藤原俊忠
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 延久5年(1073年) |
死没 | 保安4年7月9日(1123年8月2日) |
官位 | 従三位、権中納言 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家御子左流 |
父母 | 父:藤原忠家、母:藤原経輔の娘[1] |
兄弟 | 基忠、俊忠、顕良、忠実、忠円、祐覚、加藤正家 |
妻 | 藤原敦家の娘 |
子 | 忠成、公長、忠定、俊成、俊定、快修、禅智、仁助、寛豪、尊忠、 晴忠、頼俊、頼仁、禅寿、仁証、寛叡、 俊海、忠海、 藤原豪子、藤原伊通室、藤原師綱室、藤原俊子、藤原光房室、 藤原忠子、 藤原顕頼室、藤原知通室 |
藤原 俊忠(ふじわら の としただ)は、平安時代後期の公卿、歌人。藤原北家御子左流、大納言藤原忠家の次男。従三位・権中納言。二条を号す。
経歴
[編集]応徳3年(1086年)、侍従に叙爵。嘉承元年(1106年)3月、蔵人頭左中将、同年12月に参議に任ず。永久2年(1114年)に従三位となり、保安3年(1122年)に権中納言に至る。
堀河朝において歌人として活躍し、源俊頼や藤原基俊といった同時代の歌人と親交があった。長治元年(1104年)には自邸で「左近権中将俊忠朝臣家歌合」を開催し、これらの歌人を招いている。家集として『俊忠集』を残している。『金葉和歌集』(二度本)の3首をはじめとして、以降の勅撰和歌集に29首が入集している。
清廉であり、参議のまま16年の歳月を経て権中納言になった時にも、私的な懇願などは一切行わなかった。このことについて『古事談』は、懇願の末に権中納言に昇進した源顕雅の例と対比して、「消息を書かざる人の卿相に昇る事は、俊忠卿より始まる」と賛辞を贈っている。