに際してFISA、FOCA、エンジンサプライヤー10社の間で馬力規制についての話し合いが行われるが、結論は出ずに終わる[253]。
- 6月、第7戦アメリカGPに際して、ロータスのピーター・ウォーがホンダ(桜井)に接触し、エンジン供給を改めて強く要望する[253][注釈 108]。桜井はこの時の熱心な売り込みや、馬力規制を巡る議論などを考慮してそれまでの考えを改め、ウィリアムズとの2チーム供給を本社に諮り、承認を得る[253][注釈 109]。
- 6月26日、馬力規制を議題として、エンジンコンストラクターによるミーティングが10時間に及ぶ長時間に渡って繰り広げられ、エア・フランジもしくはポップオフバルブ(もしくはその両方)を用いた制限とするか、排気量減少とするか話し合いが行われる[262][注釈 110]。
- 6月27日、FISAが前日の会議についての記者会見を開き、結論は出なかったことを公表する[262]。
- 夏(日付不明)、川本信彦が中嶋悟に翌年からヨーロッパの国際F3000でラルト・ホンダから参戦することを提案する[232][注釈 111]。
- 7月1日[262]、BMWが同年限りでF1から撤退することを唐突に発表する[263][262][注釈 112]。
- 7月7日、ホンダはロータスに翌年からエンジンを供給する旨を伝える[253]。同時に、ホンダはイギリスに独自の拠点(ラングレーオフィス)を設けることを決める[245]。
- 7月11日、ホンダ(桜井)が中嶋悟を和光研究所に呼び、チーム・ロータスに来季からエンジン供給を行うことと、同チームに中嶋をドライバーとして推薦したことを伝え、受けるかの判断は中嶋に委ねる[267][254][268]。
- 7月、第9戦イギリスGPで、フランク・ウィリアムズが車椅子姿となってF1のパドックに姿を現すが、業務には復帰できない状態が続く。
- 7月15日、イギリスのロータスの本拠地(Ketteringham Hall)において、中嶋悟がチーム・ロータスと翌年のドライバー契約(1年+オプション)を結ぶ[267]。
- 7月のイギリスGPとドイツGPの間[265][267][266](6月のアメリカGP後とする文献もある[269])、マクラーレンのロン・デニスが来日してホンダエンジンの供給を要望して交渉を行う[266][270][271][注釈 113]。この際、デニスに同行してホンダを訪れたアラン・プロストは、「セカンドドライバー」を誰にするか議題に上がった際に、ピケなどの名前も挙がる中、セナを希望する[270][271]。ただ、この時点でホンダは翌年のウィリアムズとロータスの2チームへのエンジン供給を既に決定済みであったため、桜井は断る[269]。
- 7月26日(土曜)、第10戦ドイツGPの予選終了後[267][273]、ロータスと翌年のエンジン供給契約を結んだことと[253][240][245][274]、中嶋悟が日本人初のフルタイムのF1ドライバーとしてロータスから参戦することを発表する[273][275]。
- 8月初め頃、前年に鈴鹿サーキットにおけるF1開催の交渉が物別れに終わったホンダランドが、バーニー・エクレストンとの交渉を再開する[187][注釈 114]。
「 | その新しいレギュレーションは、うちのエンジンだけに適用されるものなのか? (すべてのエンジンが対象であると聞いて、カカカと笑い)そうか。うちのエンジンに対してだけ規制するんだったら、なんて頭のいいやつらだと感心したところだが、やつら相当バカだなァ。レギュレーションをどう変えたって、うちが有利になるだけじゃないか。こりゃチャンスだ。[183] | 」 |
—本田宗一郎(1986年9月、イタリアGP翌週) |
- 9月5日(金曜)、第13戦イタリアGPを前に、1989年にターボチャージャーの搭載が禁止され自然吸気エンジンに統一されること、搭載が許可されている1987年と1988年にもターボ規制が実施されることなどがFISAからエンジンサプライヤーに内示される[276][277]。
- 9月21日、第14戦ポルトガルGPが開催され、このレース終了時点でウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトル獲得を確定させ、ホンダエンジン使用チームとしてはF1では初となる世界タイトルを手にすることになる[278][279]。
- 9月(ポルトガルGP後)、ルノーが同年限りでF1から(一時)撤退することを発表する[272][注釈 115]。
- 9月(もしくは10月[280][281])、本田技術研究所で、自然吸気エンジンの仕様検討が始まる[282][283][注釈 116]。
- 10月3日、FISAが1987年以降のターボ規制と、1989年からは自然吸気式エンジンに統一すること(ターボエンジンの禁止)を正式に発表する[284][285][286][注釈 117]。
- 10月26日、ウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルとネルソン・ピケの両名がチャンピオン獲得の可能性を残した状態で最終戦(第16戦)オーストラリアGPを迎えたが、ドライバーズタイトルは逆転でアラン・プロスト(マクラーレン・TAG)が獲得する結果となる[279]。
- シーズン終了後、土岐進が渡英し、ウィリアムズ、ロータスとの間で、自然吸気エンジンの仕様について議論が行われる[288]。
- 11月22日にFOCAのバーニー・エクレストンが来日し、24日にホンダランドがFOCAと鈴鹿サーキットにおけるF1開催契約(期間は翌年からの5年間)を締結し、11月26日に東京のパレスホテルで記者発表が行われる[289][278][187][274][注釈 118]。
- 12月、フジテレビがFOCAと契約を締結し、F1グランプリ全戦の日本における放映権を取得し[274]、年明けの1月末に記者発表が行われる[187]。これにより、ホンダ関係者が目指していた「三点セット」が1987年にそろうことになる。
- 初め、1989年から投入する自然吸気エンジンの開発が始まる[290]。
- 2月3日、ロンドンにおいてロータスが体制発表会を行い、ロータス・99Tを発表する。
- 2月11日から12日にかけて、ドニントンパークで、ロータス・ホンダが初のテスト走行を行う(ドライバーはアイルトン・セナ)[291]。
- 3月、イギリス・ラングレーにヨーロッパにおける拠点を開設[292][293][294][注釈 119]。
- 3月27日、アルファロメオがF1からの撤退を表明する[295]。
- 4月、開幕戦ブラジルGPが開催される。
- 6月初め、翌年の体制について、マクラーレン、ロータスと契約し、アイルトン・セナをロータスからマクラーレンに移籍させるという方針がホンダの社内で固まる[296][注釈 120]。
- 6月18日、マクラーレンとの間で、「イコールパートナー」という条件で、翌年からの契約が正式に結ばれる[296][注釈 121]。
- 7月12日、第7戦イギリスGPで、ナイジェル・マンセルが優勝し、ネルソン・ピケが2位、アイルトン・セナが3位、中嶋悟が4位となり、ホンダエンジン搭載車が1-2-3-4フィニッシュを達成する[10]。
- 7月中旬[注釈 122]、ウィリアムズに対して、翌年以降の契約を延長しない旨、フランク・ウィリアムズに伝える[296][245]。この通知はウィリアムズ側の反発を招き、翌8月中旬、ホンダと関係の深いジャッドエンジンの供給を世話することを交換条件として、契約終了の合意に至る[296][245][注釈 123]。
- 7月(時期不明)、自然吸気V10エンジンのプロトタイプの1号機が組みあがる[299][281][注釈 124]。
- 8月、第9戦ハンガリーGPに際して、ロータスがネルソン・ピケと翌年の契約を結んだことを発表する[301]。
- 9月初め、第11戦イタリアGPに合わせて、ホンダが翌年からマクラーレンにエンジン供給を始めることを発表し、同時に、ウィリアムズとの契約を終了することも発表する[302]。ロータス・ホンダのアイルトン・セナが翌年はマクラーレンに移籍することも合わせて発表される[303][注釈 125]。
- 10月29日から11月9日にかけて開催された東京モーターショーで、自然吸気V10エンジンの試作機が「RA108E」として展示される[288][注釈 126]。
- 10月29日から11月1日にかけ、鈴鹿サーキットでは初となるF1日本グランプリが開催される(1987年日本GP)。
- 10月30日(金曜)の予選1日目でクラッシュしたナイジェル・マンセルはレースを欠場することになり、ネルソン・ピケがホンダエンジン搭載車では初となるドライバーズタイトルを獲得する[305]。
- 11月1日の決勝ではピケもノーポイントに終わるが、ランキング2位だったマクラーレン・TAGが4ポイントの獲得に留まったことで、ウィリアムズ・ホンダの2年連続のコンストラクターズタイトル獲得も確定する。
- 11月[注釈 127]、自然吸気V10エンジンの第2次プロトタイプの検討会が行われる[299]。この際、バンク角を80度から72度に変更する[299][281]。
- 12月14日から19日にかけて、エストリルサーキットでF1の合同テストが開催され、マクラーレンはホンダエンジンを搭載した車両(MP4/3B)を初めて走らせる(ドライバーはアラン・プロスト)[306]。
- この年からシェル(ロイヤル・ダッチ・シェル)との協力による燃料開発が始まる[307]。また、マクラーレンのテストチームが日本に常駐する体制となり、エマニュエル・ピロをテストドライバーとして鈴鹿サーキットでテストが繰り返される[308]。
- 桜井淑敏が総監督を退任し、後藤治が後任となる。
- 1月8日から12日にかけて、鈴鹿サーキットにおけるマクラーレン・ホンダの初テストが行われる(ドライバーはアラン・プロスト)[309]。
- 3月23日、イモラ・サーキットにおいて、マクラーレン・MP4/4のシェイクダウンが行われる(ドライバーはアラン・プロストとアイルトン・セナ)[310]。
- 5月、無限で、F1エンジン開発プロジェクトが始まる[311][注釈 128]。
- 8月中旬、シルバーストン・サーキットにおいて、自然吸気V10エンジンの試作機をマクラーレンのF1車両に搭載して初のテスト走行が行われる[312][281]。
- 9月11日、第12戦イタリアGPで、アラン・プロスト、アイルトン・セナの両ドライバーとも優勝を逃し、結果的にこの年でマクラーレン・ホンダが優勝を逃した唯一のレースとなる。
- 9月25日、第13戦ポルトガルGPの決勝レースで、アイルトン・セナがチームメイトのアラン・プロストをピットウォールに幅寄せしたことを契機に両者の関係が険悪になり[注釈 129]、この時は一時的なものだったが、翌年にも尾を引くことになる[313][314]。
- 10月(日本GP前)、ジャン=マリー・バレストルからホンダ社長の久米是志に宛てて「セナとプロストに同等のエンジンを供給するように」と要望する手紙が届く[315][316]。
- 10月30日、第15戦日本GPが開催され、優勝したアイルトン・セナが自身初のワールドチャンピオンタイトルを獲得する[注釈 130]。
- 11月13日、最終戦(第16戦)オーストラリアGPでアラン・プロストが優勝し、マクラーレン・ホンダが年間全16戦中15勝という記録を残す[注釈 131]。これにより、ホンダは「F1GP完全制覇」という第2期参戦の所期の目的を達成する[318]。
- 12月、RA109Eエンジンのカムの駆動方式をベルト駆動からギア駆動に変更する設計変更が決断される[288]。
- 末、ホンダが「モビリティワールドもてぎ(仮称)」の建設計画を発表する[319]。
- 1月末(もしくは4月[320])、本田技術研究所がV12エンジンの開発プロジェクトを始める[321][322][注釈 132]。
- 2月、RA109Eエンジンが完成する[288]。
- 2月頃、鈴鹿サーキットにおいて、アイルトン・セナが初めてNSX試作車を走らせ、以降、同所にて複数回に渡ってテスト走行に参加し、意見を述べる[323][注釈 133]。
- 4月23日、第2戦サンマリノGPで、再スタート直後の紳士協定違反をめぐる諍いから、アイルトン・セナとアラン・プロストの不和が決定的になる[313][314][注釈 134]。
- 7月(フランスGP前)、アイルトン・セナがフェラーリと仮契約を結ぶが、ホンダとマクラーレンはセナとの契約条件を見直して慰留する[326]。
- 7月、第7戦フランスGPに際して、アラン・プロストが年内でチームを離脱することを表明する[271][注釈 135]。
- ホンダ批判を繰り返すアラン・プロストについて、ホンダは契約違反を理由に解雇するようロン・デニスに提案し、一度は同意を得るが、デニスが翻意して「シーズン終了まで」待つことになる[316][注釈 136]。
- 9月(イタリアGP前)、アラン・プロストが翌年からフェラーリに移籍することを発表する[327][注釈 137]。
- 9月、第12戦イタリアGPに際して、FISA会長のジャン=マリー・バレストル[注釈 138]が「アラン・プロストがホンダから悪い待遇を受けている証拠を握っている」と発言し、物議をかもす[204]。このレースでプロストが優勝し、ホンダはF1で通算50勝目を記録するとともに[327]、マクラーレン・ホンダはシーズンを4戦残してコンストラクターズタイトルの連覇を確定させる。しかし、優勝したプロストがトロフィーをイタリアの観客(ティフォシ)に投げ与えたことで、ロン・デニスとプロストの関係はさらに険悪なものとなり、後味の悪さを残す[328][注釈 139]。
- 9月、V12エンジンのプロトタイプが完成し、ベンチテストを始める[300][注釈 141]。
- 10月、第15戦日本GPが開催される。
- 10月、1991年からティレルにV10エンジンを供給することが決まる[330][注釈 142]。
- 10月26日から11月6日にかけて開催された東京モーターショーで、自然吸気V12エンジンのプロトタイプが展示される[333]。同時に、ホンダが1991年からティレルにエンジン供給を行うことも会期中に発表される[332]。
- 11月、アイルトン・セナが、従来よりも軽く、視界がクリアなヘルメットを要望したため、それに応えるため、二輪用ヘルメットを手掛けるホンダアクセスでヘルメット開発が始まる[334]。
- 時期不明、ホンダ最高顧問の本田宗一郎が川本信彦に「いつまでF1をやるんだ?」と質問する[335][245]。
- 11月[336]、無限が自社製の3.5リッター・V型8気筒のF1用エンジン(無限・MF358)をF3000の車体(レイナード・89D)に搭載し、鈴鹿サーキットで実走テストを行う[337]。翌年以降はシャシーをティレル・018に変更し、1991年まで断続的にテストが続けられる[311]。タイヤはブリヂストンが供給し、後の同社によるF1参戦に先立つ基礎データ収集の役割も果たした[338][336]。
- 3月27日、日本において不動産向け融資の総量規制が始まり、これに端を発して日本経済は急激な景気後退に見舞われる(バブル崩壊)。日本国内における自動車の販売台数はこの年にピークとなる7,777,665台(軽自動車を含む)を記録したが、翌1991年は新車需要が急激に落ち込み、ホンダもその影響を受ける。
- 4月、ティレルに1991年の車体開発用のV10ダミーエンジンを渡す[330]。
- 6月、久米是志がホンダの社長を退任し、川本信彦がホンダの4代目社長に就任する。
- 6月28日、シルバーストンサーキットで開催された合同テストで、V12エンジンを搭載した車両による実走テストが初めて行われる[339]。評価は芳しくなく、コーナーからの脱出でトラクションが弱いという欠点が指摘される[322]。
- 9月13日、ホンダがNSXを発表し、翌月に発売する。
- 11月、本田技術研究所の自己啓発プログラムとして、橋本健、瀧敬之介ら栃木研究所の有志により、リサーチカー(RC)の製作が始まる[340][341][注釈 143]。
- 12月7日、FIA表彰式において、F1への長年の貢献により、FIAから本田宗一郎に特別功労賞(ゴールドメダル賞)が贈られる[343][344][345]。
- 12月19日、シルバーストンサーキットにおいて、ホンダのV10エンジンを搭載したティレル・020のシェイクダウンテストが行われる[330]。
- マクラーレンにV12エンジン(RA121E)を供給し、新たにティレルにV10エンジン(RA101E)の供給を行う。ティレルへの供給について、メンテナンスについては無限に委託される[337]。
- 5月12日、第4戦モナコGPでアイルトン・セナが優勝し、セナは当時としては新記録となる開幕4連勝を達成する。
- 6月頃、ラングレーで、シェルと共同で特殊燃料の開発が始まる[335][注釈 144]。
- 7月、第8戦イギリスGPでRA121Eエンジンのバージョン3が投入される[W 51]。これにより、エンジン回転数は最高14,000回転を超え、出力も本来の720馬力が発揮されるようになる[W 51]。同時に、シェルによる特殊燃料も使用され始める[W 51]。
- 7月、第9戦ドイツGPに際して、中嶋悟が1991年シーズン限りでF1から引退することを発表する[275][347]。
- 夏頃、本田技術研究所からホンダに、F1活動の休止が提案される[335][220]。
- 8月5日、本田宗一郎が死去。直後の8月11日、第10戦ハンガリーGPで、ホンダは新スペックエンジン、シェルがそれに合わせた特殊燃料を用意したこともあって、マクラーレン・ホンダのセナが自身のシーズン5勝目を挙げる[320]。
「 | アイルトンはウイリアムズに行きたがっていたが、ホンダに忠実でもあった。(中略)1991年にアイルトンと2つの契約オファーを持ってスパに行ったことを覚えている。ひとつはマクラーレン、もうひとつはウィリアムズとのね。アイルトンはウィリアムズに行くべきだということは分かっており、私も彼は日曜の朝にはウィリアムズと契約するものだと考えていた。しかし、彼は電話で日本の川本(信彦)氏と一晩話し、日曜の朝には「マクラーレンにもう1年留まる」と言ったんだ。[W 52] | 」 |
—ジュリアン・ジャコビ(2020年) |
- 8月、第11戦ベルギーGPが開催され、このレースでホンダは可変トランペット化したV12エンジンを投入する[348]。
- 9月、鈴鹿製作所が地元住民に「お礼の会」を催し、鈴鹿サーキット内に収集していた車両を初めて公開する(1993年にホンダコレクションホールとして一般公開を始める)[178]。
- 10月、FISAの会長選挙が行われ、マックス・モズレーが新会長に選出される[W 46]。ホンダの第2期活動でたびたびホンダと対立関係になったジャン=マリー・バレストルは、モズレーに敗れたことでF1における影響力をほぼ失う(FIAの会長職は1993年10月まで務める)。
- 10月、第15戦日本GPの開催に際して、無限が翌年からフットワークにエンジンを供給することを発表し、エンジンサプライヤーとしてF1参戦を開始することを明らかにする[337]。
- 11月3日、最終戦(第16戦)オーストラリアGPが開催され、このレースの結果により、マクラーレン・ホンダはコンストラクターズタイトルを確定させる。前戦でアイルトン・セナもドライバーズタイトルを獲得しており、これらは(異論のない)V12エンジン搭載車としてはF1史上初のタイトル獲得となる[W 51][注釈 145]。
- 11月、ホンダ上層部でF1活動を終了する方針が固まり、翌年末の撤退に向けた準備が秘密裏に始まる[335]。すぐに再開できるよう「休止」とすることが決まる[220]。
- 12月、ホンダ(川本信彦)がマクラーレン代表のロン・デニスに撤退の意向を伝える[349][335][注釈 146]。
- 1992年(最終年)
- 無限が「無限ホンダ」としてF1でエンジン供給を開始する。
- 4月2日、前年型(MP4/6B)を投入した開幕2戦で惨敗したことを受け、シルバーストンサーキットで、新型車のマクラーレン・MP4/7Aのシェイクダウンが急遽行われる[350]。
- 5月31日、第6戦モナコGPが開催される。この年はウィリアムズ・ルノーがシーズンを圧倒し、ナイジェル・マンセルが開幕5連勝を達成していたが、アイルトン・セナがこのレースを制してマクラーレン・ホンダにとってのシーズン初優勝を達成する。これにより、ホンダエンジン搭載車は1987年からモナコGPの6連勝を達成する。
- 6月頃、栃木研究所のRC計画の初号機となるRC-F1 1.0X(当時の俗称は「RC100」)が完成する[351]。
- 7月中旬、ホンダ・ヨーロッパ本社にて、川本信彦がアイルトン・セナにホンダのF1休止について伝える[352]。
- 7月18日付けの『朝日新聞』朝刊1面でホンダF1撤退が報じられ、ヨーロッパの一般メディアでも広く報じられる[353][335]。この時点で、ホンダは「正式な決定はなく、あらゆる可能性がある」というコメントを出すに留める[353][335][注釈 147]。
- 8月、第11戦ハンガリーGPが開催される。このレースより、燃料についての新規定が適用され、燃料は「市販のガソリンに準じたもの」にするという解釈が徹底される[354][355][注釈 148]。
- 8月26日、ゲルハルト・ベルガーがフェラーリと翌年の契約を結んだことを発表する[357]。
- 8月30日、第12戦ベルギーGPが開催され、このレースの結果によりこのレースの結果によりウィリアムズ・ルノーがコンストラクターズタイトルを確定させ、前戦でナイジェル・マンセルが確定させたドライバーズタイトルと合わせ、ダブルタイトルの獲得を確定させ、マクラーレン・ホンダは失冠する。
- 8月末[注釈 149]、ホンダの経営会議で、F1からの撤退が正式に決定する。
- 9月、第13戦イタリアGPが開催される。
- 9月、第14戦ポルトガルGPに際して、日本で製作されていたF1リサーチカー(RC)の話が断片的に漏れ伝わった結果、1994年にホンダがフルワークスチームで復帰するという噂が流れる[359]。
- 10月19日、栃木研究所のRC計画のRC-F1 1.5X(RC1B-101)が完成する[360]。
- 11月8日、最終戦(第16戦)オーストラリアGPで、マクラーレン・ホンダのゲルハルト・ベルガーが優勝し、活動休止前の最後のレースで有終の美を飾る。(第2期参戦の終わり)
- 11月、本田技術研究所で、第2期のエンジニアの内、橋本朋幸ら若手の2名が無限の「無限ホンダ」に協力するよう命じられる[361][362][注釈 151]。
- 1月、ホンダが1994年からインディカー(CART)にエンジンサプライヤーとして参戦することを発表する。第2期のエンジニアの一部はそちらの開発に回ることになる。
- 2月、栃木研究所の有志により製作されたRC-F1 1.5X(RC101)の走行中の写真がスクープとしてメディアで公開される[342][注釈 152]。
- 7月、鈴鹿サーキット敷地内のホンダコレクションホールの一般公開が始まり[178][W 54]、それまでのホンダのF1参戦車両も公開されるようになる[注釈 153]。
- 夏、栃木研究所のRC計画が一旦終了する[341]。
- 10月、FISA会長のマックス・モズレーがFIAの会長にも選出される。それに伴いFISAは解体され、モータースポーツ統括団体としての権能はFIAに(再)統合される[W 46]。
- 1月15日、鈴鹿サーキットで開催されたモータースポーツ感謝デーにおいて、RC-F1 1.5X(RC101)が初めて一般公開され、翌16日には東コースでデモ走行が行われる(ドライバーは中嶋悟)[340]。
- 5月1日、第3戦サンマリノGP中の事故により、アイルトン・セナが死去(アイルトン・セナの死)。翌日からの5日間で、ホンダ青山ビルのウェルカムプラザには10万人を超えるファンが追悼に訪れた[364][注釈 154]。その状況を受けて、ホンダは駐日ブラジル大使館と共同で、同所で追悼セレモニーを営んだ[364]。
- 11月、鈴鹿サーキットにおいて第15戦日本グランプリが開催される。金曜から日曜までの来場者数は約357,000人となり、この時点で日本グランプリにおける最多来場者数を記録する(2006年に更新)[365]。
- 11月、無限ホンダは翌年からミナルディにエンジンを供給する予定で開発を進めていたが、フラビオ・ブリアトーレの介入により、供給先がリジェに急遽変更される[366]。
- 鈴鹿サーキットランドが運営する鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS。1992年開校)が、フォーミュラカーのプロドライバーを育成することを目的にした「鈴鹿サーキットレーシングスクールフォーミュラ(SRS-Formula)」を設立する[W 55]。2年後の1997年に佐藤琢磨が入校することとなる。
- この頃、無限代表の本田博俊とブリアトーレとの間で、当時のMF301Hエンジンを外販する話が持ち上がるが、結局諸事情により実現せずに終わる[362]。
- 3月20日、RC-F1 2.0X(RC2-001)が完成する[360][注釈 155]。完成後、試走が密かに行われ、以降、(公開で走ることも何度かあった1.5Xと異なり)2.0Xの存在は2002年頃まで秘匿された[360]。
- 同時期、本田技術研究所内でRC計画をベースとしたF1参戦計画が持ち上がり、その一環として飯田章が欧州に派遣され1996年の国際F3000選手権にフル参戦するが、計画は表面化することなく消滅し、飯田も1年で帰国した[W 56]。
- RC計画は翌1997年まで細々と続けられたが、RC-F1 2.0Xをもって、活動は終息する[341][注釈 156]。
- 5月19日、第6戦モナコGPで、オリビエ・パニス(リジェ・無限ホンダ)が優勝する。これにより、無限ホンダはF1初優勝を果たす。
参戦車両(1983年 - 1992年)
[編集]-
スピリット・201C(1983年)
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ウィリアムズ・FW09(1983年 - 1984年)
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ウィリアムズ・FW10(1985年)
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ウィリアムズ・FW11(1986年)
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ウィリアムズ・FW11B(1987年)
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ロータス・99T(1987年)
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ロータス・100T(1988年)
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マクラーレン・MP4/4(1988年)
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マクラーレン・MP4/5(1989年)
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マクラーレン・MP4/5B(1990年)
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マクラーレン・MP4/6(1991年)
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ティレル・020(1991年)
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マクラーレン・MP4/7A(1992年)
第3期(2000年 - 2008年)
[編集]- 夏頃、第3期F1活動に向けた準備を秘密裏にスタートする旨、本田技術研究所内でアナウンスが行われる[367][注釈 157]。
- 7月、イギリスGPに際して、無限とジョーダンが翌年以降のエンジン供給についての契約を結んだことを発表する(この時点では2年契約)[368]。
- 7月23日付けの『読売新聞』朝刊1面の記事を発端として、ホンダの2000年F1復帰説、そして同社の創立50周年の1998年に何らかの発表がされるということが噂され始める[369][注釈 158]。
- 8月、栃木県茂木町に建設されたツインリンクもてぎが開業する。
- 11月、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)の支援を受けたクレイグ・ポロックが、ティレルを買収する(発表は12月2日[370])。ポロックは1998年はティレルのまま参戦し、1999年からはレイナードによる新体制で参戦を始めると表明し、ハーベイ・ポスルスウェイトをはじめとするティレルのスタッフは1999年以降の行き場を失う[371]。ポロックらによる新チーム(BAR)の結成とティレルスタッフの放出という、このふたつの出来事は後にどちらもホンダの第3期F1参戦に大きく関わってくることになる。
- 12月、鈴鹿サーキット内のホンダコレクションホールが閉館する(移転のため)[178]。
- (時期不明)ホンダがジョーダンの買収についての打診を水面下で行う[372]。
- この年、日本国内の四輪自動車販売において、ホンダが目標としていた年間の販売台数80万台を達成する[373]。
- 1998年(復帰表明)
- この年はホンダの創立50周年にあたる。年明け頃から、ホンダ関係者からのリークの形でホンダのF1復帰についての噂が出始める[374]。
- 初頭、1999年からフルワークスチームとして参戦するということで、F1参戦に向けたプロジェクトが始動する[375]。本田技術研究所が単独で車体まで開発することは現実的ではなかったため、ハーベイ・ポスルスウェイトら、ティレルのスタッフをプロジェクトに迎える[375]。
- 初頭、クレイグ・ポロックがBATのトム・モーザー(Tom Moser)とともに来日し、ホンダに対してエンジン供給を打診する[376][注釈 159]。
- 2月、テスト用車両(RA099)の車体を製作するため、イタリアの車体コンストラクターのダラーラとの接触を開始する[375][注釈 160]。
- 2月、ホンダがチームとしてF1に参戦する意向をFIAに伝える[371]。
- 3月9日(開幕戦オーストラリアGP決勝日)、ホンダ社長の川本信彦の名義でプレスリリースが出され、「車体開発を含めた形のF1復帰に向けて、具体的な検討に入った」と明かされる[374][371][注釈 161]。
- 3月21日、ツインリンクもてぎ内に設立されたホンダコレクションホールの一般公開が始まる[W 57]。展示車両は鈴鹿サーキットの旧施設から移され、レストア設備も備えた常設展示施設となり[W 57]、F1車両も含めた動態保存の方針も明確になる[176][注釈 162]。
- 4月27日、川本信彦がホンダの社長を退任し、吉野浩行がホンダの5代目社長に就任することが発表される[373][371](6月付人事)。
- 保坂武文がホンダのF1プロジェクトリーダーに就任する。
- 5月8日、イギリス・ブラックネルにホンダレーシング・デベロップメント(HRD, Honda Racing Development Limited)が設立される[382][W 58]。HRDにはポスルスウェイトら旧ティレルのスタッフを中心とした70名ほどが在籍することになる[383][注釈 163]。
- チームマネージャーはルパート・マンウォリング、テクニカルディレクターはハーベイ・ポスルスウェイト、チーフデザイナーはティム・デンシャムという、旧ティレルのスタッフを主体とした体制が構築される[385]。
- 7月、ホンダ社長の吉野浩行により、福井威夫がホンダのF1参戦計画の総責任者に内々に任命される[386][注釈 164]。
- 9月下旬、第15戦ルクセンブルクGP(ニュルブルクリンク)に際してF1委員会の会合が開かれ、その中で、2000年からの参戦を前提として、ホンダがコンコルド協定に参加することが正式に承認される[387][373][371]。これにより、ホンダに特例として「12番目のチーム」としての参戦権が与えられる[387][注釈 165]。
- 9月24日、ホンダが創立50周年を迎える。
- 10月23日、ホンダ社長の吉野浩行が「F1復帰は2000年になる見通し」と発言する[373][371]。
- 12月15日、イタリア・バイラーノにおいて、試作車「RA099」のシェイクダウンが行われる(ドライバーはヨス・フェルスタッペン)[388][375][371][注釈 166][注釈 167]。
- 12月21日、ホンダの定例の年末社長懇談会において、ホンダ社長の吉野浩行が、前週にF1車両のテストを行ったことと1999年も引き続き走行テストを行うことを認める発言をする[388][380][375][390][371][注釈 168]。
- 1月15日から16日にかけて、ムジェロでRA099の非公開テストが行われる[385]。
- 1月23日から25日にかけて、ヘレス合同テストにRA099が参加する[371]。参加した3日間の内、初日と2日目にトップタイムを記録し、他チームを驚愕させる[385][371][注釈 169]。
- 2月8日、バルセロナ合同テストにRA099が参加する[371]。
- 2月28日、シルバーストン合同テストにRA099が参加する[371]。
- 3月初め、F1の1999年シーズンが開幕。ティレルの参戦権のみを引き継ぐ形でブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)が参戦を始める。この年のBARはルノー系のスーパーテックエンジンを搭載する。
- 3月23日、ホンダ本社で経営会議が行われ、F1参戦についても話し合われるが、参戦の是非や参戦形態について、結論が出ずに終わる[391][392][注釈 170]。
- 3月下旬、BARとエンジン供給に向けた交渉を始める[393][392]。
- 3月(日付不明)、ホンダがハーベイ・ポスルスウェイトにフルワークスチームによる参戦という方向には進まない旨を通知し、そのことを口外しないよう伝える[394][注釈 171]。
- 春過ぎ、本田技術研究所が独自開発した自然吸気V10エンジンのプロトタイプがベンチテストを始める[199]。
- 4月(15日以前)、F1関係者の間で「ホンダがコンストラクターとしての参戦を断念してエンジンサプライヤーとして復帰する」、「その供給先はBARになる」との憶測が流れ始める[395][371]。
- 4月15日、RA099の単独テストのためHRDのテストチームが訪れていたバルセロナで、テクニカルディレクターであるハーベイ・ポスルスウェイトが急死する[395][392]。これにより、HRDは技術部門の責任者を失うが、ホンダはF1参戦に向けた計画に変更はないとHRDに伝える[395]。
- 5月19日から20日にかけて、バルセロナ合同テストにRA099が参加する[371]。20日のテスト終了後の午後5時、HRDのスタッフたちにプロジェクトの終了とHRDの解散が突然告げられる[396][397]。
- 5月20日、BARが2000年まで結んでいたスーパーテックとの契約を解消することを発表する[398]。
- 5月21日、ホンダがエンジンサプライヤーとしてF1に復帰することを発表し、エンジン供給契約をBARと結んだこともあわせて発表する[398][371][注釈 172]。
- 9月7日、ツインリンクもてぎで、RA099が日本国内における初走行を行う(ドライバーは中嶋悟)[371]。
- 9月、ホンダからの依頼を受けた日石三菱が、ホンダ製F1エンジン用に最適化した燃料とエンジンオイルの開発を始める[402][注釈 173]。
- 10月1日、HRDが新たな役割とともに再スタートを切る[403]。田中詔一が再編された新HRDの社長に任命される[403][404][399]。
- 10月26日(31日決勝の日本GPの直前)、東京都内で2000年の参戦体制の発表が行われ、RA000Eエンジンが披露される[371]。
- 12月7日、シルバーストンサーキットにおいて、BAR・ホンダ(BAR・002とホンダ・RA000Eエンジン)が初テストを行う(ドライバーはジャック・ヴィルヌーヴ)[405][371]。
- 2000年(エンジン供給開始)
- 2月1日、イギリス・ブラックリーのBARファクトリーに土井清行らHRDの車体開発チームが常駐するようになり、車体の共同開発が始まる[403]。
- 3月、開幕戦オーストラリアGPが開催され、BAR・ホンダが参戦を始める。(第3期参戦の始まり)
- ドライバーはジャック・ヴィルヌーヴとリカルド・ゾンタ。BARのチーム代表はクレイグ・ポロック。車体の開発責任者はテクニカルディレクターのエイドリアン・レイナード。
- 3月30日、日石三菱がBAR・ホンダに燃料(ガソリン)とエンジンオイルを供給することを発表する[402]。これにより、第3戦サンマリノGPから、燃料とエンジンオイルはエルフ製(有償)に代えて日石三菱製に順次変更されていく(2001年以降はENEOSブランドが使用される)[402]。
- 6月29日、第9戦フランスGPを前に、ホンダが翌年からジョーダンにもエンジンを供給することを発表する[406][407][注釈 174]。この時点で無限ホンダの翌年以降の扱いは発表されず、不透明なものとなる[408]。
- 10月、第16戦日本GPで、ミハエル・シューマッハがフェラーリに移籍して初となるチャンピオンタイトルを獲得する。以降、2004年にかけてシューマッハとフェラーリが選手権を席巻する。
- 11月2日、無限がF1活動を停止し来季は参戦しないことをプレスリリースで発表し、無限ホンダはF1における活動を終了する[409][410][注釈 175]。
- BARがマルコム・オースラーをテクニカルディレクターに起用(チーフデザイナーから昇格)。
- レギュラードライバーは前年のゾンタに代わってオリビエ・パニスを起用し、テストドライバーに佐藤琢磨らを起用。
- 3月、開幕戦オーストラリアGPが開催され、BAR・ホンダに加えて、ジョーダン・ホンダが参戦を始める。
- 4月29日、第5戦スペインGPでジャック・ヴィルヌーヴが3位となり、BAR・ホンダにとっての初表彰台を獲得する。
- 7月、第12戦ドイツGPの開催を前に、ジョーダンがハインツ=ハラルド・フレンツェンを電撃的に解雇し、同レースではリカルド・ゾンタをスポット起用する[411]。
- 8月半ば、第13戦ハンガリーGPが開催され、このレースからジョーダンがジャン・アレジを起用する[411]。
- 10月29日、ジェフ・ウィリスがウィリアムズからBARに移籍することが発表される(ガーデニング休暇の後、翌年3月1日付けで移籍)[412]。
- 11月、ゲイリー・アンダーソンがジョーダンに復帰する[413][W 60]。
- 11月、本田技術研究所において体制変更が行われる[414]。
- 12月7日、BARにおいて、チーム代表のポロックが更迭され、後任にデビッド・リチャーズが就任する[407][399]。
- 3月1日、ジェフ・ウィリスがBARのテクニカルディレクターに就任する[407]。
- 3月3日、開幕戦オーストラリアGPが開催され、佐藤琢磨がジョーダン・ホンダからF1デビューを果たす。
- 3月28日、BARのシャシーを製造していたレイナードが倒産する。
- 4月、オトマー・サフナウアーがHRDの副社長に就任[W 61]。同時期にBARではニック・フライが加入し、マネージメントディレクターに就任する[416][407]。
- 4月、第4戦サンマリノGPで、本来は開幕戦仕様として投入する予定だったエンジンをようやく投入する[417][注釈 177]。同レースでジョーダンのジャンカルロ・フィジケラがホンダ陣営にとってのシーズン初ポイントを獲得する[417]。
- 7月7日、第10戦イギリスGPで、BARのジャック・ヴィルヌーヴとオリビエ・パニスがダブル入賞し、この年のチーム初ポイントを獲得する。
- 7月22日、BARがジェンソン・バトンと翌年以降のドライバー契約(2年契約)を結ぶ[W 62]。それに伴い、オリビエ・パニスはチームを離脱することになる[注釈 178]。
- 8月18日、ホンダが同年をもってジョーダンへのエンジン供給を終了することを発表する[407]。
- 10月1日、木内健雄がホンダのF1プロジェクトリーダー(エンジン開発の責任者)に就任する[414][419]。
- この年からBARのスポンサーとなり資金提供を始めるとともに、BARとの間でジョイント・レーシングボードを作り、チーム運営にも踏み込むようになる[420][注釈 179]。
- 3月、中本修平がエンジニアリングディレクターに就任[407]。
- 4月、吉野浩行がホンダの社長を退任し、福井威夫がホンダの6代目社長に就任することが発表される[407]。
- 4月、第4戦サンマリノGPに際して、サーキットを訪れた福井威夫がBARの買収について質問され「必要があればその可能性もある」と答え(それまでは否定していた)、フルワークスチームとすることを示唆する[421]。
- 10月、ジャック・ヴィルヌーヴが最終戦(第16戦)日本GPを欠場し、佐藤琢磨が代役として出走し、6位入賞を果たす。ヴィルヌーヴはそのままチームを去る。
- 前年までBARのファクトリーにホンダのエンジニアが10名ほど常駐していたが、この年からその体制をやめ、車体開発はBARに任せる体制にする[422]。
- 4月24日、第4戦サンマリノGPにおいて、ジェンソン・バトンがBAR・ホンダとして初となるポールポジションを獲得。
- 6月20日、第9戦アメリカGPにおいて、佐藤琢磨が3位表彰台を獲得する。日本人ドライバーがホンダエンジン搭載車でF1の表彰台を獲得した初の例となる。
- 7月23日、ホンダとBARが2007年まで契約を延長することを発表する[423]。
- 8月5日、ウィリアムズがジェンソン・バトンが翌年から加入することを発表する。BARの契約も残っていたことから、二重契約状態となったバトンの契約問題(通称「バトンゲート」)が発生する[423]。
- 10月、バトンの契約問題について、FIAの契約承認委員会(CBC)が、2005年の契約についてはBARと結んだ契約を有効とする裁定を下す[424]。
- 10月、BAR・ホンダがこの年のコンストラクターズ選手権においてランキング2位を獲得[407]。優勝こそなかったものの、コンストラクターズランキングとしては、この年が第3期の最高成績となる。
- 11月、2006年からの使用が義務付けられたV8エンジンの開発がスタートする[356]。
- 11月19日、ホンダがBARのチーム株式の45%を取得したことを発表する[407][425][注釈 180]。同時に、リチャーズがBARのチーム代表・CEOの職から更迭され、フライが後任として同職に就任する[407][425]。
- 1月、前年末のホンダの資本参加を受けて、BARチームの運営会社の名称が「British American Racing GP Limited」から「BAR Honda GP Limited」に変更される[425][W 63]。
- 2月、鈴木亜久里がホンダに対して、BATが保有するBAR株式(55%の全部もしくは一部)を買い取り、チームの共同オーナーとなり、ホンダとともにチーム運営を行いたいという提案を行う[427][428][注釈 181]。以降、7月まで、この件についての話し合いが数度にわたって持たれた[429]。
- 4月、田中詔一が定年退職に伴いHRDの社長を退任し、ホンダ本社のモータースポーツ部長である和田康裕が兼務する形でHRDの社長に就任する[430][431]。この人事に伴い、和田、フライと親交のあったジル・ド・フェランがBARのスポーティングディレクターに就任する[431][注釈 182]。
- 4月24日、第4戦サンマリノGPでバトンが3位、佐藤が5位で完走を果たしたが、最低重量規定違反で失格となる[432]。加えて、予備燃料タンクの存在が発覚してレギュレーション違反に問われる[432]。
- 5月5日、サンマリノGPにおけるBARの違反に対して2戦の出場停止処分が下り、BARは第5戦スペインGPと第6戦モナコGPを欠場する[430]。
- 5月9日、F1に参戦している他の自動車メーカーと共同でグランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション(GPMA)を結成する。
- 5月、ヘレスサーキットにおいて、RA004Eをベースに2気筒削ってV8化した先行エンジン(データ収集用)を用いて、他チームに先駆けてV8エンジンの実走テストを行う[356]。
- 7月、鈴木亜久里が2月に提案した買収案について、ホンダは検討の末、断りの返事をする[427][428][433][注釈 183]。
- 8月、2006年用V8エンジンの試作機のベンチテストが始まる[356]。
- 8月16日、BARが翌年からルーベンス・バリチェロを起用することを発表する[407][注釈 184]。
- 9月21日、第17戦ブラジルGPに先立ち、BARが翌年もジェンソン・バトンが残留することを発表する。同時に、佐藤琢磨がBARから参戦しないことが明らかとなる[407][注釈 185]。佐藤をレギュラードライバーとして起用しないことが明らかになったことで、ホンダは日本において激しい非難を浴び、対策の検討を余儀なくされる[433]。
- 10月3日、鈴木亜久里がホンダ(HRD社長の和田康裕とホンダ広報部長の大島裕志)から、F1参戦に必要なエンジンや車体(BAR・007)の供給など、全面的な支援の約束を取り付ける[436][428]。
- 10月4日、ホンダが東京本社で会見を開き、BARの残りの全株式をBATから取得して、同チームを完全子会社化することを発表する[435]。この会見の席上、佐藤琢磨の去就を問われ、同席していたHRD社長の和田康裕は「(このシーズンの時点で存在しない)11番目のチーム」が参戦する可能性を示唆する[436][435]。
- 10月25日、鈴木亜久里にF1用の車体を供給することができなくなったことを伝える[437][注釈 186]。
- 11月1日、東京のホンダ本社で鈴木亜久里がスーパーアグリF1の参戦発表を行い、ホンダのエンジンを使用することを表明する[439][注釈 187]。
- 12月、ホンダがBARのチーム株式を100%取得し、翌年からフルコンストラクターの「ホンダレーシングF1チーム」(HRF1)として参戦することを発表する。
- 2006年(フルワークス体制初年度)
- エンジンの規則が変わり、この年からそれまでの3リッター・V10エンジンに代わって2.4リッター・V8エンジンとなる。
- 1月、BARチームがHRF1となったことに伴い、チームの運営会社の名称が「BAR Honda GP Limited」から「Honda GP Limited」に改められる[注釈 188]。
- 2月、新チームのスーパーアグリが、ホンダエンジンを搭載したSA05のシェイクダウンを行う[440]。
- 3月、開幕戦バーレーンGPが開催される。ホンダは1968年以来38年ぶりにフルワークスチームとしてF1に参戦し、スーパーアグリ・ホンダも参戦を開始する。
- 3月19日、第2戦マレーシアGPで、ジェンソン・バトンが第3期のホンダチームとしては初となる表彰台を獲得する。
- 4月、第3戦オーストラリアGPで、ジェンソン・バトンが第3期のホンダチームとしては初となるポールポジションを獲得する[注釈 189]。
- 6月20日、テクニカルディレクターのジェフ・ウィリスが事実上更迭され、中本修平がシニア・テクニカルディレクターに就任[441]。
- 7月12日、ブラックリーのファクトリーで建設されていた新風洞が完成し、記念セレモニーが行われる[W 65][W 66]。
- 8月6日、第13戦ハンガリーGPで、ジェンソン・バトンが第3期では唯一となる優勝を挙げる。
- 3月10日、HRF1が体制発表を行い、「アースカラー」の「RA107」を発表する。
- 7月、HRF1がジル・ド・フェランとの契約を解除し、「スポーティングディレクター」の肩書はチームマネージャーのロン・メドウズが引き継ぐ(メドウズの職務内容に変更はない)。
- 11月、ロス・ブラウンがHRF1のチーム代表に就任する[407][432]。
- 2008年(最終年)
- この年から共通ECUが導入され、独自のECU開発はできなくなる。
- 3月、本田技術研究所(栃木研究所)の技術者たちが、童夢の風洞実験施設である風流舎(滋賀県米原市)で、翌年に向けた空力の開発を1ヶ月余りに渡って行う[442][443]。この実験の過程で、ダブルディフューザーが着想され、試案の検証が行われる[442][443]。(詳細は「ホンダ・RA109K」を参照)
- 4月下旬、イギリス・サンタポッドの直線コースで、翌年に導入予定のKERSの機能確認車「RA1082」(ベース車体はRA106)をシェイクダウンする(ドライバーはアレックス・ブルツ)[444]。これは当時参戦していた10チームの中でKERS搭載車両を用いた最初の走行にあたる[444][445]。その後、シェイクダウン時を含め同車により計4回の実走テストを行う[444][注釈 190]。
- 5月6日、東京で鈴木亜久里が会見を開き、スーパーアグリが経営破綻したことと、F1から撤退することを発表する[446]。
- 9月1日、F1に参戦している他のコンストラクターと共同でフォーミュラ・ワン・チームズ・アソシエーション(FOTA)を結成する。
- 9月15日、アメリカ合衆国において、投資銀行のリーマン・ブラザーズが経営破綻し、世界金融危機に拍車がかかり、日本では日経平均株価が翌月までにほぼ半値にまで暴落する。(リーマン・ショック)
- 11月2日、最終戦(第18戦)ブラジルGPが開催され、両ドライバーとも入賞圏外で周回遅れの完走となり、前年に続いて低調なシーズンを終える。結果として、このレースが第3期最後のレース参戦となる。
- 11月13日、イギリス・ケンブルで、ウィンターテスト用車両の「RA1089」(ベース車体はRA108)をシェイクダウンする[444]。
- 11月(日付不明)[注釈 192]、ホンダ本社の取締役会で、F1からの撤退の方針が決定される[447]。
- 11月24日、ツインリンクもてぎで記者会見が開かれ、中本修平の退任とHRCへの転籍(二輪への復帰)が発表される[W 70](12月1日付人事)。
- 11月28日、イギリス・サンタポッドの直線コースで、「RA1089」のチェック走行が行われる(ドライバーはアンソニー・デヴィッドソン)[444]。問題のないことが確認できたため、同車は12月9日のヘレス合同テストに参加するため準備が進められたが、結果として、この時の走行が第3期で最後の実走テストとなった[444]。
- 11月末[447]もしくは12月初め[448]、ホンダの大島裕志が、HRF1のニック・フライ(CEO)とロス・ブラウン(チーム代表)をヒースロー空港近くのホテルに呼び出し、ホンダ本社がこの年をもってF1から撤退する意向であることを伝える[448][447][449][注釈 193]。
- 12月1日(月曜)、ニック・フライとロス・ブラウンが、HRF1の数名の幹部にのみ、ホンダが撤退の意向を伝えてきたことを伝える[450][W 71][注釈 194]。
- 12月3日、ロンドンで開催されたFOTAの会議において、ホンダの撤退の意向が他チームにも伝えられる[W 73][注釈 195]。
- 12月4日、ホンダ本社の取締役会でF1からの撤退が正式に決定する[W 72]。
- 12月5日
- 以降、日本の本田技術研究所による開発は終了し、開発中だった車体(RA109K)の開発はHRF1のエンジニアに託される。
- 2月23日、福井威夫がホンダの社長を退任し、伊東孝紳がホンダの7代目社長に就任することが発表される[407](4月1日付人事)。
- 3月6日
- F1チームの運営会社である「Honda GP Limited」(HRF1)をロス・ブラウンに売却したことが発表される。ホンダの撤退発表後もブラックリーのチームを維持して2009年シーズンへの参戦準備を進めていたブラウンは[W 71]、新会社「Brawn GP Limited」を設立し[W 63]、ホンダF1チーム(HRF1)を引き継いだ新チーム「ブラウンGP」を発足させる。
- シルバーストンサーキットにおいて、ブラウンGPがブラウン・BGP001(エンジンはメルセデスHPE製)のシェイクダウン走行を行う。
- 3月29日、開幕戦オーストラリアGPが開催され、ホンダF1チームを引き継いで参戦したブラウンGPがデビュー戦で1-2フィニッシュという快挙を果たす[注釈 197]。その後もシーズン前半戦を席巻し、ジェンソン・バトンがこの年のチャンピオンとなり、チームはダブルタイトルを獲得する。
- 7月、ホンダ社長の伊東孝紳がF1について「われわれが新しい分野に挑戦できる余地がほとんどないので、シリーズの現状を考えれば、もし経済が回復したとしても、復帰を望むことはないでしょう」と語り、復帰の意思がないことを改めて述べる[W 77]。
- 11月、ダイムラーがブラウンGPを買収し、翌年からF1に自社チーム(メルセデスGP)として参戦させることを発表する。
- これにより、マクラーレンは1995年以来保っていたメルセデスのワークスチームとしての待遇を失うことが確定し、新たなワークスエンジンを探し始めることになり、これは第4期のホンダの復帰にも関係してくることとなる。
参戦車両(2000年 - 2008年)
[編集]- エンジン供給先
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BAR・002(2000年)
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BAR・003(2001年)
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ジョーダン・EJ11(2001年)
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BAR・004(2002年)
-
ジョーダン・EJ12(2002年)
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BAR・005(2003年)
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BAR・006(2004年)
-
BAR・007(2005年)
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スーパーアグリ・SA05(2006年)
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スーパーアグリ・SA06(2006年)
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スーパーアグリ・SA07(2007年)
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スーパーアグリ・SA08A(2008年)
- フルワークスチーム
第4期(2015年 - 2021年)
[編集]- FIAの主催でF1の次期エンジン(パワーユニット)に関する検討会議が行われ、後藤治を介してホンダも招待され、本田技術研究所の櫻原一雄[注釈 198]がオブザーバーとして出席する[453]。この会議の結果として、同年12月にFIAは「F1は2013年から1.6リッター直列4気筒ターボエンジンを採用する」旨を発表する[W 78][注釈 199]。
- 7月14日、FIAがF1で2014年から適用されることになるテクニカルレギュレーション(技術規則)の策定を完了し[W 79]、22日に暫定版として公表する[W 80]。原動機については、ターボチャージャー搭載の1.6リッターV型6気筒となるほか、従来の内燃機関(ICE。エンジン)とKERS(2014年以降は「MGU-K」と呼ばれるようになる)に加え、熱回生を行う「MGU-H」が導入されることが規定される[W 81]。それら一式は総称して「パワーユニット(PU)」と呼ばれることになる。
- 夏頃、本田技術研究所のモータースポーツ開発室によって四輪レースの参戦カテゴリーの検討が「頂点レース」を軸にして行われ[454][455]、F1が良いという結論となり、報告を受けた本田技術研究所の経営陣もそれに同意を示す[454]。その後、提携するチームを検討する中で、マクラーレンが第一候補となる[454]。
- 時期不明(夏から12月の間)、ホンダの経営会議で、F1参戦(復帰)が承認される[454]。
- 12月、本田技術研究所において、F1参戦に向けて人員が集められ始める[456]。
- 2013年(復帰表明)
- 2月、翌年からパワーユニットが導入されることになったF1についてホンダ社長の伊東孝紳が「一生懸命勉強中です」と外部に発言し、復帰についての憶測が出る[457]。
- 2月、栃木県さくら市の施設において、モータースポーツのためだけの新しい研究所(HRD Sakura)を立ち上げることを決定する[453]。4月、この時点で建設済みだった建物(A棟)の内部の工事が始まる[453]。
- 時期不明、マクラーレン・グループ[注釈 201]の取締役会でホンダとの提携について話し合いが行われ、ロン・デニス[注釈 202]は反対票を投じたが、マーティン・ウィットマーシュとマンスール・オジェは賛成し、提携は承認される[458]。
- 5月、F1用パワーユニットの開発が始まる[459][注釈 203]。
- 5月16日、ホンダの東京本社で、ホンダ社長の伊東孝紳がマクラーレン・グループのCEO兼マクラーレンチーム代表のマーティン・ウィットマーシュとともに記者会見を開き、2015年からF1にパワーユニットのサプライヤーとして復帰し、マクラーレンに供給を開始する予定であることを発表する[457]。
- 秋、試作のV型6気筒エンジン(ICE単体)のベンチテストが初めて行われる[459][注釈 204]。
- 1月、栃木県さくら市のHRD Sakuraの建物(A棟)が完成し、開発の人員が入り始める[460][454][注釈 205]。
- 1月16日、マーティン・ウィットマーシュがマクラーレン・グループのCEOから解任され、ロン・デニスがCEOに就任(復帰)することが発表される[W 85]。
- 1月29日、エリック・ブーリエが2月3日付でマクラーレン・レーシングのCEO兼レーシングディレクター(チーム代表)に就任することが発表される[W 86]。ブーリエはホンダとの最終年となる2017年まで通してマクラーレンのチーム代表を務めることになる。
- ホンダとの提携を推進していたマーティン・ウィットマーシュは未勝利に終わった前年の成績不振の責任を取るという形でマクラーレン・グループにおいてもマクラーレン・レーシングにおいても任を解かれ、その後、同年8月にマクラーレンを離脱する[458]。
- 初め頃、ERS、MGU-Hのエネルギーマネージメントについて、本田技術研究所でシミュレーションが始まる[461]。
- 3月、F1の2014年シーズンが開幕。このシーズンからパワーユニットを原動機とする新規則が施行される。初年度のこの年はメルセデスがシーズンを席巻し、11月に閉幕するまでの全19戦で16勝をあげる。以降の年もほぼ同様にメルセデスの優勢が続く。
- 4月、HRD Sakuraが正式にオープンする[460]。
- 秋、MGU-KとMHU-Hの試作品が製造され、実物を用いたテストが始まる[461]。
- 11月25日、最終戦アブダビGP後のヤス・マリーナ・サーキットで、F1の合同テストが行われ、ホンダ製パワーユニットを搭載したマクラーレン・MP4-29H/1X1が特例的な措置により参加する[454]。
- 2015年(パワーユニット供給開始)
- 2月23日、伊東孝紳がホンダの社長を退任し、八郷隆弘がホンダの8代目社長に就任することが発表される(6月付け人事)[W 87]。
- 3月、開幕戦オーストラリアGPが開催され、マクラーレン・ホンダが参戦を始める。(第4期参戦の始まり)
- ドライバーはフェルナンド・アロンソとジェンソン・バトン。チーム代表はエリック・ブーリエ。
- 10月、第16戦アメリカGPに際してバーニー・エクレストンの仲介によりホンダとレッドブルがPU供給に関するミーティングを行うが、ロン・デニスが拒否権を行使して物別れとなる[462][463][注釈 206]。
- 2月23日、F1の総責任者の新井康久が退任し、その後任に長谷川祐介が就任することを発表する(3月1日付人事)。同時に、ホンダ本社にF1担当専務執行役員のポストが新設され、本田技術研究所社長の松本宜之が兼務する体制となることが発表される。
- 4月、山本雅史がホンダのモータースポーツ部部長に就任する[465][注釈 207]。
- 5月1日、第4戦ロシアGP決勝日に際して、スクーデリア・トロ・ロッソのフランツ・トストからの接触があり、パワーユニット供給の要望を受ける[465][464][466]。この時はマクラーレンとの契約があったため断る[465][注釈 208]。
- 8月、ジェンソン・バトンが引退の意向をロン・デニスに伝えるが、慰留され「休養」という形にするよう勧められる[467]。
- 9月1日、ヨースト・カピートがマクラーレン・レーシングのCEOに就任する。しかし、マクラーレン内の組織変更(ロン・デニスの退陣)に巻き込まれ4ヶ月ほどで離脱する。
- 9月3日、第14戦イタリアGPに際して、翌年はフェルナンド・アロンソとストフェル・バンドーンのラインナップとなり、ジェンソン・バトンはリザーブドライバーとなることをマクラーレンが発表する[W 88]。
- 10月、ザウバーとパワーユニット供給に関する交渉を始める[W 89]。
- 11月15日、マクラーレンの株主総会で、ロン・デニスがマクラーレン・グループの会長・CEOから解任されることが決定する[W 90]。
- 11月21日、ザク・ブラウンがマクラーレン・グループのエグゼクティブ・ディレクターに就任することが発表される[W 91]。
- 2月27日から3月2日にかけて開催されたオフシーズンテスト(バルセロナ)に設計を根本的に見直した新骨格エンジンを投入するが、初日から連日トラブルが続き満足な走行ができずに終わる[468]。マクラーレンとフェルナンド・アロンソはこれに激怒し、ホンダとマクラーレンの亀裂が深まる。
- 4月半ば、第3戦バーレーンGPが開催され、フリー走行初日にバンドーン車のMGU-Hがトラブルを連発して走行不能となり、予選出場も危ぶまれる事態となる[465]。準ホームレースでもあることから[注釈 209]、マクラーレンはこの失態を生んだホンダに激怒する[465][469]。他方、ホンダ(山本)としてもマクラーレンと組み続けてよいか疑問を覚え[465][470][注釈 210]、山本は帰国後にホンダ社長の八郷にマクラーレンとの契約見直しを直訴する(八郷は山本をたしなめてこの時点では保留となる)[470][471]。
- 4月[注釈 211]、マクラーレンとの契約解消に向けた具体的な交渉が始まる[468][W 92]。
- 4月30日、2018年からザウバーにパワーユニットを供給すると発表する[464][472][W 93]。
- 6月21日、ザウバーの親会社のロングボウ・ファイナンスが、ザウバー・グループCEOでチーム代表のモニシャ・カルテンボーンがチームから離脱することを発表する[W 94]。
- 7月、第9戦オーストリアGPに際して、ホンダとレッドブル陣営との話し合いの場が極秘にもたれ、レッドブルのヘルムート・マルコと顔合わせが行われ、今後の密会について約束する[473]。
- 7月12日(水曜)、ザウバーはフレデリック・バスールが新たなチーム代表に就任することを発表する[W 95]。
- 7月13日(木曜)[473]、第10戦イギリスGPに際して、ホンダの山本雅史とレッドブルのヘルムート・マルコの間で、翌年のスクーデリア・トロ・ロッソへのPU供給についての話し合いが行われる[473][W 96][注釈 212]。
- 7月17日(月曜)、フレデリック・バス―ルが正式にザウバーの新代表に就任する。ロングボウ社の意向に従い、バスールはホンダとの提携解消の交渉を行い、同日中に提携の白紙撤回についてザウバー(バスール)とホンダ(山本)の間で合意が持たれる[474][W 97]。
- 7月27日、ホンダとザウバーが4月に行った合意を白紙撤回する旨を発表する[W 98]。
- 9月初め、第13戦イタリアGPが開催される。
- 2日(土曜)、すでにルノーとの翌年の契約をまとめつつあったマクラーレンからホンダ(山本)に対して、契約終了の話が即答を求める形で切り出される[465][475][476](マクラーレンからの「三行半」)。マクラーレンがルノーを使用する代わりにホンダはトロ・ロッソに供給するという案が提案され、すでにトロ・ロッソとの話を進めていたホンダとしては理想的な申し出だったが、経営会議で承認を受ける必要があることから回答を週明けまで保留する[475][476]。
- 3日(日曜)、ルノーのシリル・アビテブールらと交渉を行い、ルノーユーザーのトロ・ロッソをホンダが引き取ることで合意する[465][475][474][注釈 213]。また、アビテブールはレッドブル(ルノーとの関係が険悪なものとなっていた)を引き取ることも(この時は半ば冗談として)ホンダに要望する[465][475]。
- 9月初め(イタリアGP翌週)、ホンダの経営会議でマクラーレンとの契約終了と、翌年からのスクーデリア・トロ・ロッソへの供給が承認される[465]。
- 9月15日(金曜)、第14戦シンガポールGPに際して、マクラーレンとの供給契約がこの年をもって終了することと[W 99]、2018年からスクーデリア・トロ・ロッソにパワーユニットを供給することを発表する[477]。
- 10月、第16戦日本GPの前にレッドブルのクリスチャン・ホーナー、ヘルムート・マルコ、エイドリアン・ニューウェイ、ドライバーらがHRD Sakuraを密かに訪問する[462][478][注釈 214]。
- 1月1日、ホンダはF1の参戦体制を見直し、それまで一人の総責任者が担っていた業務をサーキットにおける業務とHRD Sakuraにおける技術開発業務に分け、それぞれ別人が担当する形に改めた[479]。
- 3月、開幕戦オーストラリアGPが開催され、トロ・ロッソ・ホンダが参戦を開始する。
- ドライバーはピエール・ガスリーとブレンドン・ハートレイ。チーム代表はフランツ・トスト。
- 5月、第6戦モナコGPに前後した時期にレッドブルがホンダからのPU供給を受けることを内々に決定し[463]、両者の間で供給に関する覚書が交わされ[479]、次戦カナダGP直後に契約締結に向けた交渉が正式に始まる[479]。
- 6月19日、第8戦フランスGPを前に、ホンダが翌年からレッドブルにPUを供給することを発表する。
- 3月、開幕戦オーストラリアGPが開催され、トロ・ロッソ・ホンダに加えて、レッドブル・ホンダが参戦を開始する。
- ドライバーはマックス・フェルスタッペン[注釈 215]とピエール・ガスリー。チーム代表はクリスチャン・ホーナー、車体の開発責任者はエイドリアン・ニューウェイ。
- 6月、第9戦オーストリアGPで、マックス・フェルスタッペンが第4期で初となる優勝を挙げる。
- 11月、第20戦ブラジルGPで、フェルスタッペンが優勝すると同時に、トロロッソ・ホンダのガスリーが2位表彰台を獲得し、ホンダエンジン搭載車両としては1991年日本GP以来となる1-2フィニッシュを達成する[W 100]。
- 5月、八郷がF1撤退を決意し、本社でのミーティングで山本にその旨を伝える[480]。
- 6月、ホンダの経営会議でF1撤退が正式に決定。ただしそのことは現場責任者の田辺・浅木らには伏せられた[481]。
- 8月[注釈 216]、ホンダが2021年限りで撤退する意向であることをレッドブル(ヘルムート・マルコのみ)に伝える[482]。
- 9月6日、第9戦イタリアGPで、ピエール・ガスリーが優勝する。パワーユニット時代になって初めて、同一パワーユニットを搭載した2チームが同一シーズンで優勝を記録した例となる。
- 9月、F1からの撤退についてHRD SakuraとHRD-UKに正式発表前に通知があり[483][482]、HRD Sakuraは2022年に投入予定だった新骨格PUを2021年に投入することを決定し[482]、9月末に開発が始まる[484]。
- 10月1日、山本がフォーミュラワン・グループCEOのチェイス・キャリーと面会し、F1撤退の決定を伝える[481]。
- 10月2日、ホンダはオンラインで記者会見を開き、ホンダ社長の八郷隆弘が2021年をもってホンダがF1活動から撤退することを発表する[463][W 101]。
- 11月6日、日本自動車殿堂(JAHFA)が歴史遺産車の追加を行い、RA272がF1車両としては初めて選出される[W 102]。
- 2021年(最終年)
- 2月11日、FIA、フォーミュラワン・グループ、チーム、エンジンマニュファクチャラーによるF1コミッション会合が開催され、2022年から次世代パワーユニットが導入されるまでの期間はパワーユニットの開発を凍結することが全会一致で合意される[463][W 103]。
- 2月15日、レッドブルが新会社「レッドブル・パワートレインズ」(RBPT)の設立を発表[463]。あわせて、ホンダからパワーユニットの知的財産権を引き継ぐことに合意が成立したことを公表し、ホンダ撤退後の2022年から2025年までホンダ製パワーユニットを引き続き使用することを表明する[463][W 104][注釈 217]。
- 2月19日、八郷隆弘がホンダの社長を退任し、三部敏宏がホンダの9代目社長に就任することが発表される(4月1日付け人事)[W 106][W 107]。
- 5月23日、第5戦モナコGPが開催され、マックス・フェルスタッペンが優勝し、この段階でフェルスタッペンとレッドブルはそれぞれの選手権のランキングで首位となる。
- 7月、撤退後の2022年に関しては移行の年と位置付け、HRD Sakuraが引き続きレッドブル用PUの組立を行い、レッドブル及びRBPTをサポートすることが明かされる[W 105]。
- 10月7日、ホンダが、翌年以降は四輪のモータースポーツ活動についてもホンダ・レーシング(HRC)が統括することを発表する[463][W 108][W 109]。
- 12月12日、最終戦アブダビGPが開催され、優勝したマックス・フェルスタッペンがドライバーズタイトルを獲得する。ホンダエンジン搭載車によるものとしては、1991年以来のタイトル獲得となり、第4期参戦の最後のレースで有終の美を飾る。(第4期参戦の終わり)
参戦車両(2015年 - 2021年)
[編集]-
マクラーレン・MP4-30(2015年)
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マクラーレン・MP4-31(2016年)
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マクラーレン・MCL32(2017年)
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トロ・ロッソ STR13(2018年)
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トロ・ロッソ STR14(2019年)
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レッドブル・RB15(2019年)
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レッドブル・RB16(2020年)
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アルファタウリ・AT01(2020年)
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レッドブル・RB16B(2021年)
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アルファタウリ・AT02(2021年)
第5期(2026年予定 - )
[編集]- 8月2日、レッドブル・RBPTへの技術支援を2025年末まで延長することを発表する[W 110][W 111]。
- 8月16日、FIAの世界モータースポーツ評議会が2026年以降のF1パワーユニットのレギュレーションを承認したことが発表される[W 112]。
- 11月、ホンダが、2026年からのパワーユニットサプライヤーとして製造者登録を行う[W 114][注釈 219]。
- 製造者登録を行ったことが公にされたことで、F1の参戦チームから供給に向けた打診が送られるようになる[W 114]。
- 2023年(復帰表明)
- この年はホンダの創立75周年にあたる。
- 年明け、アストンマーティンF1との間で、2026年以降のパワーユニット供給に向けた交渉が本格化する[W 114]。
- 4月、アストンマーティンF1と、2026年以降のパワーユニット供給契約が正式に結ばれる[W 114]。
- 5月24日、ホンダの東京本社で、ホンダ社長の三部敏宏、ホンダ・レーシング(HRC)社長の渡辺康治が、アストンマーティングループのオーナーであるローレンス・ストロール、レース部門CEOのマーティン・ウィットマーシュとともに記者会見を開き、2026年からF1にパワーユニットのサプライヤーとして復帰し、アストンマーティンF1チームに供給を開始する予定であることを発表する[W 115]。
- 9月24日、ホンダが創立75周年を迎える。
- 11月27日、最終戦アブダビGPが開催され、マックス・フェルスタッペンが優勝したことにより、レッドブル・ホンダRBPTは年間22戦21勝(勝率95.45%)を記録し、それまで1988年のマクラーレン・ホンダが保持していた1シーズンの最高勝率記録(16戦15勝・勝率93.75%)を更新する[W 117][注釈 220]。同時に、コンストラクターとしてのレッドブル、PUサプライヤーのホンダRBPTは、それまでメルセデスが保持していた年間の最多勝利数記録(19勝/2016年)を更新する。
- 2月28日、HRCの欧州現地法人として、イギリスに「HRC UK」を設立(公表は3月27日)[W 118]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 当時は旧字体で「濱松号」。この車両はエントリー名には漢字表記が用いられているが、通称にはカタカナ表記が用いられている。
- ^ 本田の車両は三回半回転し、本田は顔面その他に全治2週間、弁二郎は脊髄捻挫全治3ヶ月の重傷を負った[6]。
- ^ 古橋は浜松出身であり、本田としては同郷の古橋への対抗心という面もあったと考えられている[9]。
- ^ 社内向け(20日)と社外向け(15日)があり、大意は同じだが、記述内容が若干異なる。社外向けのほうが先に発表されたのは、一日でも早く発表して社外の信用と支持を得ることを目論んだ藤沢の意向とされる[13]。20日に発表された社内向けの宣言が引用されることが多い。
- ^ 1月の年始の挨拶の時点で本田はマン島TTレースに参戦する意向を明らかにしていたが[W 1]、3月に改めてこの宣言をしたのは2月のレースの惨敗を契機としてのもので、そのことは宣言の中でも述べられている。この時期の背景として、1953年7月に朝鮮戦争が休戦となり、朝鮮特需も終わったことで、日本は大不況となり[W 4]、日本国内の二輪自動車メーカーは内需依存型産業だったこともあって、それまで30数社を数えていた内の数社が早くも倒産していっていた[12]。ホンダも例外ではなく、金策に追われる[14](この時の倒産危機は三菱銀行京橋支店が救済に動いたことでかろうじて免れる)。そんな中で、この宣言により「世界進出」という会社としての目標を明確に示し、従業員たちを鼓舞する意図があったと考えられている[15][12][W 5]。本田本人は、世界進出にあたって避けて通れなかったということと、水泳における古橋廣之進の活躍のように、日本のメーカーが世界で活躍することで日本人としてのプライドを持たせたかったことの2つが参戦の目的だったと語っている[16]。
- ^ 本田は宣言の中で「全世界の自動車競争の勝者となることであった」としており、二輪レースのことだけを指していたわけでないことはしばしば指摘される[W 6]。
- ^ 実際のレベルの高さを知り、3月にマン島TTレース出場宣言をしたことについて、本田は後悔して青くなったという[19]。TTレースを見ることだけを目的にしていたわけではなく、できるだけ多くの自動車会社、工作機械の会社や工場を見て回ることを狙った出張だった[19]。
- ^ 当時、ヨーロッパのオートバイは単気筒か2気筒だったが、ホンダは4気筒のエンジンを開発しレースに投入することになる。この方針は第1期のF1エンジンの開発にあたっても踏襲される。
- ^ この中村の質問は本田の後の行動にも影響を与えたと考えられている[W 9]。
- ^ ホンダの二輪車開発で重要なテストコースとなるが、往復路のみの単純なレイアウトで、二輪レーサーの開発には不十分であることは翌1959年にマン島TTレース参戦して以降に明らかになる[25]。
- ^ 同年4月に操業開始した鈴鹿製作所の空いた敷地に運動場を作ろうと提案した同所所長の白井孝夫らを一喝して言ったとされる(前後の経緯は「塩崎定夫#鈴鹿サーキットの建設 (1960年 - 1962年)」を参照)。
- ^ サーキットを鈴鹿市に建設することは鈴鹿製作所の用地を取得した1959年時点で決めていたわけではなく、他の候補地との比較検討が行われた。
- ^ 当初は二輪用に構想されていたが、フーゲンホルツの参加により四輪レースの開催も視野に入れたサーキットとして設計される。四輪自動車の走行も念頭においていたことは、当時、ホンダが設計者のフーゲンホルツに送った手紙からも確認することができる[W 17]。建設にあたり、本田宗一郎は四輪のレースで事故が起きた時のことも想定するよう意見を述べた[30]。
- ^ この年のマン島TTレースはホンダにとって3度目の挑戦で、両クラスで優勝から5位までを独占する結果を残した[12][28]。当時大学院生で後に第2期参戦の中心人物の一人となる川本信彦はこの快挙をニュース映画で知り、(当時すでに大企業だったトヨタ自工への推薦を断り)ホンダへの入社を決意した[28][32]。川本と同期(1963年入社組)の入交昭一郎もレースにおける活躍を知ってホンダの門を叩いた[33]。
- ^ この車両について、ホンダ関係者の間でも証言に微妙な齟齬があり、車両を入手した時期と経緯については不明瞭な部分がある。詳細は「クーパー・T53#ホンダが入手した個体」を参照。
- ^ 日本においても、『モーターファン』誌(三栄書房)が年末の号で参戦を待望する記事を載せている[39]。
- ^ このジャック・ブラバムとの最初の接触について、中村良夫は「1962年の春だったと記憶する」と記しているが[41]、クーパーの入手時期によっては翌年の出来事である可能性がある[W 19]。中村良夫は、ブラバムも出演していた映画『野郎ぶっ飛ばせ』の日本公開後の時期だった、とも述懐している[40]。ブラバムはF1のシーズンオフは地元オーストラリアのタスマンシリーズに出場しており[40]、ヨーロッパと行き来する途上で日本のホンダを訪問することはこの時から恒例行事となる。初訪日時の目的は、ヨーロッパで噂になっていたホンダのF1参戦の実情を探ることや、当時台頭しつつあった日本の自動車メーカーとのつながりを構築することにあったと考えられている[42]。
- ^ 「RA270」という車体とエンジンの名称は長らく公表されず、1979年に中村良夫が著書で名前を記す以前の記事では「名称不明」という扱いになっている。
- ^ 「1961年」としているケースや[W 21]、「1963年」としているケースもあるが[45]、当事者の中村良夫が最後に記述しているのは「1962年」で[22][46]、記事が掲載されたのは1963年の号でインタビュー内容も1962年時点の話をしているため[47]、1962年としている。この取材をしたのは『オートモビル・イヤー』誌のギュンター・モルター(Günther Molter)で[45]、中村が通訳をした[22]。本田はこの時点では車体も作るフルワークス体制としての参戦を表明している[48]。中村は「参戦する」と断言する本田の言う通りに通訳すべきか躊躇し、そのまま伝えてよいか本田に確認したが、そのまま伝えろと命じられたことでそれに従った[22]。
- ^ 当時のホンダには四輪の開発ノウハウはなく、S500は中村良夫が中心になって開発した[49]。同車は当時の業界の定石通り水冷エンジンを搭載していたが、ラジエターの水回りのトラブルなど冷却システムに悩まされることになり[50]、販売面でも日本国内では思うように売れず[51]、このことは後の水冷空冷論争の伏線のひとつとなる。
- ^ この時点では、車体(RA270F)、エンジン(RA270E)とも、四輪の研究開発チームではなく、二輪のレーサー設計チームが主体となって開発が行われた[54][W 22]。
- ^ ホンダ車は参戦していない。この際、中村良夫は来日していたモータースポーツジャーナリストのジェラール・クロンバックと知り合い、8月のイギリス訪問時にクロンバックの助力を得ることになる[55]。
- ^ こうした開発はF1参戦を目的に進められていたが、この時点では具体的なF1参戦計画はまだ存在しなかった[56]。
- ^ コスワースはエンジンビルダーとして知られることになるが、この時は1958年の創業から間もなく、中村は創業者で元ロータスのマイク・コスティンから車体設計についての示唆を受けることを目的として訪問した[60](中村は「F1の車体」とは記していない)。中村はこの時のイギリス出張で、コスワースのファクトリー訪問が最も印象的だったと述べており[60]、新興のコスワースに一目置くようになる。
- ^ ダンロップなど各社を訪問した時点ではホンダがF1車両を作る予定はなかったが、作ることになることを想定して主要部品の入手ルートを確保しておいた[55]。
- ^ 佐野彰一はこの横置きV12エンジンを見てチャップマンは「手に負えない」と考えてホンダとの提携から手を引いたのではないかと推測している[W 25]。ロータスとの合意では、ベンチテスト済みの実動エンジンをホンダが年明け2月に発送し、5月前半の開幕戦モナコGPに備えるという予定だった[60]。
- ^ V12エンジンのモックアップを受け取ったブラバムは「横置きのエンジンに対応した車体を設計できるか自信がない」、「そもそも開幕まで時間がなさすぎる」といったことを(ロータスと異なり)率直かつ迅速に回答し、ホンダはこの対応にかえって敬意を深めたという[66]。
- ^ RA271の設計者の佐野彰一は設計を命じられた時期について、「64年の頭。冬も終わりに近づいたころ」[68]、「1964年の春に突然呼ばれて」[W 27]と回顧している。RA270の設計者である馬場利次はRA271の開発は(自分とは別の人たちが)「ロータスへのエンジン供給云々という話に関係なくやってましたよ」と語っている[44]。中村良夫はRA271について1963年夏まで進められていて「中途でストップしていた」設計を、ロータスからの断りの連絡があった後に再開して完成させたということを語っている[65][58]。佐野によるRA271の設計がRA270の試走と同時期に並行して行われていたことは複数の関係者が証言している。
- ^ 中村良夫はRA270をテスト走行させ始めた時期について「1月」[69]、「正月休みもそこそこに」と書いているが、日付は当時のメモに書いた日付を基にしている丸野冨士也の証言に沿って記している(中村の記述は記憶に頼ってされている節があり、時期の正確性には完全な信頼を置けない[W 19]。他の著作でも年単位で事実と齟齬のある記述をいくつかしている)。
- ^ これを記した丸野冨士也は「1965年2月13日(木)」と書いているが[W 26]、1965年の2月13日は土曜日で、(RA270Eの開発時期からも)「2月13日(木)」は1964年の日付を指すことは明らかと思われるため、修正した(丸野のこのエピソードを載せている『夢を力に』でも年は「1964年」としている[23])。
- ^ テスト走行のために来日したわけではなく、本田技術研究所を毎年訪れるようになっていたブラバムが興味本位で走行を引き受けたとされる[73]。RA270はF1車両としては不完全で、ブラバムも意見するようなところがなかったため、この走行は特に成果はないものとなる[74][W 6]。
- ^ これはホンダ側としてはアメリカホンダによって推薦されてきたバックナムの「approval test」で、レースドライバーを任せて問題ないかを見る意味もあった[75]。
- ^ 中村良夫は「7月12日」と記している一方[80][76]、「F1地上の夢」では「7月2日」と記されている[79]。どちらが正しいのかは不明だが、当時の関係者の記述を優先して記載した。
- ^ 同地に所在したホンダの二輪工場の一角を間借りした。
- ^ シェイクダウンの時点ではRA271にはバックミラーが装着されていない[82][83]。これは当時の日本にはF1車両用として使える品質のバックミラーがなく、RA271はミラーを装着されずに日本から送り出されたためで、砲弾型のミラーはデビュー戦のドイツGP前に現地調達されたものが装着された[83]。
- ^ 現役のグランプリコースであるため他車とのタイム比較が可能であり、ジャック・ブラバムや燃料サプライヤーのBPからの推薦があったことに加え、サーキットの支配人であるジョン・フーゲンホルツは鈴鹿サーキットの設計者という縁がある、といった複数の事情から同地でシェイクダウンが行われた[84][76][85]。
- ^ この時点でブラバムチームは翌年からグッドイヤーを使用することを決定しており、1965年シーズンはブラバムとホンダの2チームのみがグッドイヤータイヤを使用した[87]。
- ^ この時にイギリスに駐在していた久米にジャック・ブラバムとロン・トーラナックが二輪用と四輪用のエンジンの違いや車体側がエンジンに要求する項目を説明し[93]、その知識は日本に送られてF1エンジンの開発部隊にも共有され、同じ問題に直面していたF1用エンジンも改善されることになる(8月頃)[94]。
- ^ レース終了後、ホンダがシーズンの正式エントリーを忘れていたことが発覚して失格になりかけるが、このレースを訪れていた中村良夫が(後任監督の関口久一に激怒した後)レース主催者と押し問答の末、レース結果の確定とエントリー書類の後日提出を認めさせる[90]。
- ^ 河島は二輪でGPチームの初期の監督を務めていた経験がある。この時点で河島はホンダの埼玉製作所の所長で、ホンダ社内では本田と藤沢に次ぐナンバー3の立場だった[90]。
- ^ このレースのスタートで首位を奪ったギンサーは最初の2周をリードし、ホンダ車としては初のラップリードを記録。
- ^ 日本でその作業にあたった佐野彰一は、実際の作業期間は「2週間ぐらいだった」と述べている[95]。
- ^ F2が終了した9月末時点で、F1用3リッターエンジンの設計はまだ何も決まっていなかったとされる[94]。入交本人は述懐して、10月の最終戦メキシコGPの後に設計を命じられ、開発は暮れから始めたと述べている[97]。入交は1960年代の二輪レーサー用エンジンの設計者だが、四輪の経験はなかったため、その設計は久米是志と川本信彦が設計したF2用エンジンを参考にした[33]。
- ^ 当時のホンダには主要部分の設計を行う時は旅館に籠るという習慣があり[98]、F1においても第2期までは設計者がホテルに籠って設計を行ったというエピソードがしばしば語られている。
- ^ この年にトヨタはカローラ(初代)、日産自動車はサニー(初代)を発売し、大衆車開発と販売で熾烈な争いを始める。後発メーカーのホンダは四輪市場に生き残る方策として、この時点では軽自動車に注力することを決めた[103]。
- ^ 河島喜好や中村良夫の提案により設立された[104]。RSCは1973年の法人化を経て、後にHRCに発展することになる[104]。
- ^ このF2用水冷エンジンは1968年の同名のF1用空冷エンジンとは無関係。
- ^ 久米はN360のエンジン設計を命じられたため帰国を余儀なくされた[105]。川本はこの時にブラバムのロン・トーラナックと知り合い、この関係は第2期参戦初期のF2におけるラルト(トーラナックが設立した)との提携につながることになる。
- ^ 24日と29日にも試走が行われたとされる[109]。
- ^ 保存車両の1台に付けられているカーナンバー18は、RA273ではデビュー戦の1966年イタリアGPのみで使用された。
- ^ このレースはヨッヘン・リントの生涯最高のレースのひとつに数えられている[116]。
- ^ 空冷では大排気量のエンジンを冷やしきれないということはエンジニアたちも予想していたが、当時は水冷にもラジエーターの水漏れなどのトラブルはよくあることで、その確実な解決方法もなく、空冷と水冷のどちらにも一長一短があった[121]。空冷を主張する本田に同調する者はいなかったが[124]、本田も自身の主張を曲げることはしなかった[123]。
- ^ 第7戦西ドイツGPの前の時点で決定した[131]。
- ^ 佐野は8月6日の西ドイツGPの後に派遣されたとされる[133]。
- ^ このプライベートテストではホンダF1のほか、ローラF2のテストもジョン・サーティースが掛け持ちで行っており、ローラに乗っていたホッブスも途中からF2のテストに参加していた[134]。
- ^ 同じ頃、日本ではホンダ初の小型乗用車の1300の開発が始まり、この市販車も空冷エンジンの搭載を予定していた[W 34]。
- ^ 中村は「RA300の最後の配線配管が完了したのは9月3日」、グッドウッドで試走を行ったのは「翌4日」とも記している[136][70](初走行の日付について8月31日と9月4日のどちらが正しいのかは不明)。
- ^ サーティースやイギリス人メカニックたちは2月中旬の時点で完成したRA301とともに来日していたが、本田技術研究所内では本田宗一郎が主導していた空冷エンジンの製作が優先されたため、RA301に搭載する水冷エンジンの製造が滞り、一行は日本で2ヶ月も待ちぼうけを食わされた[123]。これはイギリス側に本田技術研究所への不信感を抱かせると同時に[123]、わずかなテスト走行しかできずに実戦投入されることになったRA301は、細かなトラブルに悩まされる事態を引き起こすことになる[146]。
- ^ 最終的に7月までにデヴィッド・ホッブスが起用された[151]。
- ^ 当時のホンダはサーティース用に2台を毎回持ち込んでいたが、このレースでは練習走行時のアクシデントにより自身の車両を大破したヨアキム・ボニエの要請に応え、1台(スペア車のRA301-802)を有償で貸与したため2台によるエントリーとなった[159]。
- ^ この時点では、「1969年半ば以降までは休止し、復帰時期は未定」と発表した[160]。
- ^ このテストで用いられたRA301はサーティースのスペア車で、メキシコGPでボニエに貸し出した個体(RA301-802)[161]。このテスト走行はインディ500参戦を具体的に目論んで行ったわけではなく、3リッターF1車両がIMSを走った場合にどれくらいの性能を発揮するか、インディで使用されているニトロ・メタノールを使用した場合にどれほどの効果があるか、リアウィング有無による性能の違い、といったことを知るために行われた[161]。
- ^ 第2期で2代目の総監督を務めることになる桜井は1967年にホンダに入社しており、第1期の当時、ホンダがF1で世界に挑んでいた姿勢に共感して入社を決意したという[98]。
- ^ 発売からやや遅れてヒットしたのは1973年秋に起きたオイルショック(第1次オイルショック)の影響によるもので、1973年12月に発売されたCVCCエンジン搭載型の低燃費なシビックは結果として絶妙なタイミングで市場に投入されたことになり、爆発的なヒットを記録した[172]。
- ^ このエンジンの技術はフォード、クライスラー、トヨタ、いすゞといった大手自動車メーカーに有償で供与され、ホンダに大きな利益をもたらすことになる[171]。
- ^ 中村良夫が紹介状を書いた[171]。ホンダRSC所属だった木村昌夫は翌年に無限の設立に関わり、そのまま無限の所属となる。
- ^ ストライキを続けていた間、川本はレース用エンジンの設計図を自宅で描き続け、これは後のF2用エンジンの設計に活用されることになる[175]。
- ^ 本田の承諾は得られなかったものの、ホンダ関係者はその後も車両などの収集や動態保存のための部品の復元などを密かに続けた[178]。
- ^ 本田博俊は川本や入交昭一郎ら、ホンダの1963年入社組のレース好きの若手技術者たちと友人関係にあった[93][171]。
- ^ 1970年代半ば以降、労使協議の定着により労働組合の発言力が増したことで、本田技術研究所では残業をしたくてもできない状況が増えた[181]。そのため、研究所の技術者たちは「治外法権」である無限を隠れ蓑にして作業するようになっていった[181]。FJ1300用エンジンを手掛けた市田勝巳の場合は、川本の命令で無限で作業をしている。
- ^ 1983年に取締役も退き、終身の最高顧問となる(第2期F1参戦時の本田のホンダにおける肩書)。1973年に退任した後、本田は本田技術研究所からもしばらく足が遠のくことになるが、第2期F1参戦が始まった後は(レースの様子を知るため)たびたび研究所を訪れるようになる[183]。
- ^ 四輪部門の大多数の重役たちはF1復帰に賛成したが、F1への復帰に「いちばん賛成する」と思われていた川本信彦が大反対し[175][187][32]、伊達撛(たすく)も同調し、研究所の重鎮2名が反対した[188]。この時点でホンダの四輪自動車用エンジン関連全ての責任者となっていた川本は、F1の様相や技術レベルが1960年代と大きく変わっていて競争が激しくなっていることや、シビックやアコードが軌道に乗りかけているこの微妙なタイミングで復帰することは適切ではないことを理由に挙げて、復帰に強く反対した[175]。
- ^ 久米は賛同も承認もしていないが、反対もしなかったため、川本はそれを「黙認した」と解釈した[188]。
- ^ FISAはFIAに属するが、CSI時代と比べてFIAからの独立性が高い組織となる[W 46]。
- ^ エンジンの部品図の全てを書き上げるまでにはさらに半年近くの時間を必要とした[198]。
- ^ デニスは学生時代の1960年代半ばにブラバムで働いている(当時は床磨きのアルバイト)[202]。その後、クーパーを経て、1968年にジャック・ブラバムのチーフメカニックとしてブラバムに加入してチームを去る3年目には全体を任されるまでになっており[203]、ホンダと縁がないわけではなかった[201]。
- ^ FISAとFOCAの争い(FISA-FOCA戦争)はこの後もしばらく続く。第1期参戦時の1960年代のF1は牧歌的だったため運営組織との間で政治的なしがらみが発生するということもなかったが、ホンダの第2期参戦においてはこの時に権限と権益を掌握したFISA、FOCAとの関係がたびたび重要な要素となっていく。
- ^ 同年8月のオランダGP開催週などに、フランク・ウィリアムズが日本を密かに訪れたことはメディアでも報じられるようになる[208]。
- ^ ウィッカムとコパックはF2でラルトの最大のライバルだったマーチの主要メンバーで、ホンダ(川本信彦)が二人を引き抜き、出資して新チームを設立させた[201][210]。
- ^ 川本信彦は当初はターボチャージャー搭載の1.5リッター・V型10気筒エンジンの採用を考えており[212]、エンジン本体は3機が試作されたとされる[213]。90度のVバンク内にターボチャージャーが搭載される予定だったが、装着される前にV10採用案が放棄されたため、この試作エンジンでベンチテストが行われることはなかった[213]。
- ^ 本田技術研究所(和光研究所)では前年から川本がエンジンレイアウトを始め、前年末から本田技術研究所内で製造に向けた根回しを行っている[214]。
- ^ 川本信彦はこの年の敗因についてタイヤ選択の誤りによるものだったと述べている[212]。前年途中からラルト・ホンダはブリヂストンタイヤを使用し、1981年はタイトルを獲ることができたが、1982年は予選こそ問題なかったものの決勝レースでタイヤと車体との相性が悪くそれを解消できなかった[212](ライバルも、1981年はピレリだったが、1982年はより強力なミシュランとなる)。川本は2チームともブリヂストンにするのではなく、どちらかのチームには(マーチ・BMWと同じ)ミシュランを採用すべきだったと述べている[212]。
- ^ 同時期、この年の7月の第10戦イギリスGPでブラバムチームがレース中に再給油する作戦を実際に始め、翌年にかけて流行することになるが、FISAはレース中の再給油も1983年をもって禁止している。
- ^ F2エンジン設計時に川本の片腕を務めた市田勝已はレジェンド(初代。1985年)のプロジェクトリーダーを務めていたため、参加していない[212]。
- ^ この時点でKKK製ターボチャージャーを使用したターボエンジンであることなど、外観からわかることは外部にも明らかになったが、ホンダはエンジンの詳細を公表していない[200]。
- ^ 当時のホンダはヨーロッパにおけるチーム運営やF1事情に疎かったため、各方面にコネクションを持つブラバムにそのサポートを依頼した[212]。川本信彦は現地のジャーナリストやカメラマンからの情報を大事にしていたが、特にブラバムとの関係は重視していた[220]。
- ^ ブラバムからの情報により、マクラーレンはホンダだけでなくポルシェにもアプローチをかけていること(ポルシェは3月のジュネーブ自動車ショーでF1参戦を表明)や、ロータスはルノーと組むことになりそうだといった、各チームや他メーカーの水面下の動きが明らかになり、ウィリアムズが最適という結論に傾いていった[212]。
- ^ 1982年初めの時点で、ホンダがウィリアムズにエンジンを供給するということは噂になっていた[211]。
- ^ ホンダF1の広報渉外マネージャーを務めていた野口義修は「7月くらい」の出来事だったと述べている[220]。
- ^ この時点でヨーロッパで総監督代理をしていた宮木清と、監督をしていた土師守はF2のレース参戦とF1のテストを両方受け持っていた。
- ^ FW09は前年の最終戦にも参戦しているが、その時は決勝レースで燃料を300リットル消費している。1984年からは燃料タンク容量の上限が220リットルに規制され、レース中の再給油も禁止されたため、燃費を向上させる必要があり、これはホンダに限らず、他メーカーのターボエンジンも似たり寄ったりの状況だった。
- ^ 結果として、この年はこのレースから10月の最終戦(第16戦)までマクラーレン・TAGが7連勝して他を寄せ付けず、シーズン16戦中12勝する圧勝で終わる[225]。夏からホンダF1プロジェクトを引き継いだ桜井と市田は、この結果に大きな衝撃を受けることになる[225]。
- ^ 1985年に投入予定だった市販車群の開発が一段落したことで、桜井と市田にF1を担当させることが可能になった[225]。
- ^ 日本の企業がF1チームのタイトルスポンサーになるのは、これが初めてだった[228]。
- ^ エンジン開発費用の負担分は別として、チームにスポンサーとして拠出している金額だけでもホンダのほうがキヤノンよりも寄与が大きかったため[227]。キヤノンの契約は当時としては珍しくスポンサーフィーの額が公表されており、最初の3年で計11億円程度だったとされる[229][224](当時の発表では、360万ポンドで[228]、約10億8000万円[228])。これは当時のウィリアムズの年間予算の65%を賄うほどの額だったとも言われている[228][224](つまりウィリアムズの当時の年間予算は5億5000万円ほど[228])。
- ^ これはF1においては2002年(イタリアGP)まで破られることのない速度記録となる。
- ^ ホンダが東京に進出した1960年に中央区八重洲に本社ビル(ホンダ八重洲ビル)が建てられ[W 48]、第1期の頃に本社が所在した。その後、渋谷区神宮前(明治通り沿い)への移転(1974年)を経て[W 49]、1985年に港区青山(南青山)に移った[W 47](2022年現在の本社)。
- ^ パトリック・ヘッドはローラに在籍していた時期(1970年代)に、かつてローラと協働していた佐野との面識を得ており、ヘッドが変更を受け入れたのにはそうした縁も影響した[242]。
- ^ 桜井は名門中の名門であるロータスから供給を求められたことに気を良くしたが、この時点で、桜井は20年前の第1期参戦に至る経緯を知らなかった[226]。
- ^ ロズベルグの離脱が決定していることをピケに知られた後だと交渉で著しく不利になるため、ピケとの交渉は迅速に進められた。
- ^ ピケの起用はホンダも以前から要望しており[239][245]、ロズベルグより高額な契約金をウィリアムズのみで負担することはできなかったため、一部をホンダが肩代わりした[239](ピケとの契約額は年330万ドル、当時の日本円で6億6000万円だったと言われている[246])。翌年、ピケが去った後のブラバムのシートには、エリオ・デ・アンジェリスが収まることになる[247]。アンジェリスの事故死はターボ規制強化のきっかけを作り、ホンダを含むエンジンサプライヤー各社に影響を及ぼすことになる。
- ^ この時にピケとウィリアムズが交わした契約書では、ピケがチームの「ナンバーワンドライバー」であることや、スペアカーや新パーツを優先的に使用する権利を持つことは明記されていたが、レースにおける優先権(チームオーダーを要望する権利)については記されていなかった[244]。これは1980年代初めにカルロス・ロイテマンの扱いに苦労した教訓からウィリアムズが故意に省いたものであり[248][244]、他方、ピケもこの時点で未勝利だったナイジェル・マンセルを過小評価していたことから問題にしなかったが、この条項の欠如は翌年に大きな影響を引き起こすことになった[244]。パトリック・ヘッドは回想して、ピケと契約した時期はFW11の設計で多忙で、ピケとの契約内容をこの時点では何も把握しておらず、翌年3月のフランク・ウィリアムズの事故後にピケとの契約書を読んだ時にはスペアカーの優先権などは何も書いていなかったと述べている[249]。
- ^ FW10Bはリアサスペンションにテールを沈みにくくするアンチ・スクォート・ジオメトリーを採用し、前後の姿勢変化が少なくなり、これにより問題が解消された[250]。
- ^ この最初のテストで、ピケは乗りやすさについて賞賛する[237]。
- ^ フランクの不在により、両ドライバーのどちらを優先するのかチームは決断を欠くことになり、これはウィリアムズのピケとマンセルの両者がどちらも僅差でこの年のドライバーズタイトルを逃す大きな要因となった[257]。そしてそのことはホンダがウィリアムズへの信頼を失う一因となったのではないかとピケは指摘している[257]。フランク・ウィリアムズも、ドライバーを平等に扱うチームの方針がホンダの考え方と折り合わず、決別する原因のひとつとなったことを認めている[258]。
- ^ 燃料は充分残っていたが、ダッシュボードの燃料計が低い値を示していたため、それを信じたマンセルはエンジンの回転数を抑えて走っていた。
- ^ 1960年代からF1の撮影をしていてパドックでも顔が広かったカメラマンの間瀬明を介して、セナの側からホンダに接触が図られた[256]。
- ^ この時点でロータスにエンジンを供給しているルノーの撤退の可能性が高かった。この際、桜井はロータス側には中嶋悟の起用を提案し、ウォーから問題ないと返答を得る[261]。
- ^ 桜井はこの話を本社の川本らに打診し、その時点で初めて1964年にホンダとロータスの間に起きた出来事を知った[253]。
- ^ ポップオフバルブとエア・フランジの併用による規制案はFISAの技術委員長であるガブリエル・カドリンゲーが提案した[262]。
- ^ 中嶋にスーパーライセンスを取得させるためで、中嶋は川本が日本人をF1ドライバーとして本気で起用しようと考えているのだと思ったと述懐している[232]。
- ^ これまでの馬力規制の論議に嫌気したことや[262]、6月にFISAが提案したポップオフバルブによる過給圧の制限は気筒数の多いエンジンに有利と言われており、6気筒エンジンを使用する他社に対して4気筒のBMWは不利だったことも原因だと推測されている[264]。その後、BMWはこの宣言を撤回し、ブラバムからの要望があれば供給を続けることを表明し[265]、1987年のみブラバムへの供給を継続した。これは1986年限りで供給を止めた場合、ブラバム(バーニー・エクレストンがオーナー)からの違約金が多額になるという判断が働いたためと言われている[265][266]。
- ^ 当時マクラーレンが搭載していたポルシェエンジンに出資していたマンスール・オジェは、前年のタイトル獲得で所期の目標を達成したことや、莫大な開発費用のためTAG名義のエンジン供給を継続することに関心を失いつつあり、1986年限りで供給終了となる可能性は低くなかった[272]。そのため、デニスはホンダのほかルノーとも翌年に向けた交渉を行っていた[272]。同時期に、将来的に「マクラーレン・ホンダ」が誕生する可能性が高いことや、セナが所属するチーム(ロータスもしくはマクラーレン)のナンバー2チームとして扱われる可能性があることを予想したウィリアムズはルノーとの接触を始める[272]。
- ^ 当時、本田技術研究所で社長を務めていた川本信彦がホンダランドに「エクレストンは日本での開催をしたがっている」と連絡したことが契機となっている[187]。この時点では横浜市街地におけるF1開催を目指す組織もエクレストンとの交渉を進めており、鈴鹿と横浜は両天秤にかけられた状態で交渉することを余儀なくされた[187]。
- ^ この年、ルノーは3チームに供給していたが、ティレルは自然吸気エンジンに回帰することを見越して翌年からフォード・コスワースを搭載することを早々に決定し、リジェはルノーを「高価な上に燃費が悪く勝機もない」と断じて切り捨て[262]、ロータスもホンダに乗り換えることを発表したため、供給先を全て失っていた。ルノーはマクラーレンへの供給交渉を進めていたが、それが破談となった場合は撤退することを表明しており[265]、年内で撤退するであろうことは夏の時点でF1パドック内でも暗黙の了解となっていた。この一時撤退により、ルノーはターボ禁止後の供給再開を期して3.5リッター自然吸気エンジンの開発に専念することとなる。
- ^ 3.5リッター自然吸気エンジンの規定が導入されるのは1988年シーズンからで、この時点ではホンダは1988年もターボエンジンを継続するか、自然吸気エンジンに変更するかを決定していない。
- ^ 同時に、FISAはF1車両においてフットペダルをフロントアクスルより後ろにするであるとか[264]、グループCカーで特殊燃料を禁止などの施策も発表する[287][285]。1988年から導入されることになる3.5リッター自然吸気エンジンについて、FISAは当初8気筒までとしており、大多数のチームはこれを支持したが、フェラーリが政治的な揺さぶりをかけた結果、最大12気筒まで許可された(10月3日の発表会でエンツォ・フェラーリがビデオメッセージを送ったことはその傍証)と言われている[264]。
- ^ 26日の記者発表には本田宗一郎も同席した[289]。この契約発表は電撃的にされたもので(交渉が行われていることは知られていたが実現するとは考えられていなかった)[264]、同時期にF1放映権の獲得交渉を行っていたフジテレビにとっても、F1日本GPの開催実現は寝耳に水のものとなる[187]。それまで「数千万円程度」という線で交渉が行われていた放映権の金額は、来日したエクレストンと26日に新たに行われた交渉で「10数億円」に跳ね上がったと言われている[187]。この交渉のフジテレビも、エクレストンが同時に交渉を進めていたTBS、NHKとの間で天秤にかけられた状態での契約交渉を余儀なくされた[187]。
- ^ この年から2チーム供給が始まることに伴う措置で、エンジンのリビルド施設(前年まではウィリアムズファクトリー内に間借りしていた)、物流拠点としての機能を担う。施設は1986年末に「超短期」で完成し、1987年3月から使用が始められた[294]。
- ^ 5月31日決勝のモナコGPの直後にこの方針が決められた[296]。同時期にマクラーレンとの交渉も並行して進められていた[297]。
- ^ ホンダ側の提案による「イコールパートナー」という契約条件は、全ての決定はホンダとマクラーレンの合意に基づいて行うというもので、テスト費用やドライバーの報酬などの費用についてホンダも負担することとなる[297]。
- ^ イギリスGPの直後[245]。
- ^ この件について、後にフランク・ウィリアムズはルノーと組むことにつながったことからそれほど気にしていないと述懐している一方[258]、パトリック・ヘッドは「ひどい扱いを受けたという気持ちが拭い切れない」と述べている[298]。
- ^ 時期については諸説あり、ベンチテストが始まったのは「5月下旬」[288]、「秋」[300]という説もある。
- ^ マクラーレンのロズベルグは前戦ドイツGPでこの年限りでF1から引退することを発表済。
- ^ この時点では出力不足だったため、設計は一から見直されることになり、「RA108E」ではバンク角は80度だったが、実戦用の「RA109E」では72度に変更されることになるなど根本的な変更が行われる[288]。
- ^ 最終戦オーストラリアグランプリよりは前[299]。
- ^ 1989年からの新規則であれば、無限の会社規模でも技術的に参戦が可能なのではないか、という目算から、当初はホンダとは無関係に始められた[311]。
- ^ ポールポジションのセナよりも2番手スタートのプロストのほうが好調なスタートで、1周目でプロストがセナをグラベルに押し出す寸前となるほどの幅寄せを行い、それに対する報復だったとみられている。
- ^ 当時のホンダF1で広報担当(プレスオフィサー)をしていたエリック・シルバーマンはこれを機にホンダにとってセナは神様のような存在になっていたと述べている[317]。
- ^ エンジンサプライヤーとしては、1973年に15戦15勝したフォード(コスワース)と並ぶ年間最多勝タイ記録となる(当時)。
- ^ この時点で1991年シーズンからの投入を目標にした開発計画が立てられ[321]、実際に同年から投入されることになる。
- ^ この初回の走行ではボディ剛性の不足を訴え、評価は「けちょんけちょん」だった[323]。この問題を解決するため、ホンダはニュルブルクリンク(北コース)で走り込みを行い、やがて日本国内で同サーキットを再現したテストコース(鷹栖プルービンググラウンド)を建設するに至る[323]。
- ^ 紳士協定についての解釈の違いから、セナが協定を破ったということでプロストが憤慨する。この件でプロストからチーム離脱をほのめかされたデニスは、レースの数日後にセナを説得し、プロストに対して謝罪させた[324]。この時に同席していたのはプロストを含めた3名のみで、2日後、この時の様子がセナが涙ながらにプロストに謝罪したという内容でフランスの有力紙『レキップ』に掲載されたことから、セナはプロストと完全に決裂することになる[324][325]。
- ^ この時点で、翌年の去就は明かされず、フェラーリに移籍するであるとか、1年休養してマクラーレンに復帰するなどといった噂が流れる。
- ^ ホンダが提案を行った正確な時期は不明で、9月のイタリアGPよりは前の時期にあたる[316](イタリアGP後にデニスに出した抗議とは異なる)。
- ^ この直前の時点で、プロストは1年休養するという見方が有力となっており、この発表はメディアには驚きを与えることになり、一方、セナはプロストがマクラーレンのライバルであるフェラーリに移籍することに不快感を示したという[327]。
- ^ この時点でバレストルは、FISAのほか、上位組織の国際自動車連盟(FIA)の会長職と、出身国のフランス自動車競技連盟(FFSA)の会長職を兼務している[204][195]。
- ^ マクラーレンではドライバーが獲得した優勝トロフィーはチームに渡すという契約がある[328]。
- ^ デニスがプロストに謝罪を要求したのは日本GPの直前の時期で、当時マクラーレンのチームコーディネーターだったジョー・ラミレスは、こうしてプロストがチーム内で孤立していった中で日本GPを迎えたことは残念なことだったと述べている[314]。
- ^ V12エンジンのベンチテストを開始した時期は、「9月」という説[300]、「10月」という説[W 51]、「11月」以降という説[320]がある。
- ^ 2チーム供給(再開)の意向がホンダから示され、マクラーレンが仲介し[331]、日本GPに際してティレルとの契約が結ばれた[332]。中嶋悟が1990年にティレルに移籍したのはこの時にホンダが出した契約条件による[332]。
- ^ 橋本と瀧はNSXの開発スタッフで、同車の開発が終わったことが契機となった[342][341]。
- ^ F1では前年にフェラーリの燃料サプライヤーであるアジップが「ロケット・フューエル」と呼ばれる特殊燃料の先鞭をつけ、効果も大きかったことから各社が競って開発するようになった[346](この一時期は他カテゴリーでも特殊燃料の開発が盛んに行われた)。ホンダは環境問題の観点から特殊燃料の使用を拒否しており、開発が出遅れていた[193]。
- ^ 12気筒エンジン搭載車としては、1970年代にフェラーリが312Tシリーズでタイトルを複数回獲得しており、同車はVバンク角180度のV12エンジンを搭載していたが、このエンジンは水平対向12気筒(フラット12)とみなされることが常である。そのため、異論のないV12エンジンとしては1991年の例が唯一となる[W 51]。
- ^ この時点で撤退の正式決定はなされていないが、川本はホンダが直面している諸問題について語り、1993年に供給を継続することはなさそうだということを明瞭にデニスに伝える[349]。
- ^ 報道直後の7月20日にシビックの発売20周年を祝う記念イベントがあり、その中でコメントを求められた川本信彦は撤退報道について否定も肯定もせず、翌年以降どのようにするかは「早ければ8月末の経営会議で決定する」とコメントする[353]。
- ^ これによりホンダのエンジンの場合、前戦ドイツGPと比較して、最大出力は43馬力低下した[356]。
- ^ ベルギーGPとの前後関係は不明。
- ^ この発表以前の時点では、無限ホンダがホンダのV12エンジンを引き継ぐという噂もあった。
- ^ 第2期に関わっていたベテランエンジニアでレースに残った者の多くはインディのエンジン開発に回った[361][362]。
- ^ この時点で車名や諸元、搭載エンジンなどは公にされていないが、栃木研究所の若手エンジニアによって作られた車両であることはホンダの広報部によって明かされている[342]。
- ^ F1参戦車両を含む自社製品の展示施設の必要性は第1期終了後の1970年代からホンダ関係者もたびたび訴えていた[363][176]。当時のコレクションホールは鈴鹿サーキットのボーリング場の階下にあり、この場所は公開以前からホンダの市販車などを収蔵していた。ジャーナリストを招くこともあり[358][178][176]、一般公開以前からその存在は知られていたものの、自社製品の保存に否定的な本田宗一郎の生前はこうした施設を公にすることは憚られたため、公開は本田の死後となった[176]。
- ^ 追悼の芳名帳には8万人が署名し、花などの供え物は段ボール箱10箱分に達し、それらはセナの遺族に届けられた[364]。
- ^ シャシーに付けられたVINプレートでは「1996/5/20」と記載されている[360]。当初は前作のRC1.5Xから1年で完成させる予定だったが、プロジェクトの中止を言い渡されたことにより、20名弱という少数で開発を進めたことで2年を要した[360]。
- ^ RC計画はあくまで余暇を利用した自己啓発活動として行われたものであり、オデッセイ(初代。1994年発売)やステップワゴン(初代。1996年発売)が大ヒットしたことで、栃木研究所は量産車開発が多忙になり、土日の作業であってもRC計画の継続が難しくなり終了した[341]。
- ^ 「夏頃」の具体的な時期は不明。
- ^ この記事は川本信彦の「いろいろやっている」という発言を根拠とした憶測記事で、同紙の運動部ではなく、経済部の取材と判断によって掲載されたものだと推測されている[369]。
- ^ 時期について、出典のインタビューでポロックが「初頭」と言っているものの、BARとスーパーテックとの契約が決定するよりは前[376](この契約の発表は7月8日[377])ということ以外、ポロックは具体的な時期を述べていない。このインタビューを行った赤井邦彦は3月9日より前と解釈している[378]。なお、ジャック・ヴィルヌーヴの商業面のマネージャーをしていたジュリアン・ジャコビは、アイルトン・セナの生前のマネージャーでもあり、BARがホンダと接触する可能性は前年から噂されていた[379](ジャコビは1998年にはダリオ・フランキッティ、マックス・ビアッジら、他カテゴリーでホンダと縁のある選手のマネージメントも担当)。
- ^ ホンダの計画にはティレルのスタッフが加わっていたものの、ティレルのファクトリーを使って作業することは不可能だったので、ポスルスウェイトの提案でダラーラと組むことにした[375]。ホンダはダラーラの設備充実も同時に進めたが、ダラーラとの契約はRA099に限ったもので、その後の車体開発はイギリスのHRDを中心とした体制になる予定だった[375]。
- ^ 3月6日(木曜)発売の『レーシング・オン』誌(No.264)で、ホンダのF1復帰を報じるスクープ記事が掲載されており、それを受けて急遽出されたプレスリリースだとも言われている[380]。このプレスリリースは社長名義で発表されたものではあるが、フルコンストラクターとしてのF1参戦について、この時点でホンダ社内における合意はなかったと考えられている[380][374]。川本らホンダ社内のF1推進派が、社内で主導権を握るために、こうしたリリースを出すことで「復帰」の既成事実化を狙ったのではないか(『レーシング・オン』誌に「スクープ」を掴ませたのも計画の内[380])、とも言われている[380][374]。
- ^ RA302やロータス・99Tのように(複雑な機構を持つことから)走行不能な車両や、マクラーレン・MP4/7Aのように展示車両しか存在しないケースもある[381]。
- ^ 1998年シーズンはまだティレルはF1に参戦しており、ティレルのスタッフは日中はティレルのために働き、業務時間外にホンダのために働く体制となる[371]。同年春頃からティム・デンシャムがRA099の基本的な設計を始め、ポスルスウェイトはそれに少し遅れて加入した[384]。
- ^ この時点で、参戦計画中止についても、福井に選択肢が与えられた[386]。
- ^ 当時のF1では、既存チームの価値を高めるために参戦枠を最大11チームに制限しており、BARがティレルを買収して参戦したのも参戦権を得る必要があったという事情による。この時点で既に11チームが参戦していたが、ホンダのために特例として1枠が追加された。この事は翌年にホンダがチームとしての参戦を諦めた際に問題となる。
- ^ この情報は日本の「レーシングオン」(ニューズ出版)編集部と「週刊プレイボーイ」(集英社)編集部に事前にリークされ、両誌は取材スタッフを現地に派遣することになる[383]。
- ^ フェルスタッペンは1997年シーズンにティレルに在籍しており、その時の縁からRA099のテストドライバーを引き受けた[389]。
- ^ この懇談会は「超・低燃費新世代カー」の公開が主で[W 59]、F1については前週にテスト走行を行ったことは明かされたが、参戦体制、HRDについての詳細や前週に走ったテスト車両(RA099)の詳細は明かされず、会見後の懇談でも吉野が取材者に対して言葉を濁し続ける奇妙な会となる[380][375]。
- ^ このテストでRA099は初めて公の場所に登場し、ホンダ関係者や旧ティレルのスタッフたちも姿を現すが、緘口令が敷かれ、チームや車両についての詳細は引き続き伏される。ホンダが合同テストに参加したのは、この年からF1タイヤのワンメイク供給を行っていたブリヂストンからの要請(プライベートテストのみではタイヤ供給に困難がある)があったためと言われている。
- ^ 「エンジンサプライヤー」として参戦するという方針はこの会議で決定が下されたとも言われている[375]。
- ^ 4月のポスルスウェイトの死をきっかけにホンダが方針を変えたという説もあるが、関係者の話の時系列とは齟齬があり、ポスルスウェイトの生前には既に決定していたという証言がある。
- ^ この時点で、BARとは2000年から2年間のエンジン供給契約と、1年延長のオプション契約(契約延長に両者の合意が必要)が結ばれた[386]。
- ^ エンジンに最適な燃料とエンジンオイルを手に入れるために、ホンダ側から日石三菱に接触し、日石三菱側は若年層にアピールできる点を重視して供給を決めた[402]。
- ^ 2000年シーズンの開幕前から、BARが不調であればホンダはジョーダンに(も)供給するだろうということはF1関係者の間で噂されていた[386]。
- ^ 無限は活動継続を目指し、ミナルディへの供給交渉を独自に行っていたが、本田技術研究所が支援継続に難色を示したことで活動継続が不可能になったと考えられている[409]。
- ^ このシーズン前に前任のテクニカルディレクターであるマイク・ガスコインら主だったエンジニアたちが大量に離脱しており、この年のEJ11自体はガスコインの主導で開発された。
- ^ この年は他メーカー(BMW)と同等の高回転・高出力に追いつくことを目指して「近道」を図り、バルブリフト系を大きくする機構(出力を上げるためにバルブの吸気量を増やそうとした)に変更したが、それが失敗したため元々の機構に戻して開発し直したため投入が遅れた[417]。
- ^ この時点でBARはビルヌーブと翌年の契約を残していたが、チーム代表のデビッド・リチャーズはパニスに翌年も残留するよう望んでいた[418]。しかし、(ビルヌーブを排除することを前提にした)複雑なチーム政治の絡むオファーだったことに加えて、提示された契約の延長期間が1年のみだったため、パニスはチームを去ることにする[418]。パニスはバトンの契約発表後に他チームとの交渉を始め、トヨタF1との契約をまとめた[418]。
- ^ 両者のマネージメントのトップが定期的に集まり、資金面、人事の問題や、レギュレーションに関する考え方の統一、ドライバー選定といった事柄について話し合うようになった[420]。出席者はホンダ側はホンダ本社のモータースポーツ部長、HRDの田中社長とオトマー・サフナウアー副社長、栃木研究所の木内プロジェクトリーダー、橋本健主席研究員、BAR側はチーム代表のリチャーズ、COOのニック・フライ、テクニカルディレクターのジェフ・ウィリスという顔ぶれとなる[420]。
- ^ EUの広告規制に合わせ、2007年からF1におけるタバコ広告が禁止となる予定だったため(実際に実行された)、オーナーがタバコ会社のBATだけのままではチーム運営に懸念があるということで、資本参加した[426][425]。残りの55%は引き続きBATが保有[425]。
- ^ この提案は、ホンダ本社で、ホンダ広報部長の大島裕志、モータースポーツ部長の数左明男、HRD社長の和田康裕に対して行われた[427]。詳細は「スーパーアグリF1チーム」を参照。
- ^ 和田はHRDの社長に就任する以前は2003年から2005年にかけてHPD社長を務め、北米のインディカー(IRL)でエンジン供給を担っていた[430]。
- ^ 理由としては、鈴木の提案通りにした場合、あまりに日本色が強くなり、グローバル企業であるホンダのF1活動としては行えないという判断があったとされる[434]。これにより、鈴木が目指していたF1参戦計画は一旦潰える[433]。
- ^ バリチェロと早期に契約したことにより、ほどなくして、ホンダはバトンと佐藤の二者択一を迫られることになる[433]。
- ^ BAR・ホンダ側はテストドライバーとしての残留を希望していたが、最終的に佐藤はこれを拒否した[435]。
- ^ 理由は明かされていない[437]。ホンダが加盟していたGPMAとFIAの関係が微妙な時期にコンコルド協定に抵触しかねない行動を避けたとも[437]、HRF1のジェフ・ウィリスからの反対があったからだとも言われている[438]。
- ^ 会社としての「Super Aguri F1 Limited」は前日10月31日付けでイギリスで登記された[438][W 64]。
- ^ イギリスの登記上は1月10日付で社名が変更されている[W 63]。
- ^ ホンダのフルワークスチームとしては1968年イタリアグランプリ以来で、通算2回目にあたる。
- ^ 5月と7月のシルバーストン(ショートコース)におけるプライベートテスト、9月のヘレスサーキットにおける合同テスト[444]。
- ^ 同年12月に撤退の記者会見を行った福井威夫は、F1からの撤退という判断に傾いたのは、10月、11月の市場の急速な悪化を受けてのものだったと述べている[W 68][W 69]。
- ^ フライらに通知を行う前週の出来事[447]。
- ^ ホンダが撤退の意向を通知した場所について、フライは11月にヒースロー空港のルネッサンスホテルに呼び出され、ブラウンとともに大島から知らされたと著書で記し[447]、他方、ブラウンは12月初め[448]にホンダUKの本部が置かれていたスラウに呼び出され、フライとともに知らされたと述べており[449]、若干食い違いがある(他は比較的細部に至るまでほぼ同じことを証言している)。場所については、ブラウンも2009年のインタビューでは「ヒースロー」と言っている[448]。
- ^ この時点では正式には決定していなかったとされる[W 72]。バトンの担当エンジニアのアンドリュー・ショブリンも同席していたが、ドライバーへの周知は禁止される[W 71]。
- ^ この後、(出所は不明だが)日本国外では正式発表直前のタイミングでホンダ撤退の噂が急速に広まることになる[W 72]。
- ^ 第1期と第2期で用いた「休止」ではなく、「撤退」という言葉が用いられた。この時の経済危機は日本国内のモータースポーツ関係者にとっては1970年代のオイルショックの再来と言われるほどの大きな衝撃を与え、ホンダの撤退発表があった12月にはスズキ自動車と富士重工業(スバル)がWRC参戦終了を発表し[452]、トヨタも翌年にF1参戦を終了することになる。
- ^ F1においてデビュー戦の1-2フィニッシュは1954年フランスグランプリのメルセデス以来、55年ぶり2例目の記録となる。
- ^ 櫻原は第3期後半のエンジン開発責任者。
- ^ 「直列4気筒」という案にはフェラーリとダイムラー(メルセデス)が難色を示したため、翌年までに「V型6気筒」に変更される。
- ^ 先行していたとされるメルセデス(HPP)は同年末には最初のベンチテストを行ったと言われている[W 83]。
- ^ F1チームの運営会社であるマクラーレン・レーシングの親会社。同社は2015年1月にマクラーレン・グループから「マクラーレン・テクノロジー・グループ」に改称しているが[W 84](その後、2017年7月に「マクラーレン・グループ」に名前を戻している)、煩雑になるので改称されていた期間についても「マクラーレン・グループ」と表記する。
- ^ 2009年からグループやF1チームの運営をウィットマーシュに任せており、この時期は経営の第一線からは一歩退いていた。
- ^ この時点では図面もパーツも何もなく、コンセプトも決まっていないという状態だったという[459]。
- ^ この時点では基本的なコンセプトを確認するためだけのものだったとされる[459]。
- ^ 既存の建物を流用したA棟は、建物の構造上、パワーユニット開発に不可欠なエンジンベンチの設置ができず、別棟の完成を待つことになる[453]。
- ^ ホンダとマクラーレンの契約には、ホンダが2チーム供給する場合はマクラーレンの承認を必要とするという条項が存在した[464]。
- ^ 着任当初はF1よりも国内のSUPER GTとスーパーフォーミュラのほうを何とかしろと言われていた[465]。
- ^ 前年のレッドブルとの交渉と同様、マクラーレンの承諾を得る必要があり、トロ・ロッソへの供給は一旦は承認されたが、それがレッドブルへの供給につながる可能性があることに気付いたロン・デニスが翻意して拒否権を行使した[464]。
- ^ マクラーレン・グループの大株主であるマムタラカトはバーレーン王国の政府系ファンド。
- ^ この時にマクラーレン側から予算や契約についての話が出たことで、山本は筋違いな話をされていると感じたと述べている[469]。
- ^ 「開幕2、3戦目ぐらい」の頃[468][W 92]。
- ^ レッドブルリンクと異なり、シルバーストンサーキット内に密会に適した場所はなかったため、レース関係者は来ないだろうということで、この密会はサーキット近くのマクドナルドで行われた[473]。
- ^ この話は当事者のトロ・ロッソ(フランツ・トスト)は不在で、ホンダとルノーの間だけで行われた[465]。
- ^ この時点でレッドブル(RBR)はルノーユーザーで、ホンダとは何の契約もなかった。そのため、研究所内でもこの招待には異論が出たが、山本が許可した[478]。
- ^ 1999年にRA099のテストドライバーを担当したヨス・フェルスタッペンの息子。
- ^ レッドブルのクリスチャン・ホーナーは「7月頃」と言っている[462]。
- ^ この時点では、新規則の導入が2025年からになるか2026年になるかはまだ不透明な状態[W 105]。
- ^ 2023年から2025年までの期間に使用するパワーユニット(開発が凍結されている)に関連する費用は含まない[W 113]。
- ^ この時点では、実際に供給を行うかは未定だった[W 114]。
- ^ エンジン/PUのみの最多勝率記録としては、フォードが記録した勝率100%の2例(1969年・1973年)があり、ホンダRBPTの記録をそれらに次ぐものとなる。
出典
[編集]- 出版物
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- 中村良夫『グランプリ 2 わが仲間たち』二玄社、1970年10月。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000001285350。
- 中村良夫『グランプリ 2 わが仲間たち』二玄社、1990年10月。ISBN 978-4544040050。
- 中村良夫『グランプリレース ──ホンダF-1と共に──』山海堂、1979年12月25日。ASIN B000J8BT9O。 NCID BA34300064。
- 中村良夫『F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968──』三樹書房、1988年8月。ASIN 4895221296。ISBN 978-4895221290。
- 中村良夫『F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968── 愛蔵版』三樹書房、1998年10月。ASIN 4895222330。ISBN 978-4895222334。 NCID BA45272539。
- 中村良夫、神田重巳、CAR GRAPHIC『HONDA F1 1964-1968』二玄社、1984年7月30日。ASIN B000J73UYW。 NCID BN04381353。NDLJP:12668822。
- 秋鹿方彦(監修)『グランプリレース 栄光を求めて1959~1967』三樹書房、1989年6月10日。ASIN 4895221334。ISBN 4-89522-133-4。 NCID BN1506572X。
- 桜井淑敏『ゼロからの挑戦 ──私は、いかにしてF1で世界を制したか』祥伝社〈先見サラリーマン・シリーズ(8)〉、1989年11月10日。ASIN 4396610238。ISBN 4-396-61023-8。 NCID BN05609060。
- 後藤治(監修)、CAR GRAPHIC(構成)『F1解剖講座 データで見るF1グランプリ』二玄社、1990年10月15日。ASIN 454404037X。ISBN 4-544-04037-X。 NCID BN10210027。
- 後藤治『快走F1メモ』マガジンハウス、1991年8月29日。ASIN 4838702728。ISBN 4-8387-0272-8。 NCID BN06899782。
- 中村良夫『ひとりぼっちの風雲児』山海堂〈F1 GPX BOOKS〉、1994年1月31日。ASIN 4381076850。ISBN 4-381-07685-0。
- 中村良夫『フォーミュラ ワン ──18年の集約 1977~1994──』三樹書房、1994年10月25日。ASIN 4895221857。 NCID BN11858718。
- 中村良夫『フォーミュラ ワン ──18年の集約──』三樹書房、2006年。ASIN 4895224759。 NCID BA77851478。
- 中村良夫『フォーミュラ ワン ──18年の集約──』三樹書房、2008年10月1日。ASIN 4895220699。
- 桜井淑敏『本田宗一郎、セナと私の闘うことと愛すること』青春出版社、1995年5月1日。ASIN 4413016351。ISBN 4-413-01635-1。
- 本田宗一郎『本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年7月1日。ASIN 453219069X。ISBN 978-4-532-19069-9。 NCID BA52730247。
- 久米是志『「無分別」のすすめ 創出をみちびく知恵』岩波新書〈岩波アクティブ新書〉、2002年1月11日。ASIN 4007000018。ISBN 4-00-700001-8。 NCID BA55105089。
- Jack Brabham (2004-03-01). Jack Brabham Story. Chrysalis Books Group. ASIN 186205651X. ISBN 1-86205-651-X
- 田中詔一『F1ビジネス ──もう一つの自動車戦争』KADOKAWA〈角川oneテーマ21〉、2006年5月10日。ASIN B00IADVQE8。ISBN 978-4047100459。 NCID BA76736725。
- 久米是志『「ひらめき」の設計図 創造への扉は、いつ、どこから、どうやって現れるのか』小学館、2006年6月20日。ASIN 4093876606。ISBN 4-09-387660-6。 NCID BA77326183。
- 田中詔一『ホンダの価値観 ――原点から守り続けるDNA』KADOKAWA〈角川oneテーマ21〉、2007年12月10日。ASIN B00IADVP44。ISBN 978-4047101234。 NCID BA84152967。
- 田口英治『ホンダF1設計者の現場 スピードを追い求めた30年』二玄社、2009年3月25日。ASIN 454440035X。ISBN 978-4-544-40035-9。 NCID BA90688881。
- 野口義修『F1ビジネス戦記 ホンダ「最強」時代の真実』集英社、2015年6月20日。ASIN 408720779X。ISBN 4-08-720779-X。 NCID BB18274594。
- Jenson Button (2018-01-15). Life to the Limit: My Autobiography. Blink Publishing. ASIN 1911600346. ISBN 1-91160-034-6
- ジェンソン・バトン(著)、児島修(訳)『ジェンソン・バトン自伝 ライフ・トゥ・ザ・リミット』東洋館出版社、2019年4月12日。ASIN 4491036969。ISBN 978-4-491-03696-0。 NCID BB28402646。
- Nick Fry, Ed Gorman (2019-10-03). Survive. Drive. Win.: The Inside Story of Brawn Gp and Jenson Button's Incredible F1 Championship Win. Atlantic Books. ASIN 1786498901. ISBN 978-1786498908
- Nick Fry, Ed Gorman (2020-10-01). Survive. Drive. Win.: The Inside Story of Brawn Gp and Jenson Button's Incredible F1 Championship Win. Atlantic Books. ASIN 1786498928. ISBN 978-1786498922
- 山本雅史『勝利の流れをつかむ思考法 F1の世界でいかに崖っぷちから頂点を極めたか』KADOKAWA、2022年10月6日。ASIN 4046059990。ISBN 978-4046059994。 NCID BC17161636。
- 中嶋悟『いつかはF1 私の履歴書』日経BP 日本経済新聞出版、2022年11月17日。ASIN 4296116096。ISBN 978-4296116096。 NCID BC18720675。
- 書籍(第三者による著作)
- 海老沢泰久『F1地上の夢』朝日新聞社、1987年2月。ASIN 4022556552。ISBN 4-02-255655-2。 NCID BN01615152。NDLJP:12441307。
- 海老沢泰久『F1地上の夢』朝日新聞出版〈朝日文芸文庫〉、1993年7月。ASIN 402264009X。ISBN 4-02-264009-X。 NCID BN10508335。
- 海老沢泰久『F1走る魂』文芸春秋社、1988年2月1日。ASIN 416342170X。ISBN 978-4163421704。 NCID BN11617915。
- 海老沢泰久『F1走る魂』文芸春秋社〈文春文庫〉、1991年6月10日。ASIN 4167414023。ISBN 978-4167414023。 NCID BN11169097。
- 御堀直嗣『ホンダF1エンジン・究極を目指して』グランプリ出版、1992年7月29日。ASIN 487687123X。ISBN 4-87687-123-X。
- 『HONDA F1 ① 1964-1968挑戦の全記録』グラフィック社、1992年10月25日。ASIN 4766107314。ISBN 978-4-7661-0731-9。
- 桂木洋二『ホンダはF1をいかに戦ったか』グランプリ出版、1992年11月18日。ASIN 4876871272。ISBN 978-4876871278。
- 中部博『本田宗一郎伝 世界が俺を待っている』集英社、1994年4月25日。ASIN 4087801284。ISBN 978-4087801286。 NCID BN11347967。
- 中部博『定本 本田宗一郎伝』三樹書房、2001年4月5日。ASIN 4895222721。ISBN 978-4895222723。 NCID BA51950758。
- 中部博『定本 本田宗一郎伝 (新装版)』三樹書房、2012年10月1日。ASIN 4895225992。ISBN 978-4895225991。 NCID BB1089577X。
- 中部博『定本 本田宗一郎伝 (三訂版)』三樹書房、2017年7月10日。ASIN 4895226697。ISBN 978-4895226691。 NCID BB23897574。
- 佐藤正明『ホンダ神話 教祖のなき後で』文芸春秋社、1995年4月。 NCID BN12629501。
- 佐藤正明『ホンダ神話 教祖のなき後で』文芸春秋社〈文春文庫〉、2000年3月10日。ASIN 4167639017。ISBN 978-4-16-763901-3。 NCID BA48684248。
- 軍司貞則『本田宗一郎の真実 神話になった男の知られざる生涯』講談社、1995年1月。ASIN 4062065258。ISBN 978-4062065252。 NCID BN12307866。
- 軍司貞則『本田宗一郎の真実 不況知らずのホンダを創った男』講談社〈講談社文庫〉、1999年11月15日。ASIN 4062637111。ISBN 4-06-263711-1。 NCID BA46431966。
- ジョー・ホンダ『未亡人は言った。「本田宗一郎を殺したい」』KKベストセラーズ、1995年6月5日。ASIN 4584182124。ISBN 4-584-18212-4。
- 田宮俊作『田宮模型の仕事─木製モデルからミニ四駆まで』ネスコ、1997年6月1日。ASIN 4890369503。ISBN 978-4890369508。 NCID BA32202009。
- 田宮俊作『田宮模型の仕事』文芸春秋社〈文春文庫〉、2000年5月1日。ASIN 4167257033。ISBN 978-4167257033。 NCID BA46562647。
- 西山平夫『ブリヂストンがグッドイヤーを抜き去った日』講談社、1998年6月19日。ASIN 4062092603。ISBN 978-4062092609。 NCID BA36781702。
- Mike Lawrence (2000-01-20). Brabham Ralt Honda: The Ron Tauranac Story. Motor Racing Pubns. ASIN 1899870350. ISBN 978-1899870356
- Mike Lawrence (2011-01-03). Brabham Ralt Honda: The Ron Tauranac Story. Brooklands Books Ltd. ASIN 1855209233. ISBN 978-1855209237
- Timothy Collings (2001-11-08) (英語). THE Pianha Club - Power and Influence in Formula One. Virgin Books Ltd. ASIN 1852279079. ISBN 978-1852279073
- ティモシー・コリングス(著)、熊倉重春(訳)『ピラニア・クラブ F1マネーに食らいつけ』二玄社、2003年5月31日。ASIN 4544040868。ISBN 4-544-04086-8。 NCID BA66463149。
- 中部博『伝説のレースを追って いま明かされる名勝負の真相』ニューズ出版、2007年3月1日。ASIN 4891074493。ISBN 978-4-89107-449-4。 NCID BA8272706X。
- 赤井邦彦『鈴木亜久里の冒険 走れ、F1ビジネス!!』山海堂、2007年9月28日。ASIN 4381022203。ISBN 978-4-381-02220-2。 NCID BA83697871。
- 赤井邦彦『鈴木亜久里の挫折 F1チーム破綻の真実』文藝春秋〈文春文庫〉、2008年10月10日。ASIN 4167753111。ISBN 978-4-16-775311-5。 NCID BA87538778。
- 川喜多研『さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか?』集英社、2009年3月31日。ASIN 4087805212。ISBN 978-4-08-780521-5。 NCID BA89974169。
- 今宮雅子『スーパーアグリ伝説』東邦出版、2009年4月4日。ASIN 4809407802。ISBN 978-4-8094-0780-2。 NCID BA89498878。
- Malcolm Folley (2009-05-07). Senna Versus Prost. Century. ASIN 1846055407. ISBN 978-1846055409
- マルコム・フォーリー(著)、五十嵐哲(翻訳)『セナvsプロスト 史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』三栄書房、2010年7月3日。ASIN 4779609798。ISBN 978-4-7796-0979-4。 NCID BB03122504。
- 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670。ISBN 978-4-89522-667-7。 NCID BB23601317。
- 尾張正博『歓喜 ホンダF1 苦節7年、ファイナルラップで掴みとった栄冠』インプレス、2022年4月1日。ASIN 429501365X。ISBN 978-4-295-01365-5。 NCID BC13482933。
- ジョン・フーゲンホルツ、中島剛彦『フーゲンホルツさんの日記~1961年1月真実の鈴鹿サーキット設計記』www.takahikonakajima.com、2022年9月12日。ASIN B0BF7VJW12。ISBN 979-8352543443。
- NHK取材班『ホンダF1 復活した最速のDNA』幻冬舎、2022年10月5日。ASIN B0BGRVTTQQ。ISBN 978-4-344-04016-8。 NCID BC17164758。
- 書籍シリーズ
- 『GRAND PRIX CAR 名車列伝 F1グランプリを彩ったマシンたち』(NCID BB11073368)
- 『Vol.8 [ホンダ]』三栄書房、2013年11月23日。ASIN 4779619432。ISBN 978-4-7796-1943-4。ASB:MEI20131010。
- 『GP Car Story』シリーズ
- 『Vol.01 McLaren MP4/4』三栄書房、2012年7月21日。ASIN 4779615046。ISBN 978-4-7796-1504-7。ASB:GPC20120607。
- 『Vol.10 McLaren MP4/7A』三栄書房、2015年1月19日。ASIN 4779623863。ISBN 978-4-7796-2386-8。ASB:GPC20141206。
- 『Vol.13 Williams FW11』三栄書房、2015年10月21日。ASIN 4779626366。ISBN 978-4-7796-2636-4。 NCID BB19947974。ASB:GPC20150907。
- 『Vol.17 Lotus 99T』三栄書房、2016年11月20日。ASIN 4779630282。ISBN 978-4-7796-3028-6。 NCID BB23033189。ASB:GPC20161007。
- 『Vol.21 McLaren MP4/5』三栄書房、2017年11月20日。ASIN 4779633621。ISBN 978-4-7796-3362-1。ASB:GPC20171007。
- 『Vol.31 Jordan 199』三栄、2020年4月26日。ASIN 4779641462。ISBN 978-4-7796-4146-6。ASB:GPC20200313。
- 『Vol.33 Tyrrell 020』三栄、2020年11月20日。ASIN 4779642469。ISBN 978-4-7796-4246-3。 NCID BC03152579。ASB:GPC20201007。
- 『Special Edition 2021 MUGEN HONDA 1992-2000』三栄、2021年10月22日。ASIN 4779644577。ISBN 978-4-7796-4457-3。ASB:GPC20210908。
- 『Vol.37 Brabham BT55』三栄、2021年11月20日。ASIN 477964481X。ISBN 978-4-7796-4481-8。ASB:GPC20211007。
- 『Vol.42 Brawn BGP001』三栄、2023年1月27日。ASIN 4779647398。ISBN 978-4-7796-4739-0。ASB:GPC20221214。
- 『Vol.45 Lotus 100T』三栄、2023年11月23日。ASIN 4779649005。ISBN 978-4-7796-4900-4。ASB:GPC20231010。
- 論文
- 『Honda R&D Technical Review Vol.1』本田技術研究所、1989年4月1日。 NCID AN10088639。NDLJP:3313800。
- 『第19回ガスタービン定期講演会 講演論文集』日本ガスタービン学会、1991年5月。 NCID BA50284785。 ※日本ガスタービン学会のウェブサイトで閲覧可能。
- 『Honda R&D Technical Review F-1 Special [F-1特集号]』本田技術研究所、1993年11月1日。 NCID AN10088639。NDLJP:3313805。
- 『Honda R&D Technical Review F-1 Special [F-1特集号]』本田技術研究所、2009年12月1日。 NCID AN10088639。NDLJP:11027033。本田技術研究所: F1 Special (The third Era Activities)。
- 『産業連関 : イノベーション&I-Oテクニーク : business journal of PAPAIOS』 18巻, 1-2号、環太平洋産業連関分析学会、2010年6月30日。 NCID AN1058314X。
- 雑誌 / ムック
- 『ホンダ50年史』八重洲出版〈ヤエスメディアブック〉、1998年8月31日。ASIN 4946342117。ISBN 4-946342-11-7。 NCID BA38448919。
- 『モーターファン』
- 『1962年臨時増刊 オートスポーツ スズカ・レース特集号』三栄書房、1962年12月15日。ASB:AST19621215。
- 『カーグラフィック』誌(NCID AN10092250)
- 『1979年3月号』二玄社、1979年3月1日。
- 『実業の日本』
- 『1966年5月15日号』実業之日本社、1966年5月15日。
- 『オートスポーツ』(NCID AA11437582)
- 『1965年 Spring (No.4)』三栄書房、1965年3月5日。ASB:AST19650305。
- 『1966年9月号(No.14)』三栄書房、1966年9月1日。ASB:AST19660901。
- 『1967年1月号(No.18)』三栄書房、1967年1月1日。ASB:AST19670101。
- 『1968年5月号(No.35)』三栄書房、1968年5月1日。ASB:AST19680501。
- 『1968年10月号(No.40)』三栄書房、1968年10月1日。ASB:AST19681001。
- 『1969年2月号(No.44)』三栄書房、1969年2月1日。ASB:AST19690201。
- 『1969年4月号(No.47)』三栄書房、1969年4月1日。ASB:AST19680401。
- 『1969年7月号(No.50)』三栄書房、1969年7月1日。ASB:AST19690701。
- 『1969年8月号(No.51)』三栄書房、1969年8月1日。ASB:AST19690801。
- 『1969年9月号(No.52)』三栄書房、1969年9月1日。ASB:AST19690901。
- 『1970年6月号(No.62)』三栄書房、1970年6月1日。ASB:AST19700601。
- 『1973年11/1号 (No.129)』三栄書房、1973年11月1日。ASB:AST19731101。
- 『1981年4/15号 (No.319)』三栄書房、1981年4月15日。ASB:AST19810415。
- 『1981年11/1号 (No.332)』三栄書房、1981年11月1日。ASB:AST19811101。
- 『1982年4/15号 (No.344)』三栄書房、1982年4月15日。ASB:AST19820415。
- 『1982年9/1号 (No.353)』三栄書房、1982年9月1日。ASB:AST19820901。
- 『1983年2/1号 (No.363)』三栄書房、1983年2月1日。ASB:AST19830201。
- 『臨時増刊 ザ・タイムトンネル・サーキット』三栄書房、1984年9月30日。ASB:ASS19840930。
- 『1985年2/1号 (No.413)』三栄書房、1985年2月1日。ASB:AST19850201。
- 『1986年2/1号 (No.438)』三栄書房、1986年2月1日。ASB:AST19850201。
- 『1986年2/15号(No.439)』三栄書房、1986年2月15日。ASB:AST19860215。
- 『1986年3/1号(No.440)』三栄書房、1986年3月1日。ASB:AST19860301。
- 『1986年4/1号(No.441)』三栄書房、1986年4月1日。ASB:AST19860401。
- 『1986年9/15号 (No.454)』三栄書房、1986年9月15日。ASB:AST19860915。
- 『1987年1/1号 (No.461)』三栄書房、1987年1月1日。ASB:AST19870101。
- 『1987年1/10臨時増刊 F1 Grand Prix (No.462)』三栄書房、1987年1月10日。ASB:AST19870110。
- 『1991年2/1号 (No.573)』三栄書房、1991年2月1日。ASB:AST19910201。
- 『1994年6/1号 (No.655)』三栄書房、1994年6月1日。ASB:AST19940601。
- 『1997年8/15号 (No.731)』三栄書房、1997年8月15日。ASB:AST19970815。
- 『1997年11/15号 (No.731)』三栄書房、1997年11月15日。ASB:AST19971115。
- 『1998年8/15号 (No.754)』三栄書房、1998年8月15日。ASB:AST19980815。
- 『2001年6/21号 (No.823)』三栄書房、2001年6月21日。ASB:AST20010621。
- 『別冊 FORMULA 1 file Vol.3』三栄書房、2018年9月21日。ASIN B07DP9Y7MK。ASB:ASS20180808。
- 『2022年11月号(No.1577)』三栄、2022年9月29日。ASIN B09F2WP3BV。ASB:AST20220929。
- 『2024年9月号(No.1599)』三栄、2024年7月29日。ASIN B0CXTCPRW1。ASB:AST20240729。
- 『auto technic』(NCID AA12803620)
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- 『Racing On』(NCID AA12806221)
- 『No.005』武集書房、1986年9月1日。ASB:RON19860901。
- 『No.006』武集書房、1986年10月1日。ASB:RON19861001。
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- 『No.023』武集書房、1988年3月1日。ASB:RON19880301。
- 『No.040』武集書房、1988年12月15日。ASB:RON19881215。
- 『No.060』武集書房、1989年11月1日。ASB:RON19891101。
- 『No.065』武集書房、1990年1月15日。ASB:RON19900115。
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- 『No.130』ニューズ出版、1992年11月1日。ASB:RON19921101。
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- 『No.138』ニューズ出版、1993年3月15日。ASB:RON19930315。
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- 『No.160』ニューズ出版、1994年3月1日。ASB:RON19940301。
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- 『No.292』ニューズ出版、1999年4月23日。ASB:RON19990423。
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- 『No.333』ニューズ出版、2000年11月30日。ASB:RON20001130。
- 『No.350』ニューズ出版、2002年1月1日。ASB:RON20020101。
- 『No.355』ニューズ出版、2002年6月1日。ASB:RON20020601。
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- 『No.364』ニューズ出版、2003年3月1日。ASB:RON20030301。
- 『No.367』ニューズ出版、2003年6月1日。ASB:RON20030601。
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- 『No.379』ニューズ出版、2004年6月1日。ASB:RON20040501。
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- 『No.425 [タミヤの功績]』ニューズ出版、2008年4月1日。ASIN B00140WOIG。ASB:RON20080301。
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- 『No.435 [ジム・クラーク]』ニューズ出版、2009年2月1日。ASIN B001NIDO5G。ASB:RON20081227。
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- 『February 2022 [さらばF1 HONDA 名ドライバー伝説。]』文藝春秋、2022年1月31日。ASIN 4160082599。ISBN 4-16-008259-9。
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- 『別冊 Honda F1 Book』三栄書房、2016年10月30日。ASIN B01LZJP7GI。ASB:FSS20160916。
- 『別冊 Honda RA615H Honda Racing Addict Vol.1 2013-2015』三栄、2021年9月10日。ASIN B088LW9HCF。ISBN 978-4-7796-4425-2。ASB:FSS20210728。
- 『別冊 Honda RA616H & RA617H Honda Racing Addict Vol.2 2016-2017』三栄、2021年10月23日。ASIN B088LPXJ8H。ISBN 978-4-7796-4459-7。ASB:FSS20210909。
- 『別冊 Honda RA618H & RA619H Honda Racing Addict Vol.3 2018-2019』三栄、2021年11月27日。ASIN B088LT9NKG。ISBN 978-4-7796-4482-5。ASB:FSS20211014。
- 『別冊 Honda RA620H & RA621H Honda Racing Addict Vol.4 2020-2021』三栄、2022年2月6日。ASIN B088M3ZXTB。ISBN 978-4-7796-4515-0。ASB:FSS20211224。
- 『F1速報PLUS』
- 『Vol.38 マクラーレン・ホンダの挑戦』三栄書房、2015年9月20日。ASIN B014F1LXBY。ASB:FSP20150820。
- 『F1倶楽部』 / 『F1 CLUB』
- 『1994 Vol.7 ニッポンのF1』双葉社〈双葉社ムック〉、1994年11月18日。ASIN 4575462373。ISBN 978-4-575-46237-1。
- 『2002 Vol.45 1950-2002 F1温故知新』双葉社〈双葉社ムック〉、2002年11月10日。ASIN 4575474835。ISBN 4-575-47483-5。
- 『2003 Vol.46 幻のホンダF1、遂に取材解禁。』双葉社〈双葉社ムック〉、2003年2月10日。ASIN 4575475130。ISBN 4-575-47513-0。
- 『サイクルサウンズ』
- 『2000年4月号別冊 Honda F1 2000』山海堂、2000年4月1日。ASIN B00Y4G6E74。
- 『F1グランプリ特集』(NCID AA11429019)
- 『Honda Racing [F1] 2006 Preview』ソニー・マガジンズ、2006年4月5日。ASIN 478979752X。
- 『F1 Racing 日本版』
- 『1999年8月号』三栄書房、1999年8月3日。
- 『2009年6月号』三栄書房、2009年6月27日。ASIN 4779606349。ISBN 978-4-7796-0634-2。
- 『モーターファン・イラストレーテッド』(NCID AA12467385)
- 『特別編集 モータースポーツのテクノロジー 2015-2016』三栄書房、2016年2月6日。ASIN 4779627508。ISBN 978-4-7796-2750-7。ASB:MFS20151224。
- 『F1モデリング』
- 『F1モデリング Vol.61』東邦出版、2015年4月27日。ASIN 4809413136。ISBN 978-4-8094-1313-1。シナノブック: 3457。
- 『F1モデリング Vol.64』東邦出版、2016年4月21日。ASIN 4809413896。ISBN 978-4-8094-1389-6。シナノブック: 3568。
- ドキュメンタリー番組
- 『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』第154回「地上最強のマシーン F1への激闘」(2004年10月5日放送)
- 配信動画
- 本田技研工業株式会社 - YouTubeチャンネル
- 『Honda 挑戦の歴史: 第1期F1・F2活動』本田技研工業株式会社、2014年9月11日 。
- 『Honda Racing Topics テクニカル編-F1パワーユニット開発秘話(1)MGU-Hとは』本田技研工業株式会社、2020年3月31日 。
- 『Honda Racing Topics テクニカル編-F1パワーユニット開発秘話(2)耐久性アップ』本田技研工業株式会社、2020年3月31日 。
- 『Honda Racing Topics テクニカル編-F1パワーユニット開発秘話(3)性能アップ』本田技研工業株式会社、2020年3月31日 。
- 『Honda原点コミックVol.5 「来た、見た、勝った」』本田技研工業株式会社、2020年4月29日 。
- Honda Racing F1 - YouTubeチャンネル
- HONDA ENGINES THROUGH THE YEARS | Turn It Up! | Powered By Honda. Honda Racing F1. 26 June 2020.
- The F1 Prototype, Honda's RA270 | 1964 Footage | Powered By Honda. Honda Racing F1. 6 April 2021.
- Formula 1 - YouTubeチャンネル
- Honda's Greatest Moments in Formula 1 (英語). Formula 1. 3 October 2020.
- Evolution Of F1 Engines | F1 TV Tech Talk | Crypto.com (英語). Formula 1. 17 August 2022.
外部リンク
[編集]- ホンダF1公式サイト - ホンダ・レーシング
- ホンダF1の年表 (HondaRacingF1) - Facebook
- 本田技研工業