「皇位継承問題」の版間の差分
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平成24年(2012年)、[[野田内閣]]([[野田佳彦]]首相)は[[女性宮家]]の制度についての検討を行った。これは、皇族の減少により皇室の活動(公務など)に支障が発生するのを回避するため、一般人と結婚した女性皇族が皇籍を離脱せず、皇族の立場で引き続き公務を行えるようにするものである。この議論は、野田内閣が年内に内閣総辞職したため、本格的な議論にはならなかった。 |
平成24年(2012年)、[[野田内閣]]([[野田佳彦]]首相)は[[女性宮家]]の制度についての検討を行った。これは、皇族の減少により皇室の活動(公務など)に支障が発生するのを回避するため、一般人と結婚した女性皇族が皇籍を離脱せず、皇族の立場で引き続き公務を行えるようにするものである。この議論は、野田内閣が年内に内閣総辞職したため、本格的な議論にはならなかった。 |
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平成31年(2019年)3月20日、[[参議院]][[財政金融委員会]]質疑において[[大塚耕平]]([[国民民主党 (日本 2018 |
平成31年(2019年)3月20日、[[参議院]][[財政金融委員会]]質疑において[[大塚耕平]]([[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]])が皇位継承問題について政府の方針を質したところ、[[安倍晋三]]首相は「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討する」という旨の答弁をした。また、[[東久邇宮|東久邇]]家の男系男子の有無の確認を質問された[[野村善史]]宮内庁長官官房審議官は「子孫につきましては、具体的に承知していない」と答弁した。 |
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令和元年(2019年)5月1日、前日[[4月30日]]の[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]施行により[[明仁]](第125代天皇)は[[譲位]]して[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となり、[[徳仁|皇太子徳仁親王]]が皇位を継承して(第126代天皇:今上天皇)となり、その弟の[[秋篠宮文仁親王]]が[[皇位継承順位]]第1位([[皇嗣]])となった。翌令和2年(2020年)、文仁親王は[[立皇嗣の礼]]により正式に皇嗣(皇太子に準ずる)となる予定。 |
令和元年(2019年)5月1日、前日[[4月30日]]の[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]施行により[[明仁]](第125代天皇)は[[譲位]]して[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となり、[[徳仁|皇太子徳仁親王]]が皇位を継承して(第126代天皇:今上天皇)となり、その弟の[[秋篠宮文仁親王]]が[[皇位継承順位]]第1位([[皇嗣]])となった。翌令和2年(2020年)、文仁親王は[[立皇嗣の礼]]により正式に皇嗣(皇太子に準ずる)となる予定。 |
2020年12月25日 (金) 08:44時点における版
皇位継承問題(こういけいしょうもんだい)は、日本の天皇の位(皇位)を継承しうる人数(特に、若年世代の人数)が、2000年代以後に極端に少数になったことに起因する問題。
皇室典範問題(こうしつてんぱんもんだい)、女系天皇問題(じょけいてんのうもんだい)とも言われる。
平成16年(2004年)、小泉純一郎内閣総理大臣の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が設置されたことにより関心が高まった。
以降、平成18年(2006年)の悠仁親王の誕生を挟みつつ、皇位継承資格者の少なさを解消する方法について、議論が続いている。令和2年(2020年)に執り行われた立皇嗣の礼の後、政府は安定的な皇位継承策を巡り、有識者会議を設置する方向で検討に入った[1]。だが加藤勝信官房長官は令和2年(2020年)12月14日の記者会見で、安定的な皇位継承策の議論の在り方に関し「静かな環境で検討が行われるよう配慮する必要がある」と強調し、急がない構えを強調した[2]。
皇位継承順位(現在の皇位継承資格者一覧)
順位 | 画像 | 皇位継承資格者 | 読み | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今の天皇から見た続柄 | 摂政就任順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1位 | 秋篠宮文仁親王 | あきしののみや | ふみひと | 男性 | 1965年11月30日 (昭和40年) |
58歳 | 上皇明仁第2皇男子 | 弟 /第1位 | |
第2位 | 悠仁親王 | ひさひと | 男性 | 2006年 9月 6日 (平成18年) |
18歳 | 秋篠宮文仁親王第1男子 | 甥 /第2位 | ||
第3位 | 常陸宮正仁親王 | ひたちのみや | まさひと | 男性 | 1935年11月28日 (昭和10年) |
88歳 | 昭和天皇第2皇男子 | 叔父 /第3位 |
背景
日本の皇室において、「天皇としての皇位継承は、初代神武天皇から繋がる男系(父系)の者がこれを継承する」という原則によってなされてきた。
「男系(だんけい)」または「父系(ふけい)」とは、該当人物から父方の先祖を辿ってゆくと歴代天皇、究極には初代天皇の神武天皇に辿り着くことを意味する(該当人物本人の性別はここでは関係しない)。
この原則は、明治時代以降に皇室に関する法が皇室典範(旧法、現法)として成文化された際にも引継がなされた。
と定められている。
つまりは、現行の制度上において皇位継承が断絶することなく継続していくには、「男性皇族(親王および王)が配偶者女性との間に、男児を出産すること」が前提条件である。
言い換えると、男児が一人も誕生しない状況が数十年続き、出産に適した年齢(もしくはそれ以下の年齢)の男性皇族とその配偶者女性が不在になれば、将来的には皇位継承者は不在になり、皇室が自然消滅(皇統断絶)することになる。
2020年(令和2年)4月1日時点におけるこの問題は、「1947年(昭和22年)10月14日の11宮家51名の皇籍離脱」に端を発している。
その後、昭和後期から平成時代にかけて、皇室において連続して女児が誕生したことにより、若年の男性皇族が極端に少なくなり、皇統が断絶する危険性が発生した。
2004年(平成16年)末に公の議論が始まった段階で、男性皇族の最年少は当時39歳の秋篠宮文仁親王であり、以降誕生した皇族は、清子内親王(当時35歳、臣籍降嫁後:黒田清子)から愛子内親王(当時3歳)まで、9名連続女性(内親王4名と女王5名)であった。
- 2004年(平成16年)12月31日時点での皇室系図(男系/父系)
※名前右の()内に当時の年齢、名前下に当時の皇位継承順位併記。
第123代天皇 大正天皇(故) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第124代天皇 昭和天皇(故) | 秩父宮 雍仁親王(故) | 高松宮 宣仁親王(故) | 三笠宮 崇仁親王(89) (第4位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男児なし | 男児なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第125代天皇 今上天皇(71) | 常陸宮 正仁親王(69) (第3位) | (三笠宮) 寛仁親王(58) (第5位) | 桂宮 宜仁親王(56) (第6位) | 高円宮 憲仁親王(故) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男児なし | 男児なし | 男児なし | 男児なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇太子 徳仁親王(44) (第1位) | 秋篠宮 文仁親王(39) (第2位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男児なし | 男児なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
問題の解決策
この問題の解消策として、主に二つの対策が考えられうる。
- 昭和22年(1947年)に皇籍離脱した旧11宮家に属した男性およびその男系(父系)子孫、いわゆる「旧皇族」とその男系/父系子孫)を皇籍復帰(ないし皇籍取得)させ、男系(父系)継承を維持する。(日本会議国会議員懇談会がこの方法を取るべきと主張する)
- 歴史上まったく例のない男系(父系)以外の皇位継承、いわゆる女系天皇(または母系天皇)を認める。
以下、この両案の概要について記述する。なお、両案の長所と短所の比較、論点等については後述。
旧宮家・皇族の皇籍復帰論
歴史的には、天皇と遠縁の男性皇族が皇籍を離脱して臣下(民間人)となった例は多い。彼らの中には、神武天皇の男系/父系の血筋を残している(皇統に属する)者が少数になったことから、「(彼らが)皇籍復帰することにより、皇位継承者の将来的な不足を回避するべきだ」という案がある。
元は皇族でありながらこれを離脱した者(およびその家族や子孫)は「旧皇族」と呼ばれるが、皇位継承問題の議論にあたっては特に、昭和22年(1947年)に離脱した者たちを指すことが多い。この時に離脱した11宮家(離脱時点では男性26名、女性25名、計51名)のうち、一部の家では時代が下っても男系/父系の血筋を継ぐ若年の男性が健在である。令和2年(2020年)4月1日現在、うち5宮家は男系/父系が断絶し廃家となっており、残りの6宮家が男系/父系子孫を有するようになっている。
特にこれらの11宮家が重要視される理由は、以下の2点である。
- 最近に、皇籍離脱した男系男子であるため。
- 皇籍離脱したのが第二次世界大戦の敗戦(日本の降伏)後の混乱期であり、連合国軍占領下の日本でのGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の指令によって皇室財産が国庫に帰属され、経済的に従来の規模の皇室を維持することが不可能となったために、やむ無く皇籍を離脱したという経緯であったため。
宮家 | 読み | 創始年 | 初代当主 | 初代の続柄 | 初代の 世数[注釈 1] |
離脱時 の当主 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
(伏見宮) | ふしみ | 1456年[注釈 2] | 栄仁親王 | 崇光天皇第1皇子 | 1世 | 博明王 | 世襲親王家 男系断絶見込 |
(閑院宮) | かんいん | 1718年 | 直仁親王 | 東山天皇第6皇子 | 1世 | 春仁王 | 世襲親王家 男系断絶 |
(山階宮) | やましな | 1864年 | 晃親王 | 伏見宮邦家親王第1王子 | 15世 | 武彦王 | 男系断絶 |
(北白川宮) | きたしらかわ | 1870年[注釈 3] | 智成親王 | 伏見宮邦家親王第13王子 | 15世 | 道久王 | 男系断絶 |
(梨本宮) | なしもと | 1871年[注釈 4] | 守脩親王 | 伏見宮貞敬親王第9王子 | 14世 | 守正王 | 男系断絶 |
久邇宮 | くに | 1875年 | 朝彦親王 | 伏見宮邦家親王第4王子 | 15世 | 朝融王 | |
賀陽宮 | かや | 1892年 | 邦憲王 | 久邇宮朝彦親王第2王子 | 16世 | 恒憲王 | |
(東伏見宮) | ひがしふしみ | 1903年 | 依仁親王 | 伏見宮邦家親王第17王子 | 15世 | [注釈 5] | 男系断絶 |
竹田宮 | たけだ | 1906年 | 恒久王 | 北白川宮能久親王第1王子[注釈 6] | 16世 | 恒徳王 | |
朝香宮 | あさか | 1906年 | 鳩彦王 | 久邇宮朝彦親王第8王子 | 16世 | 鳩彦王 | |
東久邇宮 | ひがしくに | 1906年 | 稔彦王 | 久邇宮朝彦親王第9王子 | 16世 | 稔彦王 |
- 旧皇族の系譜(男系/父系)
93代天皇 後伏見天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北朝初代天皇 光厳天皇 | 北朝2代天皇 光明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北朝3代天皇 崇光天皇 | 北朝4代天皇 後光厳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮 栄仁親王 | 北朝5代天皇 後円融天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮 治仁王 | 伏見宮 貞成親王 | 100代天皇 後小松天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
101代天皇 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102代天皇 後花園天皇 | 伏見宮 貞常親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔現皇室〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮 邦家親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山階宮 晃親王 | 久邇宮 朝彦親王 | 北白川宮 能久親王 | 伏見宮 貞愛親王 | 閑院宮 載仁親王 | 東伏見宮 依仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山階宮 菊麿王 | 賀陽宮 邦憲王 | 久邇宮 邦彦王 | 梨本宮 守正王 (73) (第20位) | 朝香宮 鳩彦王 (59) (第21位) | 東久邇宮 稔彦王 (59) (第24位) | 竹田宮 恒久王 | 北白川宮 成久王 | 伏見宮 博恭王 | 閑院宮 春仁王 (45) (第32位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山階宮 武彦王 (49) (第8位) | 賀陽宮 恒憲王 (47) (第9位) | 久邇宮 朝融王 (46) (第16位) | 竹田宮 恒徳王 (38) (第29位) | 北白川宮 永久王 | (伏見宮) 博義王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北白川宮 道久王 (10) (第28位) | 伏見宮 博明王 (15) (第7位) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 青色背景は、皇籍離脱時の当主。名前下の()内に、年齢および皇籍離脱前の皇位継承順位併記。
- ※東伏見宮家は依仁親王がすでに薨去しており、継嗣となる男児はおらず未亡人の同妃周子が当主となり、その死没により(男系としては)断絶・廃家。
- 旧皇族系図
(20/23)伏見宮邦家親王 | (1)山階宮晃親王 | (2)山階宮菊麿王[3] | (3)山階宮武彦王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)梨本宮守脩親王 | (1)久邇宮朝彦親王 | (1)賀陽宮邦憲王 | (2)賀陽宮恒憲王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)久邇宮邦彦王 | (3)久邇宮朝融王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)梨本宮守正王 | 香淳皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇明仁 | 天皇徳仁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(21)伏見宮貞教親王 | (1)朝香宮鳩彦王 | 昭和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)竹田宮恒久王 | (2)竹田宮恒徳王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)北白川宮能久親王 | (3)北白川宮成久王 | (4)北白川宮永久王 | (5)北白川宮道久王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)北白川宮智成親王 | (25)伏見宮博恭王 | 博義王 | (26)伏見宮博明王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)伏見宮貞愛親王 | 邦芳王 | (4)華頂宮博忠王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)閑院宮載仁親王 | (7)閑院宮春仁王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東伏見宮依仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
依仁親王妃周子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
数字は代目。橙色背景は皇籍離脱した時の11宮家当主。※東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去。
- 近代・現代の皇室と旧皇族の家系図
明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 以下、太字の( )内の数字は、昭和22年(1947)10月14日の旧皇族11宮家51名の皇籍離脱前の皇位継承順位。
- 11宮家の26名(第7位から第32位まで)
- 昭和22年(1947)10月14日の旧皇族11宮家51名の皇籍離脱前の皇位継承順位
順位 | 皇位継承資格者 | 読み | 性別 | 生年月日/当時の年齢 | 続柄 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1位 | 継宮明仁親王 (皇太子明仁親王) |
つぐのみや | あきひと | 男性 | 1933年12月23日 (昭和 8年) |
13歳 | 昭和天皇第1皇男子 | |
第2位 | 義宮正仁親王 | よしのみや | まさひと | 男性 | 1935年11月28日 (昭和10年) |
11歳 | 昭和天皇第2皇男子 | |
第3位 | 秩父宮雍仁親王 | ちちぶのみや | やすひと | 男性 | 1902年 (明治35年) |
6月25日45歳 | 大正天皇第2皇男子 | 皇弟 /|
第4位 | 高松宮宣仁親王 | たかまつのみや | のぶひと | 男性 | 1905年 (明治38年) |
1月 3日42歳 | 皇弟 / 大正天皇第3皇男子 | |
第5位 | 三笠宮崇仁親王 | みかさのみや | たかひと | 男性 | 1915年12月 (大正 4年) |
2日31歳 | 皇弟 / 大正天皇第4皇男子 | |
第6位 | 寬仁親王 | ともひと | 男性 | 1946年 (昭和21年) |
1月 5日1歳 | 甥 / 三笠宮崇仁親王第1男子 | 皇||
第7位 | 伏見宮博明王 | ふしみのみや | ひろあき | 男性 | 1932年 (昭和 7年) |
1月26日15歳 | 伏見宮博義王第1男子 | |
第8位 | 山階宮武彦王 | やましなのみや | たけひこ | 男性 | 1898年 (明治31年) |
2月13日49歳 | 山階宮菊麿王第1男子 | |
第9位 | 賀陽宮恒憲王 | かやのみや | つねのり | 男性 | 1900年 (明治33年) |
1月27日47歳 | 賀陽宮邦憲王第1男子 | |
第10位 | 邦寿王 | くになが | 男性 | 1922年 (大正11年) |
4月21日25歳 | 賀陽宮恒憲王第1男子 | ||
第11位 | 治憲王 | はるのり | 男性 | 1926年 (大正15年) |
7月 3日21歳 | 賀陽宮恒憲王第2男子 | ||
第12位 | 章憲王 | あきのり | 男性 | 1929年 (昭和 4年) |
8月17日18歳 | 賀陽宮恒憲王第3男子 | ||
第13位 | 文憲王 | ふみのり | 男性 | 1931年 (昭和 6年) |
7月12日16歳 | 賀陽宮恒憲王第4男子 | ||
第14位 | 宗憲王 | むねのり | 男性 | 1935年11月24日 (昭和10年) |
11歳 | 賀陽宮恒憲王第5男子 | ||
第15位 | 健憲王 | たけのり | 男性 | 1942年 (昭和17年) |
8月 5日5歳 | 賀陽宮恒憲王第6男子 | ||
第16位 | 久邇宮朝融王 | くにのみや | あさあきら | 男性 | 1901年 (明治34年) |
2月 2日46歳 | 久邇宮邦彦王第1男子 | |
第17位 | 邦昭王 | くにあき | 男性 | 1929年 (昭和 4年) |
3月25日18歳 | 久邇宮朝融王第1男子 | ||
第18位 | 朝建王 | あさたけ | 男性 | 1940年 (昭和15年) |
5月11日7歳 | 久邇宮朝融王第2男子 | ||
第19位 | 朝宏王 | あさひろ | 男性 | 1944年10月 (昭和19年) |
7日3歳 | 久邇宮朝融王第3男子 | ||
第20位 | 梨本宮守正王 | なしもとのみや | もりまさ | 男性 | 1874年 (明治 7年) |
3月 9日73歳 | 久邇宮朝彦親王第4男子 | |
第21位 | 朝香宮鳩彦王 | あさかのみや | やすひこ | 男性 | 1887年10月20日 (明治20年) |
59歳 | 久邇宮朝彦親王第8男子 | |
第22位 | 孚彦王 | たかひこ | 男性 | 1912年10月 (大正元年) |
8日35歳 | 朝香宮鳩彦王第1男子 母:鳩彦王妃允子内親王(明治天皇第8皇女) | ||
第23位 | 誠彦王 | ともひこ | 男性 | 1943年 (昭和18年) |
8月18日4歳 | 孚彦王第1男子 | ||
第24位 | 東久邇宮稔彦王 | ひがしくにのみや | なるひこ | 男性 | 1887年12月 (明治20年) |
3日59歳 | 久邇宮朝彦親王第9男子 | |
第25位 | 盛厚王 | もりひろ | 男性 | 1916年 (大正 5年) |
5月 6日31歳 | 東久邇宮稔彦王第1男子 母:稔彦王妃聡子内親王(明治天皇第9皇女) | ||
第26位 | 信彦王 | のぶひこ | 男性 | 1945年 (昭和20年) |
3月10日2歳 | 盛厚王第1男子 母:盛厚王妃成子内親王(昭和天皇第1皇女) | ||
第27位 | 俊彦王 | としひこ | 男性 | 1929年 (昭和 4年) |
3月24日18歳 | 東久邇宮稔彦王第4男子 母:稔彦王妃聡子内親王(明治天皇第9皇女) | ||
第28位 | 北白川宮道久王 | きたしらかわのみや | みちひさ | 男性 | 1937年 (昭和12年) |
5月 2日10歳 | 北白川宮永久王第1男子 | |
第29位 | 竹田宮恒徳王 | たけだのみや | つねよし | 男性 | 1909年 (明治42年) |
3月 4日38歳 | 竹田宮恒久王第1男子 母:恒久王妃昌子内親王(明治天皇第6皇女) | |
第30位 | 恒正王 | つねただ | 男性 | 1940年10月11日 (昭和15年) |
7歳 | 竹田宮恒徳王第1男子 | ||
第31位 | 恒治王 | つねはる | 男性 | 1944年 (昭和19年) |
8月 3日3歳 | 竹田宮恒徳王第2男子 | ||
第32位 | 閑院宮春仁王 | かんいんのみや | はるひと | 男性 | 1902年 (明治35年) |
8月 3日45歳 | 閑院宮載仁親王第2男子 |
女系天皇論(母系天皇論)
女系天皇(じょけいてんのう)または母系天皇(ぼけいてんのう)とは、男系(父系)でない人物(当人の男女は問わず)が天皇となることを指す。すなわち、該当人物の父方の系統を辿っても、初代の神武天皇に辿り着かない。
女系天皇であるか否かは当人の性別とは無関係で、神武天皇に男系(父系)で辿り着けない場合は、本人が男性であっても「女系天皇(母系天皇)」である。そのため、「女系天皇(母系天皇)」と「女性天皇」とは、全く相違な概念である。
令和2年(2020年)4月1日現在の皇室において仮説上の具体例を挙げれば、今上天皇第一皇女子である愛子内親王が仮に天皇となった場合、父親は今上天皇であるため「男系(父系)の女性天皇」であって、「女系天皇(母系天皇)」ではない。愛子内親王と結婚した配偶者の民間人男性との間に誕生した男児が天皇となれば「女性天皇」ではないが、母親は愛子内親王であっても、父親である民間人男性の祖先系統はいくら遡っても初代神武天皇には辿り着かないため、愛子内親王を初代とする「女系天皇(母系天皇)」になるということである。なお、いずれにせよ両者も実現しようとする場合、現行皇室典範の改正は要する。
初代の神武天皇から第126代の今上天皇に至るまで、皇位継承は全て一貫して男系(父系)で継承されており、歴代天皇は(8人10代の女性天皇も含めて)あくまで全て男系天皇(父系天皇)である。
また、天皇に限らず皇族(男性:親王および王、女性:内親王および女王)の立場も男系(父系)の大原則で貫かれており、女性皇族(内親王および女王)が臣下の(天皇でも皇族でもない)男性(=皇室への婿入り)との間に出産した子供が皇族とされた例(いわゆる「女系皇族」、「母系皇族」)もまた存在しない。
議論の推移
政府の議論(平成)
- 女系天皇へ向けた有識者会議の議論
平成16年(2004年)12月27日、政府は皇位継承問題について、皇室典範の改正(女性天皇及び女系天皇を認めること)までを視野に入れて検討するための有識者による懇談会の設置を決める。翌平成17年(2005年)1月26日、小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(以下、「有識者会議」)を設置し議論を開始(吉川弘之座長)。会合では、皇位継承原理の案として以下の4案が提示された。
- 第一子優先 - 男女にかかわらず、直系の長子が皇位を継ぐ。
- 兄弟姉妹間で男子優先 - 姉と弟では、弟が優先して皇位を継ぐ。
- 男系(父系)男子優先 - 従来の「皇統に属する男系(父系)の男子」が優先される。
- 男子優先 - 男系女系(父系母系)に関わらず、男子が優先される。
7月、有識者会議は中間報告を発表し、皇位継承範囲の拡大を提唱するとともに「女性天皇及び女系天皇の容認」案及び男系継承の伝統を守る立場から「旧皇族の皇籍復帰による男系男子継承の維持」の2案を具体案として提示した。有識者議会はあくまで「私的諮問機関」であり法的拘束力は有さなかったが、小泉首相が「その最終報告を尊重する」と表明していたため動向が注目された。
10月、有識者会議は女性天皇および女系天皇(母系天皇)容認の最終指針を打ち出すための調整に入った事が明らかになった。10月25日、有識者会議は全会一致で皇位継承資格を皇族女子と「女系皇族」へ拡大することを決めた。吉川座長は同日の記者会見において「現行の皇室典範で安定的な皇位継承ができるかどうかを議論したが、将来、後継者不足が生じることは明らかだ。憲法で定められた皇位の世襲を守るのが、女子、女系への拡大だ」とその理由を説明した[注釈 7]。小泉首相は同日夜の記者会見で、皇室典範改正の方向ですでに準備に着手していると述べた。
11月24日、有識者会議は、象徴天皇制の安定的な維持のため、皇位継承資格を女性や天皇・皇族の女系子孫に拡大することなどを求める最終報告書をまとめ、首相に提出した。同会議では旧宮家の男系男子を皇族の養子とする案について「どの方の養子となるかにより継承順位がかわることになるので、当事者の意思により継承順位が左右されることになる」「どうしても当事者の意思が介在してしまい、一義性に欠けることになる」など皇位継承の安定性の観点から否定的な意見が強く、また、男系の血統の保持についても「男系男子だけによる継承が行き詰るということは、はっきりしている」などの消極的意見が大勢を占めた。この報告書の背景には「女性天皇・女系天皇を容認して、皇位継承者の範囲を拡大すべき」とする考えがある。
この年の11月30日、男性皇族で最年少の文仁親王が40歳になり、30代以下の男性皇族が不在になった。
平成18年(2006年)の通常国会において、有識者会議での議論を基に、女系天皇への道を開くことになる皇室典範の改正が議論される予定であった。しかし、同年2月、文仁親王妃紀子の第3子懐妊が発表され、皇位継承問題についての議論は先送りされる。
同年9月6日、秋篠宮妃紀子が第1男子(1男2女のうち第3子)の悠仁親王を出産。これにより、皇位継承問題についての大前提が変わることとなった。同時期、小泉純一郎首相は自由民主党総裁の任期満了とともに退任し、後任の安倍晋三首相は「静かに慎重に論議していくことが大切だ」と述べ、有識者会議の報告書を基にした女系天皇の議論は白紙撤回された。
- その後の主な出来事
平成24年(2012年)、野田内閣(野田佳彦首相)は女性宮家の制度についての検討を行った。これは、皇族の減少により皇室の活動(公務など)に支障が発生するのを回避するため、一般人と結婚した女性皇族が皇籍を離脱せず、皇族の立場で引き続き公務を行えるようにするものである。この議論は、野田内閣が年内に内閣総辞職したため、本格的な議論にはならなかった。
平成31年(2019年)3月20日、参議院財政金融委員会質疑において大塚耕平(国民民主党)が皇位継承問題について政府の方針を質したところ、安倍晋三首相は「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討する」という旨の答弁をした。また、東久邇家の男系男子の有無の確認を質問された野村善史宮内庁長官官房審議官は「子孫につきましては、具体的に承知していない」と答弁した。
令和元年(2019年)5月1日、前日4月30日の天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行により明仁(第125代天皇)は譲位して上皇となり、皇太子徳仁親王が皇位を継承して(第126代天皇:今上天皇)となり、その弟の秋篠宮文仁親王が皇位継承順位第1位(皇嗣)となった。翌令和2年(2020年)、文仁親王は立皇嗣の礼により正式に皇嗣(皇太子に準ずる)となる予定。
宮内庁の議論
首相の有識者会議と同時期、宮内庁においても皇位継承問題について議論が行われていた。
宮内庁案では、「男系男子をもって継承することを原則とするが、やむを得ない場合のみ女性天皇・女系天皇を容認する」という内容であった。
言論界の議論
有識者会議の結論に対して、言論界の一部からは強い反発があり、特に女系天皇も容認しようとする同会議の姿勢に対しては、「なし崩し的である」との強い疑問の声も上がった。
有識者会議には、単なる男女平等論調の観点から意見を述べた委員が複数存在したことも判明し、また「結論を急ぎすぎている」と同指針に対する批判も相次いだ。
平成17年(2005年)10月6日、「皇室典範問題研究会」(代表:小堀桂一郎)が結成され、「男系継承の皇室の伝統を維持するために、旧皇族の復帰を検討するべき」「現在の皇族の方や、旧皇族の方からも意向を伺うことが大事」等の声明を発表した。同年10月21日には女系天皇の容認に反対する「皇室典範を考える会」(代表:渡部昇一)が結成された。これらの識者は、「旧皇族の皇籍復帰によって男系の皇統を維持すべきだ」と主張している。
世論調査
この数年間、皇位継承問題についての世論調査は全国紙や通信社、テレビ局等のマスメディアによるものに限定しても計10回以上実施されている。
その結果によると、ほぼ常に3分の2以上の国民が女性天皇や女系天皇(母系天皇)に賛成し、女性天皇への賛成は75%以上にもなる。「女性・女系天皇を容認する場合に、男子と長子といずれを優先すべきか」については、前述のように意見が分かれている。
1月 | 2月 | ||
---|---|---|---|
天皇制は、伝統として父方の天皇の血筋を継ぐ「男系」が維持されてきました。政府の有識者会議では、女性が天皇になるのみでなく、女性天皇の子どもが天皇になる「女系天皇」を認めています。あなたは、「女性天皇」と「女系天皇」の違いについてご存知ですか、ご存知ではありませんか?(1、2月に共通) | |||
知っている | 36.7% | 41.7% | |
知らない | 53.2% | 52.1% | |
わからない、答えない | 10.2% | 6.2% |
有識者会議の報告書提出を受けて、『毎日新聞』が2005年(平成17年)12月10日、11日の両日に行なった全国世論調査(電話)でも、皇位継承原理について「女系も認めるべきだ」が「男系を維持すべきだ」を大きく上回っている。
しかし「女性皇族は結婚後も皇族にとどまるべきだと思いますか、自分の意思で皇族から離れられるようにすべきだと思いますか」との質問については「自分の意思で離れられるようにすべきだ」が、「皇族にとどまるべきだ」を大きく上回り、賛否の割合がほぼ逆転している。
全体 | 男性 | 女性 | |
---|---|---|---|
これまで天皇は、父方が天皇の血筋を継ぐ「男系」で維持されてきました。皇室典範に関する有識者会議の報告書は、母方天皇の血筋を継ぐ「女系天皇」も認めており、歴史的な転換となります。「男系を維持すべきだ」と思いますか、「女系を認めるべきだ」と思いますか。 | |||
男系を維持すべきだ | 22% | 26% | 19% |
女系も認めるべきだ | 71% | 68% | 74% |
「女性皇族は結婚後も皇族にとどまるべきだ」と思いますか、「自分の意思で皇族から離れられるようにすべきだ」と思いますか。 | |||
皇族にとどまるべきだ | 15% | 16% | 14% |
自分の意思で離れられるようにすべきだ | 80% | 78% | 81% |
天皇や皇族は一般的に政治的発言をしませんが、女性天皇を認めるには、皇室典範の改正が必要です。「改正にあたって、天皇や皇族の意見を聞くべきだ」と思いますか? | |
聞くべきだと思う | 76% |
聞くべきだとは思わない | 19% |
答えない・わからない | 5% |
天皇や皇族は一般的に政治的発言をしませんが、この問題について皇族が、意見を表明することにあなたは賛成ですか、反対ですか? | |
賛成 | 48% |
反対 | 45% |
答えない・わからない | 7% |
2010年、第125代天皇明仁の即位20年に当たってNHKが実施した皇室に関する意識調査(2009年10月30日 - 11月1日電話調査)では、2043人の回答者のうち、女性天皇に賛成77%、反対14%で、2006年2月の調査に比べて賛成がやや増加した[10]。
年齢別では若年層ほど賛成の比率が多かった。また「女系天皇の意味を知っているか」という質問に対しては「よく知っている」8%、「ある程度知っている」43%、「あまり知らない」33%、「全く知らない」12%で、このうち「よく/ある程度知っている」人を対象に女系天皇を認めることの賛否を質問したところ賛成81%、反対14%であった。
2019年4月の時事通信の世論調査では、「男系男子に限られている現在の皇位継承資格を、女系・女性皇族にも広げるべきか」を尋ねたところ、「広げるべきだ」が69.8%だった。「広げるべきではない」は11.2%、「どちらとも言えない・分からない」は19.0%だった。 また、同年5月1,2日に共同通信社が実施した全国緊急電話世論調査によると、女性天皇を認めることに賛成は79.6%で、反対の13.3%を上回った。
論点
以下、皇位継承を巡る議論について、主な選択肢である「旧皇族復帰論」(=男系継承維持派)と「女系天皇論」(=男系継承断絶容認派)との長所・短所の記載や相互の比較(もう一方の案への批判やそれに対する反論など)を記載する。
皇位継承の歴史的な正統性について
- 【復帰派】初代神武天皇から第126代今上天皇に至るまで歴代の皇位継承は、全て男系継承(父系継承)である。したがって、男系継承のみが正統な継承である。
- 【女系派】過去の実績については十二分に承知しているが、それは将来の皇位継承の正統性の規定ではない。男系継承は断絶しやすい点で不安定であるし、男性優位の考え方に基づいている点で不公平でもある。今こそ皇位継承の新たな正統性を設定するいい機会だ。皇位継承のルールは、皇室維持のために柔軟に変わってきた。例えば、古代は男系以外にも男性かつ長男という約束事があったが、その後女性天皇や次男の即位などが行われるようになった。今後も、安定的な皇位継承のための体制を整えることが大事である。皇室典範制定時に比べ、皇位継承者の範囲を「男系に限定せず、女系にも拡大してよい」と考える国民が増加している。男系と女系とをことさらに区別するのは現代の社会になじまない。天皇の地位は「国民の総意に基づく」と憲法1条で定められており、皇位継承の在り方も国民世論の変化に従い変化してゆくべきだ
- 【復帰派】憲法に定める「国民の総意」とは、国民が長らく共有し続けてきた歴史的な価値観を意味しており、一時の多数決に限定されるものではない。
- 【女系派】国民の総意はその時々の多数決によって決められることである。過去のある時点での為政者の判断に束縛されるものではなく、国民投票で総意を確認すべきことである。
- 【復帰派】皇室にあっては、「新儀」は不吉で、可能な限りは避けるべきである。女性天皇や兄弟間の皇位継承は時代とともに複数回繰り返されるようになったが、女系天皇は今まで一度も誕生していない。
- 【女系派】「新儀」は不吉、というのは憲法とは無関係である。
- 【復帰派】憲法に定める「国民の総意」とは、国民が長らく共有し続けてきた歴史的な価値観を意味しており、一時の多数決に限定されるものではない。
- 【女系派】皇位継承問題において優先すべきなのは(男系の)血統ではなく子孫の繋がりの連続性である。男系に固執することによって生身の人間である天皇を血の入れ物のように扱うべきではない。また、一般における家督相続、あるいは明治以降の近代における皇位継承から見ても、男系優先より直系優先の方が一般国民になじみやすい。
- 【復帰派】天皇が個人の資格で所有している私的財産は男女問わず直系の子孫が最優先で相続するが、皇位は、家族が相続する私的財産ではなく、天皇の公務という公的な役割を継承してゆくものである。
- 【女系派】公務(より端的には象徴の地位)の継承が、男系継承でなければならない絶対的理由はない。
- 【復帰派】天皇が個人の資格で所有している私的財産は男女問わず直系の子孫が最優先で相続するが、皇位は、家族が相続する私的財産ではなく、天皇の公務という公的な役割を継承してゆくものである。
- 【女系派】過去の実績については十二分に承知しているが、それは将来の皇位継承の正統性の規定ではない。男系継承は断絶しやすい点で不安定であるし、男性優位の考え方に基づいている点で不公平でもある。今こそ皇位継承の新たな正統性を設定するいい機会だ。皇位継承のルールは、皇室維持のために柔軟に変わってきた。例えば、古代は男系以外にも男性かつ長男という約束事があったが、その後女性天皇や次男の即位などが行われるようになった。今後も、安定的な皇位継承のための体制を整えることが大事である。皇室典範制定時に比べ、皇位継承者の範囲を「男系に限定せず、女系にも拡大してよい」と考える国民が増加している。男系と女系とをことさらに区別するのは現代の社会になじまない。天皇の地位は「国民の総意に基づく」と憲法1条で定められており、皇位継承の在り方も国民世論の変化に従い変化してゆくべきだ
皇位継承の安定性について
- 【女系派】男系継承では、皇位継承者が安定的に確保できないのではないか。2000年近く男系継承を維持してきたのはあくまで側室制度という一夫多妻制がいわば「安全装置」としてあったためであり、現在の一夫一婦制による単一の夫婦だけで世継ぎの男子を恒久的に多数確保し続けることは、事実上不可能である。1人の女子が生涯に出産できる子供の数は限られており、また妻や夫の身体的問題で不妊症の可能性などにより、そもそも出産すら不可能なこともある。直近の事例でも明治天皇の場合は、正妻である昭憲皇太后との間に子女なく、5人の側室(典侍・権典侍)との間に15人(5男10女)の子女が誕生したが、うち2人(1男1女)は死産、8人(3男5女)は夭折し、成人したのは全体の3分の1にあたる5人(1男4女)であり、男子で成人したのは大正天皇ただ一人のみであった。また、昭和22年(1947年)に皇籍離脱した伏見宮邦家親王系旧皇族の家系においても11宮家のうち4宮家は、一夫一妻制の下で男系(父系)が断絶している。
- 【復帰派】多くの天皇、男子皇族は、正妻である后妃との間に男児を出産している。一夫多妻制であったのは乳幼児死亡率が高かったことに起因しており、現代にあって医療技術が進歩していることを考えれば、男児が誕生する確率は相対的に高まっているといえる。
- 【復帰派】日本の平均出生率は約1.3であるが、独身者を除いて計算すると2以上であり、所得額と出生率が相関関係にあることを考えれば、金銭面では一般家庭より恵まれている皇室にあってはさらに高いことになる。仮に子供が3人誕生するとすると、87.5%の割合で男児が誕生することになる。仮に男児に恵まれなくても、宮家が複数あると複数の男児が誕生する宮家もあるため、一定数の宮家があれば皇位継承者は安定的に確保され続ける。
- 【復帰派】一夫一妻制でも、男系継承は可能である。例えば、旧皇室典範制定後に結婚した天皇、男子皇族は全員一夫一妻制であるが、男子皇族の人数は1889年末が23人、1907年末が32人、2人の臣籍降下を経て1920年末が36人、その後11人の臣籍降下を経て、1947年10月の旧宮家の皇籍離脱直前には32人とむしろ増加していた。また、旧宮家26人の皇籍離脱直後の6人から9人へ増加している時期もあった。(現状は前述のとおり3人)
- 【女系派】一夫一妻で男系を維持するのは、現実では悠仁親王とその妃となる女性に「お世継ぎたる男児の出産を」といった、とてつもない重圧をかけることになる。そのような立場を受け入れ皇室に嫁ぐお妃候補が、民間人女性から現れるとは思えない。
- 【復帰派】若年の男性皇族が一人しかいないから重圧なのであって、なおの事いっそう、若年の男性皇族を多く復帰させる必要がある。それを言えば逆に、直系主義だと長子一人、現実には今上天皇第一皇女子愛子内親王にもプレッシャーがかかることになりかねない。また、先例のない「女帝の入り婿」は、男性皇族のお妃探しとは比較にならない程度の困難さが伴うと思われる。
- そもそも皇位継承の安定性を図る必要があるのか?継承者が常に存在するように対策する必要があるのか?むしろ、皇位継承者不在時に、天皇が「新たな皇位継承者」を指名し、国民投票で承認する手続きを定めるべきではないのか?
- 【復帰派】若年の男性皇族が一人しかいないから重圧なのであって、なおの事いっそう、若年の男性皇族を多く復帰させる必要がある。それを言えば逆に、直系主義だと長子一人、現実には今上天皇第一皇女子愛子内親王にもプレッシャーがかかることになりかねない。また、先例のない「女帝の入り婿」は、男性皇族のお妃探しとは比較にならない程度の困難さが伴うと思われる。
- 【女系派】一夫一妻で男系を維持するのは、現実では悠仁親王とその妃となる女性に「お世継ぎたる男児の出産を」といった、とてつもない重圧をかけることになる。そのような立場を受け入れ皇室に嫁ぐお妃候補が、民間人女性から現れるとは思えない。
- 【復帰派】子供を必ず出産する方法は現代医学をもってしても解決しないのだから、男系継承と女系継承との優劣を、これを基準に言及することに意味はない。
他国の王位継承制度について
- 【女系派】ヨーロッパの国では女系継承に舵を切っており、現存するヨーロッパの君主国で君主の位の男系男子以外による継承を全面的に禁じているのは、リヒテンシュタインただ一国である。
- 【復帰派】ヨーロッパの国のみを参考にするのはヨーロッパ中心主義的であり不適切である。中東や東南アジアなどヨーロッパ以外の国を含めれば王位の女系継承が一般的であるとはいえない。
- 【女系派】そもそもヨーロッパの王侯貴族は男系継承に固執してきたのであって、昨今の女系継承の容認は伝統からの開放という点では先例として真っ先に参考にすべきである。
- 【復帰派】後述の通り女系継承容認へ転換した家系はいずれも歴史が浅く、日本の皇室とは一概に比較できない。
- 【女系派】いかほど古い家系であっても、もはや君主位をもたぬのであれば、一般人と同じであり、そこの「家長」をどう継承しようが、その家だけのことであって、国とは無関係である。
- 【復帰派】後述の通り女系継承容認へ転換した家系はいずれも歴史が浅く、日本の皇室とは一概に比較できない。
- 【女系派】そもそもヨーロッパの王侯貴族は男系継承に固執してきたのであって、昨今の女系継承の容認は伝統からの開放という点では先例として真っ先に参考にすべきである。
- 【復帰派】ヨーロッパでは王位の女系継承はあるが、一方で家名は男系で継承されることが多く、つまり、「女系継承によって、王朝が女王(女性君主)の夫(配偶者男性)の家系に変わった」とみなされる。そのため、男性君主の配偶者女性は臣下の貴族階級から選ばれることもあるが、女王の夫は他国の王家から迎えており、これにより名家の間で王位を保持し続けている。一方日本では、他国の王家から入り婿を迎えるのは不可能に近く、ヨーロッパのあり方をそのまま導入すると、「女帝の入り婿」となりうる人物(民間人男性)が不在になってしまう。
- 【女系派】昨今のヨーロッパの事例では、家名は女系で継承する場合もある。
- 【復帰派】ヨーロッパの国のみを参考にするのはヨーロッパ中心主義的であり不適切である。中東や東南アジアなどヨーロッパ以外の国を含めれば王位の女系継承が一般的であるとはいえない。
皇室の家系としての皇統の考え方について
- 【復帰派】皇室の家系である皇統は男系(父系)に限定されている。男系でない者の即位(女系天皇、母系天皇)の誕生は、2600年以上続いている皇統の断絶を意味する。仮に皇位継承を男系に限定しなかった場合、女帝が臣下の男性との間に子をもうけ、その子の子孫へ皇位が継承されると、臣下の男性の家系が新しい「天皇の血筋」になり、事実上の「皇室乗っ取り」になってしまう。
- 【女系派】それは男性優位の考え方に基づいた認識だ。男性天皇が臣下の女性と婚姻するのも、同じ「乗っ取り」ではないか。
- 【女系派】皇位を継承しうる人物は本当に男系に限定されているのか。現在の皇室典範には、皇位を継承するのは「皇統に属する男系の男子」と記されている。仮に「皇統」が「男系」であるのなら、皇室典範の記述は二重表現であって、法律としてあり得ない。すなわち、「皇統」とは男系に限定されないのであって、皇室典範として成文化するときにこれを「男系(父系)」と限定したに過ぎないのであって、本来は男系以外も皇位を継承しうる。
- 【復帰派】旧皇室典範を枢密院において審議した時、起草者の井上毅は同じ質問に対して「"皇統"とは、ここではいいかえれば"正統"であり、"皇統に属する"とは"歴代天皇の正統を受け継いだ"という意味である」と述べた。その後、「皇統は男系のことだから、文面が重複している」と指摘があって一旦修正案で"皇統の男子"と書き換えられたが、伊藤博文が「将来において女系が採用されてしまい、祖先の常道が否定されるのを回避するため」、という理由で、"皇統"、"男系"を共に併記させる形で復活させた。つまり、制定当時の議論においても、皇統が男系に限定されることは自明のこととされていた。
- 【女系派】伊藤博文の懸念は「皇統」は男系に限定されないという考えに基づくのだから、制定当時も皇統の考え方は一通りでなかったと考えられる。なお、皇統が男系に限るというのであれば、当然「皇統は男系に限る」と定義するべきである。皇統というだけでは、男系に限るとはいえない。歴史的にも道鏡の件もあるのだから自明でないことは明らかである。
- 【復帰派】旧皇室典範を枢密院において審議した時、起草者の井上毅は同じ質問に対して「"皇統"とは、ここではいいかえれば"正統"であり、"皇統に属する"とは"歴代天皇の正統を受け継いだ"という意味である」と述べた。その後、「皇統は男系のことだから、文面が重複している」と指摘があって一旦修正案で"皇統の男子"と書き換えられたが、伊藤博文が「将来において女系が採用されてしまい、祖先の常道が否定されるのを回避するため」、という理由で、"皇統"、"男系"を共に併記させる形で復活させた。つまり、制定当時の議論においても、皇統が男系に限定されることは自明のこととされていた。
- 【女系派】そもそも、皇祖神である天照大神が女性神であり、天壌無窮の神勅にもアマテラスの子孫であることが天皇になる条件とされており、そこに男女の別は記述されていない。よって、皇室の歴史は女系から始まっていると言っても過言ではない。逆に言えば男系で辿っても皇祖神の天照大神に繋がらないことを意味しており、もともと男系に固執する意味は無い。むしろ、女系を認めるほうが本来の神話回帰と言える。男系(の男子)に限定することを明文化することは明治皇嗣典範を俟たなければならない[11]。
- 【復帰派】記紀神話では、天照大神のあたりまでは、男性神のイザナギと女性神のイザナミをはじめ、兄妹の神々が交わって次の神を産み出していることから、父方の系統と母方の系統が別々に存在するわけではない。それゆえに、アマテラスの世代までさかのぼると、男系・女系の区別をつけることがそもそも不可能である。古事記の記述においても、人間と同じ「産まれる」という概念が出るのは、アマテラスの孫にあたるニニギノミコト以降である。そもそも当然ながら、歴代の皇室はアマテラスが女性神であることを理解した上で、その男系の子孫で皇位を継承し続けたのであって、「アマテラスは女性神だから、女系でもいい」という論理にはならなかった。また、皇統は男系(の男子)によって紡がれることが「古からの定め」と記された文献は江戸時代の『慶長公家諸法度』(禁中並公家諸法度への注釈書)に確認される[12]。
- 【女系派】女系の皇位継承の先例はある。斉明天皇から天智天皇への皇位継承は、母から息子への皇位継承であり、女系継承である。また、元明天皇から元正天皇は、母から娘へ皇位が継承されており、女系継承である。
- 【復帰派】日本書紀では、天智天皇の項で「舒明天皇の皇太子、母は斉明天皇」と記されている。天智天皇は斉明天皇の時代も皇太子であったが、わざわざ「舒明天皇の」皇太子、と明記しているのは、父子の皇位継承を念頭に置いていたことの証左である。
- 【復帰派】皇位継承は、皇位を先帝から受け継ぐのではなく、皇統を受け継ぐことであり、皇統譜もその考えで編纂されている。具体例を挙げれば女帝の元明天皇の即位は、息子の文武天皇が崩御したとき、その息子の首皇子が幼少のため、自身がそれまでの間即位したものである。その後、元正天皇(皇子の叔母)への譲位に際しては「皇太子(首皇子)に皇位を譲りたいが、皇太子がいまだ若年のため」とされた。また首皇子(聖武天皇)が即位した際には、「父・文武天皇からこの国の統治を受け継いだ」と宣言しており、あくまで皇統は文武天皇から聖武天皇へ継承されており、元明天皇と元正天皇は聖武天皇が若年であった期間に一時的に皇位を引き継いでいたことがわかる。
旧皇族の皇籍復帰について
- 【復帰派】男系の皇位継承者を断絶させないために、昭和22年(1947年)にGHQの占領政策でほぼ強制的に皇籍離脱させられた旧皇族(旧11宮家)の復帰により一定数の宮家を確保することが必要である。
- 【女系派】旧皇族が皇位継承者不足のために皇籍復帰することは、適切な措置か。これまでの傍系からの継承は、最も遠縁の継承が継体天皇の5世であり、それ以外では、最低でも曽祖父(3世)までさかのぼると歴代の天皇が含まれていた。しかし、旧宮家の男系男子は天皇から20世近くも離れており、600年以上も遡らないと天皇に繋がらない遠縁すぎる家系である。
- 【復帰派】世襲親王家という制度下では、どんなに世代が離れていても皇位を継承させるという前提で、1947年(昭和22年)の皇籍離脱まで運用され続けてきており、この時点で500年以上遡ってでも皇位を継承することが合意されていた。
- 【復帰派】旧皇族の家系のうち4宮家には、明治天皇や昭和天皇の皇女である内親王5名が嫁いでおり、これらの家系には、遠縁での男系のみならず近縁では女系によって、両天皇の血筋を有する男子が健在である。
- 【女系派】復帰派は男系を重要視しているのであり、女系で現皇室と近しくても意味がないはずだ。自己矛盾である。
- 【女系派】一旦皇籍を離脱した者の復帰は、認められない。旧皇室典範でも、これを禁じていた[注釈 8]。
- 【復帰派】過去には、宇多天皇は一度臣籍降下した後に皇籍復帰、皇位を継承しておる。さらにその子の醍醐天皇は、宇多天皇が臣籍にあったときの子で、出生後に皇族となり、その後皇位を継承している。皇族の減少や皇位継承の必要があった場合は、旧皇族の復帰も認められなければならない、といえる。
- 【女系派】宇多天皇が臣籍にあったのは3年程度であり、父・光孝天皇在世中の復帰である。現在の旧皇族は皇籍から離れて70年以上経過しており、その子や孫の代でが復帰するのは皇籍「復帰」ですらない。
- 【復帰派】鎌倉時代の忠房親王は父の源彦仁の代に臣籍降下した後に生まれたが、父が臣籍にあったまま没したのちに親王宣下を受け皇族となった。こうした先例がある以上「復帰」かどうかを論ずるのは単なる言葉遊びである。
- 【女系派】旧皇族の復帰という前例を作ると、復帰に応じなかった者、復帰をしなかった者の男系子孫が後年になって皇室入りを主張した場合、収拾がつかなくなる。
- 【復帰派】皇位継承者数が不足しているがための特例措置であって、天皇の譲位と同じく無条件に認めるということはありえない。
- 【女系派】宇多天皇が臣籍にあったのは3年程度であり、父・光孝天皇在世中の復帰である。現在の旧皇族は皇籍から離れて70年以上経過しており、その子や孫の代でが復帰するのは皇籍「復帰」ですらない。
- 【復帰派】過去には、宇多天皇は一度臣籍降下した後に皇籍復帰、皇位を継承しておる。さらにその子の醍醐天皇は、宇多天皇が臣籍にあったときの子で、出生後に皇族となり、その後皇位を継承している。皇族の減少や皇位継承の必要があった場合は、旧皇族の復帰も認められなければならない、といえる。
- 【女系派】旧皇族の復帰が適当な理由として、「敗戦後という非常事態下で降下させられたから」と言われるが、戦前から皇族の臣籍降下については「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」(大正9年、1920年)で運用されており、強制的な一括降下がなくとも、宮家を継承する予定のない王(次男以下の王)から順次降下してゆくことになり、皇位継承問題を解決するに足る人数の男性皇族は残っていなかったはずである。
- 【復帰派】この準則は、皇族を機械的に臣籍降下させるものではなく、臣籍降下に関する法律の施行規則にすぎない。実際にはこの準則に則った方針で臣籍降下は行われていたが、あくまで施行規則であるので情勢に従って運用されており、皇統が断絶する危機にあってまで機械的に降下させ続けることはありえない。
- 【女系派】それまで一般国民であった旧皇族がいきなり復帰しても、国民が現在の皇室に寄せる敬慕の念・親近感と同程度のものを持つとは考えられず、ましてや天皇への即位が受け入れられるとは思われない。
- 【女系派】旧皇族が皇位継承者不足のために皇籍復帰することは、適切な措置か。これまでの傍系からの継承は、最も遠縁の継承が継体天皇の5世であり、それ以外では、最低でも曽祖父(3世)までさかのぼると歴代の天皇が含まれていた。しかし、旧宮家の男系男子は天皇から20世近くも離れており、600年以上も遡らないと天皇に繋がらない遠縁すぎる家系である。
皇族以外の「皇位継承権」について
- 【復帰派】皇位継承権というのは、単に皇室典範にどのように描かれているかではなく、歴史的に正統性があるかによる。皇位の正統性は男系によるものなのだから、旧皇族の男系子孫であっても潜在的な皇位継承権は当然保持している。この継承権が顕在的なものであるか否かは、時代の要請と、法令による明文化によるものである。
- 【女系派】皇位継承権は、皇室典範で規定されていることが全てである。そして、正当な手続きを踏めば、改正できる。法治国家の原則を否定する不変の「歴史的正統性」など認められない。過去の事例から自分勝手に正統性をつくりあげられても困る。皇族でない旧皇族の男系子孫に皇位継承権はない。このことをまず認識すべきである。
皇族復帰者の人物評価について
- 【女系派】旧皇族の男系男子について、皇族、あるいは天皇となるに足る人物はいるのか。いたずらに、男系継承の維持に固執すれば皇室の品位を貶め、国民からの尊崇の念を失うようなことにもなりかねない。復帰を拒否せず、そして皇族としての品性を保ちうる人物が一定程度いるならば、まず顔を出させるべきだ。
- 【復帰派】旧皇族は国として請願があるまでは意見の表明などの露出を控えるとしており、皇族としての品位を保っているかどうかは、国が旧皇族の復帰を提起しなければ判断できない。そもそも、皇族、さらには天皇というものは、自ら希望してなるものではなく、その立場に生まれたという偶然に伴う重荷を引き受ける、というものである。国家の事情で復帰するというのならば、まず国家の意志を固めたうえで、正式に願いあげるのが筋である。そして旧皇族側も、政府から正式な請願があるまでは、ノーコメントを通すことで一致している。
- 【女系派】そもそも人物が明らかでないのに、復帰の請願などあろうはずもない。そもそも、皇族復帰を希望しない人に対して無理な依頼を行うのは、人権侵害にあたるから実施しない。皇族になることで国家から金銭も支払われるのであるから利益はある。金銭に見合った仕事をしていただけることを国民が期待するのは当然のことである。
- 【復帰派】旧皇族は国として請願があるまでは意見の表明などの露出を控えるとしており、皇族としての品位を保っているかどうかは、国が旧皇族の復帰を提起しなければ判断できない。そもそも、皇族、さらには天皇というものは、自ら希望してなるものではなく、その立場に生まれたという偶然に伴う重荷を引き受ける、というものである。国家の事情で復帰するというのならば、まず国家の意志を固めたうえで、正式に願いあげるのが筋である。そして旧皇族側も、政府から正式な請願があるまでは、ノーコメントを通すことで一致している。
DNA鑑定について
- 【女系派】旧皇族の方々は、現皇室と同じ男系である科学的証拠として、国民全体からDNA鑑定を求められた場合、応ずる用意はあるのか。また仮にDNA鑑定の結果、500年以内に男系で分かれたものでないという結果が出た場合はどう対処するのか。
備考
天皇・皇族による本問題への言及
日本国憲法第3条、第4条には「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」とあり、天皇が政治的案件に対する具体的発言を公にすることは控えられるようになっている。皇族(皇族とは皇室に属する者の内、天皇および上皇以外の者を指す)が発言することについて規定している法律はないが、憲法第4条の規定は皇族にも及ぶとの解釈が一般であり、皇族自身も戦後は政治へ介入することを極力避けてきた。そのため、皇族、ましてや天皇が皇位継承問題について具体的な意見を述べることは、極めて少なく、一部の皇族を除いては、具体的な解決方法にまで踏み込んで言及することは避けることが多い。主な発言について、時系列順に記載する。
- 昭和21年(1946年)、三笠宮崇仁親王は皇室典範制定時、旧典範と同様、天皇の生前退位を認めない点について「自由意志による譲位を認めていない、つまり天皇は死なれなければその地位を去ることができないわけだが、たとえ百年に一度ぐらいとしても真にやむをえない事情が起きることを予想すれば必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」と異議を唱えた。また、同年11月3日にまとめた私案「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」で、「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」と疑問を呈している[13]。
- 平成13年(2001年)、宣仁親王妃喜久子は愛子内親王誕生の折、女性天皇の即位を「不自然な事ではない」と容認する意見を雑誌『婦人公論』に寄稿した。しかし、女系天皇については明言しなかった。
- 平成17年(2005年)、寛仁親王は、自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報で、「プライヴェート」な形式と断った上で「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇への反対姿勢を表明した[14]。
- 寬仁親王は「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張し、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません」「国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んで、女系天皇容認の動きにこれまでの歴史と伝統を尊重しないとする強い懸念を表明した。
- また、男系継承を維持するための方法として、歴史上実際に取られたことのある以下の4つを挙げている[15]。
- また、寬仁親王は皇位継承問題について「三笠宮一族は、同じ考え方であるといえる」と、父・三笠宮崇仁親王と母の百合子妃も歴史と伝統に反する皇室典範改正に反対していることを初めて明らかにした[16]。また、寬仁親王は、崇仁親王が2005年10月、宮内庁の風岡典之次長を呼んで、皇室典範改正に向けた拙速な動きに強く抗議したことを紹介した[16]。また、皇室典範改正は「郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だ」と指摘するとともに、自身の発言に対して宮内庁の羽毛田信吾長官らが「正直、困ったな」「皇族の立場を改めて説明する」などと重ねて憂慮を表明していることに関しては、「私がこういうインタビューに応じたり、かなり積極的に発言しているのは国家の未曾有の大事件と思うので、あえて火中の栗を拾いに行っているような嫌いがあります」と述べ、女系天皇容認の動きに対抗する意思を明確にした。
- 平成17年(2005年)12月19日、天皇明仁は、天皇誕生日に際して行われた記者会見において、記者から「これまで皇室の中で女性が果たしてきた役割を含め、皇室の伝統とその将来」について事前質問があり、「皇室の中で女性が果たしてきた役割については私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思います」と述べたが、「皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来」については回答を控えた[17]。また、「国会の議論に委ねることになる」のあとに、必ず逆接的表現で、「意見を聞いてもらいたい」と付け加えている。
- このように、天皇は皇位継承問題について一切態度を明らかにしていない。なお、記者の質問に対し天皇は「国会の議論に委ねることになる」のあとに、必ず逆接的表現で、「意見を聞いてもらいたい」と付け加えられている。これに対して、プライベートで付き合いがある人物など(いわゆる「ご学友」)たちが、週刊誌上やワイドショーに登場し、「学生時代から開明だった陛下は女性・女系天皇にも賛成しているだろう」などのコメントをしているが、いずれもあくまで部外者による推測の域を出ない。
- なお、この記者会見では事前質問の後に記者からの関連質問が予定されていたが、宮内庁は「時間の都合」を理由に会見を打ち切った。これに対して記者会は22日に抗議文を提出し、宮内庁は「思い違い」で会見を打ち切ってしまったことを謝罪する一幕があった。宮内庁総務課報道室は「天皇陛下におかれては、記者会見で、皇位継承制度は法律に基づく制度の問題で、国会で議論されることであり、発言を控えたいとお答えになっています」と発表している。
- 平成18年(2006年)2月21日、皇太子徳仁親王は誕生日に際しての記者会見にて、記者からの「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出し、女性・女系天皇を容認する方針が示されました。今後の皇室のあるべき姿に関する考えや敬宮愛子様の将来について、父親としてのお気持ちをお聞かせください」という質問に対して、「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」と述べた。
- 平成18年(2006年)10月20日、皇后美智子は誕生日に際して宮内記者会から文書でインタビューを受けた。「次々代を担う女性皇族にどのような役割や位置付けを期待するか」という質問を寄せたが、皇后は文書による回答で「皇室典範をめぐり、様々に論議が行われている時であり、この問に答えることは、むずかしいことです」と述べ、回答を控えた[18]。
- 平成22年(2010年)、彬子女王は季刊誌『皇室 Our Imperial Family』第48号(平成22年秋号)インタビューにおいて、「男系継承の伝統を大事にしていかねばならない」という意見を表した。
- 平成26年(2014年)、典子女王は婚約における記者会見で女性宮家の質問が出た際には「女性宮家の話題について何かを申し上げるという立場にはおりません」と答えている[19]。
- 平成30年(2018年)、絢子女王は婚約における記者会見で皇族の減少に関する質問が出た際には「皇族の減少は、事実として起こっていることではございますが、その先の制度を含め、私がコメントする立場にはありませんので、発言を差し控えたいと存じます」と答えている[20]。
旧皇族の動向
旧皇族は、皇位継承問題が議論されるようになった頃から「皇室典範問題については一切意見を述べない」ことで意見を一致しており、メディア等の取材に対しても、ノーコメントを通している。旧皇族の一員である竹田恒泰は旧皇族間での相談、許可の下で個人の資格において活動しているが、「一般論として」と前置きした上で「その〔皇統断絶の危機に皇位を継承するという〕お役目の歴史的な重さに比べたら、個人的な欲望や野望など、取るに足らないちっぽけなものにすぎないと思っています」と述べている[21]。
皇別摂家の復帰について
旧皇族以外にも男系の子孫は数多くいるが、その中でも18世紀の関白・鷹司輔平は閑院宮家から鷹司家の養子として臣籍降下しており、現皇室との男系の近さでは、旧皇族よりも近い。河野太郎衆議院議員も皇位継承問題の中で、皇族復帰の検討の必要性を自身のブログで訴えている。
- 皇別摂家系図
107 後陽成天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
108 後水尾天皇 | 近衛信尋 | 高松宮(有栖川宮)好仁親王 | 一条昭良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
109 明正天皇 | 110 後光明天皇 | 111 後西天皇 | 112 霊元天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有栖川宮幸仁親王 | 113 東山天皇 | 職仁親王 〔有栖川宮家へ〕 | 吉子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多くの皇籍復帰賛成論者が皇別摂家を斥ける理由は、以下の2点である。
- 鷹司輔平など皇別摂家の男系先祖たる皇子(男性皇族)が臣籍降下したのは、約260年前の昔の出来事である。
- 嗣子のない摂家の養子となったのだから、藤原氏の子孫であって皇別とは言えない。藤原氏および中臣氏は神別であり、藤原氏には皇位継承資格はない。皇族となるには、血筋が皇胤かどうかだけでは駄目で、家柄、家格も必要であるが、摂家や清華家は臣下の家柄である。
側室制度(一夫多妻制)について
皇室では長らく、日本独自の一夫多妻制であった側室制度(非嫡出男子の皇位継承権)が認められていたが、近代になると側室は減り、戦後は完全な一夫一婦制によりこれを認めなかった(非嫡出男子の皇位継承権を認めない)。
そして、このかつての側室制度を復活させることにより、皇位継承問題についての問題が緩和されるのではないか、との議論が一部存在するが、現在の日本では側室制度や一夫多妻制が制度化されておらず、さらに婚外の恋愛(いわゆる不倫)そのものに対する世論の反感が大きいことから、賛同者は少ない。
- 側室制の復活に対する反対論
- 離婚すれば良いだけの問題である。ただし、跡継ぎを産めなければ離婚、さらに跡継ぎのために新しい女性と再婚という制度は側室と同じように現代社会の価値観から逆行するとも言える。
- 現在の日本、及び他の先進国の倫理観から見て、問題がある。
- 国民の間では一夫一婦制が定着しており、天皇・皇族のみが国民から更に乖離することになる。
- 側室制度が復活した場合、現代において側室になろうという女性がいるかどうか、また将来側室をとることになっている男性のもとに正妃として嫁ごうという女性がいるかどうか、という点まで視野を広げれば、側室制度を復活させたがために肝心の正妃をも得ることができなくなる危険性をはらんでいる。
- 全ての先進国で一夫一婦制が採用されている現在の国際社会において、側室を復活させれば、一部の国を除いて日本の近代文明国としての品位が疑われかねない。
- 現在では、医学の進歩によって乳幼児の死亡率は下がっており、側室制を復活させずとも、一夫一婦制でも男系による皇位継承は十分に可能である[注釈 9]。
- 不妊症を患っていたり、性的指向が女性を対象としていないなどの要因で、たとえ側室を娶っても子に恵まれない場合もある。
ただし、側室復活の論議に関わらず、今日に至るまで日本の皇室において「非嫡出子の相続」そのものが認められていない。この制度は明治以降に導入されたものではなく、戦後に初めて導入されたものである。そもそも側室制度は明治以降の皇室典範に明記されたものではなく、非嫡出の男子においても皇位継承権を認めることにより間接的に許容されたものであった。
一方で民間においては、2013年12月の民法一部改正(平成25年12月11日法律第94号)までは非嫡出子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする規定(旧・900条4号)が設けられていた。しかし、この規定については2013年9月4日に最高裁大法廷によって違憲判断が下された[28][29]ことにより、相続差別は違憲として法改正が成されている。
しかしながら、皇室においては側室制度と切り離せない非嫡出子の相続規定においては議論が進んですらいないのが現状である。また、日本では父子関係は認知による関係構築がDNA鑑定などの科学的な親子関係証明に優先されるため[30]、「父親」にあたる皇族の認知如何では、血縁上皇統でない人間が皇位継承者となる恐れが存在する。
本問題についての主な論者
- 男系派
- 女系派
- 保守派論客として知られる松本健一は、有識者会議などのあり方に疑問を投げかけた上で、現代的男女平等の考えとは違った立場の上で女系天皇を容認すべきと説いた。松本によれば古来より日本の天皇は「女性格」で人間の生物学的な性、男女が対になるという概念を超越した存在であるとし、男系男子重視は儒教、仏教、西洋近代の皇帝制度を模倣した男性重視主義にすぎず日本の伝統的な天皇概念とは全く別の思考の上にあるとした。よって生物学的概念で男性によるY染色体の継承を重視する男系男子派の主張は意味をなさず、生物学的根拠によって正当化をなそうとすれば、唯物史観派から天皇御陵を開いてDNA鑑定をするよう逆手を取られるだけであるとしている。そして日本民族が皇室を必要とし守りたいと考える限り、男系女性天皇であろうが女系天皇であろうが存続は図られるとしている[34][35]。
脚注
注釈
- ^ 直系尊属の天皇から数えた数。
- ^ 貞常親王が後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された年。
- ^ 照高院宮と称したのは1868年。
- ^ 梶井宮と称したのは梶井宮。
- ^ 当主東伏見宮依仁親王は離脱前の1922年に薨去。
- ^ 庶長子。
- ^ ただし、この時点では、皇位継承順位は男子優先か長子優先かについて意見がまとまっていなかった。
- ^ 「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」(皇室典範増補6条)
- ^ 例として、旧オーストリア帝室・旧ハンガリー王室であるハプスブルク=ロートリンゲン家は、一夫一婦制のもとで男系継承を問題なく維持できており、約300年間で一門は500人を超えるほどに膨れ上がっている[26][27]。
出典
- ^ “皇位継承、有識者会議が検討へ 政府、専門家に意見聴取”. 2020年12月13日閲覧。
- ^ “加藤氏「静かな環境に配慮」 皇位継承策議論の在り方で”. 2020年12月17日閲覧。
- ^ 梨本宮2代目
- ^ a b c d e f g 旧皇室典範の条項
- ^ p. 2-5, "Japanese Royalty" Japan Year Book 1939, Kenkyusha Press, Foreign Association of Japan, Tokyo
- ^ Genealogy of the House of Fushimi
- ^ Genealogy of the Fushimi-no-miya (jp)
- ^ "House of Fushimi" (jp)
- ^ Bix, Herbert P. (2001). Hirohito and the making of modern Japan (Book) (1st Perennial ed.). New York: Perennial. pp. 382–383. ISBN 978-0060931308
- ^ 世論調査部(意識調査)加藤元宜. “平成の皇室観〜「即位20年 皇室に関する意識調査」から」〜”. NHKオンライン. 日本放送協会. 2016年2月13日閲覧。
- ^ 天皇はいかに受け継がれたか-天皇の身体と皇位継承. 績文堂出版. (2019-2-20)
- ^ “「皇統は愛子さまではなく、悠仁さまに継がしめよ」とする“古資料”『慶長公家諸法度注釈』を新発見”. 2020年9月27日閲覧。
- ^ “生前退位容認の意見=皇室典範制定時に-三笠宮さま” (2016年10月27日). 2016年10月31日閲覧。
- ^ 自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報『ざ・とど』2005年(平成17年)9月30日号の「とどのおしゃべり」というコラム。同誌は会員向けの非売品であるが、『WiLL』2006年1月号がこのエッセイの全文を転載している。
- ^ 同年11月3日讀賣新聞
- ^ a b 「日本会議」(会長・三好達元最高裁長官)の機関誌『日本の息吹』2006年2月号に掲載された「皇室典範問題は歴史の一大事である―女系天皇導入を憂慮する私の真意」と題するインタビュー
- ^ “天皇陛下お誕生日に際し(平成17年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
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- ^ “典子さま「おおらかで大変誠実な方」 千家さん「温かさ、優しさが印象に」”. 産経新聞 (2014年5月27日). 2020年5月5日閲覧。
- ^ “【絢子さま ご婚約内定】ご会見全文”. 産経新聞 (2018年7月2日). 2020年5月5日閲覧。
- ^ 『SAPIO』2006年2月8日号
- ^ a b c d 八幡和郎「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」『新潮45』36巻1号、新潮社、2017年1月18日、42頁。
- ^ 一条兼香の庶子。まだ子のなかった兼潔(のち経胤)の養子となった。この後に実子の冬香が生誕。兼純自身は結局早世してしまい、冬香がその跡を継いだ。
- ^ a b 一時、本家・一条実良の婿養子となるが、離縁されて醍醐家に戻る。代わりに四条隆謌の子・実輝が養子となった。
- ^ 兄・隆謌の養子となるが、離縁され分家した。
- ^ Horst Thoren (2018年10月18日). “Karl von Habsburg: "Die Monarchie ist nicht von gestern"”. Rheinische Post 2019年10月5日閲覧。
- ^ Szabó Botond Zsolt (2019年3月30日). “„Magyar vagyok, nem osztrák” – Habsburg György Európáról, magyarságról, habsburgságról”. Mandiner 2019年10月5日閲覧。
- ^ 婚外子相続規定、違憲と判断か 最高裁、大法廷で審理 共同通信2013年2月27日
- ^ 最大決H7.7.5民集49-7-1789
- ^ 民法「嫡出推定」、DNA鑑定より優先 最高裁初判断 日本経済新聞 2014年7月17日
- ^ “「男系の皇位継承を」自民党“保守系有志”グループ発足 外国資本の土地買収阻止やスパイ防止法も議論へ - FNN.jpプライムオンライン”. web.archive.org (2019年9月3日). 2019年11月4日閲覧。
- ^ “改憲へ総裁4選覚悟をと麻生氏 旧皇族復帰も提案|高知新聞”. web.archive.org (2019年12月11日). 2019年12月11日閲覧。
- ^ “「男系の皇位継承を」自民党“保守系有志”グループ発足 外国資本の土地買収阻止やスパイ防止法も議論へ - FNN.jpプライムオンライン”. web.archive.org (2019年9月3日). 2019年11月4日閲覧。
- ^ (松本 2007, pp. 242–253)
- ^ (松本 2007, pp. 171–188)
関連文献
- 荊木美行「戦後の記紀批判をめぐる覚書――最近の皇室典範改正問題に関聯して」『皇学館論叢』第39巻第4号、皇学館大学人文学会、2006年(平成18年)8月、18-31頁、ISSN 0287-0347。
- 笠原英彦『象徴天皇制と皇位継承』筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年(平成20年)5月。ISBN 978-4-480-06417-2。
- 所功『皇位継承のあり方 "女性・母系天皇"は可能か』PHP研究所〈PHP新書〉、2006年(平成18年)1月。ISBN 4-569-64805-3。
- 松本健一『昭和天皇 畏るべき「無私」』(第1刷)ビジネス社、2007年2月5日。ISBN 978-4-8284-1331-0。
- 寛仁親王『皇室と日本人 寛仁親王殿下お伺い申し上げます』加瀬英明・櫻井よしこ・小堀桂一郎ほか聞き手、明成社、2006年(平成18年)3月。ISBN 4-944219-41-5。
- 百地章ほか 著、日本会議編 編『皇位継承の伝統を守ろう! 皇室典範に関する有識者会議の問題点』明成社、2006年(平成18年)2月。ISBN 4-944219-40-7。
- 深瀬泰旦「明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題」(PDF)『日本医史学雑誌』第61巻第2号、日本医史学会、2015年、163-178頁。
- 深瀬泰旦「明治天皇皇子女夭折の死因について」(PDF)『日本医史学雑誌』第61巻第3号、日本医史学会、2015年、255-266頁。
- 所功「皇位世襲の持続方法を考え直す」https://ironna.jp/article/12739