徳大寺公能
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 永久3年(1115年) |
死没 | 永暦2年8月11日(1161年9月2日) |
別名 | 大炊御門右大臣 |
官位 | 正二位、右大臣 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 徳大寺家 |
父母 | 父:徳大寺実能、母:藤原顕隆の娘 |
兄弟 |
幸子、公能、公親、公保、能慶、公雲、円実、公全、公性、公重、春日局 養兄弟:育子 |
妻 | 藤原豪子(藤原俊忠の娘) |
子 | 忻子、坊門殿、実定、多子、実全、藤原実家、実守、公衡、公慶、実宴、実任、実印、実快、藤原師長室、藤原通重室、藤原邦綱室、源資賢室 |
徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は、平安時代後期の公卿・歌人。左大臣・徳大寺実能の長男。官位は正二位・右大臣。大炊御門右大臣と号す。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 保安元年(1120年)1月7日、叙爵。
- 大治元年(1126年)2月24日、越中守。
- 大治2年(1127年)1月19日、右兵衛佐。11月15日には昇殿を許される。
- 大治3年(1128年)3月14日、従五位上[1]。
- 大治4年(1129年)12月24日、越中守を辞した。
- 大治5年(1130年)10月5日、右少将。
- 天承元年(1131年)1月2日、正五位下[2]。4月19日には蔵人。
- 長承2年(1133年)1月7日、従四位下。同月16日には再び昇殿を許される。
- 長承3年(1134年)2月22日、美作介を兼ねる。3月6日には従四位上。
- 保延2年(1136年)10月15日、正四位下。11月10日、禁色。12月4日、左中将。
- 保延3年(1137年)3月16日、蔵人頭。
- 保延4年(1138年)11月8日、参議。同日右大弁を兼ねる[3]。12月29日には侍従を兼ねる。
- 保延5年(1139年)1月24日、周防権守を兼ねる。
- 永治元年(1141年)12月2日、権中納言、従三位。
- 康治元年(1142年)11月14日、正三位[4]。
- 久安元年(1145年)1月4日、従二位。
- 久安4年(1148年)7月17日、正二位。11月13日には右兵衛督を兼ねる。
- 久安6年(1149年)3月14日、皇后宮大夫を兼ねる[5]。8月21日、中納言。同月30日、左兵衛督。
- 仁平2年(1152年)1月28日、右衛門督。2月13日、検非違使別当。
- 久寿2年(1155年)2月25日、検非違使別当を辞し、7月には皇后宮大夫を辞した。
- 保元元年(1156年)8月29日、任大将の兼宣旨が下り、9月8日に右大将。
- 保元2年(1157年)8月19日、権大納言。同月21日、右大将は元の如し。
- 永暦元年(1160年)7月27日、任大臣の兼宣旨が下り、8月11日に右大臣。同月12日には右大将は元の如しと宣旨があり、一上の宣旨。
- 応保元年(1161年)8月11日、薨去。
人物像
[編集]後白河天皇が践祚すると娘の忻子は中宮となり、後白河帝在位中の保元元年(1156年)に右近衛大将、保元2年(1157年)に権大納言と急速に昇進する。
二条天皇の要請による藤原多子の再入内に対しては、『平家物語』では積極的、『今鏡』では困惑と、態度に違いがある。永暦元年(1160年)7月に正二位右大臣となるが、翌年8月に現職のまま47歳で薨去した。
多芸多才で管弦・歌・朗詠等に優れ、歌に関しては義兄である藤原俊成や、かつての家人・西行と交渉が深い。『詞花和歌集』以下、勅撰集に32首が入集する。