徳大寺実厚
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(德大寺實厚から転送)
徳大寺 実厚(とくだいじ さねあつ、1887年〈明治20年〉12月10日[1] - 1970年〈昭和45年〉3月15日[1])は、日本の華族(公爵)。正四位。徳大寺公弘の長男。戸籍上の表記は德大寺 實厚。
経歴
[編集]東京府出身。麹町小学校卒業。 1908年(明治42年)に陸軍騎兵少尉、1925年(大正14年)に少佐、1929年(昭和4年)に中佐に昇進。宮内省に転じ、1931年(昭和6年)に式部官、1932年(昭和7年)に昭和天皇の侍従となる[2]。1937年(昭和12年)3月1日から貴族院公爵議員[3]。戦中は陸軍騎兵中佐に任じられた。
1946年(昭和21年)2月25日、掌典長に任じられた[4]。5月8日、貴族院議員を辞職[5]。8月12日、掌典長を依願辞職した[6]。公職追放となる[注 1]。
平安神宮宮司を務めた。1960年(昭和35年)11月10日、掌典長に還任し、1968年(昭和43年)9月10日まで務めた[8]。墓所は黒谷墓地[9]。
親族
[編集]叔父に高千穂宣麿・徳大寺則麿(男爵)・徳大寺彬麿(建築家)が、叔母に順子(公爵鷹司熙通夫人)・祚子(侯爵佐竹義生夫人)・蓁子(三井高従夫人)・治子(子爵松平頼孝夫人)・伊楚子(公爵島津忠重夫人)が、大叔父に西園寺公望・住友友純・末弘威麿がいる。
系譜
[編集]東山天皇の男系九世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 175.
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、251頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ^ 『官報』第5738号、昭和21年3月2日、p.6、「叙任」。
- ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日、p.4、「帝国議会(貴族院):議員辞職」。
- ^ 『官報』第5888号、昭和21年8月29日、p.4、「叙任及辞令」。
- ^ 総理庁官房監査課 1949, p. 670.
- ^ 『皇室事典』, p. 587.
- ^ “徳大寺實則”. www6.plala.or.jp. 2024年12月5日閲覧。
- ^ https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/68-5-1.pdf
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、670頁。NDLJP:1276156。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 『皇室事典』令和版、皇室事典編集委員会編著、KADOKAWA、2019年。
関連項目
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 徳大寺公弘 |
公爵 徳大寺家第3代 1937年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |